2016年8月31日水曜日

推敲 13 ⑥

しかしこれにはもう少し事情があるらしい。米国で大恐慌が起きたころ、時給で働いていた消防夫の中には、故意に野に火を放つ人もあったという。要するに自分で仕事を作っていたわけだ。大火事になる前に消し止めるのであれば、それだけ罪の意識も軽かったのである。「消防夫は放火癖でもあるというのは都市伝説にすぎない」と断言できるには、事態は複雑すぎるということらしい。
 ある米国の研究では、182の火事を起こした75人の消防夫は、パワーと興奮を欲していたというが、そもそもこのような統計がとられることからも、放火を起こす消防夫は実際にかなりの数がいるらしいという疑いも、また完全に否定はされないというところもある。
 
少し距離を置いて眺めよう。「放火ハイ」、などというテーマで始めたが、そもそもそのような概念自体が妥当なのか?ある学者は、そもそも放火癖 pyromania という概念そのものが都市伝説化しているともいう。そもそも彼らが放火することに性的な快感を覚えるというのは、フロイトの説からきているという。フロイトによれば、放火癖は大部分が夜尿症であった男性であり、放尿により火を
コントロールしたいという願望が隠されているという。しかし現代の精神医学者は、放火癖の人の中で性的興奮を体験するのは極めて少数であるというのだ。
 ある研究によれば、刑務所にいる150人の放火犯を調査したところ、精神医学で用いられている放火癖に見合う人は一人もいなかったという。彼らの放火の動機はいずれかに分類された。興奮、仕返し、金銭的な見返り、ほかの事件のカバーアップであったという。(興奮、というのは放火癖に特徴的ではないかと思うのだが・・・・・。)
別の研究では、放火犯の半分は未成年であり、怒りの表現やストレスの発散、あるいは注意をひくためなど、様々な理由があるという。そして放火は、それ以外の精神的な症状に乗っかったものというのだ。実際に法務省の発行する犯罪白書(平成27年度版)を参照しても、放火約600件のうち、精神障害の影響とみられるのは、17.4にとどまっている。つまり放火癖などの精神障害による放火は六分の一程度ということだ。(ただしここには差引勘定がある。この中には放火癖以外の精神障害、例えば統合失調症や薬物中毒なども含まれる。もちろんすべてが放火癖ではない。また実際には放火癖であっても、純粋の犯罪とみなされて精神障害にカウントされない人たちも大勢いる可能性があるのだ。)
 最後に日本でも戦後大きな話題になった金閣寺の放火について一言。19507月に、あの金閣寺が放火にあい、焼失した。当時はよほど騒がれたことだろう。しかしこれも犯人は放火癖とは異なるようだ。金閣寺子弟の見習い僧侶の大学生(当時21歳)が放火ののち行方不明になり、捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で睡眠薬を飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。ちなみにこの事件が三島により「金閣寺」として小説化されたことは知られる。その彼の分析した放火の原因。「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」(ほんとかいな。)後日談だが、犯人はのちに精神鑑定を受け、服役中に統合失調症を発症し、その数年後の1956年に後病死している。
 最後に私の個人的な考えである。放火の特徴は、たったマッチ一本で大事件を起こすということだ。ある建造物が、そのごく一部に火を放つだけで、数分後には業火に包まれるのだ。壮大なドミノ効果である。しかも「凶器」はコンビニで簡単に、しかも怪しまれることが一切なく購入できるライターなのだ。それに夢中になり、興奮を覚える人間がいて不思議ではない。放火は究極の復讐や破壊行為であり、攻撃性の発露として選ばれる手段の中でも特殊なのである。何も放火癖でなくても、放火は犯罪の手段としていくらでも選ばれる可能性があるのだろう。

2016年8月30日火曜日

推敲 13 ⑤

放火ハイ
困ったことに・・・・人の家に火を放ってハイになる人がいる。彼らは放火癖、ないしは巷では放火魔、と呼ばれる。 
 そんなある少年の話をしよう。彼は小学生のころ、近くで起きた家事を見たときに不思議な興奮を覚える。どこかに高揚感があったのであろう。ライターの炎を見ていると吸い込まれるように感じ、手を離さずに火傷したことも何度かある。最初は火を見る時の快感をあまり異常とは思わなかったが、消防士という職業を知り、漠然と憧れるようになる。
 実はアメリカには一つの都市伝説がある。それは消防夫のかなりの割合が放火癖であるというものだ。もしそうだとすると彼らが一所懸命消している火事の一部は、彼らの仲間の誰かが火をつけていることになる。そしてもう少し想像力を果たせるならば、彼らはお互いにだれが放火をしているかを知っていて、もちろん誰にも口外しない。放火犯として捕まってほしくないのだ。彼らはいずれにせよ仕事がしたいのだから。
ここまで書いて急いで断っておく。以上は都市伝説でしかない。消防士のほとんどは善良な市民であり、火事から人を守るために献身的に働いてくれているのだ。その中で極めてまれに、放火癖が紛れ込んでいるという可能性があるのだろう。
消防士イコール放火癖、という都市伝説は嘘であるということを後程証明するための記事を紹介するが、その前に放火癖について復習したい。心の病の最新のマニュアルであるDSM-5には以下の診断基準が掲げられている。
A. 2回以上の意図的で目的をもった放火。(一回ではダメ、ということか。)
B. 放火の行為の前に緊張感または感情的興奮。(ほとんどの「ハイ」につきものである)
C. 火災およびそれに伴う状況(例:消防設備、その使用法、結果)に魅了され、興味をもち、好奇心をもち、ひきつけられること。
D. 放火した時の、または火事を目撃したり、またはそこで起こった騒ぎに参加する時の快感、満足感、または開放感。
E. その放火は、金銭的利益、社会政治的イデオロギーの表現、犯罪行為の隠蔽、怒りまたは報復の表現、生活環境の改善、幻覚または妄想への反応、または判断の障害の結果〔例:認知症、知的障害(知的発達症)、物質中毒〕によってなされたものではない。
以下略。(以上『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』(医学書院)による。)
ニューヨークタイムズに面白い記事があったから紹介しよう。
Do Firefighters Like to Set Fires? Just an Urban Legend, Experts Say By ERICA GOODE New York Times,  July 9, 2002


2000年ごろ、山火事を起こしたことで捕まった二人が、それぞれ消防団に属していたこともあり、上記のような都市伝説が生まれたらしい。しかし司法精神医学の専門家は、消防夫は放火を犯しやすいというデータはないということである。(つづく)

