2016年12月31日土曜日

解離概論 推敲 1

いよいよ締切である。

解離性障害の位置づけ
精神医学や心理臨床における解離性障害の認知度はいまだに十分高いとはいえない。最近でこそ精神科医や心理士、あるいは司法領域の人々から、解離性障害をより深く理解し、その対処法を知りたいという声をしばしば耳にするようになった。しかし解離性障害は長い間、差別的な語感のある「ヒステリー」と呼ばれ、言わば不遇の時代を超えてきたという歴史があり、今でもその影響が根強いのも事実である。
 解離性障害は正式には米国での精神医学の診断基準であるDSM-III1980)において、ようやくヒステリーの呼び名を離れ、精神医学で事実上の市民権を得た。それ以降解離性障害はWHOの診断基準であるICDにも収められ、その位置づけはより確かなものとなって来ている。
 この間の識者の間での解離の理解の変遷は、何度か改訂を経ているDSMの診断基準に遂次反映されている。1980年に出版されたDSM-IIIには「記述的でありかつ疫学的な原因を論じない」という原則があった。これは米国における精神医学を長年牽引した精神分析理論の持つ原因論的、因果論的な傾向に対する揺り戻しの意味を持っていた。そこに解離性障害が独立して掲載されたのである。それから30年弱の年月を経た2013年のDSM-5においては、精神障害がその成因に基づきいくつかの群に分類され、解離性障害はその中の「トラウマとストレス因関連障害 Trauma and Stressor-Related Disorders」という大きなカテゴリーに入れるべきであるとの議論があったという。しかし最終的にそのカテゴリーから外れたのは、解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関係していたと考えられる。ただし掲載の順番としては、7「心的外傷およびストレス因関連障害群」と9.「身体症状症および関連症群」のあいだに8番目として位置づけられることとなった(8.「解離症群/解離性障害群」)。ちなみに現在公開されているICD-11ベータ試案でも解離性障害群は「ストレスと特異的に関連する障害群 disorders specifically associated with stress」と 「身体苦痛障害 Bodily distress disorder 」の間に位置しており、その扱いはDSM-5に準じている。

解離性障害の定義
解離性障害の定義はDSM-III (1980) 以来大きな変化はない。それは「解離症群の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および、または不連続である。」(DSM-5)として表されるものである。すなわち通常は人間の心身は記憶、思考、同一性、などのいくつかの異なる個別的な機能(モジュール)の統合された状態であり、その破綻が解離である、という理解である。ただしこのDSM-5において、その個別的な機能として知覚や運動制御が含まれているのは一つの矛盾と言えよう。なぜならそれらが統合から外れることにより生じる転換性障害は、DSM-5においては解離性障害ではなく、「身体症状症」に分類されているからである。
 この分類のいま一つの問題は、「統合の破綻」という解離の定義が、解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下「DID」と表記)に正確には当てはまらないという点にある。DIDにおいては異なる人格の一つ一つは同一性を有し、それら自身は統合されている。その統合された人格が複数存在してしまうことがDIDにおける問題の本質なのである。

さらに日本語に独特な問題もある。それは解離の定義にある「統合の破綻」という表現にある。他方では「統合失調症 schizophrenia 」もまた統合の失敗を意味するはずであるが、こちらは解離性障害とはまったく異なる病態を有するために概念上の混乱を招く可能性がある。これ、日本にいてたら絶対反対したと思う。

2016年12月30日金曜日

自己開示ってナンボのものだろう? (推敲後)



また仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生はいつも研究会を行っている、互いに気心の知れたお仲間である。この本の題名に盛られた「自己開示」は、未だに臨床家の間では問題になることが非常に多いが、これを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ア●ゾンで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。ほとんどゼロ!)その意味では珍しい本と言ってよい。
「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、いまだに彼らにとっての論争の種である。
 この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会の先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」

精神分析のの世界では人格的に優れ、非常に尊敬している方でも自己開示となると無条件で反対である。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は否定されるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけではなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」と言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示は自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスには所持品があふれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。あるいは治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示していると言うのが、現代的な考え方の一つである。
 
臨床家の自己愛問題
私が最近思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。「臨床場面での自己開示と倫理」にも書いたことだが、私自身はむしろ「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al, 1998)。「自己開示反対」は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向もあろう。
 そこで本稿の表題「自己開示ってナンボのものだろう?」となる。かなりくだけた表題だが、私が言いたいのは、「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があるのだろう?と疑いの気持ちを持つべきだ」という提言のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを結局引き上げていることになりはしないか? 
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、もう一つの自己愛の問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保つことを助け、いわば精神的なエネルギーの節約にもなる。要するに治療者側にとって好都合な要素がそこにたくさんあるわけだ。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。 
 ここで整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己披瀝をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方かかわるということだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分の自慢したいことを語り、本当に恥ずかしいことやプライベートなことには口をつぐむ」ということである。

