2015年9月30日水曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 6


エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、筆者自身はエナクトメントが生じた時は「良質の現実」が提供される非常によい機会だと考える。Theodore Jacobs (1986) らにより導入された意味でのこのエナクトメントの概念は、最近では頻繁に精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。R.J. Friedman (1999) らが論じているように、エナクトメントという概念には実はトートロジカルな側面がある。というのも治療者や患者の示す言動は、ことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし筆者はもう少し狭義のエナクトメントは臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「良質の現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「良質の現実」の有力な候補なのである。
エナクトメントが生じたということが後に認識された際に、それが「避けられるべきであったかどうか」という議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての、可能な限りは患者を含めた検討の方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などはそれそのものが、優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディの電話の話を聞いた際、筆者は不意を突かれ、彼女が買う力身を起こして振り返った時は動揺した。筆者が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、筆者がその彼女の心の変化を察知して話題にすることができたのである
現実と変化のプロセス
患者とのCRの構成という治療プロセスは、単に認知的なプロセスではなく、そこに情動的な動きが生じ、言わば治療場面において「出会い」が生じる瞬間と考える。ある一つのCRが生成された時、それは「あなたがAと考え、筆者がBと考えていたのだ」という形をとる。それは他者の違いを感じ取ったというモーメントと、そのことを互いに了解したというモーメントを含む。そしてそれはまさに「出会い」そのものといってもいい。私たちがほかの人間と出会うとき、そこに相手が違う主体性を持った人間であるということと、自分と同じ人間であるということの両者が立体的に体験される。その時に人はだれかと出会ったと感じるのである。その意味でCRはいわば「出会いのモーメント」(Boston Process Change Study Group, 2010)で生じていることを、現実というタームにより言い換えたものと考えることもできる。
最後に-現実はどのように臨床的に役立つのか?

この論考で最終的に問わなくてはならないのは、いかにして本稿で示した現実やCRの概念が臨床的に役に立つか、ということである。それは果たして「治癒的」な力を有するのだろうか? 精神分析は医学モデルには当てはまらない部分が多いが、やはりその効果や治癒機序について無縁であるわけにはいかないため、この問いが最後に問われなくてはならない。筆者はCRを患者と構成することは、患者が自らと世界についてのより広い考え方を獲得する上で欠かせないものであろうと思う。治療者が患者が十分に把握していない(気が付いていない、否認している、抑圧している、など)「良質の現実」について提供することで、そこにより治療的な価値を含んだCRが生まれる。それを患者が取り入れ、それまでの現実の更新や統合を目指すことになるであろう。人の無意識には、新たなる情報を獲得してそれを統合していく力がある。Freud, S. (1919) は「精神分析の目標は、この統合synthesis であるが、精神統合psychosynthesis という概念の必要がないのは、人の心は抵抗を取り除くことで自らを統合する力を備えているからだ」と述べている。
 このCRの成立ということと伝統的な分析のモデルに従った概念、例えば抑圧や洞察などとの関連についても、一言述べておきたい。筆者の考えでは、現実やCRの提供は解釈とは異なるが、その解釈のための豊かな源を提供するものと考える。患者と治療者の現実の違いを見出し、それの由来について検討することは、すでにそこに解釈的な要素を含むことになるだろう。しかしそれは古典的な意味での解釈とは異なる。古典的な意味での解釈は、分析家がそれを正確にし、最終的な宣告として伝えるというニュアンスがあった。しかしCRの文脈で生まれる解釈は、基本的に主観的・客体的な性質を持ち、それ自体の正確さを問われることはない。それは最初は治療者により、彼自身の現実から生まれたものとして試みとして提案されるものであり、分析家はいかなる形でもその正確さを知る由はないのである。
 CRを通して統合できるのは、この解釈的な側面だけではない。CRの情緒的、知覚的な側面は、実際の目の前の他者がいるときに、よりよく患者の自己に統合される際に重要な役割を有する。それを通して患者は、自分のすべてについて治療者が同意できるわけではないことを体験するが、それはどの他者との関係についてもいえることなのである。
 この情緒的で知覚的な体験を通して、患者はいかなる思考も永続的であったり「正しく」あったりはしないことを体験する。患者の現実は分析家の現実に常に影響を受けて、その現実が更新される(同様に分析家の現実も患者のそれの影響を常に受けている。) 何事も一定ではなく、すべてが移り変わっていく。このCRの持つ刹那的 transient な性質については、近年の北山修の業績を除き、精神分析の文献ではほとんど扱われていないという現状がある(Kitayama1998)

2015年9月29日火曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 5


エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、筆者自身はエナクトメントが生じた時は「良質の現実」が提供される非常によい機会だと考える。Theodore Jacobs (1986) らにより導入された意味でのこのエナクトメントの概念は、最近では頻繁に精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。R.J. Friedman (1999) らが論じているように、エナクトメントという概念には実はトートロジカルな側面がある。というのも治療者や患者の示す言動は、ことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし筆者はもう少し狭義のエナクトメントは臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「良質の現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「良質の現実」の有力な候補なのである。
エナクトメントが生じたということが後に認識された際に、それが「避けられるべきであったかどうか」という議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての、可能な限りは患者を含めた検討の方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などはそれそのものが、優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディの電話の話を聞いた際、筆者は不意を突かれ、彼女がカウチから身を起こして振り返った時は動揺した。筆者が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、筆者がその彼女の心の変化を察知して話題にすることができたのである

