2014年1月31日金曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(4)


ここで精神科医張賢徳先生の主張を紹介しよう。以下は私のまとめだ。
「自殺者の90パーセントが精神障害を抱えており、その過半数がうつ病であり、内因性(つまり本格的な、メジャーなうつ)でも、それ以外(例えば現代型うつ)でもうつはうつで自殺は起きうるのだ。ちゃんと対応しなくてはならない。」(こころの科学135「職場復帰」、2007年から)
 これは私も非常に同意できる。そもそも人は好き好んで「怠ける」わけではない。健全な人の場合は、仕事への意欲をなくして怠けたくなっても、興味は別の方向に向かうものである。それがより安易で快楽的な活動に向かうか、より困難で苦しみを伴うものなのかは別として、「何もしなくなる」(怠ける)方向には向かわない。たとえば趣味やゲームに熱中したり、酒や女()におぼれたり、突然山に修行に出かけたり、お遍路さんに出かけたりするなど。いずれもこれらは「怠ける」とは形容されない。身を持ち崩すとか、突然悟りをひらいたり、第二の人生を歩み始めたとかいわれるだろう。いずれにせよ人はひとつの活動をやめても、他の運動やそれにより得られるような快感刺激を求めるのがより自然である。
 もし純粋に「怠けている」様に見えるとしたら、それはその人の活動レベルが、それまでに高すぎたために、いったん休む必要が生じたということになるが、これは怠けではなく必要な「休息」をとっているということになる。結局「怠け病」に見える状態はたいていは、うつ病や精神病による欲動の低下、身体の不調による活動低下という、それ自体が疾患に伴うものであることが多い。
 人の心には常にある種の弁証法が働いている。それは特に葛藤状況で表れ、そこでは二つのモードが綱引きを演じる。一つは「あきらめ・怠けモード」。(「もうたいがいにしようよ。」「あきらめて楽な道を行こうよ。」)もう一つは「イケイケ・モード」。(「ほら、頑張れよ。」「そんなことでくじけてどうする。またあとで後悔するぞ。」など。)
ただし・・・・以下の点は考慮すべきであろう。
① 現代は忍耐についての価値観の変化が生じ、仕事(学習)への嫌悪や不安がより自覚されるようになったのではないか? 
② 現代において人はより他責的になってはいないか?
③「怠け」の手段が多彩になり、より快楽的になってきたのではないか?
④ うつを訴える人の症状の前景にはむしろ、職場に対する恐怖や不安があるようだ。

そこでこれらの問題に焦点を当てたい。

2014年1月30日木曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(3)

2.「好きなことならできる」、はうつではないのか?
「現代型うつ」の最大の問題は、それがさぼりなのではないか、という議論である。そこで一つ原則に戻って考えたい。うつの時は好きなことをしてはいけないのか。好きなことならできる、というのはうつではないのか、という問題だ。
私はうつが疑える患者さんにしばしば次のような質問をする。「2週間の有給休暇がもらえたとしたら、あなただったらどうしますか?」質問の狙いは、「二週間の間、とにかく寝ています。」という返事が返ってくるか、だ。なぜならそれが深刻なうつ病の典型的な考えだからである。
風邪で39度の熱が出てウンウン唸っている時を考えて欲しい。いくら時間とお金があっても、布団にもぐりこんでいたいだろう。うつはそういう状態である。しかし一月間自宅療養が必要という医師の診断書をもらった社員が、その間にカナダの友人のところに行ったからと言って、それが鬱ではないという証拠にはならない。ちょうど39度の熱ではなく微熱程度で頭痛はするものの、以前から約束していたディズニーランドに行くことにしたという例を考えよう。人間楽しみでなくても義理で、あるいは約束があるから遊びに行く、ということはあるだろう。TDLに行ったからと言って、その人が元気でピンピンしていたということにはならない。
そこでちょっと当たり前の図を作ってみた。縦軸は、ある行動の量、横軸はうつの程度を示す。そして行動としては、快楽的な行動(自分で進んでやりたい行動)と苦痛な行動(義務感に駆られるだけの行動)を考え、それぞれがうつの程度により低下する様子を示した。うつの深刻度が増すとともに、快楽的な行動も、苦痛な行動もやれる量が下がってくる。ただその下がり方にずれがあるのだ。うつでない場合(Aのラインに相当)は、快楽的な行動だけでなく苦痛な行動も、それが必要である限りにおいては出来る。うつが軽度の場合(Bのラインに相当)は、苦痛な行動は取りにくくなるが、興味を持って出来ることは残っている。うつがさらに深刻になると(Cのラインに相当)両者とも出来なくなるわけだ。

行動を、快楽的なものと苦痛なものにわける、という論法は、私が私淑している安永浩先生の引用するウォーコップの「ものの考え方」理論に出てくる。苦痛な行動は、私たちがエネルギーの余剰を持つ場合には、エネルギーのレベルをを持ち上げることでこなすことができる。賃金をもらうためにだけ行う単純な肉体労働であっても、「ヨッシャー、ひと頑張りするか!」と自分を鼓舞することで、若干ではあっても快楽的な行動に変換できるからだ。(つまり行動自体は苦痛であっても、それをやり遂げて達成感を味わうための手段にすることで、それは幾分快楽的な性質を帯びることになるわけだ。「やる気を出す」、とはそういうことであり、うつの人が一番苦手とすることである。)
私が特に注意をしていただきたいのは、Bのラインの状態であり、好きなことは出来ても義務でやることは出来ないという状態だ。このような場合、好きなことを行うのは、自分のうつの治療というニュアンスを持つ。うつが軽度の場合、例えばパチンコを一日とか、テレビゲームを徹夜でする、とかいう行動がみられる場合があるが、これはそれによる一種の癒し効果がある場合であり、うつの本人にとっては、「少なくともこれをやっていれば時間をやり過ごすことができるからやらせてほしい」という気持ちであることが多い。しかしそれを見ている家族や上司は実に冷ややかな目を向けるのである。「あいつは仕事にもいかないで一日中ゲームをやっていてケシカラン。やはりなまけだ・・・・。」

2014年1月29日水曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(2)

 それにしても最近急に増えている(らしい)新型うつ病。日本のうつ病のオーソリティーたちはどのような程度表明をしているのか?
日本うつ病学会の立場
うつ病学会ではそのホームページで次のような提言を行っている。「そもそも新型うつ病という専門用語はありません」[世間で新型うつと呼ばれているものの特徴は、]若者背愛に多く、全体に警鐘である。訴える症状は、軽症のうつ病との判別が難しい。仕事では抑うつ的になる、あるいは仕事を回避する傾向がある。ところが余暇は楽しく過ごせる、仕事は学業上の困難をきっかけに発病する。患者の病前性格として成熟度が低く、規範や秩序、あるいは他者への配慮に乏しい。」(日本うつ病学会)
なんだかわかったようなわからないような姿勢だ。新型うつ病は正式にはない、でも実はある。こんな特徴がある、みたいな。
うつ病学会でこのような立場をとるのには理由がある。では従来の精神医学的な診断として同様のものがあったからだ。昔から精神科ではうつ病を二つに分けるという習慣があった。一つは本物のうつ病、もう一つは性格的なもの。前者はちゃんとした病気。後者は落ち込みやすい性格の人が、また落ち込んじゃっている状態。病気というよりも本人のせい。本人の性格的な弱さの表れだ、というわけである。
これは日本の精神医学だけではない。米国の診断基準であるDSMでは形を変えた形でずっと存在していた。それが非定型うつというやつだ。
 その前に「定型的」な鬱について復習しよう。それは「大うつ病major depression」と呼ばれる。大うつ病、というとダイオウイカ、みたいですごそうな印象を持つが、要するに「深刻な」「本格的な」というニュワンスだ。といってもmajor leagueメジャーリーグのことを、「深刻リーグ」「本格リーグ」とは言わないな。やはり「大リーグ」じゃないと。じゃ、「大うつ病」もいいとするか。ともかくこの「深刻な」正式なうつ病の主な症状 (DSM-Ⅳの診断基準)
以下の項目のうち5つ以上に該当し2週間以上その症状が続く場合、うつ病が疑われる。             
<大うつ病の主な症状(DSM-Ⅳの診断基準)
悲しみ   毎日のように悲しい、空虚感、憂うつな気分、涙が出やすい
興味 これまで楽しかったことが楽しくない、興味・喜びの減退
罪悪感   過度の罪悪感、ものごとに対する無意味感、無価値感
エネルギー 疲労感、気力の減退、やる気が起こらない
集中力 思考力、集中力の減退、決断することができない
食欲 著しい体重または食欲の減少、増加
精神運動 落ち着かない、または著しく緩慢(他人から見てもわかる状態)
睡眠 寝てばかりいる、または眠れない、夜中に何度も起きてしまう
自殺願望 死について何度も考える、生きる意味がない、消えてしまいたい
他方、非定型のうつはどうか。
<非定型うつ病の主な症状(DSM-Ⅳの診断基準)
上記の「うつ病の主な症状」の条件を満たした上で、次のA、Bの条件を満たす場合、非定型うつ病であることが疑われる。   
A.気分反応性がある(現実の、または可能性のある楽しいできごとに反応して気分が明るくなる)
B.次の特徴のうち2つ以上に当てはまる
① 著しい体重増加または食欲の増加がある
② 過眠傾向がある
③ 身体が鉛のように重くなる
④ ちょっとしたことで拒絶されたと感じて傷つき、長期間、人とかかわることを拒む


2014年1月28日火曜日

職場におけるいわゆる「新型うつ病」について(1)

