2013年12月31日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(16)

もう大晦日だ。私はこれほど長い休みを取ったことは久しぶりである。

ブログの方はマイペース。年末年始とは関係ない。
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ちょっと解説を加えておこうか。1.について。これは風船が膨らむという議論であり、結局NPDは人生の後半になって発達しやすいということだ。何しろ高崎山の猿でさえ年功序列だという。年老いても「長老」として敬愛されるとしたら、年をとれば取るほどエバっていられるということになる。逆に子供でナルになる環境はない、ということか?いや待てよ、子ども同士の間で序列があるな。そう、子供の世界ではそれなりに風船を膨らます子が出てくる。クラスで俺が一番勉強が出来ると思っている子だとか、アタシが一番美人よ、と思っている子だとか。しかしそういう子って、絶対先生の前ではいい子になりはしないか?これは1,2の両方に関係するが、彼らは驚くほど使い分けをするのだ。
 風船は膨らむということについて追加しよう。アメリカの研究で、高校生100万人にアンケートを取ったところ、「自分の指導力は平均以上」と答えた人が70%だったという。もちろんアメリカ文化だからそうであって、日本の場合は違うという説もあるかもしれないが、まあある程度は我が国にも当てはまるとしよう(というより私の自己愛の理論は、別に日本社会について限定的に述べているわけではない。)これは人はほっておけば、自己評価を「盛る」傾向と考えることができる。人は実際より自分をイケていると思いやすいのだ。
どうして風船が膨らむか?それは単純に人が「自分は他人より優れている」という認識を持つことが快感を生むということなのだろう。ではそれが快感でない人はどうだろうか?もちろんそうでもない人がいる。百田尚樹氏の「永遠のゼロ」に出てくる主人公のような人はそうかもしれない。しかし私たちは対人関係の中でそれを磨いていくのである。そして偉そうにすることは圧倒的に「身体的にも楽」なのである。
 例えば私の立場で学生と会うときには、彼らの多くは畏まった態度をとる。(何しろ私はキョージュだから仕方がないのだ。)彼らは椅子に深く腰掛けず、足も組まずに背筋を伸ばす。その話を聞く私といえばリラックスしきって、椅子に体をあずけた姿勢で話を聞く。(言語道断だ!!学生たちよ、ゴメンネ)なんて言ったって、体が楽なのである。
例えばメールを出す時もそうだぞ。私は目上の人に出すメールにもちろん気を遣う。失礼の無いように、「恐縮致します」的な文言を付け加える。それに比べて学生に出すメールは「じゃ、よろしくね。」みたいな感じ。手を抜くのである。態度が偉そう、という時はたいていはこのこの脱力を意味する。昔どこかで、省庁のキャリアーはノン・キャリと話すときは足を机に投げ出して聞くのが「お作法」だと書いてあった。机に足を載せる。アメリカではよくやってたな。ひとりでいるときである。足を体より上にあげるって、キモチよいのだ。安楽椅子にオットマンもついているではないか。

結局何が言いたいか。人の自己愛の風船は、直接身体的な安楽さを伴っていることもあって、膨らんでいくものと考えられる。ということはとても対人的なのだ。自己愛の膨らみはおそらく、その人が今誰といるか、ということにとても影響しているわけだ。

2013年12月30日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(15)

でも、昨日サラっと書いたこと、すごく重要じゃないか? ひょっとしてサルの社会でも病的な自己愛が成立しているということか? 私の文脈は明らかに、動物は健全な自己愛のみ所有するというものだった。しかし社会を作る動物の場合は事情が異なる可能性がある。ここも人間とそれ以外を峻別する必要はない、ということか。
 でも社会を形成する動物には、アリとかハチも含まれるぞ。女王蜂はすごく自己愛的だったりして。「そこの働き蟻、頭が高いぞ」みたいな。まあここは、しかし感情を有するのは大脳辺縁系を有する生物以上、つまり爬虫類より上の動物、ということにしておこうか。それ以下は、極めて精巧な、しかし感情を持たないロボットと見なして差し支えないということだ。女王蜂ロボット。

自己愛連続体への侵害に対する反応
なんか表題のつけ方が教科書的だな。まあいいか。
ここでわかりやすく図式化しよう。「健全な自己愛領域」への侵害は、「闘争・逃避反応」(キャノン)を起こす。「肥大した病的な自己愛領域」への侵害は、「怒りや攻撃・恥反応」(岡野、なんちゃって)を起こす。
肥大した自己愛とは、その人が持っている生物としての自己保存本能に根ざしたものに加えて、生得的に獲得されたものだ。そしてそれが増大するための原則がある。(あれ、まだ書いたことなかったっけ?)

1.      自分が(他人に比較して)偉大だという感覚は、それを許容する社会的な環境とともに自然に増大する。
2.      その増大は、それを制限したり否定したりするような状況により縮小する。
3.      それが侵害されたとの感覚は、一瞬の、心の痛みを伴った恥の体験の直後に、侵害した人への攻撃が許容される範囲において、怒りや攻撃として発現する。
4.      侵害者への攻撃が不可能な場合には、恥辱として体験される。


もっともらしく項目に分けてみた。そういえば怒りと恥辱の関係をこれまではっきり書いていなかったからちょうどいいかも知れない。

2013年12月29日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(14)


自己愛連続体の図式
ここでこれまでの議論を分かりやすくまとめた図(図1)を紹介しておこう。これまでいくつかの著述に用いたものであり、その意味では読者の目にある程度はさらされ、そのテストを通過しているものと言えなくもない。
この図式がこれまで話に出てきた「風船」の話とも関係することはお分かりであろう。
 


その原型は下の図2である。非常にシンプルで、これ自体は何を指しているのかわからないかもしれない。これは動物レベルでの自己愛に相当するものであるが、自己保存本能に基づいたものとも言える。動物レベルでは自分を愛するという傾向と自己保存本能に従ったものは一致する。なぜなら自己イメージを明確なかたちで持たないからだ。



 ただしこれには例外があるかもしれない。例えばサル山のボスザルを考えてみよう。どんぐりテスト、というのを読者はご存知だろうか?猿山で何匹かの申のあいだにどんぐりを落とす。すると上位のサルがそれを取り、下位のサルはそれを横目で見ているだけなのだ。(あれ?確かめようとして「どんぐりテスト」をググってみたが、出てこないや。呼び方は違っているかもしれない。)

 でももしボスザルの横に落ちたどんぐりの一つを、若いオスざるがかっさらって言ったら、ボスザルはきっと切れるはずだ。「わしをなめとんのか、コラ!」ボスザルは決してそのどんぐり一個を食べないことで飢え死にしたりしない。つまり自己保存本能に根ざした怒りではない。するとこれって・・・・・。「膨れて」はいないか?何がって?自己愛の風船が、である。


2013年12月28日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(13)

靖国問題。橋下さんは、「安倍さんは中韓に説明を」、と主張しているようだが、精神科的に見て(かな?)本来その説明を受け入れる用意がない人々への「説明」は徒労に終わる。むしろ説明すべきは、欧米諸国に対してではないか。安倍さんのこのタイミングでの参拝の是非はともかく、自国の神社に参拝することが、これほど他国から批判されるということ自体が異常だと思うのだが・・・・。この問題がここまで大きくなった確実な要因のひとつは、過去に総理が靖国参拝を躊躇していたからだろう。

「正当なテリトリー」を守ることは、プライドとは別の、健全な自己保存本能とでも言うべきものに関係している。「電車の座席のスペースが自己保存本能と関係あるんだって?」と反応されそうだが、少し説明させて欲しい。
正当なテリトリーの原型はおそらく身体のバウンダリーそのものだろう。皮膚を破って侵入しようとするものは激しい痛みを引き起こすだろう。そのような刺激を忌避し、回避することは自分の身の安全を確保するために絶対必要だ。これはプライドの問題ではない。そして身体に接触しなくても、誰かが近くでジロジロ覗き込んだとしたら恐怖感を感じ、怯えるのが自然だ。だから私たちは身体の表面から一定の範囲の領域をパーソナルスペースと呼び、そこは守られるべきだと感じる。国家で言えば領海、領空のようなものと考えていい。それを守るのはどのような進化レベルの生物にも共通していることなのである。そしてその侵害に対しては、断固たる態度をとるのが正しい対処法だ。というよりそのような態度は自然と起きてきて当たり前である。起きないほうがおかしい。どんなに心優しい人でも、見知らぬ通行人の叔父さんに傘で足をつつかれたら怒って抗議して当然だ。しないほうが何かの病気だろう。もちろんそのおじさんの顔を見て安倍首相だったら、また違った対応になるだろうが。
「正当なテリトリー」と健全な自己愛
さてこの正当なテリトリーとそれを超えたナルシシズムの概念をつなぐ意味で、「健全な自己愛」という概念を導入する。実はこれは、自己愛の二種類、という問題について論じたこととも関連する。自己愛とは自分を愛する、という一人称と、人に賞賛されるという二人称的なものがあるといった(いや、実際はそういう言い方はしなかったが・・・)。するとパーソナルスペースを守るのは、どちらかといえば一人称の自己愛だ。そしてそれは自己保存本能に根ざし、動物のレベルで存在するというわけである。
 そして当たり前の話だが、二人称的な自己愛が大きく発達した人(風船が大きくなった人)も、当然この「正当なテリトリー」の侵害に対する反応はするだろう。自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一次的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。

ただし「正当なテリトリー」を守るという健全な自己愛と、一人称的な自己愛がぴったりと重なり合うかというとそうでもない。恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)では、一人称的な自己愛の例として、自分の姿を見てうっとりする青年という例を挙げたが、それこそナルキッソスのようにそのまま飲まず食わずで死んでしまったならばそれは病的というわけだ。しかし自己陶酔が極端なかたちで生じている場合も、おそらくあまり病理性は問われないだろう。そもそも自分の姿に恋焦がれて死んでしまうような人など聞いたこともないし、自分の姿の美しさや完璧さを周囲の人々が認めることを強要するところから、即ち二人称的な自己愛に変質するところから病理は始まるのである。

2013年12月27日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(12)


