2014年8月31日日曜日

解離と脳科学(推敲)(6)

ショアの説く自己の理論
最後に同論文でショアがとく自己 self の理論が興味深いので、ここで付け加えておきたい。彼の説は、脳の発達とは自己の発達であり、それはもうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立する、と主張する。そしてその中でも最初に発達を開始する右脳の機能が大きく関与している。
ショアは、自己の表象は、左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えがコンセンサスを得つつあるという。前者には言語的な自己表象が、後者には情緒的な自己表象が関係しているというわけだ。この右脳の自己表象とは、フロイトの無意識や、非明示的な情報処理とも関係しているということだ。さてこのままだと右脳の自己というのはなにやら抽象的でつかみどころのないものなのだが、一説によると右脳の非言語的な自己を支えているのが、情緒的に際立った体験と記憶であるというHappaney, et al 2004Happaney, K., Zelazo, P.D., & Stuss, D.T. (2004). Development of orbitofrontal function: Current themes and future directions. Brain and Cognition, 55, 1-10.)つまり具体的な体験や記憶がその右脳の自己のネットワークを紡いでいるということだ。そしてそれは身体的な自己の形成をもつかさどる。右の前島 anterior insula 右の眼窩前頭皮質は共同で意識化できるような内臓レベルでの反応を形成するという。それが自己の主観的な感情レベルの形成に貢献するというCritchley,et al .2004Critchley, H. D., Wiens, S., Rothstein, P., Ohman, A., & Dolan, R . J. (2004). Neural systems supporting interoceptive awareness. Nature Neuroscience, 7, 189-195.)。自己、といってもその具体的な内容は、神経ネットワークであり、それは記憶により成立しているものだ。そしてそれを妨害し、そのネットワークの成立を根底から揺るがすのがトラウマ体験であるという。右脳の刺激によりさまざまな離人体験が引き起こされるというBlanke 2002)らの研究もそれに関係しているということになる。Blanke, O, Ortigue, S., Landis, T., & Seeck, M . (2002).

Stimu lating i l lusory own-body perceptions. Nature, 419, 269-270.

2014年8月30日土曜日

解離と脳科学(推敲)(5)

ひょんなところから急に決まったハイデルベルグ行き。でもハイデルベルグってどんなところだろう? ドイツの一地方、という以外には、もちろん「ハイデルベルグ人」しか知らない。歴史の教科書の最初のほうに出てきたやつ。そういえば昔アランドロンの映画に、彼扮する主人公がバイクに乗ってハイデルベルグに行く、というシーンがあったぞ。まあ、どうでもいいか。フランクフルトまで行って、そこから電車で2時間ほど。ハイデルベルグにもホテルってあるんだろうか?そりゃそうである。今ではインターネットでスムーズにいくところだろうが、そのころはシカゴの旅行会社にすべて頼んでいた。英会話の練習になったな。そして話はあっという間に当日になる。(早く終わらそうとしているな。)その日私はカンザスシティ発、シカゴ行の便の航空券を握りしめて(実際は握っていない)空港に向かった。もう11月の20日過ぎのことだった。(そうだ、その年の学会は、珍しく11月の後半だったのだ。)すでに季節外れの雪が降り、飛行機がちゃんと発つか危ぶまれたが、アメリカン航空のカウンターのおねえちゃんが冷たく言った。「あなたの乗る便は雪のためにキャンセルされました。」「えーっ!!!」 その日の夜9時までにシカゴにつかないと,9時半発、フランクフルト行に乗れないし! そうするとすべての努力が水の泡になってしまうのだ。やっぱりこの計画、無茶だったのだろうか?・・・・ それでも私はしつこくおねえちゃんに聞いた(おばさんだったかもしれない。)「なんとか、9時までにシカゴにつく方法はありませんか?」するとアメリカ人にしては親切な彼女は、しばらくパソコンをパタパタやっていたが、「そうね、ミネアポリス行のこの便と、そこからシカゴに行くあの便をつないだら、いけないことはないわね。ちゃんと飛び起つかはわからないけれど、やってみますか?」「も、モチロン!!」

CANという概念
この右脳の機能をわかりやすく表す言葉として、CANという概念が提出される。これはCNS-ANS limbic circuits の省略形である。ここでCNSとは中枢神経系 Central Nervous Systemを、ANSは自律神経系 Autonomic Nervous Systemを意味している。つまり CANとは「中枢神経-自律神経-辺縁系」を結ぶサーキットのことだ。上に述べた皮質と皮質下の連携のことである。
このCANは内的、外的な刺激を統合し、目的に沿った行動に貢献するものである。その中では情報が「上から下へ」(つまり皮質から辺縁系へ)あるいは「下から上へ」と両方向に行き来し、交感、副交感神経のアウトプットを生じさせる。このCANにはさまざまな情報が入るが、それによりかなり柔軟な対応を見せ、交感、副交感神経は相互補完的に流動的に動く。ところがその柔軟性、流動性が失われてしまうのが、トラウマにおける反応である。それはたとえばトラウマ状況にある母親の一方での興奮と、他方での解離という情報を同時に得て両方向に引っ張られるという状況により生じる。それが極端であると、CANの中の連携がちぐはぐになり、子供も解離を起こすという。つまり解離とはこのCAN内の齟齬、不調和という形をとるのである。ここでその不調和は、たとえば副交感神経のうちより洗練された腹部の機能から、同じ副交感神経の背部の機能に移ってしまうという形をとるという。この理論の支えになっているのが、ポージス Porges という研究者の理論である。彼によれば迷走神経は、進化論的により新しい腹側迷走神経と、より古い背側迷走神経に分かれ、ストレス時にはその支配が腹側から背側へと移り(これを私は「背に腹を変えられなくなり」と覚えている)、より原始的な反射としての解離状態が生じるというわけである。
解離と右脳との関係(というよりは幼少時のトラウマと右脳の機能不全)については近年になりさらにいろいろなエビデンスが出されているようだ(D book p.22)。霊長類に関する研究では、フリージング状態では、右前頭葉の過活動(直観的には活動低下と思うのだが)とストレスホルモンの一種のコルチゾールのベレルの低下がみられるという。ラットでも右頭頂葉の病変により、一定の条件下で生じていたフリージング現象が起きなくなるという研究もある。とにかく霊長類とか幼児に見られるフリージングとは背側迷走神経の興奮と徐脈とが関係し、それは深刻な病的解離であるというのがショアの説明である。
ところでここは補足であるが、解離において起きていることを明らかにするということは、これまでの恐怖の際のキャノンの理論、つまり「fight-flight response 闘争-逃避反応」だけでは物足りないという理解を私たちに促す。私もすでにこのことについて書いているが、要するにキャノンのストレス時の二つFの理論に加え、もうひとつのFが加わるのである。つまりストレス時には固まり反応 freeze response も加わるのだ。そしてそれだけではなくもう一つPが加わり、それが麻痺反応 paralysis であるという。すると危機の際の反応は、
積極的なもの・・・・闘争、逃避
消極的なもの・・・・固まり、麻痺
の二種類に分かれることになる。そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。このうち固まり反射と麻痺との違いは、前者はまだ意識があるが、後者は意識がない状態ということだが、これは背側迷走神経核の興奮の度合いにより異なるらしい。ショックの際に徐脈になる反応というのが知られているが(fear bradycardia 恐怖徐脈)それがさらに深刻になると失神に至るということだ。
ともかくも現代的な恐怖反応は、もはや「FF」ではなく、「FFFP」であるということは、記憶にとどめておきたい。
 




2014年8月29日金曜日

解離と脳科学(推敲)(4)

さて解離の右脳でおきていることを知るためには、PTSDの右脳でおきていることを理解する必要がある。解離とPTSDは、ともにトラウマの反応といえるが、そこではおおむね逆のことがおきているものとして説明し、理解するのが最近の傾向である。PTSD関する生物学的な研究はかなり進んでいるため、解離をそれの裏返しと考えることで、同時に解離の生物学的な理解も歩調を合わせることが出来るのだ。
 ただし少し複雑なのはPTSDの患者でも、解離状態を呈することがあるという点だ。PTSDでは典型的なフラッシュバックの時のように過覚醒になる時もあれば、鈍麻反応の時のように、心身の活動が低下する場合もあり、後者の場合はより「解離的」となる。このことをかのヴァンデアコーク先生は、トラウマにおける「二相性の反応」と呼んだ。PTSDすでに解離反応を内側に含んでいる、というのが解離論者の考え方である。
そこでまず、PTSDの典型的なフラッシュバック時などのような過覚醒状態を考えると、心臓の脈拍の亢進とともに、右後帯状回、右尾状核、右後頭葉、右頭頂葉の興奮がみられるという(Lanius et al, 2004) 。そして解離状態の場合、ないしはPTSDの患者が解離的な状態に反転した場合、たとえばトラウマ状況を描いた文章を聞くことで逆に脈拍数が下がったりする場合には、逆に右の上、中側頭回の興奮のパターンが見られたり、もっと最近では右の島および前頭葉の興奮が見られるという(Lanius, 2005)。いずれにせよ過覚醒にしても解離状態にしても、そこで異常所見を示すのは右脳の各部ということになる。
 ではこれらの独特の脳の活動のパターンが形成されるのはいつなのか?こ
こで先ほど述べDの愛着の話が絡んでくる。つまりそれは幼少時であり、その際のトラウマは右脳の独特の興奮のパターンを作り出し、それがフラッシュバックのような過剰興奮の状態と解離のようなむしろ低下した興奮状態のパターンの両方を形成する可能性があるというわけだ。通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫 soothing が得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしDの愛着が形成されるような母子関係において、その慰撫が得られなかった際に生じると考えることが出来る。それがいわば反跳する形で逆の弛緩へと向かったのが解離と考えることが出来るのだ。
そして解離は特に右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味し、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もあるという。
ここでさらにショアの説を紹介するならば、右脳は、左脳にも増して、大脳辺縁系やそのほかの皮質下の「闘争逃避」反応を生むような領域との連携を持つ。これは生後はまずは右脳が働き始めるという事情を考えれば妥当な理解であろう。そして右脳の皮質と皮質下は縦に連携をしていて、この連携が外れてしまうのが解離なのである。ここで大脳皮質というのは知覚などの外的な情報のインプットが起きるところだ。それに比べて皮質下の辺縁系や自律神経は体や心の内側からのインプットが生じる場所である。そして皮質はその内側からのインプットを基本的には抑制する働きがある。そのことは、この抑制が外れるとき、例えばお酒を飲んだ時にどうなるかを考えれば理解できるのだ。