2015年9月28日月曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 4


中立性と自己開示、禁欲規則
CRの概念は伝統的な精神分析の諸概念とどのような関連を有するのであろうか。たとえば中立性を考えよう。フロイト的な中立性の概念は、間主観性や関係論の立場からは批判の対象になることが多い(Mitchell, 1988, Stolorow, Atwood GF, 1997、など。しかし広義の中立性は最適な治療者としての在り方を追求する柔軟性ともつながる。現代的な中立性の概念は、分析家の「最適な応答性Optimal response」ないしは「最適な存在 Optimal presence」(Ricci, Broucek, Bacal 1998, Bromberg, 1996)と事実上同等であると著者は考えるが、この概念は分析家がその時々で患者が必要としているものに応じて平等にかつ柔軟に対応するという意味である。これは分析家がCRを構築することに貢献する中で、自分の現実と患者の側の現実を平等に扱うという姿勢と関係する。 言うまでもないことだが、分析家も患者もどちらが優位に立つというわけではなく、共同の作業を行うことでCRを構築していくのである。
 中立性として、治療者が現実の持つ主観的 subjective, 対象的 objective な性質の両側面を平等に扱うという意味を含むと考えるならば、それもCRの構築に貢献することになる。その意味での中立性は、治療者が自分の考え方がいかに自分独自の主観的な見方に左右されるかを考えることと同時に、自分にとって自然な見方は、相手にとっては異物にも似た外的な対象としての意味を持つものでもあるという両方を認識することだからだ。
 臨床例に則して言えば、シンディが元の彼に電話をしたという話を聞いて示した筆者の反応も、その反応を見たシンディの反応も、ともにそれぞれにとって主観的なものであり、かつ相手にとって対象的なものであった。そして一方が主観的なインパクトを持ったということが、他方にとっての対象性を増す上で重要な意味を持っていたのである。治療者としての筆者が努めなくてはならなかったのは、両者がまぎれもない現実であり、その「正確さ」についてどちらに優先順位をつけるべきものでもないということの認識であった。そしてそれが広義の中立性であり、そのような役割を発揮することが治療者に期待されているのである。
 分析家の匿名性についてはどうか。CRを患者とともに作り上げることは、匿名性の原則に抵触すると考えられるかもしれない。CRには言うまでもなく、治療者の主観的な体験が含まれるからだ。しかしCRは分析家の個人的な情報やファンタジーを開示することを必ずしも要請しない。分析家は治療場面において物事が彼の目に客観的にどう映るかを提供することで、治療に貢献する。Ricciも述べているように (Ricci, 1998)、重要なのは治療者の自己開示self-disclosureというよりは、自己提示self-presence (Ricci, 1998)なのである。筆者のシンディとのかかわりでも、筆者は自分の個人的な成育歴やファンタジーを披歴するつもりはなく、ただその場での主観的な感じ取り方を治療場面に貸与したという感覚を持っていたのだ。
禁欲規則との関係はどうであろう? 患者に禁欲を迫るべきかどうかという問題は決して全か無かという問題ではないものの、多くの臨床家が現実の日常臨床において直面するジレンマであるといえるだろう。古典的な精神分析家の関心はもっぱら、患者に過剰で不必要な満足体験を与えてはいないであろうか、という点に向けられる傾向にある。他方ではより支持的なアプローチを選ぶ傾向にあったり、いわゆる「コフート的」なアプローチに親和性を持ったりする療法家は、むしろそれとは逆の方針を選ぶ傾向にあるかもしれない。ともかく臨床家の関心の多くは、フロイトが述べたような「禁欲原則に従った」治療方針か否かということに向けられる。
 しかしCRを構築するということは、この患者を満足させるかフラストレーションを与えるかという問題に頭を悩ますことから臨床家を解放してくれる。あるいはその問題をやり過ごしてくれると言った方がいいかもしれない。現実は患者に満足体験を与えもするし、失望も与える。それはまさに現実(一般的な意味での)の性質そのものなのだ。分析家の役割は、CRが患者を満足させるか失望させるかではなく、筆者が「良質の現実 good reality」と呼ぶところのものを、いかに提供するかという問題である。
 では「良質の現実」とは何か。それはそれを患者に提供することが、外傷的とはなることなく患者の自己理解を促進し、それまで彼が見ようとしなかったことへの洞察を深めるようなものだ。その意味では分析家の提供する解釈もその「良質の現実」の一つとなりうる。
 伝統的な分析過程はストレスと苦痛に満ちたものと考えられがちであった。それは患者が神経症的、ないしは幼児的な願望を放棄することを促すものだったのである。たとえばFreud,Sは「精神分析療法の一連の進歩」(1919, p.164)で次のような指摘を行っている。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、神経症のための非分析的な施設が陥るような過ちをおかす。彼らの目標の一つは、すべてをできるだけ心地よくすることで、人が人生の試練から退避することである。そうすることで患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。精神分析的な治療においては、そのような甘やかしspoiling は回避しなくてはならない。(p.164)」という。ここでフロイトの言う「人生の試練」は、筆者が「良質の現実」と事実上同義であると言いたい。
 おそらく患者にとって一番重要でかつ過酷な現実とは、治療者が主観を持った存在であるということだろう。治療者は患者といて陽性の感情も陰性の感情も体験する可能性がある。時にはそれらのうちの陰性の感情も、として患者に伝えられることの意味があるかもしれない。なぜならそれは逆転移感情とは別の由来を持ち、患者が人生で出会う人々も同じ感情を持ちつつ、患者に伝えることが出来ないものであったかもしれないからだ。
 この文脈で重要なのは、Donald Winnicott の客観的な嫌悪 objective hate であろう。彼は患者が嫌いでなくなったときに「実はあなたが嫌いでした」と言ったという。そして書いている。「これは彼にとって重要な日であり、現実への適応の意味を持っていた。Winnicott, 1947、イタリックは筆者が付加)。
もちろん治療者の陰性感情をことごとく患者に表現していいはずもない。過剰な現実はトラウマとなりうるからだ。どの現実が患者にとって発達促進的となり、何がトラウマ的になるかについては、正確には知りようがないところがある。それらの意味はことごとく状況依存的だからだ。
 Freud, S.に関するエピソードであるが、彼が癌であるということを知った時、その事実を知らされなかった場合のほうがより外傷的であったと述べたと言われる(Kohut, 1977. p65)。しかし無論フロイト以外の誰かにとっては、癌の宣告は外傷的で自殺を引き起こす可能性がある。このように現実を他者にいかに伝えるかには十分な配慮が必要となろう。
 もちろん現実はつらいばかりではなく、充足的な、満足を与えてくれるものでもありうる。治療者が温かく共感的な態度を示したとしたら、これはフロイトの「禁欲原則」には反しているかもしれない。しかしもし患者が「他者はみな自分に対して敵対的で冷たい」という確信を抱いている場合には、治療者のそのような温かい態度は、その確信を打ち崩すような新たな現実を提供することになるだろう。Franz Alexander1956)の、非常に批判を浴びている概念である「修正感情体験」も、ここで新たな意味を持ち始めるといえよう。なお、この「修正感情体験」は、操作的な意味で用いられた場合に、より臨床的な力をそがれるというのが筆者の理解である。
 先に示した臨床例では、シンディが筆者を最初は懲罰的で、のちにはそれよりも優しい他者として体験したことは、その全体が意味のある現実として役に立った可能性があろう。

2015年9月27日日曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 3

精神分析における現実を再定義する
上に示したビニエットの中では、シンディは元夫に怒りのこもった電話をしたことを語ったが、それは治療者である筆者にとっては一つの明らかな現実であった。それはそれ相応のインパクトを伴って、筆者にある強い印象を与えた結果、記憶に刻まれたのである(注1)。そしてシンディの話を聞いた時の筆者の反応は、今度はシンディにとっての現実であり、それは拒絶的な印象を伴っていたのである。ここで注意すべきなのは、筆者がここで用いている現実の概念は、その内容もさることながら、その情緒的なインパクトをその内実として有しているということである。そしてそれゆえに一方にとっての現実は、今度は他方にとっての現実ともなりうる。筆者が失望したように感じられたことを意外に思ったということは、シンディにとっての現実となり、シンディが筆者に失望されたと感じて意外に思ったという現実は、今度はその意外性とともに、筆者にとっての現実ともなった。そしてその様な現実の体験の連鎖について話し合うことで、その間主観的な世界においてこれらの現実が共有されて「共同の現実」を構成したのである。
(注1)その意味で現実を「(その人の)記憶に刻まれるもの」と言い換えることさえも可能であろう。というのも筆者たちのエピソード記憶は、その出来事の新奇性や意外性ないしは情緒的な力価が伴うことで、はじめて海馬に刻印されるからである。逆に言えば、新奇でも意外でもない事柄は記憶にとどまることなく心の中を通過して行くに過ぎず、私たちの現実体験を構成することすらないのだ。
現実が外界に対象として存在し、その在り方を直接的にかつ正確に知ることなどできないかわりに、何らかの主観的な感覚印象を与えるという性質は、この例でわかるとおり、患者にとっても治療者にとっても同じである。それはカント哲学で言う「もの自体」、Wilfred Bion のいう”K”1970)につながる概念ともいえよう。
 このような現実の捉え方は、精神分析における患者治療者関係を転移的な側面と現実的な側面に分けるという二分法(Greenson, 1969)の意義への再考を促すことになる。この二分法は、分析家が優先的に把握することのできる現実を歪めた形での転移、という考え基づく。すなわち客観的に知りうる現実を想定する実証主義的positivistic な世界観に立ったものである。しかし筆者がこの論考で論じている現実は、転移の内側のことでも、外側のことでもありうる。いわば転移の中での歪められた治療者のイメージは、それ自体がもう一つの現実なのである。上述の臨床例では、筆者のことを自分のことを否定する母親のような存在と感じたというシンディの体験は、それが現実の筆者の歪曲されたイメージかどうかにかかわらず、彼女にとっての重要な現実となっていたことになる。
 このような現実の概念の重要な性質は、新たな現実が体験された場合は、それがそれ以前の現実にとってかわるのではなく、それに追加されるという形で更新される点である。現実はそれが追加されていくだけなのだreality is only added to reality。たとえばシンディは最初は筆者を懲罰的な人として体験し、それをこの電話のエピソードの後の最初の筆者についての現実としよう。そして次に彼女は筆者をそれほど懲罰的ではない優しい人と体験しなおしたが、それも現実であった。すると更新された現実とは、「シンディは最初は筆者を懲罰的と見なし、次にそれほど懲罰的とは感じなくなった」となるわけである。
 ここで筆者が強調している点は、現実は基本的には無謬的unfalsifiableであると表現できるかもしれない。これは、現実は新たな現実へと追加されるために、どこにも「正確」で「正しい」ものがないという意味である。そして主観的な現実はそれゆえにまさに現実になるということである。

