快を善とする心の成り立ち
人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が肯定することは、絶対的に肯定するものである。自分はこれに生きるのだ、と思う。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心をいやすべき自宅や棲家の感覚と近いと言ってもよい。
もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することは難しくなるであろう。しかし逆にそのような障害がないのであれば、その行動は、その人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験される。無条件の、と言ってもいい。人間とはそういうものだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだった。私が子供の頃の昭和の世界は、皆がどこでもタバコを吸い、通学のための汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、たばこの煙でもうもうとしていたものだ。
だからその「愛煙家」たちが突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと心から思うだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、彼らは心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって外になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくるだろう。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。
覚せい剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンのTが、こんなことを書いていた。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ ネット版 2016 年 2月12日(金) 配信)
覚せい剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごくよくわかる話である。いや、彼の薬物の使用を正当化しているわけではない。薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。休息といえば私たちにとって必ず必要なもの、適度な量ならばそれを得ることは当然肯定されるべきものである。その感覚が、覚せい剤を用いたときにも体験されるという点が興味深い。そしてその際両方の架け橋となっているのが、報酬系の興奮なのだ。
「ささやかな楽しみ」と報酬系
皆さんが毎日ある程度満足しながら生活を送っているとしたら、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後の冷たいビールかも知れない。仕事帰りのパチンコでもありうる。家族との夕食かも知れない。最近ならスマホをいじりながらダラダラと過ごす数時間も悪くない。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないし、ツイッターで発信したり、眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。それは生きがいとまでは呼べないとしても、一日がそこに向かって過ぎていくというところがある。あなたはそのような時間を肯定しているだろうし、自分の持っている権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?何かの法律だろうか? ちなみに日本国憲法にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(25条)。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系の刺激には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかはあまり問題ではないだろう。未開人は私たちのスタンダードからいったら決して「文化的な生活」を営んでいるとは言えないだろうが、それでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在するはずだ。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、そのような状況でさえも、彼らは「ささやかな楽しみ」を作り出すことで生き延びるはずである。
結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。「ささやかな楽しみ」は場合によっては文化的な生活が保障されていても得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。「ささやかな楽しみ」は「文化的な最低限度の生活」にも優先すると言ったら大袈裟だろうか?
私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちの大部分が精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを習慣として身に着けたのであろう。そしてそれはおそらく善、悪の母体となった可能性がある。そしてそれをよきものとした個体が生き残ってきたものと思われる。
ここで報酬系の関与する快、不快が善、悪と言った倫理観と結びつくという主張は、この章の一番のポイントである。ひとことで言えば、心地よい活動に浸っている時は、私たちはそれに対する超自我的な姿勢を放棄することなのだ。それは「ささやかな喜び」をよりスムーズに、抵抗なくその人が味わうための詭計と言ってもいい。
しかし……ここで大きな問題があるのは確かなことである。「ささやかな楽しみ」はしばしば自分の中でも社会でも葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済ませられないと言われてしまう可能性がある。コメディアンTにとっては、一時の覚せい剤がこの「休憩」だった。それはTの人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「休憩」でもある。この場合は報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったり恐ろしい陥穽であったりするのだ。
「報酬系の興奮イコール善」とする根拠
それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。肯定されるべきこと。それを行うことが誰からも非難されず、むしろ支持され肯定されるという感覚を生むこと。そして周囲に幸せをもたらすこと。
これが快楽と結びつくのには理由があるのであろうか? おそらくあるのだろう。善と快は生物の誕生から結びついていた、というのが私の仮説である。
善とは、それを執行することにいかなる形での抑制も存在しないものではないか? つまり「それが他を傷つけるのではないか?」「他から攻撃をこうむるのではないか?」「自分がそのために傷つくのではないか?」という類の抑制や懸念から解放され、無心に一途に向かっていくべきことである。そしてそれは、生物が生命を維持する上で最も重要な機能にも直結するはずだ。 Cエレガンスはがん患者の尿の発するある種の物質に向かって泳ぐ。おそらくそれは彼にとっての生存の可能性を高める。匂いに向かって泳ぐことに迷いがない個体の生存率がそれだけ高かったから、ここまで生き延びているはずだからだ。快を与える行動を無条件に選び、志向する個体。これが適応する生物の原型なのだろう。
生命の進化において、心地よさが無条件で選ばれることは、おおむね適応的なのだろう。しかし快がことごとく生命の維持にとって合目的的という保証は、現代においてはより少なくなっているのではないか? 飽食の時代には食べ物は町に溢れている。快を追及するならば、人は永遠に口当たりがよく安価なジャンクフードを摂取し続け、健康を害することが目に見えている。それが純粋に善であるというわけなどない。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残ってしまう。そしてコメディアンTのように、覚醒剤が「休息」として体験され続けるのだ。
結局は報酬系に従うことが健康の秘訣?
