2017年7月31日月曜日

自己愛の本を手直ししている

自己愛の原稿がとうとう本になりそうだ。喜ばしい。今最後の手直しをしているところだ。その一章の冒頭部分。
11章 大国と自己愛
本書ではこれまで基本的には自己愛的な「人」について論じてきた。ナルな人たちにはさまざまな種類がいる、ということをこれまで主張してきたわけである。でも、「これは少し自己愛的ではないか?」と思いたくなる「国」はいくつもある。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。だからこの章は、いわば番外編なのである。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に私が特に印象深く感じたものが二つあったので、紹介する。

① 発展した隣国を日本は受け入れるか……中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
 中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
 王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(読売オンライン、二〇一五年六月二七日)
この見解はどうだろう?私たちは、他国がいかに大国になろうと、基本的には大丈夫だろう日本はもともと小さな島国である。日本人は大きな国、強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国、日本に干渉をしてこない国なら大歓迎である。
それではもう一つ。
②中国、米を批判…「いわれのない脅威論を誇張」
 【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(読売オンライン、二〇一五年七月三日)

これなども米国からの相当の反発が予想されるであろう。ただしもちろん大国同士の自己愛の表現であるから、どちらかの是非を問うわけにはいかないだろう。ともかくも大国の報道担当の声明を聞くと、あたかも国同士の立場の主張が、対立する二人の人間の間の会話のような印象を与えるのも確かである。そこで本章では、国をあたかも人と見なして、そこに現れる自己愛問題について考えてみよう。

2017年7月30日日曜日

カオスの縁と弁証法(おおげさだ)

カオスの縁と弁証法

私たちはよくこのようなことを考える。この人は私のことを本当に思ってくれているのだろうか?それとも利用しているだけなのだろうか? たとえば私は最近あるお弟子さんと共同で仕事をした。彼はおそらくこう考えるかもしれない。「彼は単に私を利用しているのだろうか?それとも私を育ててくれようとしているのだろうか?」でも彼はそれに悩まないだろう。この問題が面白いのは、おそらく答えはどちらもあり、ということであり、そのことを知っているからである。
正常な倫理観を持つなら、人を利用したり搾取したりすることなかれ、という気持ちが自分が得をしたいという自然な願望とのバランスを取るだろう。するとお互いに利益になるように、ウィンウィンにするという原則に従うようになる。だからこれは一種の商取引と同じかもしれない。客はなるべく安く買いたい。売る側は高く売りたい。ただしその両者は他人の関係であり、私情は普通はあまり入らない。するとお互いに自分が得をした、という形で取引が成立するのである。
ここで一つ面白いことがある。私たちは「あのスーパーで高いものを買わされて、裏切り行為をされた。トラウマになった」ということにはならない。「あそこの魚屋さんは私のためを思って魚を売ってくれていると思ったのに、結局は自分たちが得をしたかったのだ。」とはならない。アメリカならすぐ返品するだけである。(日本にはこのシステムはないなあ。)ところが個人どうしお互いをかなり知っている場合には、そこに情が絡む。「お互いに相手のことを思いやり、相手の利益を第一優先にしている」という幻想が形成される。お互いに相手のためにやっている、と思い込む。これは実際におきうることである。母親が子供に何かをしてあげるとき、母親は子供に同一化し、ある意味で子供と一心同体になり、子供が喜ぶであろうと想像することをする。子供の体験は少なくとも母子関係においては、「誰かが自分のために何かをしてくれる」をデフォールトとするものだ。そんな馬鹿なことをと思われるかもしれないが、子供は与えられた状況を当たり前のものとして受け入れるように出来ているのであるから仕方がない。これを分析的には万能感という言い方をするが、子供は同時に自分に何でも与えてはくれない数多くの対象に囲まれているわけであるから、極めて限られた万能感といわなくてはならない。しかしこの「初期値」は決定的で、おそらく子供はそれ以後、「自分に自己犠牲的に何でも与えてくれるような母親」を髣髴させる対象としてしか安心して関係を結べないようになる。
ここに友人Aさんを考える。彼は私にいろいろなことをしてくれる。私のことを思ってそうしてくれていると思う。ところがAさんは自分の得になるからそうしていたと言うことがわかる。つまりAさんが母親的に、自分に同一化してくれて、その分私にしてくれることは「持ち出し」だったのだという幻想が崩れる。
このように考えると対人関係は自分を利すると他人を利するの境界線を揺れ動くというのがふつうのあり方であることが分かる。両者は弁証法的に常に動いているのだ。


2017年7月29日土曜日

「ほめる」にさらに難航している ③

ところで上記の例は、「ほめる」という行為が含みうる複雑な事情を表している。この事情は心理療法にとどまらないが、一応臨床場面に限って論じよう。治療者が「ほめる」という行為は、治療者が純粋な「ほめたい願望」に基づいて行ったとしても、相手に少しも響かない場合があるのだ。来院自体は患者にとって当たり前のことで、それを機会に近くでの買い物を楽しんでいるなどと言う場合を考えよう。「よくかんばって毎回いらっしゃいますね。」はクライエントにとってはほめ言葉としてまったく響かないどころか、むしろ後ろめたさを覚えさせるものかもしれない。ことになる。ほめ言葉として意味をなさないだろう。更には時間をかけて来院することには特に苦はないが、セッション中に何を伝えていいかが分からなくて四苦八苦している患者にとっては、来院そのものをほめられることの意味は少ないであろう。来院すること自体に非常に苦労し、その苦労を治療者に分かって欲しい場合にはじめてこの言葉はほめ言葉としての意味を持つのである。
ただし治療者が患者の来院そのものを成果と感じ、喜ぶ場合には、それを伝え、その患者の感じ取り方を含めて考えていくことは、むしろその治療者にとって意味がある可能性は無視できない。本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。それは患者と共有されていると思う限りにおいて口にされることで患者の治療意欲を大きく高めるであろう。たとえ患者がその喜びを当座は感じていなくても、将来きっと役立つであろう試練を味わっていると治療者が思う場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。
最後に治療者がほめることの技法部分についても付け加えたい。これは特に治療者が感動しなくても、ほめることが患者にとって必要である場合にそれを行うという部分である。私がこの技法としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。先ほどのAさん例をもう一度使おう。この場合は患者の治療意欲は十分であったが、体調不良や抑うつ気分のせいで、セッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」
本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。