昨日は大学院の忘年会であった。久しぶりにお酒を飲んだら、 今朝はダルイ・・・・・。

人間のテリトリーにはプライドが加算される
先を急ごう。動物レベルでのテリトリー侵害への怒りという話をしていた。動物はその侵害への反応として正当にも「怒る」のだ、というところまで話が行った。では人の場合はどうか?このテリトリーとは人の場合にはどのように体験されるのだろうか?
 結論から言えば、人にとってのテリトリーは想像力により巨大化し、風船化する傾向にあるのだ。コブダイだったら身の程にあった岩山で満足するだろう。ところが人間並みのプライドを持ったらどうなるか。「俺は偉いんだぞ!第一水面に映った俺のコブは相当かっこいいぞ。」(魚は、おそらく水中から見た空を鏡にしているだろう!)となり、「俺様にふさわしいだけの岩山を支配するぞ。」そうして気が付いたら近くの岩山をすべて征服しているのだ。もちろんすべての岩山を見張るわけにはいかない。そこで周囲の幾つかの岩山のコブダイに睨みをきかす。彼らもボスコブダイに合うと目をそらせたり尻尾を巻いて逃げたりするから、ますますボスコブダイは図に乗る。するとほんの遠くにちらっと見えたコブダイがガンをつけたり、頭を下げり(するか!)しないだけで猛然と怒り出す…。コブダイではありえないようなこんな話が、人間では起きてくるのだ。人間とコブダイでどこが違うかと言えば、「俺様は偉いんだ(駄目なんだ)」という自意識の存在である。自分を客体し出来るということはそこに優劣、強弱という属性を必然的に含みこむ。ところがそれを生み出す想像力には限界というものがない。俺様は偉いと思い込んだコブダイは、もはやこぶの大きさで相手との優劣を決めるわけではない。何しろ「何とか山のドン」とか言われるとどの程度偉いのか分からなくなり、その分だけテリトリーは肥大していく。どこまで肥大するのか? 周囲が許容する限界までである。そしてこれはすでに述べた「自己愛風船論」につながるのだ。
プライドの加算分が恥になり、怒りに転嫁される
もうちょっと詳しく説明しよう。人間の場合も動物であるから、テリトリー侵害の仕組みは動物と同じだ。そこでまずプライドにより水増しされていないテリトリーの感覚を想像しよう。いくら想像力に富んだ人間でも、テリトリーを水増ししない場合がある。そこで「正当なテリトリー」という言い方をここで作ってしまおう。(ブログだから好きにできるのだ。)コブダイにとって自分のコブの大きさに見合った岩山。これは人間にもあるぞ。うーん、うまい例はないかな。
 あなたが電車に乗り、あいている席に座る。電車の座席に座る時、大体自分に与えられたスペースはどのくらいかはわかるはずだ。そのスペースはおそらく「正当なテリトリー」に相当するはずだ。そこに隣の人の傘が割り込んできたら、あなたは憤慨するかもしれない。隣のおじさんがあなたのテリトリーに割り込んで来るような大きなカバンを膝の上に載せたら、「これってちょっとひどくない?」と思うだろう。それは正当な怒りや苛立ちのはずだ。


自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一時的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。

2013年12月26日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(11)



まあこれは動物では起きないだろう。それだけの想像力がないからだ。しかしちょっと待ってほしい。動物の場合も、相手を撃退できず、逆に押し込められたら恥の前駆体となるような感情が体験されないと言い切れるか? 喧嘩をして負けて尻尾を巻いて逃げる犬。若い雄ざるに力で圧倒されて、とぼとぼと群れを去るボスざる。相手のコブの大きさに威嚇されて自分の領分であった岩山を去るコブダイ。(ヒエー、魚まで入れちゃった!)「俺ってナサケねー、ショボン・・・」と言っているようだ。
しかしここは、これ以上妄想を膨らませることなく、一応次のように言っておこう。動物には恥の感情はない。ほかの個体に見られる自分を想像し、恥ずかしがったり、自分を不甲斐なく思ったりという心の働きは持たないのだ。彼らは相手に負けた時は「まずい、逃げるしかない…」という感じなのだろう。すなわちそこに居続けると身の危険が迫るから立ち去る(泳ぎ去る)のであり、それ以上でも以下でもない。要するに防衛本能に従ったまでなのだ。「俺ってどうしてこうなんだろう?また負けちゃったよ。情けないな。」「俺の額のコブって、どうしてこんなに貧弱なんだろう。いやになっちゃうよ…(コブダイ)」とはならない。それは自己を他者と比較したり、客体視することができないからだ。


文句あるか!!


 動物にもそのような能力の萌芽があるって?天才ボノボなら少しは恥の感覚はあるだろうって? よろしい。それはそれでいいのだ。天才イルカの中には恥の感覚を持つ者もいるかもしれない。そこら辺は人間とそれ以外の動物を峻別する理由はない。第一人間にも「恥知らず」はいくらでもいるではないか。人の姿をした猪もいる?ナンのことだ?
ちなみに動物も逃げる時は恥の感情に近いものを感じているのではないか、というこの発想は、後に私の考察にとって重要になってくる。

ところでふと考えたが、動物に恥を想定しないということは、実は動物に怒りを想定する根拠もその分だけ奪う、とは言えないだろうか? 逃げる、という行動が純粋に身を守るための手段であり、感情を必ずしも必要としないのであれば、相手を撃退するという表面上は非常に攻撃的な行動だって、本能に従ったものになりはしないだろうか? もちろん攻撃も逃避も俊敏で激しい身体運動を必要とするし、そこに感情が伴っていればそれだけそのような身体運動を誘導しやすいとイメージすることはできるが、例えば激しくこぶしで打ち合っているはずのボクサーたちが案外冷静だったりするのと似ているかもしれない?・・・・つまり私は「動物は怒りはあっても恥はない」という常識の両面を疑っているわけだが、これでは読む人はなんのことだかわからないだろう。

2013年12月25日水曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(10)

一次的な怒りの話の続きである。
ウォルター・キャンノンが1929年に、動物が危険にさらされた時の二つの反応パターンとして「闘争・逃避反応」(よく出てくる表現だ)を提唱した際、この辺縁系をも含めた自律神経の活発な動きに注目したのである。オスのカモシカは、もう一頭のオスが近づいてきた際には、ツノを振りかざして威嚇し、追い払うかもしれない。その時は辺縁系の扁桃核や中脳の青斑核が刺激され、交感神経系が興奮し、闘争の態勢に入っているが、主観的には怒りに近い感情を体験しているはずである。この怒りの感情はあくまでも、自分の身の安全や自分のテリトリーを守るための正当なものであり、この部分をそのまま引き継いだのが、私達の怒りのうち「一次的感情」に属する部分というわけである。
 ここでカモシカの身になった場合、怒りに先立って、何かを侵害された、踏み込まれた、という認知が生じることは間違いないだろう。カモシカは自分の体の周囲の一定の範囲を自分のテリトリー(領分)とみなすはずだ。そこに入ってきたらそれを判断して、しかる後に猛然と怒るのだ。彼(と呼んでしまおう)は、はるか向こうに見えるカモシカの姿に対しては、それに反応して突進などしないだろう。「あっちに、自分と同じようにテリトリーを守っているカモシカがいるなあ」、と認知するだけだ。ところが一定以上に自分のテリトリーや、そこにいるメスに近づこうとするカモシカには「あの個体は侵入してきた」という認知を経て怒りの感情が湧くはずだ。
 そこで「一次的な怒りはテリトリー侵害による」と一応言ってしまおう。ここで一次的(英語ではプライマリー、とにかく最初に起きるもの、という意味)と断っているのは、およそ生物を観察する限り、いかに下等であってもこのテリトリー侵害への怒りに類似する反応を起こさないものはないからだ。生命を有するということと、テリトリー侵害に激しく反応するということはほぼ同義と考えていい。おそらく侵害されても平気な個体は、進化のどのようなレベルでも瞬くうちに淘汰されてしまうだろうからだ。突然変異で「極めて寛容」なアメーバが生まれたとしよう。彼は他のアメーバに貪食されてもヘラヘラしていているだけで、あっという間に餌食になってしまう。これじゃ子孫を増やせないだろう。(まあ子孫を増やすと言っても細胞分裂するだけだが、その暇もないはずだ。)
さてここで大事な問題について問うてみたい。テリトリーを侵害されたカモシカは、恥の感情を持っているだろうか? おそらくそうではない、という答えが圧倒的であろう。「テリトリーを侵害された」という認知は、即怒りに向かうはずだ。しかし最大の問題は、このテリトリーは、自意識が生まれるとともに想像の世界で膨らんで行くということだ。現実のテリトリーではなくて、想像上のテリトリーというわけだ。するとどうなるか。もしカモシカにそれなりの自意識が生まれたとしたら、「ああ、侵害されちゃった。俺ってなんてふがいないんだろう…。あいつ(相手のカモシカ)はどうせ俺のことを馬鹿にしているんじゃないか? (馬じゃなくて鹿だけど…)俺もナメられたもんだぜ。」

2013年12月24日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(9)

怒りが最初からポンと生じる場合がある。それはそれでいいだろう。ただ私たちが社会的な存在としてこの世で生きている時に生じる怒りは、大概「対人化 interpersonalize」している。怒りは二次的に生じるのだ。そのことを説明するのが、この怒りの二重構造説である。ただ順番としては、一次的、プライマリーな怒りの説明から始めたい。
一次的な感情としての怒り
そこでこの「一時的な感情」としての怒りの由来を考えてみる。それは自己保存本能と同根である以上、進化の過程のいずれかの時点で生物に与えられたそれが、そのまま継承されたはずである。ちなみに精神分析では怒りとはプライマリーなものであるという捉え方は半ば常識的である。フロイトもそうだし、メラニー・クラインもそうだ。オットー・カンバーグもそのような路線で論じた。他方ウィニコットやコフートはそれとはかなり違った方針を取った。私の怒りに関する議論はコフートに大きなヒントを得ているが、プライマリーな怒りがないとは思わない。それを以下に述べるが、精神分析とは異なる論拠からである。
かつて脳の三層構造説を唱えたPaul Macleanは、攻撃性は最古層の「爬虫類脳」にすでに備わった、自らのテリトリー(縄張り)を守る本能に根ざしたものであるとした。Macleanのいう爬虫類脳は脳幹と小脳を含み、心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担うとともに、自分のテリトリーを防衛するという役割を果たす。
 たとえばワニは卵を産んだ後にはしばらくその近辺をウロウロし、侵入者に対しては攻撃を仕掛ける。しかしその時にワニが「怒って」いるかといえば、そうではない。もちろんワニの身になってみないとわからないが、おそらくそう見えるだけである。感情をつかさどる大脳辺縁系は、ひとつ上の層である「旧哺乳類脳」のレベルまで進まないと備わらないからだ。
 そしてここでいうテリトリーを象徴的な意味も含めて用いるなら、それを守る本能は、上述した人間の健全な自己愛の原型と考えることが出来るだろう。それは自分や子孫を守る上でぎりぎりに切り詰めた「領分」を維持するためのものなのだ。