2016年8月29日月曜日

推敲 13 ④

コンバットハイ
戦争における「人殺し」の心理学 (デーヴ グロスマン (), Dave Grossman (原著), 安原 和見 (翻訳)2004年((ちくま学芸文庫)– 2004年)は、報酬系についての優れた情報を提供してくれる。
著者はその中でコンバットハイ、すなわち「戦争中毒」という状態を紹介する。「銃撃戦の際に、体内に大量のアドレナリンが放出され、いわゆる戦争酔いになるため」とある。ただし「アドレナリンが出る」という表現は英語ではしばしば用いられるが、正しくはドーパミンの放出ということになろう。
このコンバットはいは、著者(グロスマン)が本書の別の項目で強調している点、すなわち人間は本来いかに加害行為を恐れ、忌避するかという問題とは別の問題である。こちらは人を撃ったことの快感に関する問題だからだ。
 
戦闘中に他人を殺めたことで得られた快感を人はあまり話題にしないという。とくに現代では、そのような体験を口にしただけで、たちまちとてつもないバッシングに遭うからだ。
本来ハンターや弓矢の射手がターゲットを倒した時に、快感を覚えることはごく普通のことであろう。ビデオゲームなどでシューティングゲームがいまだに主流を占めていることを考えればわかる。しかしもちろん戦場で人を撃つとなると話は全く違うはずである。シューティングゲームのファンは通常は社会における善良な市民である。動物を狙うハンティングにすら嫌悪感を覚えても不思議ではない。そのような善良な市民が戦争に駆り出されて前線で敵に向かって撃つという体験を持つ。初めは全く不本意に、単に義務感に駆られ、あるいは自分の生命を守るために相手に弾を放つ。しかしその結果としてある種の快感を体験してしまうということもあるだろう。そのような兵士もまたある意味では戦争の犠牲者なのであろう。ちょうど善良な市民が無理やりヘロインやコカインを使用させられ、廃人になるようなものである。
コンバットハイにおいては、中、長距離で殺人に成功した場合に特にそれに陥りやすいという。すると一度帰還しても、すぐに戦場に舞い戻りたいと思っていた兵士が存在するという。彼らは、「究極のでかい獲物のハンティング」と呼ぶそうだ。しかしこれは極めて危険な状態でもあるという。なぜなら次の一発の為なら破れかぶれで何でもするようになるからだという。そのような体験をする。
私は時々思うのだが、狩猟とはきわめて矛盾に満ちた行為である。射撃をスポーツと割り切り、空中に投げ上げられた標的を打ち落とするのであればまだいい。しかし基本は動物を射止めるのがハンティングである。その名手が反社会性や残虐性を備えているというわけではない。ゴーグルや耳あてを外せば善良なお姉さんやオジさんだったりする。しかしその世界で生計を立てたり、それに熱中したりする人の中には、必ずやこの種の快感を体験する人がいるはずだ。そしてそれは必然的にそうでなければならない。なぜなら狩猟は私たち祖先が、人類の歴史の99.9パーセントにおいてそれを首尾よく行うことにより生きながらえてきたからだ。よき狩猟者であることは適者生存の原則に合致し、私たちのDNAに組み込まれていることになる。しかしそれは同時に殺戮行為であり、獲物に著しい苦痛や恐怖を味あわせるきわめて残虐な行為なのである。
ここで問うてみよう。コンバットハイに陥る人は反社会性を備えたサイコパスなのであろうか?サイコパスであれば、他人に危害を加えることを快感と感じても不思議ではない。しかしサイコパスはそれこそ幼少時から、動物を虐待したり他人に暴力をふるったりという行為がみられるはずである。他方戦場で敵を撃つことの快感に「目覚めて」しまった場合はどうだろうか?その場合はコンバットハイはしばしば強烈な罪悪感や自己嫌悪を引き起こすに違いない。しかしそれでも自分をコントロールできないほどにそれを生きがいに感じるようになったとしたら・・・・。昔から小説に出てくるような用心棒や殺し屋のイメージが重なる。私がこの問題を考えるときいつも頭に思い浮かぶ浅田次郎の作品を紹介しておきたい。
一刀斎夢録 (文芸春秋社)
宣伝文句もアマゾンからコピペしておこう。
「飲むほどに酔うほどに、かつて奪った命の記憶が甦る」――最強と謳われ怖れられた、新選組三番隊長・斎藤一(さいとう・はじめ)。明治を隔て大正の世まで生き延びた一刀斎が近衛師団の若き中尉に夜ごと語る、過ぎにし幕末の動乱、新選組の辿った運命、そして剣の奥義。慟哭の結末に向け香りたつ生死の哲学が深い感動を呼ぶ。…」
浅田により描かれているのは、人情のわかる、優しい、しかし人斬りの快感に目覚めている、極めて複雑な人物なのである。

 スカイダイビング・ハイ
ある芸能人が罰ゲームでスカイダイビングをやらされ、高所恐怖症気味なために、実際に飛び降りるまで大騒ぎだったと言う。着地したところをインタビュー使用と近づくと、涙を流している。さぞ恐怖から解放されて安心したのかと思ってきくとこう答える。
「こ、こんなすばらしい体験があるなんて知らなかった・・・・」。
スカイダイビングに根強いファンがいるのは、やはり彼らが体験するハイのためだろう。彼らはすべての重力からの開放感を語る。鳥のようになったようだ、というのだ。しかし結局はアレ、報酬系である。
スカイダイビングを忌避する人は、よくジェットコースターの感覚を思い出すという。あのまっさかさまに落ちていくような感覚。体中が悲鳴を上げるような感覚を純粋に快感と思う人は少ないのではないか。もちろんそれも含めて繰り返したいという人がいるからアミューズメントパークは成り立っているのであろうが。でも「夫は日曜日は朝早くから富士急ハイランドに行き、何度も何度もジェットコースターに乗り、給料を使い果たしてしまうんです…」という訴えをこれまでに聞いたこともない。
スカイダイビングの専門家はこう説明する。もともと飛行機に乗っている時点で、体は時速100マイルで移動しているのです。それでも何も感じないでしょう?そこから放り出されると、空気抵抗により120マイルの定速での移動に代わるだけです。すると巨大な空気という布団に包まれているような爽快な気分になるのです・・・・。
もちろんこの快感だけではないあろう。もしパラシュートが開かなかったら?このまま地面にたたきつけられたら・・・・・。そのような恐怖も相まって体験される快感なのであろう。しかしそれだったら何百回もダイビングをしている、絶対に死ぬはずはないと自信のある人がそれでも快感を覚えるのはなぜだろう?うーん、これはやってみるしかないな。
 スカイダイビング・ハイについては興味深い研究がある。ひところで言えば、脳の左眼窩前頭皮質(OFCの容積が大きい人ほど、初回スカイダイビングで快感を味わうのだと言う。さらに詳しく紹介すると、眼窩前頭皮質の中でも特に内側部は快感と、外側部は不快体験と結びついているということだ。そして内側部が大きい人は、より大きな快感を味わうことができる。また快感を味わうことの難しいうつ状態の患者の内側眼窩前頭皮質の容積は小さくなっているという報告がある。さらに統合失調症の患者の体験するアンヘドニア(享楽不能、喜びを感じられない状態)は内側眼窩前頭皮質の容積と逆比例であるという。つまり内側眼窩前頭皮質は、快感の強さそのものではなく、体験から喜びを得られる能力と関係していると考えるべきであろう。
 Carlson JM, Cha J, Fekete T, Greenberg T, Mujica-Parodi LR.Left medial orbitofrontal cortex volume correlates with skydive-elicited euphoric experience. Brain Struct Funct. 2015 Nov 7.


