2013年6月30日日曜日

精神療法はどこに向かうのか 改訂版 (2)

昨日久しぶりに胃の内視鏡を受けてみて、明らかに以前受けたものより進化していると感じた。はじめにキシロカインゼリーを仰向けのまま口に含まさせる。喉の麻酔だ。「はい、三分間我慢してください。飲んじゃいけませんよ。」と軽くいわれるが、これが結構きつい。飲んでは毒だと思い、一生懸命嚥下反射をこらえる。やっと3分たったら、「はい、じゃ飲んでください」って、結局飲むんじゃないか!! しかも苦い! でもこれで咽頭から食道にかけて麻酔はバッチリだ。それからドルミカムの静注。合法的に●を●した気分。フワーッとしたイイ気持ちになり、それから後はスムーズ。いつの間にか内視鏡は胃の中へ。モニターでバッチリ自分の胃の中を見ていた。健忘は一切残さないが、吐き気その他の記憶は全然なし。そりゃ気持ちいいわけではないが、苦痛はなし。その後40分ほど仮眠させてもらっておしまい。これなら毎日やってもかまわない。そのあとは仕事ができた。


1.治療における倫理性の重要性
文化の発展が社会による不当な規制からの解放に沿うならば、それにしたがって社会におけるさまざまな仕組みが変革され、平等主義的なものへと変わっていく。その結果としてすべての人が平等な社会に到達するわけでは決してないのは、アメリカ社会を見れば明らかであろう。しかし少なくとも「どうして私だけこの権利が奪われているのだろうか?」という発想は誰もが常に頭に思い描くことになる。権利や機会の平等性はこうして徐々に保障される方向に向かう。
 思えばそうなるまでには人類にとっては長い長い道のりだったのだ。人間の歴史は個人の権利や主張がことごとく黙殺されてきた歴史である。大部分の人間は平等な権利という発想すら持てなかったのだ。そしてそこに厳然として存在していたのが、人間の間の「力の差power differential」ないしは「力の非対称性」である。それがこの数十年で大きく変わろうとしている。
いきなり大上段に構えた話だが、精神療法的な治療関係でも実はこれは同じことだ。治療者と患者、分析家と非分析家の間には、力の非対称性が厳然として存在してきた。一方では治療者側は多くの治療経験を持ち、多くの専門的な知識を有する。そして少なくとも個人的な悩みや病を表に出さない。他方患者側は悩みや病をさらけ出し、救いや示唆を求めて治療者のもとを訪れる。これまで多くの治療者たちは、その力の差がどのように治療関係に影響を及ぼしているかを真剣に考えることがなかった。逆転移の点検に注意を払うことをあれほど強調してきた分析家たちであっても事情は同じだった。今でも大部分の治療者はそうかもしれない。しかしそのままでは済ますことができない事態が生じつつあるのである。その結果としてクローズアップされてきたのが、治療関係における倫理性の問題である。
 治療における倫理性が重視される結果としてどのような精神療法が必要になるか? これについては私がかつてまとめたことがある本「精神療法・カウンセリングの30の心得」(みすず書房、2012)に述べたとおりである。最初の原則は「自分が患者の立場に立ったらどうするかを出発点にする」という原則から始めるということである。治療者はすべての治療原則の前にこれを前提とすべきと私は考える。これは「治療者は倫理的に行動せよ」という極めて当たり前でかつ漠然とした原則よりはより現実的なものである。
精神分析の世界では、治療技法についてのさまざまな理論の展開がある一方では、この倫理に関する議論もいわば別立てで進行してきた。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、いわゆるインフォームド・コンセントを取りあげることが出来よう。治療者は患者に治療内容を説明し、それにより得られるものとそれに伴うリスクとを説明し、他にどのような治療法があるのかを提示する必要がある。患者がそれらを理解したうえで精神分析を選び取ったときにはじめて治療契約が成立するのである。
 しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも 精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。
 現在米国の精神分析協会では、その倫理綱領を定めているが、その中には技法とのかかわりが重要になるものが少なくない。それを抜粋するならば以下のとおりである。
米国精神分析学会における倫理綱領の抜粋
ここで特に従来の「基本原則」に触れる可能性のある条項をいくつかピックアップして列挙してみる。
分析家としての能力
自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(以下略。)
