2014年6月30日月曜日

トラウマ記憶と解離の治療(推敲)1



トラウマ記憶をめぐる知見は、近年大きな進歩を遂げている。それにしたがってこれまでの常識も新しい理解にとってかわられようとしている。そしてそれに基づいた治療法が考案されつつある。
 1990年代までは、トラウマ記憶に関してはある常識が成立していた。それは「トラウマ記憶は一生消えない」というものである。私たちは一般に脳で生じたことは容易には変更の仕様がないという先入観を持っており、それは記憶についてもあてはまる。一般人の大多数が、記憶というのは一種の刻印であり、たとえて言えば磁気テープの上に記された一定のパターンのようなものであり、そこをなぞって再生させることが記憶を甦らせることだという考えを持っていた。 
 
たしかに記憶のかなりの部分は時間とともに徐々に薄れていく。「消去Extinction」という現象だ。嫌な出来事も心地よい出来事も、時間の経過とともに徐々に風化する。ところがトラウマ記憶は例外である。しっかり刻印されてしまい、それが証拠にフラッシュバックの形でかなりの詳細まで再生されてしまう。だからトラウマ記憶は厄介なのだ、と。
 このような考え方が徐々に変えられつつある。その発端となった米国マサチューセッツ総合病院のロジャー・ピットマン医師は、トラウマの体験を持った患者にある薬物を投与することで、そのトラウマ記憶が定着するのを抑制することができた、と発表した。2002年のことである。Roger K. Pitman, Kathy M. Sanders, Randall M. Zusman, Anna R. Healy, Farah Cheema, Natasha B. Lasko, Larry Cahill, and Scott P. Orr: Pilot Study of Secondary Prevention of Posttraumatic Stress Disorder with Propranolol .Biol.Psychiatry 2002:189-192.
ピットマン医師が使ったのは、日常的に当たり前のように使われている薬、いわゆるβ(ベータ)ブロッカーのひとつだ。高血圧や頻脈にとてもよく用いられる薬である。これをトラウマを経験した人に用いることで、その後のPTSDの発症を防ごう、という試みである。このβブロッカー使用には、次のような理屈がある。
 私たちの脳は、感情的な高まりを伴うような体験はそれだけ強く覚えこむという性質がある。入試の結果が張り出されるのを、掲示板の前でドキドキしながら待った時のことを忘れた人はあまりいないのではないか?その際はいわゆるストレスホルモンといわれるアドレナリン、ノルエピネフリンなどが血中に放出されている。すると直前にあった出来事をしっかり記憶するようにできている。脳の仕組みとは実にうまく出来ているのだ。しかしそれが起きすぎてしまったのがトラウマ記憶ということになる。するとトラウマが起きた直後にこれらのストレスホルモンを抑える薬であるβブロッカー、例えばインデラールを投与すると、それが「記憶の過剰固定」を抑えるというわけである。この実験はそれまで臨床家たちが持っていた常識、つまり過去のトラウマ記憶は消すことができないという考えを大きく変えることができる可能性を示唆したことになるのである。
ちなみにピットマン先生とそのグループは10年後にはるかに大量のインデラールを用いてこの研究を追試したが、あまりめぼしい結果は得られなかったことが報告されている(Elizabeth A. Hoge1, John J. Worthington1, John T. Nagurney2, Yuchiao Chang3, Elaine B. Kay1, Christine M.

 Feterowski1, Anna R. Katzman1, Jared M. Goetz1, Maria L. Rosasco1,Natasha B. Lasko1, Randall M. Zusman3, Mark H. Pollack1, Scott. P. Orr1,4 and Roger K. Pitman1Effect of Acute Posttrauma Propranolol on PTSD Outcome and Physiological Responses During Script-Driven Imagery CNS Neuroscience & Therapeutics Volume 18, Issue 1, pages 21–27, January 2012
 

2014年6月29日日曜日

精神症状検査および人格との接触

この部分、少し付け加えた。
精神症状検査および人格との接触
初回面接が終了する前にできるだけ施行しておきたいのが、いわゆる精神症状検査mental status examinationである。精神症状検査とは患者の見当識、知覚、言語、感情、思考、身体症状等について一連の質問を重ねた上で、その精神の働きやその異常についてまとめあげる検査である。ただし初回面接でそれをフォーマルな形で行う時間的余裕は通常はなく、およそ約5分ほどで、これまでの面接の中ですでに確かめられた項目を除いて簡便に行うことが通常である。たとえば幻聴体験についてすでに質問を行った場合には知覚の異常について改めてたずねる必要はなく、また言語機能についてはそれまでの面接での会話の様子ですでに観察されている、などである。その意味ではこの精神症状検査は初回面接が終わる前のチェックリストというニュアンスがある。解離性障害の疑いのある患者に対するこの検査では、特に知覚や見当識の領域、たとえば幻聴、幻視の性質、記憶喪失の有無、等が重要となる。
 なお精神症状検査には、実際に人格の交代の様子を観察する試みも含まれるだろう。ただしそこには決して強制力が働いてはならない。解離性の人格交代は基本的には必要な時以外はその誘導を控えるべきであるということが原則である。しかしそれは別人格が出現する用意があるにもかかわらずそれをことさら抑制することを意味はしない。精神科を受診するDIDの患者の多くが現在の生活において交代人格からの侵入を体験している以上は、初回面接でその人格との交流を試み、その主張を聞こうとすることは理にかなっていると言えるだろう。
 筆者は通常次のような言葉かけを行い、交代人格との接触を試みることが多い。「今日Aさんとここまでお話ししましたが、Aさんについてよく知っていている方がいらしたら、もう少し教えていただけますか?できるだけAさんのこれまでの人生や、現在の生活の状態を知っておく必要があります。もちろん無理なら結構です。」その上でAさんに閉眼をして軽いリラクセーションへと誘導した後に、「しばらく誰かからのコンタクトを待ってみてください。」と告げる。そこで23分で別人格からのコンタクトが特になければ、それ以上あまり時間を取らずに、「今日はとくにどなたからも接触がありませんでしたね。結構です。」と伝え、リラクセーションを徐々に解除した後にいってセッションを終える。もし別人格からのコンタクトがあれば、丁寧に自己紹介をし、治療関係の構築に努め、最後にAさんにもどっていただく。
 ただしこのような人格との接触は時には混乱や興奮を引き起こすような事態もあり得るため、他の臨床スタッフや患者自身の付添いの助けが得られる環境が必要であろう。そのような事態が予想される場合には初回面接ではそれを回避し、より治療関係が深まった時点で行っても遅くはない。(さらに同様の病態を十分扱う経験を持たない治療者の場合は、専門家のスーパービジョンも必要となろう。)
 人格との接触に関しては、面接者は攻撃性の強い人格との遭遇の可能性について常に配慮しておく必要がある。特に体力の旺盛な男性の患者については、攻撃性の強い人格が面接室において姿を現した際に、どの程度面接者自身がコントロールできるかを含めて常にシミュレーションする必要がある。その際はその攻撃性の強い人格が過去に身体的な暴力に及んだことはあるのか、破壊的な行動に出る可能性があるかを聞いておくことも重要である。もし懸念すべき理由があるのであれば、そのような人格がなるべく面接室で出現しないような手段を試みることも大事である。
 筆者はしばしば攻撃性の強い人格とは、もし接触するとしてもメールでのみ行うことを早い段階から伝えておく。またやむを得ずそのような状況が生じる場合には、付き添いないしは家族の同席を原則としている。