2016年8月28日日曜日

推敲 13 ③

食べることのハイ

食に伴うハイは、精神医学的に極めてなじみの深い現象である。ただしこれを本当にハイと呼ぶべきかについては議論の余地があるであろう。
いわゆるブリミア(神経性過食症) の人は、過食するものとして、たいていは自分にとって好きで口当たりが良いと感じる食料品を選ぶ。時には食べた後のこと、すなわち嘔吐する際のしやすさということも、食品を選ぶ根拠となる。それこそ菓子パンを20個を買ってきて、家で平らげる、というようなことが起きる。たいていは近くのコンビニで買うが、さすがにそれを頻回にやると顔を覚えられるので、遠出をしてあまりなじみのないコンビニを使ったり、数個ずつ分けて購入したりする。
家に帰ると誰にも見られず、一人で過ごせる空間を確保し、買ってきた食品を一気に食べ始める。食べている最中は「時間が止まった感じ」を報告する人も多い。確かに報酬系は刺激されている状態ではあるが、心地よいのか、ハイなのか、と問うた場合、答えは少し微妙になる。もちろん食べ始めた時から自己嫌悪やうしろめたさはすでに起き始めていることが多い。食べている姿は誰にも見せられないと感じ、こそこそと隠れるようになるしかない。家族と同居しているならば、それだけ買い込んで家に持ち込んでいるところから隠さなくてはならない。それだけの食べ物を一気に摂取する人は、その後に吐くという行為が伴う。彼女たちがあれほど恐れている体重の増加を避けるためには、トイレに駆け込むタイミングを見計らわなくてはならない。この嘔吐という行為も強烈に自己嫌悪を起こすプロセスだ。
   (中略)
 
この一連のプロセスを彼女たちは大いなる苦しみを持って行う。死んでしまいたいと思う気持ちもわからないではない。食べることもまた例の not liking, but wanting (気持ちはよくないがやめられない)が当てはまるのであろう。
しかし他方では「ダイエットハイ」という言葉もある。つまり食べないことでハイになる場合もある、ということだ。これは絶食して30時間以上たつと、ストレスホルモンのひとつであるCRFという物質が視床下部から分泌され、それが結果的に、ランナーズハイのところで出てきた、βエンドルフィンを分泌させるということらしい。ことらしい、というのはこの情報、ネットにかかれてはいるが、出典も明らかではないからだ。そもそもストレスに関連するホルモン、例えばCRF, ACTH,コルチゾールなどが脳において及ぼす影響は多岐にわかり、分かっていないことばかりということらしい。疲れても眠れないのはACTHのせい、とかいう話も聞いたことがあるが、うろ覚えだ。本を書こうとしている人間としては、こんなことでは困る。とはいえ、何も専門家のための本を書いているのではない。私に言えるのは次のようなことだ。

一般にあらゆるストレスがハイに関係している可能性があるといってよい。ストレスを感じると、視床下部からCRHという物質が出る。体がストレスに反応するための臨戦態勢を取る最初の反応だ。するとすぐ下にある下垂体からACTHが出て、それが副腎を刺激してコルチゾールを出す。コルチゾールが多くなると、視床下部でCRHにネガティブフィードバックのループが機能してストップがかかる。そして、この複雑なメカニズムのどこかに、ハイになる要因がある。それはCRH(CRF)かも知れない。しかしコルチゾールの分泌もハイに関係しているという記述も見られる。

首絞めハイ

信じられないだろうが、「首絞めゲーム」「気絶ゲーム」なるものが存在する。要するに首を絞めて脳を酸欠状態にしてハイを味わうというゲームである。英語圏ではChoking game (まさに「首絞めゲーム」, fainting game (失神ゲーム)などと呼ばれる。 欧米に限られると思いきや、わが国でも、例の「阿部定」でひところ話題になったこともある。(これについては少し後に述べよう。)米国やカナダでは、特に思春期の若者にこのゲームが蔓延し、不慮の事故死につながる例も数多く報告されている。彼らは、ドラッグよりも安全に、ハイになれるという。ユーチューブにも、遊び半分でやっている映像が見られる。友達同士で首を絞め合っては一瞬気絶することによる快感を味わう。
問題は脳の酸欠状態が一種のハイの状態を作り出す可能性があるということだが、もちろんそのようにはうまく行かず、また単にハイを得るだけの首絞めが、縊死に至ってしまうという場合が少なくないらしい。想像していただくとわかるだろう。快感を得るために、自室で自分で首を絞める。そのうち快感より先に失神が生じてしまう場合も十分ありうる。当然手の力が緩み、首の緩むのを期待する。しかしひも自体が絡まったり緩んでくれなかったら・・・・・、後は死を待つのみだ。実際に若者が自殺を意図したのか、あるいは単にハイを求めていたのかが、検死でもわかりにくい場合も少なくない。
 首絞めハイの世界は奥が深く、様々なバリエーションが存在するが、ひとつには、そこに性的な快感が伴うかどうかという違いがあるという。そうである場合も、そうでない場合もあるのだ。
 巷でよく知られる阿部定事件。これにも首締めによるハイが関係していたことは、あまり知られていない。
 阿部定事件は、1936年に仲居であった阿部定が同年5東京市荒川区尾久待合で、情事の最中に愛人の男性の首を絞めて殺害し、局部を切り取っ逃走
事件である。その事件が猟奇的であるため、世間の耳目を集めた。性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年520)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。以下は文献の引用。
 1936(昭和11年)516の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチン(睡眠薬)を購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれおまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している・・・・。
前坂俊之(編)『阿部定手記』 中公文庫、1998
伊佐 千尋 () 『阿部定事件―愛と性の果てに」 新風舎文庫 2005

