2014年9月30日火曜日

治療者の自己開示(15)

9月の終わり思いがけず訪れた晴天の日々を楽しんでいる。台風は出没しているけれど。
しかしそれにしても香港の情勢。中国の変化の起爆剤になってくれるのだろうか。



 ちなみに治療者が「自分を用いる」という姿勢は、例えばミッチェル(Mitchell, 1988) 等による関係モデル、ないしはストロロー(Stolorow, 1992)やオグデン(Ogden, 1994)の唱える間主観性の考え方とも一致している。これらの概念はいずれも、治療場面とはいわば患者と治療者の主観の融合、ないしは両者から独立して創造された空間である、という見解を表わしているからである。
 この治療者が「自分を用いる」こと、という表現は、ジェイコブスの「自己の使用 The Use of The Self (Jacobs,1991)という近著のタイトルに依拠している。ジェイコブスは、この概念についてのヒントを与えているのもまたフロイト自身であることを指摘している。そしてさらに興味深いことに、そのフロイトの論文は治療者の自己開示を戒めている上述のものと同じものである。
 「分析医に対する分析治療上の注意」(1912a)の別の個所によれば、「彼[治療者]は、自分の無意識を、発信している患者の無意識に向けられた受信器官 receptive organ, (empfangendes Organ )にしなくてはならない。彼はちょうど発信しているマイクロフォンに対して調節する電話のレシーバーのように、自分を調節しなくてはならないのである。・・・・・ただし自分の無意識が受信したものに対しては、それを意識から隠したいといういかなる抵抗も許してはならない。」(p. 115
 フロイトは、このように自分の無意識をあたかも感覚器官として用いることについて論じている。ただしそれにより患者の無意識を知ることについてはわかるとしても、それをいかに治療的な介入の助けにするかについては具体的に語ってはいない。そこには治療者が患者の無意識内容に対する客観的な観察者であり、彼が自分の無意識を用いて知りえた内容(解釈)を患者に伝えることで、治療が完結してしまうといったニュアンスすらある。ところが上述の「自分を用いる」ことの関係論的な意義を考えるならば、治療者が受信したと思っていることについて、それを最終的なものとして解釈する代わりに、あくまでも一つの素材として患者に問いかけ、その妥当性を照合していくのも治療の重要なプロセスとなる
 治療者が「自分を用い」つつ行なう介入はまた、解釈以外にもさまざまなものが考えられることになる。それは治療者側の個人的な体験を積極的に語る「自己開示」の形を取る場合もあるが、それ以外にも治療者側からの観察をフィードバックすること、ロールプレイングを行なうこと、自分自身を逸話の登場人物として第三者的に語ること、さらには自分の持っている必要な情報の提供等があげられよう。
 以下に私自身が治療者として「自分を用いた」と思える例を挙げたい。ただしこれらの介入の意味や効果のすべてを私自身が十分に承知した上で行なったとは言いがたく、むしろ試行錯誤で行なったというニュアンスもある。しかしいずれも同テーマについて考える上での素材を提供してくれているものと考える。

3 臨床例 (省略)


4 考察

 事例Dでは、私はロールプレイングにより思春期の患者としての役をする形で、自分を用いたことになる。ロールプレイングは「役割を演じる」というその意味とは裏腹に、「自分を演じる」という要素もまた強い。特にそれを即興で行なうことを迫られた場合には、役割と自分自身を切り放すことは非常に難しい場合がある。この事例に示した私の関わりについても、そこでの感情表現はなかば私自身のものであり、また時には私自身の思春期の体験について語ったこともあった。ただしそれがどこまで私自身を演じているかはEに対して直接には伝えられず、またEもそれを特に質問しなかった。その意味では私は私自身を積極的に用いたとはいえても、「自己開示」を行なったとはいえないであろう。
 Eに対するこの介入のどの部分が彼にとっての助けになったかは特定することはできないが、少なくとも私が治療者としての受け身性を一歩抜け出してロールプレイングを通して自分を提供したことが、このようなEの反応を引き起こしたものと考えられる。
 事例Fにおいては、私が彼女に対して怒りやフラストレーションを感じ、それを爆発させないようにと堪えていたという一連の感情の動きは、Fの目にも明らかであったと思われる。これらが私が意図するとしないとにかかわらず患者に伝わった一つの理由は、治療者としての私が一時的にではあれ実際に感情的になっていたからである。(前出のレニックはまた「治療者の自己開示は、それを意図するとしないとにかかわらず、ある程度は自然に起きてしまってしまう」(Renik, 1995)と述べているが、このような場合にはよく当てはまることになる。)
 しかし私は自分の感情の動きをFに隠そうと特に努力もしていなかった。(怒りの爆発を堪えることと隠すこととは別である。)むしろ私はFも私の葛藤をなんらかの形で知るべきであるとすら考えていた。このように膠着し、私も感情的に巻き込まれているような治療状況においては、それも一つの試みに違いないと思えたからである。また私はFに対してそれまでに十分のものを注いでいたつもりだったため、彼女に対して怒りを感じることに対する罪悪感に悩まされることはなかった。
 Fの治療態度は、それ以後はより好ましいものになったが、その一つの原因は、彼女が私を怒りやフラストレーションを感じる生身の人間として把握したことにあると考える。その意味でこれは感情を持つ私という人間が治療的に「用いられた」例といえるのである。またFは私の叱責を私からの一種の愛情表現と感じた可能性もあった。
 症例Gに対して用いたのは、私の直感ないしは感覚であり、それを語ることで私の感受性を一時的に患者に貸し与える形となった。ただし患者の自由な話の展開を遮る形で行なったこのような介入には十分な注意が必要であることはいうまでもない。そのためGとの十分な治療関係が成立していることが前提といえた。この種の介入が侵入的なものにならないためには、あくまでも治療者の直感や感覚が患者に対する押しつけではなく、両者が共同で観察するべき素材であること、それに意味を見いだすかどうかは最終的に患者が決めることであるという姿勢を明確にすることである。また治療者が自分の直感が的外れである可能性を恐れずに、しかしあくまでも仮説として提供するならば、患者が自分の連想の唐突さや荒唐無稽さに対して持つ恐れや恥の感情を軽減することにつながるであろう。
 Gに対する私の介入は、厳密な意味ではフロイトの述べた禁欲原則に反することになる。なぜなら私は患者が安心感を得たいという欲求を満足させたことになるからだ。しかしGが本来持つ脆弱さ、過去に受けた外傷体験、そしてこの臨床場面で示していた不安のレベルを考えた場合、このような支持的な介入がこの時点では必要と判断された。また私はGの質問に対して直接答えつつも、それをフォローしてその質問の意味や、私から答えを得たことへの彼女の反応を扱うことにより、治療者としての中立性を出来るだけ保つよう心がけた。
 この介入は、「治療を有意義なものに感じている」という私の感じ方の「自己開示」といえるが、ここで強調しておきたいのは、私は心にもないことを言ったのではないということである。もし患者に嘘をついてまでその不安を除去し、安心させようとしたならば、それはまさに禁欲原則をおかしたことになろう。

