2014年11月8日土曜日

「自己愛と恥について」 推敲 (3)

「自己愛と恥について」 推敲 (3

ここで自己を表したい、認められたい、という願望を「自己愛」と呼ぶことができるとしたら、私は恥と自己愛のただならぬ関係をこのころすでに生身で体験したことになる。「恥と自己愛」というテーマにはすでに高校時代には逢着していたということになるかもしれない。しかし私の中で恥と自己愛のテーマが結びついたのは、それから十数年後の米国留学中であった。
 アメリカで恥に関する精神分析の書籍が目白押しに出たのが1980年代である。アンドリュー・モリソンの「恥―自己愛の裏面 Shame
Underside of Narcissism」 という本は特に私にとってはインパクトが大きかった。彼の主張は、そもそも「コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考である(コフート自身はそう言っていないが)」「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても分かりやすいものだった。そのころ私は十分にコフート理論に興味を覚えていたし、それと私がさらに前から関心を抱いていた恥の議論との結びつきについても大いにありうると考えた。このあたりから、私の中で恥の問題と自己愛の問題との結びつきは自明なものとなった。その頃から恥についての記述も、自己愛つながりになっていったわけである。そうすることが、精神分析の論文として受け入れられやすいということもあった。モリソンらによって、「恥 ―(コフート理論)- 自己愛」という路線が既に引かれていたからである。
さて私はこの恥と自己愛のテーマの連結については、おおむね問題ではないと思っているが、少しだけ強引なところがあることも認めよう。「恥は自己愛の傷つきか?それだけか?」と問われるとちょっと難しい。恥は自己を不甲斐ないと思う気持ちだ。自分は「優れている、エラいんだ」(自己愛)、という気持ちが崩れた時とは限らない。ふつうでいられればそれで満足なのに、普通にできない、それがふがいないというところがある。すると通常の意味での自己愛には必ずしも当てはまらない気もする。
 いまここで「ふがいない」と書いたが、このふがいなさの感情の大きさは、おそらく自己愛と何らかの関係はあるだろう。それを自己愛と呼べる気もするが、それでは性格ではない気もする。また、では「自己愛的な人ほど恥が大きくなる」かと言えばそうでもないだろう。自己愛的な人は、少しくらいバカにされても一笑に付すか、怒り出すかだろう。必ずしも恥を体験しないかもしれないのだ。
 ただし自らが「普通でありたい」「もう恥をかきたくない」という願望が強ければ強いほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということは言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。というわけで「恥イコール自己愛の損傷」というモリソン(そしてそれ以外の多くの米国における恥の論者)の議論は、もちろんそれを恥の定義としてしまえばいいのだが、必ずしも成立しないという気持ちも私の中にはあるのだ。
それに比べて森田正馬が唱えた、対人恐怖に特有の「負けず嫌いの意地っ張り根性」という概念化は、かなりすっきりすると思う。彼や、それを踏襲した内沼幸雄先生の「強力性と無力性の葛藤」という考え(ドイツ精神医学、クレッチマー、カレン・ホーナイなどなど)のとらえ方の方が妥当である気がする。
 このように考えて私が最終的に到達したのは、恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己表現の願望、人から認められることの期待」との関係で論じることにした。それが恥の二次元モデルである。これは次のような理解の仕方だ。
人間の恥の感情は、他方でどれだけ自分を表現したいかという願望が強いかにより修飾を受ける。もちろん両者は共存しうる。(少なくとも私はその例だ)。そこでの葛藤は苦痛を呼ぶ。しかし他方で自己表現をあまり望まない対人恐怖もある。無力型の対人恐怖というべきであろうか。これらの人は社会からどれだけ身を引き、ひそかに生きるかを考えるのである。
なおここで人から認められることの期待を入れたのは、以下の理由だ。人には自己顕示という積極的な行動に出ずとも、人から自分の存在を認められたいという、それ自身は受身的な願望を持つ。これが覆されるときの苦痛にも耐えがたいものがある。掲示板に自分の書き込みに対する反応が見られなかったことで絶望的になった、秋葉原事件のKTなどはその例だ。
この「自己表現の願望、人から認められることの期待」は実はきわめて流動的で、状況により様々に形を変えることがわかる。たとえば職場で自分より目上の人とすれ違ったときに挨拶をされなくても特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけで激怒するかもしれない。誰に、どのように認められるかは、このようにきわめて流動的なのだ。
このように流動的な「自己表現の願望、人から認められることの期待」を考えることは、自己愛的な人間、自己愛的なパーソナリティを考えることの不十分さをも示唆している。たとえば「自己愛パーソナリティの人は傷つきやすい」という画一的な見方はあまり意味がない。人はそれぞれ自己愛的な期待や願望を、その時々の状況で持つのである。

自己愛の風船をモデルとして考える
このように考えると、自己愛の風船のようなイメージを考えることのほうが、臨床的であることがわかる。その人の前で、ある否その状況でどの程度自己を表現し、どの程度認められるべきか、という期待は風船のように膨らんだり縮んだりする。その大きさの風船が突かれたり、破られたりするときに自己愛の痛みが発生するのだ。