2016年8月27日土曜日

推敲 13 ②

ランナーズハイ

こちらの「ハイ」の例は、サドルや雨合羽よりははるかに無難であろうし、共感を持つ人も多いはずだ。皆さんもよく知っているランナーズハイ。この話には必ずといっていいほど出てくる、脳内麻薬物質のエンドルフィンの分泌、という記載。一部の人が走ることに快楽を覚えるのは疑いない。東京マラソンに応募する人々の多さを考えればいい。体を動かすことは苦痛であると同時に大きな快楽の源泉になる。子供が駆け回る様子を見ても、子犬がじゃれ合っているのを見ても、それが純粋な快楽の源泉になっていることは自明だろう。もちろん大人になるにつれ体を動かすことは子供に比べてはるかにおっくうになって行くわけだが、それでもマラソン大会が開かれると、結局はたくさんの老若男女が集まるわけだ。
私がかつて示した快楽の源泉の一つ、すなわち脳のネットワークの興奮は、それ自身が緩徐に報酬系を刺激するという原則をここで思い出して欲しい。単細胞生物が走性をすでに発揮している時点で、パンクセップの言う「探索モデル」が働いている時点で、動き回ることそのものがデフォールトとしての快楽を提供することは生命体にその運命として与えられていたのだ。生命体は、動きたくなければ植物になればよかっただけの話なのだ。報酬系を持たない植物は、報酬勾配に従った動きをする必要もなく、したがって動きを封印されている(必要としていない)というわけである。
途方もない距離を走るいわゆる「ウルトラ・ランニング」の伝説の人といわれるヤニス・クロスは次のように書いているという。
「人はどうしてそんな長距離を走るのかと尋ねる。理由はない。ウルトラランニングの最中、私の体はもう少しで死ぬというところまで行く。私の心がリーダーシップを取らなくてはならなくなる。とてもつらい状況では、私の心と体が戦争を始めてしまう。もし体が勝てば、私はギブアップだ。もし心が勝てば、走り続ける。その時に私は自分が体の外にいると感じる。まるで私の体が自分の前にいて、心が命令をして体がそれに従う。これは特別な気分であり、とても好きだ。とても美しい気分だし、私のパーソナリティが体から離れる唯一の瞬間なのだ。」(Yiannis Kouros : A War Is Going On Between My Body and My Mind," Ultrarunning, March 1990, p. 19.)
"Some may ask why I am running such long distances. There are reasons. During the ultras I come to a point where my body is almost dead. My mind has to take leadership. When it is very hard there is a war going on between the body and the mind. If my body wins, I will have to give up; if my mind wins, I will continue. At that time I feel that I stay outside of my body. It is as if I see my body in front of me; my mind commands and my body follows. This is a very special feeling, which I like very much. . . It is a very beautiful feeling and the only time I experience my personality separate from my body, as two different things."


2016年8月26日金曜日

推敲 13 ①

13章 いろいろなハイがある

報酬系を知ることは、そこにいかに個人差があり、人により何が快感につながるかがいかに異なるか、ということである。本章ではそれらをいくつか紹介することにする。

サドル窃盗男は本当に「変態ではない」のか?

2013年、神奈川県の35歳の男性が、自転車のサドルを多数盗んだとして逮捕された(新潮4520164月号)。男の部屋からは約200個の自転車のサドルが見つかったという。「においを嗅いだり舐めたりするのに欲しかった」そうである。以下はライターのインベカオリ氏の記述を参考にする(新潮4520164月号)。
201212月ごろ、神奈川県横浜市某所では、女性用の自転車に限ったサドルの盗難が相次いだためにプロジェクトチームを立ち上げた。そして監視カメラのデータ等から、男がマンションの駐輪場などで早朝を狙ってサドルを盗む行為が明らかになった。警察の供述調書で、男は語っている。「サドルの匂いについて具体的に話しますと、洗濯に使う柔軟剤のような匂いや、香水のようなよい匂いのものがあったり、逆にカビ臭いような嫌な臭いのものがあり、感触については例えば難しいのですが、固めのマシュマロのような感じなのです。」「私は去年の夏過ぎ頃から、自転車に乗っている若い主婦をみて、サドルに女の人の股部分がついている姿に興奮を覚え、またそれに加え革フェチで、サドル独特の革の質感が好きだったことから女性の乗るサドルを手に入れて触って匂いを嗅いでみたり舐めてみたいと思うようになったのです。」さらには革の匂いを嗅ぎながらマスターベーションを行い快感を得たとの供述もある。
このケースで不思議なのは、のちに不起訴になったこの男性が「報道され、深刻な名誉棄損を受けた」としてマスコミ各社を訴えたことである。「サドルフェチ」的な報道に深く名誉を傷つけられたということだ。しかしそれは逆に本人が否定している部分を逆に浮き彫りにしてしまった感がある。
このサドル窃盗事件で興味深いのは、自転車のサドルという、通常はそれを危険を冒してまで集めようと思わないものに、この男が執着していたことだが、話を聞いてみるとそこに理解できない部分がないわけではない。よく聞かれる下着泥棒とその本質は変わらないであろう。
最近(20165月)一部で話題になったのが、匂いに興奮して(「ハイ」になって)30着の雨合羽を盗んだ32歳の男性の話である。それもヤクルトレディーのものに特化したとのこと。これなども完全な変態扱いである。そしてサドル男と本質は変わらない。彼自身の持つ報酬系の興奮を得る手段が、ほかの人とちょっと違っているというそれだけだ。
結局私が言いたいのは次のことである。報酬系が何により興奮するのかは、人によって全く異なるのだ。その一部は生活習慣により決まり、別の一部には遺伝が関係し、別の一部はおそらく偶然により左右される。しかしそうはいっても読者はどの実情を知らないかも知らない。第●●章でもふれたように、報酬系は一種のランドスケープを持っている。その人にとってはある細かな条件をいくつも満たすことで初めて興奮をしてくれるような厄介なところがあるのだ。中年オヤジの自転車のサドル、というだけでももう駄目なのである。(大きな違いがある、という声も聞こえるが…。)

2016年8月25日木曜日

推敲 12 ②

快を善とする心の成り立ち

人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が肯定することは、絶対的に肯定するものである。自分はこれに生きるのだ、と思う。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心をいやすべき自宅や棲家の感覚と近いと言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することは難しくなるであろう。しかし逆にそのような障害がないのであれば、その行動は、その人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験される。無条件の、と言ってもいい。人間とはそういうものだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだった。私が子供の頃の昭和の世界は、皆がどこでもタバコを吸い、通学のための汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、たばこの煙でもうもうとしていたものだ。
 だからその「愛煙家」たちが突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと心から思うだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、彼らは心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって外になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくるだろう。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。