5 最後に

本章では治療者が「自分を用いること」というテーマについて、症例を示しつつ論じた。本テーマは精神療法の基本的な問題に触れるために、今後さらに多くの議論が尽くされなくてはならないと考える。また私が示した論点はいずれも、従来の精神分析的精神療法の技法を否定するものではなく、むしろそれが現代的な人間理解と矛盾しないように再考を加えていくことの一つの切っ掛けと考えていただければよい。その際必要なのは、治療者としての私たちが、「自己開示」をたとえ患者に対しては控える場合にも、自分自身に対しては不断に進めていく作業であろう。治療者が「自己開示」を自分に対して行なうことは、「自分を用いること」の前提条件といえるのである。

2014年9月29日月曜日

治療者の自己開示(14)


 さてこの後数年して、私はもうひとつの論文を書いた。それが「治療者の自己開示その2 -治療者が「自分を用いる」こと-」である。相変わらずよく書くなあ。       
         
 結局第一作で書いたことの要点は二つだった。
① 治療者の自己開示は患者の抵抗を和らげ、いわゆる対効果(Jourard)により患者自身の自己開示を促進する可能性がある。患者の示す最大の抵抗の一つは、隠れ身をまとった治療者の前で精神的に裸にされることによる恥の感情に由来する。そのため、治療者がかたくなに「自己開示」を回避することが、患者の恥の感情を余計に高め、自由連想を行なう際の抵抗を助長しうるという点である。
② 治療者の心的内容や患者に対する感情的な反応自体が、患者の心の映し返しとしての意味を持ち、それを患者に示すことは、それがあからさまな「暗示」や押しつけとなるのを避けるならば、積極的な解釈技法としての意味を持つということである。
 

それから数年勉強していて追加で考えたこと。
 治療者の「自己開示」が治療的か否かという問題は、治療者が「自分を用いる」ことという、より広いテーマに含めて考えるべきであろう。自己開示はいかん!という立場はかなり批判されてきている。同じことはすでに70年代に指摘され始めている(Singer, 1977))。また患者からの質問に答えない、自分を語らないという方針を守ること自体が、自分の治療方針の表現として患者に伝わっていることになるのではないかという認識も一般に受入れられつつある。またこれに関連してグリーンバーグ(1991a)は、「あらゆる治療的介入は、何かを隠すと同時に何かを露わにするプロセスである」とする。最近では、レニック(Renik, 1995)が、厳密な意味では「治療者の匿名性はあらゆる意味においても保つことができない」とまで主張するに至っている。いい言葉だなあ。
とにかく治療者の「自己開示」のみに議論を限定せず、この「自分を用いる」という概念に拡張して論じることの積極的な意味は以下の通りである。

(1)治療者の「自己開示」はその有効性が状況により大きく異なるが、治療者が「自分を用いる」という姿勢は、その状況にかかわらず、常に一貫して必要な治療態度として論じることができる。
(2)治療者の「自己開示」は、治療者が「自分を用いる」ことの重要な要素となりうるが
     「自己開示」をすべきでないという判断もまた、その状況で治療者が「自己を用いる」
      結果として下される。その際は治療者が自分の主観を用い、患者がその時点で必要と
      感じている事柄を察し、それを患者と照合するプロセスが重要となる。
(3)治療者が常に「自分を用いる」べきである、という原則に従うことで、彼が匿名性に過剰に固執することにより不必要な患者の抵抗を招くという事態を防ぐことができるであろう。
(4)治療者は常に「自分を用いる」べきであるという原則に従うことは、逆に不必要な「自
      己開示」を控えることにもつながる。治療者の治療に対する興味や熱意は、「自分を
用いる」という態度の中にすでに込めることが十分に可能なため、それをことさら「自  己開示」という形で表わす必要はないからである。

