VDKさんの本が来たが、とても分厚い。少しずつ読んでいこう。しかし452ページもある。日本語訳をした人も大変だったろうな。柴田裕之(やすし)さんというベテランのサイエンス系の翻訳者だ。本はVDKさんの自叙伝といったところがある。どのようにトラウマの問題に興味を持ったか、から説き始めるのだ。そのなかで32Pあたりになると、トラウマを追った人が、もとの場面に引き寄せられるプロセスが描かれている。彼がこの現象に興味を持ったのは、すでに1980年代である。一部の患者さんがトラウマ体験を語るときに非常に生き生きとすること、トラウマを与えた相手に再び引き寄せられること、トラウマから離れたときにものすごい空虚さを覚え、DVを含まないような恋愛関係が退屈で仕方なくなってしまうという。要するにトラウマへの嗜癖の問題だ。1970年代に Richard Solomon という人がいわゆる逆説的嗜好 paradoxical addiction という問題に取り組んでいた。結局はエンドルフィンの問題だ。脳内麻薬物質。苦痛な体験のときに脳内に出る麻薬物質が、ちょうど薬物をやったときと同じようにして人を虜にしてしまう。ちょうど皮膚の下に麻薬の入ったチュ-ブが植え込まれ、痛みの体験のときにそこから麻薬が放出されるとしよう。すると痛みが快感に代わってしまい、嗜癖につながる可能性がある。実際に慢性的な痛みに対して医師が処方した鎮痛薬がもとで麻薬中毒になる人がアメリカではたくさんいる。日本では決してないことだが、アメリカで親知らずを抜いたときに、歯医者さんがこともなげに「タイラノール#3」という麻薬入りの鎮痛剤を三日分出してくれたことがある。何かの激痛に苦しめられたときのために大事にとっておくうちにごみと一緒に捨ててしまったが、脳内麻薬物質はそれに似たようなことを、脳が勝手にしてしまうのだ。
2018年7月31日火曜日
2018年7月30日月曜日
解離―トラウマの身体への刻印 10
友田先生の本を読み進めるうちに、「トラウマによる脳の委縮」だけだと思っていた話が、「治療をすると脳の委縮が回復する。」となり、認知行動療法でも、薬物療法でもOK(つまり萎縮が回復する)ということになって行った。そういうことなんだ。例の一次視覚野の容量というのもかなり本質的な問題らしい。愛着障害のあるなしで左半球の一次視覚野が20パーセントも小さい、などの結果(p.96)をいったいどう理解したらいいのだろうか? 視覚野はもはや視覚以上の何かを担っているということだろう。
97ページあたりから、私が一番関心を持つ報酬系のことが書かれている。たとえば愛着障害の場合には、ゲームで点数を稼ぐ、というようなごく単純な実験でも、報酬系が正常児に比べて光り難い。つまり喜びをさほど味わっていないということなのだ。これがおそらくリストカットなどによる通常は異なる報酬系刺激に関連していると考えることは容易だろう。
友田氏の本には、勉強不足の私(書く目的でしか、読書しない)が知らないことをたくさん教えてくれる。子供に応用されるEMDRの形としての「バタフライハグ」(自分で自分をハグして、両方の手で左右をタッピング)。ヨーロッパでのオキシトシンの経鼻使用。(日本ではまだ認可されず。)そして豊富なケースが記載されて本が終わっている。
さてちょうどいいタイミングでヴァンデアコークさんの「体はトラウマを記憶する」が届いたが、かなり分厚い。さっそくスキャンしてアイパッドに。新幹線で読みながら帰ろう。
2018年7月29日日曜日
解離―トラウマの身体への刻印 9
私と同じ不安を抱いている人はいないのだろうか?
逆走している台風12号。このまま寒冷渦に沿って日本列島の周りをぐるぐる何度もまわらないという保証があるだろうか。
逆走している台風12号。このまま寒冷渦に沿って日本列島の周りをぐるぐる何度もまわらないという保証があるだろうか。
友田明美先生の「子供の脳を傷つける親たち」を引き続き読んでいる。
P.77以降この書に書かれていることは、精神科医としてはぜひ知っておかなくてはならないことだ。多くの研究者が、多くの犠牲者の協力を得ることで得られたデータである。
虐待を受けた子供では内側前頭前野や背外側前頭前野の体積が顕著に縮小していること。前者は感情や思考のコントロール、行動抑制に関係している。後者の障害は抑うつ気分を招いたり、素行障害を招いたりするという。
私が知らなかったのは、虐待を受けた子供で、一次視覚野(視覚情報がまず最初に飛び込んでくる脳の部位)の容積の減少が見られるということである。ある研究ではこれはワーキングメモリーに関わる問題であるという。というのもある記憶を短期間保持する場合に、視覚的な情報に依存する場合が多く、一次視覚野の体積の減少はこの機能を低下させるというのだ。さらに興味深いこと。虐待がどの年齢に起きたかにより、脳のどの部分が委縮するかという「感受期」が知られているという。それによれば記憶に関わる海馬は3から5歳、脳梁(左右半球をつないでいる部分)は9~10歳、前頭前野は14~15歳であるという。ここで少し想像をたくましくするならば、幼少時のトラウマは海馬の機能不全を介して解離の病理をより生みやすいであろうということだ。あともう一つ興味深かったのは、虐待により脳は萎縮するばかりでなく増大もするという。特に暴言を聞き続けた子供は、聴覚野の一部が増大するが、それはそこで正常に行われなくてはならなかった神経線維の刈り込み(剪定 pruning)が損なわれているためであると説明されている。ウーン、今日は勉強になった。「トラウマの身体への刻印」とは、具体的にはこのようなプロセスを経ているのである。
2018年7月28日土曜日
解離―トラウマの身体への刻印 8
私は思うのだが、トラウマが身体に刻印される、というのはやはり正確ではない。トラウマは脳に刻印される。それが身体症状につながるのだ。結局は脳なのだ。鬱で体がきつくなるのだってやはり脳が身体の感覚を統制する力が低下しているからである。トラウマの「脳への刻印」という言い方が一番正確である。
ということでトラウマによる脳の質量の変化。これもベストセラーの、友田明美先生の「子供の脳を傷つける親たち」(NHK出版新書)をもとに復習しよう。虐待を受けた子供で前頭前野内側部、右前帯状回の容積が減少しているという所見(p.77)。
2018年7月27日金曜日
解離―トラウマの身体への刻印 7
実はForrest
さんの論文、難解でとても困っている。話の内容は結局は人間が「自分Me」を集積していって「全体としての自分Global Me」 に向かう際に、その統合を担っているのがOFCなどの前頭前野である、という話だ。そしてその機能が侵された場合、人はある体験を統合することが出来なくなる。例えば健全な状況では、ある人Aさんのちょっと違った側面を「同じ人のいくつかの側面」としてとらえ、「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説がこのForrest先生のDIDの生成を説明する理論の骨子である。本当はもっと込み入っているけれど、簡単に言えばそういうことだ。ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか? しばらくは情報収集が必要だ。ということでひとまずこの論文を離れよう。
2018年7月26日木曜日
解離―トラウマの身体への刻印 6
とにかく続けよう。パットナムさんのDBM(離散的行動モデル)のことだ。彼は仮説は上げたが、その段階では、脳のどこがそれらの機能(たとえば行動を連続したものとして結びつけるのか)を担うのかが説明されていなかった。そして昨日も出てきたOFC(眼窩前頭皮質)が特別な働きをしているらしい。そこではある種の意識、autonoetic