2015年9月26日土曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 2

臨床例
シンディ(仮名)は私がかつて精神分析的な治療を行った30歳代の女性 (離婚歴あり、子供はなく、現在は無職) の患者である。彼女は慢性的な抑うつ気分と、異性関係を持つことの困難さを訴えて精神分析治療を求め、私との分析プロセスを開始した。
       (中略) 


シンディは私のことを、いつも自分を否定する母親のように「懲罰的」に感じたらしい。そこでセッションは終了になった。

2015年9月25日金曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 1

精神分析における「現実」を再定義する 
現実の主観的・客観的な性質
最初に本論文の要旨を述べるならば、精神分析とは分析家と患者が、「共同の現実」を扱う作業であるということだ。ここで「共同の現実」とは、「分析家と患者がその中で体験したこととして、その違いを含めて了解したもの」である。

 現実というテーマは、精神分析では従来より常に話題となっている。フロイトの時代には、患者の無意識を科学的に見出し解釈するという実証主義的positivist な考え方が主流であったが、現在はそれに従う臨床家は、少数であろう。Owen Renik1993)が言うような、治療者の「減じることのできない主観性irreducible subjectivity」の概念は広く議論され、批判的に検証されている(Louw, Pitman, 2001)。客観的に把握できるような外的な現実などそもそも存在しないというのが、おそらく多くの間主観性論者や構成主義者の考えとなっているのだ。 
 しかし現代においてはより相対主義的な考え方も存在し、著者はむしろそちらに与する。その立場は、現実として、自分たちの外に「何か」、少なくともある種の刺激の源のようなものは実在する、と考える立場だ。それが現実についての相対主義な立場なのである。Walter Ricci Frances Broucek (1997) によれば、「客観性とは、自分の外に何かがあると確信できることである。それを治療者と患者が共同でconjointly 体験するのだ」という。分析家と治療者の一組は、それを二人だけの世界の外側に感じるというのだ。たとえば二人が面接を行う面接室は、外的な現実としてそこに確かに存在すると考えるべきであろう。それが提供する空間がどのように感じ取られるかはべつとして、そこに確かに知覚源として存在するのである。現実とは架空のものであり、客観的objectiveなものではない、という見方はポストモダンの考え方としては常識に属すると思われるが、この見解はそれとも少し異なる考え方といえる。 Glenn Gabbard (1997)は、患者にとって治療者はいわば対象であり、その意味で「対象的objective」な存在でもあるという。 英語で言うobjective には、「客観的」、という以外に「対象的」という意味も、そして「目的語的」という意味もある。Objectは「対象」と言う意味もあり、また文法の用語としては「目的語」だからだ。同じように、subjectiveは、「主観的」、「主体的」、「主語的」となる。(訳注:ちなみにこの「対象的」を日本語の辞書で調べても、「対象(目的)の形容詞」という以外には何も出てこないだろう。用いられるとしても大概は「対照的」の誤用、誤記である。)
 さかのぼって考えるならば、Freudはきわめて実証主義的 positivistic な人物だった。人の心の病は無意識に抑圧された特定の欲望やファンタジーにより生み出されるものと考えられた。私たちの時代はそれから一世経過しているわけだが、じつはこのフロイトの考え方や、そのもととなる19世紀終わりのヘルムホルツ学派の考えは、私たちとそれほど違っていたのともいえない可能性がある。心において生じる現象に何らかの対象化しうる理由や原因を求める傾向は、現代の私たちもかなり強く持っていることは疑いない。 
 実証主義的な考えの一例として、筆者自身の経験を示そう。筆者が精神科医になって病棟で任された最初の患者は三十代の独身男性であった。一週間前からアルバイト先に通えなくなり、急に口を利かなくなり、食事もできない状態で、家族に連れられてきた。付き添ってきた彼の兄によると、どうやら付き合っていた彼女から数日前に一本の電話を受けたあたりから調子が悪くなったという。そして一昨日からまったく喋らず、食事もせず、夜も眠れていない状態である。目はうつろで体全体がぶるぶる震えている。時々出てくる言葉の意味も明確にはつかめない。「誰かに追いかけられている・・・」という内容らしいが、それが誰のことかは教えてくれない。いまから思えば明らかな精神病性の昏迷状態である。しかし私がその時何を考えたかといえば、その彼女から何を言われたかが決め手だろうということだった。あるいは誰に追いかけられているのかを知ることを通して、私は彼の心の中に入っていけるとも考えた。彼の心は何かを必死で隠している。それを患者と一緒に考えることで、彼はまた再び話し出し、食事をとれるようになるだろうと思った。そこで私はとにかく彼を説得して、話をしてもらおうとした。私は彼の横で数時間頑張ったのである。
 いまから思えばなんと大きな勘違いをしていたのだろうと思う。それから精神科の仕事を続ける中で、私のこのような試みがほとんどと言っていいほどに意味を持たないことを知った。その男性に必要なことは、必要な処方をしたうえでとにかくぐっすりと寝てもらうことだった。彼の「口を割って心の奥に隠された真実を聞き出す」という努力は意味がないだけでなく、かえって彼の病状を悪化させたはずなのだ。
 この筆者例にみられた思考が、実証主義的な思考といえる。この統合失調症の患者の発症の背後には、何か客観的な意味や原因がそこに存在するはずだという前提がそこに見られる。その意味では私は精神科医のトレーニングを積む前は、しっかり19世紀の末の思考をしていたし、精神医学を知らなかったら、おそらくそのままの思考を持ち続けた可能性がある。物事の背後に形を成した「何か」が客観的に示すことが出来る形で存在するという考えは、これほど私たちにとってなじみがあるのである。
 私が本稿で強調したいのは、現実が対象的 objective であり、主観的 subjective であるという二重の性質を持つということだ。上述の通り、現実は何かを感じるもととなるソースとして外在する対象 object という意味での対象性を有するのでobjective である。しかしそれを切り取るのは主観であるという意味でsubjective でもある。ここで重要なのは、現実が主観的であることは対象的であるということを少しも減じないということである。さらには治療者と患者は、お互いがお互いにとって、そのような意味での現実という意味を持つのだ。
何しろ患者にとって主観的である治療者は自分の外にあるからであり、同じことは治療者にとっての主観的である患者についてもいえるのである。このような現実の捉え方は、いかに示すような共同の現実conjoint reality という概念を介して臨床的な意味を持つ。そのことを示すために、まず以下に簡単な臨床例を提示したい。

2015年9月24日木曜日

治療の終結 推敲 4

ある終結ケース。承諾あり。しかし詳細は変更に変更を加えたある。しかもはるか昔の例。

(前略)

<「自分はきちんと終結できるだろうか?」>
終結期に焦点を絞るために、Aとの治療プロセスを相当早送りしなくてはならない。Aは私との分析を中心にして生活を組み立てるようになった。彼は私を、治療者として、先達として、あるいは父親として、息子として、様々に見立てているようであった。私には異郷の地で本格的に私を「拾って」くれたAに感謝をした。しかし早晩生じてきた私の「Aは終結するだろうか?」という懸念は、結局Aの側の懸念とも呼応していたとみていい。それを思わせるエピソードがある。
治療が始まって3年目の夏の暑いある日、Aは分析のために私のクリニックの駐車場の小さな木の陰に車を停めた時のことを話した。その木は最近植えられたもので、Aの背と同じくらいの高さだった。その時 Aは、これから私とのセッションに来るたびにその木のそばに車を停めようと考えたという。そして5年、10年と経ってその木が大きく成長し、大きな影を作って駐車している間車を冷やしてくれるのではないかと思った。しかしそれと同時に、それはこれから自分が何年もの間治療に通うことを期待していることに気がつき、自分が精神分析に対する依存症になっているのではないかと心配になったという。私はこれを聞き、Aがすでに私と同じような懸念を持っていることに気が付いた。
Aと私は彼が精神分析プロセスに対して、そして私に対しての関係性を深め、それを継続したいという強い願望そのものについて話題にすることとなった。Aはこの願望には明らかに、幼少時に父親から十分な注意を向けられなかったことが影響していたことを認めた。母親も今から思えば、自分に対して十分な注意や愛情を向けるとは言えなかった。夫との関係が既に冷え込んでいた母親は、むしろAに対して精神的に依存するようになっていた。数年前にAの鬱状態に反応してその入院を手配し、その後もいわばAを抱え込むような反応を見せた母親は、そうすることでAの自立を暗に阻んでいるかのようなニュアンスがあったことも明らかになっていた。そしてそこには同時に、Aの私に対する父親との同一化という大きな力動が働いていたという事情も見えてきた。私の母国である日本はAにとっても幼少時を過ごした土地であるという意味では、私の存在には母親的な意味合いもあった。そのようなことを話し合ううちに、Aは自分自身の私への依存欲求はそれに対する怖れについて、より客観的に理解できるようになったようである。

