2015年11月30日月曜日

精神分析におけるトラウマ理論 推敲(1)


精神分析におけるトラウマの理論の発展は、ある意味では時代の必然と言える。関係精神分析におけるトラウマの議論のみならず、クライン派によるトラウマ理論も提出されている。ガーランド編 松木邦裕訳トラウマを理解する 岩崎学術出版社、2011Caroline Garland ed.Understanding Trauma: A Psychoanalytical Approach Karnac Books, London, 1998)
何か聞き覚えのある本だと思ったら、何と私は書評を書いていた!!!2011年のことだ。さっそく思い出してみよう。 
書評:「トラウマを理解する―対象関係論に基づく臨床アプローチ」(ガーランド・C著/松木邦裕監訳,岩崎学術出版社)
 本書を非常に興味深く読んだ。トラウマの問題については、これまでは精神分析はその扱いに一歩遅れているという観があった。現代のフロイト派やクライン派がそれを本格的な精神分析の文脈にどこまで取り入れているかについて、評者はこれまで興味を持ってきた。本書はそれに対する格好の答えを提供してくれている。 
 
本書は1990年代にタビストック・クリニックに創設されたトラウマに関するユニットのメンバーのひとりであるキャロライン・ガーランドが編者となり、8人の臨床家が執筆したものである。本書の構成は、第Ⅰ部「概論」、第Ⅱ部「アセスメントとコンサルテーション」、第Ⅲ部「精神分析的心理療法による治療」からなり、全体が13の章に分かれている。そこには「なぜ精神分析なのか?」「ヒューマンエラーとは何か?」「症例への介入の実例、」「トラウマとグループ療法」などの重要なテーマが並ぶ。
 本書の特徴は一貫して英国のクライン派の立場から綴られていることである。その徹底ぶりは注目に値し、そのような路線でもトラウマの治療論が十分に成立することを教えてくれている。またそこではトラウマを治療することとは、それをトラウマとして成立させている生育歴や過去の対象関係を扱うことであり、そこから生じる転移とその解釈が主たる技法であるという主張がなされる。
 少し内容を要約してみる。トラウマとは、フロイトのいう刺激保護障壁が破られることにより生じ、クライン的にはそれにより外的な出来事が、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることである。その最悪なものとは、保護的な良い対象群の失敗による死やその切迫による個人の壊滅ということだ。さらにビオンの視点からは、トラウマとはアルファ機能の働きが打ちのめされ、含まれている刺激の質と量をコンテインして消化することができなくなって破綻したとき生じる事態ということになる。そして実際のトラウマを受けることは、早期の対象関係上の問題を呼び起こすことになるという前提のもとに治療が行われる。
 実際の介入を知る上で、「第
4章 予備的介入:4回からなる治療的コンサルテーション」は非常に参考になる。この章では症例Aに対する4回の面接の記録が提示されている。そこでは患者の中で外傷により切り離されていた自らの破壊性を「再びつなぐ」ことの重要性と、治療者がそのために保障を与えることへの戒めが強調されている。4回の面接といえども転移についての解釈が重要な位置を占めている点も興味深い。また限りあるセッションを持つことは、失ったもの、人や万能感をワークスルーするという意味をも持つという。
 以上本書の内容を簡単にまとめてみたが、精神分析の立場から真摯にトラウマについて考えるためには、本書はこの上ないリソースを提供してくれることを信じる
トラウマについての分析的な著作としては、ストロローのそれがあった。これも書評を書いたことがあるぞ。引っ張り出してみよう。

