2015年6月30日火曜日

自己愛(ナル)な人(18/100)

不安や対人緊張の欠落も、ナルシシズムを促進する

それでは一部のサイコパスはどうして残酷に、苛酷になれるのだろうか? そこで注目しないわけにはいかないファクターがある。それは彼らの不安や恐怖の希薄さ、ないしは欠如である。少し前のページで、サイコパスの共感能力の欠如について述べた。人を共感し感情移入をする能力をつかさどる大脳の前頭前皮質の腹側部という部分の活動が、サイコパスの人々では低下していると述べた。
サイコパスの人たちの自律神経系の反応の低さは以前から指摘されてきた。簡単にいえば、彼らは不安でドキドキしたり、手に汗を握ったり、という体の反応に乏しいのである。彼らが自らの行為が招くであろう重い刑罰や社会的な制裁を想像しても、それが彼らの反社会的な行動を抑制しにくいのにはそのような事情があるのだ。
 
サイコパスのそのような性質は、まるで彼らが感情を持たない、ロボットのような存在ではないかという私たちの想像を促す。ところがそう言われた彼らの反応は興味深い。ヘアの本にこのような例がある。「冗談じゃない。とんでもないぜ。」「もしおれが感情を持ってないだなんて思っているなら、そいつは間違いだ。全くの間違いだ。おれはまさに感情的な男だし、体中感情だらけさ。」20歳前後の女性を19人も誘拐して殺害した凶悪連続殺人魔、テッド・バンディの言葉だという。
 しかしサイコパスは自らの感情を自由にコントロールして表現するようなところがある。突然スイッチが入ったように怒り狂い、残虐性を示す。かと思えば本当に人に同情しているかのごとく涙を流す。女性に対して心からの親愛の情を示しているかのように映る。それらの感情表現の巧みさもまた、他人をだまし利用するための貴重な道具なのだ。
一つ言えることがある。それは彼らが快感追求型であるということだ。それだけは間違いない。サイコパスたちが本当の意味で心を動かし、素(す)になれる瞬間。それはスリルを味わうときであり、興奮を味わっている時である。人を上手くだませた時。人を殴りつけて拳が相手の骨を砕く感覚を味わった時。脱獄をしてパトカーのサイレンに追われている時。コカインを鼻から啜っている時。セックスに浸るとき。夜中の高速道路を爆走している時・・・・。ある意味で彼らの感情は快か不快かのきわめて単純なスイッチのオン、オフでしかない。しかも極端な不快は直ちに相手への攻撃により解消が図られてしまう。彼らは持続的に苦しみを味わって鬱になる能力がないのだ。
 サイコパス的なナルシシストは、モノクロか、二色刷りの人生しか送っていないことになる。彼らは自分や他人の感情の微妙な濃淡は味わえない。料理でいえば、極端に甘いか辛いかしかわからず、微妙な味わいがわからない。ある意味で快感の感度が鈍っている。脳科学的に言えばドーパミンの受容体は、より多量のドーパミン刺激で持って初めて興奮する。だから人の何倍の興奮を追い求めているのだ。


2015年6月29日月曜日

自己愛(ナル)な人(17/100)