今日から新しいテーマである。それにしても・・・・風邪をひいた。解熱剤が切れるとダウン。幸いフルーではないが・・・。

 新型うつについての議論があいからわず盛んである。最近とてもうつを扱うとは思えないような雑誌{週刊東洋経済」までうつを特集したので買って読んでみた。(2014年1月18日号) 新型うつ病は明らかに職場に影響を与え、それが日本経済に大きな影響を与えているということなのであろう。この雑誌を読んでも特に新しい内容は見当たらなかったが、私が最近持つようになってきている「新型うつ病」についての考えをより強く持つようになった。そこでここでまとめてみようと思う。
 まずこのこの種の議論はいつごろから話題になったのだろうか?日本評論社の「こころの科学」は2007年に「職場復帰」という特集を組んでいるが、副題には「うつか怠けか」とある。香山リカ先生は私のお友達たが、この種の本を多く出版されている。

  • 仕事中だけ「うつ病」になる人たち 講談社 香山リカ先生 2007
  • 「私はうつ」と言いたがる人たち 中公新書 香山リカ先生 2008年。
  • それは「うつ病」ではありません! 林公一先生 宝島社新書 2009年。
  • それってホントに「うつ」? 吉野聡先生 講談社α新書 2009年。
植木先生も書いているぞ。

  • 「うつになりたいという病」植木理恵先生 集英社新書 2010
  • 雅子さまと「新型うつ」 香山先生、朝日新書、2012年。
  • 吉野聡先生が再び「現代型うつ」はサボりなのか 平凡社新書 2013年。
 このように見るとこのテーマについては何人かの著者が同様の内容で出版をしている。香山先生の「雅子さま」の著書は、この現代型のうつ病が彼女の「病状」に対する関心と重なっているのがわかる。
 ここでわかるのは、新型うつ病に関する私達の最大の関心事は、うつなのか、サボりなのか、ということ。彼ら、彼女たちは許されるべき存在なのか、ということなのだ。これは私たちが心の病に対して永遠に持つ偏見にも関係しているだろう。それは心の病は見えないというせいもあり、自分ででっち上げているのではないか、ということだ。
 2012年の6月の週刊文春の記事に「新型うつ」は病気か?サボりか?というものがあった。見出しには「療養中なのに、海外旅行、合コン、結婚・・・・。職場だけで体調悪化。この記事の見出しからも同じことがわかる。現代型うつ病病気かサボりか、というテーマだ。実は精神障害をめぐる最大のテーマだといえるだろう。
先ほど紹介した2007年の「こころの科学」の特集の最初に、松崎一葉先生が書いている。
「本当にうつ病なんですか? なまけなんじゃないんですか?」こうした人事担当者の問いに窮する企業のメンタルヘルス関係者が増えてきた。近年、企業内で増えているのは、従来のような過重労働のはてにうつになる労働者たちではなく、パーソナリティの未熟などに起因する「復帰したがらないうつ」である。 従来のうつの場合は、治療早期にもかかわらず、早く復帰することを焦るケースが多かった。ところが近年では寛快状態となり職場復帰プログラムを開始しようとしても「まだまだ無理です」と復帰を出来るだけ回避しようとするタイプが増えてきている。(松崎一葉)」

2014年1月27日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(9)


8.治療論に向けて
これまでいくつかのテーマについて論じてきたが、この最後の章は治療論的な意味合いについて述べておこう。「私達は膨らんだ自己愛への侵襲により生じる怒り、恥に対する防衛としての怒りについて理解することで、どのように日常生活を生きやすくできるのであろうか?、つまり二次的な感情としての怒りを昇華することができるだろうか?」である。この問題は私達が他人と良好な関係を損なわず、しかも余計なフラストレーションを抱えずに生きていくためにきわめて重要なことである。
これについて、私は過去にある論文で次のような書き方をした。
[自己愛に基づく怒りを飼いならす方法については]これに対する明快な回答などおそらくない。正当な怒りも、恥に基づく怒りも、いったんそれが生じてしまった段階では同じ怒りなのだ。自己愛の連続体はそのどこに傷がついても痛みを生じる。おそらくその怒りの性質の違いがわかるのは、そばにいて眺めている他人なのだろう。他人が「これは当然の反応だ。自分だって怒るだろう。」と思えるか、「あんなことで怒るなんて、余程プライドが高いのだろう。」と感じるか、である。とすれば先の問題に対する解答とは、「最初から自分の自己愛が肥大しないように心がけること」ぐらいしかないのだろう。しかしそうは言っても人は自分の自己愛がどの程度肥大しているかを、常にチェックすることなどできない。それどころか自己愛が肥大すればするほど、その種のチェック能力が損なわれてしまうのが通例なのだ。とすれば日常生活で体験する自分の怒りを一つ一つチェックすることくらいしかできないのだろう。そして毎回ムカッとしたときに自分に尋ねてみるのだ。「今自分は何に傷ついたのだろう?」おそらくそう出来た時点で、二次的な怒りのかなりの部分はその破壊力を失っているはずであろう。
しかしあれから昨秋森田療法学会での講演の準備を数ヶ月にわたって行ううちに、随分考えが変わってきた。人は自己愛の肥大が常に生じないよう努力をすべきなのだ。何しろ自己愛の風船が大きくなるのに比例して、自分も苦しいし、何よりも他人に迷惑がかかる。何もいいことはないのだ。それが重要ということであり、自分を小さくしていくという営みなのである。 恥と自己愛の治療論についての論じ方としては二つである。一つは自己愛の風船をいかに飼い慣らすか。そしてもうひとつは、いかに健全な自己愛により恥の病理を克服していくか、ということだ。後者に関しては、実は昔の雑誌を整理していて、私が10年以上前にある雑誌に寄稿したままになっていたものが見つかり、読み返しながら浮かんだことである。(「教育と医学」誌20028月号「特集・恥について考える」)それについて少しいかに述べよう。
「健康な自己愛」のもうひとつのタイプ