(書評) ロバート・D・ストロロウ著 和田秀樹 訳
「トラウマの精神分析 自伝的・哲学的省察」

本書はRobert D. Stolorow 著“Trauma and Human Existence. Autobiographical, Psychoanalytic, and Philosophical Reflections. (Routledge, 2007.) の全訳に、翻訳者の著者との対談、および本書の解説が付け加えられたものである。原著は62ページという非常にコンパクトなものであるが、本書は121ページのそれなりに読みごたえのあるものになっている。
 本書は学術書というよりはエッセイ風という印象を与えるかもしれないが、扱っているテーマは非常に重く、かつ奥が深い。著者ストロロウの主張を集約すれば、トラウマは必ず関係性というコンテクストの中で生じ、私たちが孤独で死すべき運命であるという現実を突きつけるということである。それは「…… 命は有限であり、実存的には脆弱であるという事実を覆い隠すことで、われわれを防護してくれる鎮静的な錯覚というべき、もろもろの信念を粉々に打ち砕いてしまう」(p. viii)のである。この主張を、ストロロウは最愛の妻を失ったことによる想像を絶するほどのトラウマ体験をもとに、ハイデッガーやコフートの理論を駆使して論じていく。自己の体験と理論は、いわば縦糸と横糸のごとく彼の主張を織りなしていくのである。
 簡単に本書の構成を紹介してみよう。
1章「情緒生活のコンテクスチュアリティ」で、著者は自らの精神分析理論を、欲動driveではなく情動affectivityを重んじる立場であるとし、情動はコンテクストの中に存在し、他者との相互性を前提とする、と明言する。その立場は、フロイトにより始められた精神分析の基底に流れる「孤立したisolated mind」という考えとは明確に区別される。そしてそれが、19912月の妻ダフネの死をきっかけに始まった精神的な遍歴の中で獲得した理解であるとする。この章ではストロロウとコフート理論との深いつながりが改めて伺える。第2章「情緒的トラウマのコンテクスチュアリティ」においては、情緒的なトラウマは、それを理解して扱ってくれる人が不在であることに由来し、それ以後変更不可能なオーガナイジング原則が作り上げられてしまうとする。そしてフロイトは「孤立した心」の理論に立って、トラウマを欲動という概念によってのみ説明したが、D. ウィニコットやM. カーンはそれとは異なる見解をすでに有していたという。
3章「トラウマの現象学と日常生活の絶対性」という章は、ダフネの死を発見した朝の記述に始まる圧倒的な暗さをたたえている。彼はトラウマを体験することは、もはや「正常な人」と世界を共有することができないような感覚が生まれたという。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した人でなくてはならず、それがコフートの言う双子転移の意味することである、という。第4章「トラウマと時間性」では、トラウマを抱えたいくつかのケースを断片的に提出しつつ、表題のテーマに対する考察を進める。フロイトは無意識の無時間性を説いたが、本当に時間を失っているのはトラウマ体験であるということを、著者は自らのトラウマ体験を開示しつつ論じている。自分であるという感覚は、自分が体験を時間=内=存在として持つことであり、トラウマはその統一した自分という感覚をも粉砕するという。第5章「トラウマと『存在論的無意識』」において、著者はハイデッガーの理論に由来する存在論的無意識について論じる。
6章「不安,本来性とトラウマ」は本書の中でもっとも長い章であり、また著者ストロロウの至った境地を雄弁に伝えている。彼はトラウマを、フロイトの外傷性不安と信号不安を両端とするスペクトラムで捉え、そこにコンテクストの概念を導入する。そしてハイデッガーの不安の概念が、死へ=臨む=存在に基礎を置いた不安であるとする。それは外傷により私たちがいやおうなしに直面する徹底した孤独であったという。それをストロロウは、元妻を亡くしたときの、誰からも置き去りにされたような徹底した孤独として表現している。第7章「結語 ― 『同じ闇の中の同胞』」では、この書が担った二つのテーマが繰り返される。すなわち情緒的トラウマのコンテクスト性であり、それが抱えられ、統合されるような相互主義的なコンテクストを欠いたならば、永遠にトラウマとなりうるということである。
 巻末に収められた「ストロロウと訳者の対話」は本書の中でもっとも楽しめる部分の一つでもある。翻訳者和田氏は15年来のストロロウの弟子であるが、その立場から著者の個人的なバックグラウンドについてさらに詳しく聞き出し、ストロロウの理論構成に一層の立体感を与えることに成功している。また同じく巻末の「解説」も読者にとっては非常に有難い章である。これはともすれば難解なストロロウの理論を噛み砕いて説明している。また著者のくわしい経歴について、日本語で読める数少ない貴重な資料といえる。
 私事ではあるが、翻訳者和田氏と評者(岡野)は留学時代を通して旧知である。氏がはじめてストロロウと接したという1993年のカンザスシティでの講演に評者も同席していた。その後氏が自己心理学者として自らを形成していく過程を垣間見ていた立場としては、特別な感慨を持って本書を読んだ。和田氏は精神科医として活躍し、マスコミにも頻繁に登場する著名人であるが、このような緻密な学術的作業を積み重ねる分析学者でもあることは案外知られていない。
 また本書で扱われたテーマに対する評者のかかわりについても触れさせていただきたい。ストロロウと同様に死や人の限りある運命について扱った分析家にアーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanがいる。その理論に沿って、評者も現実という概念についての考えを深めたことがある(岡野憲一郎:「中立性と現実」岩崎学術出版社、2001年)。そして「現実」とは、自分がいつ死ぬかもしれない存在に直面することでもあり、その意味では「過激な現実」は外傷的ですらあるという理解に至った。これは本書でのストロロウの主張に近い。ただし違いは、評者が著者のようなトラウマを経験したことがないことであり、その意味では著者の言葉に見られるような重みを欠いているということである。ストロロウの言に従えば、評者は「同様のトラウマを体験した人」ではなく、真の意味で共感することはできないのであろう。
 哲学と精神分析と現実の体験との統合を遂げた本書の価値はきわめて高い。だがどれほどの読者がそれを理解し得るかは未知数である。出版界が不況にあえぎ、舌触りのいい文章しか受け入れない傾向のある現代にあって、このような重厚な内容の書もまた広く受け入れられることを切に願いたい。
  
