大人の事情はいつやってくるかわからない。それが現実というものだ。ン? 現実? それがテーマである。この現実というテーマ、私は以前かなりこだわっていた時期がある。15年ほど前だ。だから「中立性と現実」(岩崎学術出版社、2002年)という本を書いたくらいだから。そのとき書いたことは、別段本を読み返さなくても大体出てくる。(まあ、自分で書いた本だからね。当たり前だ。) それはこんな感じだ。右の欄にも付け加えておいた。
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そこで「現実」、すなわち鍵カッコつきの現実はどうか?それは主観的な体験として意味を持つ。生きていることとは体験することで、バラの花を観賞するのもその一つである。そのとき目に映り、においを発散しているのは、確かな体験として残る。だから「現実」は主観的に体験でき、表現できる。というか、それを「現実」と呼ぶのだ。
さてこのように分けると、私たちの体験はほとんど、というか全てが「現実」となる。いちいち鍵カッコをつけるのは面倒だが、これをせっせとつけることで「現実」は結局は主観的なものでしかない、ということを自覚し続ける、ということになるわけだ。まあ、一回目はこのくらいでいいか。