これまでの私の論述からは、私の言う自己愛は、自己保存本能に関するもの、動物的に備わっているもの、という印象を与えただろう。そして自己愛の風船の方はといえば、もっぱら他人との接点が問題になるようなあり方をするものとして論じた。でもスゴーく自己愛が強く、しかもその風船が侵害されないというケースについても言及しておきたい。それを達成するのも治療論に関係しているという意味でである。もしそのスゴーく自己愛的な人が本当に一人で満足している場合を考えよう。決して風船が邪魔されたり侵害されるおそれがない(あるいは非常に少ない)場合だ。それって一応健全は自己愛(の肥大?)ということになりはしないか?人に迷惑をかけないからだ。
 私の知っているある中年男性Pさんは、毎日膨大な原稿を生み出している。そこには過去の哲学者も網羅しきれなかったほどの叡智が込められているという。彼はそれを当分人には見せるつもりはないというのだ。Pさんは見かけは割とみすぼらしい。彼は仕事(お掃除)をしたりしなかったりで、同居中のお母さんにお小遣いをもらう毎日だ。だからお母さんには頭が上がらない。それに仕事場では彼がそのような「才能」を知る人はいないので、彼にぞんざいに接する。それでもPさんのプライドはあまり傷つかないという。「彼らは私の才能を知らないから」というのだ。そして私と話すときのPさんは自信に溢れている。(Pさんは私が彼の才能を理解する一人と数えているらしく、私の前では堂々としているのだ。)それに彼のそのような「才能」のために、彼は人に馬鹿にされてもめげないような力が与えられているのである。
 私はこの種の風船のふくらませ方をすることで、人は幸せになれるような気がする。これは健全な風船のふくらませ方だ。実はここで述べたPさんは多少問題がある。私は彼の「作品」を見せてもらっていないが、あまり「大したことがない」可能性が大きいのである。もう少し言うとPさんの自分の作品の評価の基準は少し危ういのだ。ちなみに彼は私がアメリカで会っていた患者さんだ。しかしもう少し健全な例はないのか。
 頭に適当な実例が浮かばないので空想してい見た。空想 fantasy という意味でFさんということにする。Fさんは一流企業に勤めていたが、入社して数年間勤務した営業部門で疲れきってしまった。彼の成績は悪くはなかったが、同僚との競争は過酷を極めた。それがあるとき、陶芸の世界に目覚め、その面白さに魅入られた。それから仕事を辞めて田舎にこもって、近くの街のスーパーで品出しのアルバイトの職を見つけ、ほそぼそと生活をしながら思い切り陶芸の世界に打ち込むようになった。そこには無限の世界が広がっていた。彼は土の勉強をして、その地方の山で陶芸に最もふさわしい土を発見した。そこでは決してお金をかけずに宝の露天掘りをすることができるのであった(陶芸のことをうっすらしか知らず、想像で書いているので実感ないなあ。こんな話あるのかなあ。)。彼は生まれつき陶芸の才能があったらしく(生まれつきの陶芸の才能、って一体どんなのだ?)彼の作る湯呑は一部の陶芸ファンや陶芸オタク(そんなのいるんかい?)に熱狂的に受け入れられ、オークションを通じてそれなりの収入を得るようになった。
F
さん(せっかく名前をつけたくせにやっと使われた)は陶芸の世界以外には知られていないので、世間的にはただのスーパーのおじさんでしかない。身なりも構わないからどこに行っても目立たないし人も騒がない。でも秘めたる自信がある。Fさんに自己顕示欲がないわけではないが、年に一度お台場で開催される「全国湯呑フェア」(テキトーにでっち上げた)で熱狂的に迎えられ、カリスマ扱いされるだけで十分である。
 Fさんは満たされているからスーパーで若い上司に怒鳴られてもあまりコタエない。仕事が辛くても帰宅して轆轤(ろくろ。読めない人のために。)に10分間向かうだけでも気持ちが解消される。Fさんはひとり暮らしの寂しさを体験することもあるが、もし妻帯して料理やお掃除が上手な人と一緒になっても、おそらく彼の家の裏の納屋に膨大に溜まっている失敗作の湯呑(といっても彼にとってはまだまだそれらの価値が理解される時代が訪れていないだけなのだが)は一瞬のうちに廃棄処分になるだけだ。ということでFさんは今の生活で満足している。それでいいのだ。
 ところでこのFさんの話はかなり「盛って」ある。つまり彼の場合はあまり現実的ではない幸運続きなのだ。ひとつは、彼には陶芸の才能があったことだ。轆轤に向かっているとそれだけで時間を忘れる。そして彼の創作活動はそれなりに社会に受け入れられ、収入にもつながったのだ。(言っていなかったっけ?Fさんはオークションで月に数万円ほど稼いでいたのだ。)彼は年に一度だけれど、有明でカリスマとしてチヤホヤされているのだ。そしてもうひとつ、これは大事なのだが、チヤホヤされることでもっともっと、とはならなかった。意味見なく自己愛の風船を膨らませることがない。なぜなら彼は若干人嫌いなところがあるのだ。だからしばらく人と会っていると「もういいや」となりまた山に入っていく。だからひとり暮らしも苦にならない。Fさんには結婚願望もなく、家庭を築き、子供を持とうという気持ちもない。マイペースなのだ。
 このマイペースという部分が何故重要かというと、「人並みに自分も~したい」「中学時代の同窓会に行ったら、皆それなりの企業に勤め、妻帯していたので、オチこんでしまった」という人は、本当の意味での幸せをつかめないからだ。自己愛の満足が常に他者との比較により成り立っている人は、自ら不幸を背負い込む人生を送っているようなものである。どこの世界に入っても、「上」を見ればきりがない。「上」に上がろうとすると上司にはペコペコしなければならず、その鬱憤は部下へ向かう。ところがFさんのような場合は、それがないから隣人を見て自分と比べて落ち込むということも少ない。無駄な自己愛の傷つきも少ない。
 自己愛の風船のメタファーで考えてみようか。大部分の人間はFさんと違い隣の人と自分を見比べて生きる人たちだ。一般の人たちという意味でAさんとしよう。Aさんの風船はいつも膨れたがる傾向にある。まあそれは人間一般の傾向なのでFさんも同じなのだが。人に褒められたりちやほやされたりするとそれが少し膨れる。人にダメ出しをされてそれはしぼむ、ということを繰り返す。基本的にその膨張や縮小を決定するのは、周囲にいる人たちの反応だ。
F
さんタイプの人の場合は、「俺は~で行くんだ!」というようなものを持っている。その主観的な出来が風船の膨らみにかなり大きな要素となる。しかし他人からの評価も大きい。彼が見よう見まねで初めて捏ねた湯呑は、それなりにお師匠さんから褒められた。「初めての作品にしては、光るもの上がる。」なーんてね。(言うのを忘れたが、彼には陶芸の才能を見出してくれたお師匠さんがいたのだ。)もしFさんの才能をやっかんで、何を作っても「全然ダメや。もう陶芸は止しときなはれ」という人だったら、Fさんはもう嫌になってその世界から早々と足を洗っていた可能性すらある。あらゆる創造的な活動は、それを行っていることの純粋な楽しみと、それを評価してくれる人から与えられる自己愛的な満足の混合である。おそらく創造的な活動の喜びは、自分の才能が伸ばされていくという実感と、それを客観的に評価してくれるような何かが重要な役割を果たす。ピアノだったら、だんだんと難曲を弾けるようになっていくこととか、周囲の人からの評価など。
F
さんタイプの場合、ある意味では自己愛の風船の膨らみ方は、何らかの比較を前提としているのかもしれない。昨日弾けなかった曲が弾けた、とか。(あれ、いつの間にかピアニストの話になっているぞ。)昨日は褒めてくれなかったお師匠さんが、今日の湯飲み茶碗を見て(戻った、戻った)少しニコッとしたとか。それでもそれこそ日常に出会う人の全てから評価を得なくては気がすまないということではない。彼の中には実質的にその風船の内実を支えてくれている実感がある。「自分はこれをやっている限り、満足できるし、自分の力も限界も自分が一番よく知っている。だから人に馬鹿にされる恐れはないし、たとえ人に馬鹿にされたとしても、その人は私の陶芸の才能など知る由もないから、根拠のない中傷に過ぎない、だから自分も傷つかない。Aさん(つまり私たち一般)のように自分の中心に自信がないと、くだらないことで傷つく。
健康な自己愛とは、自分に純粋な喜びをもたらせてくれるような創造的な活動を見つけ、それに携わることで自分を中心から支えられている状態である。
自己愛の風船を飼い慣らす
しかしFさんになれない私たちはどうしたらいいか。大部分の私たちはFさんにとっての陶芸のようなものを見いだせない。人から特別賞賛されるようなことなど何も持たないのが私たちの通常のの姿だ。あるいはFさんのように他人と自分を比較しないという美徳を持たない。しかも私たちが時々出会うある種の人々については、「他人と自分を比較しない」どころではない。ターゲットとなるような人を常に探してしまい、その人が羨ましくて、憎くて仕方がないという人たちもいる。あたかもそれが生きがいであるかのように、その人を羨望し、そして憎しみを向ける。Envy (羨望)だからEさんだ。
 Eさんはだからといって大きな自己愛の風船を持っているわけではない。しかし状況が許せばそうする素質はもともとある。Eさんが持ち前の馬力で仕事をし(Eさんは人並み以上の能力をそなえていておかしくない)ある分野で力を発揮し、それなりの地位を築くと、彼の下で働く人が増えていくだろう。するとそれに相応して彼の自己愛の風船は膨らんでいく。するとEさんの部下にとっては結構悲惨なことになる。やたらと威張る。叱り飛ばす。ライバルの愚痴を聞かされる。Eさんの部下にとっては、能力があることはEさんの逆鱗に触れることになる。能力があるというだけで、Eさんの自己愛の風船を刺激するのだ。
 ただしEさんにそれほどの能力がない場合は、一介の平社員や家庭人で収まっている場合がある。すると配偶者や子供を相手にしてしか自己愛の風船を膨らませることができないだろう。すると家族は結構苦労することになる。家庭内での支配者。暴君。すぐ暴力を振るったり、自分の方針を押し付けたりする。これは実はとてもよくあるパターンだ。風船をふくらませたくても膨らませないでいる人達。これも結構厄介な人たちだ。一緒に暮らす人にとっては。
さて私はエッセイのこの項目を終えるに当たり(あれ、そうなの?)一種の処方箋のようなものを書いているのであるが、FさんになれないAさん、つまり私たちの大部分、あるいはEさんにとっての処方箋はどうなのか?
おそらくEさんのタイプは一生そのままなのである。自分を変えようという動機もないし、とにかく自分より優れた他人を見ることからくる苦痛や怒りと戦うことでエネルギーを費やしてしまう。もちろん自分の自己愛のシステムを見直すという、これから私がAさんたちに対して提供する処方箋(すごくエラそうで上から目線だな)

ということでAさんたちにとっての自己愛の治療は、やはり死生観と関連せざるを得ないと思う。ここら辺はモリタについて論じていたこととつながる。Aさんの自己愛の風船は、それが本来は得られなかったもの、天からの授かり物と考えることで、つまりイメージの世界である程度萎ませることができる。例のサラリーマン川柳「カミさんを上司と思えば割り切れる」は秀逸だが、他人(自分に対してもだが)に対してどのようなイメージを持つかで、体験は全く変わってくる。
 ただしNPDに対する治療論が私の中で今ひとつ発展しないのは、やはり彼らによって困らされているのは周囲であり、本人ではないということではないだろうか。自己愛の風船は膨らんでいく。それは当人にとっての快感原則に従っているからだ。人間の本性というべきか。それは突き当たるところまで行って膨張をやめ、あるいは収縮する。あるいはこの間の猪瀬さんのように一気にしぼんでしまう。それでも人は通常は生きていく。欝にでもならない限り。そして小さいなりの風船を保ちつつ生きていくのだ。

2014年1月26日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(8)

一昨日テレビでタイガース再結成の映像を流していた。とても懐かしかったが、ジュリーはもう少し体重を落とすわけには行かなかったのか? 私が小学生の頃テレビで見たジュリーは本当に美しかった。久しぶりにテレビで見たジュリーは、声はよく出ていたが、見た目はNHKの「ダーウィンがきた!」に出てくる「ヒゲじい」ソックリで、笑ってしまった。