2017年7月28日金曜日

「ほめる」にさらに難航している ② 大文字のD 書き直し ⑩

さて臨床場面や臨床場面で「ほめる」ことについての考察はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。結論から言えば、親が子をほめるのと同様に、そこにも純粋な「ほめたい願望」が本質部分としてなくては、その価値が損なわれるであろう、ということである。ただし親子の関係とは異なり、治療者と患者のかかわりには別な要素が加わる。それは彼らがそのかかわりにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。有料の精神療法のセッションの場合は、相手との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。さらには治療者は相手と長い時間をすごし、相手と同一化しやすい。その結果として患者に対しては、親の子に対するそれに似た思いいれも強まる可能性がある。
ただし他方では治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるということから、職業的なかかわり以外ではドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。職業外での相手との接触はむしろ控えられ、そうすることもまた職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。おそらく技法としての「ほめる」もここに関与してくるであろう。患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「治療的」な配慮からほめるという事も起きるだろう。
ただし臨床場面における「ほめる」には、複雑な事情が絡み、より詳細な議論が必要となる。現代的な精神分析の観点では、治療者と患者の関係性の重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを同時に患者とともにいかに共有していくかが極めて重要となる。患者の達成や進歩に対して治療者がいかなる気持ちを抱くかを伝えることもまた、患者が自らを知り、治療者の目にどのように映るのかを知る上で非常に重要となる。
「ほめる」という行為も治療者と患者の間のかかわりの一つとして考えられるべきである。通常私たちが日常的に体験する「ほめる」はいわば単回性のやり取りである。しかし継続的な治療関係の中での「ほめる」は、もはやそれそのものの価値や是非を問うべき問題というよりは、いかにその素材が扱われるかがより問題となるのだ。さらには「ほめる」という行為の持つどこか「上から目線」的な雰囲気そのものも問題にされるであろう。治療者と患者の関係は基本的には平等なものである。平等な関係においては本来「ほめる」ということはそのかかわりにおける意味を考えずに行われた場合にはエナクトメントとして扱うべきであろうし、場合によっては治療者の側のアクティングアウトとさえ呼ばれる可能性もあろう。
ここで具体例(と言っても架空のケースであり、私が想像して作り上げたものである)を挙げる。

<架空なのに、架空の患者さんのプライバシーを考慮して省略> ← これってやはりおかしいだろう。

このかかわりを考えた場合は、治療者の「ほめる」はかなり治療者の思い込みや自己愛に関連したものとなり、「ほめる」本来の役割さえも果たしていないことになる。それよりは、たとえ「ほめる」部分を含んだとしても、次のような治療者のかかわりの方がより適切ということになるだろう。
「あなたが治療に毎回来院できるようになっていることは喜ばしいと感じますが、あなたはどのように感じますか?」
これは治療者がAさんの毎回の来談を歓迎している一方で、そのことをAさんはどのように考えているのか、Aさんは自分とは異なる体験をしているのではないか、という顧慮を示していることになる。もちろんこれをきっかけにAさんが治療者への複雑な思いをすぐに語れるというわけではないであろうが、少なくとも治療者が毎回の来院イコール改善という単純な考えに留まってはいないことを暗に伝える役割を果たすであろう。これに対してAさんが「そこをほめられると複雑な気持ちがするのです・・」と語り出したとしたら、そこから真の治療的なかかわりが始まると言っていいだろう。Aさんをほめたいというのはあくまでも治療者の主観的な体験であり、それがAさんの体験といかに異なるかという違いを照合することが治療的な意味を持つのである。すでに述べたが、「ほめる」はそれ自体がエナクトメントであり、「ほめっ放し」は相手の感じ取り方との照合の部分をおざなりにする可能性があるのだ。


大文字のD 書き直し ⑩
Dissociation with capital “D”