平等性とインフォームド・コンセント
精神分析はインフォームド・コンセントに基づき、互いの同意のもとに行われなくてはならない。
立場を利用して、患者や生徒やスーパーバイジーを執拗に治療に誘ったり、現在や過去の患者に自分を推薦するよううながしてはならない。(以下略。)
正直であること
キャンディデート(候補生)は、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる。
分析の利点とそれによる負担について話さなくてはならない。
 嘘をついてはならない。(以下略。)
患者を利用してはならない
現在及び過去の患者、その両親や保護者、その他の家族とのあらゆる性的な関係は非倫理的であり、それは分析家からの誘いによるものもその逆も同じである。身体的な接触は通常は分析的な治療の有効な技法とは見なされない。
現在および過去の患者やその両親ないし保護者との結婚は許されない。(以下略。)
患者や治療者としての専門職を守ること
難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
病気になったら同僚や医者に相談しなくてはならない。
患者の側からスーパービジョンを受けることを請われた場合は、その要求を真摯に受け止めなくてはならない。(以下略。)
以上に示した精神分析学会の倫理綱領(抜粋)は、精神分析における技法にどのような影響を与えるのであろうか?一ついえるのは、これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。
 精神分析には「基本原則」としての匿名性、禁欲原則、受身性などがあげられる。倫理綱領の中でも特にこれらの「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。すなわちキャンディデートは、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる」という項目に従った場合、分析家は自分が修行中の身であり、ケースが上級の分析家により監督されていることを告げることになるであろう。このようなことは、従来の精神分析療法においては想定されなかったことであり、現在でもそのような方針は分析家の匿名性を犯すものとして、抵抗を示す分析家も少なくないであろう。
 同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。分析家が沈黙を守ってもっぱら患者の話を聞くという姿勢は、それが患者にとって有益となる場合も、そうでない場合もあろう。それは患者によっても、またその置かれた治療状況によっても異なる。そうである以上、中立性や受身性は、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、少し事情が異なる。なぜならこの原則は倫理原則にある意味では合致した原則と考えられるからである。フロイトの「治療は禁欲的に行われなくてはならない」というこの原則については、禁欲する主体が治療者か患者かという問題について曖昧さが残るが((小此木、その他編: 精神分析セミナーIII フロイトの治療技法論. 岩崎学術出版社,1983年)、通常はそれを治療者側のそれと患者側のそれとに分けて議論される(Renick, O.: Practical Psychoanalysis for Therapists and Patients. Other press, 2006.)。このうち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。また逆に「治療者は患者の願望を満たさすことには禁欲的でなくてはならない」とするのであれば、これは上述の意味で相対化されるべきものであろう。なぜなら患者の願望の中にはかなえられるべきものとそうでないものがあるであろうし、一律に患者の願望をかなえないという原則を設けることは、非倫理的との批判に甘んじなくてはならないであろうからだ。 


2013年6月29日土曜日

精神療法はどこに向かうのか 改訂版 (1)


今後力動的な精神療法がどのような方向に向かうかについての考察が本稿の目的である。力動的な精神療法には様々なものが含まれる可能性があるが、ここでは精神分析的精神療法を中心に論じることにする。
 筆者は精神分析家であり、精神分析的な考え方に親和性を持つが、同時に現代的な精神分析の流れにも興味を持つ。そして今後の力動的な精神療法がいくつかの要素の重要性を増す形で発展していくものと考えている。それらの要素とは以下の4つである。
 