かつてハインツ・コフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快感を示したという。自己愛的な治療者にとっては、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することはかえって心が痛むのだ。そこで私がしばしば学生に伝える以下のメッセージとなる。「治療者は自分の体験を話すことを望まれたらいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するな」。
 この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが冷静な気分でないというべきでない。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものである以上に、クライエントにとっての重要な提案であるからそれを行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われるヒアアンドナウの転移解釈はごく限られた機会にのみ行われることになるであろう。
臨床家が自分の自己愛をチェックする
ここで臨床家が深い自己愛の病理に陥っているかどうかを自分でチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 
もちろん突然こんなことを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、その背後にあるものを考えたくなってしまうだろう。だから相手から真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいるという気持ちを持つ場合には、この質問をかなり侵入的で攻撃的にすら感じるだろう。

「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を自分と同様の立場に引き込もうとしているのではないか?」
「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」

でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示のリクエストにどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。


2016年12月29日木曜日

自己開示ってナンボのものだろう? 3

ここで自己愛と自己開示の関係を簡単にまとめて見たい。人は「自己愛的な人は自己開示をしたがる」、という風に単純に決め付けてしまうところがある。しかし典型的な自己愛者のあり方は、「自分が自慢したり披露したりしたいことは話す。恥に感じていることについては決して言わず、それについて問われることに不快感を示す。」 である。つまり自慢話をする一方では余計な質問を許さない。かのハインツコフートもその路線であったという。学会などで出会った人との会食では豊富な知識量を披瀝して話を独占する傾向がある一方では、特定の事柄についての自己開示を回避する傾向にあったとされる。(ストロージャーによる伝記。)つまりはその人のモノローグになってしまうのだ。そしてそのような人は、クライエントと同席して、自分が実はクライエントと同じ人間であるということすら恥の感覚を持つらしい。そのような治療者は例えばこんな質問を患者から受けても立腹する可能性がある。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 

自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいるという気持ちを持つ場合には、この質問を非常に侵入的で攻撃的にすら感じるだろう。「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を同じようなレベルに引き摺り下ろそうとしているのではないか?」「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」 でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、フトこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。創、この種の自己開示にどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。

2016年12月28日水曜日

自己開示ってナンボのものだろう? 2

自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、確かにその一つは自己愛の問題に到達する気がする。自己開示をしないことは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保ち、「エネルギーの節約」でもある。要するに治療者側にとって好都合な要素がそこにたくさんある。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。議論がこの方向に進んでしまうことは私の偏見なのだろうか?
 家人は医師と接する機会が多く、その話をよく聞く。家人は社会福祉士として、患者に付き添って医師を訪れるが、家族の側に立つ人としてみる医師はおおむね非常に権威的で上から目線であると言う。そしてそれをいろいろ描写してくれるのだが、いろいろ思い当り、なるほどと思う。患者に対する治療者も同様の「上から」は、もう前提となる。たとえ治療者当人がいかに否定しても。すると患者を前にして自分を語らない(あるいは自分の話を披歴する、でも結局同じことだ)というのはあくまでもその「上から」に合致するのである。
 この自己愛問題は「自己開示をしない」でもあり「自己披瀝をする」でもあるという事実は矛盾しているようで面白い。自己愛的である、とは「自分の自慢したいことを語り、本当に恥ずかしいことやプライベートなことには口をつぐむ」ということである。かつてコフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快を示したという。クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することはセラピストにとっては心が痛むのだ。
治療者は自分の話でよければ披露する用意を持て、しかし自分の余計な話をするな」という立場は、私の「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが冷静な気分でないというべきでない。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものであるが、あくまでもクライエントにとっての重要な提案であるから行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われる転移解釈はごく限られた機会にのみ行われることになるであろう。




2016年12月27日火曜日

自己開示ってナンボのものだろう? 1



またお仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生はいつも研究会を行っている、気心の知れた方々である。この題名に盛られた「自己開示」は、未だに臨床家の間では問題になることが多い。しかしこれを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ア●ゾンで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。)
 この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会のA先生も、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の途中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という様な趣旨のことを私が言ったことを捉え、キッとした目になり、明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」
私が非常にその人間性を高く買っている精神分析の先生も自己開示は決してやってはいけないとおっしゃる。私は当惑を禁じえない。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」などとは一言も言っていないのであるが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示は自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はないようである。さすがにここについては問題がない。
 本文でも書いている通り、私自身は「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」という立場である。有名なフロイトの研究でも、彼は
43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ
Lynn,DE, Vaillant,GE(1998) Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: A review of 43 cases, 1907-1939 American Journal of Psychiatry 155(2):163-71 

