2017年6月30日金曜日

ほめる 推敲4

教育場面、臨床場面でほめること
さて臨床場面や臨床場面でほめるという行為はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。ただし親が子をほめるということとは異なり、教師や治療者がほめる場合には、そこに別な要素が加わる。それは彼らが生徒や患者とのかかわりにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。もちろんそこに相手(生徒、患者)への思い入れは存在するものの、親の子に対する思い入れに比べてその要素はより希薄であるはずだ。そしてその職業的な倫理観は、報酬の与え方によりかなり異なるはずである。有料の家庭教師や精神療法のセッションの場合は、相手との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。その結果として、純粋な「ほめたい願望」はより補強されるはずである。さらには親の子に対する思い入れに似た思いいれも強まる可能性がある。教師や治療者は相手と長い時間をすごし、同一化の対象となることが多い。また教育的ないし治療的なかかわりの成果が自分の職業的なプライドやアイデンティティに結びつく以上、そこに「思い入れ」の要素もそれだけ加わるはずだ。
ただし他方では教育者および治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるということから、そのかかわりはよりドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。職業外での相手との接触は、特に治療者の場合はむしろ控えられ、そうすることもまた職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。
更には技法としての「ほめる」もここに関与してくる。生徒や患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「教育的」ないし「治療的」な配慮からほめるという事も起きるだろう。ただしここには冒頭に述べたような複雑な事情が絡んでくる。ほめるということが果たして治療的になるのか、それは患者をいたずらに甘やかしているのに過ぎないのではないか、という懸念は、特に精神分析的な関与の際は考慮されることになる。この点について最後に私の個人的な考えを述べておきたい。
現代的な精神分析の観点では、治療者と患者の関係性の重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを同時に患者とともにいかに共有していくかは極めて重要な要素となる。患者の達成や進歩に対して治療者がいかなる気持ちを抱くかを伝えることもまた患者が自らを知り、治療者の目にどのように映るのかを知る上で非常に重要とナル。「ほめる」という要素がそこに加わることは十分ありうるであろう。ただしその上で言えば、心理療法にほめるというかかわりが必要であるかという点に関しては多少なりとも疑問を感じる。ほめるには、感動を相手に伝え、その喜びを共有する意味がある。それは単回生のコミュニケーションの手段として重要ではあるが、継続的な治療においてどの程度意味があるのかは不明であるという。ほめるというのが相手に気持ちを伝えるのと同様にどこか上から目線なところがある。「ほめる」ではなくとも、「感動を伝える」でいいのではないか。
たとえばセッションを休みがちであった患者が、最近毎回来院できるようになったとする。治療者はその成果を嬉しく思い、「最近は毎回いらっしゃれるようになりましたね。よくかんばっていらっしゃいますね。」と「ほめ」たとしよう。特に問題のない関わりであり、治療者は自分の正直な気持ちを伝えている。それを伝えられた患者も嬉しいだろう。しかし心理療法には単に患者が成果を治療者にほめられて嬉しく思い、治療動機が更に増す、という単純な流れに従わない部分があまりに多い。たとえば治療にこれないと言うことが、治療者に対する複雑な気持ちを反映しているとしよう。たとえば患者は治療のあり方や治療者の対応に疑問を感じている。それをうまく表現できずに治療動機を失いつつあるとする。そのとき治療者の「よくがんばっていますね」は、患者の気持ちの複雑さやそこに自分がどのように関係しているかについて顧慮せず、ただ来院することが治療の進展を意味するという単純な考えを示しているに過ぎないと患者が思うかもしれない。治療者はそれよりも、「あなたが治療に毎回来院できるようになっていることは喜ばしいと感じますが、あなたはどのように感じますか?」というかかわりのほうがより適切であろう。もちろんそれで患者が複雑な思いをすぐに語れるというわけではないであろうが、少なくとも治療者が来院イコール改善という単純な考えに対する疑問を持っていることを暗に伝える役割を果たすであろう。
この後者の言い方について、改めて考えてみよう。「よくがんばっていらっしゃる」の部分はほめ言葉なのであろうか?それは実は受け取る側の患者の気持ちに大きく依存していることが分かる。来院が患者にとって当たり前のことで、かつ容易であるならば、これはほめ言葉として意味をなさない。来院よりも、セッション中に何を伝えることが出来るかが大切だと考える患者にとっては、来院そのものをほめられることの意味は少ないであろう。しかし来院すること自体に非常に苦労し、その苦労を治療者に分かって欲しい場合には、この言葉は始めてほめ言葉としての意味を持つのである。その意味では「よくがんばっていらっしゃいますね」は患者がそれに対する評価を欲している場合においてのみ意味を持つことになる。社会人が毎朝通勤して、上司に「今日も出社して偉いね」といわれることにはほとんど何の意味も感じないという例を考えれば分かるだろう。
ただし治療者が患者の来院そのものを成果と感じ、喜ぶ場合には、それを伝え、その患者の感じ取り方を含めて考えていくことは、むしろその治療者にとって意味がある可能性は無視できない。本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。それは患者と共有されていると思う限りにおいて口にされることで患者の治療意欲を大きく高めるであろう。たとえ患者がその喜びを当座は感じていなくても、将来きっと役立つであろう試練を味わっていると治療者が思う場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。
最後に治療者がほめることの技法部分についても触れたい。これは特に治療者が感動しなくても、ほめることが患者にとって必要である場合にそれを行うという部分である。私がこの技法としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。先ほどの例をもう一度使おう。この場合は患者の治療意欲は十分であったが、体調不良や抑うつ気分のせいで、セッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」
本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。




2017年6月29日木曜日

ほめる 推敲3

親が子をほめる
さて以下は各論であるが、これまでの議論を下敷きにしたい。
親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。思い入れだ。私自身の体験を踏まえて論じるのであるが、自分の子供の達成をどのように感じるかは、親がどれだけ子供に感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激する人も、公園でどこかの乳児がおぼつかない様子で一歩を踏み出す様子を見て特別に感動することはないはずだ。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、これは全く違う体験になる。わが子のこれまでの十数ヶ月の成長を毎日追ってきた親にとっては、わが子が初めて何にもつかまらずに踏み出した一歩は、すばらしい成長の証であり、紛れもない偉業にさえ映るだろう。見知らぬ子とわが子で、どうしてここまで感動の度合いが異なるのだろうか? それは親がどこまで子供に思い入れをし、どれほど感情移入しているかによる。先ほど述べた「想像力」の問題と考えていい。私はこの親によるこへの思い入れを、「同一化による思い入れ」と、「自己愛的な思い入れ」の二つに分けて論じたい。
まずは同一化の方である。子供がハイハイしていた時は、親は自分もハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないからである。
もうひとつの思い入れは、自己愛的なそれである。子供が一人歩きをする姿を見た親は、自己愛を満足させる可能性がある。もう少し分かりやすい例として、わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を考えよう。するとそれを聞いた親の脳裏に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」が含まれているに違いない。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子の漢字ドリルの成績をほめながら、同時に自分をほめているのだ。
ここに述べた思い入れの二種類、つまり同一化と自己愛によるものがどのように異なるかは、子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えれば分かる。子供に強く同一化する親なら、子供がゼロ点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさにも同一化するだろう。もちろん親にとっても我がことのようにつらい。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、ゼロ点の答案を見た時の反応は、何よりもそのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由していない。その親は何よりも自分のプライドを傷つけられたと感じる。その親は子供により恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。別のところでも論じているが、自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスクハイリターンとなる。ほめることは莫大な力を生むかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しにしかねないだろう。自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたが、それは正解であったという。医師の仲間では、自分の子供の診察は、たとえ小児科医であっても決して自分ではせず、同僚の医師に任せるという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れ(同一化、自己愛の対象)が診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろう。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。
ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。