7.恥と自己愛の二次元モデル

対人恐怖と自己愛という問題
私は自己愛とか恥の問題について以前から関心があったが、それはもともと両方とも私の性格の中にあったものだと思う。それが共存し、お互いに干渉仕合いぶつかり合い、時には助長し合っているのである。ただし私の幼児期は気恥かしさとはあまり縁がなかったと思う。人見知りはあまりなく、誰にでも近づいていくほうだった。思春期以降偏屈になっていったわけだが、幼少時は極めて波風のない(ただし通学時間を往復3時間一人で過ごすような)子供時代だった。だから二つの傾向の中では、自己愛部分がより素の自分のあり方として思い出される。
 私は基本的に「モノづくり」が好きだった。実家が事業をしていたせいもあり、また田舎暮らしだったので、有り余る時間を庭先に転がっている様々な廃材を使った工作に宛てた。ギターとかバラライカの類をよく作った。また後には野球のグラブやミットも作るようになった。といってもそれらのような「形をしただけ」の使い物にならないひどい出来だったが。(ギターの弦を町の楽器屋に買いに行く、という発想もなく、釣り糸を代用し使った。)そしてここが大事なのだが、出来上がったものを人から評価されるのが好きだったのだ。
 人からの評価はもちろん創作の絶対条件というわけではなかった。自己満足な部分がある。しかしなんだかんだ言って、夏の工作を9月の新学期の初日ににせっせと学校に運んだところを見ると、人に評価されることはかなり大きな部分を占めていたらしい。
 とにかく純粋に思い描いたものを自分の手で作るのが好きだったというわけでもなさそうだ。また子供時代はひどい田舎に住んでいて、近くに友達がいなかったことも「制作活動」と関係していたかもしれない。とにかくこちらは私の「自己愛的な部分」としよう。「自己顕示的な部分」といってもいい。
さて他方の対人恐怖傾向は思春期以降だ。子供時代に非常に人懐っこかったことを考えると、多くの対人恐怖の患者さんのように、私も思春期以降「発症」したのかもしれない。といっても特に症状はなかったが、とにかく自意識過剰になったのだ。人前に出るのはむしろ苦痛になった。というより人前で何かを行うのが嫌になった。それでも高校の文化祭などで、人前でギターを弾いて歌ったりしていた。あれはナンだ? そう、一部は成り行き上仕方なく、他方では自分の存在をわかってほしいと思っていたからかもしれない。こちらは「対人恐怖的な部分」としよう。
私の原体験は、この両方が常にぶつかっていたということだ。この現象が非常に興味深く、この仕事に就いた時に「対人恐怖」がすぐにテーマになったというわけである。
「恥と自己愛の精神分析」という本を1998年に書いた時、私はおかしな図を描いた。それは次のようなものだ。縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さ。二つの傾向は独立変数だ、というわけである。
ところで臨床心理の世界に多少なりとも馴染みができると、実はこのテーマを扱った論文が結構あるのだ。パクリに見えるものもある。例えば清水先生という方が、対人恐怖心性ー自己愛傾向2次元モデルと作成したという(心理学研究2007年)。
 実は私は自分の著述が誰かによって継承されているということを全然知らないでいた。臨床心理の教員となり、院生の書く修士論文を通して、すでに何回かこの種の研究を目にするようになったのである。例えば対人恐怖尺度と自己愛の尺度を使って研究協力者を4つのグループに分けることができる。あとはそれぞれのグループの特徴を抽出して比較することで様々な所見が得られることになる。
 この種の研究で決まって出てくるのが、自己愛の傾向と対人恐怖傾向は概ね相反的であるという傾向である。つまり自己愛の傾向が高い人は、対人恐怖傾向は概ね低いということである。これは直感的にもよくわかる。自己愛的な人は外向的で人を巻き込み支配するタイプであり、引っ込み思案で気が弱い対人恐怖傾向とは全く逆ということになる。
 ではどうして共存し得るのだろうか。改めて考えてみたい。私の二次元モデルの図を見ていただきたい。私は「恥に対する敏感さ」、と「自己顕示欲」という二つの次元を考えた。前者は今から考えると少しおかしな言葉だが、まあ対人恐怖傾向と同じと考えていただきたい。後者は自己愛、とは言わずに「自己顕示欲」としたのである。実は今から思えば、私が自分で持っている傾向は本当に自己愛傾向なのか、というのがわからなかった。私は確かに自分を表現したいとは思うが、人を支配するという願望が人一倍強いとは思わない。私が持つ自己愛のイメージは「対人恐怖と逆のタイプ」とは異なるものなのだ。あえて言えばコフート的な自己愛、ということだろうか?でもカンバーグ的な自己愛ではない・・・・。あまりこのブログで扱ってこなかった重要な問題である。
カンバーグタイプとコフートタイプの自己愛?
 まあわかりやすく言えば、これは厚皮型か薄皮型か、ということだ。傍若無人か、気弱か、ということもある。見たところかなり異なる。後者は一件対人恐怖的だ。ただし対人恐怖と違うところは、「自己愛の傷つきに極めて敏感だ」ということである。対人恐怖は、もっぱら対人場面が怖い。薄皮型は、自己愛の傷付きに敏感・・・。両者は果たして違うのか?実は対人恐怖の人だって、「だってみんな自分のことをおかしいと思っているんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか、と思うから」というかもしれない。
 この種の議論が起きてきたのは、1980年代以降になり、米国でいわゆる恥の議論が高まってきたということと関係している。
 その中にアンドリューモリソンという分析家がいた。彼が「恥 ― 自己愛の後ろ側 shame – underside of Narcissism」という本を書いたのだ。精神分析の専門書、カタい本である。おもえば恥と自己愛という、本来は対極的にあるテーマが私の頭の中で結びついたのはこの本がきっかけかもしれないが、彼自身はこれをコフートから引いていた。彼はコフート派だったのだ。そしてそれが少なくとも米国の精神分析学会の一部の人たちに火をつけたのだ。彼らの主張は、フロイトは全然といっていいほど扱っていないけれど、恥の議論ってすごく大事だよね、ということだった。
 モリソン及びその仲間たち(ブルーチェック、ネイサンソン、そのほか)の人たちの論旨を簡単に言えば、恥は自己愛の傷つきである、ということだ。私は「その通りだ!」と思ったし、アメリカの分析家たちにも同じようにアピールしたと思う。しかしどうしてだろう?恥と自己愛は反対の関係なのに。 ということで今日は朝起きてからこの問題を考えていた。途中で寄ったドトールで思いついた。カギは自己愛の二つの要素にあるのだ。自己愛の風船の大きさと、過敏性と。恥と自己愛の問題は、風船の大きさと過敏さだ。何度も言うけど。風船への侵害による痛みイコール恥、というのはいい。というかそういう風に定義しよう。少なくともモリソンはそういっているし、コフートもそう言いたかった。そしてギャバード先生も、そのほか薄皮の自己愛を唱えている人たちは皆そう考えている。
 問題は、自己愛の風船が小さく、また侵害されてもそれを怒りに転化することができずにただただ恥じて消え入りそうになっている人は、全然自己愛的に見えない、ということなのだ。いや、それでも彼らは牙をむくことがある。ところが彼らは普段はおとなしくて全然自己愛的には見えないから(彼らの風船は小さいから、偉そうに見えないのだ)、時々怒り出すおかしな人、近寄らないほうがいい人たち、ということになるのだ。
するとカンバーグ的な自己愛か、コフート的な自己愛か、ということについては、前者はもっぱら風船の大きいタイプ、コフートは風船が敏感なタイプ、ということになる。
二元論モデルとは結局何だったんだ?

 最後にまた二元論モデルに戻る。私は縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さとした。縦軸は大体風船のサイズに一致するか。そして横軸は風船の敏感さということになるぞ。
 ちなみに自己顕示欲の強さと風船のサイズ咎対応するというところはピンと来ないかもしれない。でもそもそも大体風船が膨らむタイプって、自分を表現したいという欲求があるからそうなっていくのだと考えられないだろうか? 人を支配して、命令をきかせて、自分のやりたい方向に周囲を従わせて、となって「俺はすごいんだ」感が広がっていくのだから。
 では両軸の大きさを測る指標としては何を使うか。縦軸は自己愛の中でも敏感さを抜いた指標があればベストだろう。カンバーグ的な自己愛人格の指標。横軸としては対人恐怖傾向というより恥の敏感さか。でも風船の敏感さって、対人恐怖と同じことなんだろうか?それが問題だ。アスペルガー傾向の人の被害的な感じは対人恐怖とは違うだろう。彼らは対人的に鈍感で、つまり相手のことがわからなくても敏感だぞ。そうか、対人恐怖って相手の気持ちがビンビン伝わってくることによる敏感さでもあるんだ。ところがここで問題になってくる風船の敏感さは、相手のことがわからなくても敏感という音がある。実際そういう人を知っているのだ。

2014年1月25日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(7)


6.自己愛と怒りの問題
自己愛と怒りの問題は極めて重要だ。NPDの人が周囲に及ぼす様々な影響の中で、怒りほど厄介なものはないからである。だいたいNPDぶりを発揮する人の場合、その怒りの表現が許されてしまう。すると周囲はそれにかなり直接的な影響を受ける。
昨年末に私たちの背筋を凍らせるような事件が起きた。
【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、「張成沢部長に報告する」と即答を避けた。激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。
 (201312211041  読売新聞)
例の自己愛の風船が膨らんでいった最終地点。それが独裁者の道である。部下に口答えをされた時の正恩氏の気持ちは想像がつく。「こいつらなめとんか!」しかしこれは自己愛に関連した恥、コフートの言う「自己愛憤怒」なのだということは皆あまり考えないのではないだろうか。実はこの種の怒りは私たちが日ごろ体験していることである。しかし普通の社会では腹が立った相手を抹殺することなどできない。せいぜい「藁人形」程度だ。しかしそれが地位を持ち、風船がとてつもなく膨らんだ人にとっては、他人の命を合法的に奪うまでになる。なんと恐ろしいことか。
怒りについての一般論
少し怒りについての一般論に遡る。従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribot(テオドール・リボー)の説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している。この種のストレートな理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。それはファリックで父親的であり、力の象徴というニュアンスがあったのである。
 もちろんこの種の怒りはありうる。例えばカバンの中からイヤホーンを取り出そうとして、コードが絡まってなかなか取れないとする。気が短い人の場合にはイライラしてコードを思いっきり引っ張って使えなくしてしまうかもしれない。これなどは「欲求の満足を妨げるものへの怒り」であり、この種の怒りはいわば人格化されていない、直接的な怒り、欲求不満に直結した怒りであり、欲求の満足が得られればそれでやんでしまうたぐいのものである。
 
