2014年12月31日水曜日

最新の解離 (21)

今年も終わりか…。

(12) トラウマと解離
トラウマ記憶をいかに扱うかは、トラウマの治療論の中でも最も核心的な部分であり、答えが一つに絞りきれない複雑な問題でもある。実際の臨床場面でも、患者の社会生活歴に過去のトラウマの存在を見出した際、そこに介入すべきかいなかは高度の臨床的な判断が必要とされる。トラウマを扱うことが除反応としての意味を持つのか、それとも再外傷体験につながるのかについて十分に予知することは、経験ある治療者にも不可能に近い。トラウマ治療は、かつてのトラウマをあたかも病変部を摘出するかのように扱うという一部の立場から、より保存的、支持的な方針へと移行し、近年の暴露療法が目指すように、安全かつ保護的な状況で再びメスを入れるという立場に戻りつつあるという印象を受ける。少なくとも報告者個人の考え方の変化はそれに沿ったものであり、また各臨床家が自分の立場を確立する上でも同様の変遷があるものと考える。
 トラウマ記憶をいかに扱うかに複雑に絡んでくるのが、医の倫理の問題である。患者のQOL(生活の質)に鑑みつつ治療を行なうべきであるのは、なにも終末医療に限ったことではない。トラウマ記憶の深いレベルにまでく治療の手を及ぼすことは、それが問題を本質的なレベルで解決するという側面と、それによる苦痛を及ぼす可能性の両方を含む。トラウマ記憶を明らかにし、それに対処するという方針が治療者のヒロイズムに先導され、その結果として患者の苦痛が増すことは医の倫理上許容されるべきではない。かつて笠原嘉氏が「小精神療法」の原則の一つとして「 深層への介入を出来るだけ少なくする。」を掲げたが、それはトラウマ治療の出発点についてもいえることである。
 解離性障害を扱う立場からは、患者における治療的に扱うべきトラウマの存在は、解離性の症状の顕在化として理解すべきと考えられる。患者が生産的な生活を送る上で不可避的に生じる解離症状は、それを治療において積極的に取り扱うべきだという立場を報告者は取っている。解離性同一性障害の治療においては、自ら積極的に姿を現すことのない人格を呼び起こすことには慎重であるべきであろう。しかし治療が進む上で出現する人格については、それを治療場面でことさら呼び出すことさえも必要となる場合が多い。そこで本章では解離性障害の原因と通常考えられているトラウマとの関係について再考を加える。
 
