2013年4月30日火曜日

DSM-5とボーダーライン(2)



診断基準の話)
そこでまずは診断の話。私はDSMBPDの診断基準はよくできていると思う。「人から見捨てられそうになると、それを回避しようと死にもの狂いの努力をする」、「慢性的な空虚感」「他者に対する理想化と脱価値化を繰り返す」…・これら合計7つの精選された診断基準に、8つ目の「アイデンティティの障害」を加えた8つが、1980年のDSM-IIIBPDの基準となったのだ。それ以来現在までの変更としては、1994年のDSM-IVにおける第9番目の基準「精神病様の体験」が付け加わっただけだ。これらのそれぞれが信頼性と妥当性を検証され、その存在理由が正当化されたという。9番目の項目もそれが組み込まれるうえでは厳正な議論や検証があったとされる。ここら辺、何か論文口調だな。
するとDSM-5BPDの診断基準は、結局これまでに蓄積された研究を生かしてこれらの9つの基準の細かな表現を補正したものであるということらしい。たとえば
「人から見捨てられそうになると…」→「人から見捨てられたり拒絶されそうになると…」というマイナーチェンジなどはその例だ。
「アイデンティティの障害」は詳しくは「顕著で持続的な不安定さを示す自己イメージあるいは自己感」(岡野訳)ということだが、これはBPDの研究にきわめて大きな影響を及ぼしたカンバーグの概念を組み込んだものであるという。そこに今回「悪い自己、という感覚を含む」という文言が付け加えられた。ここら辺の事情はいろいろあるのだろうが、よくわからない。
よくよく見ると第9番目の「精神病様の体験」はかなり解離的な表現にシフトしている。「解離的な心の状態、すなわち自己や世界が切り離されて、リアルに感じられないことと、ストレスに関連した被害的な思考」という風に変わっているではないか。これはむしろ解離の研究者にとっても大きなニュースといえよう。
DSM-5BPDの診断基準として提案されているものの一つの特徴は、この9つの基準を基本的には守ったうえで、それを4つのセクターに分けていることだ。123をまとめて「対人関係における過敏性」、45をまとめて「感情的・情動的な調整障害」、67を合わせて「行動の統制の障害」、そして89を合わせて「自己の障害」とする。

2013年4月29日月曜日

DSM-5とボーダーライン(1)

昨日は母親のお見舞いに千葉まで往復したが、アクラインでものすごい渋滞に巻き込まれた。朝11時に出て対岸についたのは3時過ぎ。帰りも同様。今でも目をつぶると、延々と続く車の列が思い出される。GW中の車の移動はNGである。
さて今日から新しいテーマ。

本年522日に、長年多くの識者が検討を重ねてきたDSM-5 がとうとう発刊された。(ってまだじゃん!) このDSMの最新の改訂版は、20に及ぶチャプターの並び方が障害どうしの関連性を反映している点、またDSM-III以来の多軸診断を廃止した点など、さすがにDSM-IVから19年を経た議論を反映しているだけあり、大幅な変更が随所にみられる。そもそもDSM-Vではなく、DSM-5と、アラビア数字による改訂番号の表記が画期的である。私は個人的にはこちらの方が好きだ。ただしインターネットエクスプローラみたいに、毎年DSM-5.2, DSM-5.32 などと改訂されては困るが。
ところでこのDSM-5に境界パーソナリティ障害(以下BPD)の名は健在である。さすが、BPD!! DSM-IIIに収められた1980年以来、BPDはわが国でも広く臨床家や一般の人々の間でも知られ、きわめて有用な疾患概念となって臨床の場に定着している感がある。その概念の定義や臨床的な応用に関しては、多くの議論が錯綜しているという感を免れないが、それでもDSMにおけるBPDの診断基準は、30年前に提唱されてから、大きく変更を加えられないできた。しかし今回DSM-5において大きな変化がもたらされようとしている。そしてその診断基準は文章の量にして従来の倍にもなろうとしている。もう覚えきれない! そこには様々な最近の研究の成果が関与していると言っていいであろう。
これまでのBPDの批判の一つは、それがカテゴリー的すぎるということ、かなり多くのPDと重複することや、polythetic 多形質的でそれがかなり多様な病態を含みこむということであった。今回のDSM-5における大幅な変更は、そのような批判に対する回答という気もする。
カテゴリー的であるというニュアンスはおわかりだろう。9つの基準のうち5つを満たせばBPDという診断の仕方が、AさんはBPDか、BPDではないか、というニュアンスを生み、またBPDならほかの診断(自己愛、とか演技性とか)ではない、という印象も伴う。パーソナリティ障害(以下PD)を持つ人は、10あるパーソナリティ障害のどれか一つに当てはまる、というニュアンスが、カテゴリー的だ、というわけだ。でも実際にはPDの人はいくつものPDにまたがった特徴を持っていて、10のうちどれか一つ、というわけにはいかない。(ついでに言えば、DSM自体も、PDを二つ以上満たしてはいけない、とは断ってはいない。その場合は混合型Mixed Typeと分類されるわけだ。でも使う側は何となく、10のうちのどれか一つ、という風に考えがちなのだ。)