覚せい剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンのTが、こんなことを書いていた。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ ネット版 2016  212(配信)
覚せい剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごくよくわかる話である。いや、彼の薬物の使用を正当化しているわけではない。薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。休息といえば私たちにとって必ず必要なもの、適度な量ならばそれを得ることは当然肯定されるべきものである。その感覚が、覚せい剤を用いたときにも体験されるという点が興味深い。そしてその際両方の架け橋となっているのが、報酬系の興奮なのだ。

「ささやかな楽しみ」と報酬系

皆さんが毎日ある程度満足しながら生活を送っているとしたら、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後の冷たいビールかも知れない。仕事帰りのパチンコでもありうる。家族との夕食かも知れない。最近ならスマホをいじりながらダラダラと過ごす数時間も悪くない。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないしツイッターで発信したり、眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。それは生きがいとまでは呼べないとしても、一日がそこに向かって過ぎていくというところがある。あなたはそのような時間を肯定しているだろうし、自分の持っている権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。  
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?何かの法律だろうか? ちなみに日本国憲法にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(25)。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系の刺激には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかはあまり問題ではないだろう。未開人は私たちのスタンダードからいったら決して「文化的な生活」を営んでいるとは言えないだろうが、それでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在するはずだ。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、そのような状況でさえも、彼らは「ささやかな楽しみ」を作り出すことで生き延びるはずである。

結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。「ささやかな楽しみ」は場合によっては文化的な生活が保障されていても得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。「ささやかな楽しみ」は「文化的な最低限度の生活」にも優先すると言ったら大袈裟だろうか?
私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちの大部分が精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを習慣として身に着けたのであろう。そしてそれはおそらく善、悪の母体となった可能性がある。そしてそれをよきものとした個体が生き残ってきたものと思われる。
ここで報酬系の関与する快、不快が善、悪と言った倫理観と結びつくという主張は、この章の一番のポイントである。ひとことで言えば、心地よい活動に浸っている時は、私たちはそれに対する超自我的な姿勢を放棄することなのだ。それは「ささやかな喜び」をよりスムーズに、抵抗なくその人が味わうための詭計と言ってもいい。
しかし……ここで大きな問題があるのは確かなことである。「ささやかな楽しみ」はしばしば自分の中でも社会でも葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済ませられないと言われてしまう可能性がある。コメディアンTにとっては、一時の覚せい剤がこの「休憩」だった。それはTの人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「休憩」でもある。この場合は報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったり恐ろしい陥穽であったりするのだ。

「報酬系の興奮イコール善」とする根拠

それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。肯定されるべきこと。それを行うことが誰からも非難されず、むしろ支持され肯定されるという感覚を生むこと。そして周囲に幸せをもたらすこと。
 これが快楽と結びつくのには理由があるのであろうか? おそらくあるのだろう。善と快は生物の誕生から結びついていた、というのが私の仮説である。
善とは、それを執行することにいかなる形での抑制も存在しないものではないか? つまり「それが他を傷つけるのではないか?」「他から攻撃をこうむるのではないか?」「自分がそのために傷つくのではないか?」という類の抑制や懸念から解放され、無心に一途に向かっていくべきことである。そしてそれは、生物が生命を維持する上で最も重要な機能にも直結するはずだ。 Cエレガンスはがん患者の尿の発するある種の物質に向かって泳ぐ。おそらくそれは彼にとっての生存の可能性を高める。匂いに向かって泳ぐことに迷いがない個体の生存率がそれだけ高かったから、ここまで生き延びているはずだからだ。快を与える行動を無条件に選び、志向する個体。これが適応する生物の原型なのだろう。
生命の進化において、心地よさが無条件で選ばれることは、おおむね適応的なのだろう。しかし快がことごとく生命の維持にとって合目的的という保証は、現代においてはより少なくなっているのではないか? 飽食の時代には食べ物は町に溢れている。快を追及するならば、人は永遠に口当たりがよく安価なジャンクフードを摂取し続け、健康を害することが目に見えている。それが純粋に善であるというわけなどない。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残ってしまう。そしてコメディアンTのように、覚醒剤が「休息」として体験され続けるのだ

結局は報酬系に従うことが健康の秘訣?
  
もちろんこう言い切ることには無理がある。覚せい剤依存症の人の報酬系は、いわば覚せい剤によって乗っ取られた状態にあるが、それに従い覚せい剤を使用し続け、自分の人生や家庭を破滅に追いやるのが正しいわけはない。しかし彼らの報酬系は、人工的な状況ないしは物質の使用により、本来あるべき姿がゆがめられたものである。人が自然に生じ、展開していく人生の中でその姿を形作っていく報酬系がある活動を希求し、それにより満足体験を得るのであれば、まずそれに従うことを選択し、その上での社会適応を望むことが順番としては正しいであろう。もしそれが可能な場合、その人の人生は最も充実したものとなる可能性がある。
たとえば幼いころより絵を描くことが好きで、常にスケッチブックを持ち歩いていたり美術クラブで絵筆をふるうような人は、人や物を視覚的に描くような仕事に就くことはその人の人生をより充実したものにするだろう。もちろんその人にとっては絵を描くことが純粋に楽しい、というわけにはいかないであろう。芸術家や美術の先生という道を選ぶとしても、自分の好きなテーマばかりを選んでいては、経済的に満たされ、自分や家族を支えるわけにはいかない。注文に応じた作品や、大衆受けする作風の絵を自分の本来描きたい絵とは別に描く必要も生じるだろう。しかし本質的に絵を描くことが好きであれば、それに耐え、そこから新しい発想を得ることも可能であろう。
私はここから漫画家水木しげる氏にバトンタッチして、彼の主張を紹介したい。彼の著書「水木サンの幸福論」には以下の7か条が記されている。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目には見えない世界を信じる。
(『水木サンの幸福論』)

このうち第二条、第四条は単刀直入に、「好きなこと(報酬系を刺激すること)をせよ」という考えを表明している。もちろん彼は自分の人生に照らし合わせて、妖怪にすべてを捧げた自分の興味のことを語っている。ところが第一条、第五条、そして考え方によっては第三条も、「好きなことをせよ」を遂行する上でどうしても必要になる心構えなのだ。第一条は「好きなこと」を成功や名誉のために行うことへの戒めであるが、もちろん成功や名誉がついてくるのであれば、それに越したことがない。しかし本来「好きなこと」はそれ自身で完結していて、それでついでに成功や栄誉が付いて回るのは、純粋に幸運な場合だけである。読者はここで、私が論じているのは『報酬系を刺激すること』であり、そこに才能や作品の巧拙を含んでいないということに気づくだろう。私は誰でも一つや二つは、自分の報酬系をいたく刺激するようなことを持っていると思うが、それがたまたま才能を伴っていることはかなり少ないと考えている。好きなことをやって生きることはむしろ、成功や栄誉を諦めることと対になっているべきことなのである。
その意味では私は水木先生の幸福論に対しては私なりの異論がある。それは水木先生には妖怪漫画の才能と運の両方があったのだ。もしないとしたら、これほど達観できないだろう。