もちろんこう言い切ることには無理がある。覚せい剤依存症の人の報酬系は、いわば覚せい剤によって乗っ取られた状態にあるが、それに従い覚せい剤を使用し続け、自分の人生や家庭を破滅に追いやるのが正しいわけはない。しかし彼らの報酬系は、人工的な状況ないしは物質の使用により、本来あるべき姿がゆがめられたものである。人が自然に生じ、展開していく人生の中でその姿を形作っていく報酬系がある活動を希求し、それにより満足体験を得るのであれば、まずそれに従うことを選択し、その上での社会適応を望むことが順番としては正しいであろう。もしそれが可能な場合、その人の人生は最も充実したものとなる可能性がある。
たとえば幼いころより絵を描くことが好きで、常にスケッチブックを持ち歩いていたり美術クラブで絵筆をふるうような人は、人や物を視覚的に描くような仕事に就くことはその人の人生をより充実したものにするだろう。もちろんその人にとっては絵を描くことが純粋に楽しい、というわけにはいかないであろう。芸術家や美術の先生という道を選ぶとしても、自分の好きなテーマばかりを選んでいては、経済的に満たされ、自分や家族を支えるわけにはいかない。注文に応じた作品や、大衆受けする作風の絵を自分の本来描きたい絵とは別に描く必要も生じるだろう。しかし本質的に絵を描くことが好きであれば、それに耐え、そこから新しい発想を得ることも可能であろう。
私はここから漫画家水木しげる氏にバトンタッチして、彼の主張を紹介したい。彼の著書「水木サンの幸福論」には以下の7か条が記されている。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目には見えない世界を信じる。
(『水木サンの幸福論』)
このうち第二条、第四条は単刀直入に、「好きなこと(報酬系を刺激すること)をせよ」という考えを表明している。もちろん彼は自分の人生に照らし合わせて、妖怪にすべてを捧げた自分の興味のことを語っている。ところが第一条、第五条、そして考え方によっては第三条も、「好きなことをせよ」を遂行する上でどうしても必要になる心構えなのだ。第一条は「好きなこと」を成功や名誉のために行うことへの戒めであるが、もちろん成功や名誉がついてくるのであれば、それに越したことがない。しかし本来「好きなこと」はそれ自身で完結していて、それでついでに成功や栄誉が付いて回るのは、純粋に幸運な場合だけである。読者はここで、私が論じているのは『報酬系を刺激すること』であり、そこに才能や作品の巧拙を含んでいないということに気づくだろう。私は誰でも一つや二つは、自分の報酬系をいたく刺激するようなことを持っていると思うが、それがたまたま才能を伴っていることはかなり少ないと考えている。好きなことをやって生きることはむしろ、成功や栄誉を諦めることと対になっているべきことなのである。
その意味では私は水木先生の幸福論に対しては私なりの異論がある。それは水木先生には妖怪漫画の才能と運の両方があったのだ。もしないとしたら、これほど達観できないだろう。