2015年10月31日土曜日

母親の自己愛 (2)

日本の母親について語る上での前置きを書いているわけであるが、このような事情を、母親が娘に向ける視線に当てはめて考えていただきたい。母親は上から下まで娘を眺め、様々な細部に気が付き、気になる。心配にもなる。しかしその娘は自分の一種のコピーでもあり、ライバルともなりうる存在なのだ。娘の中に見る様々な「ちゃんとしていない」ことが目につくであろう。それが母親の中に一種のアラームを鳴らす可能性がある。
さてそれだけで日本の母親が子供に対して過干渉で、あらゆる「ちゃんとしていない」部分を口うるさく訂正しようとするはずだ、と結論付けるつもりはない。考えてみれば同様の性質は娘にもあるだろう。娘も自分の「ちゃんとしていない」部分が気になるのであれば、同様のこだわりを治すことになり、問題がない。母親にとって気になるような娘のシャツの小皺が娘自身にとっても気になるのであれば、両者の考えは一致するはずで、問題がないはずだ。それに女性のこだわりは基本的には「巣作り系」のこだわりだから、住居を住み心地の良いものにするという意味では合理的でわかりやすく、母娘が同じ方向を向く可能性が高い。(「巣作り系」のこだわりについては省略するが、結局女性がキッチンのシンクを磨き上げなくては気が済まないのは、巣をきれいにするという合理性に基づいているということだ。ある鳥は巣を極めて几帳面に作り上げるが、それをヒントにした命名だ。男性のヘンなこだわりとはわけが違う。男性のこだわりは「アスペ系」とでも言えるだろうか。)
さてここで最大の問題は母親が自分のこだわりや願望と娘のそれとを混同するというプロセスだ。これ自体は実はこだわりや「ちゃんとする」傾向とは別物として存在する。どんな例でもいいのであるが、田房永子作、「母がしんどい」の中から取り上げる。
 母親は娘がピアノを習いたいだろうと思う。実はそれは娘からは全然来ていない願望だ。ただ自分の小学生の娘が何か習い事をしているイメージを思い浮かべ、「それがいい」、と思い込む。それ自身は実に些細なきっかけによる場合が多い。近所の奥さんが「うちの娘がピアノに通っていて・・・・」というのを聞いて、なぜかそれを自分の娘に被せて考える。自分の描く娘像にピッタリ来てしまう。するとピアノを習っていない娘は「ちゃんとしていない」ような気がする。そこで正常な母親なら「でもそれって、私の思い込みにすぎないのよね」となる。しかし「しんどい母親」はいつの間にか「娘もそれを願っているはずだ、いや願わないことは許せない」と考えるようになり、強引に「ヤ●ハピアノ教室」に連れて行く。「今日からあなたはピアノを習うのよ。」娘の目はテンになる。「そんなこといきなり言われたって…」ところがそこで漫画では決定的なコマが入る。しんどい母親の目が「ギン!」と光り、一瞬恐ろしい形相になるのだ。「ギン!」である。それを目にした娘は、逆らうと母親に大変な目に合う、場合によっては(精神的に)殺されると脅される。これでは従わざるを得ない。そして強制的に通わされたピアノ教室で、娘は不幸にして、ピアノを好きになれない。ピアノの才能があるなら、都合よく好きになれるかもしれないが、たいていの場合はそうではない。その一方で「しんどい母親」の心の中では、「あの子はこれまでためていたお年玉でピアノを買いたいはずよね」と、娘の口座から数年分のお年玉を勝手に引き出して、ピアノを注文してしまう。(娘の目は再びテンになる。)そしてピアノに触ろうともしない娘に言い放つ。「あんたっていつも、モノを大切にしないんだから。」
この例はピアノだけについてであるが、母親はこれをあらゆることについて娘に押し付けていく。そこで一貫して起きることは「自分の娘に関する願望」を「娘自身が望んでいるもの」に作り変えてしまう、というプロセスだ。これは通常は起きないことである。自分が望むことを他人に簡単に押し付けることができれば、これほど便利なことはない。しかしその他人もまた意志を持っていて、同じようなことを自分にしようとさえしているのだ。しかし唯一起きる可能性があるのは、まだ自分を精神的身体的に100%頼っている存在、すなわち子供に対して行う場合である。ひと睨みすれば、子供は言うことを聞く。生殺与奪の権は母親に握られているからだ。母親のナルシシシズムはここに極まれり、というわけである。
 成長した娘は母親から離れたいと思う。しかしそれは容易には実現しない。一つには強烈な罪悪感。自分という自由に支配することができる存在を亡くした母親がいかにさびしい思いをしなくてはならないかは、手に取るようにわかるのだ。そしてもう一つは自分自身の寂しさ。不幸にして自分でものを決めるという機会を与えられてこなかった。いきなりカンガルーの母親の袋から出されても、独り立ちすることへの耐性がまだできていない。そしてそのことをしっかり観察しているしんどい母親は、「ほらね、ウチから出ていくなんて無理なことがわかったでしょ?あなたはお母さんなしでは生きられないのよ。」と言うのだ。
同様なことが息子については起こりにくいのは、結局母親は男性についてはシロートだからということだろう。その生態がよくわからないままに、どこかに消えてしまうのだ。「ギン!」とやっても結局は振り切って行ってしまう。すると脅される側に立たされかねないために、母親は息子を支配することをあきらめるのだ。しかし「ギン!」が効く息子であれば、話は別である。多かれ少なかれ娘と似たようなプロセスが待っているかもしれない。すると今度は息子の結婚相手、嫁がしわ寄せを体験することになるのである。
こう考えると母親のナルシシズムは、「ギン!」が有効な人に対してだけ働く、と考えていい。時にはそれは息子にも、そしてご主人にも働くかもしれない。そうなるとより顕在化する自己愛に発展するかもしれない。でも多くの場合は娘は母親の「ギン!」を恐れ、それから逃れるようにして自分の人生を歩むようになる。そのうち結婚して娘ができて、ふと気が付くかもしれない。自分も時々「ギン!」を使い始めていることを・・・。


2015年10月30日金曜日

母親の自己愛 (1)


