2019年3月31日日曜日

ある書評、解離の心理療法 推敲 45


いくつかの大事な原稿が締め切りを過ぎていた。

現代●●講座 第一巻 精神分析の基礎 
このたび●●協会から、●●基礎講座(全5巻)が発刊されることになった。そしてその記念すべき第一巻が本書であり、2018年の暮れに出版された。本書は著者や編集者の意気込みを感じる力のこもった書となっている。「刊行のことば」で編者である●●●●(以下著者の先生方の敬称略)が記しているように、同様の企画としては既に40年近く前の「精神分析セミナー」(I~IV)がある。これは●●をリーダーとする「慶応グループ」の先生方の「精神分析セミナー」の講義録という形を取り、私も新人の頃は胸をときめかせて講義に足を運び、また書籍化されたものを読んだ覚えがある。それが装いを新たにして、現代を代表とする分析家達の手により再び発表されると思うと、感慨もひとしおである。
本書の構成は、「第一巻の紹介」(●●●●)の解説にすでに詳しいので、あえてごく簡単に触れるが、全体は3部に分かれている。フロイトが創始した精神分析について(第14講、●●、●●)、無意識について(第5、第6講、●●、●●)、臨床実践について(第79講、●●、●●)という順番で並ぶ。全体としては執筆者の多くがイギリスにかつて学んだ経歴を持つことからもわかるとおり、英国対象関係論を基盤とした講義が行われ、上述の「精神分析セミナー」が米国自我心理学的な色彩が強かったこととは対照的である。
本書を一読して感じられるのは、「読みやすさ」である。あとがきに書かれているように、本書はセミナーの講義をそのまま文章化したという形を取っているため、理論的に錯綜していたり、知識が凝縮されていると言ったところはない。さらっと読めるが味わい深い、という特徴があるといえるだろうか。
(以下略)


解離の心理療法 45




 2)反社会的な黒幕人格
 
黒幕人格のなかには一連の反社会的な行動を見せることがあります。その場合の黒幕さんはまるで陰に隠れて暗躍するかのように、通常のカウンセリングでは姿を現さないことが普通です。このいわば反社会的な黒幕人格はかなり精緻化され、認知能力を働かせた行動を行っていることになります。そしてまれにカウンセリング場面に現れ、多少なりともカウンセラーとのラポールを成立させることもあります。

カリンさん(主人格32歳・女性)とカノンさん(黒幕人格・男性)

〈省略〉
  
 面接室に黒幕人格が登場すると、日常生活での反社会的な言動を見せつけるかのように話し、治療者を威圧し困らせるようなことが続いた。治療者は傾聴しつつ、黒幕人格の背景に感じられた恐れや不安を共に抱えていく姿勢をとりつつ面接を重ねていった。主人格が結婚を考え始めたときには、人格部分で意見が分かれ、黒幕人格が最後まで結婚相手を受け入れられず、自暴自棄になるような場面もあった。その辛さを一人の人格としてきちんと傾聴を続けることで、現状をあきらめつつも納得していった経過だったと考える。

2019年3月30日土曜日

解離の心理療法 推敲 44



2.黒幕人格のプロトタイプ

 次に黒幕人格のいくつかのプロトタイプをご紹介しましょう。黒幕さんたちはいろいろな性質を帯びますが、以下に示すのはそのうちでも典型的なものです。

1)     自己破壊的な黒幕人格

黒幕さんの中にはネガティブな言動が非常に際立ち、きわめて厭世的で自己破壊的な方がいます。常に人生を終えることを考え、負のオーラを放ち続けます。就職がうまく行ったり、恋人が出来たりしてせっかく人生が軌道に乗った時に、突然職場や恋人の前で黒幕さんが現れて大暴れをし、台無しにしてしまうということも起きます。
以下に示す例は黒幕さんに典型的な「出現は一過性」という条件はあまり当てはまらず、比較的頻繁に出現したケースです。またこの方のように、黒幕さんの厭世的な性格や自殺念慮は鬱状態と絡んでいる可能性があることが少なくありません。

 ミキさん(主人格20代前半の女性)とミクさん(黒幕人格・女性)

 <中略>
 
ミキさんのケースでは、面接開始から1年程、治療者は主人格と黒幕人格の違いに気づかずにいました。黒幕人格も別人格であることを気づかせないように振る舞っていたのです。幸い家族の協力もあり、黒幕人格の存在を治療者がきちんと認識してから、ようやく面接が進み始めた印象を持ちます。黒幕さんを認識してすぐは、彼女は主人格を装ったまま、治療者を試すような場面も見られました。<あなた、ほんとうにミキさん?ミクさんでは?>という問いかけをすることで、黒幕人格は治療者に一人の人格として認められた安心感を持ったようです。そしてミクさんは、「自分の自殺未遂のことを面接で取り扱ってほしい」と訴えるようになり、ようやく面接のスタートラインに立つことができたのです。

2019年3月29日金曜日

複雑系 18  解離の心理療法 推敲 43

複雑系の話をしているところだが、ところで「いい加減さ」について考察しなくてはならない深い事情がある。それも6月までに。(ナンのことだ?
先月ある研究会で北山修先生が発表されたテーマがこの「いい加減さ」だった。そこで私たちは精神分析の将来についてそれぞれ意見を持ち寄って20分ほど話したのだが、先生はそこでこの「いい加減さ」について話された。それに触発されて少し考えてみたい。
先生は鑪幹八郎先生の不規則、組織統一のない、漠然としたという意味での「アモルファス」な自己、ないしは社会組織について言及した。「私たちの存在の基盤として揺るがないと考えられる基本的な思想や信条が曖昧模糊としている」という。
この点について、私は私なりによくわかるような気がする。何しろ「いい加減でない」「アモルファスでない」アメリカ社会での人間関係の中に17年いたからだ。両文化の違いは著しい。そして私の考えでは、このいい加減さとは、「その場の雰囲気で態度を変えてしまう」、という方が近いように思う。私はAKY(あえて空気を読まない)という方針だが、空気を読まされることに気恥ずかしさと抵抗を強く感じる。気が付いたら空気と反対のことをやっていたりするのだ。土居先生の「自分がない」だって同じである。
しかし北山先生の議論の面白いところは、これは日本人の一種の多神教的な在り方であり、世界の価値観の多様化の中で、実は一周先を走っていたのではないか、という発想である。なるほどすごい発想だと思う。彼はこれを一種のフレキシビリティと言い換えたいのだろう。彼はそこでこのような考えを出す。いい加減さとは、「あれかこれか」でも「あれもこれも」でもないという。彼はこれを揺れとか、免震構造、と言っている。(ちなみに私は柔構造と言った。)北山先生はこのことを精神分析の世界にある二つの組織、一方は緩い多神教的な精神分析学会、もう一つは純粋形を追求する精神分析協会についての言及し、「まあ、二つが分かれていていいじゃない」といい加減な立場を示す。
これに対するいくつかの反応がある。まず一つは、やはり鑪先生のアモルファスさは、「空気」と関係していると思う。日本人は態度を相手、ないしは空気によりきめる。そこには空気を読むのにそれだけ長けている、ともいえるかもしれない。そして「自分」を持っているいわば職人気質の人たちもたくさんいて、ちょっと頑固で皆と一緒に行動しない、などと言われ「発達っぽい」などとも評されながら生きているのである。この点は北山先生の議論では強調されていない気がする。日本人が空気を読むのは、自分だけのためでもなければ、周囲のためだけでもない。両方のためだろう。つまりそこでの「乗り」を損ないたくない。これを内藤朝雄先生は「群生秩序」と呼んだ。つまり日本は究極のムラ社会なのだ。これはお互いの肌の薄さ、過敏さがないと成り立たないことなのである。場の雰囲気を壊すことは自分自身もイタいのである。もちろんそれは虐めの荷担などにもつながる恐ろしい結果を生むことにもなろう。さて日本は周回遅れではなく、周回リードか、と言うことについては、何とも言えないが、そんなこともなくはないように思う。それにはなんといってもアメリカでの私の生活と、そこでの失望があった。日常生活を送ってて思うのは、「本当に大したことがない」し「情けないくらいにレベルが低い」と思えるようなことにいろいろであったからだ。しかし彼らには「日本人には想像もつかない」「とてつもない」「そこまでやるか!」という面があり、それは前者と連動しているのだ。つまり細かいことを気にしない、と言うより鈍感だからこそできる、思いつくことがあり、そこに彼らは最大の価値を置いているというところがあるのだ。


コラム:文化結合症候群との関連
黒幕人格の説明との関連で、精神医学的な症候群として知られるいわゆる「文化結合症候群」の中でも特に「アモク amuk」という病気について紹介しておく。ちなみに「文化結合症候群」とは耳慣れない用語かもしれないが、原語は「culture-bound syndrome」で、「特定の文化に根差した病気」という意味で、分かりやすく言えば「風土病」のようなものである。その一つの典型例の「アモク」は、人が突然気が狂ったように暴力的な行動を示し、その後正気に戻り、自分がしたことを何も覚えていないという状態をさす。その暴力は通常は無差別に行われ、突進やものを拾って投げつける、という通常のその人からは考えられないレベルのものであることが多い。本書で述べている黒幕人格の特徴、すなわち突然の出現や暴力的な行為のパターンはこのアモクという状態を思い起こさせ、またおそらく両者に共通する点は多いものと思われる。
実はアモクに類する病気は、一種の風土病のように世界各地に存在することが知られてきた。それらは「文化結合症候群」と呼ばれるものの主要部分を占める。ただしこの文化結合症候群というタームは少しヘンな言葉だ。言語はcultural-bound syndrome であり、本来は(特有の)「文化に根ざした症候群」ということであり、いわゆる「風土病」と呼ばれるものに近い。