2014年6月28日土曜日

解離性障害の二つのタイプ

昨日は横浜の精神神経学会に午前中だけ出席した。大変な人数だった。数千人の精神科医が押し寄せる中にいた。大体日本の精神科医の平均的な外見がよくわかった気がする。
相変わらずというか、発達障害に関する発表は盛況である。今や発達障害流行りといった感じ。

解離性障害の診断についてその全体的な考えを提供したい。筆者の経験する限りでは、社会生活にとって障害をきたすような解離性障害は、大きく分けて二つのタイプに分かれるようである。(今更解離性障害を分けるなんて、などと言わないでほしい。)一つは、DIDタイプ、ないしは多重人格タイプと呼ぶべきものであり、もう一つは解離性健忘タイプ、ないしは解離性遁走タイプである。ここでは呼び方を簡略させて、多重人格タイプと、遁走タイプとしよう。実は両方とも「古い」言い方なのだ。DSM-Vには両方とも出てこない。多重人格障害という呼び名は、はるか昔にDID(解離性同一性障害)に変更され(DSM-IV1994年)解離性遁走という診断名はDSM-Vでは解離性健忘の一型ということになっている。しかし何もDSM-Vのいうことばかりを聞いている必要もないであろう。(私は反抗的、反米的である)。
DIDタイプの解離は、かなりその幼少時のトラウマとの関係が見えることが多い。このタイプについては私のこれまでの著書でも中心的に論じてきた。しかし遁走タイプの場合には、かなり事情が異なる。遁走タイプの場合には、解離エピソードの発生と仕事上のストレスは比較的明確なことが多いが、それが幼少時から連続して存在していたというケースは少ない。また解離エピソードは限定的で、繰り返されないことも多い。その期間の解離状態は人格としての形を成していないことも多く、それだけリラクセーションのような形で呼び出すことも難しい。

私は以前はこの多重人格タイプと遁走タイプは一つの病理の別々の表現ではないかと考えることが多かった。遁走タイプでも遁走している間の人格が存在し、それは基本的に呼び出したりコミュニケーションをとったりすることが可能であろうと思っていた。解離性遁走とは、結局はDIDの一つの在り方なのだ、とさえ思っていた。また遁走は一度生じた場合には、それがその後も再現され、繰り返されるものと予想していたのである。
 しかし症例の経験を重ねていくうちに両者は別々の問題、別々の解離性障害であろうという結論を持つに至ったのである。
 男性に多い遁走タイプは、日常生活で時々別人のような振る舞いを見せるということがある。その時しばしば理解されるのは、その「別人」はあまり精緻化されていないことが多いということだ。「精緻化 elaboration」とは要するに、眼鼻、口があり、顔つきがはっきりし、名前も明確であるということだ。「○○さん」として呼ぶことが可能な人である。

2014年6月27日金曜日

解離の治療論 (71)

 さて眼窩前頭野は、この抑制の役割をうまく果たしてくれるのは、その位置が大きいという。それは皮質と皮質下の構造の間に位置するからだという。つまりそのすぐ下は大脳辺縁系だという。あれ、眼窩前頭野のすぐ下って、眼窩、つまり眼球の収まったスペースじゃなかったっけ?早速解剖図譜を見直すつもりで検索したら、こんな素敵な図が出てきた。(國米欣明(こくまいよしあき)先生という著者の名前も出ているし、いいか。)





まさに眼窩前頭皮質が大脳皮質と辺縁系の中継地点であることを示しているではないか。辺縁系は、眼窩前頭皮質と、奥の方で接している、という意味だ。

前頭皮質は視覚野とも聴覚野とも、身体感覚系ともつながっているという。こういう時つながっているとはふつう、双方向だ。信号を出すし、受け取っている。また皮質下の、たとえば扁桃核、中隔核、外側視床下部、腹側被蓋野ともつながっている。こちらの方は快感をつかさどる領域として名前が出てくる。実はこの後、眼窩前頭皮質がいかにいろいろなところと連絡しているのかの記述が延々と続くがここは省略しよう。それとこの領域は、生まれた時にかなり髄鞘化が進んでいるという。これは成熟が遅い前頭葉では異例のことで、この領域が幼少時に活発に活動し、その臨界期も23歳という幼いころに設定されていることを意味する。何を意味するかはおわかりだろう。この領域は愛着にも、トラウマにも非常に敏感であるということだ。前者はその発達を促進し、後者はそれを阻害するということである。



