自己欺瞞の何が問題なのか?
さて自己欺瞞の何が問題なのかを、ここで改めて述べよう。自己欺瞞はそれが第一に周囲に害毒を及ぼすのだ。自己欺瞞は多くの場合、自分を利するために用いられる。しかもその自覚が薄いから始末に悪い。「人のため」にやっていると本人が思い込んでいるから困るのだ。「お母さんは、あなたのためを思って言っているのよ。」的な。そして言われた方も一瞬そのように思う。「そうか、私のためを思って言ってくれているのだ。それに反発する私がいけないのだ・・・・」しかしフト、「本当だろうか?」という気持ちが起きる。直観的にそこに自己欺瞞の匂いを感じ取るのであろう。しかしそれを捉えて攻撃することが出来ない。それが本当は利己的な行為であるという決定的な証拠などどこにもない。だからこそ自己欺瞞は生じ続け、周囲もその犠牲になる。しかしさすがにそのような人は次第に周囲から遠ざけられる。Cエレガンス的な心が作動して、「この人といても利用されるばかりだ。アブナイアブナイ」となっていくのである。
とここまで書いて、あとは実例を挙げていこう。
自己欺瞞の例 ①
あなたが友人からメールを貰う。「今少し困っていることがあるんだけれど、時間を取ってくれない?直接会えない?」あなたはこう返す。「ごめんね、今日少し頭痛がして、しんどいから、無理。」本当はあの人には会いたくない。それにちょっとだけ頭が重いのも確かだ。でも本当に具合が悪いから会えないのかと言えば、分からない・・・・。でも具合が悪いという正当な理由で会えないということを自分に納得させる。その友人は、あなたの断りの返事のメールに、「いつもの彼女らしい返し方だな」、と思うかもしれない。いざとなった時に助けてくれない人だ、という判断を下すかもしれないのだ。
自己欺瞞が発生しやすいのはこういう時で、「自分はAである。だからBである。」という理由づけのうち、Aが主観的であいまいな場合である。忙しい、具合が悪い、時間がない、など皆そうである。魚の例で言えば、4尾が6尾になるのは目に見える変化だ。デジタル的だからだ。でも「さっきちらっと見た水槽に何尾の魚がいましたか?」となると、記憶はたちまち「4,5尾?、6尾?」などとアナログになってしまう。釣りに行ったのが一年前だった場合にその成果を申告する際も同じことが起きる。4尾のような気がするが、6尾である可能性もないわけではない・・・・。自分がことさら話を持っているのかどうかということが、自分にも分らない。すると自分が話を盛っているか否か、が不明になり、「6尾釣った!」という証言はより罪悪感を伴わなくなる。