アモクはマレーシアに特有のものとされるが、同様の症候群が世界の各地に見られる。北海道のアイヌのイム、ジャワ島などのラタ (latah)中国東南アジアコロー (koro)南米スストー (susto)、北米インディアンウィンディゴ (windigo)、エスキモーピブロクト (piblokto)などがほかの例としてよく挙げられる。筆者がこの中でもアモックについて述べるのは、“running amok”という英語表現の存在のためだ。「気が狂う」という意味で「アモクっちゃう」という言い方が日常的になされるということは、英語圏の人は一番この言葉になじみが多いであろうからだ。(ただし同じ意味で、気がふれることを「イムる」と表現したとしたら、解離性障害を持つ人々に対する差別的な響きを含んでしまい、これは断じて許せないことになる。「イム」とは日本に古くから存在するアモクに類似した文化結合症候群である。)
 
アモクの特徴は先ほど述べたが、成書などにはよく次のような説明がなされている。「マレーシアの風土病であるアモックは男性に多く見られる。典型的な場合は、ひどい侮辱を受けたり悲嘆にくれたりして引きこもり、物思いにふける様子を示す。そして突然周囲にある武器となるようなものを手にして飛び出し、やみくもに出会う人を攻撃し、しばしば殺傷に至り、また本人も自殺を図ろうとする。ところがしばらくして正常に戻り、それまでの暴力的な振る舞いの記憶は一切ない。」 
 
これらの解説からは、アモクにはいわゆる「心因」が想定されているようだ。それが下線で示した部分である。しかし同じように悲しみや侮辱を受けた人がよりによってこのような反応を示すことはきわめて例外的だろう。たいていは自棄酒を飲んだり、鬱になったり、という反応を示しても、無差別的な暴力を振るってしかもそれを覚えていない、というような事件を起こすことはない。だからこれらはきっかけではあっても原因とはいえない。またこれらが「文化結合・・・」と呼ばれるのは、それぞれの固有の文化により原因として異なる説明がなされるからだ。アモックの場合は「hantu belian(なんと発音するかは不明)という「トラの悪魔」が憑依した状態と説明される。そしてインドネシアではこれにより生じたとされる攻撃については目をつぶるという文化があるというのだ(以上、英語版Wikipedia”running amok”の項を参考にした)。おそらくこれにより生じた事件については、裁判官は「ただしこれがアモクにより生じ、被告はまったくそのことを覚えていないため、執行猶予をつける」というような判決が過去においてくだされていたのではないかと筆者は想像するが、実情は明らかではない。
 
ちなみに日本のアイヌ民族に見られる「イム」の場合は、貞淑な淑女がトッコニ(マムシをさす)やビッキ(蛙をさす)とささやかれると突然発狂して暴力的になるとされる。つまりそのような言い伝えがある、という観念がその文化で育った女性に植え付けられ、あとはそれに従った症状を示すということが生じる。そもそもイムという状態を知らないでイムの症状を示すことは不可能であろうが、ここがいかにも解離的な現象と言える。
 
文化結合症候群の説明を読んでいてしばしば出会うのが、これらの症状を示す人はもともとは表向きは非常に従順で、規範を重んじる人たちであるという表現だ。いや表向きどころか、実際にそうなのであろう。そしてだからこそ彼らの通常の人格にはない部分が別人格を形成していて、それがふとしたきっかけで表に出ると考えるべきなのだろう。そしてそれはその文化で「~のような人がなる」(イムであるなら貞淑な女性が忌み嫌われるものをささやかれた場合)という刷り込みをあらかじめ受け、後はそのプロフィールに合致した黒幕的な人格が静かに成立していて、やがてきっかけを得て出現すると説明されるのだ。
 もうひとつ重要な点は、これらの文化結合症候群を提示する文化はおそらくまだ文明的な意味で発達途上国であり、さまざまなタブーや抑圧が存在する環境であろうということである。そこでは不満や攻撃性や怒りは、その表現を文化という装置により抑えられていた可能性がある。だから現代社会ではアモクやラターやイムの存在する環境は少なくなっているのである。その意味では黒幕人格はおそらくイムやアモック的な由来を持つ可能性があり、それは他の典型的な交代人格とは異なる出自を有する可能性である。黒幕さんが「顔なし」(正体不明)である理由はそこにもあるかもしれない。

2019年3月28日木曜日

解離の心理療法 推敲 42


もちろん黒幕人格のような人格についてはすでに専門家によりいろいろ記載されています。「構造的解離」(Ven der Hart, Nijenhuis, & Streele,2006)は世界各国で翻訳されている解離理論ですが、それによればその人のパーソナリティの情動的な部分(emotional part of the personality, 以下「EP」)という概念があり、黒幕人格はそのひとつであると考えられています。一般に解離性障害は、その人の人格の統合がうまく行かなくなることとして理解されています。トラウマ的な出来事が起きると、人格は日常生活に適応する為の「表面的に正常な部分」(apparently normal part of personality、以下「ANP」)と、防衛に特化したEPとに分けられてしまうと説明されます。ANPは日常生活を送る上で出てくる人格たちで、仕事をしたり、社会的な付き合いをするといった機能を担います。それに対してEPは強い感情の体験を担当します。つまりANPで送っている生活において、怒り、不安、喜び、といった強い情動が体験されたときに、人格がEPのうちのひとつにスイッチするということが生じるわけです。これらのEPは、かつて当人が危機的状況やトラウマの際に強烈な情動を引き起こされかけたときに、当人がそれに耐えられなくなって身代わりとなって出現した人格たちですから、似たような状況では同じことが生じるわけです。黒幕人格はその中でも最も強い情動を担い、そのせいもあって最も内側に隠れている人格のひとつといえるでしょう。
 黒幕人格の定義を先の三つの主要な要素を持つものとし、以下に項目ごとに説明していきます。
   
 1-1 怒りと攻撃性
 怒りと攻撃性は、黒幕人格のまさに核となる要素といえるでしょう。ふだんは穏やかな患者さんが、日常生活において突然激しい怒りを表出し、自傷行為に及んだが、その記憶がない、というエピソードを聞くことがしばしばあります。これは黒幕人格が出現して一連の行動を起こしたということを暗示していますが、それを聞いた治療者は、目の前の患者さんと、語られたその激しい行動との違いに動揺することもしばしばあります。もちろん患者さん本人はそれが自分の起こした行動であるという自覚さえも少なく、また周囲の人の、本人が聞いたらさぞショックを受けるであろうという配慮から、実際の行動について本人に伏せられていることもあります。ただし多くの患者さんは「自分の中に怖い人がいるらしい」「自分の中の死のうとしているようだ」「どうしてそんなことをするのか、わからないから、止めてほしい」などと、第三者の存在やその行動として語られることもあります。つまり黒幕さんは表に出ていないときでも、その存在感やオーラを中の世界では発しているため、それに対して遠慮をしたり、それを刺激しないようにという気遣いが起き、それが患者さんだけではなく治療者の側にも伝わってくることがあります。「黒幕」という表現はそのような隠然たるパワーを発揮するというニュアンスを含みます。いわばその患者さんの背後で「睨みをきかせている」わけです。
 ここで特筆すべきは、主人格や他の人格は、怒りの感情の表出の仕方をあまり知らないということでしょう。周囲の誰かが主人格に対して、トラウマに関連する行動や侵襲的な態度を示した状況のときに、抱えた怒りや攻撃性をどう処理すればいいのかに困惑して、瞬時に黒幕人格と交代します。これは、主人格が黒幕人格を呼んだり招いたりして交代するというよりも、主人格がその瞬間に忽然と消えてしまい、黒幕人格が突如前に出てくるようなことであると考えられます。経路としてはここで三通りの可能性が考えられます。一つは怒りをそもそも表現してはならないという内的な抑制がかかる場合です。ただし怒ってはいけない、という他者からの抑制がその原因として存在していたとすれば、この第一の可能性は次の第二の場合に吸収されることになるでしょう。
第二の可能性は怒りを他者から、あるいは状況により抑制されている場合です。誰かから暴力を加えられた場合、怒りの表現がさらに相手からの暴力を招くことが分かっている場合、それらの感情表現は封じられることになります。そしてそれはその時成立した、将来の黒幕人格により荷われることになります。第三の可能性は暴力をふるってきた人格がそのままその人に入り込み、黒幕人格を構成するという可能性ですが、これは以下に述べる黒幕人格の生成過程でもう少し詳しく説明しましょう。