2014年6月26日木曜日

解離の治療論 (70)

自民党による幕引きか。このままで済むのだろうか? これ以降起きる可能性のさまざまな外圧により政府がどのような対応を見せるのかに興味がある。 

Fuster (1997) という学者は、前頭前野の3つの機能を説いたという。 1.短期記憶。2.注意 set or motor attentionそして 3. Inhibitory control 抑制的な統御。出た。この3がわからなかったのだ。サー先生のところに出てきた。彼らの研究で、前頭葉の機能がDIDの患者さんで低下していたことを思い出してほしい。そのとき前頭葉は統合を「抑制的にコントロールする」というところがあったが、「抑制的に」という意味がよくわからなかった。人間の体には、さまざまな抑制が働いている。たとえば一つのことに注意を向けるためには、ほかのところに注意を向けることを抑える力が同時に働いている、という風に。だから前頭葉の働きの中にも、そのような働きがあるということなのだろうが、いまいちピンとこなかった。このフォレスト先生の論文を読んでいくと少しはわかるのだろうか。
他方で前頭葉は大きく三つに分かれる。後背部(いわゆるDLPFC)、眼窩前頭、そして内側部。このうち後背部は、先ほどの12をつかさどるという。短期記憶と注意ね。そして眼窩前頭部は、3だという。これが冒されると、現在の目的に向かった行動がわき道に逸らされてしまうという。ところで残った内側部は、前帯状回を含むが、ここは抑制的な統御にある程度関係しているらしいが、明確にはわかっていないそうだ。そしてここはむしろ「心の理論」に関係しているため、この論文からはあえてはずすといっている。まあ抑制的な統御が別に眼窩前頭部に局在していなくてもいいのだから。
ここでフォレスト先生は、Fuster 先生の説を引用して、「この保護的抑制的役割」について論じている。(あれ、論文ではここから保護的protective という形容詞がついているぞ。)
ざっと見るとこんなことが書いてある。保護的な抑制とは、筋道のある行動を守る役割をしているのだ。思考や行動を逸らすものはたくさんある。内的にも外的にも。
ここで脱線。逸らされまくるのがロボットなのだろう。いわゆるフレーム問題があるからだ。目的に向かい、余計なことをはしょるということが出来ず、細部にこだわってしまう(様に見える)一方で、大事なところが抜けてしまう。待てよ、これってアスペルガーにも見られる問題だな。まあいいか、脱線終了。

2014年6月25日水曜日

解離の治療論 (69)

 「勝ちたいという気持ちが足りない」と、あるサポーターは言ったという。???? それはまったくの結果論。日本選手は体格のハンディを超えて全力をつくしだだけ。でもプロなら「優勝をするぞ」とも言うべきでなかったとも思う。奇跡を信じていない限りね。「ベストを尽くす」と言い、負けても胸を張って帰ってくればいいし、ファンもそれを温かく迎えるべきだろう。

ということでこの論文。(Kelly A. ForrestToward an Etiology of Dissociative Identity Disorder: A Neurodevelopmental Approach Consciousness and CognitionVolume 10, Issue 3, September 2001, Pages 259–293)フォレスト先生は、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、昨日紹介したパットナム先生の離散的行動モデルであるという。(やっぱりそうか。)そもそも子供の心はこの離散的な状態にあり、そこから統合していくことが出来なかったのが、解離状態であるという。(ちなみにこの「離散」という言葉、引っかかるだろう。discrete という英語の訳だが、「連続」ではないという意味だ。ちなみにdiscrete には「慎重な」というような意味もあるぞ。関係ないか。またこの言葉は数学に使われると、整数のように、飛び飛びにあるようなものだ。) 私たちの体験は状況により大きく異なり、それを結びつけ、統合していくことでつながりを持った体験を、そして「自分」を成立させていく。この理論はすばらしいのだが、それを支える、というか背景になる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題がある、とフォレスト先生は言う。
ところで私の好きな前頭葉の話に入っていく。Wheeler, Struss,Tulving 3人は、前頭葉は特殊な種類の意識を形成する、とした。名づけてautonoetic consciousness. オートノエティックな意識。何だコリャ。フッサールのノエシス、ノエマ、とか言う概念があったな。これは「過去と現在と未来の主観的な体験を思い浮かべ、それを意識化すること」だそうな。つまり時間的な存在としての自分を意識するということだろう。(ちなみにいま、このautonoetic consciousness というタームを、駄目もとでぐぐったら、あったぞ。「想起意識」という日本語を当てはめた論文がある。すごいな。)そしてフォレスト先生は、DIDとはまさにこの想起意識が断片化された状態、と考えると前頭葉機能に問題があると推測されるのだという。
うーん、そんな気もしてくるが、待てよ。解離って擬死反射のように、下等動物でも見られるとすると、前頭葉がほとんどない動物の解離をどう説明するんだろう、などといろいろ疑問がわいてくる。もう少し読み進めてみるか。

2014年6月24日火曜日

解離の治療論 (69)

謝罪した鈴木都議。今後誰が彼に投票するだろうか? 「身から出た錆」、とはよく言ったものである。

ということで、たまたま手にすることが出来た論文。もう13年もたっているが、この種の研究は足は決して速くないから読む価値はあるだろう。Kelly A. ForrestToward an Etiology of Dissociative Identity Disorder: A Neurodevelopmental Approach Consciousness and CognitionVolume 10, Issue 3, September 2001, Pages 259–293(購入すると$35!!)フォレスト先生はワシントン大学の方だ。ひとことで言えば、眼窩前頭皮質の機能不全が解離の病理に関係しているという仮説である。本来この論文の発送は、パットナム先生の「discrete behavioral states 離散的行動状態モデル」という理論からきているという。このモデルについては、わが優秀なるゼミ生(もと)のND君の書いた論文記述を借りよう。(あれ、またこれで一回分?) ちなみに何度も出てくるパットナム先生の1997年の文献とはFrank W. PutnamDissociation in  Children and Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford  Press, 1997 のことである。ナガイクン、また研究会に来てね。