2016年8月24日水曜日

推敲 12 ①

12章 報酬系は倫理を超える
  
報酬系と倫理観

ある患者さん(40歳代女性)が言った。(もちろん架空の症例である。)
「昔は夫はあれほど家庭を顧みない人ではなかったんです。でも株を始めてからは、いつもコンピューターの画面を見つめるばかりで、口をほとんどきいてくれません。」
聞けば御主人は昔から株に興味があったが、それほどに入れ込むことはなかったという。普通に家庭生活を大事にし、夕食の後は子供の宿題を手伝い、休日には家族で出かけたりしていた。ごく普通の、仕事(コンビニ勤務)にも家庭にもそれなりに注意を向ける旦那さんだった。しかし数年前に株で思いがけずマイナスが出てしまい、100万円程度の借金を背負ってしまった。それは何とか返せたのであるが、それ以降スイッチが入ってしまったようなのだ。徐々に周囲のことに関心を向けることがなくなり、コンビニの店長としての仕事を終えて帰宅した後は、コンピューターの株の動きを示す画面を見たままの状態になっていったという。その患者さんは、まるでご主人が感情を持たないロボットのような存在になったと嘆く。ふつうの喜怒哀楽を持った人間ではなくなってしまった感じだというのである。
別のある患者さんも夫が家庭を顧みないことを嘆く。
「夫は給料日の次の休日には、朝からパチンコに行き、閉店まで帰ってきません。そして戻ってきた時は、給料の大半がなくなっていることもありました。『お願いだからパチンコをやめて』、と言っても『うるさいな!俺に指図をするな。』と怒鳴るばかりです。負けて帰った時は特に不機嫌なんです。」 
結婚した当初は働き者で思いやりのある優しい夫であったという。ところが数年前から「仕事が面白くない」と言い出して、パチンコ屋に出入りするようになる。休日は朝からパチンコ屋に通うようになり、徐々に子供と過ごす時間もほとんどなくなってしまっているという。パチンコは夫の人格を変えてしまったのだろうか?
いわゆるギャンブル依存の状態にある人は、この二つの例に似た状態になることが知られている。一般的て常識的な行動が出来なくなり、時にはその人の倫理観さえ怪しくなってくる。
帚木蓬生というペンネームでも知られる精神科医森山成彬(もりやまなりあき)先生は、ギャンブル依存の専門家でもある。「やめられない ギャンブル地獄からの生還」(2010年、集英社) 「ギャンブル依存とたたかう (新潮選書、2004)やなどの著書でも有名である。
数年前に先生の講演を生で聞いていて考えたことが本章の発想のもとにある。ギャンブル依存がきわまると、人が変わってしまう。上に述べた例がさらにひどくなってしまうのだ。一見何が正しく、何が間違っているのかがわからなくなり、人生で優先されるべきものがまず賭け事、という風になってしまう。そうなると家族の説教は全く耳に入らなくなる。本当にはまってしまうと、手元にお金がなければ、まず盗むことを考える。それまで倫理的だった人が、人の財布に平気で手を出すまでになる。依存症はその人の倫理観を事実上骨抜き記してしまうのである。
先生の講演で聞いた話はこうである。ギャンブル依存の夫を何とか話し合いの場に連れ込む。それこそ夫の両親も心配そうな顔をして、家族会議に参加し、とにかく作ってしまった借金については何とか皆で算段をすることになる。夫は真剣そうに「もう二度とパチンコには手を出しません。」と言う。「しかし」と先生は言う。「彼はそのような深刻な話し合いのさなかでも、どうやってここを切り抜けて、またパチンコ屋に舞い戻ろうかということしか考えていない。」
まだギャンブル依存をよく知らなかった私は「まさか!」と思った。説教をされている時くらいは真剣に反省するのではないだろうか?
もちろんその人のギャンブル依存の深刻さにもよるだろう。何度もやめようと試みる人の場合は、少なくとも真剣にやめることを考える時がある。家族会議が功を奏する例も、ごく一部にはあるだろう。しかし一定の限度を超えると、本人の頭に「やめよう」という決意はもう浮かばない。やめられないことはあまりに明白だからだ。まさに先生の本の題名(「やめられない」)通りである。
しかしこれは例えば自分が激しい痛みや不快を体験している時を考えれば納得ができるであろう。おそらく痛みを取るためならどんな行為もいとわないし、その行為の善悪は、その切迫の度合いによりいくらでも軽視されよう。おそらくその行為を裁くような倫理則などありえないはずだ。
帚木先生によれば、ギャンブル依存に陥った人は、財布にお金がなくなり、銀行はおろかサラ金も相手にしてくれないという状態になると、キャッシュを求めて盗みを働くということもあり得るという。更衣室でたまたま同僚の所持品を見つける。中から現金を抜き取った際に思うことはおそらく「ああ、これで仕事の後にパチンコがやれる」なのである。それ以外の人間として普通に感じるはずの罪悪感は、後回しになってしまうのだ。
ここで私の仮説を述べたい。私たち個人が持つ倫理感は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とみなす傾向にある。それがいわばデフォールトなのだ。
もちろん依存症の人々の考え方になじんでない人には奇妙に聞こえるかもしれない。
人の持つ善、悪という観念はその人の倫理観に基づき、その人が何を快、不快に思うかとは別のものであるはずだ。しかしこと依存症に関しては、上のようなことが生じない限り、その人の心はあまりに大きな矛盾を背負うことになるために壊れてしまうだろう。
単純に、「ギャンブル依存に陥った人は、善悪が分からなくなっている」と考えることもできるであろう。しかしより正確でかつ合理的な仮説は、その人にとっては、パチンコ屋で玉を弾くことが善、そのためには家庭を顧みないことも、お金を盗むことも正当化される、という風に行動規範が改編されてしまっているというものである。そしてパチンコが関わらないそのほかの判断については、おそらく正常さを保っているのだ。


2016年8月23日火曜日

推敲 ●●


第●●章 自己欺瞞の何が問題なのか?