1− 2 正体がつかめないこと
  
 黒幕人格が、なかなか正体をつかみにくい理由としては、おそらく完全に人格として形成されていないという事情があります。筆者が出会ったある患者さんたちは、黒幕人格のことを「怖い人」「攻撃的な人」「おばけ」などと呼んでおり、宮崎駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」に登場する「顔なし」や、人気ゲームのドラゴンクエストの「キングスライム」になぞらえる人もいます。
英語圏でも“it” (「それ」以外にも「隠れんぼの鬼」という意味もあります)とか、”unknown” などの呼ばれ方をすることがあります。交代人格にはたいていの場合何らかの名前が付いていますが、黒幕人格の場合にはそれが付いていないことが多く、またその姿かたちもせいぜい「黒い影のよう」と言い表される程度で、他の人格によって把握されていません。そしてそれが誰に由来するのか、過去の迫害的な人たちのうち誰に最も関係が深いかがわからないことがあります。
患者さんから特別その話を聞かない限り、面接初期には、黒幕人格はあまり意識されません。しかし、患者さんが家族から聞いた困った行動などが語られ始めると、黒幕人格の存在が、急に大きなものとして治療者に迫ってくることになります。とはいえ、他人に見られることや、識別されることを望まない黒幕人格は、そう簡単に面接中には現れません。また治療者側も、出会うことに躊躇する気持ちを抱えることが多いといえます。
この様な黒幕人格の性質は「精緻化されていない unelaborated」とでもいうべきものです。精緻化、とはいわゆる「構造的解離理論」に記載されている概念で、人格がその年齢や名前、性格、備えている記憶などがどの程度詳細に定まっているかを示します。精緻化されている人格は、言わば人格としての目鼻が備わり、詳細な個人史や知識を持っています。それに比べて黒幕人格はそれが整っていない、言わば「顔なし」に近い状態なのです。
黒幕人格が顔なし状態に近い理由はいくつか考えられます。自傷や暴力自体が衝動的で高次の脳機能による内省や熟慮を経ていないことを考えると、その人格はより原始的で動物に近いレベルでの理性や知性しか供えていないという可能性もあるでしょう。あるいは以下の三番目の性質に述べるように、それが出てくる時間が限られるために経験値を得ることもなく、言わば社会性のレベルについてはきわめて低い状態に保たれている可能性もあります。
ただ「黒幕」という呼び方が含意する通り、そこには裏で支配する、闇で糸を引くというニュアンスもあり、中にはきわめて高い知性を備え、みずからの姿をことさら隠すことで隠然たる力を発揮し続けるという場合もあります。
いずれにせよ黒幕人格に接触して心を割って話すということは非常に難しく、そのために時々起きる暴力や自傷行為、過量服薬や万引きなどに対して有効な策を講じることが出来ないでいる場合が少なくないのです
  
1− 3 重大な状況に一時的に表れる

 黒幕人格は大抵は突然出現します。特に相手を特定せずに無差別的に自分の怒りを表出することもあれば、特定の相手に攻撃を向ける目的で出現することもあります。通常その出現の仕方は瞬時であり、周囲が追いつけずに対応できない場合がほとんどです。これは黒幕人格が何かの刺激で偶発的に飛び出してきた、ということもあれば、すでにそれを後ろで見ていて意図的に飛び出してきた場合もあるからです。しばしば聞くのが、町を歩いていて、あるいは電車の中で、誰かが激しい口論をしているのを見て、突然黒幕人格が飛び出してきたというエピソードです。診察室で泣き叫んでいる患者さんの声が外に漏れてしまい、それが引き金になったという例もありました。
黒幕人格の示す攻撃性が特に激しい場合には、警察に通報され、そのまま措置入院になってしまう場合もあります。もちろん事件性が生じた場合は逮捕されてしまうこともあります。また自傷行為や自殺企図により自分自身の身体を傷つけたり、深刻な外傷を負った場合には救急搬送され、そのまま入院となることもあります。ただし多くの場合は特に大ごとにならずに済んでしまう場合も少なくありません。それは黒幕人格がかなり足早に姿を消してしまい、その後に戻った人格がその出来事を記憶していなかったり、およそ攻撃性とは程遠い印象を与えることで、周囲の人々もそれ以上深くかかわらないで終わってしまう場合が少なくないからです。そのために現場に駆けつけた警察官が拍子抜けしたり、キツネにつままれた気分を味わうことも稀ではありません。あるいは緊急の精神科入院となっても、病棟では全く静かでしかも黒幕さんの行動が全く記憶になく、早々に退院になるという事も起きます。
家族間の場合は、攻撃性が向かった相手が親や配偶者である場合は、それがすぐに収まるというパターンに慣れていることでしばらく体を抑えて元の人格に戻ってもらうことで終わってしまう場合も少なくありませんし、本人にとってトラウマになるからという理由でその間の行動を主人格に伏せたりするということもあります。
黒幕人格の出現が大抵は一過性であることの詳しい事情はわかりませんが、おそらく黒幕人格が出現して何らかの破壊的な行動を起こす際は、その行動自体が非常にエネルギーを使うため、すぐに体力が枯渇してしまい、休眠に入ってしまうという印象があります。特に暴力行為や破滅的な行動の場合は、かなり速やかに姿を消していきます。
また黒幕人格が外に出ること事体がその人にとって緊急事態であり、これ以上被害が大きくならないように他の人格が全力で黒幕人格を押さえ込んでいるというニュアンスもあります。患者さんの心の中を描写してもらうと、黒幕人格はしばしば奥のほうの普段は立ち入れないようなエリアで鍵のかかった部屋にいたり、鎖でつながれていると言った描写をなさいます。あるいは黒幕人格は深い休眠状態に入り、ごく稀にしか起きださないという話も聞きます。
ただしこのような理解の仕方では説明できないような動きを示す黒幕さんもいるようです。特に犯罪にかかわっている人格の場合などは、一連の行動を、しかもかなり長期にわたって行い、それ以外はめったに出現しないという事があり、この「エネルギー」説では十分に説明が付きません。
いずれの事情にせよ、黒幕人格を催眠等の誘導で呼び出して事情を聴くという事は通常は成功せず、一次的にしか姿を見せないという特徴の背後に何があるのかは不明としかいうことが出来ません。

2019年3月27日水曜日

複雑系 17



精神療法で問題になる揺らぎのテーマを考えると、しばしば挙げられるのが行動の持つ意味の問題である。もう少しわかりやすく「抵抗」の問題として取り上げよう。
ある患者さんがセッションに5分間遅刻する。セラピストは「あなたが治療に来たくないという気持ちの現れ、つまりは治療に対する抵抗を表していますね」ということになる。これは精神療法におけるある種の典型的な状況であるが、「実は治療に来たくない」に限る必要はない。「何となく外出をしたくなかった。」「出かけてるときに鍵を忘れていたことに気がついた。」「まったく普通どおりに家を出たのになぜか送れた」などなど。要するに5分送れたことに何らかの帰途的な根拠が存在していたのか、ということである。
もう少し原則に遡ってみる。あなたは朝8時に家を出て会社に向かう。職場までは約30分かかる。だいたい8時半くらいに職場に入るつもりでいるから、8時に出るのは妥当なころあいだろう。しかし出かけるときに大抵何かが起きる。出かける間際にどのハンカチを持っていくかで一瞬迷った、など。もっと大きなファクターとしては、電車にぎりぎりで乗れなかったなどのこともあるだろう。そこで会社への到着時間を正確に記録すると、832分、29分、30分、29分、33分、30分、29分、などとなっていくだろう。ここには揺らぎが存在する。30分を中心にしてプラスマイナス3分くらいだろう。ところが、8時半調度に着いた日を取り出し、秒単位での値を見ると、8時30分10秒、8時30分25秒、などと揺らいでいる。より精度を高めてみていくと、そこにも揺らぎがあり、これはフラクタルである。すると8時30分10秒に到着したときと、25秒に到着したときで何が違うのか、という議論になる。セッションに着いた時間を秒単位で測定し「あなたは今日は5秒遅れましたね」と指摘する治療者などいないだろう。(いや、いるかもしれないが・・・)。ところがこれを細かくチェックするのがJRだろう。あるいは地下鉄もそうだ。どこかで聞いたことがあるが、地下鉄のダイヤは5秒単位だという。つまり8時30分到着、と言っても実は8時30分25秒、などと定められているらしい。すると5秒の「遅れ」は重要になってくる。それこそドアに駆け込んだ乗客が独りいて、締め直しをしたために遅れた、などのことがおきるだろう。
さて精神分析の創始者のフロイトは、この種の行動の変化が何らかの理由により生じていたと考えたわけだ。特にそれを「抵抗」と考えた。5分遅れたら「あなたは今日は来たくなかったのでしょうか?」あるいは「私に対して、意識出来ない程度の怒りを感じていませんか? いえいえ、無意識のことだから分からないかもしれませんが。」あるいは5分早く着いても「私から遅れを指摘されないために、ことさら早く着くようにしていませんか?」あるいはちょうどに着いたら「私にきちんと時間を守る人だと思われたいという気持ちが表れていますね。」まあ、最後の方は「抵抗」とはいえないだろうが。
おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は精神分析を学んだとき、この理屈に心から感動したのである。