それ以外にも親は先述の「方便として」ほめることも考えるであろう。本当は子供の達成が親にとっては不満足だったり、感動を伴わなかったりする。それでも親はこう考えるかもしれない。「一応ここでほめておこうか。そうじゃなくちゃかわいそうだ。それにほめられることで伸びるということもあるかもしれないじゃないか。」もちろんそれがいけないというわけではないにしても、私はそこには純粋さが欠けていると考える。本来の褒める行為は純粋な「ほめたい願望」を含んでいなくてはならない。いや、こう言い直そう。純粋な「褒めたい願望」を有さない人間にうまい褒め方はできないだろう。本当に人を伸ばす力を有する褒め方もできないはずだ。なぜならそこには自然さがないからである。

2017年6月28日水曜日

ほめる 推敲2

技法ないしは方便としてのほめること

純粋なる「ほめたい願望」について考え、そこでは実際の感動が大きな意味を持つと述べたが、実は私たちは本当の意味で感動する機会にさほど恵まれているわけではない。現代社会はいわば情報の洪水であり、私たちは毎日数多くの新しい刺激に晒されている。私たちはもはや普通のレベルでの感動を与えるべき情報には動じなくなっているのだ。一方教育者や臨床家がであう生徒や患者が生み出す作品や成果は、おそらく感動や感銘を与えるものとしては不十分であるに違いない。それでも私たちはほめるということを止めない。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならない。ここにそこに感動は伴わなくても教育的な配慮からほめる、という必要が生じる。これは教育的な、あるいは技法的な「ほめる」と呼んで差支えないだろう。極端な言い方をすれば、やむを得ず、「知的に」用いるべきものとなるのだ。繰り返すが、もちろんそれが悪いと言っているわけではない。ただ純粋ほめるということとの齟齬がそこに生じる。ほめるということが、教育上、あるいは社交場に用いられることが多い以上は、そこに偽りの要素が入り込みやすい。せっかく純粋な「ほめる願望」ということを論じたのであるから、それとの対比でいえば、こちらの部分はどうしても、純粋でない「ほめたい願望」ということになる。ただしこうなると願望ともいえないかもしれない。方便としての「ほめる」という言い方も浮かんでくる。
ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の魔術的な力を及ぼし、人の力を飛躍的に伸ばすということは実際にあるだろう。私はこれらの部分を否定するつもりはないが、しかしそれは中心部分に純粋な「ほめたい願望」を有して初めて意味を持つものだと考える。そうでないと空虚な作り物の、言葉だけの、他人を操作することを目的とした関わり、と言われても仕方がないであろう。
皆さんは水族館などでアザラシの芸を見ることがあるだろう。私はその芸そのものよりは、間断なくアザラシの口に放り込まれる小魚の方に目が行く。ほめることが検定の対象となったり、一種の技法となることには、あのアザラシの魚のニュアンスがどうしても浮かんでしまう。人を餌で操作しているという感じ。それは純粋な「ほめたい願望」を持つ人には違和感を感じさせるのである。
ただしこう述べたうえで付け加えるのであれば、「人の達成については、それを言葉で評価しましょう」(要するにほめましょう、ということ)という教えや方針には、私たちが持つほめることへの抵抗やそれへの想像力不足への反省を促すという点がある。考えてもみよう。人の作った作品や達成した成果そのものは、それを見る人によりいくらでも評価が異なるし、またその人が持つ想像力によりそれが変わってくる。人は基本的には自己愛的であるから、自分の達成にしか目がいかない。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでその価値が見いだされることがある。私は家人に家事をしてもらっているが、これは少し想像力を働かせば大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、気が付いたら食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、単にそれに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。「ほめる検定」が目指しているのは、それが単に技法や儀礼にとどまらず、人に心から感謝することであるとしたら、実は「ほめる」ことを方便としてしか考えていない方が浅薄で想像力が欠如していることを意味するのではないか? 先ほどのアザラシの芸だって、トレーナーの人はこう言うはずだ。「魚が持つ意味を軽視してはなりません。魚はアザラシ君と私とのコミュニケーションなのです。いつも絶妙なタイミングで好みの魚を差し出してあげることで、アザラシ君は私の愛情を感じているのです。魚はその愛の一つのカタチにすぎません。彼だって本当は魚が欲しくて芸をしているわけではありません(えー!)。そう、彼は私の手から魚を貰ってくれているんです。人間でも『ありがとう』っていうでしょう。魚はそのねぎらいの言葉とおなじなんです・・・・・。」うーん、なんかそんな気になってきた。
ともかくも、純粋な「ほめたい願望」を立てるとしたら、そこにはそうでないもの、技法としてのほめることが考えられるわけだが、この二つは実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。