As I stated earlier, what I would like to attempt in this communication is to expand the understanding of dissociation that Stern and Bromberg are proposing, so it can be applied more widely to those suffer from dissociative pathology. Their work went back to the origin of psychoanalysis, and proposed the re-examination of the very notion of repression stated by Freud. The notion of dissociation in the history of psychoanalysis was not clarified, left alone, or remained “unformulated.” They then recovered the notion of dissociation, drawing on the works of Winnicott, Sullivan, and other authors. It was to their great merit that they provided a new narrative for the notion of dissociation based on the theories of Winnicott and Sullivan. However, while they summed together non-conscious and unformulated part of the mind as dissociative, they seem to have overlooked a point: That is that their theories are based on an assumption that there is only one subjectivity which is involved. 
If we consider the experiences of patients with DID (dissociative identity disorder), my point can be readily taken. What has not been experienced and not formulated for a subject (S1) could have been already experienced and formulated for another subject (S2, or another part of the personality). Stern states that “not-me” described by Sullivan is basically maintained as unformulated experience (D660). However, when Sullivan referred to a dissociated part as “not-me”, it might be “not-me” for the S1, but it might
be “me” at the same time for S2.
According to Stern’s understanding, severe trauma is often what has not been experienced and therefore, dissociated. That is true for the S1 who is present at this moment. However, this theory does not necessarily preclude a possibility that somewhere else in his psyche another subject, S2 has been present and has already experienced that trauma. Stern and Bromberg simply did not take that possibility into consideration. Current psychiatry clearly indicates with evidence that that seems to be what is happening in patients with DID. Existence of another subject in dissociative condition is clearly documented in the psychoanalytic literature, as early as the Studies on Hysteria. Let us take Anna O, described by Joseph Breuer, as an example.
She now spoke only English and could not understand what was said to her in German.
In one subject state, Anna O only spoke English and German that she was addressed to was not “formulated” and understandable. However, Anna in the normal state, English phrases are foreign to her and more or less “unformulated”. Here, we are invited to assume that there be another notion
of dissociation, which might need to be indicated as DISSOCIATION or Dissociation in comparison with dissociation that was delineated by Stern and Bromberg.
Summary
In this paper we discussed the meaning of the notion of dissociation and the role it takes in the literature as well as clinical practice in psychoanalysis. In the history of psychoanalysis, the notion of dissociation has been under the shadow of the model of repression, Recent studies on dissociation draw on the past studies of dissociation done by multiple psychoanalytic thinkers and make it into more clinically useful ones. However, the author considers that the notion of dissociation is omitting one point,
which is that the unformulated and un-experienced dissociative part can be actually formulated and experienced by another subject of the same person. I proposed the notion of Dissociation which can covers this state so the theory can really be applied for wide range of dissociative pathology.



2017年7月27日木曜日

大文字のD 書き直し ⑨

Brombergs notion of enactment in relation to dissociation

Similar to Sterns stance, Bromberg asserts that the issue of trauma is crucial in understanding human mind and its pathology and dissociation plays a significant role in this context. Deeply steeped with the work of Sullivan, he considers dissociation as a mechanism mobilized where drastically incompatible emotions or perceptions are required to be cognitively processed within the same relationship” (Bromberg, 1994, p520) 
Bromberg made it clear that although the notion of conflict has been playing an important role in neurotic people, dissociative patients suffers from not having it. However, he would not abandon the notion of conflict as it is experienced constantly by us. He would rather state that conflict and dissociation are in a dialectic relationship.  
Bromberg considers that trauma continuously occurs throughout developmental stages. According to him, due to trauma, a part that Sullivan referred to as not-me grows, and in a therapeutic environment that is safe, but not too safe(2012, p.17), that not-me part gets integrated  to the  system by dealing with enactment. Thus, Brombergs work on dissociation was characterized by its introduction of the enactment in its context. Through enactment what has been dissociated is experienced and gets integrated to the self. In a therapeutic relationship, the therapist can experience a part in the patient which is enacted, while what is dissociated and get enacted by the therapist can be experienced by the patient. 
Thus, Bromberg considers dissociation as basically an interpersonal phenomena (1996). This, however, assumes that what is dissociated is still within the individual somewhere in his/her mind which is conveyed to the other in a projection-like mechanism. In other words, Brombergs interpersonal model of dissociation remains still on the level of van der Harts type (1) dissociation.  

Bromberg, P (1994) “Speak! That I May See You”: Some Reflections on Dissociation, Reality, and Psychoanalytic ListeningPsychoanalytic Dialogues, 4(4):517-547,P520
Philip M. Bromberg, (1996). Standing in the Spaces: The Multiplicity Of Self And The Psychoanalytic RelationshipContemporary Psychoanalysis, 32:509-535
Bromberg,P (2012) The Shadow of the Tsunami, Routledge.


2017年7月26日水曜日

大文字のD 書き直し ⑧ 「ほめる」にさらに難航している ①

「ほめる」の執筆が一向に「ほめられた」状態でない。まだ書き直しをしている

Stern’s unformulated experience and dissociation

There seems to be a “growing chorus of American thinkers” “ who hopes to rescue dissociation from obscurity” in the theory of psychoanalysis (Goldman, P338) and certainly Donnel Stern and Phillip Bromberg should be two of the leaders of them.
Goldman, D: Vital sparks and forms of things unknown  in Jan Abram (ed.) Donald Winnicott Today. The New Library of Psychoanalysis. Routledge, 2012.
Stern draws his basic stance on Sullivan’s work and states “For Sullivan, dissociation, not repression, was the primary defensive maneuver, because he understood the primary danger to be the revival of intolerable experience, not the breakthrough of primitive endogenous fantasy (p.653). Thus, Sullivan and interpersonal school theorists discuss dissociation in the context of trauma theory. While interpersonal school is regarded as somewhat out of fashion in the American psychoanalytic community, it was actually ahead of the time in the context of the theory of trauma and dissociation.