(岩崎学術出版社、2009, 121, 2,500円+税)

2015年11月29日日曜日

関係精神分析のゆくえ(推敲) 2


RPに対する批判は、ほとんどは「外部」から来ている(Eagle, 2003; Eagle, Wolitzky, & Wakefield, 2001; Frank, 1998a, 1998b; Josephs, 2001; Lothane, 2003; Masling, 2003; Silverman, 2000など)。つまりRP以外の学派からの批判である。しかし例外として最初の批判が「身内」から生じたのは周知のとおりだからだ。RPの動きの始まりとなる「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるグリーンバーグはすでに1993年の著書で、「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題をないがしろにしていることに警句を発しているからだ。これは彼が先鞭をつける形となったRPのその後の展開で、またフロイトの欲動モデルは十分に否定されてはいないという主張が中心となり、果たして「
欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis」は可能なのかという根源的な問題を提起している。これは欲動モデル、と関係モデルというある意味では本来分けられないモデルを相容れないものとして提起した以上、必然的に起きてくる議論に先手を打ったという感がある。
しかし欧州の精神分析においては、関係性の旋回を、著しい退行であり、パターなリズムであるという激越な批判もある。(Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224)関係論的な旋回は伝統への挑戦である。これまでの精神分析における伝統や慣習はどうなるのか?分析家の持つ権威はどこに行くのか?という声が聞こえてくるが、これは英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、RPに対してほとんどアレルギーに近い反応を示すのもわからないではない。これらの批判はある意味では明確でもあり、またその立場の違いは最初からある程度予想されたものである。しかしより微妙な文脈で行われる批判にはそれだけ注意が必要と思われる。
その中でここではRPに対して詳細な批判を行っているMills の論文を手引きに、この学派で現在何が生じているかを論じてみよう。(Mills, J (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2006
Mills RPに対する批判の中で筆者が極めて妥当と思われる点を挙げたい。それはいわゆる「間主観性」の概念に向けられたものだが、それは「精神の構造は他者との関係に由来する」(RPのホームページによる)とするRPの方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。間主観性の概念は特にジェシカ・ベンジャミンとロバート・ストロローの二人による精力的な著作により精神分析に導入されたが、その中でもストロロー、アトウッドらの概念は存在論的な議論であるという。そして間主観性を一種の場、ないしは第三主体(オグデン)としてとらえる。彼らの問題は、それが個を埋没させる傾向にあるという。「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24, italics added)
著者はこの間主観性理論について、例えばOgden (1994)の主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは日分析者、そしてもう一つは第三主体であるThe analytic process reflects the interplay of three subjectivities: that of the analyst, of the analysand, and of the analytic third (p. 483)」そしてそもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency はどうなるのだろうか、と問うのだ。ここで少し難解だが随伴現象epiphenomenon という概念が引き合いに出される。(随伴現象epiphenomenonとはウィリアムジェイムスが使い出した言葉で、要するに心は脳の随伴現象であり、それ自身は何も他に影響を及ぼさない、という説。随伴現象説とは心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。←ウィキペディアより) 間主観性も結局は随伴現象である。それなのにどうしてそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、というのがミルズの批判の骨子である。「もしシステム、つまりは関係性が個人を支配するのであれば、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(ミルズ)とも問うており、これが本質的な問題提起ともいえる。
 ジョバチーニGiovacchiniは、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」、といういい方すらしている。関係論者は、そんなことはないというが、結局は関係性というものに従属してしまう、といういい方はするのだ。
ちなみにここで筆者の理解を差し挟めば、ちょうどRPは、「無意識が人間を支配する」というフロイトの考えと似たようなことをしようとしているのではないか、と批判されている形になる。フロイトを批判する人は、彼のリビドー論が、無意識という装置の中で生じていることがその人を支配している、というニュアンスを発していることに反発していると想像する。ところが今度はRPは、関係性や第三主体 the third にその「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。単なる随伴現象なのに、ということらしい。このRP批判とフロイト批判がパラレルに考えられるという事情は、結局は関係性のマトリックスないしは第三主体もフロイトの無意識も、結局はそれがあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰結するのではないか、ということだ。  


2015年11月28日土曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (3)