これはおまけの章である。できそこないの章。でもせっかく書いたので、幽霊の章として残しておく。ゲラにもしてもらえないだろう。
 さて自己欺瞞の何が問題なのかを、ここで改めて考えよう。自己欺瞞はまず周囲に害毒を及ぼすことが多いのが問題だ。自己欺瞞は多くの場合、自分を利するために用いられる。しかも本人にはその自覚が薄いから始末に悪い。場合によっては「人のため」にやっていると本人が思い込んでいるのだ。その場合、たとえば「お母さんは、あなたのためを思って言っているのよ。」的な言葉が用いられるだろう。そして言われた方も一瞬そのように思う。「そうか、私のためを思って言ってくれているのだ。それに反発する私がいけないのだ・・・・」しかしふと、「本当だろうか?」という気持ちが起きる。直観的にそこに自己欺瞞を感じ取るのであろう。ところがそれを捉えて攻撃することが出来ない。それが本当は利己的な行為であるという決定的な証拠などどこにもない。だからこそ自己欺瞞は生じ続け、周囲もその犠牲になる。しかしさすがにそのような人は次第に周囲から遠ざけられる。「この人といても利用されるばかりだ。アブナイアブナイ」となっていくのである。
ここからはいくつかの事例を挙げて、自己欺瞞の具体的な生じ方や周囲への影響の及ぼし方を考える。

自己欺瞞の実例 ①

あなたが友人からメールを貰う。「今少し困っていることがあるんだけれど、時間を取ってくれない?今直接会えませんか?」あなたはこう返す。「ごめんね、今日少し頭痛がして、しんどいから、無理。」本当はあの人には会いたくない。それに頭が重いのも確かだ。でも本当に具合が悪いから会えないのかと言えば、分からない。でもあなたは「具合が悪いという正当な理由で会えないのだ。別に悪いことではない。」と自分を納得させる。あなたは本当は友人に会いたくなかった。でもそれを体調のせいにした。つまり自分に嘘をついたのである。ちなみにその友人は、あなたの断りの返事のメールに、「いつもの彼女らしい返し方だな」、と思うかもしれない。いざとなった時に助けてくれない人だ、という判断を下すかもしれないのだ。
自己欺瞞が発生しやすいのはこういう時で、「自分はAである。だからBである。」という理由づけのうち、Aが主観的であいまいな場合である。忙しい、具合が悪い、時間がない、など皆そうである。魚の例で言えば、4尾が6尾になるのは目に見える変化だ。デジタル的だからだ。でもさっきチラッと見た水槽に何尾くらいの魚がいたか、となると、記憶はたちまち「45尾?、6尾?」などとたちまちアナログになってしまう。釣りに行ったのが一年前だった場合にその成果を申告する際も同じことが起きる。4尾のような気がするが、6尾である可能性もないわけではない・・・・。自分がことさら話を盛っているのかどうかということが、自分にも分らない。すると自分が話を盛っているか否か、が不明になり、「6尾釣った!」という証言はより罪悪感を伴わなくなる。


自己欺瞞の実例 ②

「母がしんどい」(田房永子)に出てきた例をここで再び紹介しよう。
ある母親が娘にピアノを習わせようと思う。近所のママ友が、娘にピアノを習わせ始めたと聞いて、「自分の娘もぜひ!」と思っているうちに、いつの間にか「娘は当然ピアノを習いたいと思っている」と思い始めたのだ。早速近くのヤ●ハRピアノ教室に電話をして、段取りをつけてしまう。そして娘に宣言する。「来週の月曜日、ピアノ教室に行くわよ!」最初娘は、例によって急に決められてしまった話に驚く。「習うのは私なのに。ママっていつも勝手に決めるんだから。この間のバレエのときもそうだったし。」でもまんざらでもない気もする。面白そうだし、友達の話を聞いて、自分もやってみたいと思っていたし。そこで取りあえずは出かけてみる。そして最初は簡単でついて行けそうなので、契約をし、3回ほど通ってみた。しかしもともとコツコツ練習するタイプではない。取り立てて音楽の才能もないから、そのうち飽きて、行き渋るようになる。すると母親は言うのである。「あんたが習いたいって言ったんじゃない!高いお金も払ったのに、なんてわがままなの!」娘は、何かがおかしいと思うのだが、反論できない。
これも自己欺瞞の例だ。そしてこの種の自己欺瞞は親子で何度となく発揮され、時には娘に深刻な病理を生み出す可能性がある。
 さて問題は「娘にピアノを習わせたい」がいつの間にか、「娘が初めからピアノを習いたがった」になるプロセスである。
ちなみにこの例は、母親が自己欺瞞的であり、娘はその犠牲者である、という風には単純に割り切れないことも付け加えておこう。娘はどこかの時点で「お母さん、私、ピアノをやりたい」と意思表示をしている可能性がある。母親は最初は自分が誘ったという自覚があっても、この時点で娘の自主的な意思表示を受けた、と考えるかもしれない。そして母親に「あなたが最終的に自分で決めたんじゃないの?」といわれた娘が次のように言うとしたらどうだろう?
「私はお母さんに、『ピアノをやりたい』と言わせられたの。お母さんを傷つけたくないと思ったから、そう言ってあげたの。お母さんはいつも私の本当の気持ちを無視して、私にやらせたいことをそれとなく知らせてくるの。私が『いや』、と言えない性格なことを知っていて、いつの間にか私にやらせたいことを、私が自分からやりたいと言うように仕向けるの。なんてずるい人なの?」
ここを読んで「ある、ある」と思う人が、10人に一人くらいはいらっしゃらないだろうか?そう、母親が自己欺瞞であると同時に、娘の方にも同様の傾向があることが少なくないのだ。そして母-成人娘間のミスコミュニケーションは大体そのような問題を、多かれ少なかれはらんでいるものなのだ。ただしそこでやはり最初の段階で強い威力を発揮するのは、もちろん母親の方なのである。
ここでの母親の自己欺瞞は、自分がピアノを娘に習わせたかったが、それを「娘が本来そうしたかった」にすり替え、そのことを見てみないという傾向だ。