Donnel B. Stern: Dissociation and Unformulated Experience: A Psychoanalytic Model of Mind (In Dell, Paul F. (Ed); O'Neil, John A. (Ed), (2009). Dissociation and the dissociative disorders: DSM-V and beyond., Routledge/Taylor & Francis Group, PP.654-666)

Stern’s basic stance is that dissociation is a defensive process. He states: “…While dissociation is conceived in many ways in the trauma literature, theories of dissociation tend to center around the idea of a self-protective process that takes place when the events of life are beyond tolerance” (p.653). Although there are some variations, current literature on dissociation proposed by different authors can be called as the defense model of dissociation. This model has some striking difference as well as similarity when compared with Freud’s concept of dissociation in the Studies in Hysteria (1895). Their difference is obvious, as Stern proposes dissociation as the main defense mechanism whereas Freud thought repression was, but not dissociation. As we saw above, when Breuer proposed the notion of the hypnoid state, roughly equivalent to the dissociative state, Freud rejected the notion as it is not dynamic, stating that repression should be the one as defense mechanism is mobilized actively in order to fend off the uncomfortable material from the conscious.
However, there is obviously a similarity between Stern’s notion of dissociation and Freud’s idea of repression, i.e., that current model of dissociation considers it as a defense, different from what Breuer thought that it occurs somewhat automatically when the traumatic event happens. This issue of similarity between two models is to be discussed later as it is crucial for the understanding a different notion of dissociation that I would like to propose in this paper.
  Current notion of dissociation proposed by Stern and others is characterized by its unique understanding of what is not conscious. Stern states: “Freud accepted without reservation the idea that the mind -and, therefore, the unconscious is composed of fully formed contents”. “This unconsidered belief derives from the deep and culture-wide assumption, explicitly accepted by Freud (Schimek, 1975), that perception is a sensory given, and that experience is therefore rooted in mental elements that come to us already fully formed”. In this assumption, we believe that in the unconscious there is some mental object, fully-formed but unrecognized, which is to be unveiled through analytic process. Stern states that repression model assumes that there is one truth in the unconscious which corresponds to one objective reality. He calls it correspondence theory. Traditional psychoanalysis has been strictly observing this notion. Stern calls this stance the "correspondence" view of truth.
The way that Stern conceptualizes what is unconscious is significantly different. In his theory of dissociation, the meaning is created as it becomes conscious, whereas in repression model, it was there as a repressed and in correspondent form. Stern also says that dissociation is the opposite of creation. It is a way of not formulating mental contents. In other words, dissociation is an unformulated experience.
This view of Stern appears to be echoing Winnicotts idea that we saw above, that he considers that what is dissociated is not experienced yet by the individual (Winnicott, 1963:91) . Sterns describes this queer nature of the experience as unformulated.  

In his discussion of the classification of dissociation, he introduced the notion of passive dissociation or dissociation in a weak sense vs. active dissociation or dissociation in a strong sense. The former corresponds to the experiences of our not directing our attention to certain mental contents, whereas the latter means that we are averting our gaze from some mental contents for unconscious reason. However, still these two types of dissociation remains in van der Hart’s type (1) dissociation.



日本人にとっての「ほめる」 
はじめに

「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではある意味でタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられるが、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりである。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な発想や介入は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、「欠点を探すんじゃなくていいところだけ見て、お前、すごいなと言ってやればいい」と語っている。(高橋尚子、小出義雄、阿川佐和子 阿川佐和子のこの人に会いたい 342 週刊文春、2000年6月1日号)いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「ほめる」ことはその重要な要素の一つとみなされる。また動物の調教の世界などでも、報酬を与えることが重要視される一方では、叱る、痛みを与えるなどのかかわりは問題外とさえ言われているようだ。
実際に私たちがあることを学習したり訓練したりする立場にあるとしよう。そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。「私はほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、おそらくパーソナリティ上の問題を疑われかねないだろう。ほめられることで人はこれまでの苦労が報われたと感じ、さらにやる気が出るものだ。ほめられた時に単にお世辞を言われたり、精神的に「甘やかされた」と感じることもあるが、むしろその逆の反応の方が一般的であろう。つまり私たちはほめ言葉をむしろ真に受け、自らの努力を正当に評価されたと感じるものである。だから儀礼上は人は過剰にほめ合い、お世辞を言い合うことで人間関係を円滑にしようと試みるのである。
このように日常的、社交的なかかわりにおいてはその存在理由や有効性が自明でありながら、治療者のかかわりとしては様々な議論を含むのが、この「ほめる」という行為なのである。

純粋なる「ほめたい願望」

まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や作品に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンの演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、大き目のコインを楽器ケースに入れたくなる。見事な論文を読んだら、その作者に「とても感動しました」と伝えたい。学生の発表がすばらしと思ったら、その思いを当人に知らせたくなる。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます!」と喜びの表情を見せたら、私も一緒に喜びたいと願う。しかしそのような機会が得られないのであれば、その気持ちをメッセージで一方的に伝えるだけでもいいのである。そこで私にはこの比較的単純でかつ純粋に思える願望を、とりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち皆が持っていて、それが「ほめる」という行為の基本にあると考えるのである。
ただしこの考えにはたちまち異論が予想される。「純粋な、というが、この願望はその他の願望が形を変えたものではないか? たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているのではないか? 人はほめることにより、相手に同一化してほめられるという身代わり体験をしているのではないか?」その可能性も否定できない。しかし「ほめたい」という願望がほめられたいことの裏返しとは限らない。ほめた相手に「そういうあなたも素晴らしいですよ」といわれたら当惑し、「いやいや、そう意味でほめているのではありませんよ」と言いたくなるだろう。私はこの純粋なる「ほめたい」は、むしろ誰かと一緒に何かを喜びたいという比較的単純な願望に近いような気がする。だからむしろファンの心理に近い気がする。将棋の連勝記録を伸ばして快進撃を続ける若手棋士のファンになってしまい、勝利を一緒に喜ぶというのもその類だろう。ただしこの場合は、ほめたい相手ははるか遠くの存在なので、心の中で「すごいね!」とほめることで終わるわけだ。
私は純粋なる「ほめたい願望」の一部は愛他性(利他性)から来るものであろうと考える。愛他性とは他人の幸福利益を第一の目的とした行動や考え方である。愛他性の原型は母親の子供に向ける気持ちに見出され、自己愛と複雑に絡み合っている。愛他性は程度の差こそあれ人が持っている基本的な感情であり、私たちが人助けをしたり、他人の幸福を喜びとしたりする体験を全く持たないという方がむしろ稀であろう。ある人の行為や作品に感動を覚えた場合に、それを当人に伝えることが相手の喜びや満足感をもたらすとしたら、それは比較的自然な愛他性の表現とも考えられる。
さて以上純粋なる「ほめたい願望」について論じたが、これが発揮されない場合には、その要因はたくさんあるであろう。たとえある人に「ほめたい願望」が生じても、ほめることに伴う様々な事情が、ほめることを思いとどまらせたり、その願望の存在を覆い隠したりするだろう。その理由の最大のものは羨望である。例えばある画家Aさんの絵画があなたの感動を呼ぶとする。しかしあなた自身も画家で、またAさんはあなたにとってライバル関係にあるという状況を考えよう。あなたはAさんにその絵画の出来を素直に賞賛する気持ちになるだろうか? しかもあなたは受賞経験その他の優れた実績があり、Aさんよりは「各上」という自負があったとしよう。するとAさんの絵画に対する感動が本物であるほど、あなたは強い羨望を掻き立てられ、素直にAさんに祝福の言葉をかけることはできないかもしれない。またもしあなたとAさんとの関係が最初から敵対的であるならば、「ほめる」などという願望は最初から起きない可能性ももちろんある。