1.治療における倫理性の重要性
2.治療における柔構造性ないしメタスキルの重要性
3.より関係論的な枠組みの重要性
4.これからの精神療法家とトリアージ機能の重要性

以下にこれらの要素について個別的に論じていきたい。

2013年6月28日金曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (7)


明後日の日曜日は、北山先生の日本語臨床研究会である。楽しい一日になりそうだ。場所は帝京大学。医師になりたての頃北区の精神病院でお世話になったが(研修医という意味で、である)、会場はその近くである。

最後に、転換性障害の今後の扱いについて述べたい。転換性障害がICD-10DSMシステムで異なる扱いを受けている以上、ここで論じておくことに意味があるだろう。今回のDSM-5でも結局は転換性障害は解離と一緒になることはなかった。しかし両者の関係性は多くの識者が一致して合意するであろう。
 Şarら(Guz, et al, 2004 のトルコでの研究によれば、38人の転換性障害の患者をSCID-DSDQ-20等のテストにより調べたところ、48%が解離性障害の診断を満たしたという。ただし不安障害や身体表現性障害にはより高い相関を示し、少なくとも転換性障害と解離性障害がオーバーラップした障害であるとはいえなかったという。同じく別のトルコの研究では、転換性障害のうち解離性障害の基準を満たしたのは30.5%であったという。
これらの研究が示していることは、解離性障害と転換性障害は同一の疾患の別の表現形態というよりは、同類の、しかし性質の異なる病理の表現であるということだ。これらの両方を含めて解離と呼ぶか、あるいは一方を解離、もう一方を転換性障害と呼び続けるべきかはさまざまな議論があろう。しかし最近の「構造論的解離」理論にみられるような分類、すなわち精神表現性解離と、身体表現性解離という分類が適切と考える指揮者も多い。すなわち心的なストレスが精神面での解離を生んだ場合と身体面で表現されたものに分けるという考え方である(野間、岡野訳、構造的解離: 慢性外傷の理解と治療 上巻 基本概念編 / オノ・ヴァンデアハート  星和書店、2011年。)

……………………………………………………………………………


以上DSM-5に見られる解離性障害の診断基準についての解説を加えた。解離性障害についての理解や臨床研究の進歩が、この様な診断基準の変更の背景にあるということを示せたと思う。本論文は解離性障害の研究の変遷について述べるのがその趣旨であったが、DSM-5関係の記述だけで紙数が尽きてしまった(ナンのことだ)のが残念である。

2013年6月27日木曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (6)


