2017年8月1日火曜日

まだ「ほめる」に難航している ①

臨床場面でほめること

同じ部分を手直し中。永遠に続きそうだ。

さて臨床場面や臨床場面で「ほめる」ことについての考察はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。結論から言えば、親が子をほめるのと同様に、そこにも純粋な「ほめたい願望」が本質部分としてなくては、その価値が損なわれるであろう、ということである。ただし親子の関係とは異なり、治療者と患者のかかわりには別な要素が加わる。それは治療者がそのかかわりにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。有料の精神療法のセッションの場合は、患者との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。さらには治療者は相手と長い時間をすごし、相手と同一化しやすい。その結果として治療者は患者に対しては、治療関係においては親の子に対するそれに似た思いいれが生じておかしくない。
他方では、治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるために、職業的なかかわり以外ではドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。治療場面外での相手との接触はむしろ控えられ、そうすることが職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。おそらく技法としての「ほめる」もここに関与してくるであろう。患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「治療的」な配慮からほめるという事も起きるべくして起きるだろう。ただし臨床場面における「ほめる」には、複雑な事情が絡み、より詳細な議論が必要となる。
現代的な精神分析の観点では、治療者と患者の関係性の重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを同時に患者とともにいかに共有していくかが極めて重要となる。そしてもちろん「ほめる」という行為も治療者と患者の間のかかわりの一つとしてその意味が共有されることになる。しかし通常私たちが日常的に体験する「ほめる」はいわば単回性のやり取りである。継続的な治療関係の中での「ほめる」は、それそのものの価値や是非を問うべき問題というよりは、その行為自体がさらに分解され、吟味されるだろう。
さらには「ほめる」という行為の持つどこか「上から目線」的な雰囲気自体も問題とされよう。治療者と患者の関係は基本的には平等なものである。平等な関係においては本来「ほめる」ということはそのかかわりにおける意味を考えずに行われた場合にはエナクトメントとして扱うべきであろうし、場合によっては治療者の側のアクティングアウトとさえ呼ばれる可能性もあろう。
ここで具体例(と言っても架空のケースであり、私が想像して作り上げたものである)を挙げる。

ある患者Aさんが、最近週一回のセッションを休みがちになっていた。Aさんは遠方に住み、時間をかけて来院するため、治療者はそのことが関係しているのではないかと懸念していた。ところがここ1,2ヶ月はAさんは毎週来院できるようになったとする。治療者はその成果を嬉しく思い、「最近は毎回いらっしゃれるようになりましたね。よくかんばっていらっしゃいますね。」と「ほめる」としよう。特に問題のない関わりであり、治療者は自分の正直な気持ちを伝えたのだ。そしてそれを伝えられたAさんもその瞬間は嬉しく感じる。しかし心理療法では患者が治療者に何らかの成果をほめられ、患者の治療動機が更に増す、という直線的な流れとはならない部分が多い。Aさんの場合も、以前治療に来れなかった時は、治療者に対する複雑な気持ちを抱いていたことが原因であった。より具体的に言えば、治療者がいつも黙ったままで適切な反応をしてくれていない、と感じていたのである。しかしそれをうまく表現できずに治療動機を失いつつあるとする。それでもAさんはそのような自分に叱咤して毎回きちんと来ようと決めたのだ。しかしそれに対する治療者の「よくがんばっていますね」という言葉は、Aさんには治療者がただ来院することが治療の進展を意味するという単純な考えを示しているに過ぎないという気持ちを抱いた。そして結局治療者は相変わらずセッション中に黙っていることが多く、Aさんのそれに対する不満は変わらないのである。