しかし私たちにとって厄介な怒りは、より人格化した怒り、それも恥の感情に関連した怒りである。これはいわば二次的感情としての怒り、と整理することができる。この理解に立つと怒りは、その背後にある恥や罪悪感との関連から捉えられる。つまり恥ずかしい、とか自分はなんと罪深いんだ、という感情の直後に、怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。
怒りが最初からポンと生じる場合がある。それはそれでいいだろう。ただ私たちが社会的な存在としてこの世で生きている時に生じる怒りは、大概「対人化 interpersonalize」している。怒りは二次的に生じるのだ。そのことを説明するのが、この怒りの二重構造説である。ただ順番としては、一次的、プライマリーな怒りの説明から始めたい。
一次的な感情としての怒り
そこでこの「一時的な感情」としての怒りの由来を考えてみる。それは自己保存本能と同根である以上、進化の過程のいずれかの時点で生物に与えられたそれが、そのまま継承されたはずである。ちなみに精神分析では怒りとはプライマリーなものであるという捉え方は半ば常識的である。フロイトもそうだし、メラニー・クラインもそうだ。オットー・カンバーグもそのような路線で論じた。他方ウィニコットやコフートはそれとはかなり違った方針を取った。私の怒りに関する議論はコフートに大きなヒントを得ているが、プライマリーな怒りがないとは思わない。それを以下に述べるが、精神分析とは異なる論拠からである。
かつて脳の三層構造説を唱えたPaul Macleanは、攻撃性は最古層の「爬虫類脳」にすでに備わった、自らのテリトリー(縄張り)を守る本能に根ざしたものであるとした。Macleanのいう爬虫類脳は脳幹と小脳を含み、心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担うとともに、自分のテリトリーを防衛するという役割を果たす。
 たとえばワニは卵を産んだ後にはしばらくその近辺をウロウロし、侵入者に対しては攻撃を仕掛ける。しかしその時にワニが「怒って」いるかといえば、そうではない。もちろんワニの身になってみないとわからないが、おそらくそう見えるだけである。感情をつかさどる大脳辺縁系は、ひとつ上の層である「旧哺乳類脳」のレベルまで進まないと備わらないからだ。
 そしてここでいうテリトリーを象徴的な意味も含めて用いるなら、それを守る本能は、上述した人間の健全な自己愛の原型と考えることが出来るだろう。それは自分や子孫を守る上でぎりぎりに切り詰めた「領分」を維持するためのものなのだ。
 ウォルター・キャンノンが1929年に、動物が危険にさらされた時の二つの反応パターンとして「闘争・逃避反応」(よく出てくる表現だ)を提唱した際、この辺縁系をも含めた自律神経の活発な動きに注目したのである。オスのカモシカは、もう一頭のオスが近づいてきた際には、ツノを振りかざして威嚇し、追い払うかもしれない。その時は辺縁系の扁桃核や中脳の青斑核が刺激され、交感神経系が興奮し、闘争の態勢に入っているが、主観的には怒りに近い感情を体験しているはずである。この怒りの感情はあくまでも、自分の身の安全や自分のテリトリーを守るための正当なものであり、この部分をそのまま引き継いだのが、私達の怒りのうち「一次的感情」に属する部分というわけである。
 ここでカモシカの身になった場合、怒りに先立って、何かを侵害された、踏み込まれた、という認知が生じることは間違いないだろう。カモシカは自分の体の周囲の一定の範囲を自分のテリトリー(領分)とみなすはずだ。そこに入ってきたらそれを判断して、しかる後に猛然と怒るのだ。彼(と呼んでしまおう)は、はるか向こうに見えるカモシカの姿に対しては、それに反応して突進などしないだろう。「あっちに、自分と同じようにテリトリーを守っているカモシカがいるなあ」、と認知するだけだ。ところが一定以上に自分のテリトリーや、そこにいるメスに近づこうとするカモシカには「あの個体は侵入してきた」という認知を経て怒りの感情が湧くはずだ。
 そこで「一次的な怒りはテリトリー侵害による」と一応言ってしまおう。ここで一次的(英語ではプライマリー、とにかく最初に起きるもの、という意味)と断っているのは、およそ生物を観察する限り、いかに下等であってもこのテリトリー侵害への怒りに類似する反応を起こさないものはないからだ。生命を有するということと、テリトリー侵害に激しく反応するということはほぼ同義と考えていい。おそらく侵害されても平気な個体は、進化のどのようなレベルでも瞬くうちに淘汰されてしまうだろうからだ。突然変異で「極めて寛容」なアメーバが生まれたとしよう。彼は他のアメーバに貪食されてもヘラヘラしていているだけで、あっという間に餌食になってしまう。これじゃ子孫を増やせないだろう。(まあ子孫を増やすと言っても細胞分裂するだけだが、その暇もないはずだ。)
さてここで大事な問題について問うてみたい。テリトリーを侵害されたカモシカは、恥の感情を持っているだろうか? おそらくそうではない、という答えが圧倒的であろう。「テリトリーを侵害された」という認知は、即怒りに向かうはずだ。しかし最大の問題は、このテリトリーは、自意識が生まれるとともに想像の世界で膨らんで行くということだ。現実のテリトリーではなくて、想像上のテリトリーというわけだ。するとどうなるか。もしカモシカにそれなりの自意識が生まれたとしたら、「ああ、侵害されちゃった。俺ってなんてふがいないんだろう…。あいつ(相手のカモシカ)はどうせ俺のことを馬鹿にしているんじゃないか? (馬じゃなくて鹿だけど…)俺もナメられたもんだぜ。」
 まあこれは動物では起きないだろう。それだけの想像力がないからだ。しかしちょっと待ってほしい。動物の場合も、相手を撃退できず、逆に押し込められたら恥の前駆体となるような感情が体験されないと言い切れるか? 喧嘩をして負けて尻尾を巻いて逃げる犬。若い雄ざるに力で圧倒されて、とぼとぼと群れを去るボスざる。相手のコブの大きさに威嚇されて自分の領分であった岩山を去るコブダイ。(ヒエー、魚まで入れちゃった!)「俺ってナサケねー、ショボン・・・」と言っているようだ。
 しかしここは、これ以上妄想を膨らませることなく、一応次のように言っておこう。動物には恥の感情はない。ほかの個体に見られる自分を想像し、恥ずかしがったり、自分を不甲斐なく思ったりという心の働きは持たないのだ。彼らは相手に負けた時は「まずい、逃げるしかない…」という感じなのだろう。すなわちそこに居続けると身の危険が迫るから立ち去る(泳ぎ去る)のであり、それ以上でも以下でもない。要するに防衛本能に従ったまでなのだ。「俺ってどうしてこうなんだろう?また負けちゃったよ。情けないな。」「俺の額のコブって、どうしてこんなに貧弱なんだろう。いやになっちゃうよ…(コブダイ)」とはならない。それは自己を他者と比較したり、客体視することができないからだ。
 動物にもそのような能力の萌芽があるって?天才ボノボなら少しは恥の感覚はあるだろうって? よろしい。それはそれでいいのだ。天才イルカの中には恥の感覚を持つ者もいるかもしれない。そこら辺は人間とそれ以外の動物を峻別する理由はない。第一人間にも「恥知らず」はいくらでもいるではないか。人の姿をした猪もいる?ナンのことだ?
 ちなみに動物も逃げる時は恥の感情に近いものを感じているのではないか、というこの発想は、後に私の考察にとって重要になってくる。
 ところでふと考えたが、動物に恥を想定しないということは、実は動物に怒りを想定する根拠もその分だけ奪う、とは言えないだろうか? 逃げる、という行動が純粋に身を守るための手段であり、感情を必ずしも必要としないのであれば、相手を撃退するという表面上は非常に攻撃的な行動だって、本能に従ったものになりはしないだろうか? もちろん攻撃も逃避も俊敏で激しい身体運動を必要とするし、そこに感情が伴っていればそれだけそのような身体運動を誘導しやすいとイメージすることはできるが、例えば激しくこぶしで打ち合っているはずのボクサーたちが案外冷静だったりするのと似ているかもしれない?・・・・つまり私は「動物は怒りはあっても恥はない」という常識の両面を疑っているわけだが、これでは読む人はなんのことだかわからないだろう。
正当なテリトリー
ここで「正当なテリトリー」を想定することは重要だ。それを守ることは、プライドとは別の、健全な自己保存本能とでも言うべきものに関係している。「電車の座席のスペースが自己保存本能と関係あるんだって?」と反応されそうだが、少し説明させて欲しい。
正当なテリトリーの原型はおそらく身体のバウンダリーそのものだろう。皮膚を破って侵入しようとするものは激しい痛みを引き起こすだろう。そのような刺激を忌避し、回避することは自分の身の安全を確保するために絶対必要だ。これはプライドの問題ではない。そして身体に接触しなくても、誰かが近くでジロジロ覗き込んだとしたら恐怖感を感じ、怯えるのが自然だ。だから私たちは身体の表面から一定の範囲の領域をパーソナルスペースと呼び、そこは守られるべきだと感じる。国家で言えば領海、領空のようなものと考えていい。それを守るのはどのような進化レベルの生物にも共通していることなのである。そしてその侵害に対しては、断固たる態度をとるのが正しい対処法だ。というよりそのような態度は自然と起きてきて当たり前
である。起きないほうがおかしい。どんなに心優しい人でも、見知らぬ通行人の叔父さんに傘で足をつつかれたら怒って抗議して当然だ。しないほうが何かの病気だろう。もちろんそのおじさんの顔を見て安倍首相だったら、また違った対応になるだろうが。
「正当なテリトリー」と健全な自己愛
さてこの正当なテリトリーとそれを超えたナルシシズムの概念をつなぐ意味で、「健全な自己愛」という概念を導入する。実はこれは、自己愛の二種類、という問題について論じたこととも関連する。自己愛とは自分を愛する、という一人称と、人に賞賛されるという二人称的なものがあるといった(いや、実際はそういう言い方はしなかったが・・・)。するとパーソナルスペースを守るのは、どちらかといえば一人称の自己愛だ。そしてそれは自己保存本能に根ざし、動物のレベルで存在するというわけである。
 そして当たり前の話だが、二人称的な自己愛が大きく発達した人(風船が大きくなった人)も、当然この「正当なテリトリー」の侵害に対する反応はするだろう。自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一次的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。
ただし「正当なテリトリー」を守るという健全な自己愛と、一人称的な自己愛がぴったりと重なり合うかというとそうでもない。恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)では、一人称的な自己愛の例として、自分の姿を見てうっとりする青年という例を挙げたが、それこそナルキッソスのようにそのまま飲まず食わずで死んでしまったならばそれは病的というわけだ。しかし自己陶酔が極端なかたちで生じている場合も、おそらくあまり病理性は問われないだろう。そもそも自分の姿に恋焦がれて死んでしまうような人など聞いたこともないし、自分の姿の美しさや完璧さを周囲の人々が認めることを強要するところから、即ち二人称的な自己愛に変質するところから病理は始まるのである。
自己愛連続体の図式
ここでこれまでの議論を分かりやすくまとめた図(図1)を紹介しておこう。