2019年3月26日火曜日

解離の心理療法 推敲 41


第7章「黒幕人格」部分をいかに扱うか 

 治療者としてDIDの患者さんと面接するということは、すなわち一人の患者さんが持ついくつもの交代人格に同時に出会っているという可能性を意味します。存在する交代人格は個人によって様々ですが、共通の特徴をもった人格に出会うこともあります。特に子供の人格はDIDの方のほとんどに見られます。また異性の人格、基本人格自身の若い頃の人格などもよく出会います。興味深いことに、患者さんの実年齢より年上の人格は非常に少ないという印象を受けますが、もちろんこれにも例外はあります。それ以外にも犬や猫などの動物の人格、「鬼」の人格、どこかの神社の守り神の人格など、非常に多彩です。その中で私たちが「黒幕人格」と呼ぶ人格にも非常によく出会うのですが、この人格はある意味では異色と言え、また治療や予後を考える上での大きなカギを握っている人格です。彼らと良好な関わりが出来れば、治療者の助けになってくれるといえるでしょう。しかしそのような友好的なかかわりを持つことはむしろ少なく、その扱いには多大な臨床的なスキルや慎重さが求められます。
まずここで、この「黒幕人格」という表現について少し説明しておきましょう。これまでの解離のテキストを読んでも、そのような記述を目にすることはあまりありません。そもそも、いくつかの人格を併せ持っている人達の存在があまり社会で認識されていない以上、そのような言葉になじみがないのは自然なことかもしれませんが、解離を専門的に扱っている治療者の間でも特に論じられることはありませんでした。しかし、実際にカウンセリングの場でDIDの患者さんとの面接を進めていくと、私達が「黒幕人格」と呼んでいる人格が大きな存在感を放っていることが次第に分かってきます。
治療が進み患者さんの状態が安定してきたと思えるような段階に至って、治療者は突然どん底に突き落とされるような体験を持つことがあります。ようやく人生の希望がかないなんとか頑張れそうだと嬉しそうに話していた患者さんが、その数日後に自殺未遂を起こすというような出来事が起きたりするのです。そして、そのときの記憶が全くなく、いったいどうしてそんなことをしたんだろう、と面接室で困惑し戸惑う患者さんを目の当たりにするのです。そしてここに黒幕人格が関与している場合があるのです。

1.黒幕人格の定義といくつかの特徴

黒幕人格という名前が付いているからといって何か特別な人格ということはありませんが、いくつかの特徴を持つことで、臨床的に大きな意味を持つ人格といえます。第一の特徴として、「怒りや攻撃性を持つ」ということが挙げられます。黒幕人格が表に出ると、他人に対して暴言を吐いたり、暴力を振るったり、物を壊したり、犯罪行為に及んだり、深刻な自傷行為や自殺企図を起こしたりします。また表に出ていないときでも、その存在感やそれが発するオーラが周囲に感じられ、それに対して遠慮をしたり、それを刺激しないようにという気遣いが、患者さんだけではなく治療者の側にもおきることがあります。「黒幕」という表現はそのような隠然たるパワーを発揮するというニュアンスを含みます。いわばその患者さんの背後で「睨みをきかせている」わけです。
2つ目の特徴としては、それが正体がつかみにくく、ある意味で匿名的であるということです。英語圏でも“it” (「それ」以外にも「隠れんぼの鬼」という意味もあります)とか、”unknown” などの呼ばれ方をすることがあります。交代人格にはたいていの場合何らかの名前が付いていますが、黒幕人格の場合にはそれが付いていないことが多く、またその姿かたちもせいぜい「黒い影のよう」と言い表される程度で、他の人格によって把握されていません。そしてそれが誰に由来するのか、過去の迫害的な人たちのうち誰に最も関係が深いかがわからないことがあります。

2019年3月25日月曜日

解離の心理療法 推敲 40


 解離性の自傷への対応


自らの体験を描いた漫画の中で、ある当事者の方がこんなシーンを描いています。内科を受診した際に、医師がちらっと腕の傷を見て言います。「ではお薬を出しておきますね。あと … その腕ですけれど、精神科には通われているんですよね。黴菌が入ったら大変ですよ。ほどほどにしてくださいね。苦しいから自傷しちゃうんだと思いますけど。」ところが血に見えたのは実際には絵の具であったというオチです。
この内科医の言葉は医療側の典型的な反応をうまく表現しているような気がします。「ほどほどにしてくださいね。」には自制してくださいね、いい加減にしましょうね、という批判めいた感情が含まれているようです。言われた側はどう感じるでしょう?「こちらも好きでやっているわけではないのに ・・・ 」という反応かも知れませんし、「わかってもらえていないな」という気持ちかも知れません。もちろん頭ごなしに自傷を非難し、やめさせようという反応は論外ですが、この医者の反応は、おそらく自分も自傷の経験がある人の反応とは異なります。
医師は自傷の傷痕を、まずは治療すべき対象としてみるために、それを叱りつけるというより先に、どのような処理が必要か、縫合の必要はあるか、感染の可能性はどうか、という判断を優先させる傾向にあります。しかし医師によっては救急医療を提供すべき立場にありながらも、「自分で切った傷は治療しない」と言って門前払いにしてしまうというケースもあるといわれます。もちろん出血多量ですぐにでも処置をしなくては、という場合は別でしょうが、自傷を「自己責任だ」「いちいち対応していたら癖になるだろう」などと言って取り合わないというケースは日本の医療においては多少なりとも見られ、それは精神疾患そのものに向けられた一種の偏見に根差しているのではないかと考えることもあります。2004年に私が帰国して一番当惑したのは、日本では救急医療の場では、多くの場合精神科の救急は扱わないという不文律があるということでした。
このように自傷行為はそれを扱う医療者側にも更なる意識改革が必要ですが、以下に当事者の方やその家族に向けていくつかのアドバイスを行います。

5-1 患者さん本人に対して

 これまで見てきたように、自傷は、心理的、生理学的要因があって反復する傾向にあります。そのために「自傷行為をやめなさい」と伝え、行為だけをやめさせようとしても、それが抑止力になることはなく、逆に自傷行為を引き起こす苦痛になる可能性があるのです。また「なぜ傷つけたの?」と訊ねることも、その原因や経緯、あるいは傷つけた時間さえも曖昧な解離性の自傷においては当人は「わからない」としか答えられず、それ以上問うことは患者さんを追い詰めるメッセージになりかねません。患者さんは他者との間で安心感を得た経験が少なく、また解離による記憶の混乱もある状況で治療を求めることには想像以上の強い不安を抱えていることが多いものです。情緒と行為の隙間を埋めていく作業を共同で行っていくことが大切でしょう。その際患者さんの行動を自傷も含めて否定することから入るのは適切ではありません。
しかし自傷行為が起きたその前後に何が起きていたのかについて一緒に検討することはとても大事だと思います。私が繰り返し聞くのは、その日は特に問題なく過ごしていたのだが、友人や恋人と電話をしていて、そこで何かの言葉を言われたのをきっかけにして自傷に発展したというケースです。多くの場合その言葉は思い出すことが出来ずに終わってしまいますが、自傷行為にはこのように偶発的な出来事から発展することがかなり多く、ある意味では防ぎようがないというニュアンスもあります。ただその恋人と話す機会を持ち、何が自傷のトリガーになっている可能性があるのか、何かキーワードがあるのか、等について検討することはとても大切なことです。
実際に自傷に及んだ人格は、なかなか臨床場面には表われず、その行為がどのような感情体験から生まれているかを探索しても話が深まらないことも多いものです。ただし面接場面で語ってくれている人格の背後で実際に自傷をした人格が話を聞いている可能性もあります。なんらかの苦痛、無力感、怒りがあって、自傷につながっている可能性があり、それについて手助けしたいという意図を、眼前に現れている人格を通じて、背後の人格に伝えるといった意識も重要かと思います。

5-2 患者さんの家族や周囲の人々のために

自傷を繰り返す患者さんの家族には、「病気がすぐには治らないのはわかるが、自傷行為だけでもなんとかやめさせたい」と話す方がいます。痛々しい傷痕を目の当たりにし、そのような行為を何とか止めさせられないか、と考える気持ちも十分に理解できます。家族やパートナーの中には、自傷行為が何か挑戦をしてくるような、あるいは攻撃性を向けられているような気持ちになる場合があります。また自分たちがケアをする側としていかに役に立っていないか、いかに無能なのかを突き付けられた気持にもなるものです。さらに一部の治療者は自傷行為を一種のアピール性を有するものであり、全力で止めて欲しい、本気で向き合ってほしいという意図の表れだと説明する傾向にあります。するとますます自傷行為は看過できないもの、禁止するべきものと捉えられるようになります。

(以下長いので割愛)


