「ほめる」の執筆が一向に「ほめられた」状態でない。まだ書き直しをしている
Stern’s unformulated experience and dissociation
There seems to be a “growing chorus of American thinkers”
“ who hopes to rescue dissociation from obscurity” in the theory of
psychoanalysis (Goldman, P338) and certainly Donnel Stern and Phillip Bromberg
should be two of the leaders of them.
Goldman, D: Vital
sparks and forms of things unknown in
Jan Abram (ed.) Donald Winnicott Today. The New Library of Psychoanalysis. Routledge, 2012.
Stern draws his basic stance on Sullivan’s work and
states “For Sullivan, dissociation, not repression, was the primary defensive
maneuver, because he understood the primary danger to be the revival of
intolerable experience, not the breakthrough of primitive endogenous fantasy
(p.653). Thus, Sullivan and interpersonal school theorists discuss dissociation
in the context of trauma theory. While interpersonal school is regarded as
somewhat out of fashion in the American psychoanalytic community, it was
actually ahead of the time in the context of the theory of trauma and
dissociation.
Donnel B. Stern:
Dissociation and Unformulated Experience: A Psychoanalytic Model of Mind (In Dell, Paul F. (Ed); O'Neil,
John A. (Ed), (2009). Dissociation and the dissociative disorders: DSM-V and
beyond., Routledge/Taylor & Francis Group, PP.654-666)
Stern’s basic stance is that dissociation is a defensive
process. He states: “…While dissociation is conceived in many ways in the trauma
literature, theories of dissociation tend to center around the idea of a
self-protective process that takes place when the events of life are beyond
tolerance” (p.653). Although there are some variations, current literature on
dissociation proposed by different authors can be called as the defense model
of dissociation. This model has some striking difference as well as similarity
when compared with Freud’s concept of dissociation in the Studies in Hysteria
(1895). Their difference is obvious, as Stern proposes dissociation as the main
defense mechanism whereas Freud thought repression was, but not dissociation. As
we saw above, when Breuer proposed the notion of the hypnoid state, roughly
equivalent to the dissociative state, Freud rejected the notion as it is not
dynamic, stating that repression should be the one as defense mechanism is mobilized
actively in order to fend off the uncomfortable material from the conscious.
However, there is obviously a similarity between Stern’s
notion of dissociation and Freud’s idea of repression, i.e., that current model
of dissociation considers it as a defense, different from what Breuer thought
that it occurs somewhat automatically when the traumatic event happens. This
issue of similarity between two models is to be discussed later as it is crucial
for the understanding a different notion of dissociation that I would like to
propose in this paper.
Current notion of dissociation proposed by
Stern and others is characterized by its unique understanding of what is not
conscious. Stern states: “Freud accepted without reservation the idea that the
mind -and, therefore, the unconscious is composed of fully formed contents”. “This
unconsidered belief derives from the deep and culture-wide assumption,
explicitly accepted by Freud (Schimek, 1975), that perception is a sensory
given, and that experience is therefore rooted in mental elements that come to
us already fully formed”. In this assumption, we believe that in the
unconscious there is some mental object, fully-formed but unrecognized, which
is to be unveiled through analytic process. Stern states that repression model
assumes that there is one truth in the unconscious which corresponds to one
objective reality. He calls it correspondence theory. Traditional
psychoanalysis has been strictly observing this notion. Stern calls this stance
the "correspondence" view of truth.
The way that Stern
conceptualizes what is unconscious is significantly different. In his theory of
dissociation, the meaning is created as it becomes conscious, whereas in
repression model, it was there as a repressed and in correspondent form. Stern
also says that dissociation is the opposite of creation. It is a way of not formulating
mental contents. In other words, dissociation is an unformulated experience.
This view of Stern appears to
be echoing Winnicott’s
idea that we saw above, that he considers that “what is dissociated is not experienced yet
by the individual” (Winnicott, 1963:91) . Sterns describes this queer nature of the
experience as “unformulated.”
In his discussion of the
classification of dissociation, he introduced the notion of passive
dissociation or dissociation in a weak sense vs. active dissociation or dissociation
in a strong sense. The former corresponds to the experiences of our not
directing our attention to certain mental contents, whereas the latter means
that we are averting our gaze from some mental contents for unconscious reason.
However, still these two types of dissociation remains in van der Hart’s type
(1) dissociation.