2013年4月28日日曜日

DSM-5と解離性障害(25)


 ということで25日間にわたるDSM-5と解離の考察をひとまず中断、ないし終了することにする。(終わり方が突然すぎる、という声あり。)あとは原稿にまとめるだけだ(ナンのことだ)。ところでここでもう一つ問題が起きてしまった。DSM-5とボーダーラインについてまとめる必要が出てきた。これも夏前にまとめないと、人に迷惑がかかる。実はあとまとめないと人に迷惑がかかるのが、「精神分析と森田療法」についてである。
それにしても議員の靖国参拝について思うのだが、一層この件についてはノーコメントにしてしまえばどうだろう?靖国参拝については国内の問題なのだから、参拝したかどうかの事実も含めて公表しない。諸外国(といっても中国と韓国、北朝鮮は問題外)の反応については、聞き流す。安倍さんのこのところの反応は少し感情が入っていて、あれでは反発を受けるのは必至である。靖国参拝も領土問題も、正攻法では決してうまくいかない気がする。こちらがまともなコメントを出しても、向こうからは耳を疑うような反応が返ってくるだけだからだ。ともかくも、靖国神社には、秘密の通用門を作る。参拝をする人は人から知られずにすればいい。したかしなかったかについてはノーコメント。

2013年4月27日土曜日

DSM-5と解離性障害(24)

GWの始まり。2年前は神さんと被災地をまわったことを思い出す。

 ブログの解離編はもういよいよ大詰めである。もう24日も続けているのだ。最後はこのVDHさんの論文の討論部分 discussion を紹介することで締めたい。
 私の印象では、この論文は解離の病理について最も深く考えを至らせ、また最も精力的にその概念の重要性を主張する人々の代表格であるVDHさんの主張を端的に示している。旗幟鮮明でわかりやすい、ということだ。私は基本的には全面的に彼の主張に賛成であるが、これは一種の「汎解離理論」にもつながりかねない為に、一般の臨床家の支持を得られるのは難しいとも考えている。
 VDH先生の主張は、簡単に言えば、「PTSDとは結局は解離の病理である。『解離タイプ』のPTSDというのはその意味ではその事実を却って曖昧にする」ということになる。「ゼロ増五減」は不十分であるから、自民党案には反対であるという民主党の主張と似ているな。いや、関係ないか?
 ではどうしてフラッシュバックに見られるような侵入体験とか過覚醒症状などが解離性の症状と考えられない傾向にあるのか?それはトラウマに関連した解離は、第一義的に防衛とみなされるからではないか、という仮説をVDHさんは論じている。この主張、私はいまいちわからないが、VDHさんはとにかくそうおっしゃるのだ。そのうえで彼が言うには、「しかし解離は何度も言うように、統合の失敗の結果として自動的に生じてくるものなのだ。」そして「防衛としての解離はそれが成功している部分と失敗している部分の両方を含む」という。それはそうだろう。例えば解離性の健忘とは、一定の記憶から遠ざかることで日常生活をやり過ごすことが出来るという部分と、記憶がないことによる不便さの両方を有するからだ。ただし精神分析の立場から言えば、防衛とはことごとく「半ば失敗した適応」であることも確かであるが。
 さらにVDHさんはこう主張する。「そもそも『解離タイプ』のPTSDとは、Complex PTSD(複合型PTSD)の事だ、という。あー、そうキタか。VDHさんもDSM-III以来亡霊のように出ては消えているCPTSDの概念の支持者だったのである。
 解離性障害の論者たちは一貫して、広い意味でのトラウマ概念に貫かれた疾病概念を求めているという気がする。DSM-5で「ストレス、トラウマ関連障害」という大きなくくりが出来ることは素晴らしいが、その中に解離性障害が入らないことについての不満を持ち続けている訳である。
 ただし『解離タイプ』のPTSDの分類が重要なのは、それが従来の暴露型の治療以外の治療方針を要請するからだともいう。そこで彼らが提唱するのが、段階ごとの治療phase-oriented treatment というわけだが、これは「構造的解離理論」(星和書店)にその治療の骨子が描かれている。