やはり私が思うのは、「臨床家が自分に開示したことは、余りに大きなインパクトを患者に与えてしまう」ということなのだと思う。
少しフザけた表題を書いたが、私が思うのは、臨床家の自己開示は、いったいどのような価値があるのだろう?と思う。これもどこかに書いたことだが、昔精神分析のメッカともいえる研修先で、患者に自己紹介をしたら、それだけで驚かれたということがある。その研修先では治療者は匿名性を守って誰も自分のことを話さなかったのだ。そうなると誰にでも行う自己紹介(といっても身分、出身地程度である)さえもが「希少価値」を持ってしまう。でもこれはかなり人工的なものなのだ。

2016年12月26日月曜日

共同注視 推敲 ⑤

たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは共同注視できることになります。しかしそこから治療者が「Aさんが母親の人生を自分の人生に優先させていることに違和感を覚える」(「すなわちその点についてAさんは scotomization を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、Aさんとの間で食い違いが生じ、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってきます。しかし両者の会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、そしてAさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが起きることで、二人は再び共同注視が出来るようになるのです。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という高度の技法とは考えずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考えます。北山(2005)は その共同注視論において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いています。アナリストとアナリザンドが共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の発表を最後にまとめるならば、解釈とはアナリザンドの心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の共同注視の延長である、という考え方を生むということです。そこでのアナリストの役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれません。ちなみにギャバードはその力動的精神療法についてのテクストで、表出的‐支持的な介入のスペクトラムを示し、そこで解釈についで observation という介入を挙げています。これはしばしば「観察」と誤訳されますが、英語の口語では「見えたことについてコメントする、指摘する」という意味を持ちます。共同注視をしていて気がついたことをコメントする、程度に考えるのが、現代的な解釈と考えてもよいかもしれません。
そこで最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して終わりたいと思います。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらくアナリストとアナリザンドの関係でも言えるのでしょう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性があります。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思いますし、それが解釈の生じる背景 background を形成するものではないかと思います。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考えます。



2016年12月25日日曜日

共同注視 推敲 ④


共同注視の延長としての解釈

ここで暗点化を扱うという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたいと思います。分析的な話になりますので、これからはアナリスト(分析を行う人)とアナリザンド(分析を受ける人)という表現を用います。
解釈的な技法はアナリストとアナリザンドが共同でアナリザンドの連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視 joint attention, joint gaze と考えることが出来るでしょう。まずアナリザンドが自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語ります。それはアナリストとアナリザンドの前に広がる架空のスクリーンに映し出されます。そこで二人は同じものを見ているつもりかもしれませんが、もちろんそうとは限りません。アナリザンドの連想内容から映し出される像は、アナリストにはそれが虫食い状の、極端に歪んだ、あるいはモザイク加工を施されたものとして見える可能性があります。それはまたアナリザンドの側の説明不足、あるいはアナリスト自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化による可能性があります。アナリストはそれを注意深く仕分けすることを試みつつ、質問や明確化を重ねていくことで、少しずつアナリザンドとアナリストは、見ているものが重なってきます。アナリストがそこに見えているものを描き出し、語ることで、アナリザンドはそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことでアナリザンドは共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことでしょう。それはおそらくアナリストとアナリザンドの関係の中で極めて基礎的な部分を形成するでしょう。
ちなみに共同注視 joint attention という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修先生(北山、2005)の「共視論」により導入されていますが、この joint attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外では少ないという印象を持ちます。精神分析関係の論文をPePWEBで検索してもほとんど出てきません。しかしフロイトがアナリザンドが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、アナリザンドが自分の心から浮かんでくることを眺めているというニュアンスがあります。共同注視は、その語りを聞いているアナリストも車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうです。
北山 修 (編集)(2005)共視論 (講談社選書メチエ) 
また共同注視という発想は、関係精神分析的な見方からは距離があるといわれるかもしれません。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与えるかもしれません。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのです。
 ちなみに同様の発想に関して、私は一昨年(平成26年)の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがあります(岡野、2015)。アナリストとアナリザンドが眺めるのは、共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれは両者の間にいやおうなしに生まれる差異を含みこむことで、つねに更新されていく、という趣旨です。
岡野憲一郎 (2015)臨床における「現実」とは何か? (シンポジウム特集 精神分析臨床の場における『現実』と『真実』) 精神分析研究 59;316-319
共同注視というパラダイムにおいても、アナリストとアナリザンドが同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになります。それは同じものを共同注視しているつもりになっていたアナリザンドとアナリストが、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬かも知れません。またアナリストがそこに彼自身の視点を注ぐことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれません(藤山、2008)。

藤山 直樹  2008)集中講義・精神分析㊤精神分析とは何か フロイトの仕事 岩崎学術出版社

2016年12月24日土曜日

共同注視 推敲 ③

この例では、治療者はAさんが母親を心配して家を離れない理由については、私は理解できた気がしましたので、そう伝えました。しかしAさんが「私の人生はいいんです」といった時から、彼女の話が見えにくくなり、しっくりこないと感じられるようになったのです。
私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばあります。それは単なる失念かもしれなませんし、忘却かもしれません。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるでしょう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付きます。上の例では「Aさんは一人で母親の面倒を見ようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのでは?」「Aさんは私の問いかけに対して非難されたかのような口調で答えていることに、自分では気が付いていないのではないか?」などです。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には気づかれます。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれます。それを私は広義の解釈と考えるのですが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化し、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない点が特徴です。