解離とはトラウマの結果として生じる、というのは欧米の精神医学ではほぼ常識と言っていい。トラウマという概念と解離とはほとんどセットになっているといっていいのである。しかし解離性障害として幅広い種類の障害と考えた場合、このトラウマとの関係が見えにくくなってしまうことも確かである。トラウマというと、身体的、精神的、性的な侵襲が加えられることになるが、そのような明らかなエピソードが早期の生育暦からは聞かれない場合もある。
 その際トラウマの変わりに「ストレス」と言い換えると、解離との関係を少し説明しやすくなる場合がある。ではトラウマとストレスとはどのような関係なのか?「トラウマチックストレス(トラウマ性のストレス)」という言葉もあるが、要するに心にかかる負荷、重圧という意味で用い、そこにトラウマほどの衝撃のニュアンスを含まないという特徴がある。このストレスと解離の例としては、たとえば成人男性に多い解離性遁走が浮かぶ。仕事に絡んだストレスが発症にかなり大きな意味を持っているようだが、遁走が生じる直前の出来事を探っても、しばしばこの衝撃の要素に欠けるのである。
 ところでこの解離とトラウマという問題がなぜ重要なのか?それは言うまでもなく治療論に絡んでくるからである。もしトラウマが解離症状の原因であるとしたら、そのトラウマを何らかの形で「扱う」ことがその治療になるのではないか、と考えるのは自然だろう。ただどのようにそれを「扱う」のか?(ここで「扱う」という微妙な言い方をしたのは、トラウマの記憶を「消し去る」ことは不可能であるからだ。せいぜいできることは、トラウマの記憶が今の生活にとっての障害とならない程度にすることだ。それをここでは「扱う」と言うことにしているのである。)
 トラウマを「扱う」ことには、非常に大きく分ければ二つある。一つはトラウマを忘れるよう努力することであり、もう一つは逆にトラウマを(表現は悪いが)掘り起こすことである。これは常識的に考えてもわかることだろう。
 読者の方は過去のトラウマ的な体験を一つ思い出していただきたい。それは時々蘇ってきて心に痛みを与える。できればそれが起きてほしくなかったと思う。一方では、それがふとしたことから思い浮かんでこなければいいと願う。要するに忘れられればいいのだ。そして忘れるための一つの方法は、それを想起しないことである・・・。しかしこれは少しおかしい。忘れる為には思い出さないことであろうか? するとある意味ではこれは「治療」ではない。少なくとも治療的に「扱う」ことではない。「扱う」こととは結局何らかの形でそれに触れること、そしてそれだけ忘れることを困難にするからだ。
 しかしこの治療ではない治療は、おそらく大部分の私たちが行っていることなのだ。嫌なことを忘れることが出来るなら、私たちはそれを選ぶ。ある人にとってはそれは仕事から帰って一時間ほどジョギングをすることだし、別の人にとっては帰りに居酒屋によることだったりする。おそらくこうやって私たちは嫌な体験を忘れようとし、ほとんどの場合うまく忘れられているのである。
トラウマを忘れること
 さて解離性障害の場合の、「トラウマを忘れる」とはどのようなことなのだろうか?ここでトラウマをある人格部分、と置き換えることが出来よう。すると端的には、トラウマを忘れる、とは人格部分を扱わない、あるいは少し無理にでも「お引取りいただく」ということに相当する。この問題についてはある意味では答えが出ていると言っていいだろう。なぜなら多くのDIDの患者さんについて、彼女たちの非常に多くの人格が、実質的に扱われないままに終わっていくからである。
 DIDの方々の体験からわかることは、人間の脳にはある限界があり、同時に稼動する人格の数は決して多くないと言うことである。私は高々34程度と見ている。それ以外の人格はおそらく静止画像のようになっていて、少なくとも同時に「覚醒」しているとはいえないのではないか?しかしDIDの方々が自覚できる人格部分の数は通常は二桁以上であることを考えると、その大部分は静止画状態にあり、その静止の仕方にもさまざまな段階がある。つまりすぐにでも命を吹き込まれることが可能な「静止」と、深い昏睡状態にあり、容易なことでは覚醒しない状態での「静止」である。そしてそれらの中には、おそらく今後も覚醒することがないままで、いわば凍結された状態におかれ続ける人格部分があると言うことは、それがその人の精神の安定にとって害のない、あるいは場合によっては重要な事情があるのであろう。
 私がここで何を言わんとしているかといえば、この事情が、トラウマ記憶が多くは「扱われ」ずにいてもいい、あるいは「扱われ」るべきではないということの、解離の文脈からの根拠である。人はさまざまな外傷性のインパクトを持った経験を過去に積み重ねている。しかしその多くは忘却されていく。解離性の方々の場合、それぞれのインパクトがちょうど月の表面に出来た無数のクレーターのように、人格の形を取って刻印されていくのであろう。しかしその多くは静止し、昏睡状態に移行する形で事実上心の表舞台から姿を消していくのである。
もちろんほっておいて、忘れていいのか、というような人格部分も存在する。おそらくDIDの方々や、もちろん臨床家も一番恐れている「黒幕人格」である。(実はニュアンスとしては「黒っぽい人格」の方がより近いかもしれない。しかしここは彼らに敬意を払う意味で、黒幕人格、とする。)黒幕さんは眠っていても、その存在から周囲に畏れられる。彼が出てくると大変なことが起きる。人を傷つけ、自分も傷つく。ずいぶん前に一度出てきたらしく、この腕の深い傷はその時のものだ、というよう話も聞く。臨床家もDIDの方々とのメールのやり取りで、稀にではあるが畏れ多いメッセージ(たいていは短文)をいただいたりする。
 さて黒幕人格は、おそらくトラウマの最深層と関係している可能性がある。ある意味ではそのDIDの方の持つ病理の核心部分と言ってもいい。しかし黒幕を直接扱うことのメリットは不明である。というよりおそらく事実上扱えない。
 何度か書いたことだが、米国にいた時、患者の中に男性の元プロレスラーのDIDの方Mさん(40歳代)がいた。雲を突くような大男だが幼少時に深刻な性的虐待を体験している。Mさんは二度ほど黒幕人格が出現したという。一度は車の運転をしていて、ふとした事故から助手席にいた自分の妻に危害が及びかけた時。向こう側の運転手を引きずり出して半殺しにしたというが、もちろん彼は覚えていない。もう一度は、プロレスの試合中に相手がかなり悪質な反則行為をしたらしい。その時も相手を半殺しにしたという。しかし普段はこれほどやさしい男が居るのか、と思うほど繊細な男性であった。私とMさんはとてもうまく行っていたが、それでも一対一の診察の時に、深刻な話は出来ないな、とふと不安になったことを覚えている。
 Mさんの黒幕さんの場合、もちろん二度と出てこないことを祈る。彼にとっても周囲にとってもその方が平和だ。それに黒幕さんが賦活されるのは、余程彼にとって深刻で外傷的な事件が起きた場合に限るらしい。そうだとしたら、それが起きない方がいいに決まっているのだ。
 私は黒幕人格の事を考える際Mさんの事をまず考える。彼の場合黒幕を扱えないのは、彼が大男で、暴れ出したら周囲を巻き込むことが必至だから、技術的にそれを扱うのは無理だ。それでは体格的に彼ほどではなく、より安全に扱える人の場合は、入院などの安全な環境で黒幕さんを扱うべきか? おそらく否であろう。ただしその黒幕さんがしばしばその人の生活に姿を現して、その人の生活に支障をきたしていないならば、である。
解離性障害の治療における「寝た子は起こさない」
黒幕人格に対する対処の仕方は、私が解離性障害の治療の際に頻繁に用いる「寝た子は起こすな」という表現へと導く。寝た子、などというとDIDの人格の方々に失礼かもしれないが、このようないい方がわかりやすい場合が多い。解離性障害の場合、人格部分がその人の通常の生活にしばしば顔を出してそれが日常生活上の支障を来たすようでなければ、触れないでおくべきだという原則だ。これはトラウマの記憶ということにさかのぼって考えると納得がいくことだろう。トラウマの記憶がもう全くよみがえってくることはないにもかかわらず、「しかしあれは自分にとって非常に重大な出来事だったから」とそれを思い起こそうとするだろうか?
 ただしここで即座に「そんな必要はありません」とも言えない事情もある。実はここは微妙な問題なのだ。精神分析家だったらこのように考えるかもしれない。
「いや、それは意識的に思い出さないだけで、本人はそれを抑圧しているということです。無意識はそれを記憶している訳であり、その何らかの影響はその人の日常生活に及んでいるはずです。その人が本当の意味で過去のトラウマから自由になるためには、それを想起する必要があるのです。」このロジックに根拠がないと言い切れる人はいないはずである。だから精神分析と解離理論の対立はある意味では不可避的なのだろう。
トラウマに直面すること
以上トラウマを忘れることについて書いた内容は、必然的にそれと逆の方向、すなわちトラウマに直面することについての議論も含んでいることに気付かれよう。トラウマについての記憶がフラッシュバックの形で頻繁によみがえる場合、トラウマを思い起こさせるような場所や事柄をいつの間にか避けている場合、そしてそれが日常生活に支障をきたしている場合である。この回避行動は実際に行動レベルで知らずに起きるということがある。例えば自分がトラウマを受けたと感じる人に出会う可能性のある場所に向かおうとしても、足が動かなくなってしまう、気分が悪くなる、など。
ただし回避行動が顕著だからといってトラウマを扱わなくてはならないかといえば、必ずしもそうではないだろう。例えば会社でパワハラに遭った際に、その会社にはもう行けなくなったとしても、転職が可能であればとりあえず問題はないことになる。もしその会社にこれからも勤め続けなければならないような境遇にあるとしたら、その会社で起きたトラウマを扱わなくてはいけなくなるかもしれないが、そのトラウマの生じた場所に永遠に足を踏み入れなくて済むのであれば、もちろんそちらを選択するべきである。
 ここら辺の理屈は、恐怖症への対処ということとも絡んでくる。例えば高所恐怖の人が、高いビルなどない田舎暮らしをした場合は、それに対処する必要はないだろう。「治療」は不要なのだ。しかし都会生活を続けるとしたら、ビルの高層にある場所に行くたびに怖い思いをしなくてはならなくなる。その場合はそれを直すための治療が必要になる。このように治療の必要性は相対的なものだ。解離性障害の場合も同じように考えればいい。黒幕さんが姿を現さない限りはそれを扱う必要はない。しかしそれが日常生活に支障をきたすなら、扱うしかない。(何か当たり前のことばかり書いている気がするが。)
 ただしそれをどう具体的に扱うかについては非常に難しい問題をはらんでいる。過去の外傷体験を想起することが、再外傷体験につながることもある。すなわちそれによりまた生々しくその記憶が再現するようになる可能性がある。ただしここで理屈上は、と但し書きを付けておきたい。
私の臨床経験からは、過去の外傷記憶について聞き出すことで、その日から再びフラッシュバックが起きるということは実は一度も経験していないのだ。「寝た子を起こすべきではない」とは言うものの、「寝た子はなかなか起きない」し、「おきてもまたすぐ寝てしまう」というのが私の考えである。少なくとも寝た子が起きた原因が深刻なトラウマ体験であったとしたら、それは新たなPTSDの発症と考えたほうがいいであろう。安全な治療室で過去のトラウマを想起してもらっても、それがもとで再びフラッシュバックが起きるということは普通はないのだ。
 