2013年12月23日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(8)

ここら辺で少し整理をしてみたくなった。この「恥とNPD」は長丁場の話になるが、方向を間違えると厄介なことになる。
 最初のテーマとしては、そもそもPDは「三つ子の魂」的な理解では不十分である、ということを扱った。NPDの人の幼少時は全然違うよ、という話。NPDの人の一部は、むしろ小さい頃はシャイな人が多い。それがそのうちりっぱなNPDに化けるという話。そこで小沢さんの例も出したのだ。そこにある基本的なメカニズムは、自己愛とは風船のようなものだという話をした。NPDの人の症状に着目するならば、これは彼らのつっけんどんさであり、それは彼らの恥ずかしがり屋な性質から説明できるというわけだが、話はより深刻な方向に進む。NPDの人の怒りはどうか。これは実は恥の感覚から来ている、というのが次のテーマとなる。
 NPDの人に周囲が困らされる場合、それが彼らの示す怒りに関連していることが多い。

NPDにおける怒りについて
NPDの人が周囲に及ぼす様々な影響の中で、怒りほど厄介なものはない。だいたいNPDぶりを発揮する人の場合、その怒りを正当化することができる。すると周囲はそれにかなり直接的な影響を受ける。
最近どこかの国でそれまで側近だった人が処刑された。処刑された人は、処刑した人の怒りを相当買っていたはずである。しかしそれだからといって、普通の社会では腹が立った相手を抹殺することなどできない。せいぜい「藁人形」程度だ。しかしそれが地位を持ったNPDであれば、人の命を合法的に奪うまでになる。なんと恐ろしいことか。
少し怒りについての一般論に遡る。従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribot(テオドール・リボー)の説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している。この種のストレートな理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。それはファリックで父親的であり、力の象徴というニュアンスがあったのである。
もちろんこの種の怒りはありうる。例えばカバンの中からイヤホーンを取り出そうとして、コードが絡まってなかなか取れないとする。気が短い人の場合にはイライラしてコードを思いっきり引っ張んて使えなくしてしまうかもしれない。これなどは「欲求の満足を妨げるものへの怒り」であり、この種の怒りはいわば人格化されていない、直接的な怒り、欲求不満に直結した怒りであり、欲求の満足が得られればそれでやんでしまうたぐいのものである。しかし私たちにとって厄介な怒りは、より人格化した怒り、それも恥の感情に関連した怒りである。これはいわば二次的感情としての怒り、と整理することができる。
 この理解に立つと怒りは、その背後にある恥や罪悪感との関連から捉えられる。つまり恥ずかしい、とか自分はなんと罪深いんだ、という感情の直後に、怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。

2013年12月22日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)


ここで「自己愛の風船は無限に膨らむ」の「無限」とは大げさだという印象を与えるかもしれない。もちろんタダで無限に大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすい、ということも意味する。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。しかし大体は地位は頭打ちで、上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。
ナルシストの二種類
ちなみにここまで書いていて、当然読む側には混乱が生じると思うので一言。自己愛、ナルシストには二種類のニュアンスがある。「うちの子はナルシストです」と母親が言う息子が、一日中鏡に向かってポーズを取り「俺ってなんて美しいんだろう?」とため息をついているとしたら、これもまた一種のナルシストである。ナルシストの語源としてはこちらが先だろう。こちらは一者関係的な自己完結的な自己愛。一人で満足しているから周囲はあまり困らない。問題は二者関係的な、対人的な自己愛である。自己満足に対象を要求する。人から褒められる、人を支配するという形で快感を味わうタイプである。私たちが現在自己愛について論じる場合には、この後者を中心に考える。
 もともと水面に映った自分の姿に恋焦がれたギリシャ神話のナルキッソスの話に由来するナルシズムの概念。しかしそれが対人的な病理として主として注目されるのはなぜだろうか? それは「自分はすごいんだ、素敵なんだ」という感覚が具体的な問題となるのは、結局は他者との関係においてそれを実現しようとするからだ。「自分はすごいんだ」と思っている人間が現実の世界で「ほかの人に比べて自分は決して特別ではないのだ」という体験を持ち、それに従って謙虚に振る舞うのであれば、全く問題がない。そうではなくて、周囲を「自分はすごい」という感覚を保証したり、増幅させるために用いるようになると、本格的なPDとなるのだ。


2013年12月21日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(6)


ということはもちろん子供であっても、その環境さえ整えばNPD的になる。2、3年前であるが、ある子役スターについて書かれていたものをネットで読んだ(要典拠)。一世を風靡したその「天才子役」は、もはや●●(名)ちゃんではなく、○○(姓)さんと呼ばないと本人がムクれて返事をしないという。年端もいかない子に対して周囲が気を使い、○○さんと呼ぶ。おそらくそれが進むと「○○先生」と呼ばれなければ振り向きもしない、ということになりかねないだろう。この異常な事態がじつは普通になってしまうのは、それを許すような状況が出来上がった場合である。つまりその子役が局の視聴率の上昇に大きく貢献し、その意向や機嫌を気にしなければいけないほどの存在感を持った場合である。
 普通は子供はそんな状況には置かれない。しかし場合によっては置かれてしまうのが、天才子役、若手スター、子供の頃から才能を花開かせた幼少の芸術家、天才棋士などである。そう、NPDは獲得するPDである、ということは、人生の後半になり年をとってからなる、ということには決してならないのだ。不幸にして幼少時に獲得してしまうことがある。
 私はここで不幸にして、と書いたが、そうなるとかわいそうなことになる。どこかで読んだが(要典拠)囲碁の世界などでは、才能を花開かせた子供の棋士が、近所の碁会所などでは相手がいなくなり、並み居る年配の強豪をこてんぱんに破ってしまい、そこでは「先生」になってしまう。しかしこのような栄光を幼少時に体験してしまうと、その後の人生が大変だそうだ。本格的な囲碁の世界、例えば奨励会などに入れば、そのような天才ばかりゴロゴロいて、そこで順調に勝ち星を重ねることはできない。それどころか一定の年齢に達しないうちに四段にならないとそれこそプロにもなれず、学歴も持たない中途半端な「ただの人」になってしまう。これは幼少時にNPDになる機会を持った人にとっては耐え難いらしいのだ。
ここで少しキャッチーな見出しを考えてみた。
自己愛の風船は無限に膨らむ

ちょっとこれで書いてみようと思う。簡単に言えば、人間の自己愛は、無限に膨らむ風船のようなものだ。膨らむスペースがある限り膨らんでいく。大きくなったらNPDになる。その人がもともとNPDだったわけではない。人は環境によりNPDに化けるのである。

2013年12月20日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(5)

ということでそろそろ本題に入らなくてはならない。最初に主張したいことを見出しにしよう。
自己愛パーソナリティ障害(以下、NPD)は獲得されるパーソナリティ障害である

この連載の冒頭で示した、「パーソナリティイコール三つ子の魂の延長論」への反論の一種と考えていただきたいし、「シャイな子供が大人になって強面になる」、というここ数日の議論とも関係しているテーマと考えて欲しい。私はパーソナリティ障害(いちいち書くのは大変だから、これからはPDと書こう)の中でNPDはある種の特別な位置を占めると思う。それはそのPDの表れ方が、とても状況依存的だということである。普通PDは三つ子の魂であるとともに、「いつどこでだれといても姿を現すもの」という常識がある。つまりその恒常性がその人の持つパーソナリティの一つの特徴というわけだ。ところがNPDはそれが場所を選んで出てしまうという条件が当てはまらない。だっていかにナルな人間も、上司やかみさんの前でなれるだろうか? 以前にも書いたが、自己愛的な人間は帰って上司の前では極端にへりくだったりするのである。NPDは部下や生徒や患者の前でその本領を発揮する。自分より弱い立場にあると思われる人たちの前で威張り散らすのである。あの小沢さんだって、有権者の前では作り笑いを浮かべて非常に愛想良くなるのである。(ビートたけしが小沢さんと面会をした時の様子をネットで書いているが、その時も溢れんばかりの笑みを持って彼を迎えたという。)もちろん彼の師匠であるカナマル先生などの前では忠実な生徒であったのだろう。
 通常はNPDはそれを発揮できない事情のある人の前では封印するというのはとても重要な性質だが、もう一つNPDが恒常的でないと考える根拠がある。それはNPDの極みのごとく思われる人たちの若い頃は、パーソナリティとしてはかなり違っているのが普通なのだ。NPDの若い頃の姿は皆シャイであった、とは言わない。しかし案外普通の感覚を持っていたり、人に優しかったりする。
 もちろん人は子供時代、あるいは若い頃は周りにいる人間は年上ばかりで、NPDを持っていても発揮できないということはあろう。しかし私の考えはむしろ違う。NPDはそれを発揮できるような環境に置かれることで、おそらく誰もがそれを持つようなシロモノなのだ、というのが私の極論である。

2013年12月19日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(4)


さてこの「強面イコール人見知り」説は、私の中では既に自己愛と恥の議論に入っているのである。強面人間がその面相を崩さないのは、周囲によってそれが許されるからだ。人に対して傲慢で横柄でいられるのである。これは自己愛、ないしは自己愛の病理、すなわちNPD(自己愛パーソナリティ障害)の状態である。ここで自己愛とNPDを分けたが、これは実は微妙である。DSMではそれが障害disorder であるためには、それが自己や他人を苦しめていることが必要だが、NPDは周囲が困っていても本人が困っていないことが多い。そして周囲も文句を言えない立場にあるとすれば、一見「誰も困っていない」ことになる。部下や生徒はその人の表情や身振りに敏感になり、その非言語的な意図やメッセージを読み取ろうとする。本人の口下手、人見知りが自己愛の病理とうまく会い、本人をますます怖く見せる。これは自己愛の病理と人見知りの相乗り効果である。

