2019年8月15日木曜日

揺らぎと死生学 4


ところがフロイトの意見に対してもう一つの、やや肯定的な見方もある。それは次のようなものだ。フロイトはおそらく精神の一つ高い段階を表現しているのである。フロイトは野心的であったし、同時に死を極端に恐れてもいた。だから何らかの形で死を恐れないような境地に至ることが可能であると考えていたのではないか。フロイトは精神分析において、患者が解釈を受け入れず、それに抵抗するのに出会った。しかし彼はそれを徹底操作 working through することより克服することが可能だといっていた。彼も結構根性論だったというわけである。そして抵抗はいつかは克服できると信じていた分だけ、フロイトは自分自身の人生に対する諦めや喪を貫徹することが出来ると考えていたのではないだろうか。
この文脈に関連して、Frommer という分析家の考察はとても示唆に富んでいる。彼は同僚(分析家だろうか?)が深刻ながんの宣告を受けたのちに、その同僚は真の自由を獲得して行ったと報告している。それは私たちが十分に正当なものと信じることが出来るような境地である。死の運命が明確になることが私たちを解放し、自由にするという事は実際に起きうるのだろう。先ほど述べたホフマンも同様の例を挙げている。不治の病に侵された子供の親たちの体験を描いているのであるが、彼らもまた死を前にしたある種の自由の境地について描いている。また高層の中には真の意味での解脱を遂げたとみられる人々もいる。それらの境地を私たちは否定することは出来ないであろう。
そこでここからは私の見解である。私はフロイトのリビドー論に依拠して考える。フロイトは喪が完結した時点でリビドーは自由を得るという。フロイトはリビドーを「私たちが愛するキャパシティ」(1916, p. 359)とも言いかえている。そしてそれが一人の人に向けられていた状態から解放されていくのが喪のプロセスであると彼は考えた。私たちが人生において出会うことがらを愛し、楽しむことが出来る能力は、実は常に死すべき運命を想起することで損なわれてしまう可能性がある。それをフロイトは喪の味見foretaste of mourning」と呼んでいる。私の仮説はそれに関連している。人生はもしリビドーをすべて投入したならばきわめて快楽的なものである可能性があると考える。フロイトが示唆している通り、私たちが死ぬことに全く無頓着であるならば、人生はいくらでも楽しめるのかもしれない。しかし問題が一つある。その楽しみは刹那的な形でしか体験できないのであり、なぜならば私たちは子供時代に死の運命を知った時から、喪の先取りの侵入をあらゆる瞬間に受けているからだ。幸運なことに、死は頭から去ることが出来、私たちはリビドーに再び満たされる。しかしまた襲ってくる。そしてこの揺らぎこそが、つまり「愛することのキャパシティ」としてのエネルギーの行ったり来たりが私たちの人生の喜びと悲しみの鍵となっているのである。
恐らく死の受容の程度は、人によりさまざまである。そしてその振動の幅はひとによっても、そしてその人の人生における段階によっても異なるのであろう。重要なのはこのようなダイナミックで揺らぎを持つ性質が私たちの在り方そのものであり、また感情の源でもあるという事だ。静的でダイナミズムを欠いた状態で感情は決して生まれないのである。ちなみにフロイトは後の著作の中で、リビドーの量そのものではなく、それが上昇したり低下したりする時のテンポやリズムが快や不快の決め手であると述べている。(1924Frommer やホフマンが述べた、死の十分な需要というのも、決して静的な状態というよりは、ある種の最適なテンポやリズムを表現しているのではないだろうか。
ともかくフロイトの儚さについての概念は彼のダイナミックな心の理解につながっており、それはホフマンの弁証法的構成主義により詳述された(1998)。ホフマンが示唆したのは、儚さtransience (Vergänglichkeit) という単語を用いたことで、彼は彼なりのダイナミックで揺らぎにみちた心のモデルを提出したという事だ。フロイトの儚さの議論やホフマンの弁証法的な構築主義の理論が強調するのは、喪や喪失の痛みや、無意味さや空虚さの感覚は、喜びや価値の前提条件であるという事だ。残念ながらフロイトはそのことについてtransient な述べ方をしただけで、決して詳述はしなかったのである。