これまでいくつかの著述に用いたものであり、その意味では読者の目にある程度はさらされ、そのテストを通過しているものと言えなくもない。
この図式がこれまで話に出てきた「風船」の話とも関係することはお分かりであろう。




 


 








 
その原型は下の図2である。非常にシンプルで、これ自体は何を指しているのかわからないかもしれない。これは動物レベルでの自己愛に相当するものであるが、自己保存本能に基づいたものとも言える。動物レベルでは自分を愛するという傾向と自己保存本能に従ったものは一致する。なぜなら自己イメージを明確なかたちで持たないからだ。
 ただしこれには例外があるかもしれない。例えばサル山のボスザルを考えてみよう。どんぐりテスト、というのを読者はご存知だろうか?猿山で何匹かの申のあいだにどんぐりを落とす。すると上位のサルがそれを取り、下位のサルはそれを横目で見ているだけなのだ。(あれ?確かめようとして「どんぐりテスト」をググってみたが、出てこないや。呼び方は違っているかもしれない。)
でももしボスザルの横に落ちたどんぐりの一つを、若いオスざるがかっさらって言ったら、ボスザルはきっと切れるはずだ。「わしをなめとんのか、コラ!」ボスザルは決してそのどんぐり一個を食べないことで飢え死にしたりしない。つまり自己保存本能に根ざした怒りではない。するとこれって・・・・・。「膨れて」はいないか?何がって?自己愛の風船が、である。
ちなみにここでサラっと触れたこと、実は重要かもしれない。ひょっとしてサルの社会でも病的な自己愛が成立しているということか? 私の文脈は明らかに、動物は健全な自己愛のみ所有するというものだった。しかし社会を作る動物の場合は事情が異なる可能性がある。ここも人間とそれ以外を峻別する必要はない、ということか。
 でも社会を形成する動物には、アリとかハチも含まれるだろう。女王蜂はすごく自己愛的だったりして。「そこの働き蟻、頭が高いぞ」みたいな。まあここは、しかし感情を有するのは大脳辺縁系を有する生物以上、つまり爬虫類より上の動物、ということにしておこうか。それ以下は、極めて精巧な、しかし感情を持たないロボットと見なして差し支えないということだ。女王蜂ロボット。

人間のテリトリーにはプライドが加算される
先を急ごう。動物はその侵害への反応として正当にも「怒る」のだ、というところまで話が行った。では人の場合はどうか?このテリトリーとは人の場合にはどのように体験されるのだろうか?
 結論から言えば、人にとってのテリトリーは想像力により巨大化し、風船化する傾向にあるのだ。コブダイだったら身の程にあった岩山で満足するだろう。ところが人間並みのプライドを持ったらどうなるか。「俺は偉いんだぞ!第一水面に映った俺のコブは相当かっこいいぞ。」(魚は、おそらく水中から見た空を鏡にしているだろう!)となり、「俺様にふさわしいだけの岩山を支配するぞ。」そうして気が付いたら近くの岩山をすべて征服しているのだ。もちろんすべての岩山を見張るわけにはいかない。そこで周囲の幾つかの岩山のコブダイに睨みをきかす。彼らもボスコブダイに合うと目をそらせたり尻尾を巻いて逃げたりするから、ますますボスコブダイは図に乗る。するとほんの遠くにちらっと見えたコブダイがガンをつけたり、頭を下げり(するか!)しないだけで猛然と怒り出す…。コブダイではありえないようなこんな話が、人間では起きてくるのだ。人間とコブダイでどこが違うかと言えば、「俺様は偉いんだ(駄目なんだ)」という自意識の存在である。自分を客体し出来るということはそこに優劣、強弱という属性を必然的に含みこむ。ところがそれを生み出す想像力には限界というものがない。俺様は偉いと思い込んだコブダイは、もはやこぶの大きさで相手との優劣を決めるわけではない。何しろ「何とか山のドン」とか言われるとどの程度偉いのか分からなくなり、その分だけテリトリーは肥大していく。どこまで肥大するのか? 周囲が許容する限界までである。そしてこれはすでに述べた「自己愛風船論」につながるのだ。
プライドの加算分が恥になり、怒りに転嫁される
もうちょっと詳しく説明しよう。人間の場合も動物であるから、テリトリー侵害の仕組みは動物と同じだ。そこでまずプライドにより水増しされていないテリトリーの感覚を想像しよう。いくら想像力に富んだ人間でも、テリトリーを水増ししない場合がある。そこで「正当なテリトリー」という言い方をここで作ってしまおう。(ブログだから好きにできるのだ。)コブダイにとって自分のコブの大きさに見合った岩山。これは人間にもあるぞ。うーん、うまい例はないかな。
 あなたが電車に乗り、あいている席に座る。電車の座席に座る時、大体自分に与えられたスペースはどのくらいかはわかるはずだ。そのスペースはおそらく「正当なテリトリー」に相当するはずだ。そこに隣の人の傘が割り込んできたら、あなたは憤慨するかもしれない。隣のおじさんがあなたのテリトリーに割り込んで来るような大きなカバンを膝の上に載せたら、「これってちょっとひどくない?」と思うだろう。それは正当な怒りや苛立ちのはずだ。
 少し分解写真のような見方をしてみようか。一種の思考実験だ。膨らんだ風船に侵害が起きる。例えばある会社の重役、例えば部長の男性に対して年下の人、例えば課長がぞんざいな挨拶をする。具体的には、その部下が「お疲れさま」と言ったとする。これは怒るだろう。上司に「お疲れさま」はない。「お疲れさまです」だ。既に書いたと思うが、ぞんざいさはどこまで「手抜き」が許されるか、による。「お疲れさま」は明らかに手抜きだ。)しかしそれを言った人が自分の上司だとしたら、「お疲れさま」は全く問題がなくなってしまう。同期の同僚なら?それもいいだろう。するとこの「お疲れさま」を聞いた時にイラっとするというプロセスは、実は非常に複雑な認知プロセスを経ているということがわかる。まず「お疲れさま」を聞いた時点で、おそらく「丁寧度」が査定される。「どうもお疲れ様です。」→「お疲れ様です」→「お疲れさん」→「お疲れ」→「オツカレー!」という丁寧さ(ぞんざいさ)の階層がある。別に数値化されている訳ではなく、ちょっと塩辛いかな、とかちょっと派手かな、というのと同じだ。ニュアンスとして、体感として感じられるものである。そしてそれとその人との関係性とのマッチングが行われる。そしてそこに何らかの「齟齬」があると、「何だと!!!!」という怒りの感情が湧く。特に自己愛の風船が膨らんでいる人ほど、周囲はその風船をついてしまわないように注意しなくてはならない。・・・・・。
 ここで恥の問題がかかわる。部下に「馬鹿にされた」という認知とそれに伴う感情としての恥が、この怒りの一瞬前に体験されるというわけだ。それを「証明」してみよう。この状況から怒りを「消去」して見る。その課長クラスの人間が、部長の秘密を握っている。「私を怒らすと、秘密をばらしますよ」という状態にあるとするのだ。いわば課長に脅されている訳である。するとこの馬鹿にされた体験が人前で起きた場合は「あの部長は課長にぞんざいな挨拶をされても何も反応できないような、部下に舐められている上司だ」ということになり、恥辱体験となる。そう、怒りはこの恥辱に反応したことになるのだ。
 昔クリントン大統領(当時)がモニカ・ルインスキーの件で、スキャンダルにまみれた時、彼はプライベートではものすごく怒っていたという。ところが公衆の前では怒るわけにはいかない。だいたい自分が種をまいたのだから(文字どおり!!)だから抑うつ的になったのである。彼の心の中は恥辱の感情に満ちていただろう。
恥辱の魔法の解消法 
さてここでこの苦しい恥辱の感情を解消する素晴らしい方法があるのである。それは、侵害をしてきた相手を怒り、罵り、撃退することだ。もちろんその相手に直接攻撃を仕掛けられない場合は、近くにいる手頃な、口答えをしない人でもいい(かわいそう!)。相手を打ちのめすことで、この恥辱が和らぐ。それはどうしてか。
恥の定義を再び思い出そう。「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛み」。つまりは自分が周囲のどんぐりに比べて小さくなってしまったような状態である。ということはそれを解消する最も手っ取り早い手段は、周囲のどんぐりをハンマーで叩いて低くしてしまうことなのである。これって政治の世界ではよく見かけるよね。政治家が記者会見で記者たちに鋭い質問を浴びせられると、逆ギレするのだ。沖縄のN知事が「それって公約違反じゃないですか?」と記者から質問を浴びて「何が聞きたいの!!」とキレたというニュースをネットで読んだ。これなんかいい例だよね。
 逆切れというのは間違いなく、最近の(私にとっては「帰国後」の)言葉だが、これってまさに、恥辱を解消するための方法としての怒りを表現するための言葉のように思える。ウィキペディアで見てみよう。
「逆ギレ(ぎゃくギレ)とは、対人関係において、何らかの迷惑を被った被害者が迷惑を与えた害者に怒りの感情を表している(つまり、相手に対してキレている)とき、加害者が自分が怒られていることに耐えきれずに、開き直り的に被害者に向かって逆に怒り出す現象を指す俗語である。」(ウィキペディア{逆ギレ}の項)
もちろんここに恥や恥辱という言葉は出てこないが、なぜ「自分が怒られていることに耐え切れない」のかを考えると、それはその恥の感情が耐え難いからだ。ここで恥をかかせた相手に怒る(逆ギレする)為の合理的な根拠 rationale は何もないことが多い。それでも本人にとてはそれでもいいのだ。沖縄のN知事が「何を質問したいの!」と声を荒げた時も、記者は確かに質問はしているのだ。それに対して「質問しろ!」は意味が通らない。それでも怒ってしまう。というのはそれほど恥辱は辛い体験だからだ。そして怒りは(当座は)それを確実に軽減する。自分の風船が侵害されたときは相手の風船を侵害し返す。そこに確かな道理などない。相手を見かけ上凹ますことができればそれでいい。
 それではどのようなとき逆ギレが可能なのか?それは相手が逆ギレに対する反撃をしてこないことが予想される時である。それは相手の立場が弱かったり、燃焼だったり、地位が下だったりする場合であり、こちらを怒らせることが明らかに相手の不利につながる場合である。というか逆ギレはそれが見て取れる時に初めて可能となる。それ以外の時は、人は自己愛の風船をつつかれた時には恥じ入り、それが続くと抑うつ的になるのである。
コフートの「自己愛憤怒」
以下は引用。
かつて精神分析家コフートは「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。(「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2) より)。