治療者の自己愛問題

以上自己開示についての分析理論の中での基本的な留意点について述べたが、実際に臨床を行っていて、最近クライエントから時々耳にすることがある。それは治療者の「過剰な自己開示」がしばしば起きているらしいということだ。これはある意味では私にとって「目か鱗」である。治療者が匿名性を守り過ぎて「自己開示をしなさすぎる」ということが問題になっている傾向にあると思っていたところ、実は「し過ぎ」が問題になっているという可能性に思い至ったからである。
 私はこれまでは「過剰な自己開示」はごく一部の治療者にしか起きないであろうと思っていた。臨床心理を学ぶ大学院生が初めてのケースを担当して緊張し、沈黙の扱いに窮し、気がついたら自分の人生経験を夢中で語っていたという実例があったが、これなどは例外であろうと考えていた。しかしベテランの療法家がスーパービジョンの場で自分の話が止まらなかったというバイジーの訴えなら時々耳にしていた。しかしそのうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。実際に喋りすぎる治療者が問題となるという文献にも接した。(Jerome S. Blackman, J (2012) The Therapist's Answer Book: Solutions to 101 Tricky Problems in Psychotherapy  Routledge. そこで問題となるのは、治療者の自己愛の問題であり、「自分の話を聞いてほしい」という願望である。
考えてみれば、治療者の職業選択そのものが自己表現や自己実現の願望に根差している可能性があるのはむしろ異論のないところだろう。一般に臨床活動に携わる人々は、他人を助けたい、人の喜ぶ姿を見たい、という希望を持つ人が多い。外科のように匿名性や受け身性の概念が希薄な科で活躍している先生方の中には、「クライエントからの『ありがとう』の言葉に支えられて毎日の激務に耐えている」などという事情を公言なさる方が少なからずいる。
 精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「クライエントとのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「クライエントを話し相手にする」あるいは「クライエントを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。
ただし本稿では、如何にそのような傾向を抑制するかという具体的な問題について論じる余裕はないので、治療者の自己愛が自己開示の問題といかに深くかかわっているか、という問題提起にとどめたい。

「自己開示」の定義と分類
さて少し遅くなったが、本稿における自己開示の定義を、以下のように示したい。
「自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などがクライエントに伝えられるという現象をさす。」「自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。(精神分析事典、岩崎学術出版社)」
 これは私の考えであるが、実は精神分析事典のこの項目を書いたのも私なので、多少我田引水になるが、この路線で論じることをお許しいただきたい。
「広義の自己開示」の分類としては、以上のものを考え、これを以下の二つに分ける。それらは A意図的に行われる自己開示  (「狭義の自己開示」)
   B 不可避的に(自然に)生じる自己開示(「広義の自己開示」) である。
そしてA意図的な自己開示の分類をさらに二つに分ける。
A 1
 クライエントからの問いかけに応じた自己開示
A 2
 治療者が自発的に行った自己開示
さらに不可避的に生じる自己開示については
B 1
治療者に意識化された自己開示
B 2 
意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
これらの分類の意味にはどのようなものがあるのだろうか。私の立場は以下のとおりである。これらの4つに分けた広義の自己開示については、それぞれに治療的な意義とデメリットがある。それぞれを勘案しながら、その自己開示を用いるかどうかを決めるべきであろう。そしてその前提にあるのは、そもそも自己開示が治療的か非治療的かは状況次第である、ということである。

以下にこれらの個々の項目について、治療的なメリット、デメリットを考えたい。

2015年11月27日金曜日

関係精神分析のゆくえ(推敲) 1


関係精神分析の最近の動向について論じてみたい。
関係精神分析(relational psychoanalysis, 以下本稿ではRPと記す) はその動きが拡大の一途をたどっているという印象を受ける。RPの代表的な学術誌と言える「Psychoanalytic Dialogues 精神分析的対話」は今年で25周年を迎える。最初に出版されたのが1991年の1月であるが、ミッチェルが創始したこのジャーナルは、最初は小さなグループによるものであった。しかし今では数百の著者、70人の編集協力者を数えるという。最初は年に4回だったのが、1996年にはもう年に6回も出版されている。
そもそもPRとはどのような動きか?RPはそれ自体が明確に定義されることなく常に新しい流れを取り入れつつ形を変えていく動きの総体ということができる。RP をめぐる議論がどのように動いていくかは、予測不可能なところがある。私は個人的には、アーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanの理論により全体像を見せてもらっているが、それはあくまでも全体的な見取り図であり、あとはその各論がどのように展開され、論じられていくかが時代の流れに大きく影響を受けるであろうという理解をしている。
 とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義、平和主義にゆっくり向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、その背後には倫理的な配慮が基本的な原動力となっている。これまでの因習や慣習は、それが保持される根拠が示されない限りは疑問符を突き付けられ、必要のないものは排除される方向にある。ただしこの流れが全体としてホフマンの言う「自発性」の側面に裏付けられるものだとすれば、それは伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場(ホフマンの言う「儀式」の側面)からの抵抗を当然のごとく受ける。そして実際にそれは現在の精神分析において生じていると言えよう。
RPは米国、そしてオーストラリアでその勢いを拡大させている。その要因についてMills はいくつかを挙げている。それらは分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的なインスティテュートによる教育ではなくより新しいトレンドを学んでいることであり、新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであることである。そして関係性理論になじみ深い分析家が主要な分析関係の雑誌の編集に携わるようになっていることなどである。
この動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代のグリーンバーグとミッチェルの著作により先鞭をつけられた(Greenberg, JR and Mitchell,SA (1983) Object Relations in Psychoanalytic Theory. Harvard University Pressグリーンバーグ,ジェイ・R. ミッチェル,スティーブン・A. 横井公一訳:「精神分析理論の展開」欲動から関係へ ミネルヴァ書房、 2001/9)。その特徴としてMills は幾つかを挙げている
1に、従来の匿名性、受け身性、禁欲原則への批判である。ある意味ではこれは当り前であろう。たとえば自己開示の戒めなどは、これが治療可能性を含んでいる以上は、RPの範疇に入ることになるだろう。従来の精神分析がある決まりの上に成立している以上、それに例外を設けたり、相対的な立場をとる動きはことごとくRPに属することになる。
2に、RPにおいては臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えた。RPの分析家たちは、互いの学会でも自分自身の心についてより語り、また自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまりよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求めることからは明らかに距離を置くようになっている。
3に、彼らのスタンスは紛れもなく解釈学的なポストモダンなそれであり、そこでは混じり物のない真実に関する知識、客観性、実証主義などに関して明らかにこれまでとは異なる態度をとっている。