技法ないしは方便としてのほめること

これまで純粋なる「ほめたい願望」について考えたが、その基本にあるのは作品や行為に対する感動であることは言うまでもない。しかし刺激の多い現代社会において私たちが純粋に感動する機会は少なくなってきている可能性がある。ましてや教育者や臨床家が出会う生徒や患者が生み出す作品や成果に感銘を与えられる機会はさらに限られるであろう。それでも私たちはほめるということを止めない。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならないからだ。ここに特別な特に感動は伴わなくても、ことさら教育的な配慮からほめる、という必要が生じる。さらには社会生活を営む上では、さらに表面的で儀礼的に「ほめる」ことが多い。これは社会的な関係をより円滑に進めるために、言わば方便として「ほめる」ということになる。ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の特殊な効果を与え、それが人間関係を高めるということは実際にあるだろう。
これらは技法的な「ほめる」行為と呼んで差支えないだろう。極端な言い方をすれば、必要に応じて、その効果を見込んだうえで「ほめる」ことである。これまでの言い方に従うのであれば、これは純粋でないほめたい願望」ということにもなろう。私は技法としてほめることについて考える際、つい思い浮かべてしまうイメージがある。水族館などでアザラシの芸を見ることがある。トレーナーはアザラシが一つの芸をやるごとに、ひっきりなしにエサの小魚を与えている。ほめることが検定の対象となったり、一種の技法となることを考えると、あのアザラシの魚と同じことを行っている気がする。もちろん私はそれが悪いと言うつもりはない。これらはこれらなりにその十分な機能を果たしているのであろう。ただ純粋な「ほめたい願望」によるものとの差異を認識しておくことは重要である。
ある患者Aさん(20歳代、男性)は、小学校3年の体験を今でも明確に覚えているという。その頃不登校がちだったが、9月から一念発起して登校を始めた。すると夏休みの宿題として提出した作文が特別な賞を与えられた。誇らしい気持ちで担任にお礼を言おうと向かった職員室で、担任がほかの先生に話すこんな声を耳にした。「Aの作文が特にいいというわけではなかったんですが、登校意欲を高めたいと思いまして…。」Aさんはこれを心の傷として今でも抱えているという。
Aの作文に賞を与えるという行為が、純粋なほめたい願望から出た場合には起こり得なかった悲劇だろう。
さてここまでは純粋な「ほめたい願望」と技法としてほめることをもっぱら対置的に論じてきたが、ここで両者を一概に区別することもできないという点にも触れておきたい。人のパフォーマンスや作品に私たちが感動を覚えない場合、それをパフォーマンスや作品のせいばかりに出来るだろうか? 当然そうではないはずだ。考えてもみよう。作品の評価は、それを鑑賞する人がどのような好みを持つかにより大きく異なるであろうし、またその人がどの程度関心を持ってその作品を鑑賞するかにもよる。人は基本的には自己愛的であり、自分自身の達成にしか注意が行き届かないことが多い。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでようやくその価値が感じられることが沢山ある。妻に家事の多くをやってもらっている夫は、少し想像力を働かせばいかにそれが大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、夕食時には食卓に食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、それに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。「ほめる検定」が目指していることが、単に技法や儀礼にとどまらず、人に心から感謝することであるとしたら、実は「ほめる」ことを方便としてしか考えていない方が浅薄で想像力が欠如していることを意味しかねない。先ほどのアザラシの芸についても、トレーナーの人はこう言うかもしれない。
が持つ意味を軽視してはなりません。はアザラシ君と私とのコミュニケーションなのです。いつも絶妙なタイミングで好みの小魚を差し出してあげることで、アザラシ君は私からの愛情を受け取っているのです。魚はその一つのカタチにすぎません。彼だって本当は魚が欲しくて芸をしているわけではありません。そう、彼は私の手から魚を貰ってくれているんです。人間でも『ありがとう』っていうでしょう。魚はそのねぎらいの言葉とおなじなんです・・・・・。」そういわれればその気にもなってくるのだ。
ともかくも純粋な「ほめたい願望」技法としてのほめることは、一見対立的であっても、実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。
ところでこれまでは、ほめたいという願望や方便としてのほめることについて述べたが、一方のほめられたいという願望についてはどうであろうか?ほめたい願望を利他性との関連で考えた際に、人がほめて欲しいと願望することについては異論の余地がないと考えていた。「はじめに」で「ほめられることが嫌であるという人はかなり変わっている人であろうと述べたが、ほめられることは自己効力感を高め、自尊感情を高める上で極めて重要な体験といえるだろう。人は一般に自分の存在を認められ、評価されることを渇望している。その意味では純粋な「ほめたい願望」を持ち合わせていない人でも、純粋なる「ほめられたい願望」が欠如する人を想定することは、それこそ自己愛を持ち合わせていない人を想定するようなものであろう。
日常生活や臨床体験から思うことであるが、人は方便として他人からほめられる際にも、それを純粋に、心からほめられたものとして理解する傾向があることはほぼ間違いがない。もちろん人によってはあらゆる賞賛を疑わしいと感じる人もいるが、他方では人は明らかに自分の業績や作品については贔屓目に見る傾向のほうが一般的である。これを私は「自己愛的な偏重narcissistic tilt 」と呼びたい。要するに自分の手になる成果はそれを割り増しして評価する傾向のことだ。「ほめられたい」は何か特別な報酬を得たい願望のように思われがちだがそうではない。それは「あるがままに、正当に評価してほしい」という願望なのだ。ほめられた人の反応は、自分はそんなにすごかったのか?」という喜びよりは、そうか、やはりこれでよかったのだ」という安堵の方が一般的であろう。 

