2013年10月15日火曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(6)

 DIDの治療の目的は、アイデンティティたちがお互いを重要なパートナーとして知り合い、認め合い、互いの間の葛藤を解決するということは治療の基本中の基本である。」うん、全くその通り。ちなみにこの論文に見られるように、英語圏の文献ではDIDの人格たちのことを「別人格」とか「交代人格」ではなく「アイデンティティidentity」 と呼んでいるわけだが、日本語にするとちょっとピンと来ない。それはともかく。
 「治療者は、アイデンティティたちはそれぞれが過去に直面した問題に対して、それに対処したりそれを克服するうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。」フンフン。「だから治療者は患者に特定のアイデンティティを無視したり『処分get rid of』するように促したり、特定のアイデンティティを別のそれに比べてより現実real のものとして扱うのは、治療的とは言えない。」なるほど。「治療者は特定のアイデンティティをえり好みしたり、好ましくないアイデンティティを排除したりするべきではない。」平等に人格たちを扱う、という原則のことだろう。
「患者ば別のアイデンティティを作り出すことを示唆したり、名前のないアイデンティティに名前を付けたり(ただし患者は自分が望んだら名前を選ぶことはできるだろう)、アイデンティティがすでに機能している以上に精緻化され、自立した機能を行うように示唆するべきではない。」ちょっと待った!!いや、異論があるわけではない。これは例の「医原性にDIDが作られるのではないか?」という批判に対する答えというニュアンスがある。治療者はDIDの人格を新たに作り出しているという誤解を受けるようなかかわりは避けなくてはならない。しかしこれはむしろ患者向け、というよりは精神医学会に向けた断り書きという意味があるように思える。

ちなみに私は「名前のないアイデンティティに名前を付ける」ことは場合によっては致し方ないと思っている。もしそのアイデンティティが患者との間でしばしば話題になり、何らかの呼び方が必要になるときはあるからだ。例えばある患者さんは遁走状態に頻繁になり、遁走時のアイデンティティはいつも決まった行動パターンを有しているらしいことが分かっている。遁走時のアイデンティティにたまたま話しかけることが出来たりしても、無愛想で口を開こうとしなかったりする。名前など聞いても無視されるなどして取り付く島がないのだ。そのような場合、そのアイデンティティを仮に「Aさん」と呼ぶことにするのは差支えがないと思う。Aさんと呼ぶことにしたら、それが例えば雪の結晶ができる際の最初の塵のような役割を果たし、一気に人格の精緻化が進むかといえば、そんなことは起きないのがふつうである。ある遁走の方はすぐ遠くに旅行に出てしまうアイデンティティをお持ちだったが、名前がなかったので、「旅行さん」という名前を仮に付けたが、彼は結局そのうち出なくなってしまった。そんなものである。
 同様に、私はいわゆるマッピングを詳細に行い、例えば実際にAさんという名前がついている人について、年齢、性別、性格、記憶などについて詳しく聞き出すような試みは、非治療的、とか禁忌、とかは考えていない。しかし治療には役立たないことも多い、ということだ。もしそれによりAさんのプロフィールが詳細になり、活動量を増すとしたら、おそらくほかのこれまで出ていた主役級のアイデンティティの出番が減ることになるだろう。人間の脳の容量は、同時にいくつものアイデンティティを活動させるほどには大きくないであろうからだ。もし同時に覚醒し、活動できるアイデンティティが34人であるとしたら(そして実際にその程度だと私は思うが)、特定のアイデンティティをことさら精緻化させることでそれが6人にも10人にも増えるということはないと私は考える。