2013年10月24日木曜日

エナクトメントについて考える(1)


エナクトメントとは何ぞや。別に論文の注文が来たわけではないが、少し考えをまとめておかなくてはならない別の事情がある。
最近あるところにこんなことを書いた気がする。精神分析学会関係だ。
「エナクトメント[行動に表れること]は精神分析状況において治療者ないし患者の意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す。エナクトメントの概念は現代における精神分析の中で最も重要な概念のひとつと言っていい。精神分析的な関係性においては、患者と治療者との間で、さまざまな非言語的なかかわりが生じ、エナクトされる。時には治療者の言語的な介入にも無意識的な内容が含まれ、エナクトメントとして扱われうる。このエナクトメントを治療関係において検討することで、それまで無意識レベルにとどまっていた内容が明らかにされ、治療が進展することが多い。エナクトメントは従来アクティングアウトとして理解されてきた行動を含むが、より微妙で非明示的なものをも含み、それを臨床的に有意義であり創造性を含むものとして概念化されたという経緯がある。
この短い文には、いくつかの要素が掲げられている。 
エナクトメントの面白さを一言でいえば、「人の行動(言葉も含めて)というオモテに、ウラは様々な形で出ていますよ」ということだ。人は普通オモテとウラを対比的に考える。ところがオモテにはウラが、そしてウラにはオモテが微妙に入り込んでくるものなのだ。しかし日常心理や精神療法の世界では、あたかも両者がきれいに分かれていて対比的な関係にあるかのように考えられる傾向にある。するとそこから生ずるさまざまな矛盾や問題点が、議論の格好の素材になる、というわけだ。
 普通精神療法では、患者の行動にさまざまな無意識的な意味が表される、と考える傾向にある。言葉にできないものを行動に移してしまう、という意味で「行動化」という概念が用いられるのだ。また患者の言葉には様々な無意識的な要素がその背後にあると考えるが、治療者のそれにも無意識が反映されているとはあまり考えない。治療者はちゃんと自分の無意識は心得ていますよ、という前提がある。
 しかしエナクトメントの概念は、患者の行動はおろか、治療者の言語的な介入にも、あるいは治療者の非明示的なふるまいにすら無意識の表現を読み込むことになる。するとこれまでの精神療法の常識では考えられない様々な問題が起きてくる。場合によっては患者が治療者の言語的な介入について、そのエナクトメントとしての性質を感じ取り、結果的にそれを「解釈」する、といった事態まで想定されてくる。患者
イコール無意識を明らかにされる側、治療者イコール患者の無意識をよりよく知る側、という関係が崩れてきてしまうのだ。

このエナクトメントの複雑で面白いことは、たとえばある一つの言動が、様々な状況が加味されることによりエナクトメントとしての度合いが微妙に変化するということである。あなたがある「A」という言動を発した場合、もしそれが考えていたことの文字通の表現であるならば、定義上それはエナクトメントではない。何もそれにより新たにあらわになってはいないからだ。しかしそれ以外だとことごとくエナクトメントとしての意味を持つ可能性が出てくる。
 たとえばあなたがそれを言ったそばから「あれ、思わずAって言ってしまった・・・・」となるなら、エナクトメントの可能性が大きい。Aを言ってしまった後、「まったくその気もないのに、どうしてそんなことをしまったのあろう?」という反応なら?それは単なる言い間違い間違いかもしれないし、そうなると常識的にはエナクトメントではないだろう。しかしフロイト的には、言い間違いも無意識の表現となる可能性があるから、エナクトメントということになる。その場合、それを聞いていた他者の反応によってもAがエナクトメントかどうかの判断が異なってくる。ある人はあなたのAという言動を聞いて、「やっぱりAと考えていたのね。そんなオーラが出ていたから」と言うだろう。しかし別の人なら、「あなたがAと考えるなんてありえないと思う」と言うかもしれない。前者の場合は、それがエナクトメントである可能性が濃厚であり、後者の場合であれば、単なる言い間違え、エナクトメントにあらず、ということになる。
 とすると「思わず言ってしまったという感覚」を得ることが、エナクトメントとしての証拠、とすらいえなくなってしまうのだ。