4) 「PTSDの解離タイプ」という概念
 この項目については、主として Ruth Lanius, et al.: The Dissociative Subtype of PTSD: Rationale, Clinical and Neurobiological Evidence, and Implications. Depression and Anxiety 00:1-8, 2012 に沿う形にする。)
 従来のDSM-IVにおいては、解離性の症状が扱われる精神疾患「解離性障害」の項目以外にもあった。それらはASD、BPD(第9項目)、身体表現性障害などであったが、従来よりPTSDに見られる諸症状も解離性のものとしてとらえるべきではないかという議論は多くあった。今回のDSM-5では一歩踏み込んでPTSDの下位分類として「解離タイプ」という診断が提示されているのでこれについても特別に言及したい。
 PTSDには二種類ある、という理解は最近のPTSD研究において特に生物学的な所見によりその正統性が認識されるにいたったという印象がある。ある研究によれば、トラウマを体験した人々にその記憶を語ってもらい、それを録音したものを聞かせてている間の脳をMRIでスキャンしたという。すると約70%の患者は心拍数の増加を見せたのに対して、残りの30%の患者は離人体験や非現実体験と共に、特に心拍数の増加を見せなかったという(Lanius RA, Bluhm R, Lanius U, et al. A review of neuroimaging studies in PTSD: heterogeneity of response to symptom provocation. J Psychiatr Res 2006;40(8):709–729.)。つまりおなじPTSDの診断が下っても、それがかなり両極端な生物学的な所見を示す二つのグループに分かれるという発見があったのである。
 そこでまずこの「解離タイプ」の定義であるが、DSM-5では基本的にはPTSDの診断基準を満たし、以下のA1, A2, あるいは両方の症状を継続あるいは頻発する形で経験するものとされている。
A1. 離人症:自身の心的経過や身体に対して距離を感じ、あたかも外から眺めているように感じる(夢の中にいるように感じる、自身や自身の身体を非現実的に感じる、時間がゆっくりすすんでいるように感じる、など)。
A2. 現実感喪失:周囲に対する非現実感(周囲の世界を、非現実的、夢の中のよう、遠くにあるみたい、歪んでいる、などと感じる)
 簡単に言えば、PTSDの症状を示し、かつ解離性障害のうちすでに 1)で見た「離人・現実感喪失障害 depersonalization/derealization disorder」を満たす障害ということになる。
 同論文によれば、PTSDのサブタイプとして解離タイプを考える根拠を4つほどあげられるという(ibid.)。第1には、ある研究でPTSDの患者を調査し、taxometric analysis (分類分析)を行ったところ、戦争からの帰還兵と平民に関して、離人感と非現実体験を特に症状として持つ人々のサブグループが抽出されたという事実。第2にはPTSDの認知行動療法において、解離タイプはそれ以外の患者と異なる反応を示すという所見。第3には解離タイプのPTSDの患者には、それ以外とは異なる情動コントロールのパターンが見られるという事実。そして第4には、このサブタイプを考案することで、疫学的、神経生物学的な研究、精神病理学、診断学についての様々な研究を加速させる効果があるということである。
 このうち第3の生物学的な所見については、そこから第一次解離と第二次解離という分類が生まれたという(van der Kolk, BA., van der Hart, O., Marmar, CR. (1996) Dissociation and information processing in posttraumatic stress disorder. In B. van der Kolk, AC. FcFarlane, & L. Weisaeth (Eds,) Traumatic stress (pp.303-327), New York, NY: Guilford Press)

 第一次解離とは、再外傷体験やフラッシュバックなどが生じ、感覚的な記憶内容の意識野への侵入が生じている状態である。その際に内側前頭皮質と前帯状回の活動の低下が生じる。これらの部位は感情の調節をつかさどることが知られている。そして同時に起きるのが辺縁系と扁桃体の活動昂進である。この前頭前野と扁桃体はシーソーのような関係があると見ていいであろう。前頭前野は扁桃体を抑える働きがあり、前者の活動が低下する場合には、扁桃体の抑制が効かず、野放し状態になる、という風にである。そして第二次解離はちょうど第一次解離と逆の事態が生じている。すなわち内側前頭皮質と前帯状回の活動の昂進と、扁桃体の活動低下が生じることになる。ちなみにこの脳科学的な所見とも関連した解離の理論は「皮質辺縁系抑制モデル corticolimbic inhibition model」 と呼ばれる。
 この第一次、第二次解離という分類で言えば、この第二次解離というのが解離タイプのPTSDに相当する「本来の」解離ということになる。一般的にいう解離はいわば感情がシャットダウンしている状態と言える。ある研究によれば、CADSS(Clinician-Administered Dissociative States Scale(Bremner, et al.,1998)という解離症状のスケールを用いて患者のうち高いスコアを示す人に恐怖刺激を与えると、腹側前頭皮質が高い活動を示したという。つまり恐ろしい話や刺激を与えられた場合、解離を用いる人々は、感情をつかさどる部分(扁桃体など)が自動的にをシャットダウンを起こし、それが臨床上は解離症状となると言うことだ。扁桃体とは、普段はある程度は活動していることで、感情を体験することが出来る。感情は人間が防衛反応を示すために必要不可欠なものであるが、それを欠いた状態が解離といえるのだ。天災に被災したり、暴行を受けた時に感情が欠けてしまう状態は、そのような場面で通常は活動をしなくてはならない扁桃体が働いていないことになる。(両側の扁桃体を取り除いた場合に起きる、一切の恐怖反応を示さなくなった状態(クリューバービュッシー症候群)のことを考えるとわかりやすいであろう。)

