日本シリーズ、残念ながら巨人が優勝を逃した。どうせならマー君が最終日に投げたらよかったのに。
わたしの「夢」シリーズ、まったく不評なので、終了する。というよりなんだか本当に逮捕されるような気がしてきたからだ。日ごろからうけない冗談を言っているのだろう、と反省する。
もうちょっとスターンの考えを追おう。彼はエナクトメントは二つの主体の間のかかわりであるという。まあ、それはそうだ。関係論者だったらそういうだろう。そして患者はそのような解離状態を分析家に引き起こすとすれば、それは分析家のほうにもまた脆弱さ vulnerability があるからであるという。そしてエナクトメントが起きるのは、二人の人生の産物であると言い、これを「解離の対人化interpersonalization of dissociation」 とよぶ。以下はスターンの原文から。
「患者により解離された状態は、顕著な形で分析家により体験され、患者が顕著な形で体験したことは、分析家の中では解離される。(中略) このように葛藤の想像と、エナクトメントのネゴシエーションは患者の成長のみならず、治療者の成長をも必要とする。」このあとこの論文では「二つの心は互いに鏡像にあり、ちょうど二つに割れたお皿の両側のようなものだ。」と補足的に説明しているのだが・・・・・。よくわからない!!大体このようなきれいな説明のしかたはたいてい間違っているのだ、なーんてね。
ところで間主観性の立場からは、エナクトメントは患者-治療者関係の正常な部分であるという。そしてエナクトメントは必ず、「エナクトメント後」にしかわからないという。そしていよいよ一番左の極にレベンソン。曰く。「エナクトメントはいつもどこでも起きている。不可避的なものなのだ。」「エナクトメントは話されていることの、行動部分 behavioral component である」。これ、個人的には好きだな。
かくしてこうして極右、中間、極左の立場が示された。極右は「エナクトメントは失敗である。」中間は、「エナクトメントは患者、治療者にとって無意識の葛藤の刺激であり、現実化である。」そして極左はレベンソンの立場である。
必要はないのはわかっているが、図にしてみた。
まあ、改めて描くまでもないか。
なお本論文の最後には結論めいたことが書いてあるが、特に新しい内容はない。ひとつにはエナクトメントが一方では失敗として認識され、他方では不可避的なものとして認識される場合、これを一つの共通概念として用いることができるのか、という悲観的な見方である。しかしそれでも精神分析に長らく欠けていた、行動action についての議論を深めるためにこの概念は有用であろうということだ。そして何よりも、精神分析の幅広い学派が、この概念に対する関心を示していることは、今後ともエナクトメントの議論が引き続きこの世界で行われることの有用性を示しているという。
最後に元に戻って。つまりこの論文を読む前の状態である。最初の私のエナクトメントの定義はどうだっか?12日前に戻ろう。
「エナクトメント[行動に表れること]は精神分析状況において治療者ないし患者の意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す。エナクトメントの概念は現代における精神分析の中で最も重要な概念のひとつと言っていい。精神分析的な関係性においては、患者と治療者との間で、さまざまな非言語的なかかわりが生じ、エナクトされる。時には治療者の言語的な介入にも無意識的な内容が含まれ、エナクトメントとして扱われうる。このエナクトメントを治療関係において検討することで、それまで無意識レベルにとどまっていた内容が明らかにされ、治療が進展することが多い。エナクトメントは従来アクティングアウトとして理解されてきた行動を含むが、より微妙で非明示的なものをも含み、それを臨床的に有意義であり創造性を含むものとして概念化されたという経緯がある。」
やった!すでに一回分! ナンの話だ。
しかしこの考えは、例のスペクトラムによれば、最左翼的、ということか。すでに偏っていたということになる。この論文で、エナクトメントを失敗と見なす立場もある(クライン派など)のは新たに学んだことだ。しかしそのうえで言えば、エナクトメントの議論って、一昔前の逆転移と同じじゃないの、というのが正直な感想だ。だって逆転移だって、失敗としての理解と新たな表現、不可避的なものという二つの理解の仕方があったのだから。時代が変わって、議論の場がエナクトメントに移ってきたわけだ。では逆転移について言えば、それは不可避的なもの、というのが大体のコンセンサスとして出来上がっているのだ。エナクトメントはアクトが加わるから問題になる。その意味ではエナクトメントは、逆転移とアクティングアウトの中間的な意味を持つであろう。アクティングアウトの場合には、それを「普通にあることだよ」とは言えない雰囲気を皆共有しているからだ。