まあ、悪くないか。 


2014年9月28日日曜日

治療者の自己開示(13)  

自己開示の話、まだ続く。しつこいなあ。
さてここ数回は脱線であったが、私が20年以上前に書いた論文に戻る。ざっと読んでみたが、小難しいことが書いてある。結論としては、自己開示も、中世的な感情表現は一種の解釈の意味を持つ、なぜなら患者の心の照り返しのようなことをしているからだ、ということになる。
でもその説明はあいまい。そして次に出てくるのが、自己開示は現実の対象としての治療者を示すことだ!という考え。20年前にこんなことを言っているのだ。勇気がいったな。ということでまず絶対誰も読んでいないので、論文の続きは小さいフォントで。


次に治療者の自己開示の持つ、個々の治療場面における解釈技法としての意義を考える。先ず先述の通り、治療者が自己を表わすことは古典的な技法にとっては例外的であった。そこでフロイトが治療者の自己開示を禁じた根拠に立ち返ってみよう。フロイトが、治療者が自分を語ることが「暗示Suggestion」(他に「示唆」という訳もあるが、ここでは「暗示」と統一しておく。)となることの可能性をあげ、それを自己開示に対する警告の一番の根拠としたことは述べた。そこでそもそも「暗示」とは何だろうか?
フロイトが「暗示」を「患者の無意識を明らかにすることには役に立たないもの」(Freud, 1912a,p118)と説明したことはすでに述べた。しかしその「暗示」について具体的な内容を知るためにフロイトの原著に当たると、実はこの概念の内容が複雑を極め、またフロイトの思考の歴史の中で多くの変遷を遂げたことがわかる。ちなみにグリーンソン(Greenson,1967)の定義に従えばこれは「考えや情動や衝動を、患者の現実的な思考とは独立し、あるいはそれを排除した形で患者の中に導入すること」と要約されている。とすれば、治療者の自己開示にもこの「暗示」に該当する可能性があるものとないものとの双方があることになろう。つまりもし治療者の考えや感情が直接患者に語られ、かつ治療者がそれを患者が無反省に受け入れるべきものとの前提で行なったとしたら、それはまさに「暗示」となる。それが最も顕著となる状況は、治療者の患者への一時的な感情が、治療者本人によって十分反省されていない形で、いわば治療者自身による解釈を経ていない逆転移のままで、つまりは治療者の投影や置きかえ等の防衛機制を介して患者に投げかけられた場合といえる。その場合は治療者は無意識的に、患者がその自己開示の内容をいかなる形であれ受け入れてくれることを先ず欲してしまうのである。
 しかし見方を変えるならば、以上の議論は治療者の自己開示もそのような形で「暗示」となることを警戒しながら用いられた場合は、その積極的な治療技法として用いられる可能性をも示している。その場合は治療者の自己開示は直接的な「暗示」とはならず、患者の無意識への働きかけを伴った解釈となる可能性を持つのである。フロイト(1913)は治療過程をチェスにたとえたが、治療者の自己開示もそれがゲームにおける駒の動かし方に似て全体の流れにおける影響が考慮され、それが行なわれた後に患者の示す反応もある程度は予想出来るのが理想だろう。
 それでは患者の無意識への働きかけを重んじた、解釈としての意義を持つ自己開示の仕方として、何を具体的に考えたらよいだろうか? そしてそれがどの様に患者にとって有益なのだろうか? そこでまず伝えることのできる素材について考える。私は治療的な自己開示として、私自身の個人的な生活に関する情報を伝えることにさほど意味を見出さない。それは余りに具体的過ぎて、治療者に対して患者が本来は自由に持つはずのイマジネーションを大きく制限する恐れがあるからだ。ストリーン(Strean,1988)は治療者が匿名性をかたくなに守ることに警告を発しながらも、次のように述べる。「分析者は自分の情報を伝えることで、患者が自分自身についてのみ知る、という権利を奪い、自分の内的な自己を回復する過程を制限する。」
 臨床例 23で示したように、私が比較的抵抗なく患者に伝えることができたのは、患者にとってはそれが外傷とならないような、より「中性的」な感情であった。ここでこの「中性的」な感情として私が意味するのは、具体的には、治療者の感じた驚き、当惑、緊張、安心等であり、それ以外の強い陰性ないし陽性な感情、つまり患者への強い愛情、性的な興味、あるいは嫌悪感、罪悪感等は除かれる。この「中性的」な感情を自己開示しうるものとしてあげる理由は二つある。その第一は治療者が患者に対して陽性ないし陰性な感情を抱いているとしたら、その一部ないしほとんどが未処理なままの逆転移に由来するからであり、治療的とはならない可能性が高いのである。
 第二には治療者の強い陽性ないし陰性の感情を直接表明することは、患者の治療者への情緒的な態度そのものを現実的に外から規制してしまうことになりかねないからである。たとえば治療者が「あなたに対して怒っています」という陰性の感情を表明したとしよう。それは患者にとっては、治療者から「私を怒らせないでください」と直接的に要求されているにも等しい。その意味ではまさにこの種の介入は「暗示」になってしまうのである。次にこの感情内容を患者に開示するタイミングの問題がある。それらは原則として私が症例において患者CDに対して行なうよう心がけたことだが、それらの感情から距離を取れるようになった時点で、あるいは距離をとれているという確信が持てて、治療者の心に余裕のある場合にのみ伝えるべきものである。強い陽性、陰性の感情を治療者が味わっている最中には、いかに経験を積んだ治療者であろうともその逆転移の虜になっている。その場合、治療者は自分がそのような強い感情に襲われている事態に対して当惑や驚きを表明するとしても、その具体内容まで患者に表すことは避けるべきである。逆説的ではあるが、治療者の感情表現は、その感情が心を通過していった時点で語られなくてはならないのである。