2017年6月27日火曜日

ほめる 推敲1

日本人にとっての「ほめる」 

はじめに
 「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられるが、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりと考えられる傾向にある。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な介入、安易な発想は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、選手のことを「ほめてほめてほめまくる」、というような表現をしていた(要出典)が、いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「褒める」ことはその重要な要素の一つとみなされる。。また動物の調教の世界などでも、報酬を与えることが重要視される一方では、叱る、痛みを与えるなどのかかわりは禁忌とさえ言われている。
実際に私たちがあることを学習したり訓練したりする立場にあるとしよう。そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。おそらく「ほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、おそらく変わった人である。ほめられることでさらにやる気が出るし、これまでの苦労が報われることがある。ほめられた時に単にお世辞を言われたり、精神的に「甘やかされた」と感じることは少なく、むしろ自らの努力を正当に評価されたと感じるものである。
日常的に行われている可能性のあるかかわり、ある意味ではその存在理由や有効性が自明でありながら、治療者のかかわりとしては様々な議論を含むのが、この「ほめる」ことなのである。
純粋なる「ほめたい願望」
まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や物事に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンを見ていて、その演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、見事な論文を読んだら、その作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。学生の発表がすばらしと思ったら、それを当人に伝えたい。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます。」と喜びの表情を見せたら、私も一緒に喜びたいと願う。しかしそのような機会が得られないのであれば、その気持ちをメッセージで一方的に伝えるだけでもいいのである。そこで私にはこの比較的単純でかつ純粋に思える願望を、とりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち皆が持っていて、それが「ほめる」という行為の基本にあると考えるのである。
ただしこの考えにはたちまち異論が予想される。「この願望はその他の願望が形を変えたものではないか、たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているのではないか?」「人はほめることにより、相手に同一化してほめられるという身代わり体験をしているのではないか?」可能性としては否定できないが、これはむしろファンの心理に当てはまるのではないだろうか?将棋の連勝記録を伸ばして快進撃を続ける若手棋士のファンになってしまい、勝利を一緒に喜ぶというのもその類だろう。しかしその場合喜びの気持ちは単独でも生じ、相手にわざわざそれを伝えてほめてあげようとまでは思わないだろう。つまりこれでは自分が相手をほめるという能動的な行為が必要となる理由を説明できない。
また「相手をほめることで、本当は自分をほめて欲しいのだ」という可能性はどうか。しかし私はほめるときに相手から「そういうあなたもすばらしいですよ」というメッセージは特に期待していない。もしそう言われても「いや、そういう意味ではないのですが・・・・・」とむしろ当惑するのではないだろうか。先ほども述べた通り、相手を賞賛するメッセージを残して立ち去るだけでも目標は達せられるのである。
私は基本的には純粋なる「褒めたい願望」は愛他性(利他性)に派生していると考える。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。愛他性はその純粋さや自己愛との関連で様々な議論を含むものの、私たちが他人の幸せを目的とした行動をとることがある。自分が他人を幸せな気分にしたことが喜びとなるということを全く体験したことがない人は少ないであろう。愛他性は程度の差こそあれ人が持っている基本的な感情である。ただし何の理由や根拠もなく素性のわからない他人を利することにも人は抵抗を覚えるものだ。しかしある時ある人の行為や作品に感動を覚える。それを当人に伝えることには正当な根拠があり、それが相手の喜びや満足感をもたらすのである。これが「ほめたい願望」の正体であろう。
 このことは純粋な「ほめたい願望」が生じるためには大切な条件があることを示している。それはその感動は本物でなくてはならないということだ。実は私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。だから私は本当に感動した時は相手に伝えることには一種の義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。それは物事に感動することが少ない私にとっては極めて希少な、逃すべからざる機会だからである。
さて以上純粋なる「ほめたい願望」について論じたが、これが生じない場合はいくらでもある。その理由の最大のものは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して用意ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。


2017年6月26日月曜日

ほめる 14

教育場面、臨床場面での「ほめる」
さて臨床場面や臨床場面(とりあえず今は一緒にしておく)で褒めるという行為はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先は示してしまった気がする。もちろん治療者がほめることも、親が子供をほめるという心性から派生していると言いたい。対象(生徒、患者)に同一化しているために、あるいは自己愛的な理由から、普通なら感動しないことに感動する。しかしその本質部分は純粋なる「褒めたい願望」に由来するはずだ。そしてそこに同一化の要素が加わる。相手の行いに対する感動がそれだけ先鋭になった状況なのである。教育でも臨床でも、教育者や臨床家は生徒や患者の達成に、心の中では常に喝采を送り、「ほめたい願望」が刺激される、というのは基本であろう。というよりはこれが起きなかったら教師や臨床家としての資格は半減するのだろう。
本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。将来きっと役立つであろう試練を患者が味わっている場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。それを基本部分に据えたうえで、方便として「ほめること」を同時に考える。
私がこの方便としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。患者がセッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」
本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。

2017年6月25日日曜日

ほめる 13


ここに述べた同一化と自己愛の要素が異なることは、子供が客観的にも褒められないような結果を持ち帰った際の親の反応だろう。子供に強く同一化する親なら、子供がゼロ点の漢字テストの答案を持ち帰ることへのふがいなさがよくわかる。もちろん我がことのようにつらい。叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じということになる。
自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見て自らのプライドが傷つくが、それは第一につらさを味わっている子供自身のつらさへの同一化を経由していない。実際の子供の気持ちは二の次である。親は子供により恥をかかされたと感じて烈火のごとくしかりつける可能性がある。別のところでも論じているが、自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているであろう子供に対して向けられる可能性をも含むのである。
いずれにせよ親は子供に対して同一化の、そして自己愛的な対象という二つの見方を程度の差こそあれ持つ可能性がある。そしてもちろん、親が子供をほめる(あるいは叱責する)ということは、ハイリスクハイリターンな作業となる。それは莫大な力を生むとともに、子供を台無しにしてしまう可能性もあるのだ。そして後者の可能性が実質的に前者を上回るため、自分の子供の失敗は親が直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることには問題が生じかねないだろう。ある公文の先生は、自分の子供が生徒の一人に混じると、間違えを見つけてただす時の感情的な高ぶりが尋常ではなく、別の先生にお願いすることにしているという。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のような例もあるとすれば、おそらく「同一化」による効用が勝るということだろうか。
医師の仲間では、自分の子供の診察は同僚の医師に任せるという不文律がある。これも自分の子供に対する過剰な思い入れ(同一化、自己愛の対象)が診断や治療を行うものとしての目を狂わすということへの懸念であろうか?
ただしこれらの思い入れは、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」に本当に抵触するのか、というのは重要な問題である。いずれにせよ親は子供と生活を共にし、ほめるという機会に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。

2017年6月24日土曜日

ほめる 12

親が子をほめる
 さて親として子をほめる場合は、独特の事情が加わる。私自身の実体験から来ていることだが、自分の子供の達成をどのように体験するかは、そこに自分がどれだけ感情移入をしているかに大きく影響される。たとえば床運動の選手が「後方伸身宙返り」の着地を見事に決めるのを見て「すばらしい!」と感激する人も、乳児がおぼつかない様子で立っている様子を見ても特になんの感動もわかないだろう。ところがそれがわが子の始めての独り立ちだとなると、これは全く違う体験になる。子供の日々の成長を追ってきた親にとっては、初めて何にも掴まらずに踏み出した一歩は紛れもない偉業に映るだろう。そこで覚える「感動」には、親がどこまで子供に同一化し、どれほど感情移入しているかが大きくかかっている。子供がハイハイしていた時は、親は自分もハイハイしているのだ。そしてつかまり立ちしようとしているとき、親も一生懸命立ち上がろうとしている。そして立ち上がれた時の「やった!」感を親も体験している。それまではハイハイしかできなかった自分にとってこれほど劇的な達成はないからである。親がわが子の達成には特別に敏感に反応し、心の底からそれに感動するとすれば、それには親の子供への同一化という特殊事情が関係している。ただしこの子供の達成への感動は、それがかなわなかったときの親の失望や落胆をも同様に生みやすいことは当然である。

 親が子を褒める際にもう一つ深くかかわってくるのが自己愛の問題である。これは今述べた同一化の問題と深く絡んでいるが、基本的には別の問題として捉えるべきであろう。たとえば自分の子供が漢字のテストで百点を取る。するとその時に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ(自分も生まれつきその種の才能を持っているに違いない)」が含まれていることが多いだろう。しかしもし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「結局は自分の育て方がよかったからだ」などと理由はいくらでもついて回る。そしてそのいい成績をほめるときには同時に自分をほめている、あるいは自慢していることになる。要するに褒めることで、自分の自己愛が満たされるということだ。

