2014年5月9日金曜日

現代における夢理論(6)

「ランダムな夢」の不明さに私たちは慣れている
私は臨床家である以上、患者さんの夢の話もよく聞く。もちろん毎晩目の前で繰り広げられる私自身の過激な夢が一体どういう仕組みで起きてくるのかについてもきわめて興味を持っている。そしてその中でその内容に意味を見出すタイプの夢とそれ以外とを分けている。一つは創造的なもの、もう一つは外傷にまつわる夢である。それらについて論じる前に、私の考える「ランダム性の表現としての夢」(略して「ランダムな夢」とでも表現しよう)について一言述べたい。実はこのランダム性の表現としての夢が、夢の夢たる性質を一番備えているわけであり、また夢の内容としても圧倒的に多いと思う。だからそれをいかに理解すべきかということは非常に重要な問題なのである。しかしそれが理解できたという感覚はほとんどない。毎晩意味が分からないものを見せられてよく平気なものだ、何らかの形で夢に意味づけを行おうという努力をしないのか、と言われそうだが、実は私たち人間は不可解なもの、予想不可能なものに始終遭遇して慣れてしまっているのだ。
ここから少し夢の話とはずれて、予測不能性の話になるが、私にとっては夢の意味を考えるうえで重要である。たとえば私たちはひと月後にピクニックを計画するとしよう。実際にはその日がポカポカ陽気になるか、台風に見舞われるかはわからない。しかしとりあえずは計画し、当日の天気をそのまま受け入れて生きていく。もちろん雨が降ったらピクニックは中止になるかもしれないが。天気だけでなく、私たちの健康状態、株価の変動、うちの奥さんの機嫌など、私たちは分からないことの中で生きているのである。
 人間は、あるいは生物は現実の曖昧さや予測不能さに対してきわめて大きな態勢を持っている。AI(ロボット、コンピューターなど)の性質を考えればおのずとわかるとおり、生物の性質そのものが自然界の予測不可能性への耐性を前提として存在しているというところがあるのだ。
私たちは予定していたピクニックが雨で台無しになったからと言って自殺者を出すことなく、この予測不可能な世界を生き抜いていく。それは人間が住んでいるこの自然が巨大なカオス(正確に言えば複雑系、ということであるが)で本来予測不可能であるという性質を有しているからに他ならないであろう。私たちの体験の大部分は予測不可能なのである。それでも私たちは動じないで生きている。それは予測不能さに対する耐性を持っているからであり、言い方を変えると予測不可能なことを無視する能力をもっているからである。
 夢についても同様だとしか思えない。今朝も私は壮大な夢を見て目が覚め、起きてしばらくはそのパノラマのように展開する内容を思い出し、そこに暗示された様々な真理(のごとく感じられるもの)の奥深さに胸打たれ、自分はなんと凄いものを見たのだろう?と呆然としている。しかし・・・・感動の記憶を残したまま細部がどんどん抜け落ちていく。そのうち、「あれは何だったんだろう?」と首をかしげながら布団から抜け出すのである。そんな毎日なのだ。

 ところで私たちの心にはもう一つの重要な性質がある。それは物事に「意味を見出さずにはいられない」というものだ。これはかなり堅固(ケンゴ)な形で私たちの心に備わっている。患者さんが夢を報告した時のことを考えよう。私たちは早速ノートにペンを走らせ、スーパーバイザーに報告し、その意味を解明しようとする。この差は一体なにかよくわからない。ただ言えることは、複雑系にいる私たちだからこそ、どこかに目をつけてそこに意味を見出すという行動に出るのかもしれない。
そこで私たちは物事に対して、それがランダム性を帯び、予測不可能であることを半ばあきらめながら、それでも意味を見出そうとしたり、見出したつもりになったりするという、二つの傾向のはざまに生きている。あたかもおみくじを信じる一方では、それが外れたからと言ってもまたおみくじを買おうとするように。
 つまり夢に対する私たちの扱い方は、私たちが毎日見る夢の大部分に、少なくとも意味を見出そうという努力については無関心であると同時に、臨床で報告される夢の意味を見出すことには性急であるというこの対比なのかもしれない。そしてここに私たちの思考の本質的な性質があると思えるのだ。