ということで私の頭に浮かぶのが小沢さんだ。あるエピソードについて、何年か前に読んだことがある。(この種のエピソードは私の記憶に多く残っているのだが、もちろん典拠を示すことは無理である。それにかなり私なりの脚色が入っている。)あるとき小沢さんがある後輩の政治家と会っていたが、強面を崩さずに打ち解けず、怖い雰囲気だったという。ところがふとしたことからその政治家の出身も岩手県だと分かると、「なんだ、あんたも岩手出身か!」と小沢さんの表情が急に変わってしまい、すっかり打ち解けた雰囲気になったという。何だこりゃ。小沢さんの方も相手を警戒して、というか対人緊張気味になっていたから堅苦しい雰囲気になっていたということではないか。相手の正体がわかって(あるいは分かった気になって)一気に彼の緊張が溶けたのである。
 しかし考えてみれば相手が同郷の出身と知って打ち解けるって、どういうことだろうか?私も対人緊張は強いが、職業柄人と会い慣れているせいか、そして精神科の場合は特にこちらの打ち解け方が極めて重要なせいか、同郷出身とわかってさらに打ち解けるような延びしろはあまり残っていない。やはり小沢さんは変わっているなあ。
 小沢さんにしても、中川さんも(あ、書いちゃった)強面=人見知りの政治家は困ったものだが、別に政治家に限ったことではない。私の職業上、しばしば出会うがこちらの挨拶を決して返してくれない人がいる。しかし特に腹が立たないのは、その人が対人緊張が強いことを私が感じるからである。対人緊張が強いと、相手と目を合わすことすら億劫になる。挨拶を交わすことはもっと面倒になる。煩わしいのである。その上に年齢や社会的地位が上がると、「同僚と挨拶をろくにしないことでどうなっても構わない」という心境になる。そのまま更に年を重ねると、無理にでも挨拶をして愛想を振りまかなくてはならない人がとうとうゼロになってしまう。ただしそのような人でも一目を置いて気を使う必要があるとすれば・・・・カミさんくらいだろうか。

2013年12月18日水曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(3)



だいたい男性は、年とともに怖い顔になっていく。それは皺が増し、顔の凸凹が増すからだ。大体人間の顔は、幼い頃、若い頃はつるンとしている。これじゃ迫力は出ない。(頬に刀傷などがあればそれでも違うだろうが。)そのうち陰影が増してくる。特に多少ブサイクだと、もっと怖くなる。そのうえ不愛想だと笑顔を作ることが少なく、ますます迫力が増してくる。これは宿命といってもいい。
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台を超えた男性は、だから仏頂面をしているとだいたい怖い存在に見られるのだ。そしてその男性が社会的な経験や地位を持つと、もっと怖くなってくる。年配の大学教授、政治家、上司がにこりともせずにいると、周囲はコワくて敬遠しがちになる。ところが当人は実ははにかみ屋だったりして、にっこり人に話しかけられないという事情があったりする。
自民党の○○代議士が奥さんに次のようなことを言われた、という記事をどこかで読んだ。「あなたは口下手で愛想がないから人から怖がられるのよ。もっと笑顔を見せなさい。」
多少私なりに脚色が加わっているだろうが、だいたいこんな内容だった。面白いのはコワい男性が実は人見知りだ、などの正体は、奥さんには完全にばれているということだ。そしてそれを言われた、実際に非常にコワモテの○○代議士が、何も言い返せないということだ。ということは実際人見知りだったり気弱だったりするということなのだろう。
実はこの事がもっとはっきりしているのが小沢一郎さんなのであろうが、彼のことはこれからたくさん書く予定である。

人見知り、とは対人緊張が強いということだが、この傾向はおそらく幼児期にはかなり決まっている。中には思春期を過ぎてから急速にその傾向が出る人もいるが、その傾向はその後は一生変わらない。その様な人は対人場面がぎこちなくて、出来るだけ一人でいたい。しかし自己主張をしたり、仕事で人と会ったりするときは別のスイッチが入るので結構出来たりする。人見知りの人は、特に取り立てて用事がなく、しかし日常で時々接するような「半見知り」の状態の人に、特にその傾向が現れやすい。仕事で、すなわち課題や目的がはっきりしている時は出来る会話が、課題のない対人状況ではぎこちなくなってしまう。
 それでも若い頃は、あるいは若手の時は先輩や年上や上司に対して愛想がないわけには行かず、結構無理して人に話しかける。気に行った女性には無理して声をかけることすらやってのける。ところがパートナーも決まり、仕事にも慣れて職場での地位も固まり、歳をとり、えらくなってコワい顔になると、目上の人が少なくなる分だけ「平気で恥ずかしがり」でいられるようになる。つまり人見知りが放置された状態になる。自分に「人に不愛想でいちゃだめだよ」と突っ込みを入れてくれる人は、カミさんか故郷の年老いた母親くらいしか居なくなる。(たまたま父親が存命でも、父親もまた不愛想だから、そのようなアドバイスはできない。)

2013年12月17日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(2)

 日曜日は「仏教心理学会」にディスカッサントとして参加した。マーク・エプシュティーン医師をアメリカから招聘しての講演に対する質問を行うという役回りだった。会自体は非常に有意義であった。11月の森田療法学会とこの仏教心理学会とは、私の中では大きなつながりを持った。会場となった武蔵野大学有明キャンパス。広々とした、都心とは思えないゆったりとした環境にあり、また機会があれば訪れたいと思ったが・・・とにかく風が冷たかった。

 パーソナリティについてもうひとつ驚くことがある。それは先輩か後輩かにより、あるいは年上か年下かにより、その人の印象は全く違ってしまうということだ。例えば上級生は普通は気安く下級生に接することが日本では少ない。中学に入った途端に、上級生が「さん」づけになって戸惑ったことを皆さんは覚えているかもしれない。学生時代を通して、そして仕事を持っても若手といわれた時代を通して、年上ないしは先輩は決して必要以上に打ち解けないのが日本人の傾向である。
 私はこれをアメリカでの体験との比較で言っている。アメリカでは英語が「究極のタメ語」であるために、年上、年下、ないし先輩、後輩ということで態度が変わるということが少なくとも日本社会ほどではない。一、二年先輩でもファーストネームで呼び合うのが普通なのだ。すると人柄というのは、後輩から見るとより「大人っぽく」見え、先輩からは「子供っぽく」映るということになる。
 例えば私の体験では、30歳代の精神科医は概して「幼く、未熟で、子供っぽい」という印象を持つが、医学部を卒業したての頃の30台の精神科医たちは、自分より10年程度のキャリアーを積んでいて、本当に大人に見え、かつ実際に怖かった。とても彼らが同じような人種とは思えないのである。私のこの印象は大げさかもしれないが、パーソナリティを他人に与える印象という視点から考えると、日本人は誰に接しているかによりその見え方を相当に変えているのだ。そしてそれを如実に表しているのが、そこで用いられる言葉遣いの違いなのである。
それとこの問題、自己愛パーソナリティについて論じる際にも出てくる。というのは自己愛パーソナリティは、誰に対しても出るのではなく、自分に対して後輩、年下に出るのが典型的だ。横暴で独善的な典型的な自己愛的係長は、部長の前では飼い犬のような振る舞いになる、というのが普通なのだ。
コワモテは基本的に照れ屋で恥ずかしがり屋である

順を追って話すつもりだったが、いきなり浮かんだこのテーマについて。私は年齢のせいもあり、あまり上に怖い人は少なくなってきている。つまり怖がられている人々が私と同年代になってきているので、彼らの素顔を知ることになるわけだ。これは面白い体験である。しかしそれ以外にも「怖い人って実は~なんだ」ということが職業柄見えてきて面白いと思っている。私の関心は一貫して恥の感情が人の振る舞いや感じ方にどのような影響を与えるかということであり、これは精神科医として仕事をしていて毎日確認していることだが、コワい人って、案外弱い、ということを痛感するようになった。

2013年12月16日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(1)

これから少し長い連載が始まる。それは「超」オトナの事情があるからだ。テーマは「恥から見た自己愛パーソナリティの問題」である。パーソナリティ障害とはみなさんもよくご存知のとおり若い頃に形成されることになっている。ちょっと極端に言えば、「三つ子の魂」というわけだ。こんどのDSMVにも書いてある。「[パーソナリティ障害における]これらの行動パターンは、典型的には思春期や成人期のはじめに見られ、時には子供の時期に見られる。」でも本当にそうなの? 自己愛パーソナリティの場合、人生の後に見られるんじゃないの、というのが、まあわかりやすく言えば私の主張なのである。 

そこでこの「パーソナリティイコール三つ子の魂」説について。私はこの考え方にちょっと疑問があるのだ。と言って全面的に反対ではない。
 4,5年前に中学時代の同窓会に出た。結構衝撃的な体験だ。最初はどこのオヤジやオバサンかと思っていた人たちが、話しているうちにタイムスリップでもしたかのように、昔のクラスメートになっていった。その時であった何人かの友人の立ち居振る舞いが、中学時代とほとんど変わっていないのに驚いた。もちろんすごく変わったと感じる連中もいた。しかし何人かについては、変わったのは体重や皺の数や髪の毛の量だけであり、あとは中学時代とそっくりそのままという印象があった。人柄ってもう中学時代にはかなり出来上がっている部分が大きいのだ、と考える理由である。この点に関してはDSM-Vに賛成だ。
 しかしそうでない場合も少なくない。大人になってすっかり化けてしまうということもある。よく後に政治家や芸能人になった人の母校を尋ねるという企画があるではないか。すると近所の年配の人々から「あの子が政治家になるんて、全然想像もつかなかった」などというリアクションに出会ったりする。そう、人は思春期以降大きく変貌を遂げてしまうことがあるのだ。
 もちろん話し方や仕草などについては思春期以降人はあまり変わらないのかもしれない。でも話のコンテンツや迫力が違ってくるのだ。例えば先ほど述べたクラス会で、中学時代には非常におとなしく、はにかみがちなある女性が大変貌を遂げていたのには驚いた。彼女は結婚して子供を持ち、ご主人との関係でいろいろ悩んでいた。そのうえ子どもの教育のことでもいろいろ考えるところが多かったらしく、自分の人生経験について話すときはとても饒舌で自信に満ち、その意味で別人に変貌していた。でも目線のやり方や優しい感じ、独特の気配りは中学時代と少しも変わらなかった。

2013年12月15日日曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題 (14)