(中略)

終結まで半年ほどの時期のあるセッションで、Aは自分が低い料金でのセッションを巧妙に利用しているのではないかと懸念していると語った。そして「私はもっとあなたを必要としている人のためにこの機会を早く譲らなくてはならないかもしれませんね。」と語った。終結まで3ヶ月になると、A は分析以外の方面での関係性を持つことに力を注いだ時期でもあった。私が一週間の休暇を取った際に、分析のない時間に、彼はたくさんの知人にメールを出した。それはサマータイムが終わることへの警告という呼びかけという形をとっていたが、それに返事をしてきた二人の女性とメールのやり取りをするようになった。そのうちの一人、DA の高校時代のクラスメートであったが、Aはその女性とやがて深刻な内容のメールのやり取りをするようになった。Aと私はこの終結の間際に彼が見せた行動について、その意味を話し合った。Aは最初はDへのアプローチと私たちの終結との間に関係性を見出さなかった。しかしやがて A は、これが彼が終結を扱う一つのやり方であるという可能性を認めた。私はまた、これは彼自身の私を喜ばせたいという試みかもしれないとも感じた。かつて精神分析の目的について話した際、フロイトが言及した lieben und arbeiten ということについても A と話したことが思い出された。私はまた自分自身の中に、A との分析を成功裏に終えたいという強い願望があることを認めた。
A Dとの関係が進む中で新たなことが起きた。ある日私たちは彼の受身的な態度や新しい関係を始めることの難しさについて話していた。彼は人から拒絶されることへの強烈な恐れについて論じてそのセッションは終わった。次の日のセッションにやってきた A はこう話した。「昨日のセッションが終わった後、私はDにメールを出して自分の想いを伝え、本格的に付き合おうと提案をすることができましたよ。私たちがこれを話さなかったら、私は決してDに声をかけることができなかったと思います。」このコメントが興味深かったのは、前日のセッションは私はA の拒絶されることへの恐怖についてもっぱら聞き、彼にDとコンタクトを取ってみるように私の側から提案することは、なかったのである。
Aが終結に向かって準備ができ始めていることは、彼が自分の受身性や依存欲求への理解を深めたことにより明らかになった。それは私たちの関係性において明らかになっていた。それらの特質は私たちのこれまでの6年の精神分析の駆動力となっていたのである。
このころAは次の様な夢を報告した。ある日彼は次のような夢を報告した。「あなたがある種の分析のミーティングにいるんです。そしてなにかとても大きい魚を釣り上げたという自慢をしているのです。それは私のことを意味していて、セッションにはいつも時間通りに表れて、見事な進歩を遂げているといっているのがわかりました。」私はそれに対して「それはあなたがお父さんの自慢の息子になりたいという気持ちの表れでしょうね」と応じた。
終結を一週間後に控えたある日、 A は自分が精神分析にどのような点数をつけてもらえるかを尋ねてきた。そして私がそれについて私が何も言わないうちからこういった。「私はこんな質問を何度かしましたよね。でも今日は私はあなたから具体的な点数を聞きたいのではなく、ただ思い出したかったのです。」私は A に、自分の分析にどのような点をつけると思うか聞いてみた。彼は自分がかなりうまくやったと思うと語った。私もA がこの6年間一度もセッションに遅れることがなかったことを指摘した。私は彼が自分の分析にいい点をつけたことがうれしいと告げた。
分析の終結の前の週に、A は象徴的な行動に出た。彼はかなり無理をしてお金をかき集め、Dに会いに行き、楽しい時を過ごしたというのである。そして「いよいよ私は本格的な行動に出始めました。新しい仕事も見つけなくてはなりません。」と言った。

(中略)

Aとの分析が終結して一年ほどで、私は十数年住み慣れ、Aとの分析を6 年間行った町を離れることになった。それまで私は A から2回ほどメールが送られてきた。それらは三つの出来事を伝えてきた。一つは A が市内の薬局に無事定職を得たということであった。そして二つ目は私が勤めていたクリニックのボードメンバーに選ばれたということである。さらにもう一つは、親しくし始めたDとの関係が破綻し、彼の方から別れを伝えたということである。「人から捨てられることをあれほど恐れていた私が、先に相手に別れを告げることになるとは思いませんでした。でもDが私に全面的に依存してくることにこれ以上耐えるべきではないと思ったのです。またしばらくは私は一人でやっていくことになりそうです。」と書かれていた。

2015年9月23日水曜日

治療の終結 推敲 3

さて心理療法において終結は大切であるという意見を持ちつつも、私はこの言葉にならない終了プロセスもまた味があると思っている。それは何よりも治療者とクライエントの両者が、それを体感し、味わっているからである。私は別れは言葉を交わすことではなく、味わい、感じ合うものであると思う。それは時には言葉にすることで、その重要な性質が損なわれる性質のものであるかもしれないのだ。敢えて言えば、すべて言葉にするのは、日本の文化に必ずしもそぐわないという気もする。取り立てて口にせず、しかし別れが近づくのを味わう。ここで口にしないのは相手への気遣いでもある。
 大切な人との別れの日に、一言も言葉を交わさずにいつもの道を歩いた、という体験を、私たちは持っていないだろうか? 言葉にしないことで耐えられる別れがある。あるいは別れそのものがはるか先に進行してしまっていて、言葉では追い付かないのだ。それはもちろんフロイトに言わせれば、「別れの辛さを否認している」ことにもなるかもしれない。しかし言葉にしないことで味わう別れもあるのではないだろうか? それが精神療法において生じることも自然なことだと私は考える。
この「自然消滅」のもう一つの特徴としては、クライエントの側に、あるいは治療者の側に、「いざとなったらまた会える」という気持が残されているという点が挙げられる。そこら辺をあいまいにする意味でも、別れをあまり口にしないというところがあり、この側面はまさに否認であり防衛かもしれない。でもそれさえ奪い去る根拠があるかについては、私には自信がない。
私はこの種の自然消滅的な終結を考えた場合、親子関係を二重写しにしている。あれほど濃密な時間のなかで、あれほど親を必要とし、親の側も自分の存在がこれほど求められるのだと感じていた子供との関係が、ある時期からどんどん遠ざかっていく。気がつくと子供は自分たちを必要としていないどころか、ことさら遠ざかっていこうとするのである。あたかも自分の世界を築くためには、親との関係はかえって足かせになるとでも言わんばかりに。そしてある日家を出て行ってしまう。時にはほとんど喧嘩別れのようにして。親は自分の命が少し軽くなったことに少しホッとすると同時に、一抹の寂しさを覚える。
 ところが子供の方も親のほうも、関係が終わったとは露ほど思っていない。子供の方は、「今はとりあえず必要ない。でもいずれはまた帰っていくだろう。」程度の気持ちはある。親のほうも「今は自分の人生で精一杯なのだろう。でもやがて帰ってくるだろう。」実はその「帰っていく」は盆暮れや法事程度なのだ。それこそ親の臨終のときでなければ、あるいはそのときになっても「別れ」は告げられない。それどころか、親の側が「私ももう長くは…」とでも言おうものなら「何を言っているの?」とすぐにでも否定されてしまうのがふつうである。こうして決定的な別れの言葉は回避され、その代わり別れはより心に刻まれるのである。こうして私たちの人生における別れは「自然消滅」の形をとる。
 治療者との内的な関係が残る
精神分析理論とも異なり、別れの否認にもつながる可能性のある「自然消滅」にもそれなりの意味があるのだろうか? そうだとしたら、治療関係には、あるいはそれを含めた人間の関係には、明確な別れがないからだろう。別れても、その人とは関係は心の中でつながっているからである。あとはごくたまに顔を合わせて、あるいは墓前で手を合わせて「確かめる」だけでいいのである。お別れや終結は、一つの、しかも重要な区切りではあっても、関係自体は決して終わらないのである。
こう言うことには少し勇気がいるのだが、人間はある時期が来れば、別れることで、よい関係に入ることが出来るとは言えないだろうか。もっと勇気を出して言えば、それが死別であっても、である。安定した穏やかな関係は、距離のある関係である。距離を持ちつつ、心の中ではお互いを考えているのだ。臨床家ならわかっていただけるだろう。過去に出会ったケースで頭に時折浮かんでこない人はいるだろうか?私はいつも回想の中で出会っているし、対話をしているのだ。それは別れ方によってはほろ苦いものになるかもしれない。そしておそらく向こうもそうやって出会っている。人との関係がそういうものである以上、別れは言葉では言わないものである。あるいは言ったとしても必ず「いつかまた会いましょう。」私はこれは特に別れや喪の作業の否認とは必ずしも言えないと思う。
とすれば終結とは、常に起きうるし、毎回起きている種のものであることがわかる。いつも「これで終わりかもしれない」ことを言語化しないものの、その覚悟で会うのだ。こうなるとドロップアウトすらも終結ということになる。