サイコパス型ナルシストは「たたき上げ」ではなく、むしろ「生まれつき」
ではサイコパス型のナルシストはどのようにして生まれてくるのだろうか? この点について考えると、厚皮型との違いがわかるだろう。基本的には全然異なるのだ。といっても両者が混じっている人も多いんだろうけどね。
 サイコパス型ナルシストは「たたき上げ」ではなく、いうならば「生まれつき」というところがある。もちろんこれまでにもさまざまな説が提唱され、幼少時の虐待やネグレクトが原因だと主張する人もいないわけではない。しかし多くの場合、親は子供がとんでもないモンスターに育っていくのを背筋を凍らせて見守るのである。
サイコパスの子供時代は、とにかく癇癪がすごい。物を破壊し、人に殴りかかる。いくら言っても、それこそ体罰を使っても、そもそもそれが通じない。そのうち妹や弟が生まれると、そのいじめが残忍でかつ見境がない。まだ赤ん坊の弟や妹の口をふさいだり、頭を壁に打ち付けたり、ということをして全く目が離せない、ということが起きる。ヘアは次のように述べている。「[親は]何とか助けを求めようとして、なりふり構わずに、次から次へとカウンセラーやセラピストを訪れるが、何一つ役に立たない。親が子供にかける期待は、次第にうろたえと心の痛みに取って代わられ、何度も何度も彼らは自問する。『私たちが一体どんな悪いことをしたのだろう?』」(ヘア、同書、P210 )いわば彼らは幼いころからすでに悪魔なのだ。そして彼らが最初に法廷に出るのは平均で14歳である、とヘアは言う。
通常の厚皮型と比べてみよう。彼らは社会の下の層から徐々に這い上がっていく。悪く言えば上には取り入り、下を支配して。しかしそこには上から可愛がられ、また下をかわいがる、というポジティブな側面があった。その意味で自己愛の階層社会では互恵的な関係が成立しているのである。
 それに比べてサイコパスは最初からトップの座にいる。彼らにとって取り入ったり媚びたりする相手はいないのだ・・・・。
もちろんこう言うとたちまち反論があるだろう。「そんな馬鹿な。最初からトップなんてありえないだろう。すぐに上にぼこぼこにされるのが落ちだ。」
 もちろんそうだろうし、その意味では「失敗したサイコパス」は、どこの社会にも属すことができない、凶暴な野生動物のような存在でしかない。しかしサイコパスの「成功組」はより長期的な展望があるから、自己愛の階段を仮面を被りつつ登っていくことになるだろう。どこまで上り詰めるかが、そのサイコパスの「成功度」を示すことになるのだ。ただしそこにあるのは、すべてが偽りの、芝居の人間関係、対人関係でしかない。上から可愛がられても、心の中では鼻で嗤い、下には残虐で思いやりのかけらもない。その暴力的で狂気じみた支配に、下はただ恐れるだけである。

このような決して成功しているとは言えない野生のようなサイコパス型の自己愛者が集団社会で生き伸びるとしたら、その下への容赦のなさや苛酷さが上から重宝がられるからかも知れない。やくざや暴力集団であるなら、その非情さや残酷さで周囲を恐れさせ、その分だけ上に登りつめるのも早い。ヤンキー集団で年は行かなくてもその捨て身の狂気ともいえる暴力性でたちまちトップに躍り出るというケースは少なくないと聞く。

2015年6月28日日曜日

自己愛(ナル)な人(16/100)

木嶋佳苗について書き足すつもりでいたのに、本が届かない!でも書くべきことはまだたくさんなるな。ヘアの本を読み直そう。
「成功したサイコパス」がナルシシストになる
ここまでサイコパス型のナルシシストについて論じてきたが、読者はまだ次の様な疑問を抱いているかもしれない。「ではサイコパスはみなナルシシストか?」
この問いについては、言葉の定義に戻って考えてみよう。サイコパスとは要するに人の心に共感できないので、いくらでも他人を利用する人だ。しかし他人を利用する仕方はいくらでもあるだろう。詐欺を働いてもいいし、殺人を犯して金品を強奪するという手もある。しかし彼らの中には、人から尊敬されたり、畏れられたり、恋愛感情を向けられたりすることをとりわけ好む人たちがいる。彼らがその目的のために用いるのは、嘘であり、見せかけの優しさであり、時には恫喝である。そして彼らが最終的に自己愛が満足するような状況を作り上げることが出来るかは、それらの嘘や優しさの表明や恫喝の「巧みさ」なのだ。
 いかにサイコパスが人を欺こうと必至になっても、彼らのスキルが半人前であったら、人はすぐにその虚偽性を見抜いて去っていってしまうであろう。サイコパスが最終的に自己愛を満たすためには、彼らが「巧み」でいい仕事が出来なくてはならない。そのためには自分の魅力と限界を知り、どのような振る舞いが成功に導き、どのような振る舞いが逆効果なのかをよく知っておく必要がある。そうでないと、自己愛を満たすまでのレベルにまで至らないのである。その意味ではサイコパス型のナルシシストは、その中でもごく一部の、ある意味で才能ともいえるような能力を備えた人と言い切っていいだろう。

