ここから話はいよいよ難解になっていく。
構築主義の立場からは、主要な防衛は、体験を創造したり分節化 articulate したりすることへの、無意識的な拒否、可能性に背を向けること、である。人が興味を持たないとき、体験は「なされず」、事実上存在しないことになる。それは心のどこかの隅に「留め置かれてparked」いたり、秘匿 secrete されているということではない。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。現在の状況が私たちの最も深い層にある情緒や意図と交流することで、各瞬間に体験が刷新される。しかし私たちは私がなすことを直接体験することで新しい体験を構築することに参加することはほとんどない。私たちがどれほど頭では自分たちの創造的な役割を信じていても、私達が実際に行うことはいつも招かざる性質 unbidden quality を帯びているのだ。未来は私たちのもとに来る。それは「見出される found」。それは「訪れる arrive 」のだ。次の瞬間はまだフォーミュレートされていない為に、それは様々に形作られる。しかしそれはどのようにも形作られるというわけではない。それが虚偽や狂気に陥らないようにするためには、様々な制限がそこに加わる。厳しい制限から緩い制限までが課されるのである。
From a
constructivist position, the primary defense is the unconsciously motivated
refusal to create or
articulate
experience, a turning away from the possibilities (Stern, 1983, 1989, 1991, 1997). When one does not deploy curiosity,
experience goes “unmade” and is therefore literally absent. It is not “parked”
or
secreted in some
corner of the mind; rather, it is never articulated or constructed in the first
place.
Dissociated
self-states, therefore, are potential experience, experience that could
exist if one were able to
allow it; but one
cannot, and unconsciously will not (Stern, 1983, 1997, 2002, 2003).From a constructivist position, the primary
defense is the unconsciously motivated refusal to create or articulate
experience, a turning away from the possibilities (Stern, 1983, 1989, 1991, 1997). When one does not deploy curiosity,
experience goes “unmade” and is therefore literally absent. It is not “parked”
or secreted in some corner of the mind; rather, it is never articulated or
constructed in the first place. Dissociated self-states, therefore, are potential
experience, experience that could exist if one were able to allow
it; but one cannot, and unconsciously will not (Stern, 1983, 1997, 2002, 2003).
The
interaction of present circumstances with our deepest affects and intentions
creates every moment of experience anew. We seldom directly experience what we
do to participate in constructing our own experience, though. No matter how
intellectually convinced we become of our creative role, our experience—what we
actually undergo—has an unbidden quality. The future comes to us; it is
“found”; it “arrives.” Because the next moment is unformulated, it may be
shaped in many different ways—but not in just any ways at all. There are
significant constraints, ranging from tight to loose, on the experience we can construct
without lying or succumbing to madness (and even in madness the constraints do
not disappear— their expression becomes bizarre).
この引用から分かることは、私たちの体験とは刻一刻私自身により創造されているようで、実は心の深層と外の現実世界とのかかわりで私たちに訪れてくるということ、そして体験もそのようにして成立していくということである。そして解離されているものもそのようにして私たちの体験に組み込まれていくことになる。
私たちのなすことが、「向こうから来る」という性質は、でも思考においても表象についても言える。考えが、発想が、新しい旋律が、向こうからやってくる。時には厳格に近いような生々しさやリアリティを伴って。もちろん誰にでも同じようにそれらがやってくるというわけでは決してない。たとえば私には聞いたことのない旋律が湧いてくる才能はないが、作曲をする人の場合はこれがあるはずである。
以上の内容は、脳科学的には誠に正しい観察である。前野隆司先生の言う「受動意識化説」が示す通り、(私も同じことを「マルチネットワークモデル」で書いたが)私たちの意識は実は幻で、仮想的なものであり、脳のネットワークが自律的に産出したものである。そのことをすんなりと受け止めた場合、全てはエナクトメントである、という私の最初の極論に至るということになる。しかしスターンやブロンバーグの議論は、それを解離と結び付けているところが特徴である。それはそれで歓迎なのだが、すると今度は「何でも解離」になって混乱するのではないかと心配するのである。ということでもう少し翻訳を続ける。
フォーミュレートされていない体験という概念はしかし、現実が存在する、ということの否認ではない。むしろ以下の主張をしている。すなわち現実は所与 a given ではなく、むしろそれは体験が偽りのものとしてではなく成立するための限界のセットである。それらのうち厳しい制限、たとえばあるエナクトメントの意味をフォーミュレートする自由に対する制限でさえも、たくさんの解釈が可能な十分に広い余裕を残している。とすれば解離は、ある明白な体験により分節化され、フォーミュレートされるような一定の可能性の範囲を考慮することを無意識的に拒絶することであり、それらを露わにする興味を遮断してしまうことだ。ある瞬間に私たちが構築する自由を有する可能性をどれだけ持つかは、その瞬間に私たちに与えられた対人的な場が何を意味するかによるのだ。
相変わらずわかりにくい部分だが、結局解離されたものとは、意図的な、意味を与えられた(フォーミュレイトされることとは、結局そういうことだろう)言動を作り上げていくことを拒否すること、そこに注意を向けずに思考しないで置くこと、という事が出来るだろう。
ということで先ほどのわかりにくい臨床例がまた登場する。
私の臨床例では、私は自己愛的な喜びを直接的に体験し、患者をがっかりさせるような仕方でエナクトとした。(患者が順調に行っているというのをあまりに簡単に受け入れすぎた)。他方では私の患者は、私を喜ばせるという試みをエナクトした。(彼は自分の「進歩」により私を喜ばせているということに気が付かなかった)。そして親―分析家が、物事がちょっとうまく行っているということに簡単に騙されてしまうことにがっかりするということを直接的に体験していた。(つまり私の患者は自分がどのように見えるかについて騙されるようなことはなかった。彼の分析家のようには)。私は実際に患者をがっかりさせるという、自分の無意識的な参加を知り、罪悪感を持った時に初めて、その葛藤を体験できたのである。(ただし私は自分のエナクトメントを、それが私の中の葛藤という形で解決できるまでは気付けなかったということが大事である。)
In my clinical illustration we
could say that I directly experienced narcissistic pleasure and enacted
a
way of letting down the patient
(I accepted too easily that things were going well), while my patient
enacted his attempt to please me (he did not realize he was
encouraging me to feel happy with his
“progress”) and directly
experienced what it was like to be let down by a parent-analyst who was all
too
ready to be fooled into
believing things were hunkydory (that is, at every step of the way, my patient
knew better than to believe his own presentation). It was not until I found my
way to an awareness of my
unconscious participation, the
way I actually was letting the patient down, and to the guilt that I
could then formulate, that I was in a position to experience the conflict and
to negotiate it. (But keep in mind that my descriptions of what I was enacting
could not have been formulated until the enactment resolved into a conflict
within my own mind.)