2014年12月30日火曜日

最新の解離(20)

東京は12月の末にしてはとてもいい陽気である。

11)解離性障害をいかに治療するか?(総論)


解離性障害は、記憶、知覚、運動、情動などの心身の諸機能の一部が一時的に欠落したために、心身の統合された機能が失われた状態である。そしてその治療の最終的な目標は、患者が「統合された機能を獲得すること」9)と言えよう。しかしそれは必ずしも容易ではなく、そのための治療のプロトコールや用いるべき薬物が現在の精神医学において定まっているわけではない。治療の基本のひとつは、安全な環境を提供しつつ、その個人の持つ自然治癒力による回復を促すことである。解離症状の多くがトラウマや深刻なストレスをきっかけとして生じている以上、それらに関する記憶を扱うことが時には必要となるが、そこに治療者の個人的な好奇心や治療的な野心が働いたり、治療自体が結果的に再外傷体験となるような事態はできる限り回避しなくてはならない。また筆者の体験からは、治療者が解離症状に無理解で、それを当人の演技とみなしたり疾病利得を疑ったり、場合によっては詐病と決めつけたりすることによる二次的なトラウマを多くの患者が体験しているのも事実である。
紙数の関係もあり、本稿では臨床上特に問題となることの多いDIDDFに限定してその治療論について述べたい。

1DIDの治療

 治療目標

以下に特に DID 治療について論じるが、その最終目標も上述の解離性障害一般における統合された機能の達成であることに変わりない。しかしDID には異なる人格部分の存在という特殊事情がある。心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格部分の言動についても、たとえそれに関与した自覚や記憶がなくても、患者はその結果について責任を負わなくてはならない。そのことを個々の人格部分が受け入れるのを助けることは、治療者の重要な役割である。
他方で治療者は、個々の人格部分の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。それぞれの人格部分には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、特定の人格部分をえり好みしたり、無視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。
なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に別の人格部分を作り出すことを示唆したり、名前のない人格部分に名前を付けたり、現在の人格部分が今以上に精緻化され、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されるが、それには根拠がある。人格部分の精緻化や新たな出現、ないしはそれらの消退は、その患者個人の体験するライフイベントに影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には十分な治療的な根拠が必要であろう。個々の人格部分のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、以前ほど治療手段としての意味が与えられていないのも事実である。かつてPutnam19)は、把握しうるすべての人格部分と会い、治療についての契約をそのすべてと交わす必要があるとした。ただし人格部分との出会いが、治療の進展により必然的に生じるのであれば問題ないものの、眠っている人格部分を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。
治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の帰結は交代部分間の調和であるが、それは特定の人格部分の消失を必ずしも意味しない。ただし調和が、かつて存在が確認されたすべての人格部分の共存により達成できない場合もある。
 治療者は人格部分の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的に孤立していることなどである。
DID を持つ患者のかなりの部分は、大きなストレスがない保護的な環境に置かれることで、ある種のきっかけにより比較的急速に人格部分の出現がみられなくなり、「自然治癒」に近い経過をたどることが観察される。華々しいDIDの症状を見せる症例が10代後半から30代に比較的限定されるという事実からも、このことが推察される。ただしそのような例でも多くが長年にわたり心の中に人格部分の存在を内側で感じ続けたり、時折幻聴を体験したりすることが報告されている。