では次に「中性的」な感情を伝えることがどうして解釈となりうるかについて改めて考えてみる。それは解釈を「無意識的な現象を意識的にするもの」(Greenson,1967)と定義するならば、治療者の自己開示はこの役目を果たす可能性があるからだ。つまりそれは患者が前意識の中ですでに自分自身で体験しているものが治療者の心に再現されている可能性がある。いうならば患者は治療者の自己開示を通じて、治療者に体験された自分自身の姿を見ることになる。またその様な目的で用いられた治療者の自己開示は、その内容が依然として治療者の中に生じたものとはいえ、彼のプライバシーの生の表現というニュアンスは薄くなる。臨床例23で私が自分の感情を語りながらも、治療者の隠れ身の原則をおかしたという気がしなかったのはこの理由からだったのである。また臨床例 4で私自身が治療者の自己開示の直後に感じたのもこのことである。
この治療者の心に生じた感情が実は患者の姿の反映であるという視点、そしてそれを患者に伝えることが治療技法として成立しうるという点は、オグデン(1979)が再定式化した投影性同一視の概念にすでに含まれているといえる。それによれば投影性同一視は、それが治療的手投として用いられるためには図式的には3つの過程を路む。第一は患者の内的な対象の一部が投影される。第二には治療者はそれを自分の属性として同一視する。そしてそれに続く第三の過程、すなわち治療者から患者に、投影されたものを修正した形で取り込まれる過程が治療にとって重要とされる。治療者の感情表現による自己開示は、まさにこの第三段階を促進するための貴重な手段となり得るのである。
 以上のべた自己開示の分析技法上の意義が、いわば患者に患者自身を体験させるということなのであれば、次に述べる解釈技法としてのもうひとつの意義は、自己開示を、現実の治療者が備えた側面を患者に積極的に体験させることを意図して用いること、と言うことが出来る。その意味での自己開示は、もはや患者の心の照り返しとしてだけの意味に留まらない。しかしそれが依然として分析技法の範疇に属するのは、それが「暗示」ではなく、むしろ治療者の中立性を積極的に支えるものとして据えられるからである。この視点に立てば治療者の匿名性をかたくなに守った結果展開する転移関係は、患者が有するべき幅広い治療体験の一つの極を形成するに過ぎない。そしてもうひとつの極に位置するのは、治療者を現実の対象として体験することである。
 この治療者の中立性に対する新しい解釈は、近年グリーンバーグ(1986)により提示された。彼は中立性を、患者が分析家を古い対象として見る傾向と、彼を新しい対象として体験する能力の間の至的な緊張関係を確立することと再定義した。そして一般的に言えば、古典的な技法による沈黙と匿名性は分析者を内的な対象世界に留めるのに対して、自己開示は分析者を新しい対象として体験することを促進するとした。グリーンバーグは特に自己開示が必要となる例として、患者の両親が過去に無関心さを持って患者に接したり、感情の表出を控え続けるといった場合をあげる。その場合、治療者が古典的な匿名性を守ることは、患者にとってあらたな外傷となるばかりでむしろ危険なことであるとしている。
 先に示した症例1におけるBがこの事情を示しているといえよう。私が自己を積極的に語ったことに対してBはそれを意外なことに思い、それが私に対する好感に繋がった。その原因のひとつはその私の態度が、彼の抱いていた両親像と多少なりとも異なっていたからであり、私はその分だけBにとって新しい対象となり得たのである。
 グリーンバーにより示されたこの治療者の自己開示についての視点もまた、先に述べた患者にとっての新しい自己の発見という点にも最終的には結びついている。治療者が自己を表わすことが特に効果的な患者では、その両親像により形成された内的対象像はあまり自己を表わさず、感情表現を差し控えたものであり、それに対応した内的自己像も、感情表現を禁止されて情緒的に引きこもったイメージを伴っていることが多いのであろう。しかし患者は過去に両親以外にも様々な対象に出会ってきたはずであるし、その内的な自己像、対象像も潜在的には多彩であるはずである。たとえば彼は、自分の感情を自由で豊かに表現するような人をも体験したことがあるだろうし、そしてその人に向かってより自由に自己表現を行なっている(あるいはそうしたいと考えている)自己をもどこかに内在させている筈である。治療者が自己開示により新しい対象として立ち現れたとしても、それは治療者との関りそのものが患者にとって新しい体験になるというよりは、それが患者の中に眠っていた他者像や自己像を賦活することを助けるのである。またそれでこそこの技法は解釈としての分析的技法たり得るといえよう。
      