2014年8月28日木曜日

解離と脳科学(推敲)(3)


第一次試験はアメリカ全土で一斉に行われる。問題作成の手間などを考えると年に何度も行われることはない。それは米国精神神経学資格協会から、一方的に割り当てられ、その年の受験を逃すと、丸々一年待たなければならなかった。私は時々書類に書き入れなくてはならない自分の資格として早く「BC」(Board Certified 専門医資格認定を受けた)と書けるようになりたかった。いつまでも「BEBoard Eligible 専門医資格試験を受ける候補の、もう少しわかりやすく言えば、資格未認定の)と書かなければならないのは耐え難かったのである。しかしこのままだと無駄に一年待つことになる。
ところで記試験はアメリカ全土で一斉に行われるので、その場所を各自が選ぶことが出来た。もちろんどこで受けても結局は同じだ。私の地元近くのカンサスシティで受けるよりもカリフォルニアなどの東海岸で受ける方が2時間ほど早く受けられるが、そのぐらいでは全く意味がない。せめて一日予定が早かったら・・・・。ため息をつきながら会場のリストを見ていると、・・・・あったのである。ハイデルベルグ。実はドイツのハイデルベルグの米軍基地内で、ドイツで働く米国籍の精神科医のためにも、米国の国外で唯一、この筆記試験が受けられることが分かったのだ。そしてその時間帯を見ると…。ちょうど米国内での実施の半日前。つまり先に日付が改まるハイデルベルグの方が12時間ほど前に事件が行われる。これは時間が稼げる。ということは、地元のカンザス空港からシカゴに、シカゴからドイツのフランクフルトに、フランクフルトから電車でハイデルベルグに、そこで試験を受けてフランクフルトに戻り、そこから成田への直行便に乗るという方法をとると、ギリギリで東京での学会に滑り込むことが出来ることが分かったのだ!(実はこの試験はおかしい。だって半日前にハイデルベルグで試験を受けて問題を知った受験生が、本国にその内容を伝えるということで一種のカンニングが出来てしまうことにもなろう。でもそこらへんは割といい加減なわけだ。) そんな飛行機の乗り継ぎが出来るのかと、シカゴのいつもの旅行会社に問い合わせたが、奇跡的にそれが可能なルートがあったのだ!!

とまあ私のハイデルベルグ行が突然決まったわけだが、ことはこのままスムーズに済まなかった。(つづく) やはり書いているうちにどうでもよくなってきた。

解離と右脳
 これまでの記述から、解離と愛着の問題の概要がご理解いただけたと思う。解離において生じていることは、愛着の障害の一環として理解できる。それは生理学的に言えば、交感神経の過活動の次に起きてくるフェーズである、副交感神経の過覚醒状態ということが出来る。
 ところで愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の同調により深まっていく。親は視線を通して、その声のトーンを通して、そして体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は安定した母親のそれによって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かっていく。それらの成熟とともに、子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのだ。
逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。というのも人間の発達段階において、特に最初の一年でまず機能を発揮し始めるのは右脳だからだ。そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。するとたとえば生後二か月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す。(Tzourio-Mazoyer, 2002) (Tzourio-Mazoyer,N.,DeSchonen,S.,Crivello,F.,Reutter,B.,Aujard,Y. & Mazoyer,B . (2002). Neural correlates of woman face processing by2-month-old infants.Neuroimage, 15,454-46l.)

 子供がより成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が備わり始めるのは、4,5歳になってからだ。しかしではそれ以前に生じたトラウマは意味を持たないのかといえば、そうではない。赤ん坊は何も記憶ができない状態でも、すでに生理学的な存在として、その脳はさまざまなストレスに対する対応のパターンを形成していく。そしてそれが主として右脳を主座とて生じる。そこで誤ったパターンが形成された場合は、その後の人生でその影響をこうむることになる。
 では右脳の機能がきちんと発達し、備わっていくことを示すのは何か。それが愛着なのである。愛着がきちんと成立することは、右脳が正常な機能を獲得したということを意味する。


2014年8月27日水曜日

解離と脳科学(推敲)(2)

ともかくもハイデルベルグである。私はハイデルベルグ行を決める少なくとも3日前までは、自分がそんなところに用事があるとはとても想像していなかった。ところがそれなりの必然が生じたのである。私はその頃3回の口頭試問に落ちて、おそらくかなりブルーだった。またあの筆記試験を受けなくてはならない。とにかくそれをパスして、また口頭試問に挑戦しなければ。その頃私はかなり卑屈になっていたところがある。クラスメートたちの多くは、メニンガークリニックの地元であるトピーカの町で仕事を得つつ、徐々に外の州に居を移していた。しかし町で彼らに出会うことは頻繁である。ボード(専門医試験)に受かることは、精神科医となった人々が少なくとも数年頭を悩ませることだ。中には卒業して最初のボードに失敗し、落ち込む仲間もいるが、2回、3回とトライをしていくうちに受かり、その彼らの顔が徐々に明るくなっていく。その中で一人取り残されていく感覚。早くそこから脱出したいと願う。それなのにまた振出しに戻った私はさらに足止めを食うことになる。でもとにかく早く一次試験を突破してしまいたい。そこで取り寄せた資料から、再び一次試験の開催場所とその日時を探る。そこでショックを受けた。なんとその日は、私が日本の学会に出るために帰国するする日に当たっていたのである。その頃私は10月の後半に日本で開かれる精神分析学会に合わせて数日間帰国することにしていたのだ。ところが運悪くその年、(おそらく1997年くらいだったと思うが)その予定がかち合ってしまった。学会での発表はもう決まっていることである。今更取り消すわけにはいかない。しかしその年の筆記試験を逃すと、およそ一年さらに足止めを食うことになる……。呆然としたのを覚えている。ただここで普通だったら諦めるだろうが、私はあきらめることが出来なかった。私がその試験を受けて、かつ学会に出席できる方法を探した。常識だと試験を受けて当日に日本を絶つことなどできない。ところが・・・・ひとつだけあったのである。(つづく) ← 実は書く気力を失ってきている。全然たいした話ではないのである。なんでこんな話をしだしたのだろう。

このタイプDについての話を続けよう。ショアはこれを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存だという。つまり他人の侵入という状況で、愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。そしてそれが、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。そしてそれがまさに解離状態であるというのだ。
これに関するもう一つの研究は、Tronick らによる、いわゆる能面パラダイムstill-face procedure である。つまり子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、こどもはそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、と言った解離のような反応を起こすというのだ。
このタイプDの愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供に対してそれを恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。(同論文114ページ、引用された文献はHesse, E., & Main, M. (2006). Frightened, threatening, and dissociative parental behavior in low-risk samples: Description, discussion, and i nterpretations. Development and Psychopathology, 1 8, 309-343. (つまりこれもメインの業績ということか。怪物だな。) 
このことからショアが提唱していることは極めて重要だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的に言うならば、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンfiring patterns of the stress-sensitive corticolimbic regions of the infant's brain, especially i n the right brainの取り入れ、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、と言ったらもう少しわかりやすいかもしれない。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。そしてそこに解離様反応の世代間伝達も含まれる、というわけである。

これを書いていてひとつ思い出したことがある。ある本(マット・リドレー 柔らかな遺伝子)を読んでいて、子供に育てられたサルが蛇を怖がらないという話が出てきた。そこで蛇に野生のサルが反応するのを子ザルたちに見せると、いっぺんで怖がるようになるという。野生のサルが檻のてっぺんまで飛びのいて、驚愕に口をパクパクさせるのを見た後は、子ザルたちは模型の蛇でさえ怖がるようになる。これはどういうことか。ある見方からすれば、子ザルたちは母親の情緒反応パターンを取り込んだのだ。ショアの言うとおりに。ところが別の見方をすれば、一緒にトラウマを味わったことになる。子供が幼少時に受けるトラウマはこのように、刷り込みの意味を含むからこそ意味が深いことになる。おそらくトラウマを起こしてきた人の様子も含めて、右脳の皮質辺縁系の回路に刷り込まれるというわけだ。そしてそれが解離についてもいえるということになる。

