2013年10月30日水曜日

エナクトメントについて考える(7)

 もうしばらくエナクトメントの議論にお付き合いいただく。(誰も読んでないって?ごもっとも。)
この論文を読んでいてしばらくは、ちょっと不安になった。私は「何でもエナクトメント、というところもある」と書いたが、この論文は案外保守的な論調が目立つのだ。たとえばこんなことも書いてある。「エナクトメントは、分析的な対話の破綻であり、そこで分析家は気づかずに行動をしてしまい、自分や患者の無意識的な願望を actualize (現実のものと)する。」なんて書いてある。これでは古典的な文脈でのアクティングアウトと変わらないではないか・・・・。
 もう少し読み進むとこうだ。「エナクトメントには4つの流れtがあるという。クライン派、現代的な米国自我心理学、自我心理学と、間主観性・関係性精神分析の4つである。」もう一つ付け加えるならばフランス流の精神分析であるという。というのもフランスの精神分析にはエナクトメントはあまり登場しないからであるという。
一つの考え方は、エナクトメントを思考との関係性で考えるという方針だ。英国の精神分析では、行動 action と思考 thought とを対比的に考える傾向があるという。そして例えばスタイナーによれば、エナクトメントがいつも行動が起きた後に気が付くものであるという意味では、抱える力の失敗としてみなされるという。アクティングアウトが失敗なように、エナクトメントも失敗ということか。相変わらず厳しいな。
他方アメリカのジェイコブスによれば、エナクトメントは二つに分かれるという。一つはノンバーバルなレベルで表出され、それが起きた後でないとわからないものであり、もう一つは情動、試行、ファンタジー、記憶などで伝えられるものであり、それは反省や自己分析によりコンテインが可能なものであるという。こちらの考えに立てば、エナクトメントはそれほど不健康ということでもなくなる。関係学派のレベンソンによれば、エナクトメントは少しも異常なことではなく、いつも常に起きているということになる。私の考えはやはりこちらに沿ったものだ。

このようなエナクトメントの議論はシンボリゼーション(象徴化)との関係でとらえることもできるという。シンボリゼーションされてないのがエナクトメントでしょ、という考え。クライン学派は思考は象徴化の達成されたもの、行動はそれ以前と考える。アメリカの関係学派だと、思考と行動は、コインの両面と考える。ふーんそんなものか。私の考えだと、思考も一種の行動、ということになるが。