日本人にとっての「ほめる」
はじめに
「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではある意味でタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられるが、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりである。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な発想や介入は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、「欠点を探すんじゃなくていいところだけ見て、お前、すごいなと言ってやればいい」と語っている。(高橋尚子、小出義雄、阿川佐和子 阿川佐和子のこの人に会いたい 342 週刊文春、2000年6月1日号)いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「ほめる」ことはその重要な要素の一つとみなされる。また動物の調教の世界などでも、報酬を与えることが重要視される一方では、叱る、痛みを与えるなどのかかわりは問題外とさえ言われているようだ。
実際に私たちがあることを学習したり訓練したりする立場にあるとしよう。そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。「私はほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、おそらくパーソナリティ上の問題を疑われかねないだろう。ほめられることで人はこれまでの苦労が報われたと感じ、さらにやる気が出るものだ。ほめられた時に単にお世辞を言われたり、精神的に「甘やかされた」と感じることもあるが、むしろその逆の反応の方が一般的であろう。つまり私たちはほめ言葉をむしろ真に受け、自らの努力を正当に評価されたと感じるものである。だから儀礼上は人は過剰にほめ合い、お世辞を言い合うことで人間関係を円滑にしようと試みるのである。
このように日常的、社交的なかかわりにおいてはその存在理由や有効性が自明でありながら、治療者のかかわりとしては様々な議論を含むのが、この「ほめる」という行為なのである。
純粋なる「ほめたい願望」
まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や作品に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンの演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、大き目のコインを楽器ケースに入れたくなる。見事な論文を読んだら、その作者に「とても感動しました」と伝えたい。学生の発表がすばらしと思ったら、その思いを当人に知らせたくなる。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます!」と喜びの表情を見せたら、私も一緒に喜びたいと願う。しかしそのような機会が得られないのであれば、その気持ちをメッセージで一方的に伝えるだけでもいいのである。そこで私にはこの比較的単純でかつ純粋に思える願望を、とりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち皆が持っていて、それが「ほめる」という行為の基本にあると考えるのである。
ただしこの考えにはたちまち異論が予想される。「純粋な、というが、この願望はその他の願望が形を変えたものではないか? たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているのではないか? 人はほめることにより、相手に同一化してほめられるという身代わり体験をしているのではないか?」その可能性も否定できない。しかし「ほめたい」という願望がほめられたいことの裏返しとは限らない。ほめた相手に「そういうあなたも素晴らしいですよ」といわれたら当惑し、「いやいや、そう意味でほめているのではありませんよ」と言いたくなるだろう。私はこの純粋なる「ほめたい」は、むしろ誰かと一緒に何かを喜びたいという比較的単純な願望に近いような気がする。だからむしろファンの心理に近い気がする。将棋の連勝記録を伸ばして快進撃を続ける若手棋士のファンになってしまい、勝利を一緒に喜ぶというのもその類だろう。ただしこの場合は、ほめたい相手ははるか遠くの存在なので、心の中で「すごいね!」とほめることで終わるわけだ。
私は純粋なる「ほめたい願望」の一部は愛他性(利他性)から来るものであろうと考える。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。愛他性の原型は母親の子供に向ける気持ちに見出され、自己愛と複雑に絡み合っている。愛他性は程度の差こそあれ人が持っている基本的な感情であり、私たちが人助けをしたり、他人の幸福を喜びとしたりする体験を全く持たないという方がむしろ稀であろう。ある人の行為や作品に感動を覚えた場合に、それを当人に伝えることが相手の喜びや満足感をもたらすとしたら、それは比較的自然な愛他性の表現とも考えられる。
さて以上純粋なる「ほめたい願望」について論じたが、これが発揮されない場合には、その要因はたくさんあるであろう。たとえある人に「ほめたい願望」が生じても、ほめることに伴う様々な事情が、ほめることを思いとどまらせたり、その願望の存在を覆い隠したりするだろう。その理由の最大のものは羨望である。例えばある画家Aさんの絵画があなたの感動を呼ぶとする。しかしあなた自身も画家で、またAさんはあなたにとってライバル関係にあるという状況を考えよう。あなたはAさんにその絵画の出来を素直に賞賛する気持ちになるだろうか? しかもあなたは受賞経験その他の優れた実績があり、Aさんよりは「各上」という自負があったとしよう。するとAさんの絵画に対する感動が本物であるほど、あなたは強い羨望を掻き立てられ、素直にAさんに祝福の言葉をかけることはできないかもしれない。またもしあなたとAさんとの関係が最初から敵対的であるならば、「ほめる」などという願望は最初から起きない可能性ももちろんある。