          *       *       *

ここで以上の考察をまとめてみたい。まず治療者が自己開示を行なうことが治療関係全体に及ぼす影響について考えた。そこでは治療者が自己開示を極度に控えることが患者の治療に対する抵抗を高める可能性が論じられた。治療者が自己開示をそのはらむ危険性を意識しつつ時宜にかなった形で行なった場合、この治療抵抗を和らげ、作業同盟の形成に寄与する可能怯があろう。
 つぎに解釈的技法としての可能性については、その自己開示があからさまな「暗示」とならないよう、注意深く用いることによりその意義が増す。筆者は特に自分の治療関係の中で体験する感情を、一呼吸おいて自分の中で消化した上で語ることに意義を見出した。しかもその感情はあくまでも「中性的」なものに焦点を絞って伝えた。このような技法の意義は治療者の匿名性や中立性に反するのではなく、むしろそれに乗っ取って、あるいは時にはそれを守るために行なわれると言っていいだろう。そこでの基本的な視点は、これらの注意深い自己開示が結局は患者の自己の姿の照り返しを促進し、鏡としての治療者の在り方にもかなう、ということである。


2014年9月27日土曜日

治療者の自己開示(12)

ここまで書いたらBの方も検討しなくちゃね。Bとは、消極的な自己開示で、それがB1.意識化されているもの、B2.無意識的なもの、と分類されるのであった。我ながらしつこいな。

B1の例から挙げよう。治療者は誤ってデスクの上に今度出席する学会の案内のパンフレットを置いたままにしておいた。その日にどうしてアポイントメントをキャンセルするかを、治療者は患者に伝えないつもりだった。こういう例を出すと、B2も作りやすいぞ。
B2 同じ状況で、治療者はそのパンフレットが患者さんの目に触れるところにあったことに気が付かなかった。B2‘もあるな。実はそのパンフレットは、治療者が患者さんに無意識的に見せたいものだった。うーん、ちょっと無理な設定かな。だったらまたフランクフルトだ。治療者は何となく患者さんに「僕もヨーロッパの学会に行くことがあるんだよ。」と自慢したい気持ちを抑圧していた、ということにしよう。(しかしそれにしてもドイツ語で書かれたパンフレットを患者さんがちらっと見ただけで意味がわかるという想定は無理があるな。まあいいか。)

B1 の治療的要素;治療者が防衛的にならずに、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度ではないということが、患者に示す安心感?
非治療的要素;治療者のことを知りたくないという患者の願望を満たせなかったこと。だからと言ってそれが悪いともいえないか。B1の治療的要素、非治療的要素を考えると一つ結論としていえるのは、治療空間はやはりお客様を招く場所であり、そこで過度に露悪的な、露出的な環境を保つことは決して治療的ではないということ。しかし「無菌的」である必要もない。その点に関して治療者が節度を持ち、かつリラックスしているということが大切であろう。どちらに行きすぎても非治療的、程々であれば治療的であっても非治療的であっても、利得も実害も大したことはないだろう。というよりB1に治療的、非治療的ということを考えることがあまり適当でない。(と自分が始めた議論であることを棚に上げる)。結局は起きてしまうことだから。
それとこれは大事なことだが、治療者はそれに気が付いているという条件であるからには、それが患者に与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろうということだ。むしろそちらの方が大事か。
B2についてもほぼ同じことが言えるだろうか。ただし治療者は気が付いていないのであるから、それを治療場面で話題として取り上げるわけにはいかないという点が違うことになるだろうか。






2014年9月26日金曜日

治療者の自己開示(11)

相変わらずこの分類について論じている。

広義の自己開示の分類

A積極的な自己開示 
     (1.問いに答えたもの、2.問わず語り)


B消極的な自己開示
   (1.意識化されているもの、2.無意識的なもの)

そうだ、ここで自己開示A1の治療的要素と非治療的要素。A2のそれ、という風に記述してみよう。思いつくままだ。
A1 治療的な要素:治療者が普通の人間であるという自覚が患者に生まれる。治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。治療者の行動や考え方のモデリングが可能となる。治療者からの情報提供を得ることができ、それを用いることができる。
A1の非治療的な要素:治療者に自己開示についてのゴーサインを送ることによる様々な要素(A2の非治療的な要素と同じ内容。)患者の側の要求を満たすことによる退行や過度の期待
の誘発となりかねない。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねない。

A2の治療的要素:A1のそれと同様。
A2の非治療的要素:治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。患者の自己表現の機会がそれだけ奪われること。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねない。(問わず語りであるためにA1の非治療的な要素よりも深刻となる)
この最後の例はわかりにくいかもしれない。一つ考えた。
A1の例
患者:先生はご自身の教育分析の際に、時間に遅れることはありましたか?
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。はい、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。
これは治療者から患者への「私との分析の時間に遅れることは失礼ですよ」というメッセージになりかねない、というかほとんどそうであろう。
A2の例
治療者:(特に患者から質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析には決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。
この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことは、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする、というわけである。どうだろうか。



2014年9月25日木曜日

治療者の自己開示(10)

 実は自己開示について10日ほど書いていて初めて、これだ!という実感に行き着いた。これは治療者側の自己愛の問題と非常に深く結びついているのである。ということで以下の文章が生まれた。まさに治療者と患者は、「持ちつ持たれつ」というところがあるのだ。