親が子をほめる
さて以下は各論であるが、これまでの議論を下敷きにして論じたい。
親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。思い入れだ。私自身の体験を踏まえて論じるのであるが、自分の子供の達成をどのように感じるかは、親がどれだけ子供に感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば私たちは、床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激しても、どこかの乳児がおぼつかない足取りで一歩を踏み出す様子を公園で目にしても、特別に感動することはないはずだ。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、全く違う体験になる。これまでの十数ヶ月の成長を毎日追ってきた親にとっては、わが子が初めて何にもつかまらずに踏み出した一歩は、すばらしい成長の証であり、偉業にさえ映るだろう。見知らぬ子とわが子で、どうしてここまで感動の度合いが異なるのだろうか? それは親がどこまで子供に思い入れ、どれほど感情移入しているかによる。先ほど述べた「想像力」の問題と考えていい。この親による子への思い入れ、「同一化による思い入れ」と、「自己愛的な思い入れ」の二つに分けることが出来よう。
まずは同一化の方である。子供がハイハイしていた時は、親は自分も心の中でハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないのだ。
もうひとつは、自己愛的な思い入れである。子供が一人歩きをする姿を見た親は、自己愛を満足させる可能性がある。「さすがわが子だ、成長が早い」となるわけだ。
もう少し分かりやすい例として、わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を考えよう。それを聞いた親葉、子供のうれしそうな顔を見て、子供に成り代わって喜ぶだろう。こちらが同一化による思い入れだ。ところが親頭に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」なども含まれているに違いない。もし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子の漢字ドリルの成績をほめながら、同時に自分をほめているのだ。こちらが自己愛的な思い入れということになる。
ここに述べた思い入れの二種類、つまり同一化と自己愛によるものがどのように異なるかは、次のような思考実験をすればよい。子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えるのである。子供に強く同一化する親なら、子供が零点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさに同一化するだろう。親にとってもその結果は我がことのようにつらいことになる。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見た時の反応は、そのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由したものとはいえない。親は何よりも子供により自分のプライドを傷つけられ恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスクハイリターンとなる。ほめることは子供の心に莫大な力を与えるかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しかねないだろう。だから自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の教師は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたという。おそらくそれは正解なのだ。医師の仲間では、自分の子供の診察は、たとえ自分が小児科医であっても、信頼できる同僚の医師に主治医になってもらうという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れが診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろう。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。
ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。
もちろんそれ以外にも親は先述の「方便として」ほめることも考えるであろう。本当は子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここでほめておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それにほめられることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではない。しかしほめる行為はおそらく純粋な「ほめたい願望」が本質部分としてまれるべきなのであろう。というよりは純粋な「めたい願望」が生じない親には、方便としてほめることの意味もまた極めて限定されたものになると考えざるを得ない。





2017年7月25日火曜日

大文字のD 書き直し ⑦ ディープラーニング ①

Unlike Fairbairn, Winnicott’s theory of dissociation is very unique and it played an essential part of his theory. He on the one hand considers a healthy inborn dissociation and trauma-related dissociation.(P339), the former being the basis for the true self, while latter being a defensive maneuver when traumatic situations occur. He stated succinctly the role of the therapist with dissociative patients, saying that it is therapist’s eye that holds the integrated selves(Abram, 342), stressing that it is the therapeutic relationship which holds the key to the resolution of dissociative pathology.
Winnicott considers that what is dissociated is not experienced yet by the individual.
…. . . that the original experience of primitive agony cannot get into the past tense unless the ego can first gather it into its own present time experience . . . In other words the patient must go on looking for the past detail which is not yet experienced. This search takes the form of a looking for this detail in the future . . . On the other hand, if the patient is ready for some kind of acceptance of this queer kind of truth, that what is not yet experienced did nevertheless happen in the past, then the way is open for the agony to be experienced in the transference . . (Winnicott, 1963:91)

Thus, Winnicott suggests that what has happened is not yet experienced by the patient if he or she is not ready to accept it. There is still one person who went through the experience and did not hint that there is some separate and independent subject which went through the experience. Thereby we could say that Winnicott’s idea of dissociation never reached the level of what van der Hart called type (2) either.