2014年1月24日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(6)

(改訂段階なのでスピードがついている。)
そこで次の二つの問題、すなわち自己愛の風船が侵害された時の恥辱、それを防衛する際に動員される攻撃性といった問題に移って行く。そしてこの問題は、自己愛の風船のもう一つの性質、つまりその表面の敏感さ、という問題と深く関係しているのだ。
5.恥と自己愛
恥の感情とは何か?
自己愛の風船部分を侵害された時の痛みとして恥を理解したが、その痛みは、時には強烈である。社会的な場面で体験する心の痛みで、恥はダントツではないだろうか。大人が本気で怒る時、あるいは落ち込む時、この恥が関与してしないことの方が珍しいと思うほどだ。
 では恥は何か。一般的には、次のような定義を考えるとよい。
恥とは自己の存在が他人に比べて、あるいは理想の自己イメージに比較して弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである。
 ここで他人や理想的な自己イメージとの比較を強調してあるのには意味がある。自分がダメだ、と思うとき、人との比較はその踏み台になるような、その信憑性を増すような役割を果たす。
 自分と仲の良い、境遇の似た友達を考えよう。その友達にだけ喜ぶべきことが起き、自分にはそれが起きない時、おそらくこの恥の感覚は倍加する。「どうしてAちゃんはうまくいくのに自分は・・・」となるのだ。しかしべつにAちゃんと比べなくてもいい。例えばある学校を受験して、不合格になる。それだけで恥の体験につながるだろう。ただしそこにAちゃんは受かったのに、という要素が加わると、その痛みは倍加するわけだ。
 ところでここは脇道だが、「自分はダメだ」という意識には色々な「層」がある。恥には二種類ある、というより深刻な恥とさほど深刻な恥ではないものがあるのだ。例えば自分の××は人に劣っているという感覚。「××」にはその人の備えた属性が入る。容姿とか、学力とか、体力とか。ところが「自分は生きていく価値がない。たとえ容姿が十人並み以上で、学力も体力も結構優れているとしても・・・。という状態に人は陥ることがある。自分という存在そのものがダメだ、生きていく価値がない」みたいな人もいるだろう。こちらの方はより深く、より深刻ではないか。この二種類の恥の区別を、私は前者をエディプス的な恥、後者を前エディプス的な恥、と呼ぶことにより設けたのである。数年前かな。
 さてこの恥と自己愛の風船の話に戻る。どうして自己愛の風船を少し侵害されるだけでこの恥の感情が出てくるのか。
 例えば自分の風船は、直径50センチだとする。(まあ、具体的な数値が出てきて変な話だが、もののたとえとして。)自分はそのくらい偉いと思っているのだ。その時にそれに1センチ侵入してくるようなことが起きた。目下の挨拶の際の頭の下げ方が若干足りなかったのだ。すると「俺って、50センチえらいのに、それ以下って事?俺ってダメなの?」となるのである。
 50センチが49センチに扱われることで「(他人に比べて)弱く劣っている」のはどうしてか。それは自分の評価や他人が見る目がもう50センチのレベルに設定されているからであり、それより小さくなれば結局「なんだ、俺ってダメじゃん」ということになるからだ。
 もう旧年中の話だが、例えば楽天の田中投手が24連勝した。もう彼はカリスマである。ハードルは上がっているのだ。すると今年のペナントレースの試合でちょっとでも打たれると、「田中ってダメじゃん。フツーのピッチャーみたい。」となる。(あ、彼はメジャーリーグか。)
 あるいはイチローが3打席連続して凡打に倒れる。「イチローって案外ダメじゃん。」その評価を下す人間といえば、ごく普通のファンで、ピッチャー図マウンドから投げてもキャッチャーまでワンバウンドになってしまうし、打席に立つとプロのピッチャーのたまに腰を抜かしてしまうだろう。それでも一流選手を「ダメじゃん」と一刀両断だ。そして選手自身も「俺ってやっぱりダメかも」となる。「24連勝自体がまぐれで、いま本性が出ているのかもしれない。」そう、「俺はダメかも」は私たちの心の底に常にあり、それがバレてしまったという感覚を生むのだ。
ところで昔私はある図式を書いた。この図式見に見られるように、自己像とはしばしば二極化している。「ダメな自分」(恥ずべき自己)と「イケている自分」(理想化された自己)と。そして日頃は両方をクルクリしている。


ところが時々ズドーンと「ダメな自分」に落ちてしまう。ではどうやって「ダメな自分」が出来上がるかといえば、一部にはある種の突出した体験があり、そこで形成されるのだろう。これはもっと言えばトラウマ体験に近いものかもしれない。友達から馬鹿にされたり、親からきついことを言われたり。「お兄ちゃんは優秀だけれど、お前は出来損ないだね。」とか。これは数ある暴言の中でも突出したものとして記憶に残る可能性がある。ただしそればかりではない。自分のことを考えてみよう。私には極端に馬鹿にされたという体験はない。親は私にその種のメッセージを出したことはない。(親の自己愛がそれを抑止しているということは非常によくある。)しかし「ダメな自分」は時々頭をもたげてくる。これは生来の気弱な性格と関係があるらしい。新しいものを恐れ、尻込みするという傾向は生まれながらのものである。
ともかくも50センチの大きさの風船を抱えた私は、周囲がそれに見合った扱いをしてくれないと「俺って本当はダメなの?」が頭をもたげて非常に辛い。これが恥の感覚である。
ところで昨年のある日、変な夢を見た。どこかの学会に出ている。2日間くらいの会期かな。ブンセキ学会みたいだ。いくつかの出番がある。そのうち大部分を無事に終えて、最後のコメンテイターとしての発表の前に気が抜けてしまった。気がつくと発表の時間は確実に近づいているはずなのに、会場のどこで何時からかを把握していない。発表原稿さえも今にも見失いそうである。焦って会場を探すが、なかなか見つからずにバタバタする。「俺ってダメだあ」。ようやく目的の会場を探し当てて入ると、司会者が「ちょうど発表者が登場しました。では早速・・・・」ということになってしまう。焦って壇上に上がり、原稿を見つけ出してコメントを読み出すが、発表自体を聞いていないので、頓珍漢なことを言ってしまう。すると会場がざわつく。司会がまた気を遣い「岡野さんはちょっと忙しすぎて発表内容を間違えているようです」といい、私は「すみませんでした・・・・」と恥じ入り、謝る。その時の感覚。実際に自分が発表に穴を開けてしまった時のこと(と言ってもこれも夢の中だけのことだが)を夢の中で思い出している。人が「あの人、この間に続いて二回連続してすっぽかしたよね。前はそんなことなかったよね。最近オカしいんじゃない?・・・・」それを言われていることを想像した時の感覚。これこそが恥だ。そしてそれは半径50センチの私の自己愛の風船にちょうど見合っているのである。
 そこでなぜ私の恥の感覚は半径50センチの私の自己愛に見合っているのか? 考えてみれば私はそのようなコメンテイターとして指名され、壇上に昇るようなこと自体を本来は望むべくもないかもしれない。しかし幸いにもそれだけの役割を与えられた(あくまでも夢の中での話だ)。私の方にも「そうか、私はコメンテイターなのだ。しっかり仕事をしなくては。少しは意味のある発言もしたい。若くて駆け出しで何も知らない時の私とは違うのだから」というような自負がある(あくまでも夢の・・・)。
もうちょっと別の例を出そう。この間大リーグのイチローの番組をやっていた(もう去年のことだ)。先シーズン4000本安打を記録した後に、スタメンに起用されず、消化試合の代打に回された時の屈辱感について。彼ほどに業績があるバッターの自己愛の半径はきっとかなり大きい。すると大リーグの舞台で打席に立つという、並の野球選手にとっては到底望むべくもないチャンスも、彼には恥辱体験になるのだ。それはあくまでも彼の大きさの自己愛の風船にとってそうだ、というわけである。ほかの人にとっては大きな誇りとなる体験でも。そして代打として登場して凡打した時のイチロー選手の体験した恥辱は、プロのマイナーリーグの選手が地方の試合に出て凡打した時の恥辱と質的には同様なのだ。ただし後者の場合の自己愛の風船はかなり小さいはずである。風船の大きさにかかわらず、恥辱が体験される、という例。
「じゃ、恥って何?」ということを思い出すと、私は次のように書いた。恥は「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである」と。そして恥はその人がどの程度NPDを発達させても、どの程度風船が大きくなっていても、不可避的に体験される。自己愛の風船の直径が10センチでも、100センチでも。その風船に侵入してくるものを受けてまず体験されるのは「俺ってダメかも・・・・・」という恥辱であり脅威である。それは昨日紹介したあの「恥ずべき自己」と「イケている自己」のルーレットが回って「恥ずべき自己」に転落するという体験ということになる。人間の心はそのようにできているのだ。