患者の連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けています。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(その個人の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているでしょう。それはたとえば患者の同じ夢の解釈が、治療者の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情です。また治療者の盲点化の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含みえます。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではありません。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか?父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への本来の解釈ということになります。ここで患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要でしょう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからです。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのです。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのです。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その習得を試みるにはどうしたらいいでしょうか? 筆者の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否が依拠しているというべきだと考えます。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、たくさんのパターンを認識することでしょう。しかしそのうえで同時に虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるでしょう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるでしょう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのです。


2016年12月23日金曜日

日本のエディプス ⑩

Japanese people and the oedipal issue
In his quest for the truth of human mind, Freud discovered that boys have a desire for his mother and jealousy and anger toward his father. Subsequently boys have a fear of being castrated in response to sexual interest in the mother. He believed that forms a complex which he appeared to have believed can be seen universally across the culture. If this story still reflects Western and European, or Judeo-Christian mentality, “could it be found in the West in a similar way?” is a serious question. The afore-mentioned Kosawa’s notion of Ajase complex is one of the responses to this crucial question. It is not the father’s punishment which produces the feelings of guilt, but the forgiveness (of the mother) does. Is there any other way of responding to this question in the context of Japanese secretiveness and non-expression? I believe there is.

In Japanese households, sons and fathers are close enough, but sons’ tie to their father is much less intimate as their tie to their mothers. They spend much longer time, tend to sleep in the same room much longer than Western boys who tend to be given their individual bed room very soon after their birth. Father’s influence is still powerful, but is distracted to their own jobs. In a sense, sons can “own” their mothers much more carelessly than Western boys, and their fear of punishment and castration anxiety is much less realistic than what Freud thought.
 As I stated before, the punitive agent in their society is not altogether father-like powerful figure. It can be the group or society that an individual belongs to. In Japanese society, it is risky to be conspicuous as he might be looked at as someone who disturb the peace of the society. Peacefulness and harmony is regarded as the most important. People strive to be like others in order to avoid being ostracized by the society. In oedipal story, the taboo is the hostility toward the father. In Japanese society, taboo is to challenge the hidden or unwritten rules which govern the society. 

2016年12月22日木曜日

共同注視 推敲 ②


 同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ません。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という意味そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからです。「解釈とはことごとく示唆の一種である」というI.ホフマン(Hoffman, 1992)の提言もその意味で頷けます。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆や教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていました。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのです。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがあります。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのでしょうか? 

臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたいと思います。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法一般にも広く役立てることが出来るであろうと思います。ただしそのために、以下のような視点が有用と考えます。それは解釈を「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえることです。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、治療者が質問をしたり明確化をしたりすることで、それをよりよく理解することを促す試みです。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いていますが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとします。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意しました。
目の前の患者さんの背中に文字が書いてあり、患者さんはそれを直接目にすることができないとします。そして治療者はその患者さんの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしましょう。あるいは患者さんが部屋に入ってきて扉を閉めた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれません。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益でしょうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのでしょうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのでしょうか?
もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかでしょう。答えは重層的であり、またケースバイケースです。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さに通じていると思います。ケースバイケースというのは、次のような意味でです。患者はすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。患者はそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。さまざまな状況がありうるわけです。さらにはその文字が解読しづらく、患者さんとの共同作業によってしか意味が通じないかもしれないのです。
 以上は他愛のない例ではありますが、この背中の文字が、患者さん本人よりは治療者が気づきやすいような、患者さん自身の問題を比喩的に表しているとしましょう。すなわちその背中の文字とは患者さんの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者さんの耳には直接入っていない噂話かもしれません。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるでしょう。
しかしおそらく確かなことが一つあります。それは治療者が患者さん自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があることです。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど広義の解釈の定義そのものと言っていいでしょう。またその文字が患者さんにとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それが患者さんにとって有益である可能性は依然としてあるでしょう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われているからです。

具体例とその解説

ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたいと思います。
<略>
それに対してAさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかけます。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言います。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として釈然としないと感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと考えました。


2016年12月21日水曜日

共同注視 推敲 ①

技法の概要
解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義されます。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えます。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらあると考えられます(Sandler, et al 1992
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考えます。一つにはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことです。そしてもう一つは解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素とは区別されるものという意義があります。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられますSafran, 2009) ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるでしょう。

そもそも解釈とは技法なのか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれています。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ません。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないでしょう。しかしそもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのでしょうか? 本来精神分析においては、患者が治療者から直接的に手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじます。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」)で次のように指摘しています。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきでしょう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけです。

