2018年9月14日金曜日

刻印 推敲 4


3.自律神経系を介する症状 ― ポリベイガル・セオリー

トラウマは自律神経系を介して運動、感覚器官以外の様々な身体症状にかかっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、あるいは胃、腸管、肝臓、腎臓、膀胱、肺、瞳孔、心臓などの臓器、そして一部の感覚器官を支配している。自律神経系は通常は交感神経系と副交感(迷走)神経系の間で微妙なバランスが保たれており、人はその支配する器官を随意的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどにより自律神経のバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れる。
一例を挙げよう。職場のストレスを抱える人が、出勤の途中でめまいが起き、心臓がドキドキしたかと思うと汗が出てきて嘔気がする、などの症状を呈する様になる。症状の表れている器官は部位は特定できているため、彼は内科や眼科、耳鼻科などを受診するであろうが、それらの器官に異常は見られず、対症療法的な薬物が処方されたうえで経過観察ということになるだろう。しかしそれでも症状が改善しない場合は、彼は精神科や心療内科の受診を勧められることになる。これらの症状がどこまで職場のストレスなどの日常的な出来事に起因するかは明らかでないことも多いであろう。そしてこれらの症状は1のトラウマによるフラッシュバックの背景としても頻繁に見られる。ただし抑うつ症状その他の種々の精神疾患や心身症に伴うことも非常に多い。
この様に自律神経症状はトラウマにとって特異的とは言えないが、両者の関連性についての近年の研究に大きく貢献したのがメリーランド大学のポージス Stephen Porges 1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論(重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)である。ポージスは特に従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化そのほかを司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまう。これが背側迷走神経の機能である。そして第二の段階は交感神経系である。さらに第三の段階は、有髄迷走神経 myelinated vagus で、腹側迷走神経に相当し、これは哺乳類になって発達したものである。これは環境との関係を保ったり絶ったりするために、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類の迷走神経は、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部下垂体副腎系、オキシトシンとバソプレッシンの分泌、免疫系などと共に進化してきた。
これらの段階のうち、特に解離症状と関連が深いのが第一の段階である。つまり強烈なトラウマ状況におかれると、緊急事態の際の背側迷走神経による不動状態 immobilization が生じる。これは本来哺乳類に備わった防衛であり、それにより酸素の消費を温存すべく、生体が体の機能をシャットダウンしてしまう機制なのだ、また人間においては解離性の昏迷状態にも相当するであろう。
Porges, W. S (2011) The Polyvagal Theory. W.W. Norton & Company New York USA