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「汎用性のある精神療法」の方法論の構築
はじめに
ある心理士さんの話を伝え聞いた。彼の職場は、一人の精神科医が院長で、複数の心理療法士を抱えたクリニックである。ある時その院長が言った。「うちでは誰も認知療法をやれる人がいないね。心理士さんのうち誰かその勉強をしてくれないか?」 その心理士さんは彼のスーパーバイザーにお伺いを立てたが、精神分析的なオリエンテーションを持っていたそのスーパーバイザーはあまりいい顔をしないので困ってしまったという。
この心理士さんの話を聞いて、私自身もかつて似たような体験を持ったことを思い出した。昔米国で精神分析のトレーニングを受けていた頃、ロジャース理論に興味を覚えてスーパーバイザーに質問をしたことがあった。すると彼は顔色を変えて「ロジャースに理論なんてない。それよりも君がその理論に興味を持つこと自体が問題だ。」と怒られたことがある(岡野、治療的柔構造)。このようにある精神療法を専門とするものは、ほかの種類の精神療法を批判したり敬遠したりする傾向が多くあるのだ。
他方精神医学においては、精神科医の多くは精神分析、認知療法、行動療法、森田療法などの種々の精神療法をひと括りにして認識する傾向にある。そして彼らは通常は特定の精神療法についてのトレーニングを受けていないために、その重要性について十分認識していない場合も少なくない。そしてさらに問題なのは、精神科医を目指す最近の若い医師たちは、精神療法や精神分析に関心をあまり示さない傾向にあるということである。はるか30年前、私が新人だった頃には、精神科を志す人の多くは哲学や心理学、精神分析に興味を持つ人たちでもあった。人の心を扱う薬物療法に惹かれて精神科に「入局」する(今では死語かもしれない)人などはあまり聞いたことがなかった。30年前が異常だったのか、現在が異常なのかのどちらかは私にはわからない。しかし現代の若手精神科医の多くが生物学的な精神医学、薬物療法などに関心を移しているのは、時代の流れかとも思う。そしてだからこそ彼らが関心を向ける脳科学も精神療法的な考え方に組み込む必要があるであろう。さもないと精神科において基本である、医師と患者が言葉と心を交わすこと、という部分がますますおろそかになってしまうであろう。薬一つを投与する際にも、医師―患者関係が大きな影響を及ぼすことは、医師から薬を出されるという経験を持った人には明らかな筈なのである。
「ドードー鳥の裁定」問題
ところで私は精神療法に大きな関心を持ち、それが有効である場合が多いと信じているのであるが、具体的にどのような影響を患者に及ぼすかについては明確に理解しているとは言えない。そしておそらくは技法に還元できないような、そして科学的に実証できにくいような作用が、治療者患者関係において生じていると考えている。
そのような私の考え方は、基本的にはレスター・ルボースキーが再提唱した「ドードー鳥の裁定」に影響を受けている。といっても彼の主張に影響されたというよりは、私が常日頃考えていたことを、この概念が的確に代弁していると感じるからである。ルボースキーのこの概念についてご存じない方のために少し説明すると、彼は1970年代頃より始まった、「どのような精神療法が効果があるか?」という問いに関して、「結局皆優れているのだ、その差異の原因は不明なのだ」という結論を出した。それを彼は「不思議の国のアリス」に登場する謎の鳥の下した裁定になぞらえたのである。(ただし精神療法に関するこの「ドードー鳥の裁定」というアイデアは、1936年に Saul Rosenzweig が提唱したものであり、それがこのルボースキーの提案で初めて注目を浴びることとなったのである。
Rosenzweig, Saul (1936). "Some
implicit common factors in diverse methods of psychotherapy". American Journal of Orthopsychiatry 6 (3):
412–415.
Luborsky, L; Singer, B; Luborsky, L (1975). "Is it true that 'everyone has
won and all must have prizes?'". Archives of General Psychology 32:
995-1008.