ここで成功したサイコパスに共通したひとつの要素を見出すことは難しいだろう。人が誰かに魅力を感じるための要素は千差万別である。それは美貌であったり、歌のうまさであったり、人の操作の巧みさだったりする。時には性的な魅力を用いることの巧妙さだったりする。木嶋佳苗の写真を見て、おそらく多くの人が思ったであろう。「一体全体どうして彼女に複数の男性はだまされたのだろう?」木嶋の顔写真は多くの男性が見とれてしまうようなそれでは決してない。それでも彼女が複数の結婚詐欺により多額の金を得ることが出来た秘密は、彼女自身が誇らしげに自著で語っている「性的な魅力」かもしれないし、あるいは本人がまったく気がついていないような魅力かもしれないのだ。
 しかしこのように考えていくと、ひとつ重要な疑問にいたる。世の中で成功している人たちは、この成功したサイコパスと本当に大きく違うのだろうか?
 本書の冒頭で述べた「勝ち組は自己チュー」を思い出していただきたい。実は社会での成功者をまず取り上げ、その中に、サイコパスの要素を見出すことは、意外なほどに容易なのである。ということは私たちの身の回りにも、国会にも ・・・・・・・。

2015年6月27日土曜日

自己愛(ナル)な人(15/100)

恋愛詐欺のナルシシスト

サイコパスは人を利用するためには手段を選ばない。男性なら男性的魅力や経済力、女性なら性的魅力を惜しみなく利用して相手を騙す。彼が利用するのは他人ばかりではないのだ。彼らが「成功したサイコパス」であるなら、それだけ自信にあふれ、魅力的に見え、その分相手に付け入るすきを与えることにもなろう。というわけで恋愛詐欺、結婚詐欺は、サイコパス型自己愛者の格好な活躍の舞台ということになる。
一連の婚活詐欺殺人でその名の知れ渡った木嶋佳苗被告のことを覚えていらっしゃる方も多いだろう。彼女もまた典型的なサイコパス型自己愛者だったと言える。
 事件の概要を少し振り返ろう。(御免。以下の2パラグラフ、かなりウィキから取った。自分がサイコパスではないと信じる私はここで白状する。)200986埼玉県富士見市の月極駐車場内にあった車内において会社員男性C(当時41歳)の遺体が発見された。死因は練炭による一酸化炭素中毒であったが、自殺にしては不審点が多かったことから警察捜査が始まった。その結果、C被疑者住所不定・無職の女性、木嶋佳苗(19741127生まれ、当時34歳)と交際していたことがわかり、捜査していくにつれて木嶋にはほかにも多数の愛人がおり、その愛人の何人かも不審死を遂げていることがわかった。埼玉県警は木嶋が結婚を装った詐欺をおこなっていたと断定し、925に木嶋を結婚詐欺の容疑で逮捕した。また、逮捕時に同居していた千葉県出身の40代男性から450万円を受け取っていた。
2010(平成22年)1月までに、木嶋は7度におよぶ詐欺などの容疑で再逮捕されている。警察は詐欺と不審死の関連について慎重に捜査を継続。222に木嶋はAに対する殺人罪起訴された。窃盗罪詐欺罪などですでに起訴されており、あわせて6度目の起訴となる。1029には東京都青梅市の当時53歳の男性を自殺にみせかけて殺害したとして警視庁に再逮捕された。ただし、被害者男性の遺体は、当時は「自殺」と断定されて解剖されていない例もあり、死因に関する資料が乏しい中での、極めて異例の殺人罪の立件となった。(Wikipedia「木嶋佳苗」の項目より恥も外聞もなく引用)
木嶋は獄中にありながら、ブログを更新し、今年になって自伝的小説「礼讃」を発表した。中には現代の女性に向けてこんなことが書いてあるという。
「女同士の付き合いにかまけて、男性を大切にすることを忘れてしまったのではないか」「私は男性に対して演技をしたことはない。男性が望むことをするのが、私にとっての喜びであり、それが自然な行為だった。―中略―(男たちの抑圧された心の奥を汲取ることで)そうした心の深いところから無意識に湧き出たもののふれ合いは、セックスより強力な接着剤になる。その上、セックスも良ければ、離れられないのは当然だろう」。
保険金殺人をした女性がどうして人さまに説教をする心境になれるのだろう。これだけでも驚くべき自己愛である。しかも彼女は男性を救済していたかの書き方をしてあるのだ…。これはかなりのナルである。しかも彼女にとっては関係した男性に被害を与えたという実感すらなさそうである。

一般にサイコパス的な自己愛者がどうやって自分の行為を正当化するのかという問いへの答えがこの木嶋の筆致にある。彼(女)は自分のかかわりが喜びや興奮を他人に与えていると感じる。自分が彼らを救済しているかのようである。まるで彼らが死んだのは自業自得であるかのように。

2015年6月26日金曜日

自己愛(ナル)な人(14/100)

サイコパス的ナルシシストの脳はどうなっているのか?