加藤さんチェックもすでに終わっている自己愛の本に、もうひとつ章を付け加えたくなった。曰く「母親の自己愛」。本当はこれで本が一冊書けそうなテーマなのである。
 なぜ母親なのか?父親ではないのか、と言われるかもしれない。もちろん父親はナルシシストであることが多い。しかしやはり見えにくいだけに、母親の問題が大きいのだ。それは一見自己愛とは見えにくいために、扱い甲斐もあるのである。そしてこの項目を書く気にさせてくれた本として、一冊の漫画があった。田房永子作、「母がしんどい」(新人物往来社、2012年)。この本については後に登場させたい。
 母親問題は日本社会に蔓延している。いや世界中においてそうなのかもしれない。しかし日本における母親と子供、特に娘との関係にはやはり、独特で特筆すべきものがある。少なくとも私がよく観察をする機会を得た米国の母娘関係に比べてかなり特殊である。私もその息子バージョンを体験している。
日本の母親の特徴は何か。それを考える前に、日本人の特徴という問題に戻りたい。私は基本的には日本人を薄皮と考えるが、それは近年のセロトニントランスポーター遺伝子の研究からもある程度推察されることだ。この遺伝子の働きをわかりやすく表現するならば、中枢神経がセロトニンという神経伝達物質をどの程度使うことができるかを決定づけるものだ。それにはS型(短い遺伝子)とL型(長い遺伝子)があり、ひとはそれを、LL,LS,SSなどのように二つずつ持っている。そして両方がS型、つまり SSの場合に、人は様々なことに不安を感じやすい。
 2009年に発表されたある報告では、東アジア人はS型遺伝子を持っている割合が7080%と高く、ヨーロッパの4045%と比べると倍近い数値になっているという。そしてその中でもS型遺伝子保有者の割合が一番高いのが日本で80.25%、2番目が韓国で79.45%、以下、中国75.2%、シンガポール71.24%、台湾70.57%となっているという。 またアメリカ44.53%、英国43.98%、ドイツ43.03%、スペイン46.75%となっており、欧米人と比べるとアジア人が圧倒的に不安を感じやすい人種であることがわかる。(上の6行はネットの文章からのコピペが80%。でもどこでも同じような文章が拾えるからね。)
ただし日本人にはもう一つ几帳面さが特徴的で、それは日本人の持つ自己愛的な特徴、すなわち薄皮型であることとも関係している。それはどういうことか?(ナンだかテーマから離れてきたな。まあいいや。下書き段階だから。)几帳面とはつまり、「ちゃんとしていないと気が済まない」ということだ。わかりやすい表現だなあ。一回でも袖に腕を通したシャツや、一度使った食器を、さっさと洗いたくなる性質である。食事の後の歯磨き、でもいい。あるいは買い物の後のレシートを財布の中の所定のポケットに入れないと気が済まない。何かが汚染され、何かが「ちゃんとしていない」状態にあることが気になる。「ちゃんとしていない」ことが存在する限り、一種のアラームが心の中になっている状態なので、それを止めるべく、するべきことをしないと落ち着かない。
このような性質がどのような遺伝子情報と関係しているかはわからない。でもそれは街を見ればわかる。雑然としててごみが捨てられていても平気な人々か、塵一つ落ちていない街を好むか。車が多少凹んでいたり埃をかぶっていたり、傷がついていたりしてもいいのか、それともきれいにしていないと気が済まないのか。日本の町は後者だ。

生まれて初めて外国に住んだ体験。私の場合は1986年のパリであったが、そのとき思ったのは、「日本の車はみな新車が走っているようだ」ということである。それほどパリの車はみなポンコツで、汚れていた。細かいところまで気にしない体質が向こうにはあった。もちろんそれが文化における大胆さや新奇性を生む可能性はあるので、良し悪しは言えないが、とにかく日本人のコツコツやる性質に、この几帳面、こだわりが関係していることは間違いない。さてそれにセロトニントランスポーター遺伝子(俗に「不安遺伝子」と呼ばれている)が関係しているとどうなるか。几帳面さは不安と結びつくことで拍車がかかるのである

2015年10月29日木曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 付録の章

付録の章 自己愛アフォーダンス

自己愛の問題と「自己愛トラウマ」
自己愛に関する論考として私に与えられたテーマは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいことである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
そもそも自己愛の問題を臨床的に取り扱わなくてはならないのはなぜか。それは人の持つ自己愛の問題が周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼしかねないからである。自己愛者(本稿では自己愛的な問題を抱えた人についてこのような呼び方をさせていただこう)は周囲の人々に対して支配的に振る舞ったり、怒りをぶつけたりする。彼らの多くは社会の中では強者であり、虐待者の側に立ちやすい存在と言える。彼らの病理を理解し、治療的に扱うことは多くの人を救うことになるのだ。


以下略

2015年10月28日水曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第15章

15章 精神分析家の自己愛


実は私はどうしてもこれを書かずにはいられない。自分も含めて、セラピスト、カウンセラー、精神分析家の類は、ナルシシストがとても多いのである。
こう言ってはなんだが、分析家とは、その職業の内容からして、とても高飛車な人たちである。だってそうではないか。「私は心の問題のエキスパートです。他人の心の問題を理解し、その援助をする専門家です。」という看板を掲げているのが分析家なのだ。
 もちろん私がこのようなことを書く意味が分からない、という人もいるかもしれない。というのも「『心の専門家』がどうした?他の仕事に比べて何が特別なんだ?」という人がいてもおかしくないからだ。
 私は心の問題を扱うのは、とても崇高なことだと考えているし、その専門性を有することはすごく誇りに思うべきことだと思っている。でも一般人がそう思っているとは全然限らない。それよりも、数学や物理学の難しい問題を扱う人こそが一番偉いと思っている人もいるかもしれない。とすると数学の専門家を自認する数学者ほど自己愛的な満足を味わう可能性のある人はいない、ということにもなろう。
 その意味で心の問題を扱う人と、人体の臓器の病変を扱う人と、お菓子を作る人と、為替を扱う人に差はないかもしれない。それぞれが自分の仕事をとても大切なものと考えているだろう。すると分析家も内科医もパティシエも証券取引所で活躍するディーラーも、それぞれが自分の仕事についてのプライドに比例した自己愛を味わっていることになる。しかし・・・・・
私はやはり分析家に自己愛的な人が多い気がしてならない。「自分は特別」感が彼らには特に強いのだろう。自分は人間として高い心のレベルに至っているという錯覚。自分は精神的に成熟している感覚。これが分析家の自己愛をくすぐるのだ。
フロイトが非常に自己愛的であったことは論を待たないであろう。もちろん彼は自己愛的になるだけの根拠があった。彼が打ち立てた精神分析理論はその後の心の専門家に決定的な影響を及ぼした。一世紀が過ぎてもこれほどまでに影響力を発揮する理論など、他の学問の分野に存在するだろうか? アインシュタインやダーウィンに比肩すると言っていい。
 しかしフロイトの理論は、それ自身が分析家の自己愛を満たすような形で浸透していったことも確かである。精神分析という何年もかかる厳しい自己探索の作業、それによる自らの無意識の解明、そして他人の連想や夢内容を分析する力の獲得、という一連の流れを示すことで、それを志し、一生の仕事としたいという夢を多くの人に与えた。そしてその世界には、
アナリザンド(被分析者)  スーパーバイジー  精神分析キャンディデイト  精神分析家  教育分析家
という階層が生まれ、精神分析の道を歩む人にとっては、分析協会に入門を許されてからは、最終的に教育分析家になることが一つの大きな目標となった。そしてそこに達した際に体験する自己愛的な満足も計り知れないのだ。
 その自己愛的な振る舞いが様々な問題となったり、その立場に任せて患者と個人的な関係を持ったりした人は、精神分析の歴史の中で何人も登場する。その中で私の心に特に浮かび上がる二人を紹介しよう。一人は英国の精神分析家マシュード・カーン、もう一人は米国の精神分析家カール・メニンガである。もちろん他にも自己愛的な分析家はいくらでもいるかもしれない。ただ私が分析家として見聞きする中では、その業績だけでなく、あるいはそれよりもむしろ、その自己愛的な振る舞いのために特によく名前にのぼるのがこの二人である。。