◆ある終結例

2015年9月22日火曜日

治療の終結 推敲 2

治療は本当に終わるのか?
そもそもラポールを形成する段階まで進んだことのない初心の治療者にとっては、その先の治療過程を経て、終結や別れの作業に至るプロセスは、遠い苦難の道の末の出来事と想像されるかもしれない。しかしあるクライエントに選んでもらえた治療者は、あたかもクライエントと一緒にストーリーを読み進めるようにして歩を進めていく。時にはクライエントが先導してくれたりもする。それは苦難とは程遠く、興味をそそりワクワクするようなプロセスであろう。しかしそれはまた心を痛め、ハラハラし、自らの人生を振り返る機会となるような経験でもありうる。私は終結とは、そのストーリーの結末、結論、集大成、とは考えない。むしろそのストーリーに附属するもの、たまたま訪れる一区切り、というニュアンスの方が近いのではないかと思う。
少し極端な問いかけをしたい。「治療関係に終わりはあるのだろうか?」そもそも心理療法の終わりについて論じている本書で、そのような問いかけは意味をなさないと思われるかもしれないが、決して奇を衒っているわけではない。
 もちろん精神療法に終わりはつきものだ。開始された心理療法と同じ数の終結や中断が生じるはずである。しかし終結や中断は、定期的て継続的ななセッションの終了を意味してはいても、それで治療者とクライエントの関係が切れるわけではない。こう考えることは、終結を重んじ、それに向かってワークするという分析的な立場とは異なるということも確かであろう。しかしこう言ってはなんだが、終結をきちんとしたいというのは、実は治療者の側の理屈であり、ニーズであったりする。
治療関係はいったん始まったら永久に終わらない、というのは暴言であろうか?しかし私たちはなぜ、一度治療関係に入ったクライエントとは、治療終結後も私的な関係に入ることを非倫理的と考えるのだろうか?終結した患者は、いつ何時また問題を抱えて舞い戻ってくるかもしれない。それを二度と受け入れないという理屈を治療者は持っていないはずだ。もしそうだとしたら終結自体が一区切りという意味での仮のもの、ということになりはしないだろうか?少なくともクライエントの側は、「また何かあったらおいでください」と治療者から送り出してもらうことを望んでいないだろうか?
その意味では治療関係に入るということは、その瞬間が、通常の人間関係の終わりであるとすら言える。私は昔精神科の外来で出会い、人間的にも惹かれると感じた相手(患者とはあえて呼ばず)と、今こうして治療者患者関係に入ることで、決して私的な関係には入れない関係になってしまっていることに思い至り、不条理さを感じたことがある。初診面接とはその人とのパーソナルな関係の可能性の終わりであり、いつ終わることもない治療者クライエント関係が始まりでもあるのだ。
終結したクライエントが舞い戻ってくることに治療者が心の準備をしておくという立場は、「一度終結したらもう会わない」という立場とはかなり異なる。しかし精神科医として臨床に携わる際には、前者の方が普通であり、医師も患者もそれを前提としている。臨床心理士やカウンセラーも同様であろう。そのようなケース、いわば常連さんが心理士の生計を支えていることすらありうる。そしてこのことは、例えば弁護士にしても税理士にしても、おそらくあらゆるサービス業について言えることだ。彼らにとっては終結や中断は、一区切りであり、関係自体は永続的なのである。

一番多い「自然消滅」のパターン

通常の、特に精神分析的な構造を持つことのない、上述のような明確な終わりを持たない心理療法は、実際どのような「終わり方」をすることが多いのだろうか?私の体験を少し書いてみたい。
私は数多くの心理職の方々の心理療法を担当したが、彼女たち(女性の方が多いのでこのように呼ばせていただく)がドロップアウトするということは、まず考えられない。彼女たちはきちんと終結の予定を立て、そのためのワークを行い、そして去っていく。それにはそれなりの理由があるのであろう。彼女たちが臨床心理職として心についての作業を重ね、治療のプロセスについてもその意味を自覚し、その心理的な起承転結をわきまえている可能性があるだろう。またドロップアウトの持つ破壊性を身をもって承知している彼女たちが、それを自らが行うことには大きな抵抗を感じるということもあろう。さらには狭い業界であるために、いずれは治療者と別の機会で顔を合わせることも多く、あまり失礼な終わり方は出来ない、という思考が働くかもしれない。
それに比べると一般のクライエントの終結の仕方はずっとそっけなく、また自分本位(いい意味を含む)であることが多い。彼らはそれほど、あるいはまったく「きれいな終結」を意識しないであろう。そこにはむしろ現実的な事情が働き、偶発的でより自然な形での終結、私がここで「自然消滅」と呼ぶプロセスがかなり多く見られる。
「自然消滅」それ自体はシンプルな理由で生じる。冒頭で「治療の終結は、クライエントの側に治療継続の動機付けがなくなるから」という言い方をしたが、それがここに当てはまる。クライエントは治療の継続する一定の期間を通じて、治療者から「何か」を受け取るのだ。それは人生の難しい局面に差し掛かっているクライエントへの、洞察を促すような介入かもしれないし、治療者のある種の情熱かもしれない。「安全基地」や「抱える環境」の提供でもありうる。治療が継続する限り、クライエントは治療者からの「何か」にそれなりの満足を得るだろう。しかしそれと同時にクライエントは幾分かの不満をも持つはずである。「こんなものだろうか?」「別の治療者ならもっとしっかり話を聞いてくれるのだろうか?」「少しもよくなっていないではないか。」そのうち「この治療者との関係では、これ以上は望めない。もちろん精一杯やってくれたことはわかるが。」などの気持ちを抱くはずだ。これは程度の差こそあれ、必然的に起きる。いかなる治療も理想化された関係性の不完全なる代償に過ぎないからだ。そして治療者の側も、「自分はもうすでに力を尽くした」や「もう伝えるべきものは伝えた」という感覚、あるいは「自分には力不足だった」という思いが起きるようになるだろう。あるいは「そもそもクライエントが安くない料金と貴重な時間を費やして通ってくるのに見合うだけのものを自分が提供できていないのではないか?」などとも考えるかもしれない。
 この治療者とクライエントの思いは、通常はある程度通じ合うものなのだ。両者はおおむね歩調を合わせて治療の終了に向かう。そしてここが「自然消滅」の特徴なのだが、このプロセスは通常は、それについての話し合いや言語化などがあまり行われないのである。あるいはたとえ言語化が行われたとしても、それによっては触れられない終了へのプロセスの主体は非言語的に進行して行く。

そのようなドロップアウトでもない「自然消滅」の実際の起こり方も、既にみたドロップアウトのプロセスと少し似たような過程を経る。徐々にキャンセルが増えていく。毎週から隔週へと、セッションの間隔があいていくという形をとることもある。一セッションごとの料金が高く設定されている場合には、この頻度の変化はかなり明確な形でその動機の低下を反映しているであろう。ただしこれには患者の仕事やスケジュールの変化が、その直接的な根拠として絡んでいたり、治療者の側の都合が重なっていたりする。そしてふと気がつくと、12ヶ月ほど、あるいは半年ほど会っていないということが起きてくる。お互いに「自然消滅」が起きかけていることを意識しているのだが、それについての口は重い。それを言語化することはよほどシンドいのである。