最近の脳科学の発展には理由がある。それはある意味では脳の中が「見える」ようになってきているからだ。それは最近のコンピューターテクノロジーの発展と深く関係している。「fMRI」という機器は脳の中で起きている動きを刻々と記録することが出来る。もちろんそれで脳の働きがすべて解明できるわけではない。脳とは途方もなく複雑なシステムなのだ。しかしひとつ重要な情報が得られる。それはどの部位が、いつ活動しているか、という情報だ。するとサイコパスたちに関しては、比較的明確な情報がわかっている。
最近日本でも読者の多い、ジェームス・ファロンという脳科学者の書いた「サイコパス・インサイド」。この本はサイコパスに関する最近の脳科学の成果をまとめている。それによれば、大脳の前頭前皮質の腹側部という部分の活動が、サイコパスの人々では低下しているということだ。この部分は、人に共感し感情移入をする能力をつかさどるといわれる。つまり目の前で苦しんでいる人に対して、自分の心にも痛みを直接に体験することを通して共感する力である。ただし彼らは大脳の前頭前皮質の背側部分の機能は正常だし、私の想像だが、おそらく腹側部の機能が低下している分だけ、代償して、いわば過剰に働いているのであろう。
ひとつ驚くべきなのは、脳の共感の部分が働いていなくても、人は一見スムーズに、そしてあたかも共感の能力に優れているように行動できるという事実なのである。私の印象からは、2001年の大阪池田小事件の犯人であるT守(特にイニシャルにする必要もないかもしれないが)は、押しも押されもしない、典型的なサイコパスのナルシシストだが、彼は何度も結婚までし遂げている。これは驚くべき事実だ。かりそめにも結婚し、しばらく共同生活をするためには、かなりその人は正常であり、さらには信頼できるような印象を相手に与えなくてはならない。なぜ他人の痛みがわからない人が曲りなりにも社会性を身につけるのかについては不明だ。しかしおそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。
私たち自身を振り返ってみよう。上司の葬儀に参列するとしよう。実はほとんど会ったことがない人だったとする。その人の死去が自分の生活を直接変える要素は何もない。そのような場合、私たちはどれほど生々しい悼みの気持ちを持つだろうか? 飼っていたグッピーの「死去」の方がよほどコタえる場合だってあるのだ。それでもその上司の葬儀に参列する人たちの誰も、ニコニコ談笑したりせず、神妙な振る舞いをする。遺族に会うときには言葉にならないほどの悲しみの気持ちを伝えるかもしれない。私たちは与えられた状況でどのような表情を作り、どのような言葉を発するべきかをきわめて正確に学習するものなのである。本物の共感なしに以下に人に本心を偽装したまま隠しとおせるか、ということを示しているのだ。
 あるいは最近生まれたという親戚の写真を見せられて、「まあ、可愛い!」と声を上げるのが当たり前のようになっているが、いったい男性のどのくらいが、自分とは血のつながりのない、しわくちゃな赤ちゃんの顔を見て「可愛い」と思うのだろうか?
 (ここら辺についてはかなりの反論が予想される。確かに赤ちゃんの顔は審美的にも十分美しいとは言えないものの、私たちの心の別のボタンを押すはずなのだ。その結果として、人間の赤ちゃんを可愛いと思わなくても、犬や猫の赤ちゃんを見せられた男性は、おそらくたいていが「可愛い」と思うのではないか。しかしともかくも人間の赤ちゃんを見て可愛いと思うボタンが確かに女性には確実に備わっている気がする。これは実際に必要なことであり、そうでないと生まれたばかりの赤ちゃんに対する最初の重要な愛着が成立しなくなってしまう。アリエナイだろう。自分の赤ちゃんを見たお母さんが、「まあ、ブサイク!」とつぶやくなどということは。
それでもその自慢の赤ちゃんの写真を見せられて、絶句してしまう女性などありえない。そして写真を見せた人は「みんなも可愛いと思ってくれている!」と思うだろう。これなども「共感」部分の脳の活動を欠いても、私たちが以下に共感的に振舞えるかを示しているといえる。そしてソシオパス的な傾向にある人は、ここら辺を極めてうまく遣り通すことが出来るのだ。


2015年6月25日木曜日

自己愛(ナル)な人(13/100)