 治療の各段階
以下に主としてDID の個人療法について3つの段階に分けて論じる。
1段階 安全性の確保、症状の安定化と軽減
治療の初期には、異なる人格部分の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、患者に安全な環境を提供しつつ、表現の機会を求めている人格部分にはそれを提供し、それらの人格部分のいわば「減圧」を図ることも必要となろう。治療者は患者とともに、別の人格部分により表現されたものを互いに共有するための努力を払う。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が求められよう。

2段階 主要な人格部分が解離以外の適応手段を獲得することへの援助
人格部分の入れ替わりや、子供の人格、攻撃性を持った人格の活動が落ち着いた時点で、治療の第2段階に入る。主人格、すなわち主として生活を営む人格が定着し、主人格との治療関係性が深まる。それとともに主人格が幅広い感情を体験できるようになり、過去のトラウマについての記憶も、人格交代を起こすことなく想起出来るようになる。(ただし主人格の日常生活への定着を図ることには、時には困難が伴い、二、三の人格部分の共存や競合が避けられない場合も少なくない。その場合は治療の目標はいかにそれらの人格部分が平和的に共存していくかについての検討となり、いわばグループ・ワークの様相を呈することもある。)

3段階 コーチングと家族相談の継続
順調に治療が進み、回復へのプロセスを辿った場合、頻回の治療は徐々に必要がなくなっていくであろう。しかし隔月等に定期的にセッションを設け、状態の改善具合や家族との関係についてのコーチングを継続することの意味は大きい。また患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となろう。
 DID の患者がどのような家族のサポートが得られるかは、予後を占う上で非常に重要な問題である。DID の症状の深刻さは基本的には日常的な(対人)ストレスのバロメーターと言えるであろう。有効な治療を受けていても、家庭内暴力が日常的に生じている家庭に患者が戻っていくのでは、その効果は半減してしまうだろう。また患者の同居者が一度は治療的な役割を担っても、早晩その自覚を失ってしまう可能性もある。その意味では同居者を伴った継続的な受診は、よい治療環境を維持する効果を持つ。

ちなみに我が国で著されたDID の治療論としては、安克昌のそれには一読の価値がある2)。安は Richard Kluft10)の示した治療の9段階に沿って治療論を展開する。治療者は患者にかつて生じた外傷体験を一つ一つ除反応 abreact していくことにより、記憶の空白が埋められて行き、それにより次の段階の統合-解消 resolution へと向かう。この段階説は、治療論として高い整合性を持つものの、臨床的な現実とやや齟齬があるという印象を受ける。DID の治療においてしばしば遭遇されるのは、多くの、あたかも「自然消滅」していくかのような人格部分の存在である。それらの人々がことごとく過去の外傷体験についての除反応を経たとは考えにくい。DID の治療は多くの偶発的な出来事に左右され、治療者の思い描く治療方針通りに進まないことが多い。治療者は患者の身に降りかかるライフイベントや人格部分の予測可能な振る舞いに対応しつつ柔軟な姿勢を失わないことが重要であろう。
安(VI.解離性(転換性)障害 B診断と治療 臨床精神医学講座5 神経症性障害・ストレス関連障害 中山書店 pp.443470)は今となっては歴史的な意味合いの大きいリチャードクラフトの治療論を基盤とし、きめ細かな配慮を見せつつ治療論を展開する。彼は治療段階を9段階に分けている。これは実はクラフトの9段階に分けた治療論を展開していて、安先生は見出しも同じにして解説している。)第1段階。精神療法の基礎を築く。
2段階 予備的介入 第3段階 病歴収集とマッピング 第4段階 心的外傷の消化 第5段階 統合-解消への動き 第6段階統 合-解消 第7段階 新しい対処技術の学習 第8段階 獲得したものの定着化とワークスルー 第9段階 フォローアップ となっている。
私はクラフトの理論を歴史的、と言ったが、「精神分析的」と言い換えてもいいようなところがある。たとえば第4段階の心的外傷の消化、とは要するに患者にかつて生じた外傷体験を一つ一つ徐反応 abreact  していく、とある。それにより記憶の空白が埋まっていき、それにより次の段階の統合-解消resolution へと向かう。それは理屈ではそうである。しかしあまりにも理想的すぎるというのが私の偽らざる印象である。解離性障害の治療経験が重なるにつれて尊重されなくてはならないのは、たくさんのあたかも「自然消滅」していくかのような人格部分の存在なのである。彼女たちの多くにとっては、異なる人格が存在しなくなるわけではないが、それらは日常生活にあまり姿を現さなくなるのだ。そしてそれらの人々がことごとく過去の外傷体験についての徐反応を起こしているとは思えない。このように考えるとやはり安氏が今ご存命なら、私の意見に少しは同調していただき、9段階説を若干書き直していただけるのではないかと思うのである。


 グループ療法
これまでの記述は個人療法に関するものであったが、DIDの患者を対象とする均一グループによる治療も治療的な意味を持つ。ただし患者はほかの患者が語る過去のトラウマの体験に対して非常に敏感に反応し、フラッシュバックや人格の交代が誘発される場合が多い。またそれぞれの患者が持つ複数の人格部分同士の言語的、非言語的交流というファクターを考えた場合、治療者の側の扱える範囲を超えた力動が生じる可能性がある。ある意味ではDIDの治療はたとえ一人の患者を扱っている際もそれが一種のグループ療法としての意味合いを持っていることになる。そこで個人療法がある程度ペースに乗り、治療の第3段階を迎えた際に初めて本格的なグループ療法が可能であると考えられる。