2019年3月24日日曜日

解離の心理療法 推敲 39


44 解離に入るための自傷、解離から出るための自傷

自傷行為にはそれ以外にも様々な意味が伴う場合があります。ある患者さんは「切り始めると、急に記憶が飛んでしまう」と表現しますが、このように、解離状態に入ることを目的とした自傷や、「ぼーっとしていて不快だから自傷をする」というような、解離症状の中でも特に不快な離人感から抜け出すことを目的とした自傷なども解離性障害には認められます。後者のような場面で自傷をする代わりに、松本14)は、①両手で椅子の座面を思いきり押す(筋肉を用いて現実感を取り戻す)、②現在の日付と自分の年齢を思い出し、頭の中で自分に言い聞かせる(トラウマ記憶による退行を防ぐ)、③身近な人と握手やハグをする(安心感を得る)といった対処法を薦めています。
筆者の一人の米国での体験では、精神科病棟で自傷につながる乖離から抜け出すために氷を手に握りしめるという方法を取っていました。いわゆる「グラウンディング」の一環といえます。米国の冷蔵庫は製氷機が標準装備されていますので、手近に利用できるということとも関係しています。考えてみれば人が自らに痛み刺激を与える方法の中で唯一直接侵襲を与えないのが皮膚の冷点の刺激というわけですが、もちろん凍傷になるほどの刺激は論外です。
解離性障害の当事者やトラウマの治療者たちの話を聞くと、解離から抜け出したり自傷の衝動を抑えるという目的で実にさまざまな方法が取られているようです。これは言い換えればすべての人に著効を示すような方法がないということでしょう。しかしもうひとつの考え方は、いろいろな方法を試した上で、自分にとって一番有効な方法を見つけるということかもしれません。
ただひとつ気をつけなくてはならないのは、ひとつの自傷の手段を回避するために別の自傷の手段を選ぶことは本質的な解決にはならないということです。別のより生産的な、あるいは自傷を伴わない活動に満足体験を得ることができるのであれば、おそらくそれが一番薦められるでしょう。ある種の創造的な活動による快感、たとえば絵を描いたり音楽を聴いたり、運動をしたりということに伴う快感はそれらの代表的な例といえます。
もちろん快感の中で重要なのは、対人関係によるものです。私が経験した例で、人から認められる、話しを聞いてもらえるという体験が劇的に自傷の頻度を減らしたという例がありましたが、これはそれを示しているといえます。

 最後に、解離性の自傷への対応について、いくつかポイントを整理しておきたいと思います。とはいえ、それに正解があるわけではなく、実際には試行錯誤しながらの対応になります。また、その多くは非解離性の自傷への対応と重なってきます。

解離性の自傷への対応

自らの体験を描いた漫画の中で、ある当事者の方がこんなシーンを描いています。内科を受診した際に、医師がちらっと腕の傷を見て言います。「ではお薬を出しておきますね。あと…その腕ですけれど、精神科には通われているんですよね。黴菌が入ったら大変ですよ。ほどほどにしてくださいね。苦しいから自傷しちゃうんだと思いますけど。」ところが血に見えたのは実際には絵の具であったというオチです。
この内科医の言葉は医療側の典型的な反応をうまく表現しているような気がします。「ほどほどにしてくださいね。」には自制してくださいね、いい加減にしましょうね、という批判めいた感情が感じられます。言われた側はどう感じるでしょう?「こちらも好きでやっているわけではないのに・・・」という反応でしょうか?「わかってもらえていないな」という気持ちでしょうか。もちろん頭ごなしに自傷を非難し、やめさせようという反応は論外ですが、この医者の反応は、おそらく自分も自傷の経験がある人の反応とは異なります。
医師は自傷の傷跡を目にし、それを治療する場面が多いために、それを叱りつけるというより先に、どのような処理が必要か、縫合の必要はあるか、感染の可能性はどうか、という見方をする傾向にあります。しかし医師によっては救急医療を提供している立場でも「自分で切った傷は治療しない」と言って門前払いにしてしまうというケースもあるといわれます。もちろん出血多量ですぐにでも処置をしなくては、という場合は別でしょうが、自傷を「自己責任だ」「いちいち対応していたら癖になるだろう」などと言って取り合わないというケースは日本の医療においては多少なりとも見られ、それは精神疾患そのものに向けられた一種の偏見に根差しているのではないかと考えることもあります。2004年に筆者の一人(岡野)が帰国して一番当惑したのは、日本では精神科の救急は、ERでは扱わないという不文律があるということでした。
このように自傷行為はそれを扱う医療者側にも更なる意識改革が必要ですが、以下に当事者の方やその家族に向けていくつかのアドバイスを行います。

2019年3月23日土曜日

解離の心理療法 推敲 38

このように性的逸脱行動は自傷行為の一つの典型とみなされる場合があります。かつてレイプ被害に遭い、加害者に抵抗することができずに蹂躙されたことで深い傷つき体験したイズミさんは、その体験を乗り越えようとし、自ら能動的に相手を性的に誘い、そこで主導権を握ろうと試みたそうです。彼女は性的な逸脱を重ねることで、最初に受けた苦痛を薄めようとしていたのかもしれない、とも話しました。性被害を持った女性で、その後風俗で働くことを選ぶ方たちの中には、そのような意図が隠されている場合も少なくありません。
多くの自傷行為は一人で完結するものですが、性的逸脱行動には他者が関与します。そしてその行動が繰り返される背景には強い孤独感がある場合があります。ただしそのような関係性の多くは一時的、刹那的であり、失望や見棄てられ体験へとつながります。その意味では性的逸脱行動を繰り返す人生は、その生き方そのものが自傷的であるともいえます。彼女たちのなかには、性的なものを介在させないと人とつながることができないという不安もあるかもしれません。自分は既に穢れているから、もっと穢れるところに落ちていると安心だという思いなど、トラウマに由来した複雑な思いが他にもいろいろとあるでしょう。
こうした思いを乗り越えるには、性的なものを介在させない穏やかな関係が重要です。それは異性との間でももちろん構いませんが、その場合は関係の性愛化という反復強迫から逃れることがより難しくなるでしょう。そのためにできればお互いに性的関心の対象とならないような相手と、深くはなくとも穏やかな関係を持てることが望ましいでしょう。そのような関係をひとつでも持つと、患者さんが落ち着いてこられるのを感じます。長屋の井戸端会議のように、文句を言ったり、たいして重要でもない話をしたりしながら、知らぬうちにエネルギーを回復し、それぞれの生活に戻っていく。そんな関係性をイメージしてください。

  4-3 黒幕人格の存在による自傷
患者さんの交代人格の中には、攻撃性の高い、いわゆる「黒幕人格」が認められる場合があります。この「黒幕人格」については、第7章で詳しく論じますが、ここで簡単に言えば「怒りや攻撃性を持ち、その姿はあまり認識されることがないものの、重大な状況で一時的に現れる人格状態」のことを指します。解離性同一性障害では、この「黒幕人格」が主人格をはじめとする自己の内部を攻撃する形で、自傷に至る場合があります。

【症例】ヒカルさん(20代、女性)

  (中略)

ヒカルさんは、過去の記憶の多くが曖昧で、治療はなかなか進展しませんでしたが、次第に支配的な親のもとで自分の主張を通すことなく成長してきたこと、そうした対人関係のありようが、家族外の他者との間でも繰り返されてきたことがわかってきました。〈自己表現を許されず、不満や怒りを心に留め続けてきた結果、それが「怖い人格」となって、耳元や頭の中で命令するのであろう〉と説明すると、ヒカルさんは「それでなんとなく納得できた気がする」と言いました。

2019年3月22日金曜日

解離の心理療法 推敲 37、複雑系 16


 4-2 自傷行為の象徴性

自傷の方法には様々なものがあります。最もよく知られているのは腕や手首を刃物で傷つける、いわゆる「カッティング」と呼ばれるものです。しかしそれ以外にも、壁に頭を打ちつけたり、タバコの火を自分の体に押しつけてやけどを負わせたりするといった自傷(いわゆる「根性焼き」)もあります。これらは基本的には身体レベルでの快感や安堵感を得ることを目的としていますが、それでも傍目には自らに苦痛を負わすだけとしか思えないような自傷もあります。つまり苦痛を得ることそのものが目的となったり、その行為がある種の象徴性を帯びているように思える様な自傷があります。そもそもカッティングにより血を流すという行為が、それにより自分が生きている、「血の通った人間」であることを確かめるという意味を持つ場合が少なくありませんが、それ自体が高い象徴性を持ちえます。また性被害体験を有するある患者さんは、“漂白剤を飲む”という自傷行為を繰り返していました。なぜそうしようと思ったのか、患者さん自身は、全く無自覚でしたが、後に「体の“汚れ”を清めようとしていたのかもしれない」と述懐されました。このような、現実に起きた嫌な出来事を象徴化し、苦痛を乗り越えようとするかのような自傷も少なくありません。
さらにいわゆる「ミュンヒハウゼン症候群」または「虚偽性障害」と呼ばれる疾患は非常に特徴的で、入院中に自分の点滴液の中に汚物を混ぜるなどして感染症を引き起こそうという行為なども報告されていますが、そこには自分の病気を誇張して周囲に伝えるための自傷が見られます。これもそれにより何らかの明らかな疾病利得が見当たらないのであれば、いわゆる詐病(俗にいう「仮病」)とは異なる精神疾患として理解されます。
また明らかな自傷行為とは断定できないものの、行為そのものが自分の身体や精神を傷つけ、その意味で自傷的、自己破壊的な場合があります。そしてそれが交代人格により行われる傾向にあるというのが解離性障害の特徴です。

【症例】自己破壊的な交代人格を持ったイズミさん(20代、女性)

(略)

イズミさんは、幼い頃から「父親」が登場する童話や小説を好み、父という存在に強い憧れを持ってきたこともわかりました。しかしその気持ちを悟られれば、母を傷つけるだろうと封印していました。面接では、レイプ事件のトラウマと、その傷つきを大きくしたイズミさんの生育環境などをテーマに話を進めていくことにしました。