教科書のイラストに誤って手が3本。そのために教科書の回収。どうしてこれが全国ニュースになって報じられるのだろうか?どこかに悪意が潜んでいるのだろうか?それとも差別問題?どのような?紙の無駄遣いをすることもどうかと思うのだが…。世の中にはわからないことが多い。


サイコパス的ナルシシストのつく嘘
サイコパスの概念は興味深いし、実用性がある。人を「この人はどの程度サイコパス的なんだろう?」という視点から見るのは、その人から利用されたり搾取されたりしないためにも、とても重要なことなのだ。特にその人とあなたがビシネスパートナーになる時は、そうであろう。では恋人としてはどうか?  その人とあなたの利害が完全に一致している場合には、案外あなたのことを大事にしてくれるかもしれない。ところがその利害が微妙に食い違い始めると、向こうは簡単に距離を置いたり、見捨てたりするだろう。

例えばある男性があなた(女性を想定している)に接近してくる。人当たりが良く、話も面白く、誠実にも見える。色々な能力を発揮し、仕事も順調のようだ。おまけに学歴も高く、独身と聞いて、あなたは夢中になる。しかし相手を深く知って行くうちに、細かな齟齬が気になりだし、かなり偽ったり「盛った」話をしていたりすることに気が付くだろう。最終的に貴方が知りえた彼の情報が、最初とどの程度異なっているのか、彼がどの程度あからさまな作り話をして自分を大きく見せようとしていたかは、その人のサイコパス度を知るうえでかなり信頼のおける指標となる。勤めている会社の規模や肩書が少し違っていたくらいなら目をつぶろう。しかし出身大学を偽っていたり、過去の婚姻歴が嘘であったり(実はバツイチ、子どもありと判明)であるとしたら、かなりその男性のサイコパス度は高くなるだろう。そして妊娠を告げた時に顔色が変わり、それ以降メールにすら返事が来なくなったとしたら、もうアウトである。あとで知ったところでは、離婚したとは嘘で、妻とはまだ調停中だったり、時々自宅に帰っていたりということがわかり、あなたはいわば架空の人に恋していたことに気が付くのである。
サイコパス的な人ほど相手の利益に自分の利益を優先させる。その人がどれほど優しくて、どれほど誠実に振る舞っても、それは自分のためなのだ。彼があなたの関心を引き、あなたの機嫌を取る必要がなくなった時に、初めてその人の真価が見えてくる。その際彼がどの程度の嘘までを自分に許容していたかは、その人のサイコパス度を知るうえでかなり重要な要素と言えるだろう。その意味ではサイコパス的な人の真の姿は、その人が特に気を使わなくてもいい、彼の利益に直接かかわらないような人に対しては、最初から最も良く示されるということができるだろう。

忘れられないドクターDの「アイドントノー」

米国で総合病院の精神科の勤務をしていた時のことだ。もう何年も前のことだし、登場人物は日本語がわからないから、比較的自由に書ける。パートナーのドクターDと私は高からのコンサルテーションを、時間帯で分けることにしていた。その日は午前中は私が受け、午後はドクターDが担当ということになっていた。微妙なのは、この交代間際の時間に舞い込んできた他科の精神科コンサルテーションのケースである。コンサルテーションは通常の業務の上乗せであり、病棟まで足を運ばなくてはならず、厄介な仕事だ。どちらかと言えばお互いに譲り合ってしまう傾向にある。そこで決まりを作り、それを受けたナースが、その時刻により、そのコンサルテーションの受け付け用紙の挟まったクリップボードをその先生に割り当てられた机の上に置く、という約束になっていた。
 ちなみにドクターDは私より20歳も上の大先輩のメキシコ人の精神科医であった。私がレジデントの時はスーパーバイザーだったが、卒後は対等な立場である。ドクターDは陽気なラテンアメリカの豪快な気質そのものといった感じの精神科医で、スポーツで日焼けした肌に口髭が似合い、その口髭の先をサルバドールダリのように尖がらせるしゃれっ気があった。その端正な顔とともに、何とか男爵みたいな雰囲気のある人だった。声が大きく、注目を常に望んでいるような自己愛的な雰囲気を漂わせていた。ただどこかに怪しい感じ、したたかな感じがあった。一つには彼の言葉づかいにあった。彼は「I don’t know」をよく使った。彼はメキシコ人で少しの訛りはあったがほぼ完ぺきな英語を話す。しかし自分の責任を問われるようなことにしばしばこの「アイドントノー」が出てくるのである。英語の口語でのアイドントノーは「自分はそれを知らない」と言うほかに、「さあね」、「難しい問題だね」などのはぐらかしの言葉でもある。そこに彼の責任回避の傾向を感じ取ることができた。
ともかくもコンサルテーションの話だ。私の机と彼の机はつながっていたが、その日にナースが置いた受け付け用紙のクリップボードは、二人の机の間の、でも明らかにドクターD寄りの位置であった。私はそれを見て、「ああ、正午を過ぎていたんだな。だからナースはドクターDの方に置いたつもりだったんだ。でも少し紛らわしい置き方をするな。」と思っていた。それから私は別の仕事に向かうつもりで席を外していたが、その間にドクターDがオフィスに戻ってきていた。そして一足遅れて戻ってきた私に、「ケン、タイミングが悪かったようだね。」という。ふと机を見ると、クリップボードは微妙に、しかし明らかに私の方に寄せられていたのである。そしてちょっと小細工をしたはずのドクターDは、平気な顔で昼食を取りに行く気配である。私は「やられたな」と思い、ドクターDの巧妙さ(?)を改めて知ったという訳である。