 今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うことは間違いありません。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねないでしょう。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからです。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する打ち合わせや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性があります。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能です。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるでしょう。

2016年12月20日火曜日

日本のエディプス ⑨

Secretiveness and shyness
 It is my belief that no matter how widespread the implication of the issue of secretiveness in Japanese culture, the basis of the issue is their biologically based bashfulness and shyness, as well as interpersonal sensitiveness. Sense of shame has been found to be so close to many Japanese. It is well known that Ruth Benedict (1946) formulated that Japanese society as "a shame culture" (as opposed to American society, which she termed "a guilt culture"). As I stated in 1994, shame is given different meanings in various cultural contexts. In Japan, shame-prone and self-effacing behavior tends to be given positive functional value and is actively promoted by society. In the United States, society tends to prohibit such shame-prone behavior and the show of one's vulnerability, while encouraging the visible demonstration of one's power and capacity.
Historically, Japanese people have become used to being characterized as shame-prone, shy, self-effacing, reserved, and apologetic, even though they show some resistance or reservation in accepting the designation of their culture as a "shame culture" with its rather negative connotations. Many authors argue that social phobia has a much higher prevalence in Japan than in the Western world (Kasahara, 1974; Kora, 1955; Yamashita, 1977).
Kasahara (1974) reported that 10% of new students in a Japanese university who were under psychiatric care had a diagnosis of social phobia, and that its prevalence was second only to depressive reactions and psychosomatic disorders. A report by Uchinuma (1983) indicated that 2.5% of psychiatric outpatients in a Japanese mental hospital had a primary diagnosis of social phobia.
In Japan, a cluster of neuroses with socially phobic features as well as hypersensitivity and pervasive hypochondriacal concerns has been called "shinkeishitsu," which a Western textbook of psychiatry describes under the rubric of "cross-cultural syndromes" (Kaplan & Sadock, 1988). Half a century ago, Morita (1960), a pioneer in the study of shinkeishitsu, postulated that there is a shinkeishitsu-prone innate temperament that he called "hypochondriacal temperament." According to Morita, people who are born with this temperament are overly sensitive, self-reflective, and notice even minimal changes
Generally speaking, Japanese authors appear to assume that the culturally encouraged show of shame-proneness among the Japanese is enough to explain the reported high prevalence of social phobia among them.
This general discussion of shame in the Japanese cultural context paves a way to the following discussion of secretiveness in their culture.

2016年12月19日月曜日

退行の現代的な意義(仕上げ)

鹿島が優勝するという夢を一瞬見てしまった・・・

退行の現代的な意義

現代の精神分析において、退行という概念はどのような意味を持ち、いかなる臨床的な意義を有するのであろうか? 本稿ではこの概念の変遷について概観した後に、筆者の考えを述べることとする。

1.フロイト及び自我心理学における退行

精神分析における退行の概念は Freud にはじまることは言うまでもない。小此木啓吾は精神分析における退行の概念について、以下のように記している(小此木、2002)
「退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。FreudS は,失語症の研究 (1891)を通して,この JacksonJ. H. の進化 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。」
S.Freud (1891) On Aphasia: A Critical Study. International Univer' sities Press1953 (trans. E StengeJ)
安田一郎訳失語症の理解のために失語症と神経症.誠信書房,1974
小此木啓吾編、精神分析事典、岩崎学術出版社、2002
 この様に初期の退行の概念には、当時の精神医学における理論を反映した生物学的な色彩が強かった。Freud の第一の関心事は精神の病理性を説明する手立てであり、精神病理を一種の先祖がえり、進化の逆戻りと考えるJacksonの概念は、当時の「変質」の概念ともあいまってFreudに大きな影響を与えていた。Freud はその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させ、ヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。この様に初期のFreudは、退行の概念をもっぱら病理の成立過程やその種類の説明手段として用いる一方で、退行は治療にとって望ましくないもの、治療にとっての抵抗となるものと考えた。Freud はこのような考えを終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのまま Anna Freud に受け継がれた。そのAnna Freud が、抵抗として自我の前にまず退行を提示していることは興味深い。
Freud, A. (1946) The Ego and the Mechanism of Defense. International Universities Press., New York. (外林大作訳. 自我と防衛. 誠信書房, 1958.
 自我心理学の流れの中で、退行の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris ARISE (adaptive regression in the service of ego自我のための適応的な退行)という考え方である。Kris は「自我による自我のための一時的・部分的退行」という概念を提唱した(Kris, 1952)。病的な退行は不随意的、無意識的、非可逆的で自我のコントロールを失った退行であるが,健康な人間の冗談や遊び、睡眠、レクリエーションの際に見られる退行は随意的、前意識的で可逆的な自我のコントロール下の退行であると考えた。この考えは後にSchaferR. (1954) によって「創造的退行」という概念とともに継承され、以上は米国の自我心理学の退行理論として分類される(小此木)。
 このARISE概念は、良性や悪性の退行を考えるうえでも重要であり、退行が Freud が考えたような病的なものにとどまらないという視点を示したと言える。その後に退行概念の真の価値が、対象関係論において臨床に結び付けられた際に発揮されることとなったのである。
Kris, E. (1952) Psychoanalytic Explorations in Art. Int. Univ. PressNew York. (馬場禮子訳・芸術の精神分析的研究. 岩崎学術出版社、1976.