マシュード・カーンの自己愛

マシュード・カーンは分析界の巨匠ウィニコットの右腕的な存在でありながら、その人騒がせな言動ばかりがクローズアップされてきた面がある。
以下に、カーンの伝記(FALSE SELF The Life of Masud Khan. By Linda Hopkins. . Other Press2008)などを参考にしてまとめる。
マシュード・カーン(Mohammed Masud Raza Khan)は1924年、英国領インドのパンジャブ地方(のちのパキスタン)の裕福な家に生まれた。成人してから英国に移住し、精神分析の世界では早くから頭角を現した。プライベートでは二人の有名バレリーナと結婚し、二度離婚するなど、派手な人間関係でも有名であった。
 カーンはきわめて知的な能力が高く、編集者としてのスキルを買われて、多くの本を編集している。前世紀の後半においては、精神分析の世界で有能で多筆の分析家は少なかったが、その中でカーンは例外的な存在であった。彼はウィニコットの分析を受け、また彼の長年の協力者であったとともに、その共著者、作品の編集者でもあった。またカーンは、かのアンナ・フロイトの精神的な庇護を受け、何かがあっても彼女に守られたという。学問的な業績でも、例えば彼の累積外傷cumulative traumaの概念は今でもしばしば文献に引用される。彼はまた倒錯と、幼少時の生育環境の関係などについても優れた論文を発表した。このようにカーンは、精神分析の世界では、将来を嘱望され、若くして期待を集める存在であったことが伺える。
 彼は指導分析家になるための面接に2度失敗したと言われるが、そこに彼の人格的な問題がどのように関係していたかは不明である。指導分析家になってからは、徐々にその行動は分析の枠組みから外れるようになった。彼は酔っぱらって乱行に及ぶ、患者とだけでなく患者の配偶者、その娘たちとも性的な関係を持つ、などの行動が目立ったという。また治療関係が終わった患者を脅したり、患者同士の性的関係を薦め、自分自身の情緒的なニーズを満たしてくれない患者を捨てたとも伝えられている。そのような尋常ではない振る舞いの背後には、双極性障害(躁うつ病)があったのではないかと考える人もいる。
カーンは非常に自己愛的で、自らを「長身でハンサムで、ポロとスクワッシュが得意。高貴の出で極めて裕福である。」と紹介するほどの自信家であった。彼には微小な奇形があり、右耳が少し突き出していたという。欧米では耳が立っていることを非常に気にする人が多いが、彼もその例外ではなく、ベレー帽などを被ってそれを隠していたらしい。しかしウィニコットに促されて、その耳を外科的に矯正してもらったという。
 カーンの自己愛的な問題は人生の終盤に更に加速し、人に自分を「カーン王子」と呼ぶよう強制し、自分でもサインにそのように書いたが、その地位を正当化するような根拠は結局見つからなかったという。彼は実際に非常に活動的でチャーミングであったが、唐突に分析的な洞察を織り交ぜた言葉を人に発し、それが侵入的で攻撃的なニュアンスを含んでいたらしい。せっかくの精神分析のトレーニングも、彼の自己愛的な傾向を悪化させることに繋がっていた可能性がある。
 カーンのこの人格的な面については、分析家の間でもいろいろ取りざたされ、ウィニコットとの15年にもわたる分析が持っていた意味についても様々に論じられた。簡単に言えば、「ウィニコット先生、15年も何をやっていたの?」というわけだ。たとえばウィニコットは逆転移における憎しみについてたくさんの論文を書いたが、カーンの分析に関してはその処理に失敗し、結果的に彼の性格的な問題を助長したのではないかとも言われる。しかし私はこの意見には反対だ。(断っておくが私はウィニコット贔屓である。)このカーンの事例は、人格の中には、精神分析では扱えないものがいくらでもあるということを示しているかもしれないし、またウィニコットの15年の分析があったから、カーンの問題は「この程度で済んだ」可能性もあるのである。
 カーンはIPA(国際精神分析協会)に対して不適切な手紙(内容は不明である)を書いたことや、彼のアルコール問題が深刻になったことにより、1965年に結局IPAから追放されたのだが、その頃から、患者との性的関係が本格的に始まったらしい。その彼の病理は、1970年代前半に、母親とウィニコットが相次いで亡くなってから、歯止めが利かなくなった。ある時はレストランで、太った客にケーキを送り、「これを食って早く死ね」と叫んだという。
 1976年には英国精神分析学会からも、訓練分析家の地位をはく奪されている。そして1988年には反ユダヤ主義と反精神分析的な考えに染まったトンデモ本を出して、最後に英国精神分析協会から追放されたと記録されている。
カーンが1989年に亡くなった時、人々は彼の明晰な頭脳をたたえるとともに、彼が自己愛的で、嘘つきで、スノビッシュで、残酷な側面を持っていると毀誉褒貶の内容の追悼文を目にすることになった。