ドクターDはサイコパスだろうか? それともこのぐらいの小細工は人は結構やるのだろうし、その意味では普通のことだろうか? そしてこんなことを20年以上たってもしつこく覚えている私の方が問題だろうか? 答えはわからない。しかし先に紹介した「勝ち組は自己チューである」という記事を見ると、この手のズルはむしろ社会適応上有利に働いてしまう可能性があるという寂しい現実があるということも示しているのである。

2015年6月24日水曜日

自己愛(ナル)な人(12/100)

 今日の文も、かなり自己剽窃が見られるな。まあ訴えられることはないだろう。

 そこで以下にサイコパスという表現に絞って論じよう。サイコパスの最大の特徴は冷酷さであると考えられる。より年少から罪を犯し、より重層的な犯罪行為にかかわり、行動プログラムに反応をしないという。彼らは痛みによる処罰などにも反応せず、平然としているために行動療法的なアプローチがそもそも極めて難しいという問題がある。
  サイコパスに興味を持つ人にとって必読の書がある。それがロバート・ヘアという心理学博士の「診断名サイコパス身近にひそむ異常人格者たち」という本でわが国でも翻訳が出ている。(「診断名サイコパス身近にひそむ異常人格者たち」 (ハヤカワ文庫NF) ロバート・D. ヘア Robert D. Hare 早川書房 2000-08)ヘアはこの世界の大家で、彼の著作はサイコパスという概念が一般に知られることに大きな貢献をしたが、若干それが行き過ぎだったという批判もあるという。それは、サイコパスが私たちの生活で出会う人の中に数多く存在するという印象を与えすぎたというわけだ。
彼はあるインタビューで答えている。http://healthland.time.com/2011/06/03/mind-reading-when-you-go-hunting-for-psychopaths-they-turn-up-everywhere/ それによれば、サイコパスは一般人の100人に一人だが、ビジネスリーダーたちに限ってみると、四倍に跳ね上がるという。確かに彼らは有能であればあるほど、一定の能力にたけていることになるのかもしれない。それは利益を追求し、必要とあれば一気に何千人もの従業員を解雇して路頭に迷わせることが出来る能力である。事実サイコパステストには、ビジネスに関しては「正解」なものも多いという。いわば資本主義ではサイコパス的にふるまえばふるまうほど利益があげられるということらしい。これについてはたとえば日本でのオレオレ詐欺の現状を考えてみよう。あれほど巧妙にやればやるほどもうかる商売はないと言える。
これについては、最近興味深いニュースが伝えられたことをご存知の方もいるかもしれない。
「勝ち組」はジコチュー? 米研究者ら実験で確認
お金持ちで高学歴、社会的地位も高い「勝ち組」ほど、ルールを守らず反倫理的な振る舞いをする――。米国とカナダの研究チームが、延べ約1千人を対象にした7種類の実験と調査から、こう結論づけた。28日の米科学アカデミー紀要に発表する。
 実験は心理学などの専門家らが行った。まず「ゲーム」と偽って、サイコロの目に応じて賞金を出す心理学的な実験をした。この結果、社会的な階層が高い人ほど、自分に有利になるよう実際より高い点数を申告する割合が多かった。ほかに、企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業側に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に有意に多かった。別の実験では、休憩時に「子供用に用意された」キャンディーをたくさんポケットに入れる人の割合も同じ結果が出た。 (朝日新聞デジタル、2012228)http://www.asahi.com/science/update/0228/TKY201202270655.html
もちろんこれらのキャンディー好きがサイコパスだとは言えないだろう。しかしおそらく「プチ・サイコパス」と考えてもいいのかもしれない。物事には程度がある。サイコパスにも「ちょいワル」程度から連続殺人犯までのスペクトラムがあるはずだ。その中でかなりの部分が、社会的な成功者の中に見られてもおかしくない。