2017年6月23日金曜日

ほめる 11

純粋ならざる「ほめる」こと―技法としての「ほめる」こと
さて純粋なほめたい願望を論じたということは、同時にその日純粋な部分を考えることにもつながる。そしてもちろんそれはあるだろう。相手の力を延ばすための「ほめる」、処世術としてのほめる、が当然ある。ネットを見れば、「一般社団法人 ほめる達人協会」とか「ほめる検定」とかの宣伝がある。ほめることがある種の魔術的な力を及ぼし、人の力を飛躍的に伸ばすということは実際にあるだろう。私はこれらの部分を否定するつもりはないが、しかしそれは中心部分に純粋な「ほめたい願望」を有して初めて意味を持つものだと考える。そうでないと空虚な作り物の、言葉だけの、他人を操作することを目的とした関わり、と言われても仕方がないであろう。
どうしてほめてほしいのか?
さてこれまではほめる、という側の議論であったが、ここでほめられる側の心理についても検討しておきたい。なぜほめられたいのか? 「ほめられたい」は何か、甘えに似た、あるいは「飴」に似た何かと考えられやすいが、そうではない。それは「正当に評価してほしい」という願望なのだ。ほめられた人はたとえ「やった!ほめられちゃった。おれってすごいんだ」というような反応よりも、「よかった、私はこれでよかったのだ、本当に分かってもらえた」という安堵の方が反応としては大きな部分を占めるのではないだろうか? 人は自分のことは明らかにひいき目にみる。しかしそれはより正しくそれを評価している、ということでもある。他の人がその人の成果を評価しない一つの最大の理由は、それに関心を向けない、他のことに忙しい、というものである。つまり評価をしようにも、それを評価するような立場に自らを置いていないということなのだ。

2017年6月22日木曜日

ほめる 10 (推敲入り)

ほめることへの抵抗 羨望
それは上に述べたような事情、すなわち感動するものに出会うことは日常生活でむしろ希少であるということがあるだろう。そしてそれが私たちが日常生活で「ほめる」ような対象、すなわち私たちにとっての生徒や後輩や子供である場合には、その可能性がさらに小さくなるという事情があるかもしれない。しかしそれ以外にも大きな障害がある。その一つは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して容易ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。
以上、純粋なる「ほめたい」願望を想定していろいろ論じた。これはおそらく基本として大多数の私たちが備えており、それが相互の発達を促進してきた可能性がある。というよりはそのような性質をある程度持ち合わせた個体が生き残ってきていると考えればいい。


以下に続く部分は、この様な前提のもとに、言わば各論としてのほめる、について論じることになる。

2017年6月21日水曜日

ほめる 9

患者の喜びを喜ぶ
結局純粋な「ほめたい願望」は患者の喜びを自分のものとする心性と不可分と言うことになろう。多くのサービス業(広義のそれはおそらく心理療法家を含むであろう)に携わる人が異口同音に言うことがある。「私の料理をおいしいと言ってもらえるほどの幸せはない」と料理人が言う。「私が指導している生徒の記録が伸びると、自分のことのように嬉しい」と陸上の選手のコーチが言う。彼らが自らの仕事について持つ責任感や喜びは、自分のサービスの受益者の喜びをわがことにするという能力と密接にかかわっていると考えられるのだ。これらは彼らにとって必須とさえ言えるのではないだろうか。
同様に治療者は基本的には患者に喜んでもらえると嬉しい。もちろん精神療法には、料理のおいしさやスポーツの記録のような、目に見える形で具体的に評価が出来るものはあまりない。しかし料理人やコーチにとってそれほど大切な能力は、いざ精神療法を論じるときになると、ほとんど考慮されたり論じられたりすることがないのはなぜなのだろうか? やはりこの種の感情を持つことについては、あからさまな抵抗が存在するに違いないであろう。

患者の喜びを喜ぶという心性は、実はほめたいという願望とも深く関連するであろう。ほめることは患者の喜びを喚起するであろう。しかもそれは純粋に自分が感動した患者の成長に関することで嘘や偽りはないということになる。

2017年6月20日火曜日

ほめる 8 (推敲を含む)

相手をほめることの喜びは、感動を誰かに伝えたいという願望とも関連している気がする。よくあるではないか。すばらしい曲を聴くと、人に伝えたくなるということが。人は喜びをシェアすることが好きなのである。スポーツでも一人で観戦するのではなく、パブリックビューイングというのがある。一人で家でテレビで観戦してもいいのだが、みんなで集まって観戦すると明らかに盛り上がり方が違う。勝ったりするとおそらく喜びは倍加する。皆それを狙って会場の大画面のテレビの前に集まるのだ。そこでは喜びを共有したいという私たちの願望が実現する。人はある共通の事柄について他者とともに喜ぶことを好む。私が誰かをほめるときは、一種の「ともに喜ぶ」ということを相手との相田で実現しようとするのである。もちろん相手の喜ぶ顔を直接見ることは出来ないなら、遠隔で、あるいは時差を設けてそれを実現するのだ。
そこで大切なことがある。その感動は本物でなくてはならないということだ。私はほめることは大好きだが、そこに感動は伴わなくても教育的な配慮から形ばかりほめる、ということは極めて苦手であるし、そこに特別の喜びは伴わない。もちろんそれは必要な場合があるが、それはむしろ「技法」に属することになる。それはむしろやむを得ず、「知的に」用いるべきものとなるのだ。繰り返すが、もちろんそれが悪いと言っているわけではない。
感動は本物でなくてはならない、と言ったが、実は私たちは実はあまり感動をすることがない。グルメ番組のように、口に入れたら次の瞬間に至福の顔をする、などという感動は滅多にない。私たちは様々な情報にさらされているのだ。だからこそ感動というのはレアな体験である。そして自分が正直に相手に気持ちを伝え、それが相手を喜ばす、という奇跡的な事態を作ることに感動が伴うのである。
私はこの種の行為については、時々そこに義務感さえ感じる。あるチェロ奏者の演奏に感動したら、それを伝えるのはむしろ「しなくてはならないこと」という気がしてくる。ただしその演奏家のために、というわけではない。そういう意味での義務感ではないのだ。むしろ自分のためになのだ。褒めないと後で不全感を味わうような気がするからだ。しかしだからと言ってそのチェロ奏者と仲良くなりたいなどという気持ちはない。言ったらさっさと立ち去るだけのだ。

2017年6月19日月曜日

共感と解釈 ②

ずいぶん前の続きだ。

本当に自分を知りたいと思うときの3つ目を思いついた。それは自分に漠然とした違和感が生じ、それを何らかの形で明らかにしたいからである。その場合は人はある種の不安を感じ、それを解消する意味でも何が起きているのかを把握したいというでもその場合は、自分を知りたいというよりは、何かのナラティブを得たい。あるいは説明してほしいという願望とも関係しているのであろう。なぜなら一人では解決できないという気持ちから彼らは来談するからである。するとそれに対して「来談者が自ら発見することを手助けする」というスタンスは、少なくともこの種のニーズにはあっていないということになる。救急に訪れた人に救急医は自然治癒を促進すべく食事療法のアドバイスをするだろうか。しかも解決の道が患者の心にすでに隠されているというのなら別であるが、おそらく治療者自身にもそれは見えていない。そこからはまさに共同作業が開始されるべきなのであり、治療者はそれに対して受け身的なスタンスを取ることは適切でないということになる。
ここでの考えをまとめると以上のようなものになるだろうか?
自分を知りたい、その援助をしてほしいというニーズに訪れる人に対して、おそらく従来の分析的なスタンスは意味を持つ。しかしそのようなニーズを持つ人はきわめてまれといわなくてはならない(訓練分析を受けに訪れる来談者はここでは除外して考えよう。)自分を知りたいというニーズを持つ人の大半は、それに対して治療者の積極的でアクティブな姿勢を望んでいるであろうし、治療者はそのニーズに対応しなくてはならないのである。
現代の精神分析学はある一つの大きな転換点に来ているといっていいだろう。それは意味はすでにそこに形を整えて存在するというのではなく、析出するということである。それ以前は解離しているということだ。あるいは言葉を得ていず、体験されていないということ。体験する=言葉を有する=想起出来るという点は極めて貴重なことである。