昨日から「突出型」ということを書いている。今日で終わる予定なのに。
私がこの思考過程を「突出型」としたのは、人の思考ないしは行動パターンというのは徐々に進んで行く場合には、他人から見たら突出し始めていても、本人の歯止めはかからなくなってしまうことが往々にしてあるということだ。すると自分のやっていることは全然おかしくなくて、周囲の人の言っていることがおかしい、ということになる。
 私たちはよく町で、あるいは職場で、あり得ない服装、あり得ない髪形、あり得ない癖を持っている人に出会う。それを周囲の人は面と向かって注意できずに、その人は突出を続ける。人はある路線に沿った思考や行動を徐々に極端に推し進める際、そこにおかしさ、不自然さを感じない傾向にある。それが長期間にわたって生じたり(長期間かかって完成するアリエナイ髪形、服装など)、短期間に一気に完成したり(おかしな論理、おかしなクレーム、おかしな要求)するが、それに気が付かず、むしろその説得力により周囲の合意を取り付けたりする。
 ではどうして「突出」するのか? 程度は低いが類似の現象が社会ですでに見られているから。すると快や満足体験がその路線に沿う形で形成されるから。(最近穴あきジーンズを見かけるが、あれだって既にそれを履いている誰かがいたから、まねたというのが始まりだろう。)それとその種の「突出」が可能とされるような、つまり突出の凸の部分に対して凹となるような社会の事情があるのだろう。それが顧客や学生の主張や権利を優先し、アカハラ、パワハラ、セクハラの存在を明らかにし、それを無くしていこうという社会の動き。その為に顧客や学生の主張に疑いを挟まず、全面的に聞きいれようという社会情勢が関係しているはずだ。
書いているうちにまたネーミングの変更だ。「突出型」を「突っ走り型」にしよう。ボーダーライン反応を、「アクティングアウト型」と「突っ走り型」に分類するわけだ。アクティングアウト型は、相手に暴言を吐いたり、相手にしがみついたり、手首を切ったり、自殺願望を口走ったりして周囲が動揺したり不安になったりするようなタイプ。突っ走り型は、これまで突出型と言っていたもの。考えているうちに極端になってしまうが本人はその「異常さ」が意識できずに突っ走ってしまうタイプ。
最後に疑問。これらのボーダーライン反応は「未熟さや他罰傾向」の表現なのだろうか?
結論としてはあまり関係ないだろう。他罰傾向と言えないことはないが、今度はそれを受ける側は逆に凹の役割を果たすわけであり、それはむしろ自虐的な傾向と言えるだろう。
 未熟傾向については、そもそも未熟であるということはどういうことかがわからなくなってくる。いつまでも子供のような依存傾向やわがままを発揮する、ということか? でもMPはむしろ自己の権利を堂々と主張するという意味では依存とは異なる。これは要求なのだ。もし未熟になる、の逆が大人になる、ということで、それが個人としての責任を取る、ということを意味するのであれば、現代社会は責任を取る立場に置かれることが特別遅くなっているとは限らないだろう。
 同じことを繰り返す様だが、クレーマーの社会は、「被クレーマー社会」でもある。大学生が取りあえずアルバイトでもと思い、コンビニのレジに入ると、もうすでにお客様に失礼のないような「オトナ」の対応をしなくてはならない。若くして未熟さの許されない社会へのイニシエーションを通過しなくてはならないのである。私は時々自分がコンビニのレジのアルバイトをしたらどうなるだろうと思う。「あの店員は態度が横柄で挨拶もろくにできない」、たちまちクレームがつくのではないかと思う。
というわけでMP現象を現代人の未熟傾向と結びつけ、パーソナリティ障害の表れとして論じることは結局できなかったわけだ。一言で言ってしまえば、不可解な現象である。でも人類は不可解な突出を「流行」という名前で繰り返しているのである。あの不可解な「穴あきジーンズ」やシャツの裾出し(私の世代には決してなれることのない、奇妙な習慣である)のように。(おしまい)

2013年12月14日土曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題 (13)


 ということでこのMPのテーマは明日が最終回。最初から14回くらいにしよう、と思っていたからだ。
最後にまとめよう。表題は、わざと「パーソナリティ障害の問題」などとぼかして書いてあるが、結論から言ってMP達は決してパーソナリティ障害というわけではないと思う。ただし社会により、時代背景により私たちの中の子どもの様な部分、ボーダーライン反応が生じやすくなっているという事情があり、それが人々がみな幼児化しているのではないか、という危惧を抱かせるだけなのだ。 そのボーダーライン反応についてであるが、これは私たち皆がポテンシャルとして持っている。もちろん人によりそれが出やすい人、出にくい人がいると言うわけだ。
 ということでボーダーライン反応からMPという現象を説明しようとしたわけだが、これまでに私が用いていたボーダーライン反応の概念ではでは十分説明できなくて、昨日思いついた(実は!)のが、ボーダーライン反応の一つの亜型である「熱狂型」であった。私はこれを「突出型」と言い換えて論じよう。(突然のネーミングの変更。ブログでないとこのような無責任なことはできない。)
 昨日もネットの記事で読んだが、「子どもを朝起こしに来ることを担任に要求する親」というのがあった。これはMPだなあ。これは「うちの子にもお弁当を・・」というMPと一緒の分類されそうだ。分類する意味はあまりないかもしれないけれど。これもボーダーライン反応の「突出型」ということが出来るだろう。少し説明が必要か。
 普通は、担任に「うちの子を毎朝起こしに来てくれ」というのは極端だとすぐにわかる。「あり得ないだろう」というのが普通の反応だ。でもこの親だって精神を病んでいるというわけではない。最初はほんのちょっと行きすぎた発想を持っただけだろう。「朝どうしても登校に踏み出せない、かと言って親の言葉には耳を貸さない、というウチの子に、担任が電話の一本くらいかけて勇気づけてくれないか」という程度の発想だったのだ。これ自体は別に極端なこととはいえないかもしれない。あとは「先生は学校への通勤途中に家のすぐそばを通ることになりますよね。どうせだったらかわいそうなうちの子のために、ほんのちょっと立ち寄ることをお考えいただけますか?」という要求をすることに対しては、さほど大きくもない飛躍が必要だっただけだ。そしてこれを読んだみなさんが「なるほどね・・・・」とちらっとでも思ったら、ホラ、もうあなたもMPに事実上なってもおかしくない状態なのである。
 もし担任の先生が遠回りをして生徒のうちに立ち寄らなければならないという事情があったとしても、親はこのように考えるかもしれない。「先生、おっしゃることはわかります。でもほんの30分だけ通勤を早めていただくだけですよ。一人の生徒の人生がかかっている場合、担任がたった30分の時間を捻出できない、ということはあるのでしょうか? ぼんやりテレビを見て30分くらいあっという間に経ちませんか?それとも先生は一日中30分のぼんやりしている時間も惜しんでお仕事をしたり、家族サービスをなさっているんですか? それとも先生は一人の生徒の人生より、ぼんやりテレビを見る時間を優先するんですか?」となると・・・やはり何となく説得力が出てくる。するとMPはやはり成立するのだ。

2013年12月13日金曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(12)

 このテーマ、そろそろ終わりだが、我ながら大した考察ではないなあ。インパクトはかなり薄い。というか人目を引くような主張は結局できない。いやもちろんウケを狙うわけではないが、論文の「肝(キモ)」みたいなところがない。ひところで言うと、「誰でも難しい親、MPやモンスターカスタマーになる素地を持っていますよ」「彼(女)たちは決して極端なPDを持っているわけではありませんよ」ということか。でもこのように書くと読者は、「そんな馬鹿な。自分の娘にももう一つお弁当を作るように担任に要求するようなことを、自分がするわけはないでしょう?」という反応になるだろう。もちろんそれは極端だろう。ふつうはしない、というよりか発想がない。しかしその親がそれ以外では普通に生活をしているとするならば、やはりPDとは言えない。少なくとも精神医学的にはそうなる。やはり社会現象が背景にあり、そこで「魔が差し」てしまう。ボーダーライン反応が引き出されるのだ。そう、幼児的なところが引き出される、という意味ではPD的なのだが、PDとなるとそれがその人の習い性になっていなくてはならない。ではなくてモンスター的振る舞いが「例外的に」起きるというわけだ。わかるかなあ。 
ということで最後にこのボーダーライン反応について書いて、終わりにしよう。「お茶を濁す」と言われようが仕方がない。ボーダーライン反応とは、自分が不当に責められている、馬鹿にされている、大変だ、反撃しなくちゃこちらが潰れてしまう、というアラームが心に鳴り響いている状態だ。ここで「攻撃しなくちゃ」というところはすごく重要だ。それが周囲を困られ、悩ませ、恐怖に陥れるのだから。ここで「潰れる」というのは、プライドでも面子でも職でも何でもありうる。それがなくなると本人の精神にとって危機的な状況になる場合だ。
ところがそれでは「うちの子にも弁当を…」にはあまりつながらない。これは無茶を言って教師を並行させる行為ではあっても、うちの子が遠足に行けない、どうしよう、という危機的状態ではない。だって自分が億劫がらずにお弁当を作れば済むのだから。ということで・・・・

ボーダーライン反応を駆動するもう一つの要因がある。それはその反応が快感に結びつく場合である。その場合は相手への攻撃が必ずしも危機感に結びつくわけではない。若干の危機感と、ある種の熱狂か。
 例えば災害が起きた地域で物が不足して、商店への略奪が起きる。普段は法律を順守する善良な市民が、暴徒化して、商店のガラスを破り、乱入して、食料品を抱えて逃げ出す。これは危機感に裏打ちされたものだろうか?最初はそうかもしれないが、途中から熱狂状態になり、快感も増す。すると止まらなくなるのである。学園紛争もそうかもしれない。一年前までおとなしく受験勉強をしていた高校の秀才が大学に入ってデモに参加し、教師のつるし上げをしたのである。
人は危機感にかられた行動は止められないが、快感に駆動された行動も止まらない。こちらもボーダーライン反応と呼ぶのか。一応そうしとこう。新しい概念を作るのは大変だしね。そしてこちらもスプリッティングが生じている。ただしこれは「自分が今やっていること、それはもうやるっきゃない!」という、自分(の行動)イコールall good の状況なのだ。私はいじめだってこれが働いていると思う。そして自分がAll goodになる時、他人を評価し、顧慮する目は失われる。薬物やギャンブル中毒になると、それを継続するためには盗みも平気になるというのは、結局そういうことだ。

2013年12月12日木曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(11)