2015年6月23日火曜日

自己愛(ナル)な人(11/100)

一年で一番悲しい日がやってきた。これから日照時間はどんどん短くなっていくのだ・・・・。


昔見たような文章がずいぶん出て来るなあ。

サイコパス的な自己愛者
 ナルシシズムとは結局、他人に心を及ばせない心性である。要するに対人関係の問題だ。一人で自分自身に没頭しても、周囲に迷惑をかけない分には問題がない。鏡に向かって髪型のセットに余念がない若者を想像してみよう。いかにもナルシシストと思われても仕方ないだろうし、思い浮がべてもあまり気持ちのいいものでもない。しかし頭の薄くなりかけた中年男性なら、もっと多くの時間を鏡に向かって過ごすかもしれないし、それをだれも責められない。人は結局自分のことで必死なのだ。その意味で人は誰でも孤独なナルシシストであり、そうでない人はむしろ例外だし,むしろ社会で不適応を起こしてしまうだろう。
 しかし自分のことに没頭する分だけ他人にかかる迷惑を顧みないとしたら、そのナルシシズムは正真正銘の病理となる。自分の利益のために他人を利用したり害したりするならば、それは「悪」の定義そのものとも言える。そしてその意味ではサイコパスや、犯罪者性格、反社会性な傾向のある人たちは、社会の中で最悪のナルシシストと言えるのである。
「サイコパスはいかなる人間同士の交流も、“餌をまく”チャンス、競い合い、あるいは相手の意思を試す機会としてみる傾向にあり、そこには一人の勝者しかいない。彼らの動機は人を操作し、奪うことなのだ。非常に、良心の呵責など感じずに」(ロバートヘア著;「診断名サイコパス」 早川書房、1995、P188
   2012年の6月に大阪であった事件を思い出す方もいらっしゃるかも知れない。心斎橋の路上で二人を刺し殺した男が吐いた言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これ以上に自己中心的なナルシンズムの病理などあり得るだろうか?
ということで本章ではサイコパスタイプの自己愛について扱う。
  そもそもASPDとは?サイコパスとは?
  まずはサイコパスそのものについて説明しておく必要があろう。現代的な呼び名は、反社会性パーソナリティ障害 anti-social personality disorder である。略して「ASPD」だ。これまでにも紹介した米国の精神疾患の診断基準であるDSMという「バイブル」により比較的明確に定義されているが、ASPDとは暴力的で衝動的、うそをつき、社会的ルールを守ることが出来ず、人の気持ちに共感できない、という人々をさす。絶対にお友達になりたくない人たち、それどころか目も合わせたくない人たちであり、過去にDVや犯罪歴を持っていそうな人たちである。
 それではよく耳にするサイコパスとは? 一般的な定義からすれば、衝動的で人の気持ちに共感できず、他人に対して残忍な行為を行う・・・・。何かASPDとあまり変わりがないじやないかしかし歴史的にはASPDよりずっと古いのが、このサイコパスの概念である。本家本元はこちらの方だ。昔からmoral insanity「道徳的な狂気」と称されていたものがこれである。精神医学の世界では、統合失調症や躁うつ病などが明確に定義される前から、罪を犯すような人たちをひとまとめにする概念が成立していた。おそらく社会にとっては害悪を及ぼす人たちをいち早くラベリングする必要性があったからだろう。それがサイコパスである。
 さてこれら両者の区別であるが、事実サイコパスという用語はしばしばASPDと混同して用いられる傾向があるし、ICD-10のように両者を同列に扱う基準もある。しかし一般的にはASPDが行動面から明らかな所見に留まるのに対して、サイコパスはさらに内面的な特徴、たとえば罪悪感の欠如や冷酷さなどに重きが置かれている。だからあえて両者を区別する際は、サイコパスの方がより深刻でより深い病理を差すというニュアンスがある。つまりASPDの中でより深刻な人たちがサイコパス、という理解の仕方が一応可能であろう。