関係論的旋回への批判

さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?それについて論じるが、最初に一つ非常に明らかなことを指摘しておこう。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。フロイトの悲願は無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
フロイトは言ったのだ。「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processesFreud (1925, p. 70) あるいは「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical reality”
(Freud , 1900. p. 613), ちょっとおかしな例えかもしれないが、ちょうど創業者が残した家訓を前にして、店の経営方針がそれとは異なっていることに戸惑っている一族みたいなものだ。

意識を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは依然としてなすすべもないままである。ただしこの問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の訴状で扱うことの適切さにさえ及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、いくつかその代表を挙げたい。

2015年11月26日木曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (2)


本稿の一つの目的は、自己開示の是非を問うことではなく、まず自己開示を広くとらえ直してそこにどのような種類があり、どのような利点と問題があるかについての見取り図を提供することである。匿名性を守るか、自己開示をするのかは、それらを勘案したうえで、その時々に治療状況で判断されるべきものである。しかしその背景にあるのはこの私の治療者の自己愛という発想である。つまり治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。
以上を前置きにしてさっそく本題に入っていきたい。

治療者の自己開示をめぐる従来の論点
先ず従来の自己開示についての論点について考えたい。基本的な点として理解しなくてはならないのは、自己開示はフロイトによれば「暗示 suggestion」になってしまうということだ。ここでフロイトが解釈以外のあらゆる介入を「暗示」とみなし、それを非治療的なものとみなしたことを思い出していただきたい。彼にとっては、患者の無意識内容に言及する介入、すなわち「解釈」以外は治療的ではなかったのである。それを彼は一括して「暗示」としたのであった
 伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性や禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることで、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
さらには自己開示が転移の自由な発展を抑制してしまうのではないかという懸念も唱えられてきた。精神分析では、患者は治療者のことを知らないほどさまざまな想像力を膨らませると考える。例えば治療者の出身地が分からないことで、すべての件についてそこの出身地である治療者を想像できることになる。しかしA県出身であることが分かったとしたら、それ以外の治療者は想像できないということになるわけである。
 この理屈は自己開示を戒める意図でよく聞かれるが、充分に説得力があるとは私は考えていない。たとえば次のような例と似ているのではないか。「映画やビデオや漫画などは、人の想像力を限定してしまう。ラジオや活字で聞いたり読んだりする本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたてるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。」 おそらくこのロジックにも誤りはないだろう。しかしではなぜ、私たちはしばしば映画やビデオなどの映像に、より強いインパクトを感じるのだろうか。より公平性を期すならば、読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある、と言うべきだろう。要するに何が想像力を生むかはケースバイケースなのである。
転移の話に戻ると、治療者がA県出身であることが何らかの形でわかることで、急に治療者に関するイマジネーションが膨らむこともある。「北海道出身」と聞くことで、北海道に関する様々なイメージが浮かび、それと治療者を結びつけるということがあるだろう。これは何県出身かもわからない段階では生じないことだ。漠然とした情報では、私たちは想像を膨らますことが逆にできないという面もある。このように自己開示は転移を促進される場合もあるのである。
自己開示と「自分を用いる」こと
現代の精神分析においては、自己開示はタブー視されるテーマではなくなってきている。海外では自己開示についての論文は1960年代あたりから多くなってきているからだ。私自身は、自己開示の問題は、より広い文脈で、すなわち治療者が「自己を用いること use of self(T. ジェイコブス) という観点からとらえ直されるべきであると考える(「新しい精神分析」、岩崎学術出版社、1999年)。「自己を用いる」というジェイコブスの著作にみられるように、治療において治療者の側が自分をいかに用いて治療を行うべきかというテーマは、受け身性や匿名性という原則を考えるうえで必然的に浮かび上がるテーマといえるであろう。たとえ治療者は受け身的にではあっても、確かに自分自身の感受性と人生経験を介して患者に会い、介入を行うのである。患者の自由連想に見られる無意識内容を把握するという治療者の作業は、決して自動的、機械的ないしは技法的なものだけとは言えない。そこには治療者の人生経験や人間としての在り方が深くかかわっているのである。積極的であれ、受け身的であれ、治療が治療者自身を用いるという形で起きている以上、自己開示を治療的な介入の中で特別視する必要も無くなってくる。それに、のちに述べるように自己開示はあるものは自然に、ないし不可避的に、無意識的に治療場面で生じてしまっているものでもあるのだ。