2013年6月26日水曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (5)


ちなみにDIDの基準に憑依を含み込んだり、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは次のような事情があるという(Spiegel, et al)。解離性障害という診断の特徴は、非常にDDNOS (ほかに特定されない解離性障害)が多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それが受け入れがたいという事情がある。解離の世界では一部の間に、DIDの診断には治療者が人格の交代を見届けることが必要であるとの了解事項があるのも確かである。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという考えである。ただし両者は決して排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。Colin Rossはある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、憑依された、という感覚を訴えたという(Ross CA. 2011. Possession experiences in dissociative identity disorder: a preliminary study. J. Trauma Dissociation 12:393400)。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な環境であるということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは、アメリカではある種の原理主義的な宗教の信者、ないしは南アジアの文化などであるという。そこでは憑依をしてくるものは「現実」のものとして体験されることになる。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依型のDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとして選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)であるという。
 ただしこの点に関して Spiegelは重要なことを述べている。憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実であるということではないということである(Dissociative Disorders in DSM-5, 2013)。それは非・憑依タイプに老いて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
ここで私自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。私のある患者はある悩みを抱えて相談した人に「神が憑いている」といわれたことからそれを実感するようになったという。別の方はDIDの発症が、あたかも体の後ろから誰かに侵入された、と感じたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、憑依の患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくそうであろう。そして従来は憑依されたと訴える人たちに対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。私もふとそのような訴えの人に、「この方は浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。

Spegel (ibid)によれば民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療者に似ていて、実際に患者さんの助けとなっているという。つまり異なる人格状態に対してその発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、多くの方々に悪化が見られるという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や入院、症状の悪化が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちのより正しい治療により、症状が改善すると言われる。

2013年6月25日火曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (4)



3) 解離性同一性障害の診断基準の変更

解離性同一性障害(以下DID) の診断基準にはいくつかの変更が加えられた。DSM-5のDIDの診断基準のAは次のような文で始まる。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TRにはこの憑依という表現は見られなかった。)さらにはAの最後には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)また診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)

以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は①人格の交代とともに、憑依体験 possession もその基準に含むこと。②人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいい、ということを明確にすること。③健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、となる。

 この憑依体験をDIDの基準に入れたことについては説明が必要であろう。これについてSpiegel は「病的憑依においては、異なるアイデンティティは、内的な人格状態によるものではなく、外的な、つまり霊 spirit、威力 power、神的存在 deity、他者 other person などによるものとされる。」と説明している。そして「病的な憑依は、DIDと同様に、相容れないアイデンティティが現れ、それは健忘障壁により主たる人格から分離されている。」とも説明している。ここで「病的憑依」と断っていることは、健忘障壁のない憑依は「病的では必ずしもない」という含意がある可能性がある。

ちなみに従来のDSM-IV-TRでも憑依についての記載がなかったわけではないが、それはDDNOSの下位の「解離性トランス障害(憑依トランス)Dissociative Trance Disorder (possession trance)」というカテゴリーの例として挙げられていた。それによると憑依トランスはおそらくアジアでは最もよくある解離性障害であるとされている。そしてそれらの例としてAmok (インドネシア), latah (マレーシア), pibloktoq (北極圏) などが挙げられてる(DSM-IV-TR)。これらがいわゆる文化結合症候群としても記載されてきたことは言うまでもない。