複雑系 16


揺らぎがなぜ健康と関係しているのか

さて、心不全に陥った心臓の心電図には揺らぎがなくなっているという事はどういうことか。つまり揺らぎはあるのが健康、という事はいい加減さが健康度の証明ということにある。でも現代社会でいい加減な振る舞いはたちまち攻撃の対象になる。チコちゃんなら「ボーっと生きてんじゃないよ!」とどやしつけてくるだろう。だからいい加減であることはいけないことだ、というのが私たちの常識的な考えなのだ。まず頭で考えてみよう。心拍数は結局は個々の心筋細胞の自発的な拍動をもとにしているはずだ。そして絶対に、個々の心筋細胞はいい加減に拍動しているはずだ。つまり拍動数は増えたり減ったりしているだろう。あなたがしゃっくりをしている時、その間隔はいい加減な筈だ。心筋細胞もしゃっくり位のいい加減さで拍動しているのではないか。さてそこにそれを統括する細胞群があり、それを押しなべて一定な頻度で拍動をつくるはずだ。それは「獅子脅し」的な、つまり一定数の心筋細胞の拍動以上で信号を送るような仕組みだろう。つまりはこれもまたいい加減な筈だ。

日本心臓財団のhpに「耳寄りな心臓の話」(66話)『揺らぎなき末期の心臓』(川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)という記事があり、確かに心不全の進んだ心臓の心拍数では揺らぎが少なくなっている。しかしその細かいメカニズムは明らかでない。そこで私はこれを柳の枝の振れ幅、と考えた。一日の内には風が強い時も弱い時もある。健康な柳ならその振れ幅に揺れ擬が生じるだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の表情筋の動きはどうだろう?日常生活で感じるいろいろなものに応じて動くし、そのゆらぎの大きさは健康度を表すだろう。鬱だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだからだ。という事は脈拍数もそうだろう。脈拍は体の自律神経系の影響を大きく反映するだろう。それらの刺激は柳の枝に吹き付ける風のような意味を持つはずだ。という事は揺らぎは、ただ意味もなく揺らいでいるのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受けつつその動きを緩和しているのではないか。柳の枝が大きく揺れることで風の勢いを消すように。
 このように考えると揺らぎの意味が根本から変わってくる。テニスのサーブの入る確率は揺らぐが、それはサーブを入れようとして心身が行う試みを柔軟に反映しているという事だろう。サービスが入るようにと、運動前野に様々な信号が送られてくる。それに柔軟に対応した結果、サーブが入ったり入らなかったりする。すると心不全の時の心臓のように揺らぎを無くしたサーブは、「決して入らない」という硬直性を発揮するという事だろう。あるいは必ずネットに引っかかってしまうか、必ずホームランになってしまうか、という状態になるわけだ。そういう意味でイイカゲンにサーブが入るという事は、本当に良い加減という事になるのだ。

2019年3月21日木曜日

解離の心理療法 推敲 36


3-3 自傷の習慣化プロセス-内因性オピオイド

ふり向いて見ると、ライオンは私にとびかかろうとしていた。ライオンは私の肩をつかみ、私もライオンも地面にたおれた。ライオンは、ものすごい唸り声をあげながら、ちょうどテリヤ犬が鼠をそうするように、私をゆさぶった。私はこのような衝撃をうけて、二十日鼠が最初に猫につかまえられた時に感じさせられるかと思われるような麻痺した心持ちにさせられた。今どんなことが起こっているかはっきりわかっていながら、痛さも恐ろしさも感じない一種夢見るような心持にさせられたのだった。クロロフォルムで局部麻酔をされている患者たちがいうのに似た心持だった。彼らは手術されるのを見ていても、刃物の痛さを感じないのである。 

これは、スコットランド出身の医師、宣教師であり、探検家として著名なリヴィングストン(18131873)による探検記の一節です。当時、彼が滞在していた村では、飼っていた牛が何度も野生のライオンに襲われるという事態に陥っていました。村人たちは呪いをかけられていると信じ込んで、無抵抗でいたのですが、リヴィングストンは彼らを説得してライオン退治に乗り出します。そのときに彼もこのような大ケガを負ったわけですが、彼は手記にあるように、一切の痛みを感じなかったそうです。おそらく、これは脳内の報酬系に多く分泌する脳内麻薬のひとつである、内因性オピオイドの鎮痛作用によるものであったのでしょう。
自傷行為に痛みを伴わないのも、脳内に内因性オピオイド(麻薬関連物質)が関連していると考えられています(松本ほか11)。オピオイドは痛み刺激が脳に伝えるのを遮断するという働きがあり、またドーパミンのリセプターに作用して、快感を生む働きもあります。つまり、深刻なストレスや精神的苦痛を抱えた状況下の自傷では、生理面においてはドーパミンやオピオイド分泌が、一方、心理面においては解離の機制が、無感覚や麻痺状態を形成し、苦痛の軽減が図られる場合がある、というわけです。こうしたメカニズムによる自傷は、患者さん本人の精神的苦痛を生み出す問題を根本的には解決しているわけでなく、患者さんの人生の文脈から切り離された形で行為だけを学習し、処理しているにすぎません。そのため、繰り返されることになり、それによって、自傷の鎮痛効果や行為に対する恐怖感が薄れ、さらには快感も得られるという形でエスカレートしていきやすいという問題があります。その点は、薬物依存の患者さんが、薬物に耐性ができ、より強い快感刺激を求めて、事態を深刻化させてしまう経過に似ています。自傷がより深刻な事態を招くストッパーになっているとはいえ、その方法に頼り続けるわけにはいきません。安全感の得られる環境の中で、それまで切り離してきた耐え難い苦痛や不安と向き合うことが、どこかでは必要なのではないかと思います。
なお、基礎研究のレベルでは、報酬系の機能を調整する各種の新規遺伝子が発見されているとのことです12。今後、これらの知見に基づいて、自傷をコントロールする薬物が作られることもあるかもしれません。
  
 トラウマと自傷
4-1 トラウマ記憶の影響 
解離性障害の患者さんは、トラウマを有していることが少なくありません。しかし、それらの記憶は人生における意味づけや情緒とは切り離された状態で封印されています。ところがなんらかの刺激がきっかけで、フラッシュバックが生じたときに、それが自傷の引き金となることがあります。フラッシュバックはトラウマを体験したときの苦痛の再現であり、自傷はその心の痛みを癒すための対処方法なのです。自傷はいわば心に麻酔をかけるという意味があるのです。

【症例】大学生のカエデさん

(略)


フラッシュバックに伴う自傷は、安心できる環境の中で、そのトラウマ記憶にどのように向き合うかということが大事だといえるでしょう。

2019年3月20日水曜日

複雑系 15


揺らぎ

ところで分からないといえば、揺らぎほどわからないものはないという人もいるかもしれない。そして揺らぎはフラクタルと大いに関係がある。あらゆるレベルで揺らぎが見られる、ということとフラクタル性とはほぼ同じことを言っている。それはどういうことだろうか。
ある非常に緩やかな高台が存在する。それも側面から見れば極めて正確な台形をした台地である。そしてそこに雨が降る。その台地はもろいが粘土質で、水をあまり吸い込まないとしよう。すると雨水はどのようにして流れるだろうか。はじめは台地のいろいろなところに水溜りを作るだろう。そしてそのうち水かさが増して水溜りが融合して水があふれ出し、台地の端から下に流れ落ちる。それも対置の四角形の縁から均等に流れるだろうか? 決してそんなことはない。一部が削れて水路となり台地を削っていく。だから台地の縁はのこぎりの歯のように削れていくのだが、その水の流れはジグザグであるはずだ。つまり揺らぎが見られる。そして雨水の流れが十分にゆっくりであったら、その水の流れを拡大して見ていっても(つまり縮尺を変えても)ジグザクの度合い、密度は変わらないだろう。これは海岸線がフラクタルを形成しやすいということを、それが形成される状況を想像しながら説明したわけだが、ここに示された揺らぎ、とは要するに、水が行き当たりばったり、いい加減に流れる、ということである。
Google Earth から拝借しました
しかもそのいい加減さは、どのレベルでも同じ程度に、なのだ。一体どういうことだろうか? 地表も水の流れも数学で予測される通りにはならない。それは分かる。問題はそれがどうしてフラクタル的になるか、なのである。どうしていい加減さがどのスケールでも成り立つのであろうか? これについて納得のいく説明を私は読んだことがないのだ。
人間のなすことについてはどうか。これは何回か前に、テニスの話をした。うまくいく確率が三分の一から三分の二の間を揺らぐ、という話だ。こちらは人間が不完全だから、ということで何となく自然現象よりもしっくり来る。しかし人間の行う活動、たとえば株の相場の変動、あるいは人間の血圧、脈拍数の変動が同じような揺らぎの性質を持ち、したがってフラクタル性を示すというのはどうしてだろうか? こちらの方がよほど不思議である。


2019年3月19日火曜日

解離の心理療法 推敲 35


3 なぜ自傷をするのか 
3-1 動物も自分を傷つける
 
人はどうして自分を傷つけるのか。深い謎に包まれた問いです。現在の精神医学はそれに十分な答えを出していません。ただし一ついえるのは、自分の体を傷つけるという行為には、その人の持つ心の痛みが関連していることが多いということです。そしてそこには私たちがまだ良く知らない生物としての本能に根差した仕組みが隠されているようです。それが証拠に自傷は人間にだけ認められる行為ではありません。あるアメリカの研究(7)は動物の自傷として以下のような例を挙げています。