2017年6月18日日曜日

ほめる 7(推敲含む)

純粋なる「ほめたい願望」

まずは自分の体験から出発したい。私は基本的にはあることがらに心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンを見ていて、その演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言って楽器の箱にコインを多めに投げ入れたくなるし、見事な論文を読んだら、作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。学生の発表がすばらしかったらそれを当人に伝えたい。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます。」と喜びの表情を見せたら、一緒に喜ぶであろう。しかし相手が自分にとって遠い存在であれば、気持ちを伝えるメッセージを一方的に伝えるだけでもいいのである。
以下に更に検討するが、私にはこの比較的単純かつ純粋なほめることへの願望をとりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。まず発想として浮かぶのが、この願望はその他の願望が形を変えたものであるという可能性である。たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているという可能性もありうるだろう。「人はほめることにより、その人はほめられることの身代わり体験をするのだ。」ちょっと聞くともっともらしいが、ほんとうにそうなのだろうか?人が簡単に身代わり体験を出来るのであれば、他者が喜んでいる姿を見ているだけで自分も満足ということになるが、もちろんそのようなことはあまり起こらないし、そもそも自分が相手をほめるという能動的な行為が必要となる理由を説明できない。またこれもあまりありそうにないが、「相手をほめることで、本当は自分をほめて欲しいのだ」という可能性はどうか。しかし私はほめた相手から「そういうあなたもすばらしいですよ」というメッセージは期待していない。もしそう言われても「いや、そういう意味ではないのですが・・・・・」とむしろ当惑するのではないだろうか。先ほども述べた通り、相手を賞賛するメッセージを残して立ち去るだけでもある程度満足するのである。

2017年6月17日土曜日

ほめる 6

実際にほめられる立場になったことを想像しよう。私たちはほめられることが好きかと問えば、おそらく「ほめられることが嫌である」という人はかなりの変わり者であったり、かえって抑圧が強かったりするのではないか? ほめられたときにうれしいのは当然であろう。 そして私たちはほめられたときの喜びは決して「甘やかされた」ことの結果とは言えないであろう。私たちはほめられて多くの場合、「やはりね。そうだと思った」という反応をする。自分の仕事が過大評価された、と思うのではなく、正当に評価されたと感じるものである。ほめられたときに感じることは、それが単に心の表層での満足感を得られたものと感じるだろうか? おそらくほめられた人はそれを心のそこから受け止める。表層的だったのは多くの場合、ほめる人の側だったのである。
日常的に行われている可能性のあるかかわり、ある意味ではその存在理由や有効性が自明でありながら、様々なフクザツな感情を治療者側に生むのが、「ほめる」ことなのである。その意味ではよくぞこのテーマがこの特集に選ばれたとも思う。


2017年6月16日金曜日

ほめる  5

また最初に戻った

はじめに
「ほめる」ということは非常にチャレンジングなテーマである。心理療法、とくに精神分析の世界ではタブーと言ってもいいだろう。精神分析の目指す自己の洞察というテーマとほめるとは、対極的ともいえる関係を有しているように考えられている。その背後には、洞察を得ることは苦痛を伴うことであり、一種の剥奪の状況下において達成されるという前提がある。
一般に学問の絡んだ領域には独特のストイシズムが存在する。安易な介入、安易な発想は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)を褒めることは、あまりにその場しのぎで表層的であり、そこに学問的な価値はないと考えられる傾向にある。この考え方に類似するものを薬物療法に見出すこともできる。不安を解消したり、眠気を催したり、気分を持ち上げたりという作用の薬物を処方するとき、精神科医はどこかに後ろめたさを感じる。一時的に気分を解消する薬物は本来の治療を行っているということが出来るのだろうか? 薬物がある種の習慣性を可能性として有している場合には特にそれが顕著である。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬や眠剤、バルビツール系の眠剤などは、一時の効果はあっても何度も使用することで恐ろしい耐性がついてしまう…。考えればほめる、にも同様のニュアンスが伴う。ほめるということは相手を甘やかすことで、それが習慣化すると取り返しがつかないことになってしまう、という考え方だ。
他方ではある種の目に見える結果を追及するような場合は、これとはかなり異なる考え方が支配しているようにも思える。かつてマラソンの小出監督は、選手のことを褒めてほめてほめまくる、というような表現をしていた(要出典)

2017年6月15日木曜日

項目 3 神経精神分析

神経精神分析[600字]

神経精神分析 neuro-psychoanalysisは現代の精神分析における新しい流れとして注目されている。Mark Solmsらの尽力により1990年代になり生じた流れで、現代的な神経科学の知見を踏まえて、フロイトが唱えた精神分析の理論に関する検証を行う動きである。Antonio Damasio, Eric Kandel, Joseph LeDoux, Jaak Panksepp, VS Ramachandran, Oliver Sacks などの著名な神経学者が貢献している。精神分析の歴史を振り返れば、フロイト自身が神経学者であり、脳の神経学的基盤を理解することを試みていたという経緯がある。神経精神分析はフロイトのその路線を継承しつつ、現代的な脳科学の知見を取り入れたうえであらたに発展させることをその目標としている。なお神経精神分析のわが国の導入に関しては、岸本寛史、平尾和之らの京都グループの尽力がある。現在では、「神経精神分析協会The Neuropsychoanalysis Association という国際組織が作られ、ニューヨーク、ロンドン、ケープタウンを拠点として活動を行っている。また機関誌としては journal Neuropsychoanalysis がある。 

2017年6月14日水曜日

項目 2 関係精神分析

関係精神分析[600字]

関係精神分析はサリバン派のGreenberg, JMitchell, S. により始まった米国における新しい精神分析の流れであり、理論の集合体である。両者は Object Relations in Psychoanalytic Theory(邦題「精神分析理論の展開」)において、フロイトの欲動論的な考えとは対照的な理論としてFairbairn, R Sullivan, HSらにより提唱されたものを「関係-構造論」として提示することから出発した。その後 Mitchellなどの力強いリーダーシップのものとに、現実の治療者と患者の関係性を重んじる立場として発展した。その後は従来の精神分析的な考えに対する異論や批判を含む巨大な理論の集合体となりつつある。そこには間主観性理論、自己心理学、弁証法的構成主義、愛着理論、メンタライゼーション、トラウマ理論、解離理論、フェミニズムなどが集合している。学術誌Psychoanalytic Dialogue は関係精神分析の事実上の機関紙であり、またIARPP国際関係精神分析・精神療法学会)が2003年に創設され、世界毎年大会が開催されている。現代の関係精神分析を代表する人たちとしては Philip Bromberg, Nancy Chodorow, Irwin Z. Hoffman, Owen Renik, Donnel Stern, Robert Stolorow, Jessica BenjaminDonna Orange などの名が上げられる。

