昨日は四谷のJalCityで「夢」に関するシンポジウムがあった。生フォサーギ先生と会うこともできて、面白い経験だったが、あまり会話を自由に交わす機会を持てなかったのが残念である。しかし吾妻壮先生、富樫公一先生の発表も素晴らしく、かなり私自身も夢に関する理解を進めることが出来た。私の中で夢の問題と解離のテーマとがはっきりつながった日でもあった。(特に吾妻先生、Phillip Bromberg の著作に感謝。)参加していただいた方に感謝したい。
さて次にフォサーギさんは、結構勇気のあることをいう。フロイトの理論である、夢は防衛的な加工を行い、そこに潜在的、顕在的夢内容が生じるという議論だ。夢は思い出すプロセスですでに形を変えるという。なかなか魅力的な理論だが、もはや理屈に合わないという。もはや「この夢は~を象徴しているのだ」という話は時代遅れであり、意味がないというのだ。フォサーギ先生は、そもそもフロイト以後の夢の主要な理論は、夢の潜在的、顕在的内容という考えを踏襲していないという。フレンチとフロム(問題解決の努力)も、フェアバーン(対象関係論的理解)も、コフート(自己調節)もエリクソン(個別的な自我モード)も、いずれもそうである。そこで潜在的、顕在的、という言い方はやめて、すんなりと「夢内容dream content」と呼ぶことをフォサーギ先生は提案する。
さて次にフォサーギさんは、結構勇気のあることをいう。フロイトの理論である、夢は防衛的な加工を行い、そこに潜在的、顕在的夢内容が生じるという議論だ。夢は思い出すプロセスですでに形を変えるという。なかなか魅力的な理論だが、もはや理屈に合わないという。もはや「この夢は~を象徴しているのだ」という話は時代遅れであり、意味がないというのだ。フォサーギ先生は、そもそもフロイト以後の夢の主要な理論は、夢の潜在的、顕在的内容という考えを踏襲していないという。フレンチとフロム(問題解決の努力)も、フェアバーン(対象関係論的理解)も、コフート(自己調節)もエリクソン(個別的な自我モード)も、いずれもそうである。そこで潜在的、顕在的、という言い方はやめて、すんなりと「夢内容dream content」と呼ぶことをフォサーギ先生は提案する。
こうして夢は心をより直接的に表しているという彼の主張が展開されるのであるが、だからと言って夢の内容の持つ意味は明らかである、と入っていないと先生はくぎを刺す。そして夢が分かりにくいその理由を3つ上げている。1.うまく思い出せないから。2.夢のプロセス自体あ不明確だから、そして3.比喩的な性質であるという。(私は違う考えを持つ。夢がわからないのは、そこにランダム性が備わっているからだ。これも後述。)
最後にフォサーギ先生は夢を扱う6つのガイドラインについて書いてある。そのうちの5つを私のコメント付きで紹介する。
1.