2013年4月26日金曜日

DSM-5と解離性障害(23)


 もう少しお付き合いいただこう。VDHさんはこう言うのだ。(口調は戻す)
だいたいやねえ、(ちがう、ちがう)DSM-IVの解離の定義自体には、もっとおかしい点がある。たとえば記憶が解離する、という言い方。でも「どこに」解離するのだろうか?記憶がフラフラ空中に浮遊しているわけはないだろう。結局何かの人格についたまま、その人格が解離しているということになる。つまりこういうことだ。Aという記憶が解離する、とはAという記憶を担った人格が解離していることになる。Bという身体感覚が失われたということは、Bを備えている別の人格を想定するという風に。これは大事なてんである。ということで構造的解理論は、解離とは人格がサブシステムに分かれることをさす。それぞれのサブシステムが自立性を備え、安定性を保っているのである。それらは平行して、あるいは順次活動することになる。
ここからVDHの十八番である構造解離理論に入っていくが、この文脈でこの一見難解な理論を説明されると少し理解が進む。彼は、PTSDを第一次解離に含める。第一次解離とは、人格がANP(普通っぽい人格)EP(激しい感情を持った人格)に分かれた状態だ。つまりトラウマを負った人は、そこですでに人格が解離していると理解する。フラッシュバックを体験している人は、トラウマを体験した人格に戻っていると考える。フラッシュバックとはすでに人格の解離の表現である・・・・。わたしは最近この考え方に近くなっている。これは逆に考えれば、人格の交代も一種のフラッシュバックであり、その複合的な形態である、と捉えることにもなるのだが。
さてこの観点からVDH先生は、DSM-5の「解離タイプのPTSD」という概念について、バッサバッサと切っていく。
彼は言う。狭義の解離概念、つまり構造解離理論によれば、PTSDのクラスターB症状、すなわちフラッシュバックなどの侵入的な体験は、解離なのだ。解離の陽性症状というわけである。ここからさらに先生のぼやきが始まる。だいたいDSMの記述は一貫していない。PTSDの症状の記述で、あるものについては解離性と明記し、あるものはしない。さらにはPTSDの弟分ともいえるASD(急性ストレス障害)については、同じ症状でも「解離性」と表現されている。ASDの概念は、解離陣営が強く推してDSMに組み込まれたという経緯があるからだ。そして結局は言うのだ。非・解離タイプのPTSDも、解離性ではないというわけではない。そりゃそうだな。

2013年4月25日木曜日

DSM-5と解離性障害(22)

今日は気持ちのいい天気である。4月に入ってから授業も始まり、何かと忙しい。なんとなく夏休み(つまり前期の授業の終わり)が待ち遠しい。教員になってからまた夏が楽しみになった。と云って仕事が休みになるわけではないが。