 入院治療
患者の自傷行為や自殺傾向が強まった場合、ないしは人格の交代が頻繁で本人の混乱が著しい場合などには、一時的な入院治療の必要が生じるであろう。入院の目的としては、患者の安全を確保し、現在の症状の不安定化を招いている要因(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)があればそれを同定して取り扱い、外来による治療の再開をめざすこと等があげられる。
解離性障害の入院治療の意義としては、病棟による安全性が保たれることで、患者の退行を懸念する必要も少なくなり、より踏み込んだ治療が行える可能性が生まれることがあげられる。外来治療においては特定の人格部分のまま治療を終える事が出来ない場合、実質的にその人格部分を扱う時間は非常に限られるが、入院治療においてはその限りではない。また入院中に家族を招いてのセッションなどが可能な場合もあろう。
現在の我が国の精神科病棟での解離性障害の治療の在り方を考えた場合、その治療の多くが短期間の安全の提供や危機管理、症状の安定化に限られる傾向にある。しかし長期の入院の期間が経済的その他の理由で可能であれば、外来において注意深くトラウマ記憶を扱ったり、攻撃的ないしは自己破壊的な人格部分に対応したりすることもより可能となる。またトラウマや解離性障害を治療するような特別の病棟がある場合にはなおのこと、治療効果を発揮するであろう。

2DFの治療

DFに関する治療指針は十分に治療者の間で合意を得られたものはない。患者はそれまでの記憶を失なった状態で発見され、警察に保護されたり救急治療室に搬送された後に、精神科への入院となるケースが多い。そこで身体疾患を除外するための様々な検査を経るのが通常であるが、比較的特徴ある臨床経過のために比較的スムーズにDFとしての診断にいたることが多い。ただしいったん診断が定まった場合は、特別な治療的介入が行われることなく経過観察のために数週間が費やされることが少なくないようである。しかしDFの患者の多くは際立った神経学的な特徴もなく、一定期間の記憶を失ってはいるものの、その多くは早晩日常生活に戻れる状態にある。
 治療者は外来においては、患者が日常生活に戻るために必要な情報の再学習を援助し、また遁走にいたった契機となった可能性のある社会生活上のストレス因について探索し、それを回避することを助けることが望まれる。患者は基本的にはエピソード記憶以外の記憶(手続き的記憶、スキルそのほか)を保持しているため、その早期を含めたリハビリテーションも有効な治療となるであろう。
筆者はDFの患者を対象として、心理士と協力して生活史年表を作成する試みを行っている。患者は記憶を失った期間の自分の行動のうち外部から情報を得られる分を集め、その期間に身の回りに起きた出来事や社会現象、話題を集めた歌曲や文学作品、映画やテレビ番組などを学習することで、社会生活に復帰した際のハンディキャップを軽減することが出来るであろう。ただしそれらの努力により健忘していた期間の記憶が突然よみがえることは少なく、そのため記憶の想起を第一の治療目標とするべきではないであろう。

おわりに


以上本稿では解離性障害の診断から治療まで足早に論じた。解離性障害はそこに転換症状まで含めた場合にはきわめて裾野の広い障害であり、限られた紙数で包括的な議論をすることは不可能であるために、DIDDFに偏った記述となった。
 わが国ではまだ解離性障害は臨床家の間でなじみがなく、その治療法も確立していない。しかしその治療の原則の一つとしては、そのほかの精神障害と同様、治療関係において安全を確保しつつ、本人の自己治癒力を最大限に引き出すことにある。今後より多くの臨床家がこの障害についての知識を深め、誤解と偏見を排することで治療効果を一層期待できるものと考える。
 なお、本論文に関連して開示すべき利益相反はない。

2014年12月29日月曜日

最新の解離(19)

4) 「PTSDの解離タイプ」という概念
従来のDSMにおいても、解離性の症状が扱われる精神障害は解離性障害以外にもあった。それらはASDBPD(診断基準の第9項目)、身体表現性障害などであった。しかし以前よりPTSDに見られる諸症状も解離性のものとしてとらえるべきではないかという議論は多くあった。今回のDSM-5では一歩踏み込んで、PTSDの下位分類として「解離タイプ」という診断が提示されているのでこれについても特別に述べてみたい。
PTSDには二種類ある、という理解は最近のPTSD研究において特に生物学的な所見によりその正当性が認識されるにいたったという印象がある。このように数値化された形でタイプ分けがなされるのには大きな意味がある。ある研究においては、トラウマを体験した人々にその記憶を語ってもらい、それを録音したものを聞かせている間の脳をMRIでスキャンしたという。すると約70%の患者は心拍数の増加を見せたのに対して、残りの30%の患者は離人体験や現実感喪失体験と共に、特に心拍数の増加を見せなかった(10)。つまりおなじPTSDの診断が下った患者でも、かなり両極端な生物学的な所見を示す二つのグループに分かれるという発見があったのである。
 そこでまずこの解離タイプの定義であるが、DSM-51)ではまずPTSDの診断基準を満たし、なおかつ以下のA1, A2, あるいは両方の症状を継続あるいは頻発する形で経験するものとされている。
A1.
離人症:自身の心的経過や身体に対して距離があり、あたかも外から眺めているような感じ(夢の中にいるように感じる、自身やその身体を非現実的に感じる、時間がゆっくり進んでいるように感じる、など)。
A2.
現実感喪失:周囲に対する非現実感(周囲の世界を、非現実的、夢の中のよう、遠くにあるみたい、歪んでいる、などと感じる。)簡単に言えば、PTSDの症状を示し、かつ解離性障害のうちすでに 1)で見た「離人・現実感喪失障害」を満たす障害ということになる。

