精神療法における倫理
精神療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の隅々にまで関係してくる。まず簡単な事例を挙げておきたい。
ある夏の暑い日、汗だくになった30歳代のクライエントが、心理療法のセッションに訪れた。彼は近くのコンビニで買った二本のミネラルウォーターを袋から取り出して、一本をセラピストに渡そうとした。「今日とても暑かったので近くで買ってきました。先生もどうぞ。」それに対するセラピストは、少しこわばった顔で、「クライエントさんからは何もいただけないのです。それに・・・・」と、少し言いにくそうに付け加える。「面談室での飲食は禁止されているのです。」
このようなカウンセラーの反応は特に駆け出しのカウンセラーにはありがちな対応であろう。そこで問うてみる。このカウンセラーの行動は倫理的だったのだろうか?
もちろんこの問いに正解などないし、このセラピストの行動の是非を論じることが目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、このセラピストの行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を私たちは忘れがちだということである。それを以下に示す。
① クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
② 「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という原則に従った行動だったか?
私が長年のスーパービジョン体験から感じるのは、このうち②に関連した懸念がセラピストの意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「セラピストとして正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にあるセラピストの頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告しなくてはならないかもしれない。彼らには「それは治療者としてすべきではありません」と言われることへの恐れがある。そしてそれは多くの場合、①を検討する機会を奪うことにつながる。またもしクライエントが自分の気持ちを汲んでもらえなかったとしても、それを直接治療者に訴えかけることはあまり起きないかもしれない。その結果としてクライエントは気持ちを無視され、いたたまれない気持ちになってしまう可能性がある。
ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなる可能性があるが、そのことは臨床家の念頭にはないことが多い。それは1970年代より提唱されている、道徳的倫理か、慣習的倫理か、という分類である。その提唱者の代表である
Elliott
Turiel は、道徳的な決まりmoral rulesと慣習的な決まりconventional
rulesとの区別を挙げ、次のように説明する(Kelly, et al, 2007) 。「前者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るが、後者は地域や文化に依存し、守られなくても具体的な被害者は出ない。」
この分類は前出の①,②におおむね相当すると言えるだろう。そして臨床家が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなる可能性がある。もちろんこれら①、②の間に優劣の関係はない。これらは倫理の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。②を犯すことは、たとえば治療者として守るべき治療構造を揺るがすことになるだろう。しかし①を犯した場合には、目の前の患者が具体的な被害者となりうるために、臨床において重大な結果を生むことになるだろう。臨床家として常にこの二種類の倫理の存在を念頭に置くことはその治療関係を維持するうえでも極めて重要となるのだ。そしてその上で言えば、現在の心理療法の世界では、従来の慣習的な決まりを重んじる立場から、道徳的な決まりを重要視するという方向性が見られるのだ。
Turiel, E. 1979: Distinct conceptual and
developmental domains: social convention and morality. In Howe, H. and Keasey,
C. (eds), Nebraska Symposium on Motivation, 1977: Social Cognitive Development.
Lincoln: University of Nebraska
Press.
Kelly, D., Stich, S., et al (2007) Harm, Affect,
and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language, Vol. 22 No. 2
April 2007, pp. 117–131.
この慣習的論理から道徳的な論理への移行は、特に精神分析的な文脈において顕著にみられることを以下に示したい。