 じつは臨床上も「霊にとりつかれる」という形の体験はしばしば患者から聞かれる。それが解離と区別されるべきかの説明を求められた際に時々答えに窮することがあったが、今回DSM-5であっさりと、DIDを「別人格や憑依体験によるもの」と認められたことで、この点は明快になったわけである。ただしこの変更にはある種の政治的な意味合いも含まれているようである。というのも世界には解離現象が、他人格への交代としてより、外的な存在や威力が憑依された体験として理解され説明される地域が少なくないという。Spiegel らによれば、病的憑依の報告は世界の多くの国で報告されているという。それらは中国、インド、トルコ、イラン、シンガポール、プエルトリコ、ウガンダなどにわたる。このようにあげると何か発展途上国が多いという印象だが、米国やカナダでも、一部のDIDの患者はその症状を憑依として訴えるという。そこでDIDが憑依現象をも含むことと定義することで、より多くの文化に表れるDIDをカバーすることになるのだ。

この憑依としてのDIDに関して、いくつかの少し具体的なデータもある。トルコの資料では、35人のDIDの患者は、45.7%が jinn (一種の悪魔)の憑依、28.6%が死者の、22.9%が生きている誰かの、22.9%が何らかのパワーの憑依を訴えたという。(Şar, V, Yargic LI, Tutkun H. 1996. Structured interview data on 35 cases of dissociative identity disorder in Turkey. Am. J. Psychiatry 153:1329–33)

2013年6月24日月曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (3)

最近よく聞く「ツートップ」という表現。上位の二つという意味だろうが、変な英語(的表現)だ。敢えて英語で表現すると "top two" か? 

2) 解離性遁走の削除

解離性遁走はDSM-IVまでは独立した障害として掲げられていたが、DSM-5からは心因性健忘のひとつのサブタイプとして分類されることになった。またその遁走の表現としては、それまでの突然の予期しない、自宅ないし職場からの旅立ちsudden, unexpected travel away という表現から、「一見目的を持った旅立ちやあてのない放浪 apparently purposeful travel or bewildered wondering」という、より正確な表現にかわっている。またこれがサブタイプにいわば「格下げ」された理由としては、遁走の主症状が目的もなく旅をすることよりはむしろ健忘そのものであるということ、新しいアイデンティティを獲得すること、混乱したままでの遁走などは常に存在するとは限らないこと(Spiegel, Dissociative Disorders in DSM-5 Annual Review of Clinical Psychology, 2013, 299-326 、そしてDSM-5のテキスト本文によればこの解離性遁走そのものが、DID以外にはまれであることなどが挙げられている。ちなみに私の経験では、心因性遁走は、男性のクライエントに特に多く見られ、その一部がDIDと重複しているという印象を受ける。言うならば解離性遁走は男性に現れやすいDIDの表現形態ではないかと思うほどである。そのためにこの「格下げ」については多少納得がいかないということを付け加えておきたい。

2013年6月23日日曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (2)

昨日は江戸川区船堀というところで、日本家族研究・家族療法学会のシンポジウムに参加してきた。中村伸一先生、相田信男先生、渋沢田鶴子先生、渡辺俊之先生とご一緒した。楽しい体験であった。家族療法の先生方は皆温厚な方たちという印象がある。スカイツリーは割と近くのはずなのに、全く見えなかった。なぜだろう・・・・。