consciousness というのが生成され、人が自分の体験を意識し統合するという。オートノエティック、記憶を具体的に思い出せる意識、などと訳されているらしい。一気に専門外に突入だ。ここら辺厄介なところは飛ばすが、OFCは様々な機能の中でも、抑制の機能を中心的に担う。出た! 例の「抑制」の問題だ。解離の病理は過剰で無軌道な抑制であるという説(何日か前に書いた)。あるまとまった体験を心の中で有するためには様々な細やかな抑制が必要になる。OFCは感情を抑制したり、自律神経を抑制したり、と様々な抑制に関わっているが、それは今の体験に集中し、まとめあげるためだ。これは私の想像だが、ある体験そのものはファジーでも、それを「~という体験をした」といえるためには、様々な部分を捨象したナラティブを作り上げなくてはならない。そのことを言っているのだろう。愛着研究でDタイプというのがあるが、子供は矛盾した不可解な行動を見せる。ある行動を始めては中断したり、衝動的な行動を見せたり。これも抑制システムの失調というわけだ。
2018年7月25日水曜日
解離―トラウマの身体への刻印 5
VDKさんの本がなかなか届かない。それをもとに依頼論文を書こうと思っていたのに。アマゾンなのになあ。来ない時は来ないんだ。そこで時間つなぎにいろいろ妄想を膨らませよう。DIDの成立の理論で少し脈がありそうなのが、1997年にパットナムが言い出した、いわゆる「離散行動モデルdiscrete behavioral model」 というやつだ。これをForrest 先生という人が数年を経て、眼窩前頭皮質 orbitofrontal cortex との絡みで論じた論文がある。(Forrest, K (2001) Toward an Etiology of Dissociative Identity Disorder: A
Neurodevelopmental Approach. Consciousness and Cognition 10;259-293) といってもかなり前の論文だけどね。
簡単に言うとこの眼窩前頭皮質(眉間の奥にある脳の部分、共感とか情緒交流などの話によく出てくる脳の部位。以下OFC)の機能が、虐待により非常に損なわれ、そのことにより行動依存的な自己像が統合されず、それがDIDの病理を生むという。DIDとはこの部分の失調、というわけだ。そして、例えば矛盾するやり取りの際に「側方抑制lateral inhibition」が生じることで統合できないというのだ。なんだこりゃ? 何かすごそうな概念である。側方抑制。全く意味が分からないが。ヤフー知恵袋によれば、「知覚に関するニューロンの性質の一種であり、
視覚について最初に報告されています。側方抑制は、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味します。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になります。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いのですが、このようなコントラストの認識が容易になります。」あ、あのことか。ある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。こんな例を挙げよう。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するということになるのだろうか? それが解離ということだろうか?
視覚について最初に報告されています。側方抑制は、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味します。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になります。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いのですが、このようなコントラストの認識が容易になります。」あ、あのことか。ある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。こんな例を挙げよう。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するということになるのだろうか? それが解離ということだろうか?
2018年7月24日火曜日
解離―トラウマの身体への刻印 4
フロイトの概念である事後性Nachträglichkeit, après coup) これもまた身体への刻印というテーマに結びついている。ちょっとコピペしてみる。
外傷的経験日本大百科全書(ニッポニカ)より フロイトがもっとも一般的な外傷的経験とみなすものは、幼児期に大人から性的に誘惑されたことを後年(思春期)になって思い出す経験である。しかし幼児期に誘惑を受けたというのは、思春期になってつくりだされた空想であって、実際に誘惑されたか否かとはあまり関係がないとも考えられる。この意味では、外傷的経験は実際の経験ではなくて、単なる空想の産物にすぎないともいえる。フロイトの意味での外傷的経験はあとから外傷としてつくりあげられる経験である。これを遡向(そこう)作用とか事後性という。彼は「ヒステリー症状は実際の記憶ではなく、記憶に基づいて打ち立てられた空想に由来している」と述べ、空想が主体にとっては心的現実であると主張した。いずれにしても、過去の外傷で現在の症状の病因を明らかにしようとすれば論理的には無理が生じてくるから、外傷的経験という概念は多義的な解釈をせざるをえなくなる。」
文中に「事後性」という言葉が出てくるが、要するにトラウマのもととなる何かがどこかに刻印されていて、後になりそれがトラウマとしての意味を与えられる、という意味である。では何がどこに刻印されるか、ということになると、それは身体、ということになるだろう。
文中に「事後性」という言葉が出てくるが、要するにトラウマのもととなる何かがどこかに刻印されていて、後になりそれがトラウマとしての意味を与えられる、という意味である。では何がどこに刻印されるか、ということになると、それは身体、ということになるだろう。
この事後性の概念は観念的でかなり分かりにくいが、このようにトラウマに結びつけると結構現代的な意味を帯びてくる。更にそれを解離との関連で考えると分かりやすい。トラウマは解離されたもう一つの心に刻印される。身体というわけでは必ずしもないのだ。
2018年7月23日月曜日
どうでもいい話
単なる雑感である。
あるところに論文を書いていて、査読でいろいろ指摘をされたのだが、考えさせられることが多かった。小此木先生が英文で書いているアジャセ・コンプレックスの記事があるが、それを論文中に引用したところ「アジャセについて書いた古沢先生の原著にあたっていないではないか!」と査読者からおしかりを受けた。確かにそうなので松木先生がお訳しになった古沢先生の論文を読んでみると、えー! 小此木バージョンと話が全然違っている!!! たとえば「母親を殺そうとして罰が当たったのか、アジャセはひどい臭いを発する皮膚病になってしまったが、そのジャセを許し、看病したのは、ほかならぬ母親だった」と小此木先生が書いてあるので、それを古沢先生の論文に探して確かめようとしたら、古沢先生はそんなことを書いていないのだ。逆に天国の父親(それもアジャセが殺したことになっているが)が自分を許してくれた、ということになっている。そこで精神神経誌に最近掲載された大宮司先生の論文を読むと、結局仏典のアジャセの話と古沢先生のアジャセの話と、小此木先生のアジャセの話がみんなかなり違う、ということが事細かに書かれている。そんな研究まであるんだ、と感心したが、結局誰を信じていいかわからない。(というよりはどの理論に基づいたらいいかわからない。)