 Putnam1997)の離散的行動状態モデルでは,人間の行動を限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.
詳しく説明すると,以下のようになる.Putnam1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が図22の行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.
 上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる
 心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である. 
 Putnam1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.ここに紹介する研究家の多くはJanetの解離理論をその基礎としているが,外傷的出来事が通常の記憶パターンとは異なる記憶パターンになる,つまり解離され普段は意識にのぼりにくい別個の記憶パターンとなるということに異議を唱える研究者もいる.たとえば八幡(2010)は,最近の認知心理学における記憶研究はそうした記憶の仕方を支持していないという.これに対し,交代人格に伴う健忘や虐待エピソードに関する健忘などは基本的に状態依存学習と同様のメカニズムとするPutnam1997)の考えは,両立場の懸け橋となることが期待される.



2014年6月23日月曜日

解離の治療論 (68)


DIDの脳の研究の論文はいつも読みにくく、理解がしにくいと感じてきたが、少し読みやすい論文があった。(Vedat SarSeher N. UnalErdinc Ozturk: Frontal and occipital Perfusion changes in dissociative identity disorder. Psychiatry Research: Neuroimaging Volume 156, Issue 3, 15 December 2007, Pages 217223)
ちなみにファーストオーサーのサー先生はトルコで解離の研究を精力的に続けている先生だ。トルコからの解離の優れた論文が多いのはそのためであろう。この研究は21人のDIDの患者さんと9人の健常者(いやな言葉だね)にPETという機械に入ってもらい、脳の活動の様子を見る。その間患者さんには特に指示は与えず、ただ主人格host personality でいてくださいね、と告げる。つまりその間に別の人格にならないでいてもらう。他方一般人はもともとほっておいてもホスト人格なのでそのままでいてもらう。そしてペットで注射を打った後60分後にスキャンする。いたってシンプル。こんなことで違いは出るのかと思うが、所見はしっかり見られたという。眼窩前頭前野で血流量の減少がみられたのだ。ちなみにこの研究は、サー先生の2001年の研究と一部一致したという。この研究では、眼窩前頭皮質の血流量の低下と、左半球外側側頭葉の血流量の増加がみられたという。そもそもForrest先生という人の、DIDの「眼窩前頭仮説」というのがあるらしい。私がこのブログでも紹介しているショア先生や、仮説を提出したForrest先生によれば、それは眼窩前頭皮質の、行動を時間的にかつ抑制的に構成する能力、情動の調整能力などが関係しているという。と書いていても、ここら辺の意味はどうもつかめないが、英語自体の表現もあいまいなのだ。ともかくも眼窩前頭皮質は、いくつかの人格が分かれることなく統合を果たすことを促進し、その力が弱まっている(血流量が低下している)ことがDIDの病理を生んでいるという風に理解できる。少なくともこんな仮説があることだけでも知ってよかった。

ということで、このForrest 先生の論文を探していると・・・・あれ!ダウンロード可能。ちょっと読んでみるか。

2014年6月22日日曜日

解離の治療論 (67)


えーっと、柴山先生を引用しようとしているのであった。彼の「解離の構造」の228ページの「祀りと供養」には、興味深いことがまさに書いてある。いわく、「交代人格は『浮かばれない死者の霊』と類似している。」「『この世』を現実世界、『あの世』を背後世界、死霊を交代人格と読み換えれば、これらは解離の体験世界にきわめて類似していることがわかる。」その後に述べていることも興味深い。「西洋では、キリスト教における悪魔祓いにみられるように、恨む資料や悪霊は力によって追い払うという要素が前面に出ている」が、日本では「霊の祟りを恐れ、その例を神として祀り、供養をするという神聖が優位であったといえよう。」これは優れた視点だと思う。ただしそのうえで言えば、日本の臨床家もまた交代人格を警戒し、臨床の場から遠ざけるという傾向は強すぎはしないか?
 前後するが、208ページにも面白い記載。「今日の外来でよく聞かれる『解離はうちでは診られません』という言葉は、かつての『うちではボーダーラインは見られません』という言葉と重なる。解離はかつての『ボーダーライン』であるかのような扱いを受けている。」これも同感。でもちょっと引用しづらいなあ。
えー、これで終わり?一回分?まあいいか。誰も読んでいないし。
でも最近あまり会っていない柴山先生、お元気かな? 


2014年6月21日土曜日

解離の治療論 (66)

柴山先生を引用する

柴山雅俊先生は私の頼るべき先輩であり、解離研究の同僚であるが、彼の「解離の構造」(岩崎学術出版社、2010年)は非常に評価の高い研究書である。というより私はこの本の書評をさせていただいた気がする。うん確かにそうだ。ということでファイルを探してみると・・・・・。あった!!

「こころの科学」20112月号に掲載。結構感動しながら書いたたことを思い出す。これも掲載しよう。(昨日と流れは同じである。)