2.対象関係論における退行

Winnicott,DW の退行理論

Donald Winnicott の退行の理論は、それを治療の根幹に据えたという点で特筆すべきであろう。彼の理論の骨子は比較的明快である。幼少時にその主体性が発揮されるべき時に親からの侵害を受け、偽りの自己が生じる。この偽りの自己の程度やその社会生活に及ぼす影響により、患者の病理の理解がなされ、それに基づいた治療が行われる。そしてその治療作業においては、退行により侵害が起こった時期までさかのぼることは不可欠であると考えられる。
 
Winnicott は分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来すると考える。治療において治療者は必然的に何らかの失敗を含むことになるが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現される。その際患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。
 このように治療と退行とは不可分であるものの、Winnicott は同時に、最初から退行を促すような治療態度を是とはしない。彼は「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも述べる。すなわち治療者が意図的に「患者を退行させよう」というのは結局はそれ自体が侵害になってしまうということを示唆しているのだ。
さらに詳しく見てみよう。Winnicott の退行の理論は「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1956)に詳しく論じられているが、その中で彼は症例を3つのグループに分けている。第1は、Freud が治療したような神経症グループ、第2のグループは、人格の統合性がようやく成立した段階の人たちである。そして第3のグループとしては、「単一体としての人格が確立される以前ないしそこに至るまでの情緒発達の初期段階を、つまり時空間の統一状態が達成される以前のものを分析が扱わなくてはならないようなすべての患者たち」が該当するという。そしてこの第3のグループの症例については「通常の分析作業を中断し、取り扱い management がそのすべてとならざるを得ない」(p336)とする。退行が十分に促進されることが治療に必要とされるのはこの第3のグループなのだという。

Winnicott, DW. (1956) Through Paediatrics to Psycho-Analysis. Tavistock Publication, London.(北山修監訳. 1990. 児童分析から精神分析へ岩崎学術出版社.ウィニコット 精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面 北山修(監訳)「小児医学から精神分析へ―ウィニコット臨床論文集―」岩崎学術出版社 pp335-357
 このWinnicott の記述に特徴的なのは、退行は病理現象ではなく、むしろ積極的に用いるべきものであり、さらには患者が退行できることを一つの能力として捉えている点である。そしてそれは患者が「初期の失敗の修正の可能性を信じること」であることと言い表される。
Winnicott はさらに二種の退行についても論じている。ひとつは環境の失敗状況への退行であり、その際は個人的な防衛がそこで行われたことを意味し、分析の対象になる。しかし早期のより成功した状況を体験している場合は、個人が後の段階で困難が生じたときに、そのよい前性器期の状況に戻ることになる。そこでは個人の防衛の組織ではなく、依存の記憶、環境の状況に出会うのだという(P341)。そしてFreud が扱い記述した症例は乳児期の最早期に適切に介護された症例なのだとする。
分析作業において「依存への退行」が生じる際に備わるべき条件は以下の通りとされる。
信頼をもたらす設定の提供。
患者の依存への退行。
患者は新しい自己感覚を持つ。
環境の失敗状況の解凍。
早期の環境の失敗に関連した怒り。それが現在において感じられ、表現される。
退行から依存に回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力を持って実現可能になる。これが何度も繰り返される。
この解凍ということについては少し説明を要する。ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは、正常で健康なことであるとWinnicott いう。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程がそのことには伴っているという。
この解凍、ないし凍結という表現は、解離性障害の文脈からは特別の意味を有することを付け加えておきたい。つまりそれは過去の外傷記憶は治療における再固定化を減ることで解毒化に向かうという方向性を示唆しているのである(岡野、2014)
ちなみに筆者にとって興味深いのは、Winnicott はのちに紹介するBalint, 土居と異なり、「愛」について強調していないという点である。愛というそれ自体曖昧な概念の代わりに母親の原初的な没頭や世話、マネージメントなどのタームで治療を論じているのが彼の理論の特徴といえる。