学問の世界ってこんなもんなんだなあ。
あるところに論文を書いていて、査読でいろいろ指摘をされたのだが、考えさせられることが多かった。小此木先生が英文で書いているアジャセ・コンプレックスの記事があるが、それを論文中に引用したところ「アジャセについて書いた古沢先生の原著にあたっていないではないか!」と査読者からおしかりを受けた。確かにそうなので松木先生がお訳しになった古沢先生の論文を読んでみると、えー! 小此木バージョンと話が全然違っている!!! たとえば「母親を殺そうとして罰が当たったのか、アジャセはひどい臭いを発する皮膚病になってしまったが、そのジャセを許し、看病したのは、ほかならぬ母親だった」と小此木先生が書いてあるので、それを古沢先生の論文に探して確かめようとしたら、古沢先生はそんなことを書いていないのだ。逆に天国の父親(それもアジャセが殺したことになっているが)が自分を許してくれた、ということになっている。そこで精神神経誌に最近掲載された大宮司先生の論文を読むと、結局仏典のアジャセの話と古沢先生のアジャセの話と、小此木先生のアジャセの話がみんなかなり違う、ということが事細かに書かれている。そんな研究まであるんだ、と感心したが、結局誰を信じていいかわからない。(というよりはどの理論に基づいたらいいかわからない。)
学問の世界ってこんなもんなんだなあ。
2018年7月22日日曜日
解離―トラウマの身体への刻印 3
本が来るまでの間、もう少し続けよう。
「あなたが秘密を守って情報を押さえつけている限り、あなたは自分自身との戦争状態になります。最も大事なことは、自分が知っていることを自分が知ることを許すことです。(ヘンな日本語だな。原文は、The critical issue is allowing
yourself to know what you know.)そうすることはとてつもない勇気がいります。」
“Mindfulness
not only makes it possible to survey our internal landscape with compassion and
curiosity but can also actively steer us in the right direction for
self-care.”
あれ、また出てきたマインドフルネス。「マインドフルネスは、私たちが心の中の景色を同情と興味をもって見渡すことを可能にするだけではない。セルフケアのために正しい方向へと舵を切ることを可能にしてくれるのだ。」
でもなんでこんなに人はマインドフルネスを理想化するのだろうか? 私がおかしいだけだろうか?
ちなみにトラウマが身体に刻印される、ということと解離は一緒のことだろうか? おそらくそのように考えてもいいのだろう。チビの話に戻る。チビはトラックに巻き込まれた街角につくと、へたりこんだ。チビはおそらくその場所に来たことを自覚的に思い出したのではない。というのもその場所が近づくにつれてそこを避けようとしたり、くるりと踵を返したりしなかったのだ。(チビはよくそういうことをした。散歩をもう少し続けたいときは、家の方向に向かう道に入っていこうとすると、クルリ、ということがよくあったのだ。)チビはその街角で突然事故のことを思い出し、あるいは自覚的には思い出さなくても、そこでの景色が飛び込んで来るや否や、自分でも何が起きているのかわからないうちにへたりこむ、ということで反応したのだ。これは体が覚えていたということになるだろう。しかしそこで起きていたのは、身体を支える筋肉への信号が絶たれた状態、「腰を抜かした」状態だったのだ。そしてそれは通常は運動神経の興奮が起きる際に、それに対する抑制がかかるという現象であり、それは基本的には解離症状、というわけである。ここのところ、もう少し説明が必要だろうか。
イップスのことを思い出そう。投球動作をすると、その途中で抑制がかかり、その結果としてボールは明後日の方向に飛んでいってしまう。通常は興奮すべきニューロンに抑制がかかる。これが実は解離の本質と言える。なぜなら「通常は統合されている心身の機能が損なわれる」一番の原因は、神経細胞の過剰な興奮か、あるいはその抑制ということになるが、通常は解離における陽性症状は、抑制の結果として二次的に生じるからだ。そこが神経の過剰な興奮による疾患、つまりそれに対する安定剤の作用が期待できる疾患である統合失調症と異なる点だからなのである。そして実はその抑制は、運動神経にも、感覚神経にも、そしてそれ以外のあらゆる精神活動にも生じる。その意味では、「トラウマは身体に刻印される」という言い方は不十分であり、「トラウマは精神、身体に刻印される」という方が勿論正しいということになる。
2018年7月21日土曜日
解離―トラウマの身体への刻印 2
こんなエピソードを思い出す。昔うちの飼い犬チビが交通事故にあったことがある。うちの近くを散歩中にひょんなことで舗道から車道に急に飛び出し、通りがかったトラックの下に巻き込まれ、すんでのところで重症を負ったり、命を奪われたりするところだった。幸い足の関節を脱臼しただけで助かったチビは、その後再び散歩に出られるようになった。ところが同じ散歩コースをたどっていたチビは、事故があった街角に差し掛かると、ヘナヘナとそこにへたり込んでしまったのだ。どうやら「体が覚えて」いたようで、しばらくは立てなくなり、もうその散歩コースは避けるしかなくなってしまった。
人のケースよりはこのような場に出しやすいのでチビの例を借りたが、トラウマの記憶はこのような形で心に残りやすい。あるトラウマが起きると、それを思い起こさせるような刺激で、体の反応が再現される。もっといえば「心」はそれを思い出していなくても、である。つまりそのトラウマのことを心のレベルでは「思い出した」という実感がなくても、なのだ。
ここでわかりやすいスキーマを示す。これは実際にVDKさんが1980年代の論文で示し、大いにトラウマを扱う臨床家を啓発したのだ。
「記憶のうちエピソード記憶の部分は海馬が非エピソード記憶の部分(身体感覚、情緒反応など)は扁桃核がつかさどる。トラウマ記憶の場合は、扁桃核が強く刺激され、それが海馬の抑制を生み、エピソード自体の想起を難しくする。したがってトラウマ記憶のフラッシュバックは、身体感覚のみとなる。」
2018年7月20日金曜日
解離の本 38
実際の臨床場面では、非解離性か、解離性か、と明確に二分できないことも少なくありませんが、一般に、解離性自傷の方が、非解離性自傷より、習慣化し、徐々に方法もエスカレートしていくことが多く、深刻とされています。
また、非解離性と解離性では、その行為が影響するところに他者を想定しているか否かという違いがあります。非解離性の自傷では、「操作的」「見捨てられ不安を刺激されて」と表現されるように、他者をおいたところでその行為が実行されることが多く、一方、解離性の自傷では、他者の存在そのものが想定されていないように見えます。それは解離性障害の発症経緯や、病態のありようからも理解できることでしょう。
いずれのタイプの自傷であっても、根底に自尊心、自己価値の低さという問題があり、自傷によりバランスをとって生き残っている、個体としての死を免れているという側面があります。その意味で自傷に救われているともいえます。
しかし、自傷は、苦痛に対する応急処置であり、根本的な問題を解決させることはありません。体を「切る」ことで、苦痛の体験、記憶を一時的に「切り」離すことはできても、生々しい苦痛の体験は現在の自分を脅かし、過去のものとして、安らかに「成仏」してはいません。体験は心の奥底をさまよい続け、何かのきっかけで姿をあらわし、再びその人を圧倒します。