2015年11月25日水曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (1)

実はこのブログは、今日から新しいシリーズに入る。と言っても全く見た目は変わらないであろう。


自己愛の観点から見た治療者の自己開示 (1)

関係精神分析では、治療者の能動性や自己開示の問題は極めて重要な意味を持ち始めている。(Sherby, L.B. (2005). Self-Disclosure: Seeking Connection and Protection. Contemp. Psychoanal., 41:499-517. Gilbert Cole, G (2002).  Infecting the Treatment: Being an HIV-Positive AnalystHillsdale, NJ: Analytic Press, 2002. 
Sugarman, A. (2012). The Reluctance to Self-Disclose: Reflexive or Reasoned?. Psychoanal Q., 81:627-655.)


 私にとって治療者の自己開示の問題は、精神分析に興味を持ち、分析的な臨床を行い、また分析関係の論文を発表し始めた最初の頃から常に重要なテーマとして頭にあった。治療者が中立性や匿名性の原則を守りつつ治療を行う際、自分に関する情報を伝えることには大きな抑制が伴うことになる。それは通常の日常会話と大きく異なるばかりか、一般的な心理療法とも異なるといっていい。分析的な臨床家はしばしば、通常の会話では起きるであろう自分自身からの応答をいかに押しとどめ、またどのようなときには匿名性の原則に例外を設けて、自己を表現をするかに常に考えをめぐらせていることだろう。
治療者が持ち続ける問題意識はそれにはとどまらないかもしれない。そもそも匿名性の原則は妥当なものなのか。それを遵守しようとしている自分は患者にとってベストな治療を施していることになるのだろうか、などの、より原則的で根本的な疑問を思い浮かべても不思議ではない。
以上のような文脈で私はこの自己開示の問題を考えてきたわけだが、最近かなり以前とは異なる発想を持つようにもなってきた。それは治療者が私の予想を超えて、自己開示を行っているらしいという現状を知ってのことであった。「治療者が匿名性の原則を守りすぎるのはいかがなものか」、という方向から考えることの多かった私が、「自分のことを話しすぎる治療者にどのようにして自制を促すことが出来るのだろうか」」という問題も重要であることに気が付いたのである。そしてそれがどうやら治療者の側の持っている自己愛や自己顕示欲の問題とかなり結びついているらしいと考えるようになった。



2015年11月24日火曜日

関係精神分析のゆくえ(8)

このシリーズを終えるに当たり、関係精神分析学の機関紙ともいうべきサイコアナリティック・ダイアローグに掲載された論文をざっと見ながらどのようなテーマが過去5年間に掲載されているかを知り、それで最近の動向をうかがい知る、ということでお茶を濁したい。(この雑誌 "Psychoanalytic Dialogues" を、PDと以下に記そう。)奇しくもPDは今年25周年を迎える。最初に出版されたのが1991年の1月である。スティーブン・ミッチェルが創始したこのジャーナルは、最初は小さなグループによるものであったが、今は数百の著者、70人の編集協力者を数えるという。最初は年に4回だったのが、1996年にはもう年に6回も出版されている。
そこで、えーっとどうしようか。各号はパネルとして、代表的な論文とそれに対するコメントがいくつか、あとはその他の論文、ということになっている。そこでパネル論文を取り上げてみよう。

第1巻
「精神分析の理想と否認されたもの:ウィニコットと彼の患者」(Joyce Slochower
「右脳:精神分析の中核にある黙示的な自己」(Allan N. Schore
「融合と創生:精神分析中の間主観性についての非線形的なポートレート」(William J. Coburn
2巻 特集:トランスジェンダーの主体性:理論と実践
「トランスジェンダーの主体性」Goldner, Suchet, Saketopoulou, Hansbury, Salamon & Corbett, and Harris
3
「ギルとブロンバークのやりとり」(Philip M. Bromberg
「ノスタルジア」(Avishai Margalit
「無意識に構成された仮想上の他者」 (Arnold H. Modell
「生きることは裏切ることである」(Eyal Rozmarin)
4
「カウチの上の女性:性器への刺激と精神分析の誕生」(Karen E. Starr and Lewis Aron
「ポリリズミックな模様と文脈上の調律」(Steven H. Knoblauch
2.0の現実:喪失が喪失した時」(Stephen Hartman
5
「ヒステリーと辱め」(Sam Gerson
「並行同一化:トラウマ的な嫉妬に対する防護壁 」(Stephanie Lewin
6
「分析的な影の外で:記念されるべき儀式の力動」(Joyce Slochower
「主体を形作る:プライベートな記憶と公的なアーカイブ」 (Gillian Straker