それまで、健康でなんの問題もなかった鳥が、あるときを境に、自分の毛を1本1本引き抜くようになりました。その行為により、皮膚が露出し、出血をきたしても、それはやむことはありませんでした。
 あるイヌは、これといった肉体的原因や外部刺激がないにもかかわらず、自分の体をなめたり、かじったりし続けて、皮膚に潰瘍を作ってしまいました(一般に「肢端舐性皮膚炎」等と呼ばれています)。潰瘍は人間の目には明らかに痛々しく見えましたが、イヌはトランス状態に入っているようなトロンとした目で必死に体を舐め続けました。
 この研究者の一人であるホロウィッツは、ロサンゼルス動物園からの依頼で動物の病気を診るようになりました。そして動物の診療を重ねるにつれ、動物と人間の病気には共通性があり、獣医学からの知見が人間の症状理解に非常に役立つことに気付きました。そのことは自傷行為についても当てはまり、自傷する動物を観察することによって、よりシンプルにその行動の起源を探ることができるのではないか、と考えたのです。
動物の自傷行為の定義は「自分の肉体を傷つけてダメージを与えるための、意図的な行動。当人を愛してくれる周囲の人々の混乱と苦悩」ということですが、ホロウィッツらはこれはまさに人間の自傷行為に共通するものだと言います。そして、このような強迫的に自分を傷つける行動を「過剰グルーミング」という視点から説明しました。グルーミング、というと、サルが相互に毛繕いをする姿などが浮かびますが、そうした社会的グルーミング以外に、自分自身に対して行うセルフグルーミングも存在します。たとえば、自分の体をなでたり、爪を噛んだり、かさぶたを取ったり、といった程度のことは、多くの人が癖のように無意識に行っていることでしょう。こうした行為を行っている時には、脳内に一種の麻薬物質エンドルフィンが放出されるため「解放-安堵」の作用、鎮静効果があることが判明しています。みなさんの多くが経験的にも実感できるところだと思います。グルーミングは、通常は穏やかに生活の中に折り込まれているものですが、一部の人間や動物においては、強力な自己鎮静効果を必要とする一群が生じます。そして極端な形のグルーミングを求めた結果、自分を傷つける行為につながった、というのが、自傷を「過剰グルーミング」ととらえる考え方です。
また、ホロウィッツらは動物の自傷への対処として、より侵襲性の少ない自傷を認める、という方法を提案しています。たとえば、心不全の手術を施されたゴリラでは、縫合跡をいじって深刻な結果をもたらさないようにしなくてはなりません。そこでそのゴリラが本来持っている強いグルーミング欲求を利用し、爪に派手な色のマニュキュアを塗ったり、実際の手術には関係がなかった「おとり」となる縫い目を作ったりして、関心をそらすそうです。同様の発想から、人が自傷衝動に駆られたときには、アイスクリームの大型容器の中に指を突っ込む、氷のかけらを握る、手首にはめたゴムバンドをはじく、カッティングしたい場所にカッターの変わりに赤いマーカーで線を引く、といった方法を勧めるセラピストもいます。とはいえ、これらは短期的な解決法であり、人間はもとより、動物の自傷においても獣医師らは社会的関係の改善が必要であることを説いているということも重要な要素として付け加えておかなければなりません。
ここでは、獣医師と医師の両者がともに動物の病気について学ぶ「汎動物学(Zoobiquity」の視点から自傷を考えてみました。動物の場合、行動からの観察は可能ですが、どのような主観の意識内容があるのかを知ることはできません。そのため、動物の自傷から得られる知見が、どこまで人間のそれに援用できるかという点については慎重さも必要だといえるでしょう。
  
3-2 自傷と報酬系
動物の自傷についての説明の中で、脳内麻薬物質であるエンドルフィンについてふれましたが、現代は、多くの心理学的現象を脳科学の視点からも説明する様になってきています。ここでも脳内の「報酬系」という部分の働きから自傷を考えてみましょう。
人間や動物の欲求が満たされたとき、あるいは満たされると予期されるときに興奮し、快感を生み出している神経系の仕組みを脳内報酬系とよびます。この部分が興奮することでドーパミンという化学物質が分泌されますが、これは快感物質とも呼ばれています。人間や動物は基本的にはこの報酬系によるドーパミンの分泌を最大の報酬とし、それを常に追い求めて行動するという性質を持っているのです。
ちなみに、この報酬系は、1954年、オールズとミルナーというふたりの若い研究者によって発見されました。彼らは、ラットの脳に電極を埋め込み、いくつかの実験を行っていましたが、脳の色々な部分を刺激し実験していくと、ある部分の刺激に対して、ラットは強く反応し、レバーを執拗に押すことがわかりました。それは、ときに1時間に7000回にもおよぶハイペースで、空腹であろうと極度の疲労状況であろうと、餌を食べたり休んだりすることなくレバーを押し続けてしまうという様子が観察されたのでした。その様子から、彼らは、この部位への刺激が快につながっているのではないかと考えたのです。まさに、快感中枢、報酬回路が発見された瞬間でした。
この報酬系の発見以前は、人を突き動かしているのは、攻撃性や性的な欲望といった本能的なものであると考えられていました。ただしそれらは無意識レベルにしまわれていて、間接的に行動に表されるものだ、という精神分析的な考えが主流でした。また行動主義を基盤とした心理学の観点からは、学習や行動の発達は罰の回避のみで説明できると考えられていました8)。そして脳のどの部分を刺激しても不快しか生じないと考えられていたのです。オールズとミルナーの報酬系の発見も偶然の産物でしたが、この発見により人や動物は主として快感(報酬)を求めて行動するという、いわば単純すぎるほど単純な原則の存在が明らかになったのです。 
さて、この報酬系と自傷行為の関係ですが、岡野9)は、自傷行為が報酬系を刺激し、自分の身を守るボタン(パニックボタン)として成立する過程を次のように述べています。
 非常に大きな心のストレスを抱えている人が、髪をかきむしり、たまたま頭を壁に打ち付ける。すると少しだけ楽になることに気が付くことがあるはずだ。それまでは痛みという苦痛な刺激にしかならなかったはずのそのような行為が、突然自分に癒しの感覚を与えてくれることを知るのだ。試しに腕をカッターで傷つけてみる。確かそんな話をどこかで読んだからだ。すると痛みを感じず、むしろ心地よさが生まれる。「このことだったのか・・・・」こうして普段は絶対押すべきではないボタン、と言うよりはそこに存在していなかったボタンが緊急時用のパニックボタンとして出現する。
 報酬系は、本来は脳の奥深くにあり、それは生活で喜びや楽しさを感じられるような行為に伴い刺激され、快感を生みます。そこを人工的に刺激しようとすれば、そこに直接作用するような薬物(酒、たばこ、違法薬物など)を摂取するか、あるいはオールズとミルナーのネズミの実験のように、そこに長い針を刺して電気刺激を与えるしかありません。しかし、極度のストレス下においては、通常は痛みを伴うはずの、壁に頭を打ちつけるような行為が、痛みを引き起こさず、報酬系に直結する刺激となって作用する、という現象が起きることが知られています。この偶発的な出来事から発見されたパニックボタンが、強いストレス状況のもとで繰り返し用いられるようになると、自傷行為が成立することになります。本来、自傷は痛覚を刺激するわけですが、それがむしろ報酬系を刺激する方向に向かうという、一種の脳の配線障害が起きていると考えられるでしょう。

2019年3月18日月曜日

複雑系 14

 ところで脱線だが、わかっているし、慣れているはずのものを繰り返すという現象がある。精神医学ではそれをcompulsive act self-stimulation とに分ける。前者は強迫である。何度も何度も手を洗う、など。行為自体はやり慣れているし、新しい刺激などない。しかしそれをやめると不安が襲ってくるために仕方なく行う、という苦しい作業だ。ところがself-stimulation 自己刺激は、繰り返し自体がある種の快感を生む。さっきの玩具の例で言えば、何度も何度も行為を繰り返す。夢中になってそれを続ける。発達障害傾向に特に結び付けて考えられることの多いこの種の行為は、慣れと新奇性との適度な割合が快である、という原則を破ることになる。したがって行為自体は本人にとっての益も少なく、ほかの有意義な活動を犠牲にする結果としてその人にとっての害になるだろう。
ただここで気をつけなくてはならないことがある。私たちにとっては同じことの繰り返し、いわゆる常同行為と解する事ができることも、彼らにとっては新しい刺激の連続かもしれないのだ。いわゆるオタクといわれる方々の行為をそのような意味で誤解してはならないのだ。かつてテレビでアサリの貝殻を延々と収集している人について見る機会があった。おそらく私たちの大部分にとって、彼の部屋に山と詰まれた貴重な蒐集物は意味を持つことは少ないだろう。もし結婚していてそのような趣味を持っていたら、配偶者に捨てられてしまう運命にあるだろう。でもその人にとっては、一つ一つの貝殻の持つ微妙な模様の違いが新たな感動を与えるのだろう。
昆虫の蒐集家でもある養老孟司先生が書かれていたが、昆虫の個体を集め、そこで新たな違いを知ることで、世界が違って見えると言う。彼の専門はゾウムシと言うことだが、素人目にはまったく区別の付かない個体にある変異を見つけ、それが新種であるという発見があったらそれはまったく新しい体験と言うことになる。同じように、子供が砂場で何度も砂をすくっては手から零れ落ちるのを体験している際、おそらく彼はその零れ落ち方の微妙な差を発見して夢中になっているのだろう。それを常同行為などと呼んで症状扱いすることは、おそらく間違っているのだろう。
 