また、繰り返されることによって、自傷による苦痛の回避効果は薄れ、しばしば、より深刻な結果をもたらす自傷にエスカレートしていくことも大きな問題でしょう。そのためにどこかで自傷を手放すことが必要であり、その土壌として、自尊心を育てるような、他者との信頼関係が重要になってきます。この信頼関係の形成でも、解離性、非解離性、ふたつの自傷が最初に目指すところには少し違いがあります。非解離性の場合は、依存対象との安定した距離の持ち方が課題となる一方、より自己完結的な解離性の自傷では、他者とつながる、ということが大きな課題になります。つながること、助けを求めることさえも諦めているように見える解離性自傷の患者さんと関係を形成していくためには、治療者はじめ患者さんをとりまく周囲の人間は、その不安を理解した上で、侵入的にならず、諦めず、つながりを築いていこうとすることが必要だと思われます。
2018年7月19日木曜日
解離―トラウマの身体への刻印 1
いきなりこんなテーマだ。昔 van der Kolk先生が、“THE BODY KEEPS THE SCORE”という論文を書いた。それをモチーフにした同名の本が2014年に発行されている。これが売れているらしい。でもトラウマ関係者はVDKさんが同名の論文を1980年代に発表したことを知っている。
この本で書かれている印象的な文章を引用しているサイトがあったので、ちょっと訳してみる。
Traumatized people chronically feel unsafe
inside their bodies: The past is alive in the form of gnawing interior
discomfort. Their bodies are constantly bombarded by visceral warning signs,
and, in an attempt to control these processes, they often become expert at
ignoring their gut feelings and in numbing awareness of what is played out
inside. They learn to hide from their selves."
「トラウマを負った人は自分たちの身体の中にいながらも安全でないと慢性的に感じ続けている人だ。過去は内的な悩ましい不快感として生き続けている。彼らの身体は常に内臓からの警告にさいなまれ、それをコントロールしようとする中で、自らの直観を無視し、内的に起きていることについての感覚を麻痺させる。彼らは自分たちの自己から身を隠すのだ。」
うーん、彼らしい見事なレトリックだ。
2018年7月18日水曜日
解離の本 37
こちらの例は、解離性の自傷行為の例として挙げられるものです。エリさんは、どちらかというと感情表現に控えめなところがあり、大勢で過ごすよりは、一人遊びや読書を好みました。また、幼い頃から継続して「想像上の友達」を持ち、解離傾向の高い少女といえました。エリさんの過去をさかのぼると、中学1,2年の頃も、教室をふらっと飛び出すということがあったことが分かりました。しかししばらくすると戻ってくるために、クラスメートはあまり気にかけていなかったようです。ただある時上履きのまま学校の外に出て行った姿を目撃されたこともあったと言います。
(中略)
このケースに見られるように、解離性自傷の大きな特徴は、痛覚を伴いにくいこと、また、明確な記憶を持たず、行為の主体者という意識が希薄であるという点にあります。
2018年7月17日火曜日
解離の本 36
非解離性の自傷(マナさん、架空の症例)の提示(略)
マナさんの自傷は、「見捨てられ不安」が刺激される場面で、彼を巻き込みながら生じていました。そのため、マナさんの自分自身を傷つけるような行為を目の当たりにした彼は、心配でそばを離れられなくなっていました。結果的に、マナさんは彼をつなぎとめておくことができました。そしてその意味ではいわゆる「二次利得(病気や症状によって得られる利益)」があったともいえるでしょう。面接を重ねていくうちに、マナさんのこうした振る舞いには、人との関係性で安心感を保持しにくい、様々な背景があることがわかってきました。
自傷の目的は、耐え難い不安の解消にあり、マナさんは、それ以外の方法がみつからないほどにひっ迫した状況にありました。ただ、結果として、彼を感情的に巻き込み、支配し、操作する、という側面も持つ、というのが、非解離性の自傷の特徴と言えます。いわゆるアクティングアウト(行動化)と呼ばれる行為も、そのようなタイプのものを指すと考えていいでしょう。それは常軌を逸脱した行為であり、周囲に迷惑をかけ、その意味でも周囲から非難される傾向にあります。
また、このタイプの自傷では痛みを伴うことが多いとされています。それゆえ、自己処罰的な意味合いを持つ一方、それ以上の苦痛を他者に与えられないようにするといった面を含んでいる場合もあると考えられます。
この様な非解離性の例をまず挙げたのは、自傷行為の一つのパターンをこれが示しているからです。そして多くの自傷行為がこの種の逸脱行為、非常識的な行為、行動化として受け止められてしまいかねないという問題があります。
2018年7月16日月曜日
解離の本 35
2 自傷をどう見立てるか
以前は自傷行為は、どちらかというと対人操作性の高い、つまり自分にとって利する方向に他者を動かそうとする行為として理解することが一般的でした。その意味で自傷を境界性パーソナリティ障害(BPD)の一症状として理解する傾向が在りました。しかし、1994年に出版されたアメリカ精神医学会の診断マニュアル4)では、BPDの診断基準に、「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状」という一文が加わることになり、それ以降、BPDにおける自傷は必ずしも操作的な行動化だけではないということが、共通の認識となりました。自傷の数多い事例経験を持つレベンクロンは、自傷のありようから、「非解離性自傷症」と「解離性自傷症」とに分類するという、ひとつの見方を提示しています6)(表1)。この「非解離性」とされる自傷が、従来のBPDで言われていた「行動化としての自傷」に近い概念にあたります。レベンクロンで示された二つのタイプの自傷が、どのように異なるのか、次に見ていきたいと思います。
2018年7月15日日曜日
解離の本 34
解離と自傷行為
1 「先生、私の左足を切断してください!」
「身体完全同一性障害(BIID: Body Integrity Identity
Disorder」という病気があるのをご存知でしょうか?この病気は、自らの体の一部に幼少期から違和感を抱き、その部分を切断したいという願望に強迫的に支配される病気です。外から見るとなんの問題もない身体に対し、彼らは、“あるべきではない部位が備わっている”という違和感を長年に渡り抱き続けています。しかし、「先生、私の左足を切断してください!」と医療機関で訴えたとしても、健康な足を切断しようとする医師はいません。そのため、自分で足をドライアイスに長時間浸し、壊死を引き起こして切断するという危険な行為におよぶことになります。身体完全同一性障害の多くは四肢の切断願望を持つとされますが、中には、視力を失うことを幼い頃から希求し、排水管クリーナーを自らの目に流し込むことによってその願望を達成する人もいます1)。この病気の原因は、右頭頂葉の機能不全による神経疾患として説明する研究もあれば2)、より心理学的な面に原因を置く研究もあり3)、今でもはっきりとわかってはいません。他人の手症候群(alien-hand syndrome)などと同様、実際の身体部位と脳内の身体地図(ボディ・マップ)との齟齬、ボディ・マップ内の接続欠陥などに起因するという考えもあります。