自己欺瞞の実例③

ある会社の部署で、ワンマン社長の肝いりで企画を立ち上げることになった。その部署では、リーダー格のAさんが、まだ年若い部下のBさんに言う。「君がこの企画のプロジェクトのリーダーになってやってごらん。君は将来有望だし、これをいい機会にして、リーダーシップを発揮してみてはどうだい?困ったことがあったら僕が助け舟を出すから、大船に乗ったつもりでね。」Bはそう言われて悪い気はしない。Aさんのことは前から頼りがいのある上司だと思っていた。そこで早速ほかの部下を集めてプロジェクトを立ち上げる。
 しかしそれがある程度進んだところで、一つ問題が生じた。社長の指令で始まったこの企画がある程度進行した時点で、途中経過を社長に伝えたところ、思わぬダメ出しがあった。その企画の進行状況を一部社長に伝えたところ、その意に沿わないという。しかしそれは最初の社長の指令(といっても簡単なものだったが)から読み取れるものに従ったのであり、むしろ社長に彼の伝えてくる方針の矛盾点を問いただす性質のものということになった。そこでBさんはAさんに相談する。「Aさん、この件について、社長に問い合わせていただけませんか?プロジェクトはある程度進行しています。社長の真意を確かめたいのですが、私には畏れ多いのです。直接連絡をできる立場にありません。」ところがそれを聞いたAはこう言い放ったのである。
「B君。あくまでも君のプロジェクトだよ。キミ自身が社長に連絡をしたまえ。」B君ははしごを外された感じがする。「いざとなったら助け舟を出してくれる、と言ったのに。」そのうちこんなうわさが聞こえてくる。「Aさんはもともと社長が苦手で、だからBさんを鍛える、などと言いながら、直接社長と対決することを避けたらしい。いかにもAさんのやりそうなことだ…。」そのうわさをたまたま耳にしたAさんは激怒したという。「Bを育てるという私の意図を誰かが捻じ曲げて勘ぐっているらしい!!」しかしそれでもAさんは直接社長と話しをすることはしようとしなかった・・・・・・。
ここでのAさんの自己欺瞞は、自分はBさんを鍛えるということを口実に、社長との直接対決を避けていて、そのこと自体を「見てみない」ということにある。

自己欺瞞の例④

ある50代の母親が、20代後半の息子の引きこもりに悩む。といっても彼は自宅に引きこもっているのではなく、自身のアパートから出られない状態だ。2年前にようやく生活保護を受けてアパートを借りるというところまで行った。母親は大学を出て会社勤務を数か月しただけで出社拒否になった息子の将来を誰よりも気にかけている。今は友達ともすっかり遠ざかり、寂しい思いをしつつゲーム三昧の毎日を送っている。母親は「私や夫が死んだあとは、彼を世話する人はいるのだろうか?」と危惧する。
 ところがある日、息子あての葉書が舞い込む。どうやら息子の高校時代の同級生のようだ。「○○君 (息子の名前) お久しぶり。この間高校の同窓会であなたの話になりました。急に懐かしくなりましたが、あいにく住所しかわかりません。まだ同じところに住んでいるかと思い、葉書を出します。もしよろしかったらメールででもお返事をいただけますか?」母親はそこに書かれた女性の名前を何となく憶えている。まだ社交的だった高校時代の息子が、そのころ友達付き合いをしていたクラスメートの女性だ。一度写真を見せてもらったことがあるが、愛らしくて素敵な女性だと感じるとともに、強烈な不安と嫉妬を感じた。息子は特に深い関係ではないと聞いてほっとしたし、実際そうだったのだろう。だから彼女は電話番号も知らなかったのだ。でも自宅の住所だけは探り当てたらしい。母親は少し考えた末に、その葉書を破り捨てる。「それは一人ぼっちの息子にとっては子の葉書はうれしいかも知れない。でも彼に一番大事なのは、まずは仕事を見つけて独り立ちをすること。異性に興味を持っている場合じゃないわ。」息子にはもちろんこの葉書のことは伝えないつもりだ。そしてつぶやく。「こうするのも息子のためを思ってだわ。」
この場合母親の自己欺瞞は、息子にこの葉書を届けたくない真の理由が、「息子の独立を一刻も早く願う」ことであると信じ、「息子をこの若い女性に奪われたくないから」という隠された理由を押し殺している点にある。

以上自己欺瞞が生じていると考えられる事例を紹介した。これらの例に共通しているのは何か?心の一部は、自分が嘘をついていることを知っている。①では本当は友人に会いたくないのに、体調のせいにしていること。②では本当は自分が娘にピアノを習わせたかったのに、娘がそれを積極的に望んだ、と思うこと。③ではAさんがBさんを鍛えるため、といいながら本当は自分が社長と対決することを回避していること。④は母親が息子に仕事探しに専念してほしいから、という口実で、実は自分の嫉妬心から、息子と女性との付き合いの芽を摘んでしまったこと。
いずれの場合も、自分が嘘をついているという明確な自覚があるとしたら、自己欺瞞ではない。単なる嘘つき、ないしは操作的な人間ということになる。ただしこの種の嘘は、「弱い嘘」として、程度の差こそあれ万人によってつかれていることは、すでに検討した通りである。問題はその嘘を彼らがあいまいな形でしか自覚していないことである。彼らは常に口実を用意している。それを意識化することで、もうそれを考えないようにしている。
もしこの状態が、ある事実や可能性が意識の舞台のそでにあっても見ないふりをする、そんな感じだとしたら、おそらくこれは精神分析でいうところの「否認」や「抑制」という機制が働いている。そしてここには一種の罪悪感が伴ってもおかしくない。それが一瞬視界に入った時に、それが生じることになる。するとこれを代償するように、相手に接近し、ご機嫌を取ることになるだろう。①なら別の機会にこちらから誘いかける。②なら子供に対してことさら愛情を注いでいるそぶりを見せる。③ならBに対して飲みに連れて行く、「やはり君は頼れる部下だよ」などとお世辞を言う。田房永子さんの漫画(「母がしんどい」)ではまさにそうだった。④だったら母親は息子に、わざとらしく見合いの話を持ってくるかもしれない。
 どれも特徴的な気がする。自己欺瞞の人の典型は、このような代償行為を行うことだ。それは彼らがある意味では自分に嘘をついている証拠になる。(だから「自己欺瞞」ど呼ばれるのだ。)彼らの代償行為は、それがばれそうになった時に一生懸命自分を、そして相手をだます手段である。こうすることで彼らは他者との関係を維持することになるだろう。さもなければ誰も彼らに近付かなくなってしまうからだ。そう、自己欺瞞人間の周りでは、周囲はたいてい彼らに混乱させられ、辟易しているはずなのだ。
でも次の様な疑問は浮かばないだろうか?この種の自己欺瞞は、例えば運動をしよう、ダイエットをしよう、と決心した人がくじける時、三日坊主の場合とどう違うのだろう?3日間続けたジョギングを4日目にサボる時、私たちは自分にどのような言い訳をするだろうか。「自分はこのままメタボでいたら、多くのもの(健康、人からの評価、自尊心)を失ってしまう」という思考は、おそらくジョギングを始めた頃よりはインパクトを失っているのだろう。テレビで見た当座はインパクトを受けても、次々と別の番組を見ていることだし。あるいはより安楽を求める心が強くなり、「運動すべし!」という思考は容易に舞台裏に押しやられる存在になって行く。もうそのことは考えなくなるのである。それがすでに述べた、自然に心から消えるに任せる」という仕組みである。