1離人・現実感喪失障害について 

まずは離人・現実感喪失障害 Depersonalization/derealization disorder についてである。そもそも離人・現実感喪失障害とは何か?自分の体(離人体験の場合)や世界(現実感喪失体験の場合)に対して、普段は感じないような距離が出来てしまったという奇妙な感覚である。従来のDSMではこれら二つを個別に扱っていたが、DSM-5ではこれを離人体験、非現実体験を個別に扱うことなく、同時に生じる一つの体験として扱うことになるというのだ。この離人・現実感喪失障害という障害単位を設けることでそれ以外の解離性障害との差別化がはかられることになるが、それは二点においてであるという。一つは、離人・現実感喪失障害では記憶やアイデンティティの解離ではなく、「感覚の解離」が主たる症状であること。もう一つはトラウマの体験がすく直前にあり、それへの反応として生じること、とある。そしてこれに関連して、基本的にはトラウマ体験に対する解離反応には3つのタイプがあるという説がある。①そのトラウマから、身を引き離すこと(離人・現実感喪失障害のことを指す)、②トラウマを忘れてしまうこと(解離性健忘を指す)、③現在の自分のアイデンティティから記憶を分けてしまうこと(DID,解離性のフラッシュバックを指す)。の三つである。そして離人・現実感喪失はその一つとして概念化されるというわけだである。
 この離人・現実感喪失に関しては、その生物学的特徴が得られている。それは a. 後頭皮質感覚連合野の反応性の変化、 b. 前頭前野の活動高進、 c. 大脳辺縁系の抑制、とされる(Simeon D, Guralnik O, Knutelska M, Yehuda R, Schmeidler J. 2003. Basal norepinephrine in depersonalization disorder. Psychiatry Res. 121:9397。ちなみにこれらの所見は、後に述べるPTSDの「解離サブタイプ」と基本的には重複する内容である。
 また離人・現実感喪失についてはHPA軸の異常も見られるという。すなわちHPA軸すなわち視床下部―下垂体-副腎皮質軸の反応は、HPAは過敏反応(高いこる地ぞーるレベルと、フィードバックによる抑制の低下)のパターンを示すということだ(Simeon D, Guralnik O, Schmeidler J, Sirof J, Knutelska M. 2001. The role of childhood interpersonal trauma in depersonalization disorder. Am. J. Psychiatry 158:102733, Simeon D, Knutelska M, Yehuda R, Putnam F, Schmeidler J, Smith LM. 2007. Hypothalamic-pituitaryadrenal axis function in dissociative disorders, post-traumatic stress disorder, and healthy volunteers. Biol. Psychiatry 61:96673) 。(参考までにうつ病やPTSDは逆に鈍化した反応パターンを示すとされる。)このような研究結果から分かる通り、離人・現実感喪失障害がクローズアップされた背景には、この大脳生理学的な所見がみられることが大きく働いているようである。

2013年6月22日土曜日

DSM-5における解離性障害 改訂版 (1)


DSM-5における解離性障害の位置づけが本章のテーマである。
1980年のDSM-IIIにおいて解離性障害はヒステリーの呼び名を離れて新たに認知されることとなった。しかしそれから30年以上を経ても、臨床家によってさえも十分に理解され受け入れられずにいるという印象を受ける。それはわが国だけでなく、欧米でもその事情は一緒である(Spiegel, 2010)。
解離性障害の位置づけや分類を考える上で大きな問題となるのが、それとトラウマの関連である。従来のDSMには記述的で、疫学的な原因を論じないという原則があったため、解離性障害とトラウマとの関係については、従来のDSMでは明確にはなされていなかったという問題がある。しかしDSM-5の作成段階 においては、「トラウマとストレッサー関連障害Trauma- and Stressor-Related Disorders」という大きなくくりを作り、そこに心的外傷後ストレス障害(以下PTSD)、 急性ストレス障害(以下ASD,適応障害だけでなく解離性障害を含むことが考慮されていた(Spiegel, 2010)。最終的にはこれはトラウマ関連障害の中には組み込まれず、解離性障害として独立して論じられることになった。ただしそれは「トラウマとストレッサー関連障害」の直後に配置され、その概念的な近さがそれにより表現される形となっている。
Spiegel, D: Editorial: Dissociation in the DSM-5 Journal of Trauma and Dissociation 11-261-265, 2010
ちなみに「トラウマとストレッサー関連障害」については、おそらくこのカテゴリー自体が、本来のDSMの、記述的で無病因論的な精神からの方向転換を意味しているといえるであろう。ではどうして解離性障害が「トラウマとストレッサー関連障害」にはいらなかったかについては、やはり解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関連していたといえる。ただしこの問題は、最終的にはDSM-5の「トラウマとストレッサー関連障害」にPTSDの「解離タイプ」を組み込むという方針により、一種の妥協策が取られたという見方もできよう。
ここでDSM-5で解離性障害についてどのような診断基準上の変化があったかについてその大枠を示すならば、大体以下のようにまとめることが出来る。
1)いわゆる「非現実体験」が離人体験からわけられず、すなわちこれまでの「離人性障害 depersonalization disorder」の代わりに、「離人・現実感喪失障害depersonalization/derealization disorder」としてまとまった。
2)「解離性遁走 dissociative fugue」が、これまでのような独立した診断ではなく、「解離性健忘 dissociative amnesia」の下位分類として位置付けられた。
3)「解離性同一性障害」の診断基準が少し変更になった。特に人格の交代のみならず、人格の憑依 possession もそこに記載されることになった。また人格の交代が、「自分自身により、または他人の観察により報告されること」、となった。さらに記憶のギャップは、単に外傷的なことだけでなく、日常的なことにも起きることを認めた。
以上はいずれもあまり本質部分にかかわった変更とは言えず、余り従来と変わらない、ということは言えるであろう。ただしここに解離性障害のセクション以外での変化も付け加えられるべきであろう。それが
4PTSDの下位分類として挙げられたPTSD解離タイプの存在である。