カール・メニンガーの自己愛

 米国で1900年代半ばに活躍した精神分析家カール・メニンガも、またきわめて自己愛的で、毀誉褒貶の多い人であった。彼は私が留学していたメニンガークリニックの創設者のひとりであり、高名な精神科医、かつ精神分析家として、彼の噂はかなり知れ渡っていた。彼がいかに天才的な頭脳を持ち、数々の著作をものにし、メニンガーの名前を高めたのか、そして同時にいかに暴君で自己愛的で多くの被害者を出したのか、ということである。
 メニンガー家についての様々なスキャンダラスな出来事が一気に知れ渡ったのは、1992年にローレンス・フリードマンの『メニンガー:その家族とクリニックMenninger: The Family and the Clinic』という本が出版されてからである。亡くなる少し前にカール・メニンガ自身の聞き取りをも行ったうえで書かれたこの本は、期待も高かった。しかし、いざ出版されてみると、余りにあからさまにメニンガーファミリーの内情を書いたために、メニンガークリニック内ではいわば焚書扱いになり、メニンガー図書館にもこの本は入れないことになってしまった。しかし私はこの本によりアメリカにおける精神分析の歴史の一端を知ることができたと思う。
  メニンガークリニックは、その父親チャールズと二人の息子ウィリアム、カールによって1919年に創設された。もう100年も前のことである。その後カールが中心になってクリニックの規模を拡張していった。1942年にメニンガークリニック内に、「トピカ精神分析研究所」を開設し、1945年には「メニンガー精神医学校」を開校。メニンガー・クリニックは精神病者の診療だけではなく、精神分析家のトレーニングや教育を行う、世界的な力動的心理学(力動精神医学)の研究・臨床の拠点として大きな発展を遂げることになった。
 カール・メニンガーは、学者としては一流であった。彼の主要著作には、自殺心理の生成をフロイトのタナトス(死の本能)の概念を参考にして研究した『己に背くもの(1938)』、治療同盟や固着・退行の病理メカニズムに注目した『精神分析技法論(1958)』、人間の愛情と相互的に作用する憎悪について考えた『愛憎(1942)』など様々なものがあった。
これらの著作は広く読まれ、ペーパーバックになって一般の書店で売られ、カールは精神医学の世界では、サリバンに並ぶような地位にまで押し上げられた。1950年代は彼の絶頂の時期である。
 カールはフロイトに心酔していたと言っていい。フロイトがユダヤ人として迫害を受け、亡命する際には、メニンガークリニックに来てはどうか、と誘いの手紙を書いたとも言われるが、結局フロイトに無視されてしまった。フロイト自身は非常にプライドが高く、「アメリカのような野蛮な国になど行くものか」という偏見に満ちた姿勢を保っていた。それでもカールは精神分析家になる道を邁進し、兄のウィリアムとともにシカゴまで汽車で何時間もかけて週末に分析を受けに通い、その資格を取った。二人の分析家は、フロイトの直弟子のフランツ・アレキサンダーであった。
 ところが名実ともにメニンガークリニックのボスとなったカールの横暴ぶり、ワンマンぶりが次第に非常に目立つようになった。弟のウィリアムの方は温厚でスタッフ受けは良かったらしいが、カールは感情的で物事を自分の思うがままに動かせないと癇癪を起すところがあった。しかし他方では患者に非常に繊細で愛他的な態度を示す、という二面性もあった。
 カール・メニンガの自己愛的な振る舞いは、やがて報いを受けることになる。それが1965年に起きた一種のクーデターで、いわばカールはそのボスの座を一気に奪われてしまったのである。
 この顛末をフリードマンの伝記をもとにもう少し詳しく紹介しよう。1965年の421日から一週間の間に起きた出来事である。クリニックにおいてカールの独断で横暴なやり方に嫌気がさしたスタッフからいろいろ不満が出てきて、話のわかる弟ウィリアムのもとに集まった。そしてカールを一気に追い出そうということが決まった。その時カールも地元にいたが、ある程度話がまとまってしまい、彼の側近までもが彼にそむいたことが彼に伝えられた。カールは激怒したが、結局仕方なくメニンガーのオフィスをたたんで、地元にあるVAホスピタルのオフィスの方に引き下がったという顛末である。
 それまでウィリアムは兄カールに常に従う形でチームをまとめていた。ある意味では彼もまたカールの下で苦しんだわけである。といっても二人の兄弟の仲は比較的良好であった。何しろ一緒に分析を学んだ仲であるし、ウィリアムは性格が穏やかだから兄を基本的には立てていたのだ。カールもまたウィリアウムの緻密で配慮の行き届いた仕事のおかげで自分の創造性が発揮される、と言っていた。
 しかしカールの問題は、自分で決めたことに、強引にみなを従わせようとし、自分に逆らう人に対して激しい感情をむき出しにするところにあった。また細かいことにこだわり、それを他人に押し付けるところもあった。これらは両方とも自己愛の問題として捉えることができよう。
ウィリアムはこう言ったという。「カールは細かいことに非常にこだわり、私に向かって『君は僕のことをわかっていない、僕の話を聞かない』というんだ。あるいは彼の言うことに疑問を投げかけることが出来ない。『僕のことを信頼していないんだな』となってしまうからだ。」(Friedman, p309
私は特に、細かいことにこだわり、それを押し付けるという点が人々の気に触り、その自己愛的な人間を非常に不人気にするのではないかと思う。人はだれでも必ず何らかのこだわりを持つ。それは間違いのないことだ。朝起きた瞬間から、顔の洗い方、歯磨きのチューブの閉め方、トイレのふたの閉め方、朝食の際の箸の持ち方などにことごとくその人の癖が反映される。それ以外のやり方では落ち着かないし、それ以外のやり方をしている人を見ると気持ち悪くなる、ということが誰にでもある。几帳面な性格の場合は特にそうだ。しかしそれを人は互いに見て見ぬふりをし、許し合う。お互い様だからだ。
 ところが自己愛的な人間は、人をことごとく自分のやり方に従わせ、自分の色に染めようとする。そうしないとそれを見ている自分が落ち着かない、というそれだけの理由の場合もあるし、それが正しいやり方だから、と思い込んでいる場合もある。
私が昔会ったある高名な先生は、世間では押しも推されもせぬ大家であるにもかかわらず、奥さんに「あなたは箸もちゃんと持てないの?」と言われてしまった。もちろん奥さんはその先生の家庭外での幅広い活動のすべてに口出しをすることなど出来ない。むしろ先生としては結構自由にやらせてもらっていることに感謝している。すると細かいことは奥さんのコントロールに任せるということは、実は家庭円満のためには重要なことだ。そこで自己愛的な問題の少ないその先生は、実際に箸の正しい持ち方を練習するようになったという。やはり奥さんに対してはこうでなくてはならない。
 しかし人は家庭の外では、たとえば自分の同僚や部下や友人に対しては、自分の習慣や癖を押し付けるわけにはいかない。そのようなことをしては、あっという間に関係が崩れてしまう。ところが一定の力を持った人間はそれをし通してしまうことがある。するとその人は自分が人を支配しているという感覚を持ち、自己愛的な満足体験を得るのだ。
メニンガー兄弟の話に戻ろう。ともかくもこれを期に二人の仲には甚大な影響が及んだ。決定的な溝が生まれたのである。その頃アメリカを代表するニュースキャスターであるウォルター・クロンカイトが、すでに世界的に名を高めていたメニンガークリニックに取材に訪れた。彼は兄弟にインタビューを行なうつもりだったが、困ったことに二人が同席しない。そこでそれぞれを撮ったフィルムをつなげて3人で話しているように見せるという工夫を余儀なくされたという。
この兄弟葛藤の経緯を知るにつれて、カールのナルシシズムの問題が浮き彫りになってくる。彼はメニンガーの名を世界にとどろかすために、新しい土地を買い、事業を広く展開しようとしていた。他方ではそのための資金は膨大で、しかも資金調達のための募金活動は弟のウィリアムに任されていたのである。これらの葛藤は彼らの決別を準備していたことになる。カールは「クーデター」のあとも彼を陥れた形となったスタッフにつらく当たり、特にカールがかつて精神分析を行ったスタッフに対しては、そこで得た個人情報を悪用しようとした。ウィリアムは抑うつ的になり、おそらくそれも遠因となり肺がんにかかり、1956年秋には世を去った。
ところでカール・メニンガーは精神分析のトレーニングを受けている。精神分析は彼の自己愛をどのように扱ったのであろうか。カールはシカゴでフランツ・アレキサンダーから精神分析を受けたが、アレキサンダーは1934年にカールを伴い、ウィーンのフロイトを訪れている。その時アレキサンダーはフロイトに「この男は非常に自己愛的です。あまりおだてないほうがいいでしょう。」と言ったとされる(Friedman,108)。フロイトはそのせいか、カールに対してきわめて冷たく扱ったというが、その時カールはこう言ったという。「フロイトは一体誰と話しているか想像もつかなかっただろう。」こうして「私の自己愛は大きく傷ついた」(Friedman)わけである。
カール自身がアレキサンダーとの分析は首尾よく行われたものと思わなかった。アレキサンダーはしばしば治療境界を破り、他の患者のうわさをしたり、カール自身に浮気を継続するように示唆したという。カールはアレキサンダーとの分析の後に、ルース・ブランスウィックの分析を受けたが、彼女も分析の時間中に寝込んでしまったり、かかってきた電話に出たり(分析ではご法度である)、自分の身体的な苦痛についての不平を漏らしたりするという行為が見られた。結局カールの分析体験は、「分析家は患者より自分のことが大事である」というお手本を見せられた形になったという(Friedman P86)。やれやれ、である。