ディープラーニングと人間の心 ①

625()NHKスペシャル 「人工知能 天使か悪魔か 2017」で特に興味深かった点がある。それはAIの能力がブラックボックス化をしている、ということである。
 たとえばある日本の人材派遣会社は、派遣社員との面接記録の文章から、その人がどの程度近い将来の退職の予兆があるかをAIが察知する。しかしAIが「この人が将来退職するに違いない」と判断した文章を見ても、どうしてなのかわからない。その中の特定の単語?特定の語順?文章の長さ?どれも決め手にはならない。もちろんAIに聞いてもわからない。AIはディープラーニングをしてパターン認識の経験を積んだだけなのだ。Aという入力からBという出力が導き出される。しかしABを結ぶのは、膨大なネットワークの、数限りない、それぞれが微妙に異なる重みづけを担った結び目でしかないのだ。どうしてAからBが出たかを問うことは、その道のりをたどることでしかない。AIのブラックボックス化、とはそういうことである。
 この事情を別のAIのソフトで言いなおそう。マンモグラフィーから乳がんを検知するプログラムが注目されている。熟練の放射線科医にも濃淡の霧のようにしか見えない画像のどれかについて「これは悪性腫瘍だ」と見抜く。AIに「どうしてわかったの?」と聞いても答えがない。つまりここで起きているのは、一見ランダム性を帯びた情報の山から、ある種のパターンを見出すことが、少なくともAIにはできることであり、それはおそらく人間のあることについての熟達者が示す力に類似して、それをはるかに凌駕しつつあるということである。プロの棋士は素人どうしが差している将棋を通りすがりにちらっと見ただけで、すぐに詰みの手を見出すという。でもどうしてわかったのかをその棋士に聞いても「ピンときた」以外の答えは聞けないのではないか。その意味では熟達者の脳もまたブラックボックスということになる。

この問題が面白いのは、私たち分析家が患者の夢を聞いたり、ロールシャッハの反応を聞いたりして患者の心を判断するという行為である。熟練の分析家やテスターがどの程度正確に読むことが出来るのであろうか?AIと同じことを当てはめてみよう。熟練の分析家は夢の全体を聞いて、直感的にこの「人は~だ」と判断する。しかしなぜだと聞かれてもわからない。また「~だ」には様々なものが当てはまる。そこにはたとえば「~に対する攻撃性が表わされている」「~という願望を持っている」などの類であろう。「将来精神病を発症するかもしれない」でもいい。熟達した分析家なら、おそらくかなり正確に言い当てる人がいるかもしれない。しかし彼はおそらく夢のどの部分がそう思わせたのかを明言できない。全体から来る情報が彼の無意識のコンピューターに処理されて、そういう結論が出たのだ。もちろん夢の中に明らかなキーワードが出てきたらそれを決め手にするだろう。先ほどの派遣社員なら、「やめたい」「もうたくさん」という言葉が出てきたら、AIでなくても退職を予見するであろう。しかしAIの優れたところは、一見意味を持っていない様々な情報を総合的に判断して、ある驚くべき結論を見出すのだ。
 このことは、おそらく精神分析的な「聞き方」の理解は大きな変更を迫られるということを意味する。そしてそこではフロイトの発想の一部はおそらく保持されるのだ。彼は「平等に漂う注意」により、患者の話のどれか特定のものにこだわることなく聞き、そこからある種の直感的な理解を得ると述べた。実はこれはAIがやっていることなのだ。この部分のフロイトの発想は正しかった。しかし人間はAIではないし、結局は特定の情報にのみ耳を傾けてしまう。フロイトだって結局は、平等に漂う注意と言いながらも、性的な内容ばかりを聞き、患者の言葉一つ一つを取り上げて解釈をしようとしたのである。そしてその結果として私たちが知っているのは、フロイト的な夢の解釈はあまりにも個人差があり、信ぴょう性が低いということなのだ。
 私たちは今のところ、大脳皮質で行われていることがAIによるディープラーニングとは異なると言い切れる絶対的な確証はない。というよりは私は脳はディープラーニングをしていると思う。しかしもしそうであるならば、それはブラックボックスであり、直感に左右され、その多くはランダム性を帯び、たまに直観による正解を含む、ということでしかない。少なくとも治療は無意識を知ることであるという目標は、あまりにも理想が高く、荒唐無稽だということである。何しろ無意識はブラックボックスだからである。


2017年7月24日月曜日

「自己開示」ってナンボのものだろう? (採録)(こんなものも書いたなあ ⑰)

久しぶりに読み直すと、結構面白い

               
古くて新しい「自己開示」の問題
また仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社, 2016年)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生は毎年精神分析学会で関係精神分析関連の企画をする仲である。もう10年以上続けているだろうか。
この本の題名に盛られた「自己開示」や「倫理」は、そこで何年か前に扱われたテーマである。未だに自己開示は臨床家の間では問題になることが非常に多いが、これを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ネットで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。全くと言っていいほど検索に引っかからないことがわかるだろう。)その意味では本書はかなり珍しい本と言ってよいだろう。
「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、いまだに彼らにとっての論争の種である。この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会のA先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の先生からは否定されるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけではなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」と言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスには所持品があふれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。あるいは治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示していると言うのが、現代的な考え方の一つである。
ここから一つ言えることは、精神分析の本流からは自己開示は認められないであろうことは確かなことだということだ。これほど有名な先生方の見解なのだから間違いがない。しかしおそらく彼らはこともなげにこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」つまりは「正統派」の精神分析を外れたところに自己開示の真の価値があるということであろう。それはどのような意味なのか? あとは私たち4人がそれぞれ知恵を絞った論考を読んでそれぞれがお考えいただきたい。

