私の帰国は今から十数年前であるから、この様な職場の体質はずいぶん改善されているかもしれない。しかし依然として、自分の都合より集団の利益を第一に考えないという姿勢は、必ずその集団から何らかのネガティブな評価を受けるのだ。現在でも多くの小、中学校で、親がPTA(parent-teacher association)の活動に積極的に無報酬で参加することを求められ、そこで学校への忠誠や奉仕を請われているという現実がある。
私は帰国当時は、これらの体験をどのように理解することが出来るかに頭を悩ませてきた。一つ確かなことは、日本では自らの行動について、周囲からどのように思われるか、という他者からの視点に基づくかなり強固な判断基準を持っているということである。
I am aware that it has been long since I
returned to Japan, and things changed a lot. The ambiance in the workplace in
Jappanese corporates should be very different since then. But still,
their tendency of prioritizing the belonging group over the individual is still
deeply ingrained in Japanese mind. In can be found in school system. In many
elementary and middle schools, students’ parents are asked to participate and
contribute their time to the PTA(parent-teacher association)on a
volunteer basis. Many Japanese mothers feel that they do not have choice other
than to say “yes” to the request of participate in PTA activities. I was very
curious about this Japanese mentality which was in a stark contrast with
individually-based American society that I was so much accustomed. What seemed
to be certain was that Japanese have value standards based on how they are
looked at by others.
かつて日本の分析家小此木啓吾(1983)は、そのような日本人の行動を「他者志向的」と呼び、それが人からどう思われるかに基づく、他律的な恥の感情に基づくものとした。それは自分自身の持つ価値観から自らを判断する内発的、自律的な行動(自己志向的行動、小此木)とは明らかに異なるものとして論じた。(小此木啓吾(1983)「人間の読み方つかみ方」PHP研究所) 特に日本では個人が周囲から、あるいは所属する集団全体から何を期待されているかを想像し、それに応えるような行動を要請される傾向にある。
In the past,
Japanese psychoanalyst Okonogi (1983) stated that Japanese are typically “others-oriented.” He stressed
that in Japan, people strive to imagine what others expect of them.
2.相手の気持ちを読む器官としての「皮膚」
Skin as an organ to read other’s mind
日本社会には西洋にあまり存在しない表現がある。それは「空気を読む」(字義通りには、”read the air” となる)という表現である。辞書的には、 ”read the situation”,”take a hint” などと訳されることもあるが、いまひとつ語感を伝えていない。「空気を読む」とは、集団において、非言語的な想定や要求が生じていることを察知し、それに応じることである。たとえばある会議などで、席次などが定められていなくても、誰がどこに座るかについては暗黙のルールがある。いわゆる上座と下座という表現がそれを示す。それを無視して下座に座るべき人間が上座に座ると、その人はたとえおおっぴらに非難されないとしても、「空気が読めない人」という烙印を押されてしまい、その集団から疎まれる運命にある。
There is an expression in Japanese that does not have exact equivalent
in western languages: “to read the air” , which figuratively means ”to perceive
any unwritten messages” or ”take a hint” in a given interpersonal
situation. To read the air is to detect nonverbal nuance or assumption in a
group situation and respond appropriately to it. For example, in a given
meeting there is usually an assumption about who get seated where. There is
often an unwritten “seating rule” based on where upper seats are supposed to
be, that are usually in front of Tokonoma (alcove in a traditional Japanese room where art or flowers are displayed
recess). Those who are seated without taking account of the rule, that person
is regarded as someone “who cannot read the air”, meaning clueless and are
likely to be excluded from the group.
もちろん西欧社会でも同様の状況は生じるであろうが、日本においては非常に重要となる。食事を終えた際に誰がお金を払うか、という場合などでも的確にこれを読まないと、人の気持ちがわからないということになる。このような感覚はもちろん、相手の欲していることを読む場合の感覚と非常に近いことになる。すると、それを読むための一種の器官を想定してもいいであろう。
There could be unwritten
rules of a similar type in Western society, but that is much more conspicuous
in Japanese society. In still another example, after having a meal in group in a
restaurant, the same dynamics can be found regarding who is supposed to make a
payment for their expense. You need to be very sensitive to the air as to “who
should be honored to pay” 日本の精神分析家の鑪 (タタラ)幹八郎は「皮膚自我」という概念でこれに近いことを言い表している。彼の理論に「アモルファス自我論」というものがあるが、そこにこの皮膚自我という概念が登場する。彼はこれをディディエ・アンジューのいう皮膚自我 moi-peau とは別の文脈で着想し、論文化した。要するに日本人においては、社交的な文脈での皮膚が自我の重要な役割を占めるという理論だ。「顔色を伺う」という表現を見れば分かるだろう。相手の表情を見ながらこちらの表情を決める。A Japanese analyst
Tatara proposed the idea of “skin ego” in order to express similar
circumstances. This notion is found in his theory of “amorphous Ego” and he
came up with this idea independently from the concept of the same name (skin
ego= moi-peau) proposed by a French analyst Didier Anziew. In Japanese
community, a “social skin” has a lot of significance in human interactions. A Japanese
expression “read the face” of someone has the same idea.