2015年10月27日火曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第14章


14章 作家の自己愛

作家がことごとくナルシシストだと言うつもりはない。しかしナルシシストである作家は多い。これは考えてみれば当たり前の話である。書かれたものは自己表現の欲求の産物である。仕事で仕方なく文筆業を営んでいるという場合を除いて、作家は表現したいという、やむにやまれぬ欲求に駆られて文字を書き付ける(ワープロのキーをたたく)人々である。まずザッと書き、それから推敲を加える。文章のあちこちに手直しをし、ある程度満足が行く出来栄えまで持っていくという作業を毎日行う。表現の行き過ぎは削除し、新たな表現を得てそれに書き直す。そこには十分に自分自身を表現しえたという喜びが伴うだろう。これほど企図され、組織立てられた自己表現の手段はあるだろうか。その彼らが自己愛的な傾向を持たないほうが不思議だろう。
 彼らはおそらく舞台でスポットライトを浴びることは好きではないかもしれない。特に喋りを得意としなかったり、容姿に自信がなかったり、あるいは待ったなしの状況でパフォーマンスを行うことには本来心地よさを感じない可能性もある。しかし書くものを通しては、人に大きなインパクトを与え、世論を率先して構成していく自信はあるはずだ。自らの本が本屋で平積みになっているのを見るのは彼らのナルシシズムをさぞかし満たすであろう。
猪瀬直樹氏

(以下略)

