2016年4月15日金曜日

嘘 ⑤


昨日掲載した、過去のブログの内容を読み返してみたが、8か月前に書いたことで、一応言いたいことは尽きている気がする。つまり私たちの心には常に、若干の嘘、虚偽なら目をつぶって許す能力がある。それは大きな良心の呵責を感じることなくできるのだ。釣りに行き、今日は魚を4匹しか釣っていないのに、成果を聞かれて「56匹かな」というのは普通のことなのだ。それが他愛のない、場合には周囲の人のためになるような嘘なら、それをつくことが許されるし、なんといっても心地よさを提供してくれる。
はるか昔のことだが、家族に輸血が必要な非常事態が生じたことがある。血液型の適合したカミさんが、病院で、「ぜひ自分の血を取ってほしい」と申し出た。アメリカは体重が一定以下だと輸血用の採血をしてくれないという法律がある。貧血でも起こされたら困るのだろう。そこでカミさんは輸血係のナースに体重を尋ねられた。彼女はそんなことなど知らず、正直に答えた。「118ポンドです」するとそのナースは、「困りますね、ちょっと足りませんね。」と言った。大切な家族の手術のためにどうしても輸血をしてあげたいというカミさんの心を知っていたナースはこういったのだ。「輸血をするには120ポンド以上の体重が必要です。いいですか、もう一度聞きますよ。あなたの体重は何ポンドですか?」カミさんは答えた。「はい!120ポンドちょうどです!」「よろしい、では採血の準備に入ります」。神さんは幸い倒れることがなかった。手術も無事終わり、みな満足したのである。
おそらく世の中はこんな風に回っている。もちろん体重100ポンドを切る女性が120ポンドと虚偽の体重を報告するのは問題だろう。あるいは120ポンドないと合格できないような大事な試験に、本当は118ポンドの人が、ひとりだけ体重を上乗せして目こぼしをしてもらうのもイケないことだ。でもちょっと位の脚色は大抵の場合許されるだろう。
少し話は飛ぶが、ここでも紹介した(かな?たぶん、そんな気がする)デーヴ・グロスマンの戦争における 『人殺しの心理学 (ちくま学芸文庫2004年)で、著者がこんな例を挙げている。人は同じ殺すという行為でも、目の前でそれを行うことには極めて大きな抵抗が生じる。ところが距離が大きくなるにつれて、極めて大胆になっていく。たとえば至近距離では、相手を銃剣で刺すということさえ極めて恐ろしく感じ、抵抗を覚える兵士がほとんどだが、遠方からの狙撃となると抵抗が一気に小さくなる。夜間に赤外線の照準を使ってサイレンサーつきで撃つ場合には、倒れる相手は暗闇で見えにくいため、はるかに容易になり、さらに上空から爆弾を落とすとなると、それにより何十、何百という人命を奪うにもかかわらず、ますます抵抗が少なくなる。相手がほとんど見えないからだ。 これらの問題に共通していることがある。

自分の虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、それを体感しにくくなればなるほど、抵抗や罪悪感が減少し、その虚偽や悪事は快楽的になる。つまり虚偽や悪事は何らかの利得のためにするのであろうが、罪悪感にさいなまれることなく、純粋にそれによる快感のみに浸ることが出来るのだ。