2017年6月13日火曜日

項目 1 自己開示

自己開示[600字]

自己開示は主として精神療法場面における治療者の介入ないしは振る舞いとして論じられ、治療者のパーソナルな情報が、意図的に、あるいは無意識的、ないし偶発的に患者の側に伝わるという事態をさす。自己開示はフロイトの提唱した精神分析家の守るべき匿名性との関連で、その治療的な問題点や可能性が様々に論じられている。フロイトは分析家がブランクスクリーン(何も映っていない幕)であることが、転移を発展させるうえで重要と考えた。治療者の姿が患者にとって見えない位置にあることで、治療者の言葉は独特の威厳や重みを持つことが多い。しかし現代の関係精神分析の文脈では、治療者が自らの主体性をいかに用い、必要に応じていかにそれを表すかという問題が極めて重要視されている。それに従い自己開示をどのように捉えるかは臨床家により非常に異なる見解が聞かれるのが現状である。ただし精神分析を離れた一般の心理療法場面では、過剰な自己開示、すなわち治療者が自らの自己愛を満たすためにことさら自らの体験や意見を表現しやすいという問題も存在することを認識しなくてはならない。治療者の匿名性の維持と自己開示との間のバランスは、治療状況に即した形で保たれるべきであるという考え方が最も妥当といえよう。

2017年6月12日月曜日

書くことと考えること 3


書くことの楽しさ

さて私は考えたり書いたりすることが好きだと最初に言いましたが、私たちすべてにとって、何か形あるものを作り上げることは、基本的には楽しい作業であると考えています。人は何かを構築することに、本能的な快感を覚えます。それは外の世界で何らかの作品や創造物を作り上げることにも当てはまりますし、心の中にある種の理論やファンタジーを作るのも快感です。おそらくあらゆる日常的な活動にその種の快感が含まれるでしょう。ある仕事をやり遂げる、というのも快感でしょうし、ありあわせの食材から料理を作るのは快感でしょう。それを誰かにおいしいといってもらえればさらに快感です。この場合は構築の喜びと、それを喜んでもらえるという二重の喜びを味わうことになるわけです。幸か不幸か私は食材を見ても、それで何を作ろうか、という発想に至ることはありません。これも向き不向きというものがあるのでしょう。しかし考えをまとめて文章や講演に仕立てることは比較的楽しんでやれることです。そしてその場合のテーマはしばしば脈絡もなく突然浮かんでくるものです。たとえば私は今日の講演の第三番目のテーマを「わかることはわからないことだ」とすることにしましたが、それについて歩きながら、あるいは地下鉄の中で延々と考えるのは結構楽しい体験でした。それが講演のほかの部分とどのようにつながっていくかをあれこれ考えるわけです。それとの関連で、ある芸術家のことを紹介したくなりました。





Dalton Ghetti 自身のホームページより(http://www.daltonghetti.com/index.asp
 
ここにダルトン・ゲティーという人の作品をお見せしています。彼はブラジル出身の大工さんで、現在アメリカのコネチカット州に住んでいますが、彼はたった一本の鉛筆を素材にして何時間も何十時間もその創造の世界を楽しんでいるのです。私がこのゲティーの作品をお見せするのは、彼の創作活動を行う際の楽しみや興奮を想像していただきたいからです。彼はおそらく頭の中で構想を練るところからすでに楽しんでいるはずです。私自身は鉛筆の芯を削って作品を作ろうと考えたことはありません。しかしそれでもゲティーが一本の鉛筆、特に太い芯の鉛筆に向かって「これからすごいのを作って人を驚かせるぞ!」とつぶやくときの興奮を感じ取ることが出来ます。そこに、その鉛筆が捨てられたもののリサイクルであるということが重要な意味を持ちます。つまり彼の場合、徹底的に材料費をゼロにしているということがその達成感を高めているのです。しかもその作品は全くスペースを取らないのです。
この作品がスペースをとらない、ということは実は非常に大切なのです。たとえば焼き物や割り箸アートを趣味にしている人と比べてみましょう。彼らの創作は、その素材から考えてかさばる運命にあります。彼らが作品をネット販売して裁くのでもない限り、彼の周囲の人はおそらく彼からいくつもの湯飲みや割り箸による「作品」をプレゼントされて使い道に困っているでしょう。あるいは自宅の狭いスペースに出来そこないの器とか、割り箸による乗り物とか動物の造形が所狭しと溢れることになるはずです。彼らの奥さんはそれに決していい顔をしないことでしょう。
作品作りは、かさばらないこと、材料費が安上がりであることは、それが楽しめたり、長続きしたりする重要な条件なのです。書くという作業は一本の鉛筆と、考えを書きつける紙があれば済みます。最近はコンピューターを使った執筆が一般的でしょうが、そうなるとキーボードがあれば、鉛筆の芯を削る必要もありません。もっと若い世代はスマホに「書いて」いるという話も聞きます。それこそ寝転がって文章が書けるわけです。もちろんお勧めはしませんが。また書く作業が電子化されることで、作品はいよいよかさばらなくなってしまいました。フロイトも自分が一生涯かかって書いたすべての手紙と論文が、USBメモリーに入ってしまうことなど想像も出来なかったと思います。
私はさらに書くという作業をできるだけ楽しくおこなうようにしています。まずは好きなことしか書かないことにしています。もう書いたことのあるテーマについての執筆依頼を受けたら、タイトルを微妙に変えて、これまで書いたものの続編という形にしてしまいます。あるいは与えられたタイトルを許されるギリギリまで変えて、今書きたいと思っていたことに近づけます。もしそれも出来ないなら、断ってしまうこともあります。しかし不思議なもので、たいていは依頼された論文と、今関心を持って書きたいと思っていたテーマの間に一種の補助線が頭の中で引かれます。例えば自己愛の論文を集めて本にしようと考えるときに、トラウマ関連の論文の依頼があれば、「自己愛トラウマ」というテーマで書くという風に。こうして依頼論文を「今書きたい論文」にすり替えてしまうことができます。
 もう一つ心がけているのは、その気になった時にしか書かない、と決めているということです。でもそうなると一向に作業が進まなくなってしまうかもしれませんので、少なくとも一日一回、そのテーマについて、いかに気が進まないとしても三行は書くことを自分に課しています。そして文章のうちのどの部分を書いてもいいことにします。最後の考察でもいいし、症例部分でもいい。これは絵に例えるならば顔の目の部分を描いたら、次の日はいきなり背景の景色に行ってしまうようなものです。私は非常に飽きっぽいので、こうやるしかありません。ただし全体のつながりは意識しつつ描いていきます。つまり漠然とした全体像が徐々に少なくとも頭の中では出来上がっていかなくてはなりません。あとは書きながら考え、考えながら書く。書くことと考えることは相互的な作業です。そしてよい論文とは、タイトル、前書き、キーワード、文献考察、すべての部分が一本の線につながっているものであるということをいつも念頭においています。これはこのように書かないと一つのゲシュタルトとして読者の脳に取り込まれないからです。
ちなみに最近の私が執筆活動をするうえで最大に活用しているのは、ブログです。これは人に読まれることを考えず、ただアリバイとして書いているわけですが、これでもかなり励みになります。