そこでこのAの部分、つまり「積極的な自己開示」の由来を考えてみよう。それは健全な自己愛や自己主張欲求、患者のためにある情報を伝えたい、出来れば自分自身の知識や体験談を伝達したいという気持ちと、自己顕示、露悪的な欲求が複雑に絡み合っていることがわかる。私は従来の匿名性の原則をかたくなに守るよりは、そこに自己開示の効用をも考える立場ではあるが、実際には非常に広範に、時には無秩序な形で治療者の自己開示が生じていることを把握している。自己愛的な治療者が患者に自分の自慢話や体験談を話すことを一種の生きがいにしている場合も少なくないのである。ここに生じているのは、治療者の自己顕示欲が、「これを伝えることは患者のためになるのだ」という口実とともに発揮される可能性であり、これもそのネガティブな治療効果を決して否定できないのだ。
 私たちが自分の体験を語りたい、という欲求は計り知れない。ツイッターのこれほどまでの普及がそれを物語っているではないか。それとブログもそうか。他方ではもちろん恥の気持ちがある。恥とはすなわち羞恥心と恥辱。治療者の方にも自分に関して開示するには恥ずかしいこと、恥なことがある。治療者の自己開示、特にAはその綱引きのバランスの上に起きるわけであるが、その上に精神分析においては匿名性の原則が乗っかることになる。
これについてはすでに書いたが、少し復習するなら、フロイトは純粋に無意識内容を解釈するのが分析であり、それをそれ以外のものにより汚してはならないとした。汚すものは示唆と呼ばれ、そこに自己開示などの余計なものも含まれる。自己開示は特に自由な転移の進展を阻害するものとした。(3行に収まるんだ!) このフロイトの議論はもっぱらAについて言っていることになるだろう。A自身があってはならないと。ただしBまで阻止しようとはしなかった。だってフロイトはマスクをして、一切何も自分の素性を明かさず治療をしていたわけではないからだ。そこまで厳密ではなかったということか。(実際のフロイトの臨床はそれどころかかなりおしゃべりで、それにはかなり守秘義務に抵触するものもあったとさえる。)
このフロイトの姿勢に対する現代的な批判としては、Aそのものが必ずしも非治療的と言えないであろうという見方。そうしてもう一つは匿名性という原則そのものがあまり意味を持たず、なぜならそれはBを防ぎようがないから、という議論。「解釈だってある意味では示唆、自己開示だ!」という主張はこれにあたるだろう。
 私の姿勢はどうだろうか。次のようにまとめてみることが出来るかもしれない。

結局自己開示をするべきか、しないべきかは決められない。Aを用いるかどうかは、A1もA2も治療的ともなるし、非治療的ともなる。非治療的となる可能性があるのは、それが必然的にB2を伴う場合。すなわち無自覚的に、無意識的に余計なものを表現する可能性が同時にあるからである。そこには治療者の自己愛的な願望が一番大きな問題を含んでいるのではないか。

2014年9月24日水曜日

治療者の自己開示 (9) 


そう、大事な分類を忘れていた。Aは実は「言語的」「非言語的」以上に対峙な分類が必要である。それは「患者から問われたうえでの自己開示か、問わず語りの自己開示なのかだ。こんな状況を思い浮かべよう。
「来週私は学会でフランクフルトに行きます。」
これを治療者がいきなり患者に伝えた場合と、「先生、来週セッションをキャンセルなさるのには理由があるのですか?」と患者に問われて答えた場合を比較しよう。前者を伝えられた患者は戸惑うに違いない。「どうして私が先生の来週の予定を聞かされなくてはならないのだろう。ヨーロッパに行くのがうれしいのかしら。」それに比べて後者は、そこまでこたえるかどうかは治療者により異なるとしても、精神分析以外ではごく自然な受け答えということになる。そう、自己開示は意図的に行われた際に、それが患者のリクエストによるものかどうかは、ある意味ではその性質を知る上で決定的となるだろう。
ということで分類の表の書き直し。


広義の自己開示 ・・・・ A積極的な自己開示 (1.問いに答えたもの、2.問わず語り)

B
消極的な自己開示(1.意識化されているもの、2.無意識的なもの)



もちろんこの分類はもう少し複雑になる。たとえば「フランクフルトに学会に行く」のうちフランクフルトは余計だったりする。実は治療者は初めてのヨーロッパ旅行で嬉しくて、自慢したかったのかもしれない。するとこれは実はA1+B1(自分でも自慢していることに気が付いた場合)、あるいはA+B2(自慢の部分に気が付いていない場合) のどちらかということになるだろう。

2014年9月23日火曜日

治療者の自己開示(8)

 このネット社会では、患者の側が治療者の情報を集めようと思えば、相当のものが集まるのではないか。その中には当人が特に患者さんのために伝えた覚えのないものも含まれるだろう。その意味では後者は患者さんの努力?によりかなり異なってくることがある。たとえば患者さんが治療者がいつも運転してくる車を知っていて、駐車場に止めてあるその車の窓から内側を覗いたとする。そして歌手××のCDのケースを発見する。「あの先生は××の歌を仕事の行き帰りに聞いている」という治療者に関する情報。これなど、治療者はそのことをひた隠しにしているわけではないとしても、患者に知られることをあまり想定はしていないであろう。だからこの後者の消極的自己開示は、患者の側がどの程度知ることに固執するかによりかなりその範囲が異なることになるだろう。
 書いているうちに、広義の自己開示に第3のカテゴリーを設ける必要が生じた。つまり治療者が意図せず、患者に伝わるもの。これがまたまた分類されることになる。治療者が気が付いているか、無意識的なものか。複雑になったので、分かりやすくしよう。
広義の自己開示 ・・・A積極的な自己開示、
            B
消極的な自己開示
                       B1意識化されているもの
     B2無意識的なもの