2014年8月26日火曜日

解離と脳科学(推敲)(1)

しかしなぜハイデルベルグの旅について書くのか。一つにはこれがいかにも私らしい、強引な、あるいはsingle-minded な意図に基づいた旅だったからだ。それにこの話は私のクライエントとも家族とも関係ない。それになんといってもはるか昔の出来事だ。そしてこれも重要なのだが、自慢話ではないという点も重要だ。(むしろ逆である)
その頃(1990年代の半ば)、私は精神科の専門医試験に苦しんでいることは書いた。この試験は筆記試験と口頭試験に分かれる。精神科のレジデントトレーニング(医学部卒業後4年間。外国人医師である私は、渡米してからまずこの一年目に合流したわけである) が終わると次の年に、この筆記試験を受ける。合格すると口頭試験を受ける。これに受かるとめでたく精神科専門医、となる。私の所属していたメニンガークリニックは言っちゃなんだが、精神科医のトレーニング期間としては「名門」なので、みな優秀な連中ばかりだった。筆記試験、口頭試験とすいすいと合格する。両方とも合格率は6割くらい。だから一回で両方とも突破するのは34割ということだが、大半のクラスメート(つまりレジデントトレーニングの同期生)は受かってしまった。私も筆記試験は一回で突破できた。問題は口頭試問である。 この口頭試験について少し説明する。これは実際の患者を前に30分の診断面接をして、その所見をまとめて口頭で報告する、というものだが、やたらとキンチョーする場面である。なぜなら試験官が患者とインタビューする私の一挙手一投足をじっと見つめているからだ。30分の面接が終わると患者が退出し、私は23分の時間をもらって内容をまとめ、10分くらいで所見をまとめる。来談経緯、主訴、現病歴、既往症、社会生活歴、精神症状検査、診断的理解と根拠、除外診断、治療方針、と一気にとうとうと述べなくてはならない。そのあと試験官からの質問に答える。これらすべてに30分かけるので、一時間で試験が一通り終わるというプロセスだ。人によっては精神科医のキャリアーの中で最もストレスフルな体験といことになる。
さてこの口頭試問は3回まで受けられる。口頭試問はアメリカの各地で年に34回ほど行われているため、そのために仕事を休み、受験料や旅費を支払うなど、大変な出費である。しかも口頭試問に3回失敗すると、最も過酷な運命が待っている。もう一度筆記試験を受け直さなくてはならないのだ。筆記試験のために詰め込んだ勉強のおさらいをし、再び3回の口頭試問を受けられる権利を得るために試験場に赴くのである。
私のアメリカ滞在の17年のうち少なくとも10年は、口頭試問にいかに合格し、専門医としての資格を取るかに頭を悩ませていたのだが、実はここに興味深い事実がある。専門医に合格して何が特典になるかというと、実はあまりないのである。せいぜい専門医の合格証をオフィスに飾るくらいだろうか?専門医でなくても普通に薬の処方は出来るし、患者さんは自分の精神科医が専門医の資格を持っているかどうかなど全然気にしない(というかそういう資格があるかも知らない)のである。それなのに、どうして私は10年間も血のにじむ思いをして奮闘したのだろうか?ワカラナイ(つづく)



 ということで解離の話だ。解離の治療論は、脳科学的な情報を持つことでどのように変わるのであろうか?これは臨床家にとっても重要な問題である。私は脳を視座に取り込む精神医学の臨床家であるという立場と、こころを扱う心理士という立場の両方を常に考えているが、そこではハードウェアとしての脳の知見が日常臨床にどのような影響を及ぼすかに常に興味がある。そこでこの問題について解説を加えたいが、それはもちろん私自身が脳の研究を行うということではない。ふつうの人間には研究と臨床の両方に取り組むには時間が足りない。それに私よりはるかに能力と熱意と時間とを持つ多くの研究者による知見は続々と得られている。私にできるのは、優れた脳の研究者を導き手にしてそれを学び、一般の臨床家に伝えることである。
 私が現在その導き手として仰ぎ見る何人かの研究者の一人として、アラン・ショアAllan Schore博士がいる。実は彼は、研究と臨床の両方を行うことは普通はできない、といった先ほどの言葉の例外である。彼はよほど「ふつう」でない力を持っていると考えざるを得ない。
前もこのブログで読んだことがあるが、大変な碩学である。彼は脳と臨床を結び付けて論じるという活動をたいへん精力的に行っている。彼は右脳の発達と解離の問題について非常に啓蒙的な著作を表している。本稿は基本的に彼の論文Allan Schore: Attachment trauma and the developing right brain: origins of pathological dissociation In D book, 107~140 を手掛かりに、この脳と解離という問題について探っていく。
解離という心の働きを根本的に理解するためには、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならない。すなわち解離性障害とは、それが基本的には愛着トラウマ(同論文)による障害のひとつ理解されることを常に念頭に置くべきなのである。
ただし解離は、愛着の直接的な影響と決めつけるわけにはいかない。解離はある意味では二次的な反応というのだ。母親による情緒的な調節を行えないと交感神経が興奮した状態が引き押される。すると心臓の鼓動や血圧が更新し、発汗が起き、一種の興奮状態が訪れる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。するとむしろ鼓動は低下し、活動は低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時とくに興奮しているのが背側迷走神経のほうだ。(迷走神経を腹側、背側に分けて考えるのは最近の理論である。)解離は生理学的にはこのような状態として理解できるというのである。
そしてショア先生はこの状態と、いわゆるタイプDの愛着との関連に転じる。
タイプDの愛着とは、メアリー・エインスウォースの愛着の研究のあとを継いだもう一人のメアリー(メイン)の業績だ。ここら辺いいかな。他人が侵入するといういわゆるストレンジシチュエーションで、ストレスにさらされた子供が示す反応についての分類だが、タイプDのこともは親にしがみついたり、親に怒ったりというわかりやすいパターンを示さず、混乱してしまうのだ。ショアによれば、タイプDの特徴である混乱disorganization と失見当は、解離と同義だという。これは虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。
わかりやすく言えば、このパターンを示す子供の親は虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に素直によっていけない。だから親に向かって後ずさったり(親に向かっていくのではなく)、親とも他人とも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるという。

このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与える。

2014年8月25日月曜日

エナクトメントと解離 推敲 (11)

昨日テレビを見ていてふと、昔ドイツのハイデルベルグという場所に一泊したことがあるのを思い出した。何年前のことだろう?アメリカにいたころだ。1998年くらいか。全く非日常的なことがあると、その日のことは一日しっかり覚えているものだが、この日も朝から晩までほぼ記憶に残っている。なぜハイデルベルグなのか?そのころ私は何度受けて儲からない試験に挑戦していた。アメリカの精神科専門医試験である。私には7回落ちた試験と、5回落ちた試験がある。そのうち7回落ちたほうだ。5回落ちたのは当時FMGEMSと呼ばれたもの。米国の医師免許を獲得するための予備試験のようなものだ。これも苦労したな。こちらの方は1983年から1988年前での5年間の話である。
ともかく。どうしてハイデルベルグという縁もゆかりもない土地に一泊したのか。旅行という目的も特にあったわけではない。その土地に興味があったわけでもない。そこでその専門医の試験があったからである。なぜハイデルベルグ?米国の試験なのに。(つづく)


精神分析における解離理論から見えること

やはりこの項目を書いておくことは大事だろう。一つ言えることは、精神分析の世界は、もはやフロイトの時代のように、解離をタブー視し、抑圧一辺倒の考え方をするといった風潮からは変わりつつあるということだ。しかしあくまでも米国の分析の世界についていえることだが。だがその急先鋒たるスターンの論述を見ても、そこで出てくる解離は、あくまでも「広義の解離」とでもいうべきものに過ぎないという印象を受ける。(それとの対比で、解離性障害における解離を「狭義の解離」と呼んでおこう。)解離されている心はいずれは治療そのほかを通して主体に取り入れられる。そしてあくまでも主体は一つということになる。
 このような考え方は、「本当の」あるいは「より狭義の」ないしは「より深刻な」解離性障害に悩む人にとっては必ずしも助けとはならないかもしれない。ある患者Aさんが、解離状態で「父親は嫌いだ」と言ったとする。スターンならAさんが解離をしていない状態Bで「父親は大好きだ」と言った時に、どこかにザワつき chafing を感じるだろうというだろう。「父親が大好きだ」という言葉や、それを表現するような行動をある種のエナクトメントとして理解することになる。しかし本当の解離では、それを本当に記憶していないのだ。「父親が大好き」という気持ちを語るためにはBさんを呼び出す必要があるが、その種の言及は一切ない。その意味ではスターンの解離理論はそもそも別人格という考え方を前提としていないのである。その結果として彼の議論がスプリッティングや抑圧にもとずく分析理論と似てくることには十分な根拠があったのである。
ただしスターンの理論にある種の希望があるのは、解離された部分を所与 a given として扱っていないという点なのだ。解離は外側にあって、また主体Aによっては体験されていないということ。それは抑圧されたものはすでにAの無意識に存在していたという考え方と真っ向から対立する。Aは「父親が大好き」を、新しいものとして体験する。ただし体験する用意があれば、ということであるが。
ここにスターンの解離論が、狭義の解離に関する理論と、分析理論の中間に位置することが見て取れるであろう。それは解離された内容を、抑圧された内容のように所与のものとは扱わない点において、「狭義の解離」理論に似ていて、でもそれは結局ひとりの心の辺縁部(無意識と言ってもいいのだが)に形を成していないながらも存在しているという意味では、やはり分析的なのだ。