 柴山雅俊 著 「解離の構造」(岩崎学術出版社)書評  
国際医療福祉大学(当時)       岡野憲一郎
本書を読みながら、なんどもため息をついた。著者柴山雅俊氏の巧みな筆致とそれを裏付ける豊富な臨床観察。どちらかというと難解な文章ながら、知的で空疎なそれでは決してない。注意深く読み進めることで、私が知らなかった世界のページを次々と開いて見せてもらっているという感覚を持つ。ふと新人のころ、安永浩先生、内沼幸雄先生などの著作に触れた時の感激を思い出した。安永先生はいみじくも、氏が深い敬意を表している精神病理学者であるが、評者も若き日には彼の精緻な言葉の積み上げにより構築された建造物のような彼らの文章にわくわくして向かったものだ。私が昔から身近な先輩として敬愛していた柴山先生が、今やそのような著述を提供する立場にあるということは、さすがに時の流れを感じる。
特に秀逸なのは、文中にふんだんに織り込まれている症例の数々である。もう30年近くも前のことだが、似顔絵の名人でもある氏が即興で、共通のあらゆる知人の似顔絵をサラサラ描いて見せてびっくりした事がある。そのときに氏は、「人を見るときにすでに絵をかくモードで見ている」、とか説明されたのを思い出す。彼は患者さんと会っている時も、それをどう記述し、描写するかという視点を常に持ち続けているということなのだろう。
以下に本書を少し具体的に見てみる。
第Ⅰ部「解離の症例」は氏の比較的初期の業績(1992年、1996年)も収められているが、すでに症例の記載はきわめて詳細に及び、そのスタイルはすでにほぼ完成されていたのがわかる。彼の研究の主題のひとつである、離隔と区画化という分類もすでに明示されている。
第Ⅱ部「解離性障害の症候学と構造」は、氏の解離理論の真骨頂といえる。これはいわば解離性障害の詳細なアナトミーともいえるだろう。氏は、解離性幻聴、幻視、体感異常、時空的変容などについて詳しく分類し、症例を掲げる。その手際のよさは見事というしかない。例えば解離性幻視をとってみれば、外界出現型、表象幻視、体外離脱型幻視に分類され、その中の表象幻視をとってみれば、それは、形式による分類では、促迫型、白昼夢型、そして内容による分類は、空想型、記憶型、偽体外離脱型に分かれる・・・・といった具合である。これほどの類型化を明確に行っている解離論者を私は寡聞にして知らない。私が氏の学術的レベルは国際的にも十分通用すると思うのは、特にこの第Ⅱ部におけるこれら記述である。
第Ⅲ部「解離性障害と統合失調症」は章としては短いが、本書の中ではきわめて重要でかつポレミックな内容を持つ。というのもこの章は、氏が解離性障害との関連で、統合失調症概念について持っていたさまざまな疑問を改めて明示しているからである。そのなかでも初期統合失調症概念と解離性障害との関連についての議論が最も重要な位置を占めている。
初期統合失調症の概念は、日本の精神病理学の泰斗とも言える中安信夫先生により30年ほど前に提唱されたものであるが、多くの点で解離性の症状との異同について考えさせられる疾患概念であることについては、かねがね氏と評者は意見の一致を見ていたのである。柴山氏は中安氏の同概念が事実上解離性障害と多くの点で重なるという事情を指摘し、それが疾患概念として妥当なものかについて問うている。中安氏がその精神病理学的な論述をかつて丁寧に行っていることもあり、それに対する著者の論駁も極めて詳細である。これについては、ぜひ中安氏の側からの詳細な反論を期待したい。精神病理を志す多くの人たちがそれを望んでいるであろうし、議論がいかなる方向に向かおうとも、精神病理学にとって生産的な素材を提供してくれるであろう。
第Ⅳ部 「解離の治療論」では、長年東大病院の入院治療に携わった氏の臨床経験に基づいた治療論が開陳される。第1章「総論」には、「三つの私」への精神療法的接近として、解離という現象に戸惑い、不安を覚えている患者への説明を行うことの効用について論じられている。また回復への二つの経路としての、眠りと目覚めという概念も、森山公夫先生からの影響という点で興味深い。第2章「解離とボーダーライン」では、両者の鑑別という点も含めて、現代の境界性パーソナリティ障害を、「ボーダーライン心性」と解離心性との合併状態として整理している。
3章「交代人格の治療論-『包む』ことと『つながり』」は簡潔な章であり、また氏の治療観が一番よく表れている。そこでは患者にある種の包み込む環境を提供し、また三つの自己についての説明、つまり一種の心理教育を丁寧に施すことにより治療を進めるという方向性が示されている。これも柴山氏独自の治療論と言えるだろう。
私は氏の解離理論は、わが国における解離研究を一挙にその高みに上らせたと考えている。それはおそらく氏が本来この分野の研究を極めるような運命を担っていたのではないかと思えるほどに深い洞察を与えてくれていると思う。ただし氏がしばしば公言するように、彼の中心的な関心は、人格の多重化現象の病理、すなわち解離性同一性障害には必ずしもない。同障害についての治療論の詳細を期待した読者がいたとすれば、本書の内容とは多少のずれを感じたかもしれない。
本書が解離性障害を持ち、あるいはその臨床に携わる方々に広く読まれることを期待する。



2014年6月20日金曜日

解離の治療論 (65)


ところで私は過去に、細澤先生の著書を書評させていただいたような気がしてきた。そこで調べてみると・・・・。あった。2008年に彼の著書についてどこかの学術誌に書いていたのである。
これを読むと、この当時の細澤先生の治療論はかなり「大実験」とは異なるようだ。今日は参考までにこれを掲載しておこう。