これとは別に、AB1,B2を「言語的」「非言語的」と分けることも出来るだろう。
しかしこうやって分類すると、もっと複雑なことを考えなくてはいけないことが分かった。患者の方が曲解している場合はどうか?治療者の指に光るものを見たような気がして「先生は薬指に指輪をしているから、既婚者なのだ」と患者が思った場合、実際には指輪をしていないのであれば、「先生は既婚者である」という「情報」は、通常の意味での治療者からの自己開示とはとても考えないだろう。でもこれは極端な例だとしても、治療者からの自己開示は、さまざまな形で誤解、曲解されて患者に情報として伝わる可能性がある。これを言い出したらきりがないので、ここでの自己開示の議論は、そこに第三者が観察者として介在した場合に、その人にも比較的明白な形で確認されるような内容、と限定しなくてはならないであろう。

ということで上の分類に戻る。するとこのBに関しては、実は常に起きている、と考えていいのではないか。

私たちの個人情報は、私たちが存在するということにおいて常に「染み出し」、漏れ出している。それを防ぐために全身を幕で覆っても、それ自体が情報を出していることになる。「私は自分の情報を伝えまいとしています。」という情報か。

2014年9月22日月曜日

治療者の自己開示(7)

 今日も一筆書き。

こんなことを考えているうちに自己開示を分類したくなった。「広義の自己開示」を考えよう。それは患者にとって目に映る、耳に聞こえる、ネットで調べられる、治療者について表現されていることのすべて。たとえばオフィスの椅子の配置、机に置かれている写真立て、壁にかかっている絵など。治療者の顔、表情、声の調子もすべて含まれる。こうなるとこの広義の自己開示、どこまでが治療者固有の情報かがわからないことになる。たとえば壁の絵は、前のオフィスの所有者が置いて行ったものかもしれない。カウチは施設で勝手に用意したものかもしれない。しかもそれらの事情は治療者やその他の誰かが説明しない限り明確でない可能性もある。初めて会った治療者が嗄れ声をしていた場合を考えよう。それが彼独特の声かもしれない。しかしそのとき彼はたまたま風邪をひいていただけかもしれない。すると「治療者は嗄れ声である」はある意味ではその治療者に固有であったり、外的な事情に影響を受けた結果であったりする。なんだかこうやって書いただけでもムズカシー。
 この広義の自己開示をさらにあえて分類するならば、治療者が積極的に開示しているものと、特に隠す必要がないので患者にさらしているもの、つまり消極的に開示しているものに分けられるだろうか。前者には、たとえば治療者が選んだ壁紙や絵や、凝った椅子やカウチなどが含まれよう。特に同僚の思い入れのこもったプライベートオフィスに案内されたりすると、それらの数々に圧倒されることになる。それはたとえば誰でも使えるオフィスなどのように、最小限の家具しか置いていない味もそっけもないオフィスとはずいぶん違う。昔メニンガーでまだカウチを持たない生徒用のオフィスをしばらく使った後、自分のカウチをあつらえて(精神分析用のカウチなど市販はしていなかった)自分のオフィスに招き入れたことがある。その時はちょっと緊張したものだ。まあともかくも、以上が「治療者が積極的に開示しているもの」。
 後者には様々なものがある。分析家の出版物などもそうだろう。患者が「読みましたよ、先生の○○○という本」と言ってきた場合、「何のことですか?」とシランプリは出来ない。しかしこれが積極的に開示しているものかと言えば、ちょっと違う気もするのだ。だから後者に入る場合が多いのではないか。(もちろん治療者が皆に配って読んでほしい、できれば患者にも、という場合には前者に属する、ということになるだろう。)

2014年9月21日日曜日

治療者の自己開示(6)