私はこの「ドードー鳥の裁定」を条件付きで、その大枠としては受け入れている。ここで条件付き、とはどういうことか。それは精神分析療法も認知療法も、行動療法も、特にそれが治療効果を及ぼすような患者がいるということだ。だから「精神療法のどれも同様な効果がある」のでは必ずしもなく、「どの精神療法にも、特別にそれが効果を発揮するような患者がいる」ということも重要な点だと考えているのだ。これは薬物療法に似ている。薬物A,B,Cがどれも平均して7割の患者に効果があるとしても、患者の中には、特にAが効いたり、あるいはBが効いたりということがある。
しかしこの個別の患者さんにとっての効果、という要素以外にも、どの精神療法にも共通するような要素があると考える方が合理的である場合も多い。私は精神分析のトレーニングを受けた身であるが、確かにこの手法が助けとなる患者も多い。しかし私は分析状況で患者と話す時、どう考えても自分がテクニックらしきものを多用しているとは思えないことも少なくない。
このように精神療法の効果は二段構えであるということが出来る。一つは非特異的な部分で、もう一つはそれぞれの精神療法に特異的な部分である。このうち「ドードー鳥の裁定」はもっぱら前者の方を指していると理解できよう。
「面談」はすべてを含みこんでいる
シンプルな例から考えてみよう。私が特定の精神療法のセッションを行うとする。精神分析的精神療法でも、認知療法でもいい。しかし実際のプロセスに入る前に、かならず患者との何らかの言葉の交わし合いがあるだろう。挨拶に始まり、「ここ数日(数週間)はいかがでしたか?」というところから始めるのが普通だ。そのプロセスをとりあえず「面談」の部分としよう。ここが実は大きな意味を持つ場合が少なくない。最初にそこで2,3日前にあった比較的大きな出来事の詳しいいきさつが語られたり、それについてのアドバイスなどを求められたりするだろう。すると「いや、もう分析的精神療法(認知療法)を開始しなくてはなりませんので、その話はまた後で」とは普通はならないだろう。それが患者にとって当面は重要だったり切羽詰った出来事であったりするからだ。もちろんそれを分析療法や認知療法の中で語ってもらうという方法もあるだろうが、その場合にもいつもの流れとは異なる、通常の会話に近いやり取りに近くなるのではないか。私はこのような「面談」の部分はしばしば必然的に生じ、かつ必要不可欠と考える。しかし一体この「面談」で何が起きているのだろうか?この「面談」部分は分析や認知療法のプロセスを邪魔しているのか? これはとても難しい問題である。
この不思議な「面談」の性質について、かつてある論文で論じたことがある。(「面談」はすべてを含みこんでいる: 精神療法39巻4号特集 575-577, 2013年)そこでの要旨に沿ってしばらく述べてみよう。
改めて「面談」とはいったい何かを考えた場合、それが基本的には無構造なことがわかる。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談として扱われるかもしれない。しかし二人の人間が再会する最初のプロセスは非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには特殊な技法を超えた様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。
「面談」の特別バージョンとしての各種療法
私は現在幾種類も提唱されている精神療法の多くは、「面談」の中で現れる様々なプロセスの一つを拡大して扱うバージョンとしてとらえることが出来ると考える。たとえば認知療法であれば、「面談」の中で日常生活に現われる思考の推移のプロセスを拡大して扱うバージョンとしてとらえる。行動療法なら、いくつかの行動のパターンについて論じ、それを停止したり試みたりするという可能性について特化することになる。また「面談」に軽い呼吸法や瞑想の導入を組み込んでいる臨床家の場合は、催眠やイメージ療法の導入部分をすでに行っているといえるかもしれない。
このように考えると「面談」をきちんとできていれば、特殊な療法についてのトレーニングは必要がない、という極端な見方をする臨床家が出るかもしれない。しかしむしろ種々の精神療法のトレーニングの機会を持つことが基本的な要素としての「面談」をより豊かなものにする可能性があると考えべきであろう。
たとえば認知療法の訓練を受けて、自動思考の考えになじんだとする。「全か無かという考え」、「これは大変だ、とすぐパニックになってしまうこと」「ポジティブなことに目をつぶること」「感情的に推論をすること」、「レッテルを貼ること」「過大/過小評価すること」、などなど。このような心の動きを患者の思考や行動の中にいち早く読み取る訓練ことは、「面談」にも生かせるだろう。また精神分析における一連の防衛機制を熟知していることは、同様の意味で患者の心の病理の在り方を理解するうえで有益かもしれない。
このように考えると各種療法をフォーマルな形で行う用意のある臨床家とは、必要に応じてそれに本格的に移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら、つまりいつでもその療法のアクセルを踏む用意をしながら、「面談」を行うことができる療法家ということになる。結局は各種療法の存在をどのように捉えるか、という問題は、あるていど汎用性のある精神療法としての「面談」をどのように定義し、トレーニングを促していくか、という大きな問題につながってくる。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。