VDH先生の論文は、さすがに根っからの解離屋さんだけあって、色々本音が聞ける。ちょっと大阪弁風に書いてみよう。

だいたいDSMには三つの問題があるんや。それをDSM-5でも繰り返そうとしておる。一つ目は、解離という概念自体の捉え方があいまいでいいかげんなのや。二つ目はPTSDと解離性障害を別物として扱っている点、三つ目は身体症状を精神症状も別物として扱っているという問題やな。そもそも1968年のDSM-IIがいかんかったんや。まあずいぶん昔の話やから、かなりええ加減な分類だったんやけど、そもそもそこに登場した「ヒステリー神経症hysterical neurosis」という概念が問題だったんや。だいたいヒステリーちゅう言葉を使ってるのも気に食わんのやが、まあそれはええわ。それを「解離タイプ」と「転換タイプ」に分けた、ちゅうわけやが、あれがまちがいや。だいたいやね、そうやって分けるということは、解離と転換は別々のもの、ちゅうこっちゃろ? 体と心の分離や。デカルトの犯した過ちや。それいらい、DSMはその伝統を受け継いでここまで来たんや。そしてDSM-5になっても、性懲りもなく体と心を分ける伝統を保っとる。そやさかい、わしは他の二人の仲間と組んで、構造性解離理論ちゅうのを作ったんや。我ながら結構苦労したんやで。ニューエンフイスはんは特に精神表現性解離、身体表現性という分け方を提唱しはったんやが、上手いこというたな。さすがイケ面のエラートや(注:ニューエンフイス先生のファーストネーム)。
 もうちょっと構造的解離理論について説明するで。コリャーごっつい理論やで。何しろトラウマちゅうもんを幅広―くとらえてそれによって心に起きた問題全体をひっくるめて解離の病理としたんや。大胆やろ? そしてその最もシンプルなものをPTSD、もっとも複雑なものをDIDとして、そこに連続体を考えたんや。スペクトラム、ちゅうわけやな。
 だいたいやな、うちらはDSM-IVの解離の定義自体がおかしいおもうとるねん。「通常統合されているはずの意識、記憶、アイデンティティ、知覚が障害を受けている」と書いとるやろ。身体運動や感覚はどうなるねん。それらも入れにゃあ、あかんがな。

実は私は大阪弁を話せないので、以上は「偽りの自己」モードで書いている。おかしな言い回しもきっとしているだろう。

2013年4月24日水曜日

DSM-5と解離性障害(21)




解離の話、もうちょっと続くのでご勘弁を。ヴァン・デア・ハート(以下、VDH)先生が個人的に送ってくれた彼の論文を読んでみようと思う。というのも彼は生粋の「解離屋」で、この論文もかなり熱がこもっているからだ。Dissociation and PTSD. Is there a Nondissociative type of PTSD?: A Perspective from the theory of (structural) Dissociation of the Personalilty. どこに載る論文かは不明だ。
彼がどこかに投稿するつもりで書いたらしい。とすると詳しい内容に触れることはできない。しかしこの題からわかることは、「じゃ、PTSDには非解離タイプというのものがあるとでも言うの?(結局PTSDの症状って、広い意味での解離じゃないですか!)」という論調だということである。解離屋の面目躍如たるタイトルである。(彼は日本語を読まないから、結構好きにかける。)
Abstruct に見られる議論は、以下の通りだ。「構造的解離理論の立場によると、解離症状には、陽性のものと陰性のものがある。陽性症状とはフラッシュバックのことで、陰性症状は鈍磨反応である。だからPTSDの非・解離タイプといっても結局解離なのだ。この分類は問題が大きいのだ。」
VDH先生によれば、解離タイプのPTSDという分類は、悩ましい問題(blessing and a curse)であるという。私もそう思った。PTSDにサブタイプが存在するという議論は、PTSDサイドの人たちにとっては新たな話題の提供となるわけだが、解離とは何か、という概念上の問題をも浮き彫りにすることになった。まさにVDH先生のおっしゃるとおり、「じゃ、(非・解離タイプのPTSDに特徴的な)フラッシュバックは、解離症状じゃないんですか?」ということになるからだ。これに対するPTSD型の説得力ある回答はおそらく得にくい。これではPTSDが解離屋さんによって食われてしまう?ちなみに同様の問題は、転換性障害にもいえるのはお分かりだろう。解離には精神症状も身体症状もある、となると転換性障害は解離性障害に入ってしまう。身体化障害も解離に食われてしまう?
従来PTSDを扱う専門家たちは、その症状を「解離性」のものと表現することを避けてきた。実はこの恐れがあったからである。ところが彼らがある意味では率先してPTSDを疑われる患者さんたちに解離尺度を用いる必要に迫られることになる。なぜなら彼らは治療の選択肢としても重要な解離タイプと非・解離タイプの判別を余儀なくされているからだ。
ちなみにこのPTSDと解離との悩ましい関係については、3つの解決?方法があるという。Salzman Koopman (2009) によればそれらは
1        解離とPTSDは、一つの現象の別々の側面である。だからPTSDを解離性障害の一つとして分類してしまう。
2        PTSDには解離型のサブタイプが存在するのだ。← DSM-5はこれを採用することになる。
3        PTSDと解離は別物である。
もちろんVDH先生は1の支持者である。私も、なんとなく・・・・・・。