2015年9月21日月曜日

治療の終結 推敲 1

臨床はドロップアウト体験から始まる

そもそも治療はなぜ終了するのか。その答え自体はシンプルである。クライエントの側に治療に来るだけの動機付けがもはやなくなるからである。それが目標をある程度達成した上で、しかるべき手順を踏む形で生じれば、それは終結と呼ばれる。それがクライエントの側から一方的にもたらされる場合には、中断ということになる。ただし私には「ドロップアウト」という表現の方がなじみがある。「ドロップアウト」はする側にもされるに側も、失敗、望ましくない形で生じたこと、というニュアンスを与える。治療者の側には、一度は担当することになったはずのケースが手からすり抜ける(「ドロップ」する)無念さという印象を伝える。場合によっては胸が痛み、トラウマにさえなる「ドロップアウト」の体験は、実は初心の治療者が経験を積む上での出発点でもあるのだ。
ところで、そもそもケースがドロップすることなく、きちんとした終結が迎えられるケースは、どの程度存在するのだろうか? もちろん治療者により異なるであろうが、米国の少し古いメタアナリシスは心理療法のドロップアウト率として47%という数字を伝える(Wierzbicki, Gene, 1993)。とするとビギナーの場合には、ドロップアウトの末に三分の一残れば上出来ではないか。

A meta-analysis of psychotherapy dropout.
By Wierzbicki, M, Pekarik, G: Professional Psychology: Research and Practice, Vol 24(2), May 1993, 190-195.
Abstract (A meta-analysis was conducted of 125 studies on psychotherapy dropout. Mean dropout rate was 46.86%. 

Swift, JK.; Greenberg, RP.Premature discontinuation in adult psychotherapy: A meta-analysis.
Journal of Consulting and Clinical Psychology, Vol 80(4), Aug 2012, 547-559.http://dx.doi.org/10.1037/a0028226

最近の研究はドロップアウト率として20%前後という少し安心する数字を挙げている(Swift, Roger, 2012が、臨床現場にいると、心理療法の初回面接に訪れた人の半分以上は、やはりドロップアウトしてしまうという印象を持つ。特にほかの臨床家から紹介されたのではなく、広告などを見て直接カウンセリングを求めてやってきた人のドロップアウトはかなり高率で生じる。「カウンセリングとはこういうものだろう」と想像していたものと実際とがあまりにかけ離れている可能性があるからだ。
 ドロップアウトが一番起きやすいのが初回面接の後であろう。場合によっては治療者と対面してものの5分も経たないうちに、クライエント側はもう二度と来ないことを決めている。「想像していたのと全く違っていた・・・。」しかしそれを少しも口にせず、最後まで面接の場に居続け、多くの場合は次回の約束まできちんとしておいて、そしてその「次回」に・・・訪れないのである。
初回面接を乗り越えたクライエントに次に訪れるドロップアウトの危機は、治療が始まって23か月後の、ラポールが出来かけたころである。それは予定していたセッションの何度かのキャンセルの後に起きるというパターンを取りやすい。まず第一回目は、「風邪をひいた」などの特定の理由でキャンセルの電話が入る。これ自体はどの治療関係に起きることであり、治療者は特に気に留めないだろう。ところが次の週は理由もなく、ただキャンセルの連絡のみが受付に入る。治療者はある覚悟を決め始めなくてはならない。そしていよいよ3回目は無断キャンセル。何の連絡もなく、ただいつもの時間になっても現れない。そしてその後は連絡にも応じなくなる。
 この種のドロップアウトの場合、それが生じる以前には、治療をやめるような話はクライエントからは具体的には出ないのがふつうである。少なくとも治療者の側は今後も治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがすでにかなり減ってきている。ただ治療者に対して申し訳ない、などの理由でそれをセッション中に言い出せない。そして最初は風邪を理由にキャンセルするが、少し胸が痛む。二回目のキャンセルでクライエントは、もう治療を続けたくないという暗黙のメッセージを、治療者に読んで心の準備をしてほしいと願う。最後の無断キャンセルは明らかな意思表示であり、それを行う側のクライエントにもそれなりの勇気と覚悟がいる。
 このような場合、治療者の側はドロップアウトの「理由」を知りたがるが、通常それは明かされない。クライエント自身も明確な理由を特定できない場合が多いが、時には治療過程で生じたある出来事がきっかけとなり、ドロップアウトにいたることもある。治療者の側の過剰なうなずきへの不信感。治療者の不用意なひとことやふと出たため息。あるいは治療者の見せた謎の涙。治療者が沈黙し、クライエントが自分だけ話をさせられている感じ、などなど。多くは治療者側にはそれがドロップアウトにいたったという自覚はない。同じ治療者の共感の涙がラポールの強化に貢献することもあることを考えると、このドロップアウトは不可避的な運命のようなものしかいえない場合も少なくない。結局は両者に出会いがなかったとしか言いようがないのだ。
ケースのドロップアウトは、これほど初心のセラピストにとって自己愛を傷つけることはない。私はスーパーバイジーや学生に対しても、ドロップアウトが生じそうになっていたら、それがわかった時点でとにかく一度はクライエントに来てもらい、率直にその経緯について話し合うことを勧めるし、また自分自身でもそうしているつもりである。しかしそれでもよほど治療者の側に心の余裕がない限り、この件をクライエントと冷静に話し合うことは難しい。それにクライエントの側はすでにもう治療を継続しないことを決めている場合が多いのだ。「もうこないと決めている以上、何を話すことがあるのか?」というクライエント側の事情もまた十分納得できるものだ。結局この「最後の話し合い」でクライエントが治療の中断を撤回する可能性は半分にもはるかに満たないのではないだろうか。
これを書いていると、私は初心の頃クライエントにドロップされた記憶のいくつかがよみがえる。20年以上前、米国の精神科のトレーニングで、精神療法の臨床実習があった。週一度のセッションに通ってくるケースをいくつか持たない限り、トレーニングが先に進まず、卒業さえ危ぶまれる。ところがつたない英語を話す自信なさげな外国人レジデント(私のことである)のところに来てくれるクライエントがなかなか見つからない。それでも「このケースこそは」と思えるクライエントと巡り合う。その人との何回目かの約束の時間が迫ってくる。時計とにらめっこをする。定刻になっても現れない。5分経過。まだ現れるかもしれない。10分。もう無理か。やっぱり自分はセラピストとして選んでもらえなかった・・・。こうして失望が心に広がっていく。第二回目からいきなりドロップアウトなら、まだ救われるというところがある。「もともと縁がなかったんだ…」しかし数セッションが経過し、そろそろラポールが出来始めていると感じ、自分のケースとしてカウントし始めるころになると、そこで突然クライエントが現れなくなった時には、自尊心がズタズタにされる思いがあった。
心理療法の場数をこなし、ケースの中断という事態をある程度客観視できるようになると、また反応も違ってくるものだ。しかし治療者にとってイニシャルに近いケースだと、ケースに関して起きる不都合なことはすべて、自分に責任があると考えてしまう。しかも「何が悪かったのか?」の決め手が通常は得られない。クライエントはその理由をわざわざ説明しに来てはくれないからだ。(上にあげた例はどれも、主治医の私が治療者に紹介したクライエントたちがドロップアウトした後に語ってくれた内容である。)すると、何もかも、すべて自分が悪かったのだ、ということになる。初心の治療者は、こうしてますます自信を失っていく。
 私はそのような「手負い」の治療者が救われる唯一の方法は、自分を選んでくれる患者の登場であると思う。そう、クライエントのドロップアウトによる傷心の治療者救い出し、育て上げてくれるのもまた、クライエントの存在なのである。おそらく心優しく、時には厳しいスーパーバイザーの存在よりも。逆に言えば、そのようなクライエントにいつまでたっても出会えないとしたら、その治療者は仕事を変えることを真剣に考えなくてはならないだろう。