Balint, M の退行概念 
Winnicott と同様に退行を治療論の文脈で扱った分析家としては、Balint, M. の名を欠かすことはできない。彼の「治療論から見た退行(中井久夫訳)」に沿って彼の理論を以下に検討したい。
Balint, M. (1968) The Basic Fault. Tavistock, London. (中井久夫訳. 治療論からみた退行-基底欠損の精神分析. 金剛出版、1978.)
Balint は、Ferenzci,S. の臨床経験についての詳細な考察に基づき、治療状況における退行を両性と悪性に分類する。彼によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない関係性の成立が不可欠であるという。その退行は心の「新しい始まり new beginning 」を導くものであり、それによる現実への開眼とともに退行は終わる、とする。退行は患者の内的な問題を認識してもらうためのものであり、その際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。さらには臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がない、とされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回す必要のない雰囲気は何度も壊れ、また壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線や補償として絶望的に相手にまといつくという症状が現れる。悪性の退行は、「新しい始まり」に到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険や、嗜癖に類似した状態が発生する危険が絶えず存在する。
この悪性の退行は、外面的行動を他者からしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが極めて激しく、「重傷ヒステリー兆候」が存在し、通常の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わるという。以下 Balint (1968) を参照しつつ論じよう。
 Balint がさらに強調するのは、退行の関係論的な側面である。「退行とは単なる内界の現象ではなく対人関係現象でもある」(p.193)。そして Freud およびそれ以後の分析家のほとんど全員が対象関係における退行の役割に目をくれなかったと批判する。そのおそらく唯一の例外は先に見た Winnicott ということになろう。
その Balint の退行理論にあり、Winicott では強調されなかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott Balint が示しているのは、患者が持つ治療者へのある種の依存関係が治療にとって大きな意味を持つという視点である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のトラウマ状況に関する記憶の解凍が生じるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこには悪性の退行が生じ、そこにはある種の嗜癖状態が生じうるという点を指摘している点は注目すべきである。
ちなみにこの良性の退行、悪性の退行という分類についてBalint は「分析家の技法と振る舞いが万能的であるほど、悪性退行に陥る危険は高まるとする。逆に分析家が患者との間の不平等を減らすほど、分析家が患者にとって押しつけがましくない普通の人に見え、退行が良性になりやすくなるというのだ。(p. 226)要するに治療者の扱いにより、退行は良性にも悪性にもなるという主張である。これは「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」というWinnicott の主張と対照的である。この両者の対比は極めて重要な論点をはらんでいる。
この点は後の考察でも扱うが、筆者の基本的な見解は、結局は退行の性質を決めるのは、患者が持つ病理と環境因の双方であると考えざるを得ないということである。ただし比重としてはやはり患者が本来持つ病理におかれるべきであろう。人間は日常的にさまざまな対人関係を体験しているはずであり、そこには退行促進的な対象からの誘惑も含まれよう。Balint の言う万能的な対象に対してそれに誘い込まれることなく、むしろそこに怪しさや危険を感じ取り接近しないことも、重要な対人関係上の能力であり、その一部はおそらく生育環境により育まれていることであろう。その意味ではやはり「患者にすべて由来する」というWinnicott の考えが妥当であろう。

3.わが国における退行の理論

土居健郎の「甘え」理論
 わが国における対抗の理論の発展を考える上で触れておかなくてはならないのが、甘えと退行との関連性である。甘え理論の提唱者である土居は、すでに触れた E.Kris のすでに述べた概念(Kris、1952)に言及し、「精神分析療法自体このような『自我に奉仕する退行』を組織的に一貫して行なうものである、ということができる。」(土居、1961,p.43)と述べている。土居が患者が治療者に健康な甘えを示すことを治療の一環と考えた以上、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。
「精神療法と精神分析」(金子書房、1961)において、土居は以下のようにも述べている。少し長いが引用しよう。「 … われわれが物心つき始めた幼児について、彼は甘えているという時、この幼児は甘えられない体験を既に知覚しているので、そのために甘えようとしている、と考えられる。いいかえれば、日本語でいう場合の甘えの現象は、原始的葛藤と不安の存在を暗示していることになる。その葛藤は受身的対象愛が満足されないことによって生起したのであり、そのために意識的にこれを満足させようとする時に、甘えの現象が観察されると考えられるのである。」すなわち患者は甘えという受け身的な対象愛を満たされたかったといういわばトラウマを抱えたままで治療に参入することになる。
この文脈から土居は自らの理論とBalint のそれとの共通点を強調する。土居は Balint について「同じ発想をし」「考えが同一線上にある」(土居、1989p.112)と認めている。そしてそれは無論 Balint の退行理論にも同様に向けられていると考えていいであろう。(さらにはこの土居の発想は Winnicott の理論とも深くつながる。現在の英国における Winnicott 研究の第一人者である Abram, J は土居の甘え理論を詳細に読み込んだうえでこの点を強調し、「土居とWinnicott は基本的には全く同じ路線に立っている。土居がむしろ Balint の方に接点を見出したことの方が不思議である。」と論じている(Abram, 2016)
土居健郎 (1961)精神療法と精神分析」金子書房
土居健郎 (1989)甘えさまざま 弘文堂