「汎用性のある精神療法」としての「面談」
このあたりでこれまで私が用いてきた「面談」という用語を、改めて「汎用性のある精神療法」と呼び変えて論じよう。私が「面談」にこれまでかなり肩入れして論じてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法、すなわち「汎用性のある精神療法」を論じる上での原型となると考えたからであった。「汎用性のある精神療法」とは、いわばジェネリックな精神療法と言いかえることもできよう。私は各種療法のトレーニングを経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それがこの小論の一つの趣旨と言える。「汎用性のある精神療法」はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的な要素も、行動療法的な要素も、場合によってはEMDRの要素も加わるであろう。
こうは言っても私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。しかしいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。試みに少し用いてみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。それにより場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、認知療法も行動療法も、場合によってはEMDRも箱庭療法も入れるべきであろう。
精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。冒頭で述べたような認知療法が精神分析から敬遠される傾向などはその一つだ。しかしこれからの精神療法家はさまざな療法の基礎を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないからである。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。
「汎用性のある精神療法」と関係精神分析
治療において何が基盤にあり、それが「ドードー鳥の原則」に反映される結果となっているのかという問題を扱ったのが、私の「治療的柔構造」(岩崎学術出版社)における考察であった。そこで至った結論は、結局治療者患者の「関係性」としか表現できないものがその基盤にあるのであろう、ということである。精神分析療法にも認知療法にも行動療法にも、そして薬物療法にもあるのは、治療者と患者の関係性である。それがそもそもの基盤にあり、精神療法プロセスは功を奏する。もちろん技法的な要素、すなわち各治療法に特有な治療原則や治療構造は必ずあるが、それは関係性が良好であって初めて意味を持つのである。
この治療関係こそが精神療法であるという主張を全面的に押し出しているのが、いわゆる関係性理論の流れである。米国に見られる新しい精神分析の動きの多くは、伝統的な精神分析理論の核心部分の否定ないしは反省のうえに成り立っており、関係性理論はそれらの総称というニュアンスがある。その動きを構成するのは、コフート理論、間主観性の理論、メンタライゼーション、乳幼児精神医学、フェミニズム運動などであり、いずれも患者と治療者の間で生じるダイナミックな交流を極めて重視する立場を取る。最近では「関係性精神分析 relational psychoanalysis
」という呼称が定着し、この動きの事実上の牽引役であったスティーブン・ミッチェルが世を去って後のこの10年は、欧米を中心に大きな広がりを見せている。
私はその中でもアーウィン・ホフマンの思考をその代表と考えるが、彼の考え方は治療関係における弁証法的なとらえ方を徹底することである。
ホフマンは人間的な関係性という項を、他方の技法や治療原則に従った項と対置させたうえで、その両者の間の弁証法的な関係を生きることが治療であるとする。これは私が今述べた、すべての治療関係には、その底辺に関係性があり、そして各療法に特有な構造がある、という主張をより精緻な形で表現したものである。この考え方は、なぜ精神療法に様々なものがありえて、それが同様に治療的となりうるかという疑問に対する答えを提出しているといえる。
ホフマンの理論を詳述する余裕はないが、彼自身が自ら示す弁証法的構築主義の原則をここに掲げておこう。
①
精神分析のプロセスの本来の目的は「真実」に直面することだが、その「真実」とはフロイトの精神分析の場合とはことなり、「私たちはみないずれは死ぬ運命にある、ということ以外の現実は常に曖昧で非決定論的である」ということである。人間は常に非存在と無意味に脅されながら意味を作り出しているのである。
② 患者と治療者はそれぞれ自由な存在であり、二人で一緒に現実を構築する。その自由さのために、治療者の言動に患者がどのような反応をするかを十分な形で予測することは不可能である。
③
治療者は親しみ深い存在であり、同時にアイロニカルな権威者である。治療者はその機能の一部を、「治療に抵抗とならない陽性転移」から受け継いでいるが、そのこともまた探索の対象となるからだ。
④
精神分析には反復ないしは儀式的な部分があり、そこから離れることは、そうすることが治療者の利己的な目的によるものではないか、という疑いの目を向けられる。
⑤
