「自己愛と恥について」 (4)
私が特に「自己愛トラウマ」という造語をここに出し、この本に「あいまいな加害者」という副題を付けたのは、この自己愛に対する傷つけを起こすような体験、すなわち「自己愛トラウマ」が実は極めて厄介な問題を抱えていることを主張したかったからだ。ここでその論旨を再びたどるならば、何が自己愛の傷つきとして体験されるかは、きわめて予想しがたく、個人差が大きいという問題がそこにある。私はそれを、たとえばアスペルガー障害における不当なまでのプライド他人への期待値の高さと被害的な傾向に関して論じた。
たとえば「浅草通り魔事件」では、犯人は女性を追いかけて声をかけたところ、驚いた顔をされたのでカッとなったという。秋葉原事件で、KTはケータイの掲示板への自分の書き込みに誰も返答してくれなかったことで自暴自棄になった。これらも広義の自己愛の傷つきによる憤怒と考えられるが、このような反応の大半は周囲の人間には予想がつかない。その原因の一つはアスペルガー障害における思考を通常の社会通念からは追うことが難しいということがあげられよう。
たとえば「浅草通り魔事件」では、犯人は女性を追いかけて声をかけたところ、驚いた顔をされたのでカッとなったという。秋葉原事件で、KTはケータイの掲示板への自分の書き込みに誰も返答してくれなかったことで自暴自棄になった。これらも広義の自己愛の傷つきによる憤怒と考えられるが、このような反応の大半は周囲の人間には予想がつかない。その原因の一つはアスペルガー障害における思考を通常の社会通念からは追うことが難しいということがあげられよう。
ただし上述したようなフリーランした状態での自己愛を抱える人にとっては、ほんの些細なことでも彼らの傷つけるほどに、自己愛が肥大している可能性がある。ある大学病院のとある科の医局長は、外出先を示すマグネットをつけるボードを見て、自分のマグネットが一番上になかったことに激怒したという。これは極端にしても、複数の人に出すメールで、自分の名前がしかるべき順番に書かれていなかったことに痛く傷つくということは私たちの中でも起きうるだろう。
これらの身勝手な、予想つかない形での自己愛の傷付きも、やはり自己愛トラウマと呼ぶべきであろうと考えるのは、彼らの傷つきは極めて深刻で、それに対する怒りの反応も深刻なものとなりかねないからだ。つまり彼らにとって傷付きであることは確かなのだ。しかしそのトラウマは、いわば加害者不在なのである。敢えて言えば彼らの肥大した、あるいは予測不可能なプライドが原因なのである。加害者不在のトラウマ。まるで自然災害のようなものだ。否、自然災害では少なくとも台風や津波などの現象がそこに明白に存在することになる。ただそこに人為性が欠如しているだけである。しかし自己愛トラウマの場合には、当人がなぜ傷ついたのかを周囲が理解不可能であることも少なくないのである。
すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の
方法論の構築 (3)
「治療的柔構造」における方法論の提示
これらの身勝手な、予想つかない形での自己愛の傷付きも、やはり自己愛トラウマと呼ぶべきであろうと考えるのは、彼らの傷つきは極めて深刻で、それに対する怒りの反応も深刻なものとなりかねないからだ。つまり彼らにとって傷付きであることは確かなのだ。しかしそのトラウマは、いわば加害者不在なのである。敢えて言えば彼らの肥大した、あるいは予測不可能なプライドが原因なのである。加害者不在のトラウマ。まるで自然災害のようなものだ。否、自然災害では少なくとも台風や津波などの現象がそこに明白に存在することになる。ただそこに人為性が欠如しているだけである。しかし自己愛トラウマの場合には、当人がなぜ傷ついたのかを周囲が理解不可能であることも少なくないのである。
すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の
方法論の構築 (3)
「治療的柔構造」における方法論の提示
治療において何が基盤にあり、それが「ドードー鳥の原則」に反映される結果となっているのかという問題を扱ったのが、「治療的柔構造」(岩崎学術出版社)における考察であった。そこで至った結論は、結局治療者患者の「関係性」としか表現できないものがその基盤にあるのであろう、ということである。精神分析療法にも認知療法にも行動療法にも、そして薬物療法にもあるのは、治療者と患者の関係性である。それがそもそもの基盤にあり、精神療法プロセスは功を奏する。もちろん技法的な要素、すなわち各治療法に特有な治療原則や治療構造は必ずあるが、それは関係性が良好であって初めて意味を持つのである。そしてこの治療関係こそが精神療法であるという主張を全面的に押し出しているのが、いわゆる関係精神分析の流れである。私はその中でもアーウィン・ホフマンの思考をその代表と考えるが、彼の考え方は治療関係における弁証法的なとらえ方を徹底することである。
ホフマンは人間的な関係性という項を、他方の技法や治療原則に従った項と対置させたうえで、その両者の間の弁証法的な関係を生きることが治療であるとする。これは私が今述べた、すべての治療関係には、その底辺に関係性があり、そして各療法に特有な構造がある、という主張をより精緻な形で表現したものである。この考え方は、なぜ精神療法に様々なものがありえて、それが同様に治療的となりうるかという疑問に対する答えを提出しているといえる。
そしてこの関係精神分析にさらに特徴的なのは、そこに属する論者が、脳科学的な視点を広く取り入れる姿勢を示していることである。そこには患者の訴えを心の問題としてとらえる視点と、脳の問題としてとらえる視点との間の弁証法が存在するかのようである。最近の関係論者、特にフィリップ・ブロンバーク、ダネル・スターン、アラン・ショアたちの視点はそこで一貫しているという印象を受ける。