これで一年分だ。もちろんそれ以外にもこの特集に入ってこないような単独の論文も掲載されている。結論:ここに一つの傾向を見ることなどできない。実に多彩な内容が論じられているというしかない。もちろんタイトルだけではにわかにその内容が把握できないものもまた多い。一本一本を読む気にもさすがになれない。ということでこの計画は中止である。それにしても、えらくテキトーなシリーズだったなあ。

2015年11月23日月曜日

関係精神分析のゆくえ(7)

ロセインの「フロイトと対人関係」という論文も参照してみよう。(Lothane, ZFreud and the Interpersonal. International Forum of Psychoanalysis, 6:175-184)だいたい内容は重複しているけれどね。もう一度繰り返す。「もともとフロイトは, Liebesobjektlove-object)愛情対象という言葉を使ったのに、いつの間にかobject 対象に縮まってしまった。もともと「対象」に人という意味がないのにその言葉が使われたので、「対象関係」という本来ない言葉が出来てしまった。」結局これを主張し続けている人なわけだ。でもこれを書いていて嬉しい。私はやはりフロイトファンだったのか?何か師匠の小此木啓吾先生をほめられているような気がするのである。
この論旨に例の有名な論文Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: a review of 43 casesを重ね合わせてみよう。( Lynn DJ1, Vaillant GE. : Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: a review of 43 cases, 1907-1939. Am J Psychiatry. 1998 Feb;155(2):163-71.
この論文はフロイトがその人生の後半の19071939年の間に治療した43名の患者にインタビューなどをして調査したものだが、フロイトは以下の割合で自らの治療原則に反していたという。匿名性100%(43/43)、中立性 86%  (37/43)守秘義務53%(23/43)。間違ってはいけない。フロイトは100パーセントのケースで自分のことを患者に話していたというのである。更に治療外の関係は72%(31/43)に見られた。ただしこのリンの論調はさほどフロイトに対して批判的ではない。「この32年の間、フロイトは常に、自分が発表していた精神分析技法から逸れ、むしろ表出的であり、かなり強引に指示的forcefully directive であった。彼が推奨した技法は、実際の行動より上位にあるものと考え勝ちである。しかしそのような見方は科学的というよりも教訓的moralistic であるといえよう。フロイトの自己開示と指示的な態度は、現代の精神療法に関するリサーチが最も治療的と考えているものに極めて類似していたのである。


2015年11月22日日曜日

精神分析におけるトラウマ理論 推敲(1)


精神分析におけるトラウマの理論の発展は、ある意味では時代の必然と言える。関係精神分析におけるトラウマの議論のみならず、クライン派によるトラウマ理論も提出されている。ガーランド編 松木邦裕訳トラウマを理解する 岩崎学術出版社、2011Caroline Garland ed.Understanding Trauma: A Psychoanalytical Approach Karnac Books, London, 1998)
何か聞き覚えのある本だと思ったら、何と私は書評を書いていた!!!2011年のことだ。さっそく思い出してみよう。(一回分になった!)


書評:「トラウマを理解する―対象関係論に基づく臨床アプローチ」(ガーランド・C著/松木邦裕監訳,岩崎学術出版社)
 本書を非常に興味深く読んだ。トラウマの問題については、これまでは精神分析はその扱いに一歩遅れているという観があった。現代のフロイト派やクライン派がそれを本格的な精神分析の文脈にどこまで取り入れているかについて、評者はこれまで興味を持ってきた。本書はそれに対する格好の答えを提供してくれている。 
 