治療者の用いるテクニックと、患者へのパーソナルなかかわりとは、弁証法的な関係にある。治療者の態度は単なる「テクニックの正しい応用」を目指すべきではない。治療者は「正しくあろう」とすることを放棄した時に、自分のかかわりがいやおうなしに主観的なものであるという事実に直面するのだ。
⑥
精神分析過程で構築されるものは、反復であり、かつこれまでにない新しい体験である。前者は神経症的な転移の圧力により、後者は患者の動因のうち健康な部分の圧力により作られる。
⑦
患者が治療者に対して抱く理想化は、やがては損なわれてしまう運命にある。なぜなら治療者もまた患者と同じ人間だからだ。このことを認識することにより次のような懸念が生まれる。つまり治療者が提供できるのはあまりにわずかであるというだけでなく、治療者は金銭的にないしは自己愛的な満足のために患者を利用しているのではないかという懸念である。
⑧
スティーブン・ミッチェルの言い方を借りるならば、治療において問われるべきなのは、「治療者が何を知っているか?」だけではない。それは精神分析における治療的な行動の課程や性質についての理論である。つまりそれは「患者が何を望むか」という理論である。
以上に示されたホフマンの記述には、現実を、そして自分自身を見つめる冷静な目と、人間として持つ徹底した謙虚さを感じ取ることが出来る。そしてそこには、私たちが死すべき運命にあること以外に確かなことはないという、徹底したまでの不可知論的な視点がある。ホフマンの構築主義の独創性は、彼がそれを徹底した形で推し進めた結果いたった境地であることによるのだろう。
そしてこの関係精神分析にさらに特徴的なのは、そこに属する論者が、脳科学的な視点を広く取り入れる姿勢を示していることである。そこには患者の訴えを心の問題としてとらえる視点と、脳の問題としてとらえる視点との間の弁証法が存在するかのようである。最近の関係論者、特にフィリップ・ブロンバーク、ダネル・スターン、アラン・ショアたちの視点はそこで一貫しているという印象を受ける。
「汎用性のある精神療法」に欠くことの出来ない倫理則
最後に倫理の問題に触れたい。私がこれまでに述べてきたことは、「汎用性のある精神療法」としてさまざまな立場を包括するという方略であり、姿勢である。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つと考える。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積み、しかも心の問題について脳科学的な理解を行うことについてもわきまえる治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、という方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに治療に通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反が入り込む可能性がある。
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野:精神分析のスキルとは?(2) 精神科 21(3), 296-301, 2012)(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
ここからは私になじみのある精神分析の世界の話になるが、チェストナットロッジをを巡る訴訟などを精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった。それは分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている。(Paul A. Dewald (Editor), Rita W.
Clark (Editor):Ethics Case Book: Of the American Psychoanalytic
Association Paperback American Psychoanalytic Association, 2007)
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
他方「汎用性のある精神療法」や関係精神分析はこの倫理則とどう関係しているのだろうか?これらの療法は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「汎用性…」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるが、「汎用性…」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるということがいえよう。
さいごに
「汎用性のある精神療法」というテーマで論じた。その中で紹介した関係精神分析は私が現在一番シンパシーを覚える学派であり、関係性や倫理性を重んじる立場がそこにかなりよく代弁されていると考える。しかし学派や技法にとらわれない、というよりもそれを超えた臨床的な営みとしての精神療法の在り方をこれからも考え続けることが私のライフワークと考えている。その有効性を一番的確に判断するのは、それが臨床的にどの程度有効かということである。しかし何が患者に有効かを客観的に判断することも決して容易ではない。それは精神療法が何を目指すのか、という問題とも絡んでくるからだ。この答えの見えない問いを私はこれからも持ち続けつつ臨床を続けていこうと考えている。