心理療法家がこのドロップアウトとそれからの立ち直りをその生業の初めに体験することの意味は大きい。それはある重要な現実の体験である。クライエントは支払うお金と費やす時間に見合ったものを受け取ることができないセッションには来ない、ということだ。クライエントは偽らないし、そこには遠慮も気遣いもない(あったとしても、通常の社交上働くそれらに比較すればかなり少ない)。心理療法は実力社会であり、クライエントはこちらの力量を推し量り、来る価値がないと判断したセッションには現れないのである。これほど正直なフィードバックはあるだろうか?心理療法家はそのような厳しい体験を通して、自分の仕事を確立していくのである。

2015年9月20日日曜日

カウンセリングの初学者に向けて(4)


3.仮の治療目標を「クライエントの孤独感を和らげること」と設定してもいい
すでに述べたことだが、心理療法は海図のない航海のようなものであり、治療者は自分が一体何をやろうとしているのか、やるべきなのかがわからなくなることがまれではない。特に初心の治療者に言えることだが、彼らは治療中に「治療者として何もしていない」気がすることに後ろめたさや疚しさを覚える。「自分はクライエントに何の役にも立っていないのではないか?」事実クライエントは一年以上前から通い続けているが、彼の生活環境が大きく変わったとも考えられない。症状についても大して変化がない。それでもクライエントは予約時間にいつものように現れる・・・・。自分はひょっとしたらクライエントを欺いているのではないか、何か不正な行為をしているのではないか?
 「来る人は拒まず、去る人は追わず」という言葉がある。私たちは「来る」クライエントの話を聞くわけであるが、もちろん彼らの中には非常に治療目標がはっきりしていて、毎回のセッションで具体的な成果を持ち帰る人もいる。しかしとりとめもない生活上の話をして帰っていく人もたくさんいる。それらの人たちとの間でおそらく達成されていることを次のように考え、またそれを隠れた治療目標として設定することができるだろう。それは「クライエントの孤独感を癒す」ということである。
 「クライエントのコドクカンだって?そんなものを扱うためにわれわれは心理療法をしているんですか?」という人もいるかもしれない。そう言いたい気持もよくわかる。精神分析的な療法家にとっては、聞くだけでもがっかりする話かもしれない。しかし私たちが扱っているのは、ごく普通の生身の人間、つまり私たち自身である。その人生の大半が、自分の孤独感から逃れるための活動だったりするのだ。
 もちろん逆に孤独に逃げ込みたくなる人もいるかもしれない。日常の仕事や学校生活における人間関係に疲れて、それらから一時的にでも退避したくなる人たちだ。しかし彼らでさえ週末になれば、長期の休みになれば、あるいは長期間独身生活を続けていれば、配偶者が長い里帰りや単身赴任をしてしまえば、あるいは孤独な老後を迎えたならば、心のどこかに空虚さを感じ、それを埋めることを真剣に試みるものである。
 さらに私たちの孤独感は、見かけ上は孤独ではないような状況でも体験されるから厄介である。人生の岐路に立たされて深刻に迷い苦しんでいるとき、それを聞いてくれるはずの配偶者や主治医の無理解を痛感した場合、最悪な孤独感が襲ってくるかもしれない。「一緒にいるのに孤独」。無理解で別の世界にいるような配偶者といると、一人でいるよりもっと孤独に感じる、という人は多い。
 あるクライエントは職場で深刻なモラルハラスメントを体験したそうである。そしてそれをうちに帰って夫に話すと、彼はこう言ったという。「そう、よかったじゃない。キミはこれまであまりそういうつらい体験をしたことがなかったんだから。いい人生勉強だよ。」その体験がそのクライエントにとって結果的に人生勉強になったかは別として、少なくとも彼女は夫の言葉によって深刻な孤独感に教われたことは確かだったのである。
 そしてそのような人たちにとっては理解を示してくれる面接者の存在は、この苦しみの一部を癒してくれる可能性があるのである。
 患者の持つ孤独感については、「自然流精神療法入門」(星和書店、2003年)でもある程度紙数を割いて述べたことであるが、ここでも少し繰り返しておこう。人生の上である種の問題に直面することで味わう苦痛のかなりの部分は、実は孤独感に関係していることが多い。それはその問題の特殊性、それを体験した人の気持ちをわかってもらえないままで過ごすことの孤独である。その時もし目の前の誰かが聞いて、「それは大変ですね」と伝えたとしよう。すでにその孤独感の一部は癒されている。理解されることはもう一人の自分を作ることになり、それが私たちを孤独から多少なりとも救ってくれるのである。孤独とは、常に誰かに付き添ってもらうことで和らぐとは限らない。週に一度しか会わない面接者との間でそれが癒されることもあるのだ。
 もちろんその人はあなたの問題を本当の意味でわかってくれているとは限らない。「どうしてそんなことで悩むの?」と言われてしまうかもしれないし、その人はもしかしたら腹の底であなたの不幸を嗤っていないとも限らない。だから人に話すことは難しいのであるが、それでも私たちは心に悩みを抱えた場合に人に話すことを選ぶことが多い。時にはペットの犬に向かってさえ私たちは話しかける。「今日ね、ひどいことをお客さんに言われたんだよ。どうしてお客ってあんなに上から目線で店員に文句を言うんだろうね?」それを言われた犬はもちろんわけがわからないが、一生懸命ご主人様の気持ちを読もうとその目を見つめる。それでも少しは気持ちが和むだろう。少なくとも一人ではないから(一人と一匹・・・)。
 このように考えると私たちがなぜ感動を思わず言葉にする傾向があるのか、時には独り言にしてまで気持ちを表現するかが理解できる。楽しいことがあった時はそれを話す相手がいない時に、つらいことがあったときはそれを理解してくれる人がいない時に、私たちは孤独を感じ、それを耐えがたく思うのだ。独り言でもいいからそれを想像上の誰かに伝えることで、その孤独感を和らげるのである。
 面接者が毎週ないしは隔週クライエントと会うたびに、そのクライエントが少なくとも孤独感からは救われ、生きる勇気を少しだけ与えられて帰っていくとき、それを面接者が実感しない時があるとしたら、それはなぜだろうか?ひょっとしたら面接者が「幸福すぎる」からかもしれない。そんなことでも役に立っているということが信じられないのである。あるいはクライエントの苦しみのレベルに波長を合わせることができていないのかもしれない。それでも面接者は結果としてそれなりに役に立つことができる場合があるとすれば、そのことはおそらく感謝すべきことなのかもしれない。
 最後にただし書きである。人の孤独感は時々癒されることはあっても、完全にそれが消え去ることはない。面接者がクライエントをその孤独から救うということは永遠にできるわけではない。面接者にできることは、クライエントが自らの孤独感を抱えることを援助することでしかないだろう。
 面接者も孤独を抱える人間である以上、心理療法はともに孤独を抱える人間同士が支えあう営みというニュアンスさえある。もちろん面接者が自らの孤独をいやすために面接を用いることには倫理的に問題が生じかねない。しかし現実には臨床が孤独をいやす一つの重要な手段となっているような臨床家も決して少なくないのである。
事例)
 34歳の母親、一才10ヶ月の女児を持つ。乳腺外来の医師に進められて精神科を受診する。最初は笑みさえ浮かべていた彼女は、これまでの経緯をたずねられて、一年前の体験から話し出す。ある娘の日授乳時に右の乳房の一円玉大のしこりに気がつく。痛みもないのでそのうち医者を受診しようとしている間に、それが見る見る大きくなっていることに危機感を持ち、専門の乳腺外来を受診する。そこで彼女はそれが非常に悪性の乳がんであることを告げられた。それはホルモンを餌にして見る見る大きくなる種類のがんだったのである。そして現在では骨転移が全身に見られ、腫瘍マーカーが不気味な上昇を見せていることに話が及び、それまで気丈に話し続けていた彼女の表情に影が差す。そして話がまだ幼い娘に及ぶ。
「私の命はどうでもいいんです。でも娘が・・・やっと言葉を覚え始めた娘が『ママー』と言ってくるたびに、この子の成長を見守ることができないと思うと・・・」と言ったきり涙があふれて言葉がつまる。
 聞いている精神科医はその話に圧倒されてまともに口もきけない。悲しみにくれる母親は自分の苦しみを話した相手が圧倒されてしまうのを見て、いつもの孤独を感じる。専門家でさえその辛さにおしつぶされる体験を持っているのだ。圧倒されかけている精神科医はそれでも思案し、再発乳がん患者の自助グループを探し出して紹介する。
 そして若い母親はその会にはじめて参加する機会を持つ。その毎週の会が持たれる会場におずおずと入り、自分と同じ境遇にある母親たちの暖かなまなざしに触れたときの救われた感じ、一瞬ではあれ癒される孤独感・・・・。