今日は研究会。素晴らしい天気だ。

相変わらずこのテーマ、出口が見えないまま昔の私が書いたものを追っているが、治療者が自分の個人的な情報を伝える、という自己開示、様々な意味を持つ可能性がある。ちょっと自由連想してみたい。一筆書きだ。
 治療もある種の交流である以上、治療者の表出はことごとく自己開示という極端な理論が成り立つ。たとえ黙っていても「黙っている」という意志の表明であるという意味では。解釈も実はそうだ。フロイトは解釈は客観的な描写に過ぎないと思ったのだろう。例えば内視鏡を見る医者が「あなたの胃にはポリープがあります」というのと同じような意味で「あなたの無意識内容はAです」も自己開示ではないと考えたのである。しかし無意識がそんなに見え見えではないことがわかっている現代では、明らかにこれは治療者の考えの表明ということになる。以上の議論はいわば、「どれもこれも自己開示」という極端な話だ。
次にこの自己開示の中で、非治療的な可能性を持つものとそうでないものを分けてみよう。フロイトによれば、非治療的な自己開示は、患者が治療者に対して持つファンタジーや転移の幅を狭めてしまうものである。例えば治療者が「私はまだ候補生で修業の身です」と伝えたら、患者がむける理想化を大きく制限するということになるだろう。ということはフロイト的にはこの種の情報を伝えるべきではないということになる。
 ではたとえば「私はあなたの話に驚きました」と治療者が患者に言ったとする。これは非治療的に働くのか? 患者が治療者の持つ感情を様々に想像する可能性を狭める、という意味で治療的とは言えないのだろうか? うーんここら辺から議論が錯綜してくるのだ。一つには「治療者がベールに包まれることで転移の幅が広がる」という議論そのものの信ぴょう性が疑われることがある。そうしてもう一つ、たとえこの主張が正しくても、それが治療的かどうか、というのは別問題だ、ということがある。
つまりこの分析的に常に議論になる転移の幅の問題は、二重の問題をはらんでいる。私見を言えば、私は治療者がベールを一部はぐことで、転移の幅が逆に広がるということがありうるという。つまりこの提言は逆の場合がある。それともう一つ、転移の幅がたとえ広がったとしても、それが治療的とは限らないと思う。以下はそれらの説明。
例えば治療者が「訓練中です」と自己開示をした場合、訓練を受けているという治療者のファンタジーはとてつもなく広がる可能性がある。最初はすでに正式の分析の資格を得た分析家か、それとも修行中かわからず、結果として治療者の資格の問題についてあまり関心を持っていなかったかもしれない患者が、その自己開示により想像性を膨らませるということが十分ありうるだろう。これは例えば治療者が「私は既婚者です」と自己開示をした場合をとっても同じである。この自己開示をもとに、既婚者としての治療者に関する想像力が解き放たれるからだ。
それともう一つの問題。転移の幅が広がることは患者を不安にする可能性がある。患者がある重大な出来事を治療者に伝えたとする。治療者は顔色一つ変えないとしたら、これは不安を生むだろう。治療者は生きた人間なのか、という疑いさえ生みかねない。治療者は自己開示により生きて血の通った人間であるということが示されることで、初めて治療関係が安全に保たれるということもあるのだ。

こう書いていると、いかにも私は自己開示肯定派という風に読めそうだな。

2014年9月20日土曜日

治療者の自己開示(5)

このジュラードの示した態度は古典的な分析技法に対する勇気あるアンチテーゼとして傾聴に値するといえる。治療者が自分を開示した分だけ、患者の側の自己開示が促進される、という現象はおそらく治療場面で実際に生じている可能性がある。そしてその機序の一つは、治療者自身が自分の姿をある程度あらわすことで、患者の側にも自分が精神的に裸にされることに対する抵抗が和らぐという機序が働くのだろう。
ただし治療者が極端に自分を表現した場合、場合によっては転移の自由な発展を阻害することで、分析的治療自体の変質を招くおそれがある事を忘れてはならない。結局治療者の自己開示は、それが微妙な匙加減をもってほどこされることでその効果を発揮するといってよさそうである。臨床例1がいみじくも示す通り、私が行なったわずかな量の自己開示は、私がそれ以外では一貫して匿名性を保ったことにより意味があったのだろう。また同様のことは、臨床例4についての考察で述べたように、クライエントとしての私自身が、私の治療者に対して感じたことでもある。 
 これとの関連でやはり重要なのは、患者が治療者のプライバシーや実体を知りたくない、という気持ちがあるとしたら、それもまた尊重することである。ストリーン(Strean,1981)はこの事情を、患者が治療者を、目にすることが出来ず全能的な神として体験したいと願うことと関連すると述べる。一般に患者が治療者を自分の連想を自由に投影出来る対象に保ちたいという欲求は無視出来ない。しかしそこにはもう少しわかりやすい理由もあろう。それは治療者を保護したいという、時には過剰な配慮である。臨床例4で私自身が体験したように、治療者のプライバシーを知ることには、他人の領域を侵害してしまっているという不快感が伴いかねないとすれば、治療者のプライバシーを守りたいという私の気持ちは、治療者を苛立たせたくない、怒らせたくないという気持ちと複雑に絡みあっている可能性があり、それ自身が治療で扱われなくてはならない問題である。

 この、関係性の中で患者は治療者のことを知りたくないという気持ちを大切にしたい、というのはその通りであるが、これはなぜ生じるのだろうか? ファン心理を考えてみたい。たとえばある歌手が薬物を乱用していたということで、そのプライバシーが暴露される。ファンとしては興味津々という部分と、「見たくない、聞きたくない」という部分があるだろう。超有名演歌歌手の最近の醜聞についてもそれは言える。ファンとしては失望したくないわけだ。もちろん治療者が自分を示したからと言って、それが失望につながるとは限らない。しかし「なーんだ、普通の人間なんだ」とはなるだろう。
しかし治療者の個人的な情報が、特に失望につながらない場合もあろう。例えば治療者がA県出身、B大学を卒業、Cという会社に勤務した経歴を持つ、ということを知ったとする。もちろんB大学、C会社が持つ社会的な意味もあるだろうが、基本的には本来持っていた治療者のプロフィールとしての情報が若干詳細になるだけでさほど意味はないだろう。ネットで治療者についての情報が様々に検索できる世の中である。治療者が匿名性を維持して個人的な情報をかたくなに伝えない意味は昔ほどはなくなっているものまた事実なのである。

 ともかくも私がこの論文で至った結論は極めて常識であるといっていい。それは以下の通りだ。「治療者の自己開示は、それが患者との関係性の全体に及ぼす影響を考慮した上で為される場合にこそ治療的になり得る。すなわち自己開示を極端に控えることにより生じかねない患者の抵抗と、それを過剰に行なうことによる様々な問題点とを常に秤にかけた上で、最も適切な形でおこなわれるべきであろう。」