わかることとは、もう一度不可知に直面すること

書くことと考えること、というテーマで取り留めの無い話をしていますが、結局考えることで私は何を目指しているのでしょうか? 私は人間の心の何たるかをわかりたいのでしょうか? わかってどうするのでしょうか? 実は最後までわかってしまうのは、私にとっては不都合なのだろうとおもいます。もう考えることがなくなってしまうと、考えることが趣味の私としては困ってしまうというわけです。しかしうまくしたもので、人の心についてわかるということは、さらにわからないことに出会うということでもあります。わかるということは、ひとつの地点に到達したという感覚を生むと同時に、そこの先に広大な不可知を示してくれるのです。またそうでなくてはならないでしょう。最後にこの点についてお話ししたいと思います。
書くということはいわば建物を構築するということです。すでに述べたとおり構築するとは形式を整えることでもあります。特に芸術作品はそうですが、人に読んでもらうためのもの、学術的な体裁をとるものも同様です。人にわかってもらうためには、起承転結がしっかりしていなくてはなりません。そして趣旨が一貫していなくてはなりません。基本的な主張は論文を通してブレてはいけないし、もしブレたり矛盾したことを主張するのであれば、それが計算されたものでなくてはなりません。
 特に症例を書くときなど、沢山のものを切り落として書いていくことになります。それは多くの聴衆や読者に伝え、わかってもらうためには避けられない道です。先程のケースでは、Mさんがいかに恥の感情をめぐるトラウマや葛藤を抱えていたか、というテーマで書いていくわけですが、その論旨を進めるために、様々なものを切り捨て、張り合わせることになります。するとそれはもとの生きたMさんとは異なる、半ば死んだような人工物になっていきます。現実のMさんは言葉で描こうとすればするほど、そのために掴もうとする指の間をすり抜けていくところがあります。しかしその指に引っかかった分だけをつなぎ合わせることでしか、私たちは人に伝えることが出来ません。その一方で現実の血の通ったMさんはそれとは無関係に生き続けるわけです。おそらく臨床論文をお書きになる皆さんもそのような体験を必ずお持ちだと思います。
私はMさんに関して恥の文脈で理解しようとしていましたが、彼はある日ファンタジーを語りました。それはある日仕事から帰ると、一家が惨殺されていたというものです。その時Mさんは衝撃とともに、家族から開放されたという一抹の安堵感を覚え、今度はそれに対する激しい罪悪感にさいなまれたということでした。こうしてMさんは深刻な罪悪感をも体験していることがわかったのですが、それを恥の文脈で書くことは混乱を招くと思い、その部分には触れずに書いたのが、先ほどお話しした恥に関する論文でした。その意味ではある症例について書くということは、それでは十分に表現しきれない患者さんのリアリティに直面することでもあります。そしてそれが次の、恥と罪悪感との関係についての論文につながりました。
いつか土居健郎先生が、ある学会発表の後に声をかけてくださったことがあります。「いい発表は、最後に白黒のはっきりした結論が出ないものだよ。君の今の発表の場合、………。」そのあと土居先生が「結論がはっきり出ていないからよかったよ」か「結論がはっきり出すぎていたね」のどちらだったかを覚えていません。おそらく後者のお叱りの方だったと思います。
要するに一つのことを表現することは、同時にそれ以外を切り捨てることでもあります。一つのことを表現するときには、それ以外の何千、何万のことを言わないという選択をしているわけです。ですから読む人が読めば、切り取った跡の悲鳴が伝わっていく筈でしょう。書き上げたときには書ききれなかった言葉が横に積み上げられていることを、感じる人は感じているのです。そしてその意味で、あることがわかり、それを主張したということは、新たなわからなさに直面することなのです。少なくとも書いた当人は形を整えることで、自分がいかに多くを切り捨て歪曲したかをわかっている。またそうでなくてはなりません。
私はここのところを皆さんにわかって欲しいので、盆栽の例を出したいと思います。盆栽が美しいと評価されるためには手が加えられなくてはなりません。盆栽の品評会に、どこかに生えていた木をぽんと鉢に移して持ってきても、誰もいいと思わないでしょう。それは余計な枝や葉が出ていて、形式としては整っていず、要するに美しくないからです。盆栽は手が加えられることで、隅々が全体に対しての部分という意味を持ち始める。しかしそれは全く人工的なものであってはなりません。今流行の3Dプリンターで精巧に作られたプラスティックの木ではいけないのです。もし品評会で一位になった盆栽が実はイミテーションだとわかれば、大スキャンダルになってしまいます。それは自然から切り出したものに手を加えられたものでなくてはなりません。そしてそこに切り落とされた断端がなくてはなりません。そうでないと、それが現実であって現実でないという矛盾が生じず、要するに面白みがなくなるのです。
実は症例報告もそうで、それがもと現実から切り出された素材でない限り、そもそも命がこもっていないのです。しかし伝わったと思えた瞬間にその症例は言うのです。「私の本当の姿は少し違いますよ。」それを症例報告する側も、聞く側も同時に体験しつつその症例に聞き入るということなのでしょう。だから「美しい症例」「感動的な症例」は、それだけ人の手が加えられたものということは確かなのでしょう。
話がそれましたので、最後に「わかることとは不可知にさらされることである」、というテーマに戻ります。要するにわかりたいためには、わからないことに耐え、ある意味ではそれに楽しめなくてはならない、ということでもあると思うのです。 私たちの中にはわからないことの中に放り出されることの快感を覚えるという部分があるのでしょう。松木邦裕先生の講演に出てくる詩人ジョン・キーツの言葉 ”negative capability”とは、結局人の思考の豊かさは不可知性に伴う快感に支えられていると私は考えています。そして世界が不可知である限り、一生考え続けても決して考えるテーマは尽きません。ゲームだったら結局最高レベルに行きついてゲームオーバーになるのでしょう。しかし考えることにゲームオーバーはありません。エンドレスなのです。これは非常に有難いことです。
以上、書く事と考えることについてのお話にお付き合いいただきました。ご清聴ありがとうございました。




