2015年9月14日月曜日

治療の終結 (2)

心理療法家がこのドロップアウトとそれからの立ち直りをその生業の初めに体験することの意味は大きい。それはある重要な現実の体験である。それはクライエントは支払うお金と費やす時間に見合ったものを受け取ることができないセッションには来ない、ということだ。そこには遠慮も気遣いもない(あるいは通常の社交上働くそれらに比較すればかなり少ない)ということだ。シンプルに言えば実力社会、クライエントは、それぞれが持つバイアスを通してこちらの力量を推し量り、来る必要がないと判断したセッションには無断キャンセルをするのである。これほど正直なフィードバックはあるだろうか?心理療法家はそのような厳しい体験を通して、鍛え上げられていくのである。
そもそもラポールを形成する段階まで進んだことのない初心の治療者にとっては、その先の治療過程を経て、終結や別れの作業に至るプロセスは、遠い苦難の道の先に起きる出来事と感じられるかもしれない。しかしあるクライエントに、拾われた、救われた、あるいは選んでもらえた治療者は、あたかもストーリーを読み進むようにクライエントと歩を進めていく。それは興味深く、ワクワクするようなプロセスであり、また心を痛め、心配し、自らの人生を振り返るような経験でもありうる。私には終結は、そのストーリーの結論、ないしはそれが向かうもの、という感覚はない。むしろそのストーリーに附属するもの、というのが私の実感である。クライエントとの関係が出来た以上、それはもう終わらない。

治療は本当に終わるのか?
私は今、極端なことを言おうとしている。治療関係に終わりはあるのだろうか?そもそも心理療法の終わりについて論じている本書で、そんなことを言い出すのは問題かもしれないが、決して奇を衒っているわけではない。
 もちろん精神療法に終結はつきものだ。100の精神療法が始まったら、同じ数だけの終結や中断が生じる。しかし終結や中断は、定期的なセッションの終わりという意味は持っていても、関係が切れることではない。これは終結を重んじ、それに向かってワークするという分析的な立場とはきわめて遠いと思われるであろう。しかしこう言ってはなんだが、終結をきちんとしたいというのは、実は治療者の側のニーズであったりする。
治療関係は始まったら終わらない、というのは暴言であろうか?でもそうだったらなぜ、私たちは一度治療関係に入ったクライエントとは私的な関係に入ることを避けようとするのだろうか?終結した患者は、でもいつ何時また問題を抱えて舞い戻ってくるかもしれない。それを受け入れないという理屈があるだろうか?だとしたら終結自体がかりそめのもの、ということになりはしないだろうか?少なくともそのような覚悟で、クライエントは治療者から送り出してもらうことを望んでいないだろうか?
その意味では治療関係に入るということは、その瞬間が、(通常の関係の)終わりであるということすらありうる。私は昔精神科の外来で出会い、人間的にも惹かれると感じた相手(患者とは呼ばず)が、実は決して私的な関係には入れないという運命を担っていることに不条理を感じたことがある。実はこれは結局は教師として生徒と出会うこととも同じなのであるが、治療関係を結ぶということは、その相手が、自分が将来個人的な付き合いを持つことができる可能性を除外された人々の集団に入ることを意味する。その人とのパーソナルな関係は、インテークをするときには終わっている。それからはいつ終わることもない治療者クライエント関係が始まるのである。
いつどこで出会っても、治療者はその患者と個人的な関係に入れない。そのクライエントはいつまた調子を崩して、訪れるかもしれない。その心の準備をしておく必要がある。この感覚は、「一度終結したらもう会わない」という精神分析モデルとはかなり異なる。しかし精神科医として臨床に携わる際には、それが普通であり、また患者もそれを期待している。臨床心理士やカウンセラーも同様であろう。むしろそうでないと心理士などは生計が立たないのではないか?そしてこのことは、例えば弁護士にしても税理士にしても、おそらくあらゆるサービス業について言えることだ。彼らにとっては終結や中断は、かりそめのものであり、関係自体は永続的なのである。