私は教職にあるが、さすがに大学院生の親がねじ込んで来ることはない。だからMPに仕事がら接している訳ではないので、この「難しい親たちとパーソナリティ障害」というテーマについて書く資格がないような気がして、本を取り寄せて読んでみた。そして何か新しい発想が湧くと期待していたが、結局最初から考えていたところに落ち着きそうだ。まあ少しは自信を持って言えるようになったとも言えるが。
MPが親たちの未熟で他罰的なパーソナリティの影響によるもの」と行きたいところだが、結局その見方はおそらく単純化されすぎている。社会学者なら言いそうなことだが。もちろんストーリーとしては訴えかけるものはあるが、十分な説明にはなっていない。ちょうど70年代の学園紛争について、現代の学生の幼児化、未熟化のせいだ、とした場合に、その幼児性が時代とともにさらに進んで、学園紛争が止まらなくなり、全ての大学が荒廃してしまったかというとそうではない、というのと話は同じだ。
 ただし・・・・ ここからは重要だが、教師をつるしあげる(70年代)のも、親が学校にねじ込んで無理難題を押し付ける(現代)のもその人のパーソナリティ傾向の中に通常は見られない幼児的な側面が表現されている、ということは言えるだろう。いやもう少し正確さが必要だ。その人が何らかのきっかけと共に他罰的、自己中心的にふるまうようなスイッチが入ってしまった状態、という感じか。その人の性格の一部、というわけでもなく、でもそのような状態にやってしまいやすい、ということか。
 というのもMP化する人たちが一様に潜在的に未熟で他罰的な面を備えているかというと、案外そうでもないと思うからだ。社会人としてちゃんとやっていたりする。会社ではいつも上司に怒られてばかりで大人しくしている可能性もある。そして、MP化は、私たちの誰もが、状況によっては起こす可能性があるのだ。
ではMP達が一般人と同じかというと、一概にそうでもない。いったい私は何が言いたいのか。(物事に正確さを競うと思うと、却って曖昧になってしまうことはよくあることだ。)
 うんとつまらなくなってしまうが、正確ないい方をするとこうだ。「MPとなる人たちには、おそらくMP的なふるまいを起こしやすい傾向があるのだろう。それを仮にMP傾性、とでも呼ぶとしたら、おそらく親の中にはMP傾性が高い人、低い人がいる。低い人はたまたまなるし、高い人はしょっちゅうなる。そしておそらくMP傾性がゼロの人はほとんどいないのだ。私たちは状況次第ではMP化する危険性を誰しも持っている。
 ではMP傾性とは実質上(精神医学的に)何か? やはり私の頭の中ではボーダーライン傾性と変わらなくなる。ただし「ボーダーライン傾性 borderline inclination」とは、今私が初めて使っている言葉である。これまでどこかで書いている話だが、人はボーダーラインを潜在的に持ち、危機的な状況でボーダーライン反応を起こしやすい。誰でもなりうるのだ。特に恋愛をしている場合。あるいは激しくプライドを傷つけられた場合。ただしなりやすい人、なりにくい人はいて、すごーくなりやすい人はBPDと呼ばれる人たちなのだろう。

MPも、BPDの人が格別にそれに走りやすいというのはとてもわかる気がするし、似たような例を見ている。そしてそれ以外は社会の情勢、偶然性などが関係しているのだ。とりわけ社会情勢の影響は大きい。何しろ60年代、70年代は、かなり多くの大学生が高いボーダーライン傾性を発揮して、世の中を白か黒かに分け、ゲバ棒(もう死語かなあ)を振り回していたのだ。教室で本を読んでいると「どうしてお前はデモに参加しないのだ?」と言われる時代はそうなるしかなかったのだろう。
 現代のMPも確実に、「~のようなことを学校に要求する親がいた」という情報は入っていて、それが自分の行動を無意識レベルに律しているのであろう。一部のMP化したひと達が増殖していくのは、それを受ける体制が出来ていないからだ。米国のようにすぐにでも暴力装置が動員されるという仕組みは日本にはない・・・・。とこうなると説明は結局社会の側にも広がって行く。それは仕方ない。精神科的な問題(ここにしっかりMPも含ませていただく)は個人の素質と偶然と社会状況の3つの要素なしには成立しないからだ。

2013年12月11日水曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(10)

結局ぐずぐずしているMPPD問題。編集者側の提案したテーマである(ナンのことだ?)「PDの傾向を持つ(未熟で他罰的な)親たち」になかなか添えない。しかし少なくともこれまで取り寄せたMP関係の著書(といってもアマゾンで買った4、5冊だけだが)に、そこらへんにはっきり触れたものはない。いずれもほのめかし程度である。それはそうかもしれない。「MPの増加傾向は、親のパーソナリティの未熟さや他罰傾向のせいである」ということはとても難しい。いくつか理由を上げよう。
1.      この10年程度で親の未熟さや他罰傾向がいきなり進むという現象を説明しにくい。
2.      「親」の年代に幅がある。そのため~時代(例えば共通一次試験世代、など)の親がそのような性格傾向を持つに至った、という説明がしにくい。これに関しては、それこそモンスター化が親についてだけでなく、カスタマー、患者等にも広がり、幅広い年齢層に及んでいることからも難しいことがわかる。
3.      MPの親たちが、学校以外の場所で同様のモンスターぶりをはっきりしているとは限らず、PDが有するべき恒常性に該当しない。これに関してはMP立ちが通常は社会でそれなりに適応し、家庭を気づき、家族の構成員ともそれなりに適応している場合が多いことからも言える。
こんなところか?ちなみにこの問題、昨今の「新型うつ病」とかぶるところがないわけではないという気がする。こちらの方もここ10~15年と同様の時期に増えつつあることになっているが、同様に人格の未熟さ、他罰傾向が問題とされる。ただしこちらの場合は20代、30代のどちらかといえばヤングアダルトの世代が該当するように言われている。MP達とはひと世代若いと言えるだろうか?仕事場でかなり若く、入っても長続きせず、ちょっとした叱責で落ち込んだりふてくされたりする若者、という触れ込みになっている。未熟さ、他罰傾向がこちらに当てはまるかはわからないが、MPよりは説得力がある気がしないでもない。
 こうやって書いているとわかるが、私はこの「現代人の未熟さ、他罰傾向」という議論は好きではないのだ。精神科医としては議論が大雑把すぎる気がする。
ということで私の議論は結局いつものパターンになっていく。以下は全くの私論ということで。

MPにおいて人の「未熟さ、他罰傾向」が表現されている、ということについては特に異論がない。しかし考えてみれば、MPなんだから、「他罰」は同語反復的だけど。

2013年12月10日火曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(9)

さて島崎氏のクレーマーの分類は興味深い。彼はこれを「溺愛型」、「放任・拒否型」、「過干渉・過支配型」と分類し、諸富祥彦の「家来型」、「放任型」、「支配型」と「ぴったり一致」したという。この分類はおよそ妥当な線なのだろう。
 「溺愛型」とは、うちの子が「遠足の写真に可愛く写っていなかった」という類のクレームをつける親。子供をペット化する傾向を持つ、とも説明される。
「放任・拒否型」では子供がケータイを取り上げられたことに腹を立てた親の例が出てくる。 この種の親は子育てに力を入れないものの、それに対する罪悪感が背景にあるとする。
 三番目の「過干渉・過支配型」が一番手に負えないと説明される。「子供の多くは保護者の手厚い庇護の下、『良い子』として過ごしていますから、保護者にとっては、豊富な情報を提供してくれる“力強い戦友”となります。教師のミスは見逃さずに家に帰って報告します。親はその情報を基に、教師に対してクレームをつけることがあります。」と説明される。事例として出てきた親は、子供が具合が悪くて学校を休むようになると、放課後に母親が来校し、各教科担当からその日の授業の説明を受けていたが、時折「そんな説明じゃわからないでしょ」などと大きな声を発するようになり、しまいには摂食障害のため思春期病等のある病院に入院したわが娘のために、教師が入れ替わり見舞いがてら授業の説明をすることを求めたという。学年末試験を欠席した娘の成績が当然下がると「これでは子供の夢が台無しになる」「学習権を侵害された」「成績を買えないなら、裁判で争う」そして「○○議員を通じて、教育委員会に調べてもらう」「新聞社に電話する」とエスカレートしたという。
さてこの分類、それなりに興味深く、意味がないわけではないにしても、どうもよくわからない。親がかなり無理な要求をし、学校側がそれを聞き入れることで要求がエスカレートするというパターンは同じだ。また要求する内容は、全くの荒唐無稽な話ではなく、親がファンタジーでは描きがちなことであろうが、それを要求するというところが尋常でない。しかしもっと尋常でないのは、それを聞き入れる学校側という気もする。MPには、その対応を適切に行っていない学校側が常にペアになっているという印象を持つ。
例えばクラスで撮った写真で、うちの子だけがブサイクに写っていたり、人の影になってほとんど顔の一部しか写っていないということはありうることだ。その時になんとなく理不尽な感じを持ち、写真を撮り直してもらえないだろうか、という願望を持つこともありうるだろう。親とはそういうものだ。しかしそれを持ち出さないのは、「そんなことを言い出しても相手にされないだろう」という意識があるからだ。ところが同様のことが受け入れられる素地があるとしたら、それを学校側に要求する親が実際に出てもおかしくないだろう。
その場合学校の側にも、無茶な要求にどのように対応していいかわからないという戸惑いが最初にはあるはずだ。しかしそのうちにクレーマーに対するマニュアルが作られ、対応策を整えるようになるのだろう。
私はアメリカは大変なクレーマー社会だと思うが、それが訴訟社会をうみ、どのような団体にも分厚い規約が用意されるという状態を生んだのだと思う。カリフォルニア一州の弁護士の数が、ほかの世界の弁護士の数に相当する、などということを聞いたことがあるが、最終的にそうなることで平衡状態が気づかれる。そうでなかったら、学園紛争のように、そのような傾向自体が一種の流行の時期を終えて下火になっていくのだろう。

ということで、なかなかMPのパーソナリティの問題に向かっていかないなあ。

2013年12月9日月曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(8)

嶋崎氏の著書は、いよいよ「原因」について触れている。(楽しみであるが、実は私は安易な「原因」探しは信用していないのだが。)彼はまずMPの問題が1990年代の半ば以降深刻化してきているとする。1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼がれ、共通一次世代でもあるとしている。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説を引用して「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。更に1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことも挙げられている。彼らはそれを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、「教師への反発、反抗は当たり前」という感覚を持つようになったことは容易に頷ける、とも書かれている。
うーん、分かったようなそうでないような。「他人から傷つけられることに敏感」というのと「反発、反抗は当たり前」とは本来二つの異なる心性であろう。ただしそれを結びつけるとしたら、傷つけられることに敏感な人がそれを他人への攻撃に転嫁する際に、教師に向かうことへの抵抗が少ない」ということだろうか。でも他人に傷付けられるのに敏感でない人などいるだろうか?私は基本的な考え方としては、自己愛の傷付きや恥の感情は人間に普遍的なものだと思う。あとは社会がそれに対する反応をどのような形で許容するかということの違いだと思う。
 さて諸富先生や嶋崎先生もまた同様に持ち出すのが、現代人の未成熟や幼児性ということである。「今時の若いものは歳は行ってもまだ精神的には子供だ」という批判は、しかしおそらく古代からあったのではないか。人はそうやって年をとると、若い世代に向かってやっかみの混じった批判を向けるのだろう。