2014年8月24日日曜日

エナクトメントと解離 推敲 (10)

昨日テレビで見たBNCTウ素中性子捕捉療法) という治療法。なんとすばらしい・・・。数年後には本格的に実用化される可能性があるようだが、これがあったら救われたような固形癌の患者さんたちがたくさんいたことだろう。日本の研究者がこれを開発していることを誇りに思う。

エナクトメントにかかわる苦しみも、結局は自分が自分の体験や行動の主体となっていないという体験に関係している。
エナクトメントでは、それとは対照的に、体験はそれに影響を与えることができずに絶望的になることもあれば、ほかの人に押し付けられたという感覚を与えるようなものである。時にはそうとは気が付かずに起きてしまうのだ。それらの種類の体験のなかでも、特に強制されたという感覚は、エナクトメントではしばしば体験されることである。私たちは奴隷により、そのように生きることを強制されて made いると感じ、どうすることもできない。(訳注:この made は、解離や統合失調症に見られる作為体験 made experience のニュアンスを有する。)解離の場合には、自分の生を自分が十分に棲まわっているという感覚、ウィニコットが述べた真の自己の「本物である感覚」を持つことができないのだ。
 
私はこの論文を、「目はどうやって自分自身を見るか」という謎かけにより始めた。後に私はそれをより回答がしやすい形に変えた。そしてわかったのは、逆転移を知ることは不可能であるのは、私たちを専心さsinglemindedness という観点から見たときだけである。私たちの心が一つの状態しか取りえない時、自分自身を観察することは、心を捻じ曲げて不可能などこかから眺めるようなところがある。これが「ブートストラッピング(靴紐)問題」だ。
(訳注:bootstrap =自分自身で自分のことをやり遂げること)。葛藤を持てるようになると、私たちは心を膠着状態にしてしまっている一つの固執した考えにたいして、もう一つの選択肢を設けることが出来ることになる。私たちは複数の意識状態を作ることが出来るのだ。専心状態から脱するということはいくつもの内的な状態を持つ事が出来、一つの心がもう一つの心を、形而上学的な歪曲を経ることなく眺めることが出来るようになる。逆転移への気付きという、それ自体が不可能な問題は、葛藤を体験することにより先進さを超克することで解決するのだ(p. 230)。
これらの引用により、スターンの主張はほぼ尽くされたとみていい。しかし素朴な疑問は残る。古典的な精神分析との決定的な違いはどこなのだろうか? 
 例えば愛と憎しみという古典的な葛藤。愛する気持ちと憎らしい気持ちの両方を持っているのが葛藤。「愛してだけいる」とだけ思っていて、相手を苦しめるようなエナクト
メントを起こしているのが解離状態ということになる。しかし後者は、「憎しみを抑圧した状態」とどう違うのだろうか? 「抑圧の場合には、失策行為や症状として現れるはずだ」というのが答えだろうが、相手を傷つけるようなことを「誤って」言ってしまったという行為は、果たしてエナクトメントとどう違うのか? この問いに対する明白な答えはおそらくないのであろう。
最後に
このスターンの論文は、非常に散文的なものだが、その最終部分に、ジョンレノンの言葉が出てくる。「人生は、その計画を立てている最中に生じてくるもののことを言う。Life is what happens while you are making plans.事柄がまず最初に自分の身に起きる。反省は常に後から付いて回る。そしてその意味を理解する。それが人生というものだ。
 スターンの主張を以下のようにまとめられるだろうか?
私たちはある種の行動を起こした時に生じる心のざわめきをきっかけに、その行動を振り返り、そこにもう一つの心の可能性を知る。それが治療においても生じ、現実の世界においても生じるということだ。その行動をエナクトメントと呼び、もう一つの心を解離された心と呼ぶわけだ。そしてその解離された心とは、何か既にあってそこに眠っているものではなく、まだ象徴化されていない、すなわち言葉にすらなっていないようなものというわけだ。

解離についての議論の一環としてこのテーマを追って来たが、もちろん「解離性障害」における「解離」との違いは明らかである。解離性障害における「解離」とは、ある意味では象徴化されているものである。ただしそれはその主体Aにおいてではない。別の主体、主体Bにおいて、なのだ。それが主体Aに持ち込まれてそこで葛藤として成立することが精神分析の目標であるとしたら、「解離性障害」の治療目的にとっては、それはいわゆる「統合」の達成であり、遠い遠い目標ということになる。スターンたちの論じる解離は、だから緩やかな解離、そこで健忘障壁が起きるほどの深刻なものではなく、むしろ緩やかな解離と言うべきであろうか。

2014年8月23日土曜日

エナクトメントと解離 推敲 (9)

解離とその苦しみ
スターンが葛藤をある種の達成と考えるとき、解離の持つ病理性やそれに伴う苦痛についても考えている。
激しい心の痛みの最中も、葛藤が不在の場合がある。そしてその不在こそが痛みの原因であり、葛藤を作り出すことにより軽減するかもしれないのだ。言い換えるならば、反復強迫は必ずしも意識的な目的と無意識的な目的の間の葛藤の硬直したエナクトメントではなく、本来体験するべき葛藤が不在であることにより継続されているかも知れないのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが解離した自己状態の場合は、葛藤を体験できるようになることが目標なのだ。(中略)意識的な葛藤は必要である。なぜならほかの誰かとの間に起きていることから十分に距離をとることで反省し、何が起きているかを「見る」ようになるためには、私たちはもう一つの視点を必要とするからだ。私たちはもうひとつの解釈(というよりはもうひとつの体験というべきか)を必要とし、その解釈は必然的に既にある解釈との間に葛藤をおこすのだ。解離について言えば、あるひとつの心の状態を見るためには、そのバックグラウンドを体験する必要があるというわけである(P. 228)。
ここで「反復強迫は葛藤の不在により維持される」というのは斬新でかつ挑発的な発想である。反復強迫は無意識的な葛藤が問題だ、と古典的な分析家は説いてきたのであるからだ。そしてスターンはこの反復強迫のことをエナクトメントと言い換えているのだろう。そしてそれが繰り返される限りは葛藤が体験されていないというわけである。否、エナクトメントであるという把握さえもできていない限り、それはエナクトメントとも言えないというわけか。ただの繰り返しという意味での反復強迫ともいえるのだろう。「宿題が終わったの?」がエナクトメントであると把握されることで、初めてそれが行動を変更する力を持つ、mutative であるということか。
 でもここで私は再び思うのである。葛藤の不在(スターン)ということと、葛藤が無意識的である(フロイト)ということは、そんなに違うことなのだろうか?同じ現象の別の見方ということはないのか?スターンはそんなに新しいことを言っているのだろうか?

ところで解離における苦痛をあえて表現するならば、それは自由や主体性の欠如である、というのがスターンの主張である。
内的な葛藤の創造は、主体性の感覚の創造でもある。葛藤関係にあるもうひとつの選択肢を欠いた願望は、強迫行為以外の何ものでもなく、強迫は自分自身の人生を選択しているという感覚を否定する。エナクトメントを脱構築することは、精神的な意味での奴隷となることの回避である。奴隷化を行う動機はしばしば他者を支配することだが、それは本人を縛ることには変わりない。全くの二次元的なエナクトメントの世界では、支配層が力を維持するかもしれないが、彼らも被支配層と同じくらいに縛られているのだ。
この意味で、私が描いているエナクトメント、つまり解離に基づいたエナクトメントは、ベンジャミンが言うところの反転可能(やる側―やられる側 doer-done to)な相補性 とおなじことである。
そしてそのことは結局精神分析の目的にもつながる。

患者も治療者もお互いを認識すること以上に自分自身を創造的に体験することはできない。うまくいった精神分析の結果は、自分の人生は自分自身のものであり、ほかならぬ自分自身が生きているのだという、確固たる、思考のない unthinking 確信を得ることである。 しばしば自分の人生は自分の心の想像したものだという感覚(味気ない用語を用いるならば、能動の感覚 sense of agency ということだが)は、葛藤に近づくことにより得られる。それは私たちが直面している問題に関する立場を選択する必要に迫られると、私たちは自分の手が土を耕しているという感覚を得るからである。

ポージスを紹介している人はまだいない。

2014年8月22日金曜日

エナクトメントと解離 推敲 (8)