以下にこれらの点について簡単に概説する。

2013年6月21日金曜日

DSM-5とボーダーライン 改訂版(6)


最後に―今後のBPDについて思うこと

以上BPD についてDSM-5との関連でもっぱら論じたが、本稿を終えるにあたって私自身の一臨床家としての体験を書いておきたい。私は個人的にはDSM-5でハイブリッドモデルがとりあえずは先送りされたことについては安堵している。多忙な臨床家にとって、あの煩雑なモデルを使いこなす可能性は高くはないし、またその意味も少ないものと考える。臨床家は大部分がカテゴリカルな思考、すなわちABか、といった判断に基づいてで動いているという点は否めない。彼らは短時間で患者について「この人はAの傾向は中等度であり、Bの傾向はやや少なめだな」という風にはなかなか考えられないのだ。10のパーソナリティ障害のカテゴリーは、臨床家にとってどれも思い浮かべやすいものであり、それがいきなり半分に減らされることには戸惑いを生むだろう。たとえばスキゾイドパーソナリティ障害という診断が用いられることが少ないので廃止になる可能性があったという報告を本稿では示した。しかし実際に出会うことは少なくてもそのような診断に該当する人を思い浮かべることはできるし、重要なパーソナリティのプロトタイプの一つとして残してほしいと考える向きも多いであろう。今回のDSM-5における最後のどんでん返しは、結局臨床におけるPDと学問としてのパーソナリティ論の間の深い溝を露呈させたということができるのではないか。
またBPDに限っていえば、この概念が今後DSMICDから姿を変えることは決してないであろう。BPDによる実証的な疫学調査は広く行われ、またその生物学的な特徴も明らかにされつつある。またほかの精神疾患との関連(特に双極性障害など)の研究が進められているからだ。ただしBPDが臨床上さまざまな形をとりうることもまた間違えがないことのように思われる。そのコアの部分に属する人々の病理が長く変わらないという事実の一方では、BPDを想定しなかった多くの患者に、時々一時的、挿話的episodicにその病理が露呈されるのを見ることがしばしばある。それがBPDの診断が一定期間持続することが少ない原因になっているのではないかとも考える。その意味で筆者はBPDにみられる行動パターンを人がストレス化で示す一定の反応パターンとしてとらえること(いわゆる「ボーダーライン反応」)とする考えを提唱しているのでご参照いただきたい。(岡野憲一郎「ボーダーライン反応で仕事を失う」、『こころの臨床 à la carte』第25巻、20063月)
おしまい