ところで著者は1980年代の校内暴力の時期から教師への尊敬心が薄れてきた、とあるが、私は改めて、校内暴力が1980年代半ばにピークを迎え、今は下火であるということを認識した。教師を尊敬せず、公然と自己主張をするという傾向は、しかしそれほど長くは続かず、やがて終息していったということか。つまり学園紛争より10年ほど遅い歴史を終えたということだろう。するとMPの傾向もやはりひとつの社会現象としてそれなりのピークを迎えて収束していくということか。しかしその度にその「原因」を考えて、それを「現代人の未熟化、ないしは幼児性」として扱うのだろうか?それじゃ全てがそれで説明されることになりはしないか?学園紛争も、校内暴力も、MPも。それではあまり説明になっていない気がする。

2013年12月8日日曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(7)


先日勤務先の病院の精神科部長の退任ということでパーティがあったが、そこで医療連携室のナースと席が隣になったので、早速「取材」してみた。彼女によると1990年代の半ばから、院内で「患者様」と「様」を付けるようになったという。その後患者の名前は呼ばず、番号で呼ぶようになったのであるが、その頃から大変な患者さんも増えてきたように思うというのだ。そういえば私も帰国直後には、患者に「様」をつける言い方に若干戸惑いを覚えたことを記憶している。「患者様は神様」的な発想も、やはりモンスターかとホッ蝶が一致しているように思える。
さて昨日「もう書く事がない」などと書いたが、もちろん私の知識不足、情報不足のためである。そこであとは読書感想をしていく。「学校崩壊と理不尽クレーム」(嶋崎政男、集英社新書)を読んでみよう。
嶋崎氏によれば、MSの問題が生じてきたのは1990年の後半であるという。あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もある。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』といった」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、尾木氏の本にもこの本にも出てくる。
本書で目に付いたのは、医療現場の崩壊と教育現場の崩壊を比較し、ほぼ同じ現象が現在起きつつあることを示している点である。小松秀樹氏の「医療崩壊」(2006年)は有名だが、そこでこの10年で医療関係訴訟は倍増したという事実を伝えている。そしてその小松氏が、「崩壊しているのは、医療だけではありません。教育現場の崩壊は医療よりももっと大きな問題です」と書いてある。
ところで本初の第2章は、「クレーム社会の到来」という題名であるが、保護者とあっているとその様子が変わってきていると言われるようになってきたのがこの10年という。私はこのMPのことについて考えるたびに学生運動のことを思い出すのだが、あの日本中の学生のモンスター化は一体なんだったのだろうと思う。学生の変貌は60年代、70年代をピークに収まっていった。今の大学生はむしろ積極的に授業に出席するという。この種の社会の流れはおそらく一種の流行というニュアンスを持ち、それぞれの時代に特有の現象が見られ、それが収まっていくということを繰り返しているのだろう。そして実のところどうしてそれがその時代に起きるのかを知るすべはない。ただ周囲がそうなって言っているから自分もそうする、ということなのだろう。ひょっとしてこのMPの問題も、その本質を捉える試み自体に意味がないのかもしれない、などとも思ってしまう。




2013年12月7日土曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(6)

 何か私の言いたいことは大体言ってしまった気がする。ちょっと復習しようか。以下に箇条書きにしてみる。
   MP自体は、人間が持つスプリッティングやボーダーライン傾向として、思考、行動パターンの中に備わっている。潜在的に誰でもMPになれるのである。(後は隣の人がやっているかどうか、だ。)
   MPは最近の問題である。一般には20076月の政府の教育再生会議の第二次報告あたりをその明らかな始まりとしている様である。
   学校側の受身性が問題となっている。すなわち「触らぬ神にたたりなし」、親からのクレームに対してはまずは傾聴し、謝罪するという傾向が最近強くなってきていることと関係している可能性がある。
   ③はおそらくMPと二重の意味で関係している。まずはクレームを受ける側(教師)の弱腰とクレームする側(親)の力のバランスが崩れた状態である意味で。もう一つはクレームを受けて理不尽な思いをしている人たちが、親の立場としてクレーマーに変身しているという場合。
   社会全体の様々な場面で起きているモンスター化とMPとは連動しているであろう。例えば日本社会でサービス機関を利用する患者、消費者、利用者、乗客一般がクレーマー化していることとMPとは関係しているであろう。
   おそらく西欧ではあまり見られない現象であろう。
このように箇条書きにしてみると、私自身のスペクレーション(推論)がかなり混じっていることに改めて気が付く。検討して見ると、①はほぼ自信あり。いろいろ症例を考えても、自分自身の経験からも確かだろう。②もMPに関する文献を読んだ限り言えるので問題ないだろう。③これもいいだろう。現象としてそうとしか言いようがない。④は後半がアヤシイ。職場で顧客の対応に四苦八苦し退職したりうつ状態になった人がクレーマー化したという実例をあまり知らない。むしろ顧客に悩まされてうつ状態になった人が精神科の外来を訪れる。自分自身がクレーマー化するならばまだ「救われる」のかもしれない。⑤これもそうだろう。⑥これが一番アヤシイ。私のアメリカ体験は2004年で終わっている。その時息子や息子の友達の通っていた学校での事情を思い出して行っているにすぎない。少なくともアメリカではMPに相当する現象は見られなかった。もちろん個別に大変な親は確かにいるが、それなりに対応が出来ていた。6つのうち2つがアヤシイ。うーん、それほど悪くないか。

ちなみにアメリカという社会は、みながとんでもないクレームをつけるということで訴訟社会になって行ったという歴史がある。

2013年12月6日金曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(5)

わが国の様々な分野でモンスター化が生じていることは同時に、モンスター化する客や生徒に戸惑う従業員や教師が増大していることを意味する。ということは彼らの「サービス心」の向上が連動していることになるだろう。店員のマナーが改善され、より顧客が満足するようになったのだ。しかしこれは日本人のメンタリティが向上し、愛他性や真心の精神が行き届くようになったと考えるのは全然甘いだろう。これは企業の一種の戦略である。サービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかということへの調査研究が進み、各社が顧客がより心地よさを感じるような対応を目指すようになったわけだ。ちょうどコンビニで売っているお弁当がよりおいしくなり(少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じだ。
 昔は人のサービスは今ほどではなかった。JRの前の「国鉄」といわれていた時代の駅員さんは仏頂面で切符をパチパチ切っていた。タクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺った。コンビニで100円のアイスを買っただけで最敬礼されることは予想していなかった。米国に行っている間に店員に愛想よく扱われることは期待しなくなった。でも私にとって「二度目」の日本はサービス向上の努力や民営化の影響で、お店の従業員は皆顧客にとても愛想がいいのである。マナーの良さでは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことは鉄則でありさもなければすぐにでも売り上げに直結するという至上命令として刷り込まれ、そのためにそこにモンスターカスタマーからとんでもない要求を突きつけられて絶句し、まず「大変申し訳ありませんでした」から入ると教育された店員は、最初からそれを受け入れる方向性を定められているのではないか。今の時代に「お・も・て・な・し」が流行語になることは興味深いが、本来あれは日本にオリンピックを招致するための戦略でもあったのである。
 モンスターに対して弱気になるもう一つは訴訟問題である。客に訴えられたらどうしよう?このかんがえが脳裏をかすめるとサービス業に従事する人間は硬直し、思考停止状態になる。
 先ほどの「お弁当作って」の母親の対応をした教員も「うちの子だけ遠足に行けなかったじゃないの。どうしてくれるの?訴えるわよ。」というシナリオが脳裏をかすめた可能性がないわけではないだろう。
 もう一つモンスターペアレントに弱腰にならざるを得ない教員の事情として重要なものがある。それはいわば子供が「人質に取られて」いるということだろう。著書の中で尾木氏も指摘しているように、モンスターペアレントは一人で学校にねじ込んでいるわけではない。そこに罪のない子供を巻き込んでいるのである。

2013年12月5日木曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(4)

ウチの神さんは一度だけモンスター化しそうになったのを目撃したことがあるが、それはアメリカで車を買った時、地元のトヨタのカーディーラーに抗議した時のことであった。(彼女の名誉のために言えば、学校で無理難題を先生に持ちかけたり、ということは一切なかった。実に子どもにとっても学校にとってもいい母親ぶりを発揮していたと思う。)その時は慣れない英語でやり合っていることもあり、アメリカ人のディーラーはカミさんが何に怒っているのかよくわからなかったらしい。相手の反応が見えず、またそこに脅しや威嚇がない場合には、歯止めが効かなくなる。カミさんは英語で話している時は自分が何を言っているのか分からなくなる状態になりやすいんだな、と私は横で見ていて思った。ただしカミさんの悪いところは、一定以上にエスカレートすると、「もう、あなた何とか言ってよ」と突然私に下駄を預けるところで、私はいきなり無茶ブリをされて、いかにカミさんの名誉のためにその怒りのテンションを引き継ぎながら、軟着陸先を模索するのに苦労するのである。
今尾木直樹の「馬鹿親って言うな!」(角川One)を読んでいるが、そこにこんな例がある。2007年に放映された番組の中で、小学校教員が、「遠足があった時、ある子の母親が『自分は作れないので、先生もうちの子の弁当を作ってくれないか』「どうせ先生だって自分のを作るんだから、もう一つ作るのは簡単でしょ?」と言われたと話したという。スタジオが驚いたのは、その先生がそれを引きうけたと言った時で、その理由としては「だってその子が遠足に来られなくなるから・・・・」であったという。その時の先生の反応は、そんなバカな、という反応であろうが、それを実際に生徒の母親に言われた際に、どう答えようかという心の準備が出来ていなかったのが問題であったと思う。もちろん「先生にお弁当を作ってもらう」事が突拍子もないことは確かだが、発想としてあり得ないというわけでもないだろう。というか人間、この種の発想は結構起きるものだし、時には口に出すこともある。先生との関係の持ち方によってはこのような話を持ちかけることもあり得るかもしれない。そして先生はふと優しい考えを持ってしまった。「お母さんはとんでもないことを言っているけれど、○○ちゃん(子どもの名前)に罪はないわね。そしてお母さんのせいでお弁当なしになったらかわいそうね。いざという時のために余分に作っていこうかしら。」こうなるとこの教師の反応はさほど極端ともいえなくなってくるのである。
お・も・て・な・し・とも関係している