スターンの葛藤の問い直し

本論文でスターンが問い直している重要な概念に葛藤があげられる。通常私たちが理解している葛藤とは苦しい、出来ればそれを回避したいような心の在り方ないしは運動である。二つの心の間で、どちらをも選択できずに苦しむこと、と私たちはそれを理解する。それは苦しい体験として意識されるが、時には「無意識的葛藤」として存在し、それもまた何らかの苦痛を呼び起こすために、私たちはそれを回避し、自らを防衛しようとする。
 ところがスターンの解離理論からすれば、葛藤よりもさらに苦しい状況があり、それは葛藤が成立しない状況、心の一部が体験として成立していない、解離された状態であるということになる。すると治療目標は葛藤を成立させることとなる。フロイト的に言えば解決するべきものとしての葛藤は、スターンにとっては治療の一つの目標ということになるのだ。
 葛藤の成立のための、解離されているものの取り込みは、治療関係の中で生じる。スターンは言う。
関係性の嵐の中で、分析家の自分自身と患者の自由への願望のために、分析家は時には患者の「助け」を見、理解し、受け入れることができる。サールズによれば、この「助け」は感動的であるのみならず、変容的 mutative である。つまりは分析家が患者を治したいという願望を持つことで、分析は患者が彼を治そう願望を受け入れられるようになる。(p.226
 そしてこのようにして取り込まれた心の部分は、それまでの意識化されていた心の部分をも変える働きがある。ひとはある意味ではそれについても寛容になれるためであるという。

私のこれまでの書き方では、葛藤が成立した際には、それまで解離されていた、エナクトされた、つまりフォーミュレイトされていなかった体験がフォーミュレイトされたというのが唯一の変化である、という印象を与えたかもしれない。しかしエナクトされたあとの体験は、それまで意識的に体験されていたものを新たな文脈に落とし込むという。(中略)私自身のケースでは、私が患者の改善を喜んでいたという体験は、それが自己愛的であったという気づきにより受け入れがたいものとなった。それが一種の症状のように感じられるようになったのだ。そして時間が経ってみると、私のナルシシズムも後ろめたさも、両方が患者の側のエナクトメントの反応として理解されるようになった。

ここで私なりにもう少しわかりやすい例を考えてみる。親が中学3年生の子供に「今日の宿題はやったの?」と尋ねる。いつもの口癖だ。母親として子供のためを思って宿題の確認をしているつもりだ。でもなぜかいい気持ちがしない。他方の聞かれた子供は苛立ちを覚える。「まだやっていないけれど、ちゃんとやるよ。さっき学校から帰ったばかりじゃない。それにしてもお母さん、僕が一体いくつだと思っているの?」母親はそれを聞いて、「やっぱりまだやっていないのね。生意気なこと言うんじゃないの!」と思わず声を荒げるが、その自分の声を聴いてふと思う。「でも中3の息子が宿題をやったかを確認する私って、息子のためを思っているというよりは、自分の不安の為じゃないかしら」。
 母親はこうして初めて「葛藤」を体験する。「息子の為を思う」部分と「自分の不安をやわらげたいという自己中心的な部分」の両方を。しかし最終的にこの母親が自分を受け入れるプロセスを進めると、最終的には次のように考えることになる。「親って、こんなものでしょうね。何しろ初めてのお使いでは隠れて後をついて行ったんだもの。そしてそれは私の不安に駆られたものだとしても、決して無駄な行為ではなかったでしょう。今はそれを少しずつ手放しているところなんだわ。そしてそれをわかった私はいい線言っているんじゃない?」

2014年8月21日木曜日

エナクトメントと解離 推敲 (7)

ところでスターンは解離されている心の部分を取り戻す手段は、心の中のざわめきに耳を貸すことであるという。
治療中に自分の解離に気づかせてくれたのは、ちょっとした心のざわめき chafing であった。 さてここで最初の疑問に戻る、とある。なぜ解離の存在が、心のザワつきで見つかるのか。目がそれ自身を見ることができなくても、どうしてそれ自身のヒントが得られるのだろうか。おそらくこれらのヒントの大部分は、私たちの知覚を逃れるのだ。でも精神分析的な作業への献身によりそれが可能になる。胸のザワつきは葛藤の前触れのようなものだ。(p225)
解離している部分は、その存在をざわめきで伝える。それは例えばフロイトの不安信号説、すなわち「抑圧しているものが不安を信号とする」という説と少し似ている。臨床家の中には、この両者を区別することにあまり意味を見出さない人がいるかもしれない。しかしスターンならこう言うだろう。「いや、解離されている体験は、まだその時点では持たれていない(「フォーミュレイトされていない」)のだ、と。確かに抑圧されたものというのは、既に無意識の中に所与として既に存在していて、ただしそこに抑圧という名の蓋がかぶっている感じである。しかし解離に関しては、実際にはそうではなく、まだ体験されていないのだ、というのがスターンの考えなのである。
  
解離されている心の部分を取り込んでいくためには、心のざわめきを用い、それを手掛かりとすることだが、それは最初はたやすくはない、とスターンは言う。しかしそれがある種の自由を自分に提供してくれるという感覚を生むのだという。

 分析家は体験を積むことで、不快な情動を貴重なものと考えるという術を得る。キャリアーをはじめて最初の頃は、ここで述べている心のざわつきは不快なものだが、そのうち自由の直感intuitions of freedomとなるであろう。自由への願望に根ざした私たちの臨床の作業へと献身する中で、私たちはそれに興味を抱く能力を有するのだ。そしてその自由さは患者だけのものではない。私たちの自由でもあるのだ。そのために私たちは辛い体験にも動機づけられるのである。私たちは経験を積むことで、安全よりも自由を求めていくようになるのだ。あるいは安全を感じることにあまり多くを費やす必要がなくなるために、自分たちの自由への願望にさらに耐えることができるようになると考えてもいい。(P226

スターンによれば、この考え方は分析家シミントンの提言とも通じるというのだ。

分析家はシミントンSymington が言うところの「自由の活動the act of freedom」に向かう。つまり分析家はそれまでの無意識的な拘束から自由になるのだ。これは治療者は患者に満足を与えたり真実を知ったりすることによってではなく、患者といるという体験をより自由に感じるようになることを意味する。私は臨床を初めて最初の頃は、心のザワつきを一種の警告と感じていたが、今ではそれをチャンスopportunity と感じるようになっている。
スターンの解離理論はこのように、かなり壮大で解離だとかエナクトメントとかにとどまらず、人間が無意識から解放されるためには・・・という話へと広がっている。でもここで無意識が出てくるところが精神分析なのである。

2014年8月20日水曜日

エナクトメントと解離 推敲 (6)

ここから話はいよいよ難解になっていく。
 構築主義の立場からは、主要な防衛は、体験を創造したり分節化 articulate したりすることへの、無意識的な拒否、可能性に背を向けること、である。人が興味を持たないとき、体験は「なされず」、事実上存在しないことになる。それは心のどこかの隅に「留め置かれてparked」いたり、秘匿 secrete されているということではない。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。現在の状況が私たちの最も深い層にある情緒や意図と交流することで、各瞬間に体験が刷新される。しかし私たちは私がなすことを直接体験することで新しい体験を構築することに参加することはほとんどない。私たちがどれほど頭では自分たちの創造的な役割を信じていても、私達が実際に行うことはいつも招かざる性質 unbidden quality を帯びているのだ。未来は私たちのもとに来る。それは「見出される found」。それは「訪れる arrive 」のだ。次の瞬間はまだフォーミュレートされていない為に、それは様々に形作られる。しかしそれはどのようにも形作られるというわけではない。それが虚偽や狂気に陥らないようにするためには、様々な制限がそこに加わる。厳しい制限から緩い制限までが課されるのである。
From a constructivist position, the primary defense is the unconsciously motivated refusal to create or
articulate experience, a turning away from the possibilities (Stern, 1983, 1989, 1991, 1997). When one does not deploy curiosity, experience goes “unmade” and is therefore literally absent. It is not “parked” or
secreted in some corner of the mind; rather, it is never articulated or constructed in the first place.
Dissociated self-states, therefore, are potential experience, experience that could exist if one were able to
allow it; but one cannot, and unconsciously will not (Stern, 1983, 1997, 2002, 2003).From a constructivist position, the primary defense is the unconsciously motivated refusal to create or articulate experience, a turning away from the possibilities (Stern, 1983, 1989, 1991, 1997). When one does not deploy curiosity, experience goes “unmade” and is therefore literally absent. It is not “parked” or secreted in some corner of the mind; rather, it is never articulated or constructed in the first place. Dissociated self-states, therefore, are potential experience, experience that could exist if one were able to allow it; but one cannot, and unconsciously will not (Stern, 1983, 1997, 2002, 2003).
 The interaction of present circumstances with our deepest affects and intentions creates every moment of experience anew. We seldom directly experience what we do to participate in constructing our own experience, though. No matter how intellectually convinced we become of our creative role, our experience—what we actually undergo—has an unbidden quality. The future comes to us; it is “found”; it “arrives.” Because the next moment is unformulated, it may be shaped in many different ways—but not in just any ways at all. There are significant constraints, ranging from tight to loose, on the experience we can construct without lying or succumbing to madness (and even in madness the constraints do not disappear— their expression becomes bizarre).
この引用から分かることは、私たちの体験とは刻一刻私自身により創造されているようで、実は心の深層と外の現実世界とのかかわりで私たちに訪れてくるということ、そして体験もそのようにして成立していくということである。そして解離されているものもそのようにして私たちの体験に組み込まれていくことになる。
 私たちのなすことが、「向こうから来る」という性質は、でも思考においても表象についても言える。考えが、発想が、新しい旋律が、向こうからやってくる。時には厳格に近いような生々しさやリアリティを伴って。もちろん誰にでも同じようにそれらがやってくるというわけでは決してない。たとえば私には聞いたことのない旋律が湧いてくる才能はないが、作曲をする人の場合はこれがあるはずである。
 以上の内容は、脳科学的には誠に正しい観察である。前野隆司先生の言う「受動意識化説」が示す通り、(私も同じことを「マルチネットワークモデル」で書いたが)私たちの意識は実は幻で、仮想的なものであり、脳のネットワークが自律的に産出したものである。そのことをすんなりと受け止めた場合、全てはエナクトメントである、という私の最初の極論に至るということになる。しかしスターンやブロンバーグの議論は、それを解離と結び付けているところが特徴である。それはそれで歓迎なのだが、すると今度は「何でも解離」になって混乱するのではないかと心配するのである。ということでもう少し翻訳を続ける。
フォーミュレートされていない体験という概念はしかし、現実が存在する、ということの否認ではない。むしろ以下の主張をしている。すなわち現実は所与 a given ではなく、むしろそれは体験が偽りのものとしてではなく成立するための限界のセットである。それらのうち厳しい制限、たとえばあるエナクトメントの意味をフォーミュレートする自由に対する制限でさえも、たくさんの解釈が可能な十分に広い余裕を残している。とすれば解離は、ある明白な体験により分節化され、フォーミュレートされるような一定の可能性の範囲を考慮することを無意識的に拒絶することであり、それらを露わにする興味を遮断してしまうことだ。ある瞬間に私たちが構築する自由を有する可能性をどれだけ持つかは、その瞬間に私たちに与えられた対人的な場が何を意味するかによるのだ。
 
