第11章 自己愛的な国 ― 中■(■は、口の中に玉)
本書ではこれまで基本的には自己愛的な「人」について論じてきた。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきたわけである。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。そして私にとっては、それがたとえば中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。だからこの章は、いわば番外編なのである。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に私が腹が立ったものが二つあったので、紹介する。
① 発展した隣国を日本は受け入れるか…中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 2015年06月27日)
勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送りつけ、それに対して正当な抗議をすると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判…「いわれのない脅威論を誇張」
【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 2015年07月03日)
思わず「強烈な不満」を唱えたくなるような内容である。 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
中国の主張に対しては、まったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。
この中国の報道局長の主張を読んで、大多数の中国人は「そうだそうだ」 と考えるのではないか。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国国民が声をそろえて言っていることと同等と見なしても許されるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本章ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?
国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも確かに成り立つのだ。
ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の『中国人とアメリカ人』(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を、次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p.34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か?「反対の(潔白を示す)証拠が出てきても、それでも謝る」か? もちろん例外は沢山あることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。
そこでまずアメリカ。一例を挙げよう。(息子)ブッシュ大統領は2002HYPERLINK
"https://ja.wikipedia.org/wiki/2002%E5%B9%B4"年HYPERLINK
"https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5"1HYPERLINK
"https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5"月に、イラクが大量破壊兵器を保有する「ならず者国家」であるとして、イラクへの攻撃を正当化した。国民の多くは、よほど確たる証拠があるのだろうと思った。しかし最終的にイラクに大量秘密兵器が見つからなかった。その時、アメリカはばつの悪さを隠さなかった。もちろんイラクに対して正式な謝罪をするなどはありえない。でも「悪さをしているところを見つかった子供」のような態度であったと記憶している。そして2004年1月には、CIAのデビッド・ケイ博士が、米上院軍事委員会の公聴会で「私たちの見通しは誤っていた」と証言したのである。
そして私が知っているアメリカ人たちも、おおむねそんなところだ。彼らはブラフをよく使う。しかし嘘や誇張がばれると、すぐにミエミエの愛想笑いを浮かべ、機嫌取りに転じるというところがある。もちろんアメリカ人もさまざまであり、サイコパスからとんでもないお人よしまでいるが、全体的な印象としてはそんなところだ。
では中国はどうか? 2013年の3月、米国は世界各地へのサイバー攻撃が中国のある地区から発していることを報道した。ところがそれを受けた中国外務省の報道官は昂然と言い放った。「我々こそ米国のハッカーにサイバー攻撃を受けている、私たちは犠牲者なのだ。」これは「証拠が出てきても謝らない」という中国人の国民性がそのまま表れているといっていいだろう。
もうひとつ例を挙げよう。2015年3月16日 に、外務省は、沖縄県の尖閣諸島が日本名で明記された中国の古い地図が見つかったとしてホームページで公表している。この地図は、中国政府の機関が1969年に出版したもので、「尖閣群島」の他、「魚釣島」という日本の名称が使われているということだ。しかしそれに対する中国側の反論は瞠目すべきものであった。
「釣魚島が中国固有の領土だという事実をたった1枚の地図で覆すことは不可能」である。これなども「証拠が出てきても謝らない」中国人の傾向の、外交バージョンと言えるだろう。
このように中国という国の自己愛の在り方を考えた場合、私たちは次の点を問わなくてはならない。中国という国の自己愛は、すでに考察した「サイコパス型」と関係していないか。
ここにもアメリカとの対比が役に立つであろう。アメリカという国も自己愛的であろうが、それは「厚皮タイプ」と認定することができるだろう。彼らはあからさまな嘘はつくのが下手である。むしろ下を向いて黙ってしまうのではないか。公開の場で自分の女性関係を質問されて、いつものさわやかな弁舌を失ってしどろもどろになった、元大統領のクリントン氏のように。
ところが中国の報道官の言動などは、聞く方が赤くなるほどの虚偽が含まれているように思える。そして嘘をつく、という特徴を典型的に有するのが、サイコパス型の自己愛だったことはご記憶であろう。
私たち日本人の多くが、中国の人々のこのような言動を見ていて考え込んでしまう点がある。「こんなに嘘をついて、本人たちは大丈夫なのだろうか?」「彼らの心はよくぞ壊れないで働いているものだ。」 しかし私たちはすでに、嘘をついても壊れない人々を知っている。サイコパスはその典型なのだ。彼らにとっては二つの矛盾する心は葛藤を生むことなく共存できる。それがむしろ心地よく、心の安定につながるかのように。
もちろんこう書くからと言って、私は中国人を犯罪者扱いしているというわけではない。中国の人は家族や親しい友人、長く付き合っているビジネスパートナーは信用し、相手の恩に報いようとするという。信頼関係を持つ相手はいるわけだ。そこが本当のサイコパスと異なるところである。
中国人は確かに初対面の人は決して信用してかからないだろう。交渉の際は相手の足元を見て、少しでも有利な条件で契約を結ぼうとする。そこでは事実を誇張したり、虚偽を交えて伝えることもあるかもしれない。しかしこのように周囲に猜疑の目を向け、同時に自分が相手から騙され、搾取されないかに注意を向けていることには、かなりのストレスを伴うはずだ。だから彼らのサイコパス的な振る舞いも、限られた人々に対して見せると考えるべきであろう。この点は彼らの名誉のために強調しておきたい。
中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。おそらくは面子を守るための虚偽は心の中で全面的に正当化されているのだろう。
そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が同著で用いている体験談が面白いので紹介させていただく。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのは明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすることは彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。