身体完全同一性障害の報告はそれほど多いものではなく、また、この病気に伴う症状は狭義には自傷行為と言えません。しかし、人は痛みや不快を回避するものと一般に考えられる中、自ら身体を傷つけたいと願い、実際に傷つける人々が存在するという点、周囲を混乱させ、本人でさえも、その行動の意味を明確に説明できない点などは自傷とも共通します。自らの体を傷つけるという行為は、現在の精神医学にとって、いまだ多くの謎であると言えるでしょう。
解離性障害においても自傷行為は頻繁に認められます。そこで本章では、まず、自傷行為に関する理解を深め、解離に特徴的な自傷行為について考察していきたいと思います。
2018年7月14日土曜日
解離の本 33
5.解離への偏見に立ち向かう―詐病や演技との鑑別をめぐって
DIDと言われる人たちの中に詐病や演技が潜んでいることはないのか?という疑いをもつ人は多いことでしょう。一見疾病利得があるように見える場合はなおさらです。とはいえ、健康な人が何らかの目的のため人格交代の演技をし続けるのはそう簡単ではありません。明らかな詐病の場合は、専門家の前ではそれは早々に露呈します。
自分の知らない間に自分が行動してしまうという事実は本人にとってはかなり奇妙な出来事ですし、場合によっては極めて恐ろしく感じることもあるでしょう。そのようなことが起きているらしいということに気づいた当初は、自身でもそれを認めることができず、まして他者に打ち明けるのはかなりの勇気がいるものです。それが診断名を持つ障害であるということを専門家から告げられたとしても実感を持てないという方は少なくないでしょう。
解離性障害という診断を受け入れられないもう一つの理由は、それを自分の気持ちの弱さからくるものではないんだ」ということに後ろめたさを持つ傾向があるからです。人は「これは病気なんだ。甘えではないんだ」と考えることで、どこかにほっとする気持ちが生まれます。しかしその気持ちが今度は「自分は自分の責任を放棄しているのではないか?」という気持ちも生みます。つまり「病気であることに甘えているのではないか?」という気持ちがわくのです。その結果として解離性障害であることを受け入れがたいと感じるという現象が起きます。事実解離性障害の患者さんの多くが「自分は演技をしているのではないか? 本当は解離ではないのではないか?」という疑いを抱くものです。
2018年7月13日金曜日
解離の本 32
3.トラウマ記憶が蘇る事態
性被害など事件性のあるトラウマ体験をもつ患者さんでは、加害者の逮捕や訃報を受けて、辛い記憶を呼び覚まされることがあります。当時の体験が生々しく蘇ることで怒りや恐怖に苛まれると、時にはそれまで落ち着いていた状態が一気に悪化します。加害者が亡くなった後に、相手に怒りを突きつける機会を失ったという絶望や無力感に襲われる人もいます。加害者との接触やそれに関する情報を見聞きすることは、トラウマの再浮上につながり、患者さんを過去に引き戻すのです。
ただし幼少時に性的なトラウマを負わせていた人物が、のちになり告訴の対象となって、それを報道で知ったりすると、それが引き金になることもあります。
患者さんと加害者が以前から顔見知りで一定以上に親密であった場合には、相手に向けていた思慕や信頼を裏切れられたという傷つきで、トラウマ体験も一層深刻となります。
2018年7月12日木曜日
SP論文書き直し 14
Abstract
Introduction
In this study,
the author presents ideas about what he calls “shadowy personalities (SPs)”
i.e., destructive and aggressive, often masterminding parts of personality among
patients with dissociative identity disorder.
Objective
This study demonstrates
how these SPs manifest themselves, how they can be dealt with in various
clinical settings and how this notion adds to the understanding and treatment
of dissociative identity disorder.
Method
The author
seeks to conceptualize several types of SPs which manifest themselves
differently in clinical settings. Review of literature demonstrates how this
notion could be related to, and different from notions such as “persecutory
parts of the personality” and “controlling EP” proposed by past authors. Then a
case material is presented and implications of some psychotherapeutic approach
are further discussed.
Results
SPs are
demonstrated to have following features; anger/aggressiveness; difficulty being
identified, temporary appearance in critical situations and almost physically-felt
presence. The author then demonstrates some prototypical SPs, such as SPs with aggressor’s
voice, depressive and self-destructive SPs, SPs asserting themselves on behalf
of the host personality, and competitive SPs. A hypothesis of the way SPs are
formed is presented, primarily based on Ferenczi’s theory of the identification
with the aggressor. Three types of situations leading to the identification
with the aggressor are proposed: 1. a child identifies with the aggressive
aspect of the aggressor (i.e., “becoming” an aggressor), 2. a child identifies
with the internal image of oneself in the aggresor’s mind (i.e., aggression is
directed inward), and 3. a child identifies with a bystander (both in reality,
and fantasy) and aggression is used in support of himself.