本書は1990年代にタビストック・クリニックに創設されたトラウマに関するユニットのメンバーのひとりであるキャロライン・ガーランドが編者となり、8人の臨床家が執筆したものである。本書の構成は、第Ⅰ部「概論」、第Ⅱ部「アセスメントとコンサルテーション」、第Ⅲ部「精神分析的心理療法による治療」からなり、全体が13の章に分かれている。そこには「なぜ精神分析なのか?」「ヒューマンエラーとは何か?」「症例への介入の実例、」「トラウマとグループ療法」などの重要なテーマが並ぶ。
 本書の特徴は一貫して英国のクライン派の立場から綴られていることである。その徹底ぶりは注目に値し、そのような路線でもトラウマの治療論が十分に成立することを教えてくれている。またそこではトラウマを治療することとは、それをトラウマとして成立させている生育歴や過去の対象関係を扱うことであり、そこから生じる転移とその解釈が主たる技法であるという主張がなされる。
 少し内容を要約してみる。トラウマとは、フロイトのいう刺激保護障壁が破られることにより生じ、クライン的にはそれにより外的な出来事が、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることである。その最悪なものとは、保護的な良い対象群の失敗による死やその切迫による個人の壊滅ということだ。さらにビオンの視点からは、トラウマとはアルファ機能の働きが打ちのめされ、含まれている刺激の質と量をコンテインして消化することができなくなって破綻したとき生じる事態ということになる。そして実際のトラウマを受けることは、早期の対象関係上の問題を呼び起こすことになるという前提のもとに治療が行われる。
 実際の介入を知る上で、「第
4章 予備的介入:4回からなる治療的コンサルテーション」は非常に参考になる。この章では症例Aに対する4回の面接の記録が提示されている。そこでは患者の中で外傷により切り離されていた自らの破壊性を「再びつなぐ」ことの重要性と、治療者がそのために保障を与えることへの戒めが強調されている。4回の面接といえども転移についての解釈が重要な位置を占めている点も興味深い。また限りあるセッションを持つことは、失ったもの、人や万能感をワークスルーするという意味をも持つという。
 以上本書の内容を簡単にまとめてみたが、精神分析の立場から真摯にトラウマについて考えるためには、本書はこの上ないリソースを提供してくれることを信じる

自己愛の観点から見た治療者の自己開示 (4)


A1の治療的、非治療的な要素

A1 治療的な要素としては、以下に列挙するものが考えられよう。
1.治療者もまた、自分と同じ人間であるという認識がクライエントに生まれ、過度の理想化を抑制する。
もちろん理想化が抑制されること自体は、非治療的な意味も持ちうる。そこであくまでも「過度の」理想化が抑制されるという場合をここでは論じている。人は相手の姿が見えない場合に様々な姿をその人に投影する傾向にあることは確かである。そこにはネガティブな気持ちも確かに含まれうる。しかし治療者が職業的、ないしは学問的なキャリアを積み、社会的な立場や名声を得ている場合、そして治療時間中にクライエントに敬意を払い傾聴に勤める場合、そこにクライエントの心に理想化が生じる可能性は非常に高い。その際に治療者が一人の人間であるという当たり前の事実がクライエントにより再認識されることの意味は大きい。
2.治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。
クライエントはおおむね治療者が何らかの規範や原則に従った治療を行い、自分の情報をクライエントに伝えないこともそのひとつであることを感じ取っているものである。クライエントは自分には知らされていない何らかの原則が少なくとも治療者にとっては非常に重要であり、本来なら遵守すべきものであることを想像している。しかしそれでも治療者がその原則を犯してまでも自己開示を行うことは、治療者が見せてくれた特別の配慮として、あるいはある種のギフトとして理解される可能性がある。答えた内容よりはむしろ「答えてくれた」ことに感謝するのである。もちろんこれは治療者が「普段は自己を示さない」という背景があるからこそ、それだけ意味を持つことになる。また治療者の個人的な情報がギフトとしての意味を持つほどに貴重なものであるという意味ではない。あくまでもクライエントの側の感じ取り方としてこう述べているのである。
3.治療者の行動や考え方のモデリング、ないしは情報提供の意味を持つ
クライエントからの「~の場合先生ならどうしますか?」「~について先生はどのように考えますか?」等の問いに治療者が何らかの内容を伴った回答をすることで、治療者の考え方、生き方がクライエントに伝わることになる。もちろんそれがクライエントにとって見習い、あるいは模倣をする内容であるとは限らない。しかしその中にはクライエントが自らの考え方や行動に直接的な影響を与えることもあるであろう。

次にA1の非治療的な要素としては以下のものが考えられる。
1.  クライエントの要求を満たすことによる退行や過度の期待を誘発しかねない。
これに関しては敢えて説明するまでもないであろう。治療者の自己開示の非治療的な意義について、それこそ非分析的な立場の治療者や経験不足の治療者からも一様に聞かれる傾向のある問題点である。もちろんこの種の危惧が持たれるにはそれ相応の根拠がある。ただこの問題について敢えて私から「反論」するならば、質問に答えることで退行が生じる気配を感じ取れば、そこで軌道修正するチャンスは、治療者にはたくさん残されているのも確かだということである。退行を生むことを恐れていては、おそらく支持的な介入のほとんどが用いられないことになるだろう。
2.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性がある。

質問に答えたのに、実は質問をしたクライエント自身がその回答を望んでいなかったという場合がある。しかしこれは致し方ない状況とも言える。治療者がその可能性に思い至らず、重要と思われる質問に答え、結果としてそれがクライエントの失望や幻滅を生んだとしたら、それは仕方のないこととあきらめるべきではないだろうか。
3.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねない。
「先生はどのように考えますか?」に対して回答することは、クライエントにとっては強い示唆につながるという可能性についてはすでに指摘した。