2014年1月23日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(5)



自己愛の風船が自然に膨らむ理由
 
自己愛の風船が自然に膨らむとしても、もちろん何の理由もなく大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすい、ということも意味する。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。しかし大体は地位は頭打ちで、上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。
 アメリカの研究で、高校生100万人にアンケートを取ったところ、「自分の指導力は平均以上」と答えた人が70%だったという。もちろんアメリカ文化だからそうであって、日本の場合は違うという説もあるかもしれないが、まあある程度は我が国にも当てはまるとしよう(というより私の自己愛の理論は、別に日本社会について限定的に述べているわけではない。)これは人はほっておけば、自己評価を「盛る」傾向と考えることができる。人は実際より自分をイケていると思いやすいのだ。
どうして風船が膨らむか?それは単純に人が「自分は他人より優れている」という認識を持つことが快感を生むということなのだろう。ではそれが快感でない人はどうだろうか?もちろんそうでもない人がいる。百田尚樹氏の「永遠のゼロ」に出てくる主人公のような人はそうかもしれない。しかし私たちは対人関係の中でそれを磨いていくのである。そして偉そうにすることは圧倒的に「身体的にも楽」なのである。
 例えば私の立場で学生と会うときには、彼らの多くは畏まった態度をとる。(何しろ私はキョージュだから仕方がないのだ。)彼らは椅子に深く腰掛けず、足も組まずに背筋を伸ばす。その話を聞く私といえばリラックスしきって、椅子に体をあずけた姿勢で話を聞く。(言語道断だ!!学生たちよ、ゴメンネ)なんて言ったって、体が楽なのである。
 例えばメールを出す時もそうである。私は目上の人に出すメールにもちろん気を遣う。失礼の無いように、「恐縮致します」的な文言を付け加える。それに比べて学生に出すメールは「じゃ、よろしくね。」みたいな感じ。手を抜くのである。態度が偉そう、という時はたいていはこのこの脱力を意味する。昔どこかで、省庁のキャリアーはノン・キャリと話すときは足を机に投げ出して聞くのが「お作法」だと書いてあった。机に足を載せる。アメリカではよくやってたな。ひとりでいるときである。足を体より上にあげるって、キモチよいのだ。安楽椅子にオットマンもついているではないか。
 結局何が言いたいかといえば、人の自己愛の風船は、直接身体的な安楽さを伴っていることもあって、膨らんでいくものと考えられるということだ。ということはとても対人的なのだ。自己愛の膨らみはおそらく、その人が今誰といるか、ということにとても影響しているわけだ。人間は基本的に怠惰にできている。文明の進行は、人がいかに手を抜いて、つまり「便利に」仕事をしたりレジャーを楽しむことができるか、という方向性を必ず含む。以前は本屋さんに出向いて買っていたものを、今はパソコンでワンクリックで自宅まで届けてくれるんだぜい? そして対人関係においても、エラくなるとは、対人関係で手抜きをしてもいいということを意味する。
風船が膨らむ際の原則
ここでこれまで述べた自己愛の風船の膨らむ仕組みについて、箇条書きにしてまとめてみよう。
1.自分が(他人に比較して)偉大だという感覚は、それを許容する社会的な環境とともに自然に増大する。
2.その増大は、それを制限したり否定したりするような状況により縮小する。
3.それが侵害されたとの感覚は、一瞬の、心の痛みを伴った恥の体験の直後に、侵害した人への攻撃が許容される範囲において、怒りや攻撃として発言する。
4.侵害者への攻撃が不可能な場合には、恥辱として体験される。
ちょっと解説が必要であろう。まず1.について。これは風船が膨らむという議論であり、結局NPDは人生の後半になって発達しやすいということだ。何しろ高崎山の猿でさえ年功序列だという。年老いても「長老」として敬愛されるとしたら、年をとれば取るほどエバっていられるということになる。逆に子供でナルになる環境はない、ということか?いや待てよ、子ども同士の間で序列があるな。そう、子供の世界ではそれなりに風船を膨らます子が出てくる。クラスで俺が一番勉強が出来ると思っている子だとか、アタシが一番美人よ、と思っている子だとか。しかしそういう子って、絶対先生の前ではいい子になりはしないか?これは1,2の両方に関係するが、彼らは驚くほど使い分けをするのだ。
 もちろん1.の原則に従わない人がいてもいいだろう。でも従わない人は、例外的に性格が優れているのだ。それこそ高貴な家に生まれ、何不自由のない生活をしていたにもかかわらず市井に出て行ったブッタのように。条件さえ従えば8歳の子役でもおとな顔負けのように自己愛的になるということはかつて示した通りだ。そこには二つの可能性がある。第一は人よりすぐれて、チヤホヤされることを知らない人。第二はそうされつくして、それに疲れて虚しさを感じた人。第三にはチヤホヤされることに喜びを見いだしつつ、それを見つめる目を持ち、周囲への配慮を忘れなかった人。第一の人は危険である。これから風船が膨らむかもしれない。第二の中にはアイドルとして一世を風靡しながら、主婦になってしまったあの「菩薩」とも称される人、第三には私の頭の中では石原裕次郎がイメージとして近い。最近いくつかの機会に発表し、このブログでも書いた西郷隆盛もイメージとしてはここに入る。
2 「その増大は、それを制限したり否定したりするような状況により縮小する。」について。これはやはりすごいことだ。周囲に対して威張り散らす立場から、自分より「上位」の人を目にすることでこびへつらう立場に一瞬にして変身できることを意味するからだ。これってやっていて恥ずかしくないのだろうか。8歳の子役だってそうすることは紹介したが、これって普通恥ずかしくないだろうか? 年齢のことはいったん置いておいて。ということはこれが出来るほど「面の皮が厚い」人がナルになれるということなのだろうか? 
 8歳の子役Aちゃんの例で面白いのは、おそらく挨拶をされた側のS社長もまたナルなのである。だからAちゃんに露骨に挨拶をされ、チヤホヤされると文句なく嬉しい。その気持ちをおそらくAちゃんもよく汲み取っている。その意味ではよく空気を読んでいる。自己愛を満たされていい相手からはそれを享受し、満たす相手にはそれを提供するという「自己愛の原則」(そんなの利いたことがないが、今作った)に自然に従うという意味では彼らに戸惑いや迷いはないのだ。ある意味ではすごくわかりやすいし、考えて見ればサル社会もそれ以下の動物の社会でも皆やっていることなのだ。(このブログのどこかでハダカデバネズミのこと書いたっけ?一度テレビで見ただけだが、強烈なのだ。)
 この2について思い出すことがある。むかし梶原一騎氏の自伝を読んだことがある。そこに彼が傷害罪か何かで捕まって収監された時の体験が書いてあった。梶原一騎といえば「巨人の星」や「愛と誠」などの数多くの人気漫画の原作者として名を知られたとともに、彼自身が極真空手の猛者として知られ、当然のことながら態度もデカく、盛り場で毎晩のように豪遊し、周囲と恫喝し、Nの典型のような人だったと理解している。しかし彼が刑務所に入り、ほかの囚人と同じような生活を余儀なくされると、それこそ冷暖房もないような環境で整列し点呼を受け、それまでの生活とは180度違う、屈辱に満ちた生活を送るようになる。すると今度は毎食の献立を気にし、懲役により得られずわずかな現金を持って、刑務所の内部にある購買部でチマチマと何を買おうか、ということを考えることが楽しみになったと書いてあった。彼の限りなく膨らんでいたであろう自己愛の風船は一瞬でしぼみ、しかもそれで自殺をしたくなったりするわけではない。
 ここで元の本を読み返さずにうろ覚えで書いているだけだが、読んだ当時は「梶原一騎ってすごい、ただものじゃない」と思った。しかし今はあまりそうは思わない。人はナルシシズムの風船をこうやって萎ませることもできる。その能力がないと、下手すると自分より強い人間の風船を傷つけることになるではないか。ナルシズム人間は、同時に偉大なるゴマすり人間でもないと存在できないのではないか。
 この変わり身の早さは一種の本能か。それとも学習効果か。おそらく両方であろう。動物において、闘争反応から逃避反応へは、それこそ一瞬で切り替わらなくてはならない。敵が自分より強いと判断した瞬間に、逃げに転じるのだ。そうでなくては生き残ることができないのだ。それと同時に下を力で支配する人間は、上の姿が現れた瞬間にはすり寄ることをいとも簡単に行う。すり寄りやゴマすりは「昔取った杵柄」だからだ。梶原一騎だって、売れない作家時代や、空手の白帯時代の下積みを体験し、一瞬でそのモードに変わることもできるのだろう。(するとこのモードに変わるのに慣れていないであろう有名子役などはやはり将来苦労するのかもしれない。)
3.「それが侵害されたとの感覚は、一瞬の、心の痛みを伴った恥の体験の直後に、侵害した人への攻撃が許容される範囲において、怒りや攻撃として発現する。」「4侵害者への攻撃が不可能な場合には、恥辱として体験される。」について。
この34、実はこのエッセイの最重要部分である。そしては同時に論じられなくてはならない。