松木邦裕の見解
次に松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。松木は以前から退行の意義を問い直す論考を発表している(1994,1998,2015)。松木はその2015年の論文で、精神分析の中でも特に退行概念を無視しているのが、英国クライン派であると主張する。ただし Klein, M 自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしており、むしろその後継者たちの中には、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちも多いという。そしてBion, Wの次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う」(Bion1960)。
松木は自らの退行理論を述べるにあたり、Menninger, K. Balint, M, Winnicott, D3名の分析家の退行理論をまとめる。そして Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であり、比較的単純な議論であるとし、むしろ Winnicott の退行理論に意義を見出す。
ちなみに松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、興味深い。彼は1994年に「精神分析研究」誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情などにも触れつつ論じる。彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」が過激すぎて物議をかもしたというのだ。彼は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向であるため、幼児帰りした母親の面倒を見る、というニュアンスを生むという。それに比べて転移なら二者心理学的で、未来志向である。そして松木はそのような視点は Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で評価に値するとする。その上で松木が問いかけるのは、退行の概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。そして退行の概念は転移の概念の中に発展的に吸収される可能性を示唆している。

松本邦裕(1994)退行について一その批判的討論 精神分析研究38:1-11
松本邦裕(1998)分析空間での出会い 人文書院
松木邦裕(2015)精神分析の一語 8 退行 精神療法 41743-753
Bion,W.1960Cogitation, Karnac Book, London

 
4.治療への応用可能性 - 筆者の考え

最後に筆者の考える退行の概念の意義について論じたい。退行の概念は、依然として精神療法に応用されるべき重要な概念であろう。松木(2015)が指摘するとおり、旧来の退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは性質が異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。すなわち退行も治療関係上に生じた転移の一つの形態として理解しうるものという考えだ。
 しかし筆者は転移の理解を必ずしも退行の取り扱いに優先されるべきものとして重んじる必要はないと考える。治療促進的な退行は、そこで転移現象が生じるような場として、まずは醸成されるべきものである。退行が明白な形では生じない治療関係における転移を取り扱うことには臨床的な価値は少ないであろう。
 一つの臨床状況を考えてみよう。
治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているので、患者は治療者を怖い父親のように感じたとしよう。治療者はその状況を感じ取り、患者に生じている父親転移について解釈を行うとしよう。
これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、治療関係がこのままではどこにも着地点を見いだせないであろう。なぜなら治療のある時点で患者が「実は先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるようになるためには、そのような雰囲気を生むような関係性の成立こそが治療の進展の前提条件となるからである。そしてそのような関係性においては、患者がある種の親しみと安心感を持ち、リラックスできるような状況が生まれていることだろう。問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしてそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにある。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味での退行は土居の文脈では甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、良性の退行に相当するであろう。
またこのように考えると、退行の中には、明白な転移が生じていない場合もありうることになる。そのような安心でき、甘えることの出来る関係を過去に主たる養育者との間でそもそも持てなかった可能性があるからだ。
 ところで甘えの見地から退行を考えることは、そこに患者の側の甘えを許容する治療者の側の態度も重要な要素となるという視点を促す。そもそも治療を促進する退行が成立するためには治療者の非防衛的な態度や適度の能動性が要求されることになろう。ある意味では治療者もまた患者に「甘え」られる必要があるのである。そしてそれは長期精神療法がなぜそれだけ時間がかかるのかということに対する回答ともなっている。適切な甘えの関係の醸成には時としては長い時間がかかるのである。
以上の議論を踏まえた上で筆者が提案するのは、新しい退行の概念であり、そこには幾つかの条件が満たされなくてはならない。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、退行はあくまでも関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。そしてそこには明白な転移が介在する場合もしない場合もある。
第二に、Balint の良性、悪性の退行は維持されるべきであり、後者に関する彼の「要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険や、嗜癖に類似した状態が発生する危険が絶えず存在する」という理解はそのまま継承することが出来よう。
第三には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が幼少時に実際には体験したことがない状態でありうる。上述の悪性の退行はおそらく患者が生育プロセスでは体験しなかった関係が特定の治療関係において生起するものと考えられよう。
この退行が生じた状況を思い浮かべることが難しい臨床家にとっては、甘えの概念が役に立つ。良性の退行においては患者の側も治療者の側も互いに甘えの感情を持ち、それを適切な形で表現できるような関係性と形容することが出来る。
ここですでに論じた、Winnicott Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点に立ち戻りたい。基本的には、悪性の退行は、治療関係があいまって生じることが考えられる。場合によっては治療者がごく常識的な対応をしていても悪性の退行が生じることもある。しかしその場合その悪性の退行を放置する治療者には何らかの逆転移、ないしは知識不足の要素がなくてはならないであろう。結論から言えば、その基本部分は患者の側に依拠するというのが筆者の主張である。悪性の抵抗は患者の持つこの嗜癖傾向あるいはボーダーライン心性と深い関連があろう。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」というDSMの診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおす必要があろう。