夢が統合的で新生的synthetic な性質である以上、治療者の仕事は夢の内容についての患者の連想を聞くことで、その内容の意味を明らかにすることだ。
(岡野のコメント)夢について患者本人に考えを聞く、という方針は、私たちにとってはある意味で当たり前の話でもある。私も同じようにする。ただフロイトの時代はこれが当たり前でなかった時代なのかもしれない。これは例えば患者がひとしきり自由連想を語ったあとで「ではいまの自由連想についての自由連想をしてみてください。」と指示するようなものだ。自由連想に患者の無意識が現れ、それを高みに立つ分析家が特権的に見て取ることができたとしたら、それを解釈として伝えることが治療であるということになる。「自由連想についての自由連想」とは考えてみれば「自由連想」そのものにほかならないのであり、患者がその無意識内容に気がつかない限りは一種の堂々巡り、ということになるだろう。そしてこの理論を当てはめるならば、夢について自由連想をしてください、という問いについてもあまり意味がなくなってくることになる。「(夢の中に出てきた)猫は私のことだと思います」という連想も、それ自身が夢の真の意味、例えば「猫は母親である」を防衛した結果であるとしたら、連想を聞く意味は半減するだろう。聴けば聴くほどタマネギの皮が厚くなっていく、という理屈だ。
その意味では「夢の内容についてどう思いますか?」という問いは、実はフロイト的な考え方、すなわち夢は防衛であったり、健在内容と潜在内容に分かれていたりする、という考え方から遠ざかった立場から出てくる、と言っていいのだろう。
2.患者が夢を夢の中でどのように体験したかを聞く。
(岡野のコメント)これをすることは、夢の内容を覚醒後に再構成するという傾向に対抗するという。ただし夢の中での体験は、不思議なほどにリアリティを持ち、受身的に起きることを受け入れるという姿勢であることに気がつく。「なんであんなことを不思議とも思わずにしたのだろう?」という思考は覚醒した後に出てくるものである。夢の中では驚くべきことが置き、しかしそれを淡々と受け入れるという傾向にある。後にも出てくるが、私はホブソンの活性化-合成理論というのが好きだが、夢は神経伝達物質の中でもアセチルコリンが優勢で、それと夢の諸性質(非・批判的な点も含めて)が関係していると理解している。とすると淡々と受け止めるのは夢の持つ生物学的な性質ということにもなるのだろう。
(岡野のコメント)これをすることは、夢の内容を覚醒後に再構成するという傾向に対抗するという。ただし夢の中での体験は、不思議なほどにリアリティを持ち、受身的に起きることを受け入れるという姿勢であることに気がつく。「なんであんなことを不思議とも思わずにしたのだろう?」という思考は覚醒した後に出てくるものである。夢の中では驚くべきことが置き、しかしそれを淡々と受け入れるという傾向にある。後にも出てくるが、私はホブソンの活性化-合成理論というのが好きだが、夢は神経伝達物質の中でもアセチルコリンが優勢で、それと夢の諸性質(非・批判的な点も含めて)が関係していると理解している。とすると淡々と受け止めるのは夢の持つ生物学的な性質ということにもなるのだろう。
3.夢の内容を翻訳したり、何か別のものが置き換わっていると見るのではなく、それが何を象徴しているかを考える。個々のイメージとは夢の文脈に埋め込まれた単語のようなものである。
(岡野のコメント)正直私はここらへんがわからない。「置き換わっているのではなく、象徴と見る」というが、象徴って、普通置き換わっているのではないか?昔隠喩と換喩の違いについて聞いたことがある。メタファーとは例えば「一杯やろう」という時の、盃=酒、という感じ。換喩は王冠が王様を意味するように、そのものの一部を象徴する、と学んだ。どちらも広い意味での置換えだ。置き換えていない象徴ってナンだろう。よくわからないや。結局翻訳や、置き換えの可能性を考えない夢の解釈は不可能だと思うのだが。やはり結局ここでもやはり実証主義 positivism 的な発想が問題なのではないか? つまりフォサーギ先生は夢には意味が有ることを前提としているのだ。一つの正解を前提とする態度。それが実証主義である。
先生はこんなふうにも書いていらっしゃる。
先生はこんなふうにも書いていらっしゃる。
4.一度夢のシナリオが同定されたら、分析の課題は患者の覚醒時の生活の中で、そのようなテーマがいつ、どのように見られるかを同定することへと移る。
(岡野のコメント) ここでも同定を目指すわけだ。でもそれが難しいのだ。さらにフォサーギ先生は言う。「もしそれが分析家に関係したことであれば、その夢は転移を表しているということになるという。」しかしフォサーギ先生は、「なんでも転移」という方ではないらしい。
5.
夢の内容がなんでも転移、というわけではない。ただし夢の中に分析家が出てきたり、患者が夢の内容をすぐさま分析家に結びつける場合を除いて、である。