Conclusion
The notion of SPs is
descriptive for its own nature as well as in the way that they are perceived by
other parts of personality. It was found that SPs were formed through different
types of identification with the aggressor, but their clinical manifestation
could be a mixture of features reflecting on all of them. The notion of SP is
experience-near for the patients and it can be used as communication resources
for the therapeutic couple in order to better understand each other and to focus
on the therapeutic orientation and goals.
2018年7月11日水曜日
SP論文書き直し 13
Discussion
6. Conclusion
In this study,
I presented some ideas about what I call SP and how it manifests itself, as
well as how it can be dealt with in clinical settings. Parts of personality
similar or equivalent to SPs have been documented and discussed by various
authors. While drawing on them I put together some of their specific features
and characteristics: anger/aggressiveness, difficulty being identified, temporary
appearance in critical situations and quasi-physical presence felt and
experienced by the individual.
Based on
Ferenczi’s theory of the IWA, three types of situations leading to the IWA are
proposed: where 1. a child identifies with the aggressive aspect of the
aggressor (i.e., “becoming” an aggressor), 2. a child identifies with the
internal image of oneself in the aggressor’s mind and aggression is directed
inward, and 3. a child identifies with a bystander (both in reality, and
fantasy) and aggression is used in support of the child.
I proposed
that delineation of the notion of SP could be beneficial clinically, as the
name SP reflects how (host parts of the) patients’ personalities experience
them. As many patients’ life centers around fear and concern about how to avoid
or deal with their own SPs, psycho-educational approach to other parts of the
personality using this notion can be of help in focusing on the therapeutic
goal. Although the clinical example demonstrates the way the patient’s SP was
directly contacted, I also underlined that whether or not to deal with SPs
directly depends largely on a therapeutic contexts. There could be many cases
where SP should be left dormant in order for the patient to stay functional.
2018年7月10日火曜日
SP論文書き直し 12
Direct handling of SPs
With these
caveat, therapist should be prepared to handle SP in a direct way, when
clinically warranted. If some SPs continue to haunt a patient’s life and would
not “settle down” or “go back to sleep”, they might need to be directly
contacted and appropriately handled - again, provided that both for the patient
and therapist. Occasionally, there might be clinical situations on an
outpatient basis where encounter with SPs occurs spontaneously and inevitably,
or even by necessity. Before I present a case material in one of the last circumstances,
I would like to state the conditions for handling SPs in a psychotherapeutic
setting.
The therapist must have established a good therapeutic alliance with an
identified SP that he/she intends to handle. SPs should also be cooperative
enough to maintain the therapeutic structure. The host personality must
be certain that the SP is not excessively disruptive or aggressive so that the
therapist or patient is never in any physical danger.
The
conditions in which the handling of an SP may be appropriate and therapeutic
can be summarized as follows.
An SP has been appearing frequently enough in the patient’s life for an extended period, and a continuation of that pattern in the near future is expected.
The SP is sufficiently cooperative with the therapist, and the host or SP itself can assure the therapist that any physically aggressive or disruptive behaviors can be avoided (or the therapeutic process should be suspended if any of such behaviors occur).
An SP has been appearing frequently enough in the patient’s life for an extended period, and a continuation of that pattern in the near future is expected.
The SP is sufficiently cooperative with the therapist, and the host or SP itself can assure the therapist that any physically aggressive or disruptive behaviors can be avoided (or the therapeutic process should be suspended if any of such behaviors occur).
The access
to the SP should be initiated tentatively at the beginning, and the process
should be postponed or given up if the patient’s functional level, such as the
level of agitation and frequency of the switching among parts of his
personality appear to be getting out of control.
The rationale for handling SPs that meet these conditions is as follows. If an SP establishes some communication with the therapist, the aggressive nature of the SP can be gradually modified and “detoxified,” probably in a similar way that traumatic memories are abreacted and become less salient through exposure therapy or eye movement desensitization and reprocessing (EMDR). Although there are many ways of explaining neurologically how exposure techniques work (Myers & Davis, 2007), I would like to consider the curative process of dissociative cases from the standpoint of memory reconsolidation (Okano, 2015). SPs are parts of an individual’s personality that have never had enough chance to express their feelings. Through experiences of expressing themselves, SPs’ traumatic memories can be reorganized, hopefully in such a way that they would no longer be reminisced intrusively or automatically.
The rationale for handling SPs that meet these conditions is as follows. If an SP establishes some communication with the therapist, the aggressive nature of the SP can be gradually modified and “detoxified,” probably in a similar way that traumatic memories are abreacted and become less salient through exposure therapy or eye movement desensitization and reprocessing (EMDR). Although there are many ways of explaining neurologically how exposure techniques work (Myers & Davis, 2007), I would like to consider the curative process of dissociative cases from the standpoint of memory reconsolidation (Okano, 2015). SPs are parts of an individual’s personality that have never had enough chance to express their feelings. Through experiences of expressing themselves, SPs’ traumatic memories can be reorganized, hopefully in such a way that they would no longer be reminisced intrusively or automatically.
Clinicians
should keep in mind that SPs should be treated in the most respectful manner. As
the TDSP suggests, the therapist should … [treat them]… by acknowledging and
respectfully addressing them”(p.312). If a clinician uses the words “shadowy
personality” to talk to them, these SPs should be given an explanation for such
a way of calling and try to get them understand that there is no pejorative
meaning and ask them if they prefer being called to in different way.
In this paper I would like to present a case
material in which such a direct contact with an SP was required.
2018年7月9日月曜日
SP論文書き直し 11
4. Implications for psychotherapeutic
approach
General
orientation
So far, I have
described a hypothetical process wherein different types of SPs are formed, using
some diagrams in order to make my points. I move on to discuss briefly how
understanding this process could inform therapists in handling SPs in their clinical
settings. The
International Society for the Study of Trauma and Dissociation (ISSTD)
recommends a phase-oriented treatment for DID (ISSTD, 2011). Generally, the approach
to the SPs focused in this study would fall under Phase 1, or “stabilization
and symptom reduction.” When a SP is attempting to express itself, allowing it
to do so in a safe and supportive environment may reduce the patient’s sense of
urgency and stress, as well as their persistent hearing of voices. However, contact
with an SP can also be considered a component of Phase 2 (“confronting, working
through, and integrating traumatic memories”; ISSTD, 2011), as it has
connotations of abreaction for both the SP and host personality and may allow
for working through the trauma memory, given that the SP’s verbal expressions
might be a reprocessing of some traumatic memories.
