2017年5月20日土曜日

未収録論文 ⑭

これも未収録だった…
失敗学から見た怒りの精神病理
(こころの科学 特集「怒りと衝動の心理学」2011年5月号)
(前略)  

2.社会現象としての怒りの暴発をどう捉えるか?-失敗学に基づくモデル
 これまでは日常レベルでの怒りの表出について、健全なものと病的なものの双方について論じた。そして怒りは攻撃が抑制された際に体験されるものであるという理解や、攻撃性の主要部分は自己愛の傷つきの結果として生じるという私自身の見解を示した。
 この論文の後半で論じたいのは、非日常的で事件性のある怒りの表出をどのように理解すべきるか、ということである。一般大衆に強い衝撃を与え、マスコミをにぎわし、精神医学や心理学や社会学の専門家が意見を求められるのが、この種の怒りである。しかし私の見解では専門家たちの多くは事件性の怒りについて適切な説明やコメントをするに至ってはいない。そこで私の立場からこのテーマについての見解を示したいが、その際に私が援用するのが「失敗学」に基づくモデルである。怒りのテーマに失敗学を持ち出すことには、少し唐突感を否めないかもしれないが、以下に順を追って説明したい。
 私たちは残虐で凶悪な事件が起きた際に、ニュースなどでいつも決まって次のような論評をきく。
「いったいこのような悲惨な事件がどうして繰り返されるのでしょうか? 私たちは何としてもその原因を突き止め、二度とこのような事件が起きないようにしなくてはなりませ
ん。」
 そしてメディアは学識者たちのコメントを集め、警察に真相の究明を迫る。無論それはメディアの受け手である一般大衆が望むものでもある。大衆が知りたいのは、その種の事件が起きた明白でわかりやすい理由である。 もちろん凄惨な事件の犠牲者や、驚きと憤りと恐怖感に圧倒されている人々にとっては、事件の背景を知り、それを今後いかに回避すべきかという点へと関心が向かうのは当然とも言えるだろう。
 しかし私は上に示したような論評に接するたびに、ある種の違和感を持ち続けてきた。それは人間の行動には理由や原因があり、それを明らかにすることで将来の行動を予想できるという安易な因果論的考えであり、それが残虐な怒りの表出についての理解をも阻んでいる可能性があるのだ。
(以降略)