臨床家の自己愛問題
私が最近になって特に思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。本書(「臨床場面での自己開示と倫理」)にも書いたことだが、私自身はむしろ「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、晩年に治療した43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al, 1998)。「自己開示反対」は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向もあろう。
 そこで本稿の表題「自己開示ってナンボのものだろう?」に立ち戻る。かなりくだけた表題だが、これは「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があると思っているのだろう?一度よく考えてみてはどうか?」という提案のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを結局釣り上げていることになりはしないか? 
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、自己愛というもう一つの問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保つことを助けるという面がある。要するに「自己開示拒否」には治療者側にとって好都合な要素がたくさんあるわけだ。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。 
 ここで整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己披瀝をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方働くのだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分が披瀝したいことを語り、本当に恥ずかしいことや都合の悪いことには口をつぐむ」ということである。かつてハインツ・コフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快を示したという。自分のことを話したがる治療者でも、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することを請われるとそれを侵入的と感じ、ムッとするものだ。そこで私がしばしばセラピストの卵たち伝える以下のメッセージとなる。「治療者は自分の体験を話すことが役に立つのであればいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するべきでない」。
 この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが本当に冷静な気分でないと逆効果だろう。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものではなく、あくまでもクライエントにとって重要な提案であるから行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われる転移解釈はごく限られた機会にのみ有効に行われることになるであろう。

臨床家が自分の自己愛をチェックする
ここで臨床家が深い自己愛に陥っているかどうかをチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 
もちろん突然これを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、侵入的に感じるだろう。「この質問のその背後にあるものは何か?」と考えたくもなろう。だから想像上のクライエントから真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいる、という気持ちを持ちやすい治療者なら、この状況を頭に描いただけでもその質問を非常に侵入的で攻撃的にすら感じるだろう。「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を同じようなレベルに引き摺り下ろそうとしているのではないか?」「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」 でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示にどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。他方で「ああ、私自身のセラピストにも同じようなことを感じたなあ」と自分のトレーニング時代の体験を思い出せる治療者はおそらく自己開示を本当の意味で臨床的に用いることが出来る立場に一歩近いのであろう。
Lynn,DE, Vaillant,GE (1998) Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: A review of 43 cases, 1907-1939. American Journal of Psychiatry, 155:163-71. 



2017年7月23日日曜日

共感と解釈 書き直し ⑤ 大文字のD 書き直し ⑥

それでは治療者は来談者を心地よくさせればいいのか?
 これが最後の疑問である。治療が継続する大きな要因が、患者さんの居心地の良さであるとしたら、治療者はそれを提供することを第一に考えるべきであろうか? 私はそれを否定しないが、治療者が向かうべき問題はより大きなものである。それは来談者の人生の質(QOL)の向上に最善を尽くすことである。それがその時の来談者に安心感を提供したり、孤独を救うことを意味するのなら、それでいいのである。しかしその時に来談者が洞察を得ることが将来的なQOLの向上に役立つのであれば、それも大切なことである。(←提供モデルの基本理念である。) すると治療者がどのようなスキルや力を備えていることが、来談者のQOLの向上につながるのだろうか? おそらくそれは来談者の体験を的確に知る認知能力と共感能力、そして倫理観、愛他性ということになるだろうか。治療構造、精神分析の(相対的な意味での)基本原則はそれを最大限にするために用いるものである。

Fairbairn
It has not been well recognized that Fairbairn’s theory of schizoid mechanism is practically that of splitting and dissociation. Fairbairn says, ”… it may be added that my own investigations of patients with hysterical symptoms leave me in no doubt whatever that the dissociation phenomena of ‘hysteria’ involve a split of the ego fundamentally identical with that which confers upon the term ‘schizoid’ its etymological significance”. p. 92(”Psychoanalytic Studies of the Personality” Routledge, 1952 ) “So far as the manifestations of dual and multiple personality are concerned, their essentially schizoid nature may be inferred from a discreet study of the numerous cases described by Janet, William James, and Morton Prince.  … The personality of the hysteric invariably contains a schizoid factor in greater or lesser degree, however deeply this may be buried.(ibid, P5.)”
Although Fairbairn did not follow suit in neglecting the notion of dissociation as many of his contemporary analysts, his definition of schizoid phenomenon that he associated with dissociation is unfortunately too ambiguous. He states that there are three features of schizoid state, including omnipotence, isolation and detachment, and concern for inner reality, which did not include any nuance of mental functions being separated or “split” apart, as the original idea of dissociation and hypnoid state connoted. Fairbairn might have observed this schizoid phenomenon in various kinds of psychopathology, especially against the background of Bleuler’s proposal of “schizophrenia”, which also appeared to have not only psychotic features but also dissociative aspects. Although schizoid problem became one of the main focuses of the British object relations theory, it grew apart of the concept of dissociation. It was Guntrip who summarized the “schizoid problem” in the chapter 6 of his book (Guntrip, 1971).   
 “As Winicott stated, if the care of “good enough mother” was unavailable, a child splits off true, vulnerable self underneath false self. “ “ If an external defense of cold and emotionless intellectual person hides a vulnerable, greedy and fearful infantile self, it would eventually appear in the world of dreams and fantasy". 

Harry Guntrip (1971)  Psychoanalytic theory, therapy, and the self, Basic Books.