  PTSDのサブタイプとして解離タイプを考える根拠は4つほどあげられるという(11)。第1には、ある研究でPTSDの患者を調査し、taxometric analysis (分類分析)を行ったところ、戦争からの帰還兵と一般市民について、離人感と現実感喪失体験を特に症状として持つ人々のサブグループが抽出されたという事実。第2にはPTSDの認知行動療法において、解離タイプはそれ以外の患者と異なる反応を示すという所見。第3には解離タイプのPTSDの患者には、それ以外とは異なる情動コントロールのパターンが見られるという事実。そして第4には、このサブタイプを考案することで、疫学的、神経生物学的な研究、精神病理学、診断学についての様々な研究を加速させる効果があるということである。
このうち第3の生物学的な所見については、そこから第一次解離と第二次解離という分類が生まれたという(12)。
 第一次解離とは、再外傷体験やフラッシュバックなどが生じ、感覚的な記憶内容の意識野への侵入が生じている状態である。その際に内側前頭皮質と前帯状回の活動の低下が生じる。これらの部位は感情の調節をつかさどることが知られている。そして同時に起きるのが辺縁系と扁桃体の活動昂進である。この前頭前野と扁桃体の活動はシーソーのような関係があると見ていいであろう。前頭前野は扁桃体を抑える働きがあり、前者の活動が低下する場合には、扁桃体の抑制が効かず、野放し状態になるのである。そして第二次解離はちょうど第一次解離と逆の事態が生じている。すなわち内側前頭皮質と前帯状回の活動の昂進と、扁桃体の活動低下が生じることになる。ちなみにこの脳科学的な所見とも関連した解離の理論は「皮質辺縁系抑制モデル corticolimbic inhibition model と呼ばれる。
この第一次、第二次解離という分類に従えば、この第二次解離というのが解離タイプのPTSDに相当する「本来の」解離ということになる。一般的にいう解離はいわば感情がシャットダウンしている状態と言える。ある研究によれば、CADSS (Clinician-Administered Dissociative States Scale)13)という解離症状のスケールを用いて患者のうち高いスコアを示す人に侵襲的な刺激を与えると、腹側前頭皮質が高い活動を示したという。つまり恐ろしい話や刺激を与えられた場合、解離を用いる人々は、感情をつかさどる部分(扁桃体など)が自動的にシャットダウンを起こし、それが臨床上は解離症状となるということだ。
 ちなみにこのPTSDの解離タイプは、いわゆる複雑性PTSDComplex PTSD, 以下CPTSDと記載する)の概念ともつながっている可能性があると筆者は考える。CPTSDHerman, J (14) の提出した概念であり、幼少時ないしは長期にわたる外傷体験をもとに発症し、多彩な解離症状や悲観的な人生観や人間観を背景とする対人関係上の特徴を主症状とするが、DSM-5にも収められてはいない。しかし事実上この「解離タイプのPTSD」がそれを肩代わりしているということではないだろうか?解離症状が特徴的であり、幼少時の慢性の外傷を基盤とするところが、両者では共通しているからである。
5)転換性障害の扱いについて
 最後に、転換性障害の今後の扱いについて述べたい。転換性障害がICD-10 (15)では解離性障害と一括して分類される一方では、DSMにおいては解離とは別個に記載されているという問題は、従来種々の議論を読んでいた。この件がDSM-5によってどのように扱われているかについては、多少なりともここで論じておくことに意味があるだろう。今回のDSM-5でも結局は転換性障害は解離と一緒になることはなかった。
 これに関するŞarらのトルコでの研究によれば、38人の転換性障害の患者をSCID-DSDQ-20等のテストにより調べたところ、48%が解離性障害の診断を満たしたという。ただし不安障害や身体表現性障害にはより高い相関を示し、少なくとも転換性障害と解離性障害がオーバーラップした障害であるとはいえなかった(16)。また同じくトルコにおける別の研究では、転換性障害のうち解離性障害の基準を満たしたのは30.5%であったという。
これらの研究が示していることは、解離性障害と転換性障害は同一の疾患の別の表現形態というよりは、同類の、しかし性質の異なる病理である可能性が高いということだ。これらの両方を含めて解離と呼ぶか、あるいは一方を解離、もう一方を転換性障害と呼び続けるべきかについてはさまざまな議論があろう。しかし最近の「構造論的解離」理論にみられるような分類、すなわち精神表現性解離と、身体表現性解離という分類が適切と考える識者も多い。すなわちストレスが解離を生んだ場合、それを精神面の症状として表現されたもの(狭義の解離)と身体面の症状として表現されたもの(転換症状)に分けるという考え方である(17)。

以上DSM-5に見られる解離性障害の診断基準についての解説を加えた。解離性障害についての理解や臨床研究の最近の進歩が、この様な診断基準の変更の背景にあるということを示せたと思う。本論文は解離性障害の理解の変遷について述べるのがその趣旨であったが、DSM-5関係の記述だけで紙数が尽きてしまったのが残念である。


参考文献

2014年12月28日日曜日

最新の解離(18)


10DSM-5における解離性障害(または「解離症」?) 
              
解離の最近の流れについて紹介する際は、2013年に発刊された米国の精神科診断基準DSM-5DSM-5 (1) における解離性障害の位置づけについて論じないわけにはいかないであろう。言うまでもなく、解離性障害は、1980年に米国で刊行されたDSM-III2)において、従来のヒステリーの呼び名を離れて新たに認知されることとなった。しかしそれから30年以上を経ても、本障害は臨床家によってさえも十分に受け入れられずにいるという印象を受ける。それはわが国だけでなく、欧米でもその事情は同様であるという(3)。それはDSM-5による解離性障害の新しい定義や診断基準によりどのように変わる可能性があるのだろうか?
解離性障害の位置づけや分類を考える上で大きな問題となるのが、それとトラウマの関連である。従来のDSMには、記述的でありかつ疫学的な原因を論じないという原則があった。これが例のDSMの「atheoretical 無理論的」という方針であり、解離性障害とトラウマとの関係については、明確には示されていなかったという事情がある。
しかし今回DSM-5の作成段階 において、「トラウマとストレス因関連障害 Trauma and Stressor-Related Disorders」という大きなカテゴリーが作られた際、そこに心的外傷後ストレス障害(以下PTSDと記載する)、 急性ストレス障害(以下ASDと記載する)、適応障害とともに解離性障害を含む計画があったという(3)。最終的には解離性障害はこの「トラウマとストレス因関連障害」の中には組み込まれなかったが、そのすぐ後に独立して掲載されることで、両者の概念的な近さが表現された形となっている。
ちなみにDSM-5における「トラウマとストレス因関連障害」という大きなカテゴリーについては、それ自体が従来のDSMの、記述的で無理論的、非病因論的な方針からの大幅な転換を意味しているといえるであろう。そして解離性障害がなぜ最終的にこのカテゴリーから除外されたたかについては、やはり解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関係していたと考えられる。ただしこの問題は、最終的にはこのカテゴリーに属するPTSDに「解離サブタイプ」が新設されたことにより一種の妥協策が取られたという見方もできよう(後述)。
 ここでDSM-5において解離性障害の診断基準にどのような変更が加えられたかについてその大枠を示すならば、以下のような項目にまとめることが出来る。