2015年9月19日土曜日

カウンセリングの初学者に向けて(3)


2.理解(共感)することそのための明確化で行くべし
私はよく初学者が心理療法の進め方がわからず、途方に暮れている姿を見かける。それも無理はない。心理療法とは本来海図のない航海のようなものである。ベテランの面接者でも、自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかが、ふとわからなくなってしまうことがしばしばあるものだ。
 もちろんこのような考えがあまり起きないようなセッションもある。クライエントがある辛い体験について息をつく間もなく訴えかけ、治療者がその話に共感することで時間が過ぎていく。セッションの終了時にクライエントは少し気持ちが楽になったと感謝し、次回のセッションを待ち望むというような状況である。しかしクライエントが最初は持っていた治療への期待や情熱を失いかけた時、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたりする時、治療者はふと疑問を感じる。「そもそも心理療法とはなんだろう?私は今クライエントの前で何をすべきだろう?」そのような疑問は面接者が初学者であればなおさら起きてもおかしくない。
 そのような時、面接者がクライエントの治療動機、ニーズを改めて捉えなおすことは重要であると思う。「結局セッションに何を期待しているのだろう?」さらに端的に言えば、「セッション中の面接者とのかかわりの中で、何に、どこに達成感や安心感や癒され感、心地よさを感じているのだろうか?」と自らに問うてみることだ。

 面接者とクライエントの関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。クライエント側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていない時、面接者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。
 クライエントのニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと面接者が目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底にあるものとして、クライエントの「理解してもらう」ことのニーズがあることを、面接者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。
 私がなぜこのように考えるかといえば、これまでの経験上、クライエントの置かれた状況や有している精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感の重要な部分を形成しないというケースは思い出せないからだ。人が心を持つとはすなわち、他者からそれを「理解される」ことを希求することとほとんど同義である。どんなに深刻な妄想にとらわれていても、どれほど深刻な自閉傾向を持とうとも、理解してもらえることが安心感や心地よさを生まないということは考えられない。
 もちろんクライエントが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさを生む」ということの苦しさを「理解される」ことは、その人にとって安心感を生むはずである。またアスペルガー障害のクライエントで、人の気持ちを理解することにほとんど興味がなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや想念を持ち、それが人には理解しがたいということを思い当たらないような場合でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになる」のである。
この問題は、治療者のセッション中の問いかけの意味にもつながる。精神分析ではよく「分析家は余計な質問はすべきでない」ということを聞くことが多いが、実際の臨床場面では、たとえ精神分析でも治療者が患者に何らかの問いかけをすることはきわめて多い。その質問にはどのような意味があるのだろうか?和たちたちは何らかの目的を持って、あるいは興味本位で質問を患者に向けているのだろうか?
ここで一つのシンプルな理解を示すならば、治療者の質問は患者を理解し、最終的に共感をするための手段だということである。患者の体験を心に移しこむためには、詳細を明らかにしなくてはならない。そのためには情報が必要である。患者が「大変なことになりました」と深刻な顔で治療者に伝えたとする。その時点では治療者には「何か深刻なことが起きた、大変だ」ということしかわからない。漠然とした黒い雲を投げかけられたようなものである。それに対して質問を投げかけることでその黒い雲が徐々に形を表していく。それを把握したことを伝えることで、クライエントの側は理解されたという感覚をより確かのものにしていくのである。その意味では質問は「明確化」のためであり、それは患者の体験の理解とそれに向けての共感を深めるために、そしてそれのみのために行われるのである。
ちなみに治療者が自分を理解してくれようとして投げかけてくる質問は、おおむね患者にとっては侵入的には体験されないものである。もしそれがぶしつけだったり侵害を意味していて、それを患者が伝えるのであれば、もちろん治療者はそれ以上その件について問いかけることは控えるべきであろう。しかし相手を理解するという目的のために投げかけられた質問である限りは、治療者はその質問をしたことを後悔する必要はないのである。
  ところでここでの主張は、いわゆる支持的な療法の考えには沿っているものの、伝統的な分析的精神療法や認知療法にはなじまないと考える方もいるかもしれない。たしかにそれはクライエントの洞察を深めようとか、その思考プロセスを考え直そうといった考え方とは、大きく異なるように見えるだろう。しかしそれらと相入れないというわけではない。むしろクライエントが「理解された」と思えることは、それらの治療の出発点として考えるべきである。クライエントが人生の中で他者と似たような問題を繰り返し起こしたり、不適応的な考えを持ったり不用意な行動を起こしてしまうということが生じている場合、その際の当惑やいら立ち、不条理さや不全感を含めて面接者が理解することは治療の成立する前提条件とさえ言える。そこで「(そのような状況であれば)そう感じるのも無理はありませんね。」という気持ちを面接者が持つ事が出来、それをクライエントに伝えることなしには、クライエントがそこから抜け出すことを援助することなどできるはずはないのだ。
 ただし、とここで付け加えなくてはならない。人を理解することは難しい。否、面接者がクライエントを理解したと感じることはやさしくても、クライエント自身が理解された、と感じるような仕方で理解することは時として非常に困難なことである。とくに発達障害やパーソナリティ障害をともなうクライエントの場合、彼らの考えは私たちの理解しようという努力をすり抜けていくことがある。それはいくらダイヤルを微調整してもとらえることのできない周波数のラジオ局のようなものである。クライエントの持っている「理解されたい」という希求は、実はそれが完全な形で実現することは決してありえないことでもあるのだ。そしてそれに直面することを助けることもまた、心理療法の一つの重要な役割なのかもしれない。

特定の事例というわけではないが、私が接することの多い解離性同一性障害(以下「DID」とする)を持つクライエントの場合について紹介したい。というのも彼女たちにとっては、そのおかれた状態について面接者が理解を示すというプロセスは、それ自体が非常に大きな意味を持つようだからだ。DIDにおいては一人の人間の中に複数の人格が存在するという事態が生じるが、そのこと自体が通常の私たちの想像を超えている。その事情は現在のわが国の精神科の臨床に携わる人々にとってもあまりかわりがない。その結果としてDIDの訴えに耳を傾けた多くの臨床家がそれを不可解に感じたり、懐疑的になったりするということが実際に生じている。交代人格を持つという体験は、それ自体を聞くべきではない、話題にしてはならないという方針を持っている臨床家も少なくなく、それもあってDIDならではのさまざまな悩みを話すこともままならないということも起きている。するとDIDを有するクライエントの生活歴をとり、その抱える問題を真正面から捉えて理解を示すことそれ自体が、彼らにとっては大きな意味を持つのである。
 その意味では心理療法に携わる人たちにとってはさまざまな精神疾患についてそれらに馴染み深くなり、クライエントの持つさまざまな障害に対する深い理解を示すことができるようになることは大切なのだ。さらにはクライエントが人生上体験するさまざまな問題、たとえば離婚、別離、事業の失敗、破産、受験の失敗・・・などの体験を直接間接に持つことで、臨床家のクライエントを理解する力は深まる。ただし、それらの体験により臨床家自身が疲弊してしまわなければ、の話ではあるが。 
 
ところでこの「理解してもらうこと」というテーマは、患者の持つ孤独感の問題に行きつくことがわかる。自分の問題を理解してもらうことは、それまで誰にもわかってもらえずにひとりで人生を生きてきたクライエントの孤独感を和らげるという意味があるのだ。このように考えると理解される事を望まない人はいない、という意味はより明確になるだろう。それは人は深刻な孤独に耐えることはできない、ということだ。本来人は孤独を嫌うし、それを苦痛に感じるものなのである。孤独が好きだという人の場合には、それまで自分を理解し、愛してくれた存在の内的イメージが豊富なので、現実の友人やパートナーを持たないということがそれほど響かないというわけだろう。それらの内的イメージを持てるほどに幸運でない人たちは、それだけ孤独に耐えることができなくなる。