The
therapeutic approach of parts of personality equivalent to SPs, such as “persecutory
EP” ( van der Hart, et al., 2002) and “controlling EP” (Nijenhuis, 2017) have
been well discussed by their authors. Primarily, TDSP provides us with a quite informative
and accurate guideline in its description of “working with persecutory parts of
personality” (pp.311-313) and large part of my following discussion goes along
with it. Perhaps the most important initial part of the treatment includes
patient’s education. It is very useful to inform main parts of personality of the
nature of their SPs. TSDP states; “All parts of the patient should be educated
early in therapy as to the function of persecutory parts within his or her
personality system”(p.312) . the TSDP also stresses the importance of letting
the patients know “protective function” of these parts of personality. Compared
with other non-SP personality states, SPs are more difficult to access because
they often resist being called into therapeutic situations. As TDSP (2002) states,
SPs are “often unwilling to participate in therapy directly, and work “behind
the scences” to sabotage progress, which they regard as dangerous, as a threat
to a precarious balance of the inner system”(p.312). Partly in response to the
SP’s negativistic attitude, therapists also tend to be loath to handle them,
given their penchant for being destructive, aggressive, and revengeful.
One of my
patients (a teenage girl with DID) stated as follows; SP is kind of like a group of those who are taken away a chance to
voice their feeling. They were stopped from voicing whatever they feel,
especially anger. Other parts are not programmed to get angry, and that gets on
their nerves. Oh, that’s why they don’t bother to attend the inner meeting. They
know it’s not worth it, as they are going to be voted down by others anyway ….
In his discussion
of the therapeutic approach to the “controlling EP”, Nijenhuis stresses; “it
would be important to fully include all dissociative parts in the treatment”(p.530).
He also underlines that it is therapeutic to emphasize to other parts “how
important he [the controlling EP] and the other dissociative parts were”(p.530).
I fully agree with his even-handed and accepting approach to all the parts of
personalities, especially as whatever the therapist does or say can potentially
be observed behind the scenes by SPs. In a sense, a therapist could always be
facing SPs, at least indirectly in any clinical setting. However, as to whether
or not the therapist should directly address the SP is a difficult question, there
is no single answer. As TSDP (van der Hart, et a,. 2002) states “… [W]hether or
not the therapist should attempt to work directly with these parts … depends
upon the degree to which these EPs affect the personality system as a whole
early in therapy.” Keeping Safety in the patient and therapeutic relationship
is the name of the game in any therapeutic approaches of dissociative patients.
When an SP is expected to easily go out of control or become agitated to a
degree that the therapist cannot subdue or control them, any attempt to contact
the SPs directly in a therapeutic setting would be deemed inappropriate or
untherapeutic. The therapist should not be to blame if he become rather
protective of non-SP parts and try to keep them away from SPs if they are very
instigating and destructive. I consider that it is very important to listen to
the voices of non-SP parts of personality regarding how they can be confused
and threatened by the SPs, and stressing SP’s protective nature and suggesting
that they should be empathic with SPs should not deter them to ventilate their
negative emotions toward SPs. Although I cannot agree more with TDSP (2002) ‘s
stance that “the therapist must not avoid these parts, but rather be fully
engaged with persecutor Eps in order for treatment to be successful”(p.313), it
does not exclude a possibility that when SPs choose to stop being active and
become dormant, they sometimes should be left untouched and be given a space so
the patient’s functional level is secured. Again, whether or not to deal with
SPs directly/indirectly depends largely on a therapeutic context and the
clinician’s high level of judgement is required.
2018年7月8日日曜日
SP論文書き直し 10
それにしても線状降雨帯って、なんて迷惑なんだろう。関西が水没したらどうしよう。本当に心配だ。それにしても自然現象はミステリアスだ。
I will propose
some hypothetical ideas about the way SPs are formed in patients with DID. Perhaps
the most mysterious and enigmatic in DID is the process in which some parts of
a personality are formed in one’s mind which are experienced and observed as having
autonomy and their own subjective sense. These parts are certainly somewhere in
the individual’s psyche, but it might
be questionable if they are in the individual’s mind, as some of them act as though they are strangers and
antagonistic and competitive to the individual’s main personality state. Some
might reasonably wonder if this process can be described in terms of
internalization, identification, incorporation etc, as these analytic concepts are
primarily applied for internal objects for non-dissociating individuals. Nonetheless,
attempts have been made to explain and understand the mechanism behind the
presence of various parts of personality. “The structural theory of
dissociation” (van der Hart, et al, 2006) is one of the major theoretical
systems to delineate how dissociative parts are formed in the context of
Janetian theory.
3. The way SPs are
formed: a hypothesis
In this paper I would draw mainly on Sandor Ferenczi’s theory in his attempt
to describe the way some of the aggressor’s aspects get internalized in the
children’s mind (Ferenczi, 1932-33, 1952). Current authors such as Frankel (2002),
Howell (2014) and Schimmenti, A. (2017) base their ideas on Ferenczi’s concept of
the “identification with the aggressor” and discuss their views on the way that
persecutory parts of the personality are formed in dissociative patients. It
was Ferenczi who introduced the term “introjection” as “the opposite of projection”
and stated that “the neurotic helps himself by taking into the ego as
large as possible a part of the outside world, making it the object
of unconscious phantasies.”(Ferenczi, 1952, p40). In DID, this
process of “taking in” occurs in a very distinct way, perhaps not quite similar
to what “introjection” generally means as the opposite of projection. What is
introjected in the dissociative process is not simply in the form of some representational
“internal object”, but by far more “elaborated” and “emancipated” to the point
of having its own will and acting as an agent.
Howell, E. (2014) Ferenczi’s concept of
identification with the aggressor: understanding dissociative structure with interacting
victim and abuser self-states. American Journal of Psychoanalysis. 74,
(48-59)
Schimmenti, A. (2017). Traumatic
identification. Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational
Psychoanalysis, 11(2), 154-171)
Ferenczi, S (1952). First
Contributions to Psycho-Analysis The International Psycho-Analytical
Library, 45:1-331. London:
The Hogarth Press and the Institute of Psycho-Analysis.