これまで愛着理論の発展、そのまとめ
これを「愛着と精神療法」(デイビッド・J・ウォーリン著, 津島豊美訳 星和書店、2011年(David J. Wallin
PhD (2007) Attachment in
Psychotherapy The Guilford Press.)から圧縮してみる。
まず愛着理論の基礎は、なんといってもジョン・ボゥルビイとメアリー・エインズワースの二人三脚が、有名なストレンジシチュエーションの業績につながったという点や、いわゆる無秩序型愛着と虐待との関連についても重要なテーマとなりつつある。ここら辺は省略して先に進む。彼らの研究を引き継いだメアリー・メインの功績は非常に大きかった。彼女が打ち立てた「愛着研究における第2の革命」と呼ばれるもの、すなわち成人愛着面接(AAI)は特筆するべきだろう。これにより親は自分自身の親との関係に関する成育史を表現することになるのだ。ここできわめて注目すべきなのは、親のAAIによる分類が、子供のストレンジシチュエーション分類が安定型か不安定型かを75パーセントの確率で予見するということを実証したという点であろう。そしてそれに続くのがおなじみピーター・フォナギーである。彼の理論はボウルビィやメインとの個人的なつながりを通して形成されていった。そして当然ながらメンタライゼーション理論、間主観性理論やジェシカ・ベンジャミンの理論との関連を築いたのもフォナギーの功績と言えるであろう。
ところで最近の愛着理論のいくつかのトピックを挙げることもできるだろう。一つには愛着体験の多様性がある。すなわち愛着体験が子供の示す種々のパターンの相違によりどのように異なるかについての様々な議論があるのだ。そしてこの問題が重要なのは、一歳の時のストレンジシチュエーション分類と成人愛着面接AAIの分類に高い相関があるからなのだ。そして愛着関係がいかに自己を形作るのかというテーマがある。乳児の心理的運命は最初の愛着関係に依存するとし、メインの一次的、二次的愛着方略という概念を紹介する。後者については子どもは母親の対応によりそれを非活性化、ないし過活性化するという方略を発展させるとする。そして非活性化は回避型の乳児に、過活性化は両価型の乳児に見られるという。
非言語的体験と「未思考の知」」
このテーマに関しては、たとえばクリストファー・ボラスの「未思考の知」という概念について、それがエナクトメントとの深い関係があるとされている。エナクトメントにおいて表現されるのは、治療者と患者の共同作業によるシナリオが体験されたものであり、それがフロイトの「患者は思い出す代わりに行動化する」という表現に結びつけられる。
ちなみに「体験に対する自己のスタンス」 としては、三つの主要なスタンスがあり、それらは埋没、メンタライジング、マインドフルネスである。このうち埋没とはある体験に没頭した、いわゆる心的等価様式と同種のものとなる。そしてそこから解放する術としてのメンタライゼーション(反省的なスタンス)、マインドフルネス(今、ここに十分にあること)が用いられるのである。
愛着理論から見た病態の理解
愛着軽視型患者とは、強迫や自己愛およびスキゾイドからなる連続体の一部に位置するものについて、愛着理論から診断名を与えたものといえる。これは価値下げ型、理想化型、コントロール型に分かれ、それぞれ治療者に対する異なるかかわり方を示すという。また 「とらわれ型患者」 では、愛着軽視型患者とは対極にある患者として理解される。この「とらわれ型患者」は「感じることはできても対処ができない人々」と形容され、演技性~境界性パーソナリティ障害に対応する。そしてこのタイプの患者との治療的なかかわりについて考える際に、関係性、マインドフルネス、共感等の様々な議論が有用である。また 「未解決型患者」 で問題となる患者とは、成育史において外傷を経験し、その解決に至っていない人々である。その治療の際には患者の安全への恐れを克服し、外傷を言葉にすることを促し、マインドフルネスとメンタライジングを主要なツールとして用いると記されている。
愛着理論の臨床的応用
もちろん極めて重要なテーマである。端的に言えば、愛着理論に立った視点はいわゆる二者心理学や関係論的視点にきわめて近いということになる。少し極端な言い方をするならば、愛着理論は、治療者が新たな愛着対象になるということを意味するという(P286)。そして治療において安全基地が提供されることの重要性が論じられ、それは幼児期と同様、成人の精神療法においても重要であるという議論がなされている。そしてそれとの関係で参考となるのが、リヨンズ=ルースの親子コミュニケーションに関する研究である。
具体的な治療法として、愛着志向精神療法がある。それは以前の生育環境よりも調律されて内包的で、共同作業的な関係を生み出すことである。そしてそのために患者の明示的な言葉にではなく、エナクトされたものや非言語的コミュニケーションに現れたものを、どのように関係性の中で扱うかということに焦点が向けられる。またこれまでの精神分析を主とする治療法は、身体に十分な関心を払ってこなかった。そして愛着志向の枠組みは、それへの反省に立脚しているとされる。そして情緒は身体体験であり、そこに注意を向けるマインドフルネスの重要性が説かれる。また十分な愛着関係により、メンタライジングとマインドフルネスの力は育つが、不安定愛着や未解決の外傷により、患者は体験について考える力を失い、それに埋没する。すなわちメンタライジングとマインドフルネスは、体験からの脱没入のプロセスとして理解できるのだ。