2017年6月11日日曜日

書くことと考えること 2

精神分析との出会い

そのような私が若い頃、半ば宿命的に出会ったのが精神分析理論です。一目ぼれといった状態でした。あるいはもともと結ばれる運命だったといえるかもしれません。ただし私はフロイトの理論に惚れたというよりは、精神を分析する、という考えそのものに惹かれたというべきでしょう。
かねてから言っていることですが、精神分析理論は人の心を探求する人間が一度は魅了されても不思議はないと私は考えています。精神科医としての私の研修先は通称「赤レンガ病棟」という施設でしたが、そこに当時静岡大学の助教授をしていらした磯田雄二郎先生が、月に一度いらして、私たち研修医に精神分析の手ほどきをしてくださいました。私は研修の一年目でカール・メニンガーの精神分析技法論の原書に出会ったわけですが、おそらく短期間にあれほど耽溺した本はなかったと思います。私のその体験は26歳の時のことだったので、それからのおよそ十数年間は、つねに分析理論についてあれこれ考えながらの生活であったと思います。その最初の私の姿勢は、とにかく分析理論を学ぶこと、そしてわからなかったり現実の症例とうまく合わなかったりするように思える点は、ことごとく私の経験や知識が不足していることに原因があると考える、というものでした。そして増々本格的な分析の訓練を受けることに必要性を感じたわけです。実際にアメリカに1987年に渡ってからしばらくは、分析理論を吸収する時期で、途中からは分析と現実の臨床を徹底的に照合する時期ということになったわけです。
ただし私が精神分析理論を学びながら常に感じていたのは、それがとても理屈っぽくて難しいということでもありました。日本精神分析学会の学会誌である「精神分析研究」を読んでも、難しいことばかり書いてある。フロイト理論の解説書を読んでも、たとえば「現実神経症」と「精神神経症」などの分類あたりから、何の事だかわからなくなります。その分類の深い意味を知ったのはずいぶん後だったのですが、そのころは精神分析の理論が飲みこめないのは自分の努力不足だと考え、何度か諦めかけたくなる自分を叱咤激励していました。しかしそれでも、例えばフロイトの女性におけるエディプスコンプレックスの理論など、どうも臨床と結びつかない気がしてすぐ忘れてしまう、という問題に悩まされました。こうして私の長い精神分析を見極める旅が始まったのですが、それが結局17年間のアメリカ生活の最終目的だったわけです。
私の精神分析理論とのかかわりはすでにいろいろなところに書いていますが、考えること、書くこととの関連で再び触れておきたいことがあります。上記のように私は精神分析理論の難しさに何度も音をあげたくなったわけですが、いくつかの素朴な臨床体験を文章にしてみるという試みも行っていました。それはたとえば、「分析においては匿名性が大切だということになっているが、治療者の自己開示にも治療的な意味がある場合があるのではないか?」とか、「精神分析には、恥の感情がほとんど扱われていないのではないか?」といったことでした。
その恥の問題についてですが、米国の精神科でちょうどレジデントとして働き始め、精神療法の患者さんとして持ったMさんが、この問題を持っているようでした。彼は大男でありながら、私の前でいつも目を伏せ、私の視線を避けているようでした。最初私はMさんが不機嫌だったり怒っているのではないかと思いましたが、どうやらそうではありません。彼は大きな施設の警備員といういかにも男性的な仕事についていたのですが、それに似合わず何かに恥じ入り、自分にまったく自信がなさげでした。私は注意深くMさんのこれまでの経歴を聞いて行ったのですが、彼は自分の恥ずべき過去について、いつも辛そうに話していました。私は彼の心を占めている感情は何かと考えましたが、最初はつかめませんでした。彼は何かに恥じているようであり、私の前でもそうでした。しかし白人の大男が、小柄で言葉のおぼつかない日本人の私に対して恥じ入るということが感覚としてつかめませんでした。しかし話を聞いているうちに彼は父親からいつも無視され、出来の悪い息子だという扱いを受けていたという話をするようになりました。私は羞恥心や恥ということを研究テーマの一つにしていましたから、精神分析的な治療において恥が占める役割について考えるようになりました。Mさんはまさにそれを地で行っているようなところがありました。
ところがそのMさんがあるときこんな話をしました。小さいころ、盲腸の手術のために手術室に入る前に、皆がベッドの自分を見下ろした時、Mさんはとても満足して、注目されている喜びを感じたというのです。恥の病理を持っていたはずのMさんには、同時に人に見られたい、注目されたいという強い願望があったわけです。そこで恥と自己愛という問題が一つのテーマとして浮かび上がりました。それと同時に精神分析の文献にはどうして恥について書かれたものがほとんどないのだろう、とますます不思議に思うようになりました。それは私にとってはごく自然な発想でしたので、思い切って論文にして、「精神分析研究」に投稿してみました。1990年代の前半のことです。すると当時の「精神分析研究」の編集委員の先生方はよほど寛大だったのか、それが原著論文として採用されたのです。 
それをきっかけに、精神分析を学んだり実践したりするうえで不思議に思ったり新たな発想だと思えたことをテーマに論文を書いて行きました。それらはたとえば、「あれ、自己開示ってそんなに悪いことじゃないのではないか? タブーだとかずっと言われているけれど、時と場合には治療の重要な位置を占めているのではないか?」とか、「恥には罪悪感もそこに深く絡んでくるが、精神分析理論にはそのこともあまり書かれていないようだ」とか、「トラウマの問題をフロイトはあまり扱っていないと思ったら、扱っている部分もあるんだ」とか、「解離の問題はそれこそ精神分析では扱われていないな」というように気が付いたことをもとに原著論文を書いてきました。それらは「治療者の自己開示」、「続・治療者の自己開示」、「精神分析における恥」、「精神分析における恥その(2)」「精神分析における恥その(3)」「精神分析における愛他性」、「解離性障害の分析的治療」、その続編などであり、私は気が付くと10編以上の原著論文を「精神分析研究」に掲載していただくことになりました。その上1995年には学会奨励賞(山村賞)をいただきました。「精神分析研究」誌は私にとっての大恩人だったのです。
しかしこれは今から考えてもある意味では驚くべきことでした。「精神分析研究」に原著論文として発表することがいかに難しいかは、私がのちに編集委員を務めるようになって分かったことです。ハチドリはその羽ばたきが自分の体を支えられないと知った途端に飛べなくなる、という都市伝説がありますが、わたしも原著論文は簡単に書けないということをもし知っていたら、途端に投稿できなくなっていたと思います。無知とは恐ろしいものですね。その頃は受理する基準が甘かったのかと思いますが、当時でも「精神分析研究」に掲載される、私のもの以外の論文は読んでも難しくてチンプンカンプンでした。でも私は精神分析の理論を知り尽くす必要など決してなく、私なりの視点で精神分析と関わっていいのだ、ということを理解したのです。
当時私はアメリカで、自分の日本語アクセントの強い、圧倒的にボキャブラリーの貧弱な私でも精神科医としてやっていけるんだ、という体験を持ち始めていたので、私にとってはこの「自分のままでいいんだ」という体験は仕事の上でも同時に起きていたことになります。

ともかくもこの様な形で精神分析と関わるようになったために、私には常に「本流にはいない」という負い目があります。それは今述べたような私の論文を書く態度にあるのです。私は分析の理論は難しくてよくわからない。しかしこの臨床体験なら難しい本を読まなくてもわかるし、論文にも出来そうだ。何しろ生身の患者との間でありありと体験できていることなのだから。そしてその論文を書き上げる上で読む本なら、それなりに読む気にもなれるし、逆にその路線で文献を探すと、どれが使える文献か、使えないかが見えてくる・・・。そのようにしてこれまで来たのです。