1)「現実感喪失体験」が離人体験と一体となったこと。すなわちこれまでの「離人性障害 depersonalization disorder」の代わりに、「離人・現実感喪失障害depersonalization/derealization disorder」として提示されたこと。
2
)「解離性遁走 dissociative fugue」が、これまでのような独立した診断ではなく、「解離性健忘 dissociative amnesia」の下位分類として位置付けられたこと。
3
)「解離性同一性障害」の診断基準が若干変更されたこと。特に人格の交代のみならず、人格の憑依 possession もその定義として含まれるようになったこと、など。
 以上はいずれも解離性障害の本質部分にかかわった変更とは言えず、全体としてはその診断基準は従来と大差ないと言えるであろう。ただしここに解離性障害のセクション以外での変化についても言及すべきであろう。それが
4
PTSDの下位分類としてPTSD解離タイプが挙げられたこと、である。
なおDSM-5の日本語版()が作成された段階で、私たちはこれまでの「障害」に代わって、あるいはそれと並置される形で「症」という表現を目にすることとなった。解離性障害についても、「解離症」という呼称が並んで示されている。これは解離性障害に限ったことではなく、すべての disorder に原則的にあてはまるが、日常的にこのタームを用いる臨床家諸氏にとっては、この「解離症」という耳慣れない呼び方も少なからず影響を及ぼすことになっているといえよう。以下にこれらの点について簡単に概説する。

1)離人・現実感喪失障害について 
離人・現実感喪失障害においては、自分の体(離人体験の場合)や周囲の現実世界(現実感喪失体験の場合)に対して、通常では感じないような距離が出来てしまったという奇妙な感覚が体験される。従来のDSMではこれら二つを個別に扱っていたが、DSM-5では同時に生じる一つの体験とみなすことになった。この離人・現実感喪失障害という障害単位を設けることでそれ以外の解離性障害との差別化が図られることになるが、それは以下の二点においてであるという(4)。一つは、同障害では記憶やアイデンティティの解離ではなく、「感覚の解離」が主として生じていること。もう一つは同障害が、そのすぐ直前のトラウマの体験への反応として生じることである。
 ちなみにこれに関連して、トラウマ体験に対する解離反応には基本的には3つのタイプが考えられるという。それらは
①そのトラウマから身を引き離す反応(離人・現実感喪失障害のことを指す)、
②トラウマを忘れてしまう反応(解離性健忘を指す)、
③現在の自分のアイデンティティから記憶を分けてしまうという反応(DID,解離性のフラッシュバックを指す)。

この離人・現実感喪失に関しては、その生物学的特徴が得られている事も、この障害の独自性を支持していることになる。それは a. 後頭皮質感覚連合野の反応性の変化、 b. 前頭前野の活動高進、 c. 大脳辺縁系の抑制、である(5)。(ちなみにこれらの所見は、後に述べるPTSDの「解離サブタイプ」と基本的には重複する内容である。)
 また離人・現実感喪失についてはHPA軸(視床下部―下垂体-副腎皮質軸)の異常も見られるという。すなわちHPA軸の過敏反応(高いコルチゾールレベルと、フィードバックによる抑制の低下)のパターンを示すということだ (6)。(参考までにうつ病やPTSDは逆に鈍化したHPA軸の反応パターンを示すとされる。)このような研究結果から分かる通り、離人・現実感喪失障害がクローズアップされた背景には、この大脳生理学的な所見がみられることが大きく働いているようである。
ちなみにDSM-5をざっと眺めて気がつくことは、従来細かく分類される傾向にあった精神障害の壁を思い切って取り払い、大きな枠組みにした部分が見られるということだ。統合失調症で伝統的に分類されていた緊張病型、妄想型、破瓜型といったタイプの消失、自閉症スペクトラム障害の中のアスペルガー障害、レット症候群、小児期崩壊性障害といった細かい分類の消失といった例が見られる。おそらく疫学的な研究とともに、それらのカテゴリーを維持するだけの根拠が見出せなくなり、むしろそれらに特徴的とされた病像も、個人間のバリエーションとしてとらえるべきであるという意見が多数を占めるようになったのではないかと推察される。離人性障害と現実感喪失障害を合わせるという方針もそのような「細かい分類を排する」というDSM-5の特色を反映しているものと思われる。