ところで忘れないうちに言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心とすごく関係していると思う。おもてなしによる従業員の心のひずみとモンスター化は深く関係していると思えるのだ。

2013年12月4日水曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(3)

ところでモンスター化について、私は自分がそれに行きかけたことも体験し、またカミさんがなりかけたことも記憶にある。自分がモンスター化する感じは不思議だ。私がよくBPDに関して論じる、「ボーダーライン反応」と似たメンタリティなのだろう。そして私がボーダーライン反応は、「人間誰しも持っているボーダーラインの『芽』である」と言っている通り、私たち皆がポテンシャルとして持っていて、状況次第では発芽してしまうという意味では、私が昨日から言っている「モンスター化」は社会現象である、という主張と近い。パーソナリティの未熟さと関係している、というよりは、パーソナリティの未熟な部分が賦活される、という現象なのだ。ここで「パーソナリティの未熟な部分」とはあいまいな表現であり、不正確なのはわかっているが、与えられた「お題」の関係上、PDとは関係ないよ、とも言えないので。
ボーダー化する時って、「ここまで行って(言って)いいんだ、もっと行っちゃおう(言っちゃおう)」という一種の高揚感がある。それと同時に本当の自己がやや過剰に、つまりは非日常的に表れている感じを持つ。普段は思っていても言えないようなことが出されている感じ。その時には普段の歯止めが外れている感じがある。「キレる」という表現がまさにそうだ。そしてその歯止めと言えば、それは普通外部からもたらされる。「この人にこの事は言っていけないな」とか「これをやったら捕まっちゃうな」という感覚。だからモンスター化する際には自分が普段感じているフラストレーションも、相手の態度も両方が変数として必要となる。

ここで本音を言えば、私は「現代人の未熟化」などということをあまり考えない。昔から「近頃の若いもんは...」というセリフはあったと思う。奈良時代の年寄りが、若者を見て「近頃の若いもんは...」とため息をついている姿を想像して欲しい。それから途方もない時間が流れ、また同じことが言われているのだ。今頃は人は赤ちゃんよりも未熟になっていておかしくない。
 私は人によって人間の成熟度はあまり変わらないと思う。もちろん昔は社会における禁制や様々な習わしに従う必要があったことは確かであり、女性が十代で子どもを産んでいた時代と、現在とでは、20歳の女性のあり方は全く違うのであろう。しかしそれがここ1020年間で急に変わることはないだろう。そしてモンスター化はまさにここ1020年の間の変化とされているのである。そんなに急に人間は未熟にならないだろう。問題はいつモンスター化(ボーダーライン反応)を起こすかもしれない人間に対して、社会がどう対応していいかをまだ準備していないことが問題だと思う。モンスター化しそうになった時に、その相手が当惑する。すると歯止めが見えなくなってしまい、最終的に「キレ」てしまう。

2013年12月3日火曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(2)

 先週末は森田療法学会で徳島にいたが、そこである先生がうつの患者さんを集めた病棟の話をなさっていた。そこで印象的だったのは、従来は几帳面で自責的な性格傾向の人々、いわゆる「メランコリー親和型」(テレンバッハ)の人々が示す病棟での予想外の怒りであり、いわばモンスター化であったという。しかしそれは中年を過ぎた患者さんにとっても言えることというのだ。
 思えば60年代、70年代に日本で、あるいは世界で大変なモンスター化現象があったことをご存知だろうか?そう、学生運動である。生徒が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして国会を取り巻くという大変な時代があったことを少し上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さ、他罰傾向として説明されたであろう。しかし時代は変わり、あの運動はすっかり過去のものになっている。学生たちは学生運動の世代以前よりもっとノンポリになっている傾向すらある。今から思えば時代の産物だったということがわかる。
このブログは例によって書きながら考えることを目的としているが、考える前に私が立てている仮説とは、日本社会において人が権利を主張するという、当然当たり前のことがようやく生じ始め、それに対して主張やクレイムを受ける側がどのように対応していいかわからないために、主張をする側がエスカレートするということが起きているという可能性だ。つまりクレイムを受ける側の態勢が整っていない。そのためにクレイマーからの電話を長々と切れないという現象が生じ、そこで多くのストレスを体験した職員が、一部はうつになり、一部は「新型うつ」の形をとり、そしてまた一部は・・・・・・自身がクレイマーになるのである!!
しばらく前のことだが、勤め先の病院で帰りがけに玄関釘に差し掛かると、病院主催の勉強会に集まった市民の一人が猛烈な勢いで主催者側の事務員に食って掛かっていた。いい年をした親父だ。どうやら勉強会の講師である医師の到着が遅れているらしい。しかし板ばさみにあった事務員は困りきった様子でその男に対応していた。
 このような時、私は2004年まで暮らしていたアメリカでのことが思い出される。米国では誰かが声を荒げた時点で警備員や警察が呼ばれる。怒鳴ることは「verbal aggression 言葉の暴力」であり、帰途を殴ったり物を壊したりする「physical aggression 身体的な暴力」と同等なのだ。だから怒鳴る側にも覚悟がいるし、制服の人々が現れればあっという間におとなしくなる。日本では怒った市民への対応が、非常に甘い。まずなだめようとする。それはそれで悪くはないし、それで大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はモンスター化するのである。


2013年12月2日月曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(1)


ある「大人の事情」から、「難しい親」、いわゆるモンスターペアレントについての考えをまとめる必要が生じた。いきなり締切が数週後、というのはキツいなあ。締切が半年先、というのであれば依頼される側も引き受けやすいし、それだけいいものも書けるだろうと思うのだが。そういえばもう廃刊になった「●マーゴ」はさらにキツかった。「二週間でお願いします」、とか。無理したなあ。でも同時に鍛えられたなあ。まあ、それはさて置き・・・

 モンスターペアレントという言葉は和製英語だということである。そういえばそんな言葉はアメリカにいた頃は聞いたことがなかった。Monster parent と英語で検索をしても、同様の意味では出てくることはなく、むしろ日本の親の事情が英語でも同様にmonster parents と表記されているという感じ。それよりもtiger mom という言葉が思いつく。しかしそれはむしろ教育ままという感じだ。そう、アメリカで親のモンスター化がどうなっているのかも重要なテーマだ。
この現象、もちろん精神科医としては興味を持っている。モンスター化は何も親だけに限ったことではない。モンスター客(カスタマー)、モンスター患者、モンスター学生。日本で葉さまざまな人種たちのモンスター化が見られるようである。いったい日本人の心の状態はどうなっているのか?
私の考察はモンスターペアレントの「パーソナリティ障害」(以下、PD) である。たしかに現代の日本人の親たちが未熟化し、そのためにわがままでありクレイマー化しているのではないか、という可能性は十分ありえる。同様の事情はたとえば「新型うつ病」についてもいえる。日本人が未熟化し、特に若者がわがままで堪え性がなくなり、職場でのちょっとした叱責や注意で落ち込み、すぐ精神科医に診断書を書いて持ってくる、そして休職中は余暇を楽しんでいるというパターンが見られる。これも同様ではないか、そしてその背後にあるのは、現代の日本人の未熟なパーソナリティ傾向ではないか、という議論である。だから「『難しい親たち』とパーソナリティ障害の問題」というテーマは、言い換えれば「『難しい親たち』は本当にパーソナリティ障害の問題なのか?」という疑問形にすべきものである。
これに対する私の姿勢を一言で言えば、次のようになるだろうか?


モンスター化は、むしろ社会現象であろう、と。そこに現れる他罰的、依存的、あるいは未熟なパーソナリティ傾向は、みながそれぞれ潜在的に持っているような部分であり、それが顕在化するような状況が社会で整っているということを意味するのではないか?

 

2013年12月1日日曜日

小此木先生の思い出(9)

さて、そろそろ小此木先生の思い出を終わらせなくてはならない。私にとっての小此木先生はどのような人だったのか?私は弟子とは言えない存在だったし、彼の後継者などの器では全くなかった。それなのにとても可愛がってもらえた。そして私のような体験を持った人は、もちろんたくさんいたのだろうと思う。それぞれが小此木先生に優しい声をかけられ、期待をしているよと言われ、勉強の成果を先生の前で披露した。彼らに対して先生は平等だったのだろうと思う。
ただしもちろん小此木先生の優しさは、彼自身がその弟子から話を聞くことでご自身の引き出しを増やすということの楽しさにも裏打ちされていたと思う。先生は若い頃は特に、手当たり次第読書をなさったという。海外に留学して新しい体験を持つ弟子たちと話すことは、おそらく彼にとっても純粋に好奇心を刺激し、楽しい体験であったらしい。それを弟子の側は「優しくしていただいた」と感じていたという側面がある。一種のギブアンドテイクだったのだ。
 それだけに小此木先生からの教えを一方的に受ける立場の先生方には、先生の少し違った側面を体験した人もいるようだ。かつてのお弟子さんの中には、先生のかなり手厳しい態度を体験したという話もよく聞くのである。それらの人々の中には、おそらく小此木先生から直接精神分析の手ほどきを受け、先生の考えを直接取り入れた先生方もいらしたと思う。そしてそのような立場の先生方は、比較的容易に先生とのエディプス状況に入っていったというニュアンスもある。その意味では先生と私とは適度の距離が存在していたのが良かったのかもしれない。
 もう一つ穿った考えをするならば、先生と私はある共通のテーマを持っていたのではないかと想像してしまう。それは従来の精神分析理論をどのように自分の中で消化し、相対化するかという問題だ。純粋主義vs相対主義という私のスキームは先生に気に入っていただけたようだったが、先生との会見の最後の部分は、フロイトがいかにフロイト理論とは異なり、自由に振舞っていたのか、という事に興味があるという話であった。そしてその頃先生がお読みになったアーノルド・クーパーの論文に触れ、フロイトが実際に患者とのあいだで自分自身についても語り、自由な感情表現をしていたことに関心を示されていた。
小此木先生の思い出についての話はここで終わるが、これを書く事はとても良かったと思う。いろいろ先生のことが思い出せて、その関係を再確認できたと思う。
 私にとって亡くなった方は依然として同じように生きているのである。その意味では先生の死去は彼の存在の近さを損なうことには少しもなっていない。この録音を何度も聞くことで、彼はまさに私の心の何生きて、微笑みかけてくれる存在であり続けることを実感したのである。