2015年10月26日月曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第13章

13章 美人の自己愛
美人であることのナルシンズム。これが存在しないわけがない。ここでは「美人」として女性を対象にするが、見た目が美しいことにより彼女たちが持ち得る特権は、おそらく計り知れない。私は女性を美醜で差別するもりはなく、むしろそれには明確な反対の意を唱えるという意図のもとに主張したいのだが、たとえばマスメデイアで「美人」を優遇する傾向はあまりに露骨過ぎはしないだろうか? ドラマの出演者も、ニュースキャスターもお天気お姉さんも、各局は競って美形を揃えている。あるいは週刊雑誌の表紙をかざる女性の顔かたちはどうだろう? 美形に一定の数値、たとえば偏差値が当てはめるとしたら、おそらく70以上は必要ということにもなるのだろう。「週刊なんとか」の表紙に、ごく平均的な女子大生が掲載されたら、これは一種の事件扱いされてもおかしくない。(実はその女子大生が、芸能人の子供だったりすることが分かると、世間はたちまち「フーン」となるのだろうが。)
 ここで特に70という数字に意味はない。ただ試験などで偏差値70、と聞くと「スゴーい」、という印象がある。数学的に言ったら、2標準偏差以上の偏りがあるということで、偏差値70の美人はざっと100人に、1,2人の美人を指す。偏差値で80になると、ざっと1000人に一人。しかし考えてみると応募者一万人から選ばれたミス何とかが、見た目もフツーのお嬢さんだったりするわけで…、ということはタレントとして登場する女性たちはおそらくよっぽど選ばれた人たちなのだ。
美人がメデイアに登場する最も明白な理由は、それが雑誌の売り上げやテレビの視聴率に反映するからだろう。それ以外に業界が高いギャラを払い、人気美人モデルを起用する理由はあり得ない。ではどうして美人が購入意欲や、視聴意欲を高めるのか。身もフタもないことを言ってしまえば、美人を見るとイイ気持ちになるからだ。それが人の報酬系を刺激し、心地よくするから、ということに尽きるだろう。この報酬系とは、脳の中でそこの部分が刺激されると快感を催し、活性化する神経系のことだ。美形がこの報酬系を刺激するという研究は実際にある。(Aharon,I et al. Beautiful Faces Have Variable Reward Effect. fMRI and Behavioral effect. Neuron 32 537-5512001)
あるハーバード大学の学術的な調査によれば、fMRIを用いて検査をすると、男性が「美人」と感じた女性の写真を見ている時には、明らかに報酬系の一部の側坐核が興奮していることが示されたという。
 この事実が端的に物語っているのは、美人は笑いかけることで、多くの男性に、そしておそらく女性のかなりの部分にも心地好さを提供するという、素敵な能力を備えているということなのである。美人とは、きれいな一輪の花のように、人を幸せにする存在なのだ。
 私はこれ自体はこの上なくすばらしいことだと思うのだが、ひとつの重要な問題がここに生じる。それは言うまでもなく格差である。一部の恵まれた人のみが美人としての恩恵に浴する。もちろん美人の基準が人により異なることも確かであり、また美人が体験するのは決して有難いことばかりではない。それでも格差は厳然としてあるだろう。
 ところで美人は自分が美人である、ということを自覚しているだろうか? 実は私は「美人ですね」と言われた女性が「はい」と答えた状況に、一度たりとも出くわしたことかない。例えば「スタイルがいいですね」とか「目が大きいですね」といったコメントには「そうですか?」程度に答えることがある女性でも、「美人ですね」は、決してそのまま受けることが出来ないものなのだ。それほどに、自らを美しいと自覚していることを表明するには様々な制限が自らによって加えられているのだ。そしてそれだけ「美人であること」は彼女たちにとっていかに強烈な自己愛の満足をもたらしているかを示しているのではないだろうか? (ちなみに今のは日本人の女性の話である。欧米人に「あなたは美しい」というと、十中八九、「Oh, thank you! (あーら、ありがとう!)」となる。ほぼ間違いない。)
美人が心のうちで、それを自覚しているか、という問いに戻ろう。答えは・・・・もちろんそうだろう。自覚していないわけがない。ある魅力的な中年の女性が、若いころのことを思い出して言っていた。「20代のころは、少し露出を多くしただけで、男性の目をシャワーのように浴びたわ。」「完全に自分の魅力を意識し、男性を思いのままに操っているという感じがした。」
 しかし同時に私が不思議に感じるのは、どう見ても魅力的と感じるにもかかわらず、全くそれを自覚しない、あるいはそれが信じられない、という人も多いということである。一方では美人と見られているという自覚があり、そのために男性たちが自分に注目しているということを認識している。しかしそれだからこそ申し訳ないと思ったり、後ろめたさを感じたりする。自分自身についての自信に決定的に欠け、それが誇らしさや自己愛の満足に全くつながっていない場合もまた多いのである。
 美人のナルシシストの典型的なライフコースについて書こう。
美人の素質はおそらく幼少時には明らかである。生後すぐの赤ちゃんの顔は通常は皺くちゃで、その整い具合を判断しがたい。蛹から羽化したばかりの、羽がクシャクシャなままの蝶のようなものだ。しかし生後一二カ月ですでに、将来の顔かたちをある程度まで占うことができる。
 彼女は3歳頃になるとかなりはっきりとした顔立ちになり、「将来は美人さんだね」などと周囲の大人から言われたりする。もちろん本人には深い意味は理解できないが、何か自分が特別のものを与えられているのではないか、という満足感を伴った想像が芽生えてもおかしくない。美人のナルシシズムの萌芽である。
 小学校に入る前から、おそらくは幼稚園の頃から、将来の美人はその顔立ちのために、男の子たちの特別の注目を浴びるようになっている。ただし小学校時代の美人さんたちはその振る舞いの優雅さや運動能力もコミで評価されることが多い。顔立ちが整っていても、極端に引っ込み思案だったり、性格が暗かったり運動能力に難があったりすると、美人の要素はそれとしてはあまり引き立たないこともある。それに何といっても子供である。美少女といってもまだ鼻梁は低く、幼児顔貌であり、インパクトは少ない。
運動能力も比較的優れ、振る舞いに優雅さや知性のきらめきを備えた美少女は、小学校も高学年になると特別の存在感を放ち始める。彼女たちが特別にその振る舞いが優雅である必然性はないが、美人であることは、その振る舞いや声をひときわ美しいものに際立たせる可能性がある。そしてそのことを彼女たちもおそらく既によく自覚している。わずかではあるが、「私は特別よ」オーラを既に出し始めている少女もいるだろう。クラスの悪戯な男子がその美少女の前に出ると、へどもどしたり急にぎこちない表情になり、「〇〇ちゃんを好きなんだ」という噂が立ったりする。クラスの中の美少女ランキングなどという不躾な順位付けが行われて、自分がいつもトップに選ばれることを美少女はどこかで承知している。