2) 解離性遁走の格下げ
解離性遁走はDSM-IVまでは独立した障害として解離性障害の中に掲げられていたが、DSM-5からは心因性健忘のサブタイプとして分類されることになった。その定義は、それまでの「突然の予期しない、自宅ないし職場からの旅立ちsudden, unexpected travel away から「一見目的を持った旅立ちやあてのない放浪 apparently purposeful travel or bewildered wondering」という、より具体的な表現にかわっている。また解離性遁走のサブタイプへの「格下げ」については、遁走の主症状が目的もなく旅をすることよりはむしろ健忘そのものであるということ、新しいアイデンティティを獲得することや混乱したままでの遁走などは常に存在するとは限らないこととされる(4)。さらにDSM-5のテキスト本文によればこの解離性遁走そのものが、DID以外にはまれであることなどが挙げられている。
 ちなみに筆者の経験では、心因性遁走は、男性の患者に特に多く見られ、その一部がDIDと重複しているという印象を受ける。言うならば解離性遁走は男性に現れやすいDIDの表現形態ではないかと思うほどである。そのためにこの「格下げ」については筆者は多少なりとも違和感を持っていることを付け加えておきたい。
別の章でも述べるとおり、解離状態にはいわばリミティブな意識状態のモードが存在し、そこへの回帰が時々原因不明ながらも起きるのではないかと考える。そしてその状態においては放浪する、目的も不明で歩き回るということが一つの特徴ではないかと私は考える。その意味では解離性遁走を独立の疾患単位としては立てずに解離性健忘の下位におくことには私は違和感を覚えるのだ。

3) 解離性同一性障害の診断基準の変更
解離性同一性障害(以下DID) の診断基準にもいくつかの変更が加えられた。DSM-5DIDの診断基準のAは次のような文で始まる。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TR (7) で同所に相当する部分にはこの憑依という表現は見られなかった。)またAの最後には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」とある。つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の報告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)さらに診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)

以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は、人格の交代とともに、憑依体験もその基準に含むこと、人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということを明確にしたこと、健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、の三点となる。
 憑依体験がDIDの基準に加わったことについては説明が必要であろう。シュピーゲル (4) はこれについて「病的憑依においては、異なるアイデンティティは、内的な人格状態によるものではなく、外的な、つまり霊、威力、神的存在 deity、他者などによるものとされる。」と説明している。そして「病的な憑依は、DIDと同様に、相容れないアイデンティティが現れ、それは健忘障壁により主たる人格から分離されている。」とも述べている。ここで「病的憑依」と断ってあることには、健忘障壁のない憑依は必ずしも病的ではないという含意がある可能性がある。
 
ちなみに従来のDSM-IV-TRでも憑依についての記載がなかったわけではないが、それはDDNOS (他に分類されない解離性障害、以下DDNOSと記載する) の下位の「解離性トランス障害(憑依トランス)Dissociative Trance Disorder (possession trance)」というカテゴリーの例として挙げられていた(7)。それによると憑依トランスは「おそらくアジアでは最もよくある解離性障害である」とされている。そしてそれらの例としてAmok (インドネシア), latah (マレーシア), pibloktoq (北極圏) などが挙げられた。これらがいわゆる文化結合症候群としても従来記載されてきたことは言うまでもない。
 じつは臨床上も「霊にとりつかれる」という形の体験はしばしば患者から聞かれる。それが解離と区別されるべきかの説明を求められた際に、筆者は時々答えに窮することがあったが、今回DSM-5であっさりと、DIDを「人格部分や憑依体験によるもの」と認められたことで、この件に対する回答の仕方は一応明快になったわけである。ただしこの変更にはある種の政治的な意味合いも含まれているようである。というのも世界には解離現象が、他人格への交代としてよりはむしろ、外的な存在や威力が憑依された体験として理解され説明される地域が少なくないからである。シュピーゲル (5)によれば、病的憑依の報告は世界の多くの国で報告されているという。それらは中国、インド、トルコ、イラン、シンガポール、プエルトリコ、ウガンダなどにわたる。このようにあげると何か発展途上国が多いという印象だが、米国やカナダでも、一部のDIDの患者はその症状を憑依として訴えるという。そこでDIDを憑依現象を含みうるものとして定義することで、より多くの文化に表れるDIDをカバーすることになるのだ。
 この憑依としてのDIDに関して、いくつかの少し具体的なデータも示されている。トルコの資料では、35人のDIDの患者は、45.7%が ジン(jinn、一種の悪魔)の憑依、28.6%が死者の、22.9%が生きている誰かの、22.9%が何らかのパワーの憑依を訴えたという(8)
 
ちなみにDIDの基準に憑依を含み込み、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは、もう一つの次のような事情があるという(5)。それは解離性障害の診断の特徴は、非常にDDNOS(ほかに分類されない解離性障害)が多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それがDSM-5の編集者にとっては受け入れがたいという事情があった。それはそうであろう。分類をしようとしても、「その他」が4割も出てしまっては、分類の意味が余りなくなってしまう。
 解離の世界では一部の間に、DIDの診断を下すためには、治療者が人格の交代が目の前で起きるのを見届けることが必要であるとの了解事項がある。しかし他方では多くのDIDの患者は最初は警戒して治療者の前に姿を現すことが少ない。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。そこでこの了解事項を撤廃するような診断が新たにDSM-5では考案されたわけである。
 ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
 これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという方針である。ただし両者は決して互いに排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。これに関連して Colin Ross9)はある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、「憑依された」という感覚を訴えたという。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な背景ということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは南アジアのいくつかの文化圏、ないしはアメリカではある種の原理主義的な宗教の信者たちなどである。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依タイプのDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとしてしばしば選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)である。
 ただしこの点に関して シュピーゲル先生は重要なことを述べている。それは憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実の出来事ではないということだ (4)。それは非・憑依タイプにおいて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
 ここで筆者自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。筆者の担当するある患者は、悩みを抱えて相談を持ちかけた人に「神が憑いている」と言われてから初めてそれを実感するようになったという。別の患者はDIDの発症が、「あたかも背中から誰かに強引に侵入された」という感覚を伴っていたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
 ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、これまで憑依として扱われていた患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくその可能性は高いであろう。そして従来は憑依を訴える患者に対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。また逆に、憑依状態を示すDIDの患者を「浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。
 これもシュピーゲル (Spiegel, 4)によれば、民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療に似ていて、実際に多くの患者の助けとなっているという。そこでは異なる人格状態に発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、症状の悪化を招きかねないという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や症状の悪化による入院が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちに正しい治療をおこなうことにより、症状が改善すると述べている(4)。