「解離性障害の治療技法」
             国際医療福祉大学(当時) 岡野憲一郎

本書は気鋭の精神科医であり、精神分析的療法家でもある細澤仁氏による解離性障害の臨床研究書である。本書は序論に続いて「第1部 解離性障害を理解するために」、「第2部 ある解離性同一性障害患者との心理療法」、「第3部 解離性障害をめぐる臨床上の諸問題」の3部により構成されている。
「序論 解離性障害治療私史」では、細澤氏(以下「著者」とする)が解離性障害について関心を持つに至ったいきさつを含む個人史を披瀝しているが、解離性障害の臨床研究の先鞭をつけた、今は亡き安克昌氏との著者の交流が綴られている。実は私はその安氏に招かれて1996年に神戸を講演のために訪れたが、その時ケースプレゼンテーションを行った、当時は研修医の細澤氏の才気溢れる姿も記憶に残っている。
2部に収められた第3、第4、第5章では、DIDの症例Gとの7年10カ月に及ぶ精神療法プロセスが論じられ、本書の中核部分をなす。GDIDを有する若い女性であり、SMプレイや自傷行為、失声などの多彩な症状を示す。これらの3章においては、著者の解離に関する基本姿勢が明らかにされている。それは解離を外傷により刺激された精神病水準の不安への防衛として捉えるという方針である。また著者のDIDの治療における基本姿勢は一貫して精神分析的な理解に基づいたものであり、転移状況を外傷の再演として捉えるということである。
また最後の「第9章 一般精神科臨床における解離性障害の治療に関する覚書」では、著者の解離性障害の治療に関するまとめが書かれているが、若干のコメントをしておかなくてはならない。この章で著者は、「治療者は患者が外傷記憶を語らないように積極的に働きかけるべきである」としている。またそれでも過去の外傷を語る患者に対して「もっとも危険な治療的介入は、受容的、共感的介入である」とし、その理由として「このような介入を行うと患者はよりいっそう退行する」とやや断定的に述べている。しかし言うまでもないことであるが、患者が外傷記憶を語るかどうかの是非はケースバイケースである。外傷記憶を語る機が熟している患者にそれをしないように積極的に働きかけることは、外傷記憶を語るには時期尚早の患者にそうすることを促すことと同様に非治療的な結果を招くといわなくてはならない。この種のころあいを見はかることが臨床家の手腕といえよう。同様の事情はまた、受容的、共感的態度を用いるということにも当てはまる。私は著者がこれらの件について断定的な言い方をすることは多くの点で誤解を生じるのではないかと危惧すると同時に、それは本来著者が意図するところものもではないであろうと思う。たとえば外傷記憶の再演については、著者自身がこの著書全体で語っているように、半ば不可避的に生じる以上は、それが想起に結びつく可能性は常にある。
さて本書全体の印象を述べるならば、極めて緻密に構成された論述と熟慮された治療的アプローチが描かれており、極めて価値ある研究書であり技法書であるといってよい。著者はまた自分自身の思考と感性にしたがった上で必要な理論を適宜取り入れつつ、独自の精神分析的な治療論を構成し、その意味でオリジナリティに富んだ書となっている。
ただし私自身は本書の真の価値をこの書に見出す立場にはないかも知れない。本書はあくまでも精神分析的な前提、ないしは思考に立ったものである。私自身は精神分析と決して無縁とは言えない立場にあるが、その中では著者とはよって立つ理論的な背景をかなり異にしている。さらには解離性障害の患者を扱う際にも必ずしも分析的な立場を取らないことは、世界レベルでの解離研究の趨勢ともいえる。その意味では著者の才能や感性が精神分析的思考にのみもっぱら投入されていることは多少残念とも思う。
ともあれ今後の細澤氏のますますの活躍に期待したい。

「解離性障害の治療技法」 細澤仁 著  みすず書房 2008年 220項。



2014年6月19日木曜日

解離の治療論 (64)

細澤仁先生の解離の治療論

解離性障害の論文「精神分析的精神療法 ―Sandor Ferenczi の「大実験」再考―」(細澤仁:精神療法 351871932009)を読んでみる。細澤先生の解離の論考は私も常々興味を持っていた。彼の著作には解離性障害の治療技法、みすず書房 2008年というモノグラフがあるが、この論文に彼の思考のエッセンスを読み取りたい。彼の論旨は、フェレンチの行ったいわゆる「大実験」(すなわち患者にできるだけ多くを提供し、退行状態を作る)に多くを学びつつ、ウィニコットの治療論に基づいた一時ナルシズムを分析的に扱うという手法を重んじるというものである。
細澤先生の治療論の特徴は、精神分析の理論的な枠組みを出ないことにあるといっていいだろう。そこで解離性障害の不安は、精神病水準の不安である、という定式化が導入される。このことは必然的に、そこで問題になる一次ナルシシズムを抱えるという理論につながるわけであるが、そこで重要なのは、そこでは外傷の再演は必然的に起きること、そこで「抱えを提供すること」は「境界の破壊」であり、「治療者の行動化」であることをわかって行い、それを解釈を通じて返すことで悪性の退行を招くことがないとする。
私は治療者は常に創造的であるべきだと思うし、古い理論にとらわれるのはいやである。だからメンタリティは細澤先生的なのだ。ただしおそらく私は彼よりもさらに分析の枠組みからは外れているらしく、解離性障害を精神病性不安という分析的概念から理解するという立場とは異なる。やはり「解離は解離、精神病とは違う」のである。もちろん一部の患者さんは深刻な退行を通じての回復が必要かもしれないが、自然に回復する人たちもいる。それらの人たちには「大実験」を行うことはないだろう。ただし細澤先生の理論をBPDに当てはめるとすれば、かなり合点がいく部分がある。というわけで、本文(ナンの話だ?)には次のように付け加えよう。

 解離性障害の精神療法に関しては、そこに伏在する精神病水準の不安をめぐる治療を提唱する細澤の理論(細澤仁:精神分析的精神療法 ―Sandor Ferenczi の「大実験」再考―精神療法 351871932009)が参考になるが、本稿では精神分析の枠組みを離れて一般精神医学の立場から提供されるべき精神療法について考えてみよう。

2014年6月18日水曜日

解離の治療論 (63)