 ただしその少女たちが自分が美人であるという事実に甘んじているかどうかはわからない。多くの少女たちはそれを自己愛的な満足体験としているかもしれないが、別の少女はそれをむしろ疎ましく、あるいは後ろめたく感じている可能性がある。
小学生時代の美少女の一部は、それから受難の時期を迎える。第二次成長期を迎えて、実は顔立ちに大きな変化がある。上額、下顎などの顔面を構成する骨の何が特にスパートをかけて来るかわからない。すべてが均等に成長すると美少女は本格的な美人になっていく。ハリーポッターに登場したエマ・ワトソンのように。しかし一歩間違うと、思春期を経た美少女はすでに美少女ではなくなっている。それとは逆に、美少女という認識を周囲に与えなかったような少女が急に大人びて美女に変身するという場合もある。あれだけ人気があって、チヤホヤされ、女王様のように振る舞っていた美少女が、一番多感な思春期に差し掛かってその地位から突然陥落したことを自覚した時の気持ちはどんなものだろう。
ということで美人のナルシシズムについて書きながら、私はむしろ彼女たちに同情的である。美人がナルシシズムに浸っていいではないか。私は彼女たちの味方である。美人にはナルシシズムに浸る権利がある。人を心地よくしてくれる力を持っているのだから。
それに美人として世間から認められ、扱われる期間は決して長くはない。早晩普通の人になっていく。あるいはかつての美人だった人、という扱いを受ける。「まだお美しいですね」というような言い方をされる。その意味ではこれは「お若いですね」と言われるのと似ている。あくまでも期間が限られ、その得意になれる期間はすぐに去ってしまう、という事を本人も周囲も理解している。その間は大目に見てあげればいいのではないか?
美人のナルがナルでいられる期間は短い。若い盛りをあっという間に通過した美人たちはそれから受難の時期に入る。自信の根拠になっていた顔に様々な変化が生じる。ふと気がつくと小皺や小さなシミが・・・・。マイクロスコープ(PCで用いる一種の実体顕微鏡)で自分の肌を見慣れている人は(そんな人はめったにいないかもしれないが)肌の微細なきめそのものが変化しつつあることに気が付く。それまで素のままで美しかった顔に様々な「不都合な変化」が生じ、化粧による「補正」が必要になってくる。これまでは美しさを引き立て、強調するために用いていたファンデーションが、「現状復帰」のために用いられるようになる。
  おそらく20歳代に突入した時点で、美人たちは現在の自分の写真を見ることが苦痛になってくる。確かに化粧栄えはするようになっているかもしれない。幼児期の皮下脂肪が徐々に消えていく過程で顔の輪郭がよりハッキリして、美人が美人らしくなるのもこの時期だ。しかしそれも20歳代前半までと見たほうがよい。それ以降は確実に「劣化」(嫌な言葉だ)の一途となる。ともかくも短かった美人ナルの時期はもうカウントダウンに入ってしまっている。
 20歳代の美人達は、すぐ後ろに10代の美少女という強敵が迫っていることを、そしておそらく自分が彼女たちには決して勝ち目がないことを知っている。10代の頃の屈託なく、「これからいくらでも綺麗になれる」という自信を持っていた頃のことをまだ覚えているので、自分が追われる立場になっていることもよくわかる。結局美人のナルは、それに浸る余裕も十分にないままにつらい守りの時期に入っていく。ふと小学生の女子の群れを見ると、彼女たちも実は次の次の世代のライバルであることに気がつく。
 ところで余談であるが、本当に不思議なのが、化粧、ということだ。何しろ顔に対するちょっとした加工(化粧のことである)を施すことで、印象はまったく違ってくるからだ。いったいどちらが彼女の本当の顔だというのだ。私がこのことがわからなくなったのは、精神科医としての仕事を始めてからだから、はるか昔ということになる。患者さんの中には、時に非常に体調を崩し、ようやくのことで外来に訪れるといった方もおられる。うつのつらい時期など、もはや化粧をしている余裕もなくなってくるだろう。すると普段とはまったく趣の違う感じで、時には誰だか一瞬わからない姿でいらっしゃる。私は不覚にもこう思ったのだ。「ああ、今日の彼女はいつもの、本来の彼女ではないのだ。」 でもこのとき私はすでに誤解を始めている。化粧をしていない彼女たちこそ本来の彼女ではないか?「いつもの目のパッチリとして肌のつるつるしたAさんこそが、本来の、普通のAさんなんだ」という私の認識こそが誤認なわけであるが、それがどんどん普通になっていく。
 そして私にとってもっとわからないのは、美容整形である。ネットなどでタレントの見慣れた顔の横に、高校の卒業アルバムに映った写真が並べられるのを見かける。するとごく自然にデビュー前の高校の頃の写真を「まだタレントBさんになっていない(すなわち本当のBさんじゃない)頃だな」などと勝手に解釈するのだが、これも明らかな誤認なのだ。そしてAさんもBさんも、化粧をした、整形を施した顔が「本当は自分ではない、偽りの自分である」ことを知っている。しかしそれでも彼女たちは二次的に獲得した美によるナルシシズムを放棄しようとはしない。ただ一抹の後ろめたさはあるのだろう。
 結局美人のナルは、ごく一部の恵まれた人々の、限られた期間と状況において成立する。それは一過性であり、常に失われることの予期を含んだ状態である。才能や業績や名声といった、それ自体に当分は安住できるような要素を欠いた、いつそれが奪われてしまうかもわからない(というよりも現在のこの瞬間にも刻々と蚕食されている)自分の容姿のみが頼りの、きわめて不安定なナルシシズム。それが美人のナルシシズムの特徴といえるかもしれない。
さて最後に美人のナルの「余生」である。余生などと失礼な言い方をしたが、自己の美に対するナルシシズムがその人を支えている場合には、すでに自分の姿をさらす事が出来なくなった時点からの人生は、それ以前とは明らかに異質のものとなるであろう。
このテーマで思い出されるのが、戦前の大女優、原節子である。原は「永遠の処女」とまでうたわれ、その美貌や清楚なイメージが多くのファンの心を掴んだ。しかし42歳での引退後は決して公式の場に姿を見せなくなった。その原も現在では95歳になるという。鎌倉市内の親戚宅でひっそり暮らし、ファンが訪れても頑として会わないという。
もちろん原節子のケースを自己愛と結びつけることは出来ないという見解もあろう。彼女の場合は1953年の映画撮影中に、カメラマンであった実兄が不慮の死を遂げ、それを原自身が目にしたことがトラウマになったという説もある。しかし、たとえそうであっても、原の自分の姿を世間にさらさないというポリシーは、おそらく彼女自身の美しさのイメージに対する矜持や、それを決してくずさせまいとする強い意志を象徴していることには変わりないであろう。


