2016年4月30日土曜日

嘘 2 ⑥

嘘という名の快楽 3.―自己欺瞞

 まあここは、「嘘2」の継続、ということにしておこう。
 自己欺瞞の話の初めに、ある興味深い精神医学的な事実を紹介しよう。脳科学に興味のある精神科医たちにとっては常識ともいえる話だ。私達の脳は右半球と左半球に分かれており、脳梁というかけ橋でつながっている。そして時々精神医学的な理由から、この両方の半球の間の架け橋を切断する必要が生じるのだ。この様に聞けば不思議な印象を持つかもしれないが、脳の組織はその多くが左右に一対ずつあり、言わば左右対称の器官なのである。もちろんそれを束ねて形で脊髄につながっていくのであるが、左右脳のそれぞれに血液が還流しているし、血管さえ傷つけなければ、架け橋の部分を切り離しても大量出血することはない。そして驚くべきことに、それで気を失ったりすることはないのだ。そしてさらに驚くのは、左右に切り離された脳は、独自の心を示すことになるのだ。これを離断脳、といい、この事実が発見された当時は大変なインパクトを与えた。
さて問題は、離断脳状態にある右脳、左脳は独自の仕方で外界と情報をやり取りし、意思伝達をすることが出来る。
この分離脳の実験を試みたマイケル・ガザーニガの例として有名なのだが、彼は分離脳の患者の右脳に「立って歩きまわるように」と指示した。そして今度は左脳に「何をしているのか?」と尋ねた。すると患者は、飲み物を取に行くところだ、と即答したというのである。
ここで読者の中には、どうやって右脳と左脳に別々に指示を与えたり質問が出来たりするのか疑問をお持ちだろう。そのためにごく簡単に説明するならば、脳は、右半球は体の左半分を支配し、左半球はその逆、という役割分担を行っている。ただしその間をつなぐ脳梁によりたちまち情報は統合されて、あ、これは右半球由来の情報、あれは左半球、ということはない。右耳と左耳の情報は混じってしまうのだ。ただ、例えばステレオで音楽を聴く、ということを思い浮かべるとわかるとおり、モノラルで聞くよりずっと奥行きが感じられる。それは右耳と左耳から別々の情報が快って、統合されるプロセスで、立体感が生じるからだ。その意味で情報が初期の段階でステレオで入力し、それから統合されるという仕組みには意味があるのであろう。(同様のことは視覚における立体視についても言える。ただし視覚は、実は視野によって両側性に脳で処理されるために、少し話は厄介になるが。)
この「飲み物を取に行く」と即答した男性に戻ろう。彼は自分の行動を、そういうことによりすぐさま取り繕ったことになる。本当は自分がどうして立ち歩いているかわからないはずであるのに、次の瞬間にはそれを合理的に説明したわけである。この男性ははたして嘘をついているのだろうか?
この問題の結論を急ぐ代わりに(そしておそらく正解はないのであろう)私達の脳が常に行っている可能性のある働きについて考えよう。私たちが通常の脳を備えて日常的に活動をしている際、そこで起きている可能性のあるのは、ある種の自動的な、無反省的な行動ないしはそれへの傾向であり、同時にそれを理由づける理性の働きである。それがこの分離脳の実験において見事に表れているとは言えないであろうか?もしそうである場合、その自動的、ないしは無反省的な行動とはある種の快適さを生む者が選択されるのではないか?上の例であれば、右脳への情報のインプットは、「立って歩き回るように」という指令であった。彼はおそらくそれに従う必要を感じ、そうしなくてはまずいと思ったのであろうし、その意味ではその行動は快楽原則に従ったものであろう。そしてこのことは、私たちの行動が第一に快楽の追及、ないしは不快の回避を意図され、あとはそれがどの程度合理的に説明できるか、正当化できるか、ということのバランスにより最終的な行動が決定するということの、大脳生理学的な根拠ということが出来る。