 この論文を読んでみて、なるほど、というところと拍子抜けしたところがある。なるほどと思ったのは、過去のトラウマを思い出せない人格、たとえば大部分の主人格は、脳が自分の過去を実際に記憶していないがごとく扱っているということ。演技ではないというわけだ。しかし同時に痛みコントロールを用いている。POIGの過活動がそうだ。つまり主人格は、過去のトラウマを思い起こさせるような場合には自分に麻酔薬を投与し、それにより(???)過去のトラウマ記憶をブロックしているということになるのだろう。他方では交代人格は過去のトラウマを背負っているわけだが、その意味では交代人格の方が「正常」と言える状態ともいえる。昔自分に起きたことに対して、正常な脳の反応を見せているからだ。
ちなみにこのPO,IGって、結局「抑圧」の機制にも多少なりともかかわっていることになりはしないか?あることを忘れたり、意識の外に追いやるために活動する部位。しかしそれを考えると解離と抑圧の差がさらにあいまいになるな。
でも拍子抜けしたこともある。人格を二つに分けてPETで記録を取ることはできても、人格B,C,Dで別々のパターンを示す、というようなことは絵空事なわけだ。私も以前はそんなことを考えていた。人格Aが出ているときは、脳のある個所、Bが出ているときは別の個所が活動していることが、脳画像によりわかるのではないか、ということを。しかし確かにそれぞれの人格で一見別々のネットワークが活性化されているとしても、それらは高度に「入り組んで」いて、とても画像ではわからないはずなのだ。でも将来CTMRIがものすごく高画質になるということはあるかしら。でもそうなるとMIRの場合ものすごい磁力が必要になり、開発費もとんでもないことになって…。やはり無理なのだ。



2014年6月17日火曜日

解離の治療論 (62)

 そしてディスカッションに入る。かの高名な脳科学者ダマシオは、中核自己 core selfと自伝的自己autobiographical self を分けたという。この分類は面白い。中核自己とは要するに今、ここに生きているという自己だ。何となくEdelman の言う一次的意識 primary consciousness を思い出すな。ダマシオによれば、この中核自己は、身体の表象により成立し、過去や未来といった時間の感覚を欠いているという。動物が今、ここだけに生きているときの意識と考えればわかりやすいのではないか。そしてダマシオ先生は、DIDの人は基本的に同じ体を共有するから、一つの中核自己しか持たない。しかし複数の自伝的自己を持つという。いくつかの記憶を持っているからだ。そしてこの研究の結果は、このダマシオ先生の仮説を証明するものであるという。うーん、まだよくわからないぞ。
 ということで忍耐強く(私も、そしてごく一部の読者も)このディスカッションを読んでいく。ここに脳の中の一つのネットワークが存在することが分かった。それは右側MPFC,両側の中前頭回(BA6)、視覚連合野(BA18/19)、頭頂連合野(BA7/40)。
BAとはブロードマン・エリアの略で、要するに脳の皮質に関する住所のようなものだ。)
 そしてこのネットワークは、正常の人が自分に関するエピソード記憶と、自分に関係しないエピソード記憶を思い出した時の差と同一であったという。そしてこのことからNPSつまり通常出ている人格(主人格)は外傷体験を他人事のようにしかプロセス出来ないような、一種の「ブロッキング」が起きているということが分かったという。
 ところで特に右の内側前頭前野MFPCは自己概念の表象にとって特に重要であるという。(つまりトラウマを思い出させるような状況で自分を見失ってしまう、ということか。)

 ところでPOIGについて。両方とも痛み刺激で情緒的、行動的な反応を統御する場所であるという。つまり痛みを与えられたときにここが活動を高進させて痛みに耐えるというわけだ。これも主人格が精神的な痛みをコントロールするためにここの活動を上昇させるという理屈になる。

2014年6月16日月曜日

解離の治療論 (61)

 One brain, Two selves というネットで手に入る論文があるので読んでみる。
A.A.T.S. Reinders, E.R.S. Nijenhuis, A.M.J. Paans, J. Korf, A.T.M. Willemsen, and J.A. den Boer : One brain, two selves. NeuroImage. 20 (2003) 2119–2125
  この論文は画期的なものだ。2003年のもので少し古いが、かなりお金と時間をかけた研究である。オランダの解離の専門の先生方が研究したものだが、別人格の精神活動が、脳の画像にどのようにイメージされるかのついてPETを用いてしばれたものだ。
 研究の手順はこうである。11人のDID患者を対象にして、彼らに二つの自己状態になってもらう。それらはTPSNPS。前者は外傷性のパーソナリティ状態、後者はニュートラル(中立的)なパーソナリティ状態。これらはもともと構造的解離理論におけるEP(感情的な人格状態)とANP(外見上正常な人格状態)の分類に準じているのであろう。人格A、人格Bというよりは具体的でわかりやすい。そしてそれぞれに、あらかじめ録音しておいたトラウマに関係した文章と、ニュートラルな文章を聞いてもらう。そしてPETスキャンで脳の状態を知るわけだ。その際に活動している脳の場所が光って見える。としてTPSNPSにそれぞれの文章を聞いてもらうということを二度繰り返す。
 その結果わかったこと。TPSがトラウマの文章を聞くと、脳のある部分の血流量が下がったという。それらは右側の内側前頭前野(MPFC)、両側の中部前頭葉の中腹側部分(MPFC)であった。フーン、やはり解離すると脳の活動量が下がるというわけか。それと一番活動が下がったのが後部連合野(上部、下部頭頂葉の境目に存在する)であったという。それと視覚連合野。これらはいずれも両側の血流量の低下が見られた。しかしNPSがトラウマの文章を聞いても、そのような低下は見られなかったという。

 他方ではTPSがトラウマ文章を聞いた場合に、血流量が増加した部分もあった。頭頂葉弁蓋部Parietal  operculum PO)と島皮質(IG)がそれらの部位である。両方ともその興奮は高度の感情状態を表すという。つまりTPSがトラウマ関連の文章の朗読を聞いて情緒的に興奮していた様子を示しているのだ。ちなみにNPSの方は、トラウマ関連の文章を読まれたときと、そうでない文章を読まれた時で、特に脳の活動に差は出なかったということだ。

2014年6月15日日曜日

解離の治療論 (60)