2015年10月25日日曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第12章

12章 高知能な自己愛者

高い知能を備えていることと、学校での成績が優秀であり結果的に高学歴を有する、ということは必ずしも一致しない。本来は高い知能を備えるということは、自分自身についての洞察も深く、自分の振る舞いや他者との関係性に対する自覚が優れ、それだけ余計な人との葛藤や軋轢を避け、より賢明に振る舞うことを可能にするだろう。つまり彼の知能は自分や他人の幸福をそれだけ増すことに貢献するはずだ。
 ところが実際にそうではない場合が多い。高い知能を備えているということがその人の自己愛を高め、他人を見下し、傲慢な振る舞いを生むということがある。つまり「高知能のナルシシスト」というわけだが、彼らはどうやって作られていくのだろうか?


以下略


2015年10月24日土曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後)第 11 章


11章 自己愛的な国 ― 中■(■は、口の中に玉)

本書ではこれまで基本的には自己愛的な「人」について論じてきた。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきたわけである。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。そして私にとっては、それがたとえば中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。だからこの章は、いわば番外編なのである。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に私が腹が立ったものが二つあったので、紹介する。

① 発展した隣国を日本は受け入れるか…中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
 中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
 王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 20150627日)

勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送りつけ、それに対して正当な抗議をすると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判…「いわれのない脅威論を誇張」
 【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 20150703)
思わず「強烈な不満」を唱えたくなるような内容である。 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
 中国の主張に対しては、まったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。
 この中国の報道局長の主張を読んで、大多数の中国人は「そうだそうだ」 と考えるのではないか。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国国民が声をそろえて言っていることと同等と見なしても許されるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本章ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?
国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも確かに成り立つのだ。
 ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
 例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の『中国人とアメリカ人』(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を、次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か?「反対の(潔白を示す)証拠が出てきても、それでも謝る」か? もちろん例外は沢山あることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。
 そこでまずアメリカ。一例を挙げよう。(息子)ブッシュ大統領は2002HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/2002%E5%B9%B4"HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5"1HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5"月に、イラクが大量破壊兵器を保有する「ならず者国家」であるとして、イラクへの攻撃を正当化した。国民の多くは、よほど確たる証拠があるのだろうと思った。しかし最終的にイラクに大量秘密兵器が見つからなかった。その時、アメリカはばつの悪さを隠さなかった。もちろんイラクに対して正式な謝罪をするなどはありえない。でも「悪さをしているところを見つかった子供」のような態度であったと記憶している。そして2004年1月には、CIAのデビッド・ケイ博士が、米上院軍事委員会の公聴会で「私たちの見通しは誤っていた」と証言したのである。
 そして私が知っているアメリカ人たちも、おおむねそんなところだ。彼らはブラフをよく使う。しかし嘘や誇張がばれると、すぐにミエミエの愛想笑いを浮かべ、機嫌取りに転じるというところがある。もちろんアメリカ人もさまざまであり、サイコパスからとんでもないお人よしまでいるが、全体的な印象としてはそんなところだ。
 では中国はどうか? 2013年の3月、米国は世界各地へのサイバー攻撃が中国のある地区から発していることを報道した。ところがそれを受けた中国外務省の報道官は昂然と言い放った。「我々こそ米国のハッカーにサイバー攻撃を受けている、私たちは犠牲者なのだ。」これは「証拠が出てきても謝らない」という中国人の国民性がそのまま表れているといっていいだろう。
 もうひとつ例を挙げよう。2015316 に、外務省は、沖縄県の尖閣諸島が日本名で明記された中国の古い地図が見つかったとしてホームページで公表している。この地図は、中国政府の機関が1969年に出版したもので、「尖閣群島」の他、「魚釣島」という日本の名称が使われているということだ。しかしそれに対する中国側の反論は瞠目すべきものであった。
「釣魚島が中国固有の領土だという事実をたった1枚の地図で覆すことは不可能」である。これなども「証拠が出てきても謝らない」中国人の傾向の、外交バージョンと言えるだろう。
 このように中国という国の自己愛の在り方を考えた場合、私たちは次の点を問わなくてはならない。中国という国の自己愛は、すでに考察した「サイコパス型」と関係していないか。
 ここにもアメリカとの対比が役に立つであろう。アメリカという国も自己愛的であろうが、それは「厚皮タイプ」と認定することができるだろう。彼らはあからさまな嘘はつくのが下手である。むしろ下を向いて黙ってしまうのではないか。公開の場で自分の女性関係を質問されて、いつものさわやかな弁舌を失ってしどろもどろになった、元大統領のクリントン氏のように。
 ところが中国の報道官の言動などは、聞く方が赤くなるほどの虚偽が含まれているように思える。そして嘘をつく、という特徴を典型的に有するのが、サイコパス型の自己愛だったことはご記憶であろう。
 私たち日本人の多くが、中国の人々のこのような言動を見ていて考え込んでしまう点がある。「こんなに嘘をついて、本人たちは大丈夫なのだろうか?」「彼らの心はよくぞ壊れないで働いているものだ。」 しかし私たちはすでに、嘘をついても壊れない人々を知っている。サイコパスはその典型なのだ。彼らにとっては二つの矛盾する心は葛藤を生むことなく共存できる。それがむしろ心地よく、心の安定につながるかのように。
もちろんこう書くからと言って、私は中国人を犯罪者扱いしているというわけではない。中国の人は家族や親しい友人、長く付き合っているビジネスパートナーは信用し、相手の恩に報いようとするという。信頼関係を持つ相手はいるわけだ。そこが本当のサイコパスと異なるところである。
 中国人は確かに初対面の人は決して信用してかからないだろう。交渉の際は相手の足元を見て、少しでも有利な条件で契約を結ぼうとする。そこでは事実を誇張したり、虚偽を交えて伝えることもあるかもしれない。しかしこのように周囲に猜疑の目を向け、同時に自分が相手から騙され、搾取されないかに注意を向けていることには、かなりのストレスを伴うはずだ。だから彼らのサイコパス的な振る舞いも、限られた人々に対して見せると考えるべきであろう。この点は彼らの名誉のために強調しておきたい。
中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。おそらくは面子を守るための虚偽は心の中で全面的に正当化されているのだろう。
 そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が同著で用いている体験談が面白いので紹介させていただく。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのは明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすることは彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。
この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。「互いの面子をつぶさない」は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るために事実を歪曲してまで応酬する。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。

国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、最終的にその国のためになるのだろうか?
 この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番としてこちらをまず考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだと私は本書で主張している。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、ある種の目的意識を持って満足させてきたというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるだけなのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まれ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうこと、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りということが出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば直接的な不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
 結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。自己愛の満足は、原則として自己を利さないのだ。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。)
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。
 中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、実にあくどい手段で列強に支配されるという、長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題であることを、歴史に学んでいるはずである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?中国という利に聡い国の代表が、個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛的な振る舞いを、どうしてあそこまで露骨に見せるのだろうか?
私はこの問題について興味を持っているものの、一つの答えを出し切れていない。私は個人の病理を扱う精神科医である。国を一つの人間のように見立てる本章のような議論は、私にとっては明らかに専門外なのである。従って以下の考察は、非専門家の戯言と思っていただきたい。
第一の可能性。中国は壮大な「勘違い」をしているのかもしれない。現在の中国は一党独裁であり、権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが反対派を弾圧し、口封じをするという政策をもって、人民をコントロールし、掌握するというやり方は、方向が間違っていることは確かであろう。 最近(これを執筆中の20157月現在)でも、中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
 中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。
もう一つの可能性。私はこちらの方が信憑性があると思うのだが、中国は戦術として、自己愛的な態度をとっているのかもしれない。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうして「成功」を収めているのだろうか? 
 私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかけない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に聡く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの、体同士の壮絶な接触を売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、ちょっと見ただけではむしろ退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。見事な一発KOのシーンが見られるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られるのだ。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)、相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利なうちに交渉を終えようとする。相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということだ。
中国はナルシシストか?再び問う
ということで結論だが、中国という国はそれ自体がナルシシストに見える。そして中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直なことが称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんにさえ、「金を出せ」と言われる。そして、瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」と訴えても、その国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何かされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。
私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。

(余談)ニホンザルはナルシストか?
ここでふと思いついた。霊長類研究の権威である山極寿一先生の本にあった。ニホンザルは互いに視線が合うと、それは相手からの挑戦と取り、まずは相手を威嚇するという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発するのだ。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるらしい。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないように注意しなくてはならないという。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
 ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、同情や求愛などのさまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5
オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないようになっている。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われて怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)
 ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つということらしい。そこでは相手は弱い立場であるという前提でかかわりを始める。
 このサルの話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発することが、である。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。ああいうところで、「どうぞよろしくお願いします。」とか行って愛想笑いを浮かべて握手を求めるボクサーがいたら面白いだろうな。かえって殴られたりして。
 そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。お互いが互角同士だと感じるだけだろう他方ナルシシズムを考える時は、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。


2015年10月23日金曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後)第 10 章


10章 医師という自己愛者

米国にいるとき、次の様な話を聞いた。「医者とナルシシストとは同義語synonym である」。きわめてシンプルな表現だが、これはよくわかる。医師は自己愛的で人の話を聴かず、傲慢であることが多い。米国も日本もこの事情は変わらない。米国では患者に対する丁寧な接し方は教え込まれているものの、元々のベースラインが自己愛的な方向にずれているから、結局日本と変わらない気がする。

(以下略)