2018年7月7日土曜日
SP原稿書き直し 9
1) An SP with an aggressor’s voice
Some
SPs may represent themselves as someone that the host personality actually met
and interacted with in the past, and who had some traumatic effect on the
person.
Short clinical example
(deleted)
2) A competitive SP
Some
SPs can be very competitive with the host personality, and may possess attributes
that differ considerably from those of the host, such as age and gender, which
makes the two personalities entirely incompatible.
Short clinical example
(deleted)
Some
SPs are characterized by a depressive and pessimistic affect that is entirely inconsistent
with the host personality’s usual mood.
Short clinical example
(deleted)
So
far, we roughly classified SPs into two categories: one exhibiting aggressive towards
the host, and the other exhibiting aggression to other people in support of the
host.
2018年7月6日金曜日
2018年7月5日木曜日
SP原稿書き直し 8
2)quasi-physical presence felt and experienced by the individual
Perhaps one of the unique natures of the SPs is that they are felt on a high perceptual and physical level. They are often felt “shadowy” not only figuratively, but “grayish” “like a shadow”, visually. Quite often SPs are experienced by main parts as alienating with persecutory and threatening nature. Sometimes SPs are felt so forceful and binding when they are active. Some host parts of personality state that when SPs become active, it feels like a violent outburst which came out of them. Even when they stay awake and watchful, they feel physically bound by a ghost, like in sleep paralysis.
2. Some prototypical SPs
In this section, I will demonstrate several types of SPs that I have observed in my clinical practice.
1) An SP that asserts itself on behalf of the host personality
Some SPs appear to manifest in order to express anger and aggression on behalf of the host personality, who seem unable to even feel or experience these affects during certain stressful or traumatic situations. As discussed later, This coincides with some author’s description of the “protective functions of some parts” (van der Hart, et al. 2006)
Perhaps one of the unique natures of the SPs is that they are felt on a high perceptual and physical level. They are often felt “shadowy” not only figuratively, but “grayish” “like a shadow”, visually. Quite often SPs are experienced by main parts as alienating with persecutory and threatening nature. Sometimes SPs are felt so forceful and binding when they are active. Some host parts of personality state that when SPs become active, it feels like a violent outburst which came out of them. Even when they stay awake and watchful, they feel physically bound by a ghost, like in sleep paralysis.
2. Some prototypical SPs
In this section, I will demonstrate several types of SPs that I have observed in my clinical practice.
1) An SP that asserts itself on behalf of the host personality
Some SPs appear to manifest in order to express anger and aggression on behalf of the host personality, who seem unable to even feel or experience these affects during certain stressful or traumatic situations. As discussed later, This coincides with some author’s description of the “protective functions of some parts” (van der Hart, et al. 2006)
2018年7月4日水曜日
SP論文書き直し 7
1) Temporary appearance in
critical situations
When
SPs appear, they typically remain for only a short period and disappear rather
quickly. If their appearance takes the form of stormy or violent behaviors, it
tends to last for an even shorter period. In this case, SPs appear to consume a
considerable amount of physical mental energy and get exhausted, literally unable
to “stay up” any more. These states are approximated to episodes of cultural-bound
syndromes characterized by sudden and violent behaviors, such as latah and amok.
This
condition is similar to episodes of sudden, incomprehensible violence or attack
by a single individual, which then subsides rather quickly, leaving the person amnesic
of the episode (Kon, 1996). The triggering factor for the appearance of SP
varies, but often it is related to reminders of some critical or traumatic
event in the past. The way in which SPs appear is reminiscent of the mechanisms
triggering flashbacks of past traumatic events occurring among patients with
post-traumatic stress disorder (PTSD).
2018年7月3日火曜日
SP論文書き直し 6
1) Difficulty being approached
and identified
One plausible
reason that SPs sometimes do not seem to have a distinct identity is that they
are not fully formed; in other words, they are not altogether “crystallized” or
“elaborated” (van der Hart et al, 2006) in their character formation. Often, they
appear in a trance-like or somnambulist state, or as a clouded consciousness lacking
the capacity to identify themselves or respond to particular questions asked by
clinicians. Another way of understanding this nature might be that in the
original scene of the aggression, the perpetrator tried to deny or obscure
his/her identity, either by denying his/her active involvement (“it didn’t
really happen”) r obscure his/her intention (“I never really meant it).sometimes
it is the very victim who refuses to identify the perpetrator’s identity (“it
was not my daddy who did it. Someone else that I don’t know did it.)
2018年7月2日月曜日
SP論文書き直し 5
Some features of SPs
Anger and
aggression are the primary components of SPs’ emotional expression. However, it
is often unclear to whom SPs are directing their anger. Indeed, they appear to
direct their anger in a rather indiscriminate fashion, such as yelling at or
lunging toward whoever is around them. However, it might also hurt the body of
the host personality, or even attempt to kill him/her, which ultimately means killing
itself.
It is worth noting
that SPs’ aggressiveness is typically accompanied by a lack of the same in the
host and other main personality states. Many parts of the personality seen
among patients with DID often do not know how to express, or even feel, angry
and frustrated. SPs might typically appear in situations where other people
have initially demonstrated aggressive behaviors or intrusiveness towards the host
personality. The host personality does not, however, typically intentionally
“summon” or “invite” the SP into the scene in response to aggression from others.
Instead, the host personality may become at a loss and thereby cause the SP to manifest.
The whole process occurs rather instantly and automatically.
It is worth noting that In the Studies of Hysteria (1895), Freud proposed an opposite view, that a
person intentionally and defensively mobilizes different parts of the personality
in such critical situations, and disagreed with Breuer’s non-dynamic view (a
“hypnoid state.”) that such a state occurs automatically.
2018年7月1日日曜日
SP論文書き直し 4
Thus, major DID researchers almost invariably recognized the presence of
SP-like figures in their work and call it “persecutor personality”. More
recently, in their theory of “Structural dissociation of personality”, van der
Hart and others (van der Hart, et al. 2006) most succinctly discuss this type
of personality in their description of the “persecutory EP” among other part of
personality.
“As EPs they [persecutory EPs] claim they are abuser, and not the abused,
and have the affects and behaviors of a perpetrator to varying degrees. In this
sensei, these EPs often cannot distinguish internal reality from external
reality”.(p82.)
They say that “[persecutory parts, those EPs that have identified with
perpetrator(s), are almost invariably present in chronically traumatized
individuals”. They also depicted the above-mentioned master-mind nature,saying “EPs
are often unwilling to participate in therapy directly, and work ‘behind the
scences” to sabotage progress (…) (p.312)
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