 これから数日間、ブロンバーグ(Phillip  Bromberg)の論文を読むことにする。実は彼の理論については、以前にもこのブログで触れたことがある。彼は解離と精神分析のインターフェースについて探求しているような人だ。英語のWikiには
Standing in the Spaces: Essays on Clinical Process, Trauma, and Dissociation (1998), Awakening the Dreamer: Clinical Journeys (2006), and The Shadow of the Tsunami: and the Growth of the Relational Mind(2011). 
が彼の3つの主要な著作として掲げられている。「Tsunami」って、津波のことかしら。私もこの解離と精神分析の重複部分を追っかけている立場なので参考になるだろう。ちなみにこの論文も例の「D Book」に掲載されているものだ。
話はフロイトの「ヒステリー研究」から始まる。わかりやすいねえ。
同じヒステリーを見ていても、ブロイアーの意見にフロイトは賛成しなかった。ブロイアーの概念でフロイトが気に入らなかったのが、類催眠状態hypnoid state  と意識のスプリッティング。こう見るとブロイアーはまさに解離論者だったことがわかる。そしてその理論の全体がフロイトには受け入れがたかった。ここには背後にジャネへの対抗意識があったというが、案外こういうのが人の理論形成に大きく関係しているから厄介なのである。しかしそれだけではない。フロイトは「私は自己催眠性ヒステリーに出会ったことはない。ただ防衛神経症に出会っただけだ」と言ったという。この態度は現在において解離患者に出会ったことはないという臨床家と似ている。別人格に見えるものは実は防衛の産物である、ということで片づけてしまう臨床家は今でも実に多いが、フロイトもそうだったというわけである。

このフロイトの態度に対して、彼の周囲でもブロイアーの立場に賛同する弟子たちが存在した。その一人がフェレンチであったとブロンバークは言う。フェレンチこそが患者の幼児期におけるトラウマについて論じ、転移現象を通じてそれを扱うことが治療につながるという理論を唱えたのである。

2014年6月14日土曜日

解離の治療論 (59)

昨日は7まで行ったか?ちなみにこのD Book
  Dissociation and the Dissociative Disorders: DSM-V and Beyond, by Paul F. Dell, John A. O'Neil, Routledge; 1 edition (April 20, 2009) という本のことで、これまでの解離性障害研究の粋を集めたような本だ。(高い本だが、少し無理して買い、早速スキャンした。片手では支えられないほど重いからだ。今は4つの仕事場のデスクトップにある。しかし例の「本嫌い」でほとんど開いてみることがなかった。)そして今論じているDell 先生はその編集をしているのだ。この世界ではかなりの影響力を持っていることが伺える。
ともかくその本の第15章、デル先生自身が書いた章を読んでいるのだ。7からの続き。
8.二つの人格部分が会話したり言い争いをするのを聞くこと。9.脅迫的な声が乱暴なコメントをしてきたり、脅したり、自己破壊的なコメントをしてきたりする。10.言語挿入speech insertion(意図しない、あるいは自分のものと感じられない発語)11.思考挿入、思考奪取 thought insertion, withdrowal シュナイダーの一級症状と似ているから、英語も書いておいた。12.「させられ」ないしは侵入的な感情。13.「させられ」ないしは侵入的な衝動。14.「させられ」ないしは侵入的な行動 15.よく知っているはずの知識や動作が一時的に失われること。 16.自己の変化の不快な体験(急に自分が小さい子供のようになった感じがする、など)17.自己への深刻かつ慢性的な躊躇 profound and chronic self-puzzlement  18.時間を失うこと。19.我に返ること。20.フーグ(遁走) 21.記憶していなかったことについてほかの人から語られること 22.自分の持ちもの中に見られないものを発見すること
23.自分がやったらしい行動に関する証拠を見つけること。
デル先生の意見、でも全然問題ないなあ。というかDIDの主観的な体験とはこういうものだろう。私なら、我に返ったときにしばしば体験する頭痛や疲労感なども入れるだろうか。



2014年6月13日金曜日

解離の治療論 (58)

Paul Dell という、解離に関するアメリカのすごい学者がいる。いつか学会で見かけたが、自分の発表がない日はジーンズ姿の普通のおっさんだった。まあいいか。とにかく私の中ではショア先生と同類の博識かつ精力的な活動を続ける人だが、彼の所論を少し読んでみた。15 The Phenomena of Pathological Dissociation という、D BookP. 225237に収められたものだ。(そもそもD Bookとは何か説明していないが、解離の集大成の、百科事典みたいな本があるのだ。) そこで彼が一生懸命主張しているのが、「解離はスイッチングとか健忘障壁とかがしばしば論じられ、それが解離の根本的な症状みたいに言われているが、そうではない。病的解離の一番特徴的なのは侵入体験intrusion experience なのだ。」私も読んでいるうちにそう思えるようになってきた。私にとっては解離はスイッチングの現象であるが(そうやって授業でも患者さんにも説明している)、スイッチングの中でしばしば起きるのが、自分が「させられ体験」を持ったり、幻聴を聞いた入り、という突然の侵入体験なのである。デル先生は、DSMの診断基準は健忘にこだわりすぎているという。健忘があり、誰かがその間に完全に入れ替わっているという条件を満たさないとDIDではないというわけだ。ところが実際の解離体験というのは、侵入体験や幻聴体験などの意識化される体験に比べて、健忘を伴う体験は100分の1 だ、とさえ言っている(D Book 229)。そのうえで彼は解離症状には23の侵入体験があるといってリストアップしている。かなり徹底しているな。
出る先生の言い方をもう少し追加するとこうだ。「病的解離を主観的に体験される症状としてみると、『意識を失うこと』はそれには該当しない。敢えてそれに相当するものを挙げるとしたら『ふと、我に返る』とか『知らない間に何かをやっていたという痕跡がある』ということだ。」うーん、これもその通りだ。彼の主観的な症状に従った解離のリストアップは以下の通りになる。1.一般的な記憶の障害 2.離人体験 3.非現実体験 4.トラウマ後のフラッシュバック 5.身体化症状 6.トランス 7.子供の声 フー。後は明日だ。