2013年4月23日火曜日

DSM-5と解離性障害(20)


このシリーズ、もう20日もやっているよ。いい加減しつこいな。

この長い論文ももう最後まで来た。このブログのおかげである。「結論」の部分は大事だから少し丁寧に紹介しよう。(といいながら、論文の最初に使おうとしている。ナンのことだ?)
今回のDSM-5に向けての解離性障害の改訂の意味は3つあった。フン、フン。1.いわゆるDDNOSを減らす。そりゃそうだ。物事を分類して、「その他」が一番多い、というのは分類の方法に問題がある可能性がある。2.DSM-IV以降の研究の成果を反映する。3.それぞれの患者の違いにあった治療手段を検討できるようにする。どれももっともな話だ。そしてDSM-5におけるDIDの基準の変化、そしてDP/DR障害の導入は主としてそれに向けられたものだという。
DIDの基準の変化とは、例の憑依体験への言及、そして人格の交代は自己報告でもOKという付加である。DIDという診断はそれが治療者により与えられるのには時間がかかる。それをなるべく早く下されるようにし、それだけ早く治療を始めよう、ということだ。
さらにPTSD解離タイプ、という分類の成立も大きいだろう。そして大切なこと。PTSDなら誰でも暴露療法が役に立つとは思うべきではないこと。なぜなら「解離は扁桃体を基盤とする学習プロセスを阻害する」からだ。ここのところ、大切だから原文も書いちゃおう。Because dissociation interferes with amygdala-based learning process. それよりはSTAIRNST and cognitive reprocessingが必要であろう、という。(何じゃこれ、聞いたことないぞ。)
まとめると、文化的な、そして神経生物学的な研究の成果が解離性障害の分類をよりよいものとするための二つの機動力である、としている。そして解離性障害の生物学的な所見は、後部感覚連合野の異常な活動、前頭皮質の活性化、そして辺縁系の活動低下があげられる、とする。
感想:大体わかる。なるほどと思う。DIDの基準の変更が、NOSを減らすか?これは疑わしいと思う。DIDの診断がつかないその一番の理由は、治療者たちが慎重だからだ。私だって、そしておそらく患者さんだって「多重人格」が受ける様々な誤解を避けたい。NOSはその意味でちょうど便利な診断なのだ。DIDの過少診断はOKだが、過剰診断をしたら「やはりあの治療者はおかしい」ということになりかねない。NOSは、私は多重人格の診断には慎重を期していますよ、というアピールでもある。そしてこれはおそらく日本だけの事情ではないはずだ。また「DIDの人格交代は自己申告でもいい」もこの文脈から危うい面を持つような気がする。TAIRNSTについては勉強しなきゃ。解離で「後部感覚連合野の異常な活動」が見られるというのは、かなり昔からいわれていたことのような気もする。解離性の幻覚や知覚異常が起きる期所を考えれば当然のことだろう。
それと解離タイプのPTSDには暴露療法は不向きだという説、すごくためになった。

2013年4月22日月曜日

DSM-5と解離性障害(19)