 相変わらずわかりにくい部分だが、結局解離されたものとは、意図的な、意味を与えられた(フォーミュレイトされることとは、結局そういうことだろう)言動を作り上げていくことを拒否すること、そこに注意を向けずに思考しないで置くこと、という事が出来るだろう。
ということで先ほどのわかりにくい臨床例がまた登場する。 
私の臨床例では、私は自己愛的な喜びを直接的に体験し、患者をがっかりさせるような仕方でエナクトとした。(患者が順調に行っているというのをあまりに簡単に受け入れすぎた)。他方では私の患者は、私を喜ばせるという試みをエナクトした。(彼は自分の「進歩」により私を喜ばせているということに気が付かなかった)。そして親―分析家が、物事がちょっとうまく行っているということに簡単に騙されてしまうことにがっかりするということを直接的に体験していた。(つまり私の患者は自分がどのように見えるかについて騙されるようなことはなかった。彼の分析家のようには)。私は実際に患者をがっかりさせるという、自分の無意識的な参加を知り、罪悪感を持った時に初めて、その葛藤を体験できたのである。(ただし私は自分のエナクトメントを、それが私の中の葛藤という形で解決できるまでは気付けなかったということが大事である。)
 
In my clinical illustration we could say that I directly experienced narcissistic pleasure and enacted a
way of letting down the patient (I accepted too easily that things were going well), while my patient
enacted his attempt to please me (he did not realize he was encouraging me to feel happy with his
“progress”) and directly experienced what it was like to be let down by a parent-analyst who was all too
ready to be fooled into believing things were hunkydory (that is, at every step of the way, my patient knew better than to believe his own presentation). It was not until I found my way to an awareness of my
unconscious participation, the way I actually was letting the patient down, and to the guilt that I could then formulate, that I was in a position to experience the conflict and to negotiate it. (But keep in mind that my descriptions of what I was enacting could not have been formulated until the enactment resolved into a conflict within my own mind.) 

2014年8月19日火曜日

エナクトメントと解離 推敲 (5)

池上彰先生の話は分かりやすいから好きだ。昨日中国についての解説を聞いたが、とてもためになった。そこで出てきたのが、おそらく中国政府が、万の単位のサイバーポリスを雇って、政府に対するネガティブな書き込みを削除しているという。それだけではなく、政府にポジティブな書き込みには報酬を与えているということだ。私はインターネット社会では、人は最終的には言論の自由や情報の伝達を保証され、最終的には大衆が本気を翻すことになると想像していたが、よくわからなくなってきた。かの国は一つの壮大な実験を行っているわけである。

ではサリバンは解離についてどのようなことを述べているのか。サリバンはこう言っている。「パーソナリティの中で両親やほかの重要な人々に肯定されていない自己表現については、自己は言わばそれに気がつこうとしない。それらの願望やニーズは、解離されるのだ。」(Sullivan, H. S. (1940), Conceptions of Modern Psychiatry. New York: Norton, 1953. P21-22) ここでサリバンが言う解離は、実は schizophrenia 統合失調症の症状で用いられるような深刻な機制であるという。ただし彼の言う schizophrenia はかなり広い意味を持っていたのもの事実である。そしてそれはおそらく私たちが用いる「解離性障害」も含むに違いない。
 ともかくこのサリバンの言う解離されたものは、彼自身の言葉を借りれば not-me となるが、それは象徴化されずに自我の外にとどまり、時期が来れば侵入してくるようなものだ。まさにスターンが言うエナクトメントのように。この理論には欲動 drive は存在せず、またこの解離の精神への影響は、通常は目に見えないものであるという。しかしパーソナリティはそれを中心に構造化されていて、それはちょうど絵がキャンバスの周辺の白地に囲まれて構成されるのと同じだという。(p. 218) それは例えば田舎道のようなもので、そこを歩く限り何も疑問を覚えないが、それはそれが余計なところに入っていかず、決められたところだけを通るからだ、という。
フロイトによれば、防衛は無意識的な葛藤から生じる。そしてそれは葛藤の一方だけを意識化する形で行われる。それがフロイト的な葛藤の回避のされ方だ。しかしサリバン的に言えば、葛藤はもう片方を構成しないことで回避されるというのだ。ということでスターンを少し引用すると・・・・。

例の臨床例を思い出してほしい。私[治療者]の心のうちの一つでは、患者の「進歩」を喜びたかった。そして、もう一つでは、自分の観察する能力を犠牲にして、それにより患者を失望させたことへの罪悪感を感じていた部分である。構築主義の立場からは、後者の自己状態(罪悪感を持った自己状態)は象徴的な形では私の心には存在していなかった。それはあの奇妙な情動的な生気のなさ deadness がセッション中に現れ、「そこに『何か』があるよ」、と気づかされることで、私は自分の感情のざわめきを感じ、罪悪感の状態が生起し、フォーミュレートされ、意識的な内的葛藤が最終的に可能となったのだ。私のそれ以前の専心さ single-mindedness は、私の心の内部にある葛藤の否認ではなかった。それは私の無意識的に固執していた「興味の欠如」であり、それはエナクトメントに参加することで創造され育てられたのである。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。

2014年8月18日月曜日

エナクトメントと解離 推敲 (4)

 スターンによれば、ここで援用されるのが、サリバンの議論である good-me, bad-me, not-me であるという。日本語では通常、「よい自分」、「悪い自分」、「自分でないもの」あるいは「自分でない自分」と訳される。」対人関係論の創始者ともいえるサリバンの理論がここで再登場するのだ。
スターンは興味深い説を提唱している。もし解離やエナクトメントが good-me bad-me の間であったら、両者のあいだを治療を介して取り持つのはさして難しくない。問題は、me not-me の間に生じている解離であるというのだ。その際は治療者は「自分自身を非合理的で感情が込められた体験に、しかも時には相当長期間委ねなくてはならない」(p.215)という。そしてこの me not-me の間のエナクトメントを扱う事が治療上最も重要で、また難しいという。
 ここで少し解説を加えるならば、スターンやブロンバーグたちが言っている解離とは、おそらく相当広い範囲の体験を包括しているのだ。そして good-me bad-me の間の解離とは、どちらかといえばスプリッティングに近いのだろう。そしてme not-me の間の解離が、私たちがこれまで論じてきた「解離性障害」として知っている解離、つまりそこで健忘や「させられ体験」が生じるような解離なのだと考えることができよう。
 スターンが次に論じるのが、分析家の側の解離という問題である。ただしこれは患者の側の解離によって引き起こされるものの、何か異物が患者から治療者にやってくるという、しばしば投影性同一視に見られるような状況ではないということを強調している。
 このテーマについて考える上での重要なヒントとなるのが、ハインリッヒ・ラッカーの同調型、補足型の同一化、ないしは逆転移という考え方だ。同調型は患者さんの意識内容に沿って治療者が思考する内容であり、補足型はそれにたいして反応する形の思考内容である。たとえば「自分はダメだ」という患者に対する同調型の同一化は、「そうですね。ダメなんですね」であるのに対して、補足型ではたとえば「そんなことでどうするんだ!」という思考となる。
ラッカーはこんなことを言っているという。「治療者は常に逆転移神経症にかかっている。」(1957、P32(Racker, H. (1957), The meanings and uses of countertransference. In: Transference and Countertransference. New York: International Universities Press, 1968, pp. 127-173) ここでスターンがあげている例を示すならば、もし患者が攻撃性を出している時に、治療者が自分の攻撃性を否認している場合には、その患者に対して共感的にはなれないという。その変わり、患者が幼少時に、怒りを向けた患者を拒絶した親に同一化することになるのだ。
 この例はとても分かりやすく、またスターンの発想がどのようにラッカーの影響を受けているかについてもわかる。ただしラッカーはここに解離という用語や概念を持ち込んではいなかった。それはスターンらの功績と言えるのだ。
ところでここで一つコメントするならば、この解離の概念はスプリッティングの概念と類似しているということだ。むろん通常スプリッティングは意識内に生じている二つの矛盾する思考であり、解離はそこに健忘障壁があり、一方は他方を同時に考えられない、という違いがある。ただ他方では両者は葛藤等は異なる形での矛盾の処理の仕方という点では共通しているともいえるのだ。
またブロンバーグやスターンの解離理論は、投影性同一視(PI)の概念とも近いことがわかる。患者は(もちろん治療者も、だが)一緒にしておけない思考内容を相手(治療者)に投げ込む。それが治療者が患者の解離部分を得なくとする、という先の議論につながる。これはスターン自身が否定しているにもかかわらず似たような心の働きと考えざるを得ない。すると解離理論とPI理論とは、結局出自が違う、ということなのだろうか。解離理論の場合には、サリバンがその根底にある。何しろ me, not-me の概念を打ち出したのは彼だからだ。いみじくもブロンバーグは言っている。「サリバンの理論は、私の考えでは、解離の理論なのだ。」(Bromberg, P. M. (1995), Resistance, object usage, and human relatedness. In: Standing in the Spaces:
Essays on Clinical Process, Trauma, and Dissociation. Hillsdale, NJ: The Analytic Press, 1998, pp.
205-222. P215

2014年8月17日日曜日

エナクトメントと解離 推敲 (3)

「解離の対人化」としてのエナクトメント

本論文でスターンが示しているのが、解離の対人化 interpersonalization という概念である。これはどういうことだろうか? ある人が、ある心の問題Bを解離しているとする。このBが具体的な他者との関係の中で行動に表されたものがエナクトメントというわけである。ここで「心の問題」などと言わず、「葛藤」と呼べばわかりやすいのかもしれないが、そう呼ぶことはできない。「葛藤」だとすると、主体はABという二つの心の在り方の間のせめぎあいを意識的に体験することになる。それができないことが解離だからだ。

そしてスターンは次のような理屈が成り立つという。「患者により解離された部分は、他者(治療者)に体験される。そして患者の中で明白に体験されたものは、治療者の中で解離される。つまり両者はお互いに部分的にしか体験されていないのである。」
スターンは、この図式を、分析家フィリップ・ブロンバーグ Phillip Bromberg に由来するものとする。ブロムバーグは最近解離という文脈から分析理論を洗いなおしているアメリカの分析家である。
スプリッティング、解離といった議論を縦横無尽に用いて議論しているという。


スターンの説明をもう少し紹介しよう。エナクトメントは内的な葛藤の表現ではない、という。エナクトメントは葛藤の欠如を表している。エナクトメントが生じたときは、むしろ外的な葛藤が強烈になる。そしてエナクトメントが解決するのは、内的な葛藤が成立した時である。それは互いに解離され、二人の人間により担当された二つの心の部分が二人のうちどちらかに内的な葛藤として収まった時に終わるのだという。
 同様の議論を提唱している人として、ジョーディー・デイビスという分析家があげられる。彼女は以前から外傷関連の議論を扱っているが、彼女の説は、患者の中で解離している体験はエナクトメントして出現し、それを唯一扱うことができるのは、転移―逆転移関係の分析であるという。そしてそれは、フォナギーたちの研究との共通点がある。例のメンタライゼーションの議論でおなじみの、イギリスの分析家ピーター・フォナギー先生だが、彼もエナクトメント、
スプリッティング、解離といった議論を縦横無尽に用いて議論しているという。

2014年8月16日土曜日

エナクトメントと解離 推敲 (2)

ブログは怖い。気楽に書けば書くほど、不適切な内容になってしまい、炎上してしまう可能性が出てくる。最近もそんなニュースがあった。(もちろん私のようなサイズのブログにそれはおそらく起きないことだが。)すると記載する内容にはそれだけ注意が必要となる。これは社会的な立場で発する言葉にも全く同じ事情が当てはまるのであるが、ブログはこれほど簡便に発信することができるのにもかかわらず、その対象が不特定多数という矛盾があ理、その為に不用意な発信をしてしまうのだ。おそらく人類は(大げさだが)このインターネットという道具をまだ十分に使いこなすすべを知らないのではないか。何しろ一度発言したり掲載したことは取り返しがつかないというのが一番恐ろしいところだ。そのうちすでに出回った記事や写真を、すべてのサイトから一瞬にして消し去ってしまうようなプログラムが開発されたりするのかもしれない。もちろんそれも濫用されてしまう危険性があるだろうが。

スターンはエナクトメントについて次のような理解を示す。そもそもエナクトメントとは、事後的に、つまり起きてしまってからそうとわかるものであり、そこで「あの時は~だった」という形でそこに表現されていた自分の無意識的な葛藤を振り返るというプロセスを意味するが、それはそもそも自己の解離を意味しているのだ、というのだ。なるほど。そう来るか。エナクトメントと解離がかなり直接的に結びつくものとして論じられるのだ。
スターンは次のように言う。あなたがある時、Aという行動をする。そしてそこに葛藤を感じていないと仮定しよう。それを後になって「あれ、あの人と別れてBもありだな。なぜBを選ばなかったのだろう?」と思ったとしたら、Aはエナクトメントであった可能性があるというのだ。
少し具体的に考えてみよう。たとえばあなたがある時、「あの人(パートナー)とはもう別れたい!」と言ったとする。そしてそのこと自体に特に迷いは感じなかったのだ。そして翌日になり、「あれ、あの人と別れたいなんて、どうして言ったのだろう?今はずっと一緒にいたいと思っているのに。」そしてこの「もう別れたい!」がエナクトメントだったというわけであり、その心的内容は解離していた、というわけである。
さてこのようにサラッといわれると、それなりにわかった気になってしまう。ここで解離と抑圧を区別していることは明白であろう。パートナーと別れたいという気持ちを抑圧しているならば、それは言葉には容易に出ないであろうし、もし出たとしたら、それはアンビバレンスを含むものであり、「自分はこれを本気で言っているのだろうか?」などの葛藤が伴うであろう。ところが私が脚色をしたスターンの例では、「別れたい」と言った時に葛藤はなかったわけである。ということはその心の内容は解離とは別の形で無意識におさめられていたということになり、スターンはそれを解離と呼ぶわけである。
 しかしこの議論はまっとうなようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題でもある。精神分析では、この種のABという関係が考えられていなかった。分析的には心は繋がっているのだ。たとえ意識と無意識でも。だから患者さんの、「昨日はなぜあんなことを言ったのかわかりません」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。おそらく治療者はこう応えるだろう。「おそらくパートナーと別れたいという言葉が口をついて出てしまったんですね。おそらくそれはあなたが無意識でいつも考えていることではないでしょうか?パートナーと別れるという考えについてあなたが持っているさまざまな葛藤についてここで考えましょう。」 
 およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、おそらく「パートナーと別れたいとは思いません」という現在の訴えをそのまま受け取ることはないだろう。しかしこうなると、「パートナーと別れたい」という気持ちが抑圧されていたのか、解離されていたのかがあいまいになってしまうだろう。

実際精神分析にこの解離の概念を持ち込んでいるスターンの筆致は、かなり分析的ではある。「私は自分自身で直接体験することが耐えられないような自分の状態を『演じて』、元の解離する以前の状態に無意識的な影響を及ぼす。」つまりここで無意識的という概念を持ち込み、解離している(はず)のABは実は力動的にはつながっていると言うことで、心は一つという精神分析的な基本概念を保っていることになる。

2014年8月15日金曜日

エナクトメントと解離 推敲 (1)

解離の概念と治療に関して、エナクトメントの概念との関連で論じたい。その際参考にするのが Donnel B. Stern, Ph.D.という分析家の論文 The Eye Sees Itself: Dissociation, Enactment, and the Achievement of Conflict ((2004). Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237)である。これから彼の名前を「スターン」と日本語で表記するが、わが国にはすでに丸田先生、小此木先生の尽力により知られるようになったダニエル・スターンがいるので、混同してはならない。(ファーストネームのイニシャルをつけると、両方ともD.スターンとなってしまう)
 私がこれから論じるスターン(ドネル・スターン)は、精神分析の新しい流れの一つである関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に代わってきたという。フロイト以来のこれまでの精神分析では、無意識の意識化、そのための解釈による介入一辺倒であったから、私はスターンのこのような主張に精神分析の新しい可能性を感じる。そしてそのスターンが最近頻繁に論じているのが解離の概念である。はたして分析理論の視点から彼が論じる解離とはどのようなものであり、そのような新たな治療可能性を指示してくれるのであろうか?

まず前提として、スターンはこう述べている。「最近の精神分析の流れの一つは、やはり逆転移の扱いや理解の仕方の再考ということである。」わかりやすく言えば、治療者はどうやって自分のことをわかるのだろうか、ということだそうだ。そしてそれは実は容易なことでではないとする。それは実は「眼は自分を見えるか」というテーマであるとして、これを副題にもしている。この問題についての意識を触発したのが、レベンソンの 1972年の“Fallacy of Understanding“という本であるという。ただしここではこの論文には触れないで置く。ちなみにこのレベンソンも関係精神分析の火付け役を果たした重要な精神分析家である。
 さてスターンによれば、最近の逆転移についての考え方は、二者心理学的になってきたという。すなわち患者と治療者の現在進行形なかかわりのあり方を重視するわけだ。そこでは患者の中で転移が、治療者の中で逆転移が、個別に生じているわけではない。それらはいわば連動して、同時に起きる傾向にある。つまりそれを、転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。そして治療者はある患者さんが、他者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向について探っていくことになる。しかしそれはあくまでもその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないという断り書きとともにこの作業を進める。さもないと、患者さんという個別の人間が、そこに孤立した病理を抱えている、という理屈になってしまい、それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまうというわけである。
 ちなみにここの理屈が読者にとってあまり意味をなさないとしても、私としてはあまり責める気にはならない。私にとっても、これは一種の言葉のあやというニュアンスがあるのも確かである。それよりもスターンがこれから進めるであろう議論、すなわち逆転移を知る重要な手立てとしてエナクトメントがある、という主張がどのように展開されるのか、そしてそれが解離の議論とどう結びつくのかに関心を向けよう。

2014年8月14日木曜日

子供の人格の扱い方(推敲)6


子どもの人格が「遊び疲れる」ということ

私が臨床上よく使う表現に、「子ども人格が出てくる際は、遊び疲れるまで相手をしてあげてはどうか」というものがある。実際子ども人格は遊ぶことである程度満足し、その後ゆっくり「休む」という印象を受ける。この「遊び疲れ」のニュアンスは患者さん自身の表現にそのヒントが聞かれることがある。交代人格の中には短時間で引っ込んでしまう人がいるが、彼らがしばしば「眠気」を表現するのだ。あたかも彼らが持っているエネルギーに限界があり、一定時間以上は疲れて眠くなってしまうので内側に戻ってしまうということをしばしば聞くのである。
 もちろんこの「疲れ」や「眠気」にどのような生理学的な実態が伴っているかは不明であるが、少なくとも彼らの主観としてはそう体験されるらしい。ということはやはり、子ども人格は仕事中に飛び出してしまう傾向を抑えるためにも、しかるべき場(セラピーなど)でエネルギーを発散したもらうことが有効であると考えられるのだ。


子どもの人格が大人の情報を知っているということ

子供人格の扱い方の最後に、子供人格の「子供らしくなさ」に関してひとこと述べておこう。
 解離性障害の治療に携わるものにとって、子供人格と対面し、治療的な応対をすることは、治療者としてのキャリアーの一つの里程標であり、少し大げさに言えば「帰還不能点 point of no return 」というニュアンスすらあるように思う。多くの治療者が解離を扱うことで一種の色眼鏡で見られるということを体験する。「あなたもあちら側の人になってしまったんだね?」という憐憫の混じったまなざしを同僚から向けられることだってありうるのだ。身体のサイズとしては成人の子供人格とプレイセラピーを行なうことは、人格交代という現象を認め、受け入れることを意味する。しかし解離性障害を「信じない」立場の治療者にとっては到底そのようなかかわりは受け入れがたいということになるだろう。
 たとえ人格の交代現象そのものは認めたとしても、何日か前にこのブログで述べた問題が頭をもたげる。「子供人格に『出癖』がついたらどうするのだろう?」「子供人格をそれとして扱うことで、医原性の人格交代を助長しているのではないか?」このように子供人格をそれとして扱うまでに治療者は二つの障壁を乗り越えなくてはならないのだ。
解離性障害の懐疑論者にとって格好の攻撃素材となるのが、この表題に掲げた、人格同士の情報共有の問題である。子供の人格との会話で時々不思議に思うのは、その語彙の思いがけない豊富さだ。子供人格はしばしば幼児期に特徴的に見られるような発語の障害を示す一方では、3歳の子供の語彙にはないであろう単語が出てくることがある。たとえば「自動車教習所」などは普通は出てこないだろうし、理解も出来ないはずだが、ある3歳(自称)の子供人格はこのような言葉を理解し用いている。ここで不慣れな治療者の頭にはまたあの考えが頭をもたげてしまう。「やはりこの患者は子供の演技をしているだけではないのだろうか?・・・」「患者の演技に乗っている自分は、果たして治療者として振舞っていると言えるのだろうか?」
 
しかし実際に生じているのはDIDの方の持つ記憶や情報ソースには、別人格が時としてアクセスできるという以上の何も意味していないものと思われる。




2014年8月13日水曜日

子供の人格の扱い方(推敲)5


子供人格の成長ということ

 子供の人格と出会い、かかわる事のひとつの目標は、その子供人格の成長である。しかしこう言うと誤解を招くかもしれない。子供人格は文字通り「成長する」というわけでもないであろうし、何しろ実際に存在する子供でもないのだ。またメタファーとしての「成長」に限って考えたとしても、それを期待できない子供人格もいる。またやんちゃな子供の場合、周囲は成長するより先に「寝て」もらいたいと願うだろう。それでも当面の治療目標といえるのは、子供の人格が出現している限りは、それがより自律的になり、節度を持つようになるという意味での成長を果たすということである。治療者やBさんがAちゃんと話し合うことで、Aちゃんの心境に変化が生じ、「Aさんのためには~をしてはだめなんだ」と考えられるようになることを期待するわけである。
 ただしここにも悩ましい問題がある。Aちゃんは必ずしも主人格Aさんのために自分を律するべきだと考える保障はない。解離している人格部分が互いに利害を異にすることは、しばしば臨床上体験される。むしろAちゃんはAさんのために犠牲になるようなことは全く望まない可能性すらある。私の経験では子供の人格の多くは主人格の「お姉さん」(そのように呼ぶことが多い)に対して一定の敬意を払う傾向にあるが、例外も多々あるようである。
 さて以上のことわり書きを前提とした上で言えば、子供人格は一般には成長する傾向にあるようである。最初は言葉もおぼつかなかった子供人格が、やがてしっかりとして話し方になり、書く文字も「大人びて」いくというケースを見ることは多い。一般的に言えることは、その子供人格が比較的保護的なパートナーや、支持的な治療者との間で瀕回に登場するうちにそれが生じていくという印象を受ける。子供の人格が出てきた際に、私は名前と年齢を聞くことが多いが、実際に語る年齢が上がっていくことが臨床上確かめられることもある。

子供人格の成長がどのような意味で望ましいかは、あえて述べるまでもないであろう。成長により人格はそれが持っていた可能性のあるさまざまなトラウマを克服し、言葉に直すことが出来る可能性がある。先に子供の人格の出現はある意味でフラッシュバックである、と述べたが、たとえ子供人格が、遊び専門の役柄のように見えても、それは遊び足りないという意味でのトラウマを負った子どもの頃を表現しているという理解がおおむね正しいだろう。(もちろんこのような目的論的な理解には限界があるということは常に認識しておかなくてはらないが。) 
子どもの人格が「成長」するということは、その子どもが成長を促進するような、つまりは安全でサポーティブでかつ適度の刺激に満ちた環境であることを示していると言えるだろう。そうでないとその子どもの人格はその人格が成立した時点、多くはトラウマの起きた時点に留まっていることになる。フラッシュバックとはいわば固定して自動的に再生されて、そこに創造性が介入しないような精神活動である。フラッシュバックが繰り返されるということは、精神が凍結されているかのように成長することなくそこにとどまったままの状態であると考えられるのである。
こどの人格の成長の話をするとしばしば患者の家族から次のような質問を受ける。「ということは、子ども人格はどんどん成長して行って、やがて主人格のような大人になるんですね。」これに対して私はこう答えている。「理屈ではそうかもしれませんね。でも大体そのうち姿を消してしまうことが多いようです。」実際に子どもの人格が思春期を経て成人するプロセスを私は終えたことがないが、それは私の臨床経験が不足しているせいかもしれない。しかし印象としては、子どもの人格はある程度年を重ねるうちに、その役割を終えて奥で休んでしまうようである。

それでは子ども人格をどのように成長させるかについては、そこに特別な技法はないのであろう。それは子育てに特に一定のテクニックがないというのと一緒である。治療者に十分な感受性や配慮があれば、あとは子ども人格に遊びを通して自己表現をする機会を持ってもらうということで十分である。子ども人格が言語表現が不十分であるだけ、非言語的な手法、つまりは箱庭、描画、粘土などを主体としたプレイセラピーが用いられることになろう。その過程で決まったパターンが出現するとしたら、その子ども人格はそれにより何らかの過去の体験を再現し、表現することで乗り越えようとしている可能性が高いと考えるわけである。治療者は子どもの人格が安心して出て来てプレイセラピーにより自己表現をするというレベルにまで導くということで、仕事の半分は終わっているのである。繰り返すが、そこに特別な治療技法、テクニックが必要というわけではない。