技法ないしは方便としてのほめること
これまで純粋なる「ほめたい願望」について考えたが、その基本にあるのは作品や行為に対する感動であることは言うまでもない。しかし刺激の多い現代社会において私たちが純粋に感動する機会は少なくなってきている可能性がある。ましてや教育者や臨床家が出会う生徒や患者が生み出す作品や成果に感銘を与えられる機会はさらに限られるであろう。それでも私たちはほめるということを止めない。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならないからだ。ここに特別な特に感動は伴わなくても、ことさら教育的な配慮からほめる、という必要が生じる。さらには社会生活を営む上では、さらに表面的で儀礼的に「ほめる」ことが多い。これは社会的な関係をより円滑に進めるために、言わば方便として「ほめる」ということになる。ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の特殊な効果を与え、それが人間関係を高めるということは実際にあるだろう。
これらは技法的な「ほめる」行為と呼んで差支えないだろう。極端な言い方をすれば、必要に応じて、その効果を見込んだうえで「ほめる」ことである。これまでの言い方に従うのであれば、これは純粋でない「ほめたい願望」ということにもなろう。私は技法としてほめることについて考える際、つい思い浮かべてしまうイメージがある。水族館などでアザラシの芸を見ることがある。トレーナーはアザラシが一つの芸をやるごとに、ひっきりなしにエサの小魚を与えている。ほめることが検定の対象となったり、一種の技法となることを考えると、あのアザラシの魚と同じことを行っている気がする。もちろん私はそれが悪いと言うつもりはない。これらはこれらなりにその十分な機能を果たしているのであろう。ただ純粋な「ほめたい願望」によるものとの差異を認識しておくことは重要である。
ある患者Aさん(20歳代、男性)は、小学校3年の体験を今でも明確に覚えているという。その頃不登校がちだったが、9月から一念発起して登校を始めた。すると夏休みの宿題として提出した作文が特別な賞を与えられた。誇らしい気持ちで担任にお礼を言おうと向かった職員室で、担任がほかの先生に話すこんな声を耳にした。「Aの作文が特にいいというわけではなかったんですが、登校意欲を高めたいと思いまして…。」Aさんはこれを心の傷として今でも抱えているという。
Aの作文に賞を与えるという行為が、純粋な「ほめたい願望」から出た場合には起こり得なかった悲劇だろう。
さてここまでは純粋な「ほめたい願望」と技法としてほめることをもっぱら対置的に論じてきたが、ここで両者を一概に区別することもできないという点にも触れておきたい。人のパフォーマンスや作品に私たちが感動を覚えない場合、それをパフォーマンスや作品のせいばかりに出来るだろうか? 当然そうではないはずだ。考えてもみよう。作品の評価は、それを鑑賞する人がどのような好みを持つかにより大きく異なるであろうし、またその人がどの程度関心を持ってその作品を鑑賞するかにもよる。人は基本的には自己愛的であり、自分自身の達成にしか注意が行き届かないことが多い。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでようやくその価値が感じられることが沢山ある。妻に家事の多くをやってもらっている夫は、少し想像力を働かせばいかにそれが大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、夕食時には食卓に食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、それに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。「ほめる検定」が目指していることが、単に技法や儀礼にとどまらず、人に心から感謝することであるとしたら、実は「ほめる」ことを方便としてしか考えていない方が浅薄で想像力が欠如していることを意味しかねない。先ほどのアザラシの芸についても、トレーナーの人はこう言うかもしれない。
「魚が持つ意味を軽視してはなりません。魚はアザラシ君と私とのコミュニケーションなのです。いつも絶妙なタイミングで好みの小魚を差し出してあげることで、アザラシ君は私からの愛情を受け取っているのです。魚はその一つのカタチにすぎません。彼だって本当は魚が欲しくて芸をしているわけではありません。そう、彼は私の手から魚を貰ってくれているんです。人間でも『ありがとう』っていうでしょう。魚はそのねぎらいの言葉とおなじなんです・・・・・。」そういわれればその気にもなってくるのだ。
ともかくも純粋な「ほめたい願望」と技法としてのほめることは、一見対立的であっても、実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。
ところでこれまでは、ほめたいという願望や方便としてのほめることについて述べたが、一方のほめられたいという願望についてはどうであろうか?ほめたい願望を利他性との関連で考えた際に、人がほめて欲しいと願望することについては異論の余地がないと考えていた。「はじめに」で「ほめられることが嫌であるという人はかなり変わっている人であろう」と述べたが、ほめられることは自己効力感を高め、自尊感情を高める上で極めて重要な体験といえるだろう。人は一般に自分の存在を認められ、評価されることを渇望している。その意味では純粋な「ほめたい願望」を持ち合わせていない人でも、純粋なる「ほめられたい願望」が欠如する人を想定することは、それこそ自己愛を持ち合わせていない人を想定するようなものであろう。
日常生活や臨床体験から思うことであるが、人は方便として他人からほめられる際にも、それを純粋に、心からほめられたものとして理解する傾向があることはほぼ間違いがない。もちろん人によってはあらゆる賞賛を疑わしいと感じる人もいるが、他方では人は明らかに自分の業績や作品については贔屓目に見る傾向のほうが一般的である。これを私は「自己愛的な偏重narcissistic tilt 」と呼びたい。要するに自分の手になる成果はそれを割り増しして評価する傾向のことだ。「ほめられたい」は何か特別な報酬を得たい願望のように思われがちだがそうではない。それは「あるがままに、正当に評価してほしい」という願望なのだ。ほめられた人の反応は、「自分はそんなにすごかったのか?」という喜びよりは、「そうか、やはりこれでよかったのだ」という安堵の方が一般的であろう。
親が子をほめる
さて以下は各論であるが、これまでの議論を下敷きにして論じたい。
親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。思い入れだ。私自身の体験を踏まえて論じるのであるが、自分の子供の達成をどのように感じるかは、親がどれだけ子供に感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば私たちは、床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激しても、どこかの乳児がおぼつかない足取りで一歩を踏み出す様子を公園で目にしても、特別に感動することはないはずだ。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、全く違う体験になる。これまでの十数ヶ月の成長を毎日追ってきた親にとっては、わが子が初めて何にもつかまらずに踏み出した一歩は、すばらしい成長の証であり、偉業にさえ映るだろう。見知らぬ子とわが子で、どうしてここまで感動の度合いが異なるのだろうか? それは親がどこまで子供に思い入れ、どれほど感情移入をしているかによる。先ほど述べた「想像力」の問題と考えていい。この親による子への思い入れは、「同一化による思い入れ」と、「自己愛的な思い入れ」の二つに分けることが出来よう。
まずは同一化の方である。子供がハイハイしていた時は、親は自分も心の中でハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないのだ。
もうひとつは、自己愛的な思い入れである。子供が一人歩きをする姿を見た親は、自己愛を満足させる可能性がある。「さすがわが子だ、成長が早い」となるわけだ。
もう少し分かりやすい例として、わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を考えよう。それを聞いた親葉、子供のうれしそうな顔を見て、子供に成り代わって喜ぶだろう。こちらが同一化による思い入れだ。ところが親の頭に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」なども含まれているに違いない。もし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子の漢字ドリルの成績をほめながら、同時に自分をほめているのだ。こちらが自己愛的な思い入れということになる。
ここに述べた思い入れの二種類、つまり同一化と自己愛によるものがどのように異なるかは、次のような思考実験をすればよい。子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えるのである。子供に強く同一化する親なら、子供が零点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさに同一化するだろう。親にとってもその結果は我がことのようにつらいことになる。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見た時の反応は、そのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由したものとはいえない。親は何よりも子供により自分のプライドを傷つけられ、恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスク・ハイリターンとなる。ほめることは子供の心に莫大な力を与えるかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しかねないだろう。だから自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の教師は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたという。おそらくそれは正解なのだ。医師の仲間では、自分の子供の診察は、たとえ自分が小児科医であっても、信頼できる同僚の医師に主治医になってもらうという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れが診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろう。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように、親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。
ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。
もちろんそれ以外にも、親は先述の「方便として」ほめることも考えるであろう。本当は子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここでほめておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それにほめられることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではない。しかしほめる行為はおそらく純粋な「ほめたい願望」が本質部分として含まれるべきなのであろう。というよりは純粋な「ほめたい願望」が生じない親には、方便としてほめることの意味もまた極めて限定されたものになると考えざるを得ない。