2019年3月17日日曜日

複雑系 13

さてここまで書くと、「わからないから面白い」にはいろいろな但し書きが必要なことがわかる。まず「わからないから面白くない」こともいくらでもある。数式の並んだ本など、私はすぐわからなくなるから興味を失う。だからわかるもわからないも、程度問題だということがわかる。面白いためには「適度に判らない」必要がある。つまり「適度には判っている」ということだ。そうでないと、おそらく何がわかって何がわからないかの境目がわからないから刺激がなくなってしまう。つまり判らないから面白いのは、わかる部分とわからない部分の境目、臨界域にあるからだということができるかもしれない。
心理学的には、私たちがある種の興奮を覚えるような刺激は、ある程度慣れていることfamiliarity と、ある程度新奇なことnovelty の組み合わせということになる。音楽で言えば、例のカバー曲の話になる。「津軽海峡冬景色」をアンジェラ・アキがカバーしたものにしばらくハマったことがあるが、聞き慣れた(聞き飽きた)原曲を違う人が歌うことから生まれる新奇さがちょうどいいのである。それと同様に、これまで見慣れたはずの世界が違って見える時に興奮が生まれる。「わからないから面白い」ためにはそこに見慣れた風景が見えていなくてはならない。
見慣れた風景が必要な理由のひとつには、それが安心感を生むから、ということがあるかもしれない。人は慣れている刺激を再び与えられることで基本的には安心感を覚える。そしてそれは同時に退屈さを生む可能性もある。人の脳は基本的には危険な信号を察知することに特化しているから、これまでと同じ刺激は早速閾域下に移る。たとえばボタンを押すと面白い音を発する玩具があるとすると、何度かいじっているうちにその刺激になれて飽きてしまう。それが普通である。最初の新規性、意外性はすぐに馴化の対象になるから人は新しい刺激に向かう。そうやって人は世界を探索していく。すると世界はある程度慣れ親しみ、そこでは新しい刺激を得られない部分と、まだ探索していない部分とに分かれ、その中間の前線のような部分で私たちは生きている。そして普通は探索していない部分はあまり視野に入ってこない。少し知り、前線が進むことで広がってくる部分が興味の対象になってくる。
たとえばどんな例でもいいが、私にとってアルコールはなんら興味の対象ではない。味がわからないからだ。でももし私がもう少しがんばって(まず無理だが)修行を重ね、たとえば日本酒をおいしい、と思うことができたら、おそらくこんな世界があるのかと驚くはずだ。晩酌の味がわかるかもしれない。夜を徹して飲む、とか酒場をはしごする、ということの意味が変わるだろう。あるいは地方に出かけるとそこの地酒を味わってみたいと思うだろう。それまでたいていはコンビニの奥の一角に並んでいてその商品を手に取ることすらなかった瓶類が気になるかもしれない。それぞれの瓶に違う味わいを持った液体が入っていて、違う感動を与えてくれるかもしれないことに今気がついたとすると、そこにある品々はほとんどが私にとって「わからないけど面白い」対象として映ってくるようになる。





2019年3月16日土曜日

解離の心理療法 推敲 34



マナさんの自傷は、「見捨てられ不安」が刺激される場面で、彼を巻き込みながら生じていました。そのため、マナさんの自分自身を傷つけるような行為を目の当たりにした彼は、心配でそばを離れられなくなっていました。結果的に、マナさんは彼をつなぎとめておくことができました。そしてその意味ではいわゆる「二次利得(病気や症状によって得られる利益)」があったともいえるでしょう。面接を重ねていくうちに、マナさんのこうした振る舞いには、人との関係性で安心感を保つことが難しいような様々な背景があることがわかってきました。
自傷の目的は、耐え難い不安の解消にあり、マナさんは、それ以外の方法がみつからないほどにひっ迫した状況にありました。ただ結果として、彼を感情的に巻き込み、支配し、操作する、という側面も持つ、というのが、非解離性の自傷の特徴と言えます。いわゆるアクティングアウト(行動化)と呼ばれる行為も、そのようなタイプのものを指すと考えていいでしょう。それは常軌を逸脱した行為であり、周囲に迷惑をかけ、その意味でも周囲から非難される傾向にあります。
また、このタイプの自傷では痛みを伴うことが多いとされています。それゆえ、自己処罰的な意味合いを持つ一方、それ以上の苦痛を他者に与えられないようにするといった面を含んでいる場合もあると考えられます。さらにはこのエピソードを本人も記憶しているという事も、解離性の自傷とは異なる特徴です。
この様な非解離性の例をまず挙げたのは、自傷行為の一つのパターンをこれが示しているからです。そして多くの自傷行為がこの種の逸脱行為、非常識的な行為、行動化として受け止められてしまいかねないという問題があります。
  

2-2 解離性の自傷
 ここでも、まず症例を提示しましょう。

【症例】


こちらの例は、解離性の自傷行為の例として挙げられるものです。エリさんは、どちらかというと感情表現に控えめなところがあり、大勢で過ごすよりは、一人遊びや読書を好みました。また、幼い頃から継続して「想像上の友達」を持ち、解離傾向の高い少女といえました。エリさんの過去をさかのぼると、中学12年の頃も、教室をふらっと飛び出すということがあったことが分かりました。しかししばらくすると戻ってくるために、クラスメートはあまり気にかけていなかったようです。ただある時上履きのまま学校の外に出て行った姿を目撃されたこともあったと言います。
エリさんは、この自傷行為の後も、突然ベランダから飛び降りようとしたり、一度に大量の薬物を摂取したり、といった深刻な自傷を繰り返すようになりました。何が引き金になるのか明瞭でないことも多く、たいてい、ひそやかに実行されました。事後に傷跡を見て、心を痛める家族とは対照的に、エリさんは傷そのものの痛みをあまり感じてはいませんでした。エリさんは精神科医を受診し、解離性障害の診断が下り、心理師とのカウンセリングを開始しました。そして面接を重ねていくうちに、過去および現在の記憶の曖昧さから、いくつかの人格の存在も判明するようになります。
このケースに見られるように、解離性自傷の大きな特徴は、痛覚を伴いにくいこと、また、明確な記憶を持たず、行為の主体者という意識が希薄であるという点にあります。
  
2-3 非解離性自傷か解離性自傷か―共に根底には自尊心の低さ
 この表はレベンクロン著CUTTING―リストカットする少女たち (集英社文庫)から取ったものですが、解離性、非解離性の自傷を比較して考えるうえでとても参考になります。
実際の臨床場面では、この表のように非解離性か、解離性か、と明確に二分できないことも少なくありませんが、一般に、解離性自傷の方が、非解離性自傷より、習慣化し、徐々に方法もエスカレートしていくことが多く、深刻とされています。ただし他人の注意を引き留めるための、非解離性の自傷行為は、それがさらに深刻な自傷につながる場合には、対人関係を結局は損なうものになりかねません。その意味であまり[健康度が高い]とは言えない場合もあります。逆に解離性の場合、それが思春期に一時的に表れるものであるならば、それほど深刻なものとしてとらえる必要は必ずしもありません。
また、非解離性と解離性では、その行為が影響するところに他者を想定しているか否かという違いがあります。非解離性の自傷では、「操作的」「見捨てられ不安を刺激されて」と表現されるように、他者をおいたところでその行為が実行されることが多く、一方、解離性の自傷では、他者の存在そのものが想定されていないように見えます。それは解離性障害の発症経緯や、病態のありようからも理解できることでしょう。
 いずれのタイプの自傷であっても、根底に自尊心、自己価値の低さという問題があり、自傷によりバランスをとって生き残っている、個体としての死を免れているという側面があります。その意味で自傷に救われているともいえます。
しかし、自傷は、苦痛に対する応急処置であり、根本的な問題を解決させることはありません。体を「切る」ことで、苦痛の体験、記憶を一時的に「切り」離すことはできても、生々しい苦痛の体験は現在の自分を脅かし、過去のものとして、安らかに「成仏」してはいません。体験は心の奥底をさまよい続け、何かのきっかけで姿をあらわし、再びその人を圧倒します。
また、繰り返されることによって、自傷による苦痛の回避効果は薄れ、しばしば、より深刻な結果をもたらす自傷にエスカレートしていくことも大きな問題でしょう。そのためにどこかで自傷を手放すことが必要であり、その土壌として、自尊心を育てるような、他者との信頼関係が重要になってきます。この信頼関係の形成でも、解離性、非解離性、ふたつの自傷が最初に目指すところには少し違いがあります。非解離性の場合は、依存対象との安定した距離の持ち方が課題となる一方、より自己完結的な解離性の自傷では、他者とつながる、ということが大きな課題になります。つながること、助けを求めることさえも諦めているように見える解離性自傷の患者さんと関係を形成していくためには、治療者はじめ患者さんをとりまく周囲の人間は、その不安を理解した上で、侵入的にならず、諦めず、つながりを築いていこうとすることが必要だと思われ
ます。