この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。「互いの面子をつぶさない」は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るために事実を歪曲してまで応酬する。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。
中国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、最終的にその国のためになるのだろうか?
この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番としてこちらをまず考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだと私は本書で主張している。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、ある種の目的意識を持って満足させてきたというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるだけなのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まれ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうこと、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りということが出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば直接的な不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。自己愛の満足は、原則として自己を利さないのだ。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。)
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。
中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、実にあくどい手段で列強に支配されるという、長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題であることを、歴史に学んでいるはずである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?中国という利に聡い国の代表が、個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛的な振る舞いを、どうしてあそこまで露骨に見せるのだろうか?
私はこの問題について興味を持っているものの、一つの答えを出し切れていない。私は個人の病理を扱う精神科医である。国を一つの人間のように見立てる本章のような議論は、私にとっては明らかに専門外なのである。従って以下の考察は、非専門家の戯言と思っていただきたい。
第一の可能性。中国は壮大な「勘違い」をしているのかもしれない。現在の中国は一党独裁であり、権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが反対派を弾圧し、口封じをするという政策をもって、人民をコントロールし、掌握するというやり方は、方向が間違っていることは確かであろう。 最近(これを執筆中の2015年7月現在)でも、中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。
もう一つの可能性。私はこちらの方が信憑性があると思うのだが、中国は戦術として、自己愛的な態度をとっているのかもしれない。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうして「成功」を収めているのだろうか?
私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかけない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に聡く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの、体同士の壮絶な接触を売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、ちょっと見ただけではむしろ退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。見事な一発KOのシーンが見られるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られるのだ。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)、相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利なうちに交渉を終えようとする。相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということだ。
中国はナルシシストか?再び問う
ということで結論だが、中国という国はそれ自体がナルシシストに見える。そして中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直なことが称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんにさえ、「金を出せ」と言われる。そして、瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」と訴えても、その国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何かされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。
私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。
(余談)ニホンザルはナルシストか?
ここでふと思いついた。霊長類研究の権威である山極寿一先生の本にあった。ニホンザルは互いに視線が合うと、それは相手からの挑戦と取り、まずは相手を威嚇するという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発するのだ。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるらしい。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないように注意しなくてはならないという。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、同情や求愛などのさまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5)
オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないようになっている。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われて怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)
ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つということらしい。そこでは相手は弱い立場であるという前提でかかわりを始める。
このサルの話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発することが、である。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。ああいうところで、「どうぞよろしくお願いします。」とか行って愛想笑いを浮かべて握手を求めるボクサーがいたら面白いだろうな。かえって殴られたりして。
そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。お互いが互角同士だと感じるだけだろう他方ナルシシズムを考える時は、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。