 転換性障害は、とにかく一筋縄ではいかない。患者さんは突然奇妙な、あるいは激しい体の動きや手足の麻痺などの症状を訴える。直接的な原因は見つからないし、何かショックな出来事があったかといえば、必ずそういうわけでもない。症状の出方も気まぐれである。ヒステリーは人類の歴史の中でこれだけ長く私たちを悩ませるだけの理由があったのだ。いまだにDSMICDではその扱われ方が異なっている。DSMでは身体化障害(体に症状が出る精神障害)のひとつとして、ICDでは解離の一種として捉えられるという違いだ。DSMのこの方針はDSM-5になってもあまり変わらない。
 そこでこの論文では、この転換性障害についてもう少し詳しく検討しましょう、ということで進んでいく。何日か前にも出たトルコ出身のDr. Şarの研究では、転換性障害の患者さん38名を調べたところ、48%は解離性障害の診断を満たしたという。また幼児期の虐待とネグレクトの率も高かった。しかしひとつ悩ましいのは、解離性障害以上に併存率の高い精神障害があったということだ。それは不安障害 (78.8) 身体表現性障害 (76.3%)、感情障害 (71.1%) ということである。このことから転換性障害と解離性障害は必ずしも同一の、あるいは重ね合わせることができるような関係ではないと述べられている。
この後論文ではいくつかの研究が紹介されているが、結局転換性障害と解離性障害の関係性については決着がつかず、両者を同一のカテゴリーに入れるだけの十分な根拠は示せないという結論に至っている。
転換性障害と解離性障害の関連を調べるうえで一つのネックになっているのが、解離傾向の尺度が問うているのは主として精神症状であるということだ。だから転換性障害の人にDESを施してもさほど高くはないということになる。だから身体症状をより含む解離尺度を用いれば、その値は高くなる・・・・。なんだか当たり前の話だ。結局解離性障害と転換性障害の関係は、解離をどのように定義するかによっていくらでも異なってくるということだ。なんだか当たり前の話だが。
もう少し言い方を変えてみる。そもそも解離の定義とは「さまざまな心身の機能が統合を失った状態」である。DSMでもICDでもそうだ。ここまではいい。そして記憶とかアイデンティティなどの精神機能が統合から外れると、典型的な解離性障害となる。また知覚や運動能力などの身体機能が統合から外れたら、これが転換性障害と呼ばれる。
この「さまざまな心身の機能が統合を失った状態」という解離の定義は、かなり広いものであるが、これを用いる限りは、転換性障害も当然解離性障害に含まれる。ところが、「精神機能が統合から外れる場合と、身体機能が外れる場合は、ちょっと性質が違うんだよ。両方は別の名前で区別をした方がいいんじゃない?」という見方をすると、この両者は分かれていく。つまり(狭義の)解離性障害と、転換障害とに分かれる。だから解離を狭義にとるか、広義にとるかの立場の違いがある限り、この種の混乱は避けられないということだ。その場合無難な方針は、とりあえず別物として、でも近い場所に並列させる、という今回のDSM-5のやり方なのだろう。
 
ところでインターネットで検索をしているうちに、便利なサイトを見つけた。http://dxrevisionwatch.com/tag/dsm-5-draft/ このサイトはDSM-5で何が変わる代るかをワッチするというサイトで、ここにアメリカ精神医学会の今年発行になったDSM-5の「table of contents索引のようなもの」があった。これで決定だろう。そこに挙げられた、「解離性障害」と、転換性障害を含む「身体症状と関連障害」の部分をここに提示しておく。

DSM-5 table of contents (APA,2013
Dissociative Disorders
Dissociative Identity Disorder
Dissociative Amnesia
Depersonalization/Derealization Disorder
Other Specified Dissociative Disorder
Unspecified Dissociative Disorder

Somatic Symptom and Related Disorders
Somatic Symptom Disorder
Illness Anxiety Disorder
Conversion Disorder (Functional Neurological Symptom Disorder)
Psychological Factors Affecting Other Medical Conditions
Factitious Disorder
Other Specified Somatic Symptom and Related Disorder
Unspecified Somatic Symptom and Related Disorder


2013年4月21日日曜日

DSM-5と解離性障害(18)



 さてこの論文Dissociative Disorders in DSM-5 Annual Review of Clinical Psychology, 2013, 299-326の次の記述は、「PTSD解離タイプ」だが、これについてはそれをトピックとして扱った論文を既に一つ読んだので省略である。次は転換性障害 conversion disorder と身体化障害somatization disorder についてである。

解離を扱う精神医学でよく出てくる単語が、”pseudoneurological” というものだ。これは「偽神経学的」と訳されるが、要するに神経内科的な障害を思わせる(けれど実際はそうではない)症状、という意味だ。目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、手が麻痺する、癲癇のような発作を起こす、などの症状である。転換性障害とは、この「偽神経学的」な症状を特徴とし、そのためにしばしば神経内科の病棟には解離性障害、癲癇性障害の患者さんが誤って入院していたりする。実は従来ヒステリーと呼ばれていたものの主たるものが、この転換症状であった。一見「本当の」(脳や神経系の異常による)病気のように見えて、実は精神科的な症状(すなわち神経学的な所見を欠いていて、それ以外に考えられないもの)を呈する人たちが、精神医学者を長年悩ませていたという歴史がある。
最近民放で、ニューヨーク州のリロイというところで女子高校生の間に広がった不思議なチック様の症状が報道されたが、てんかん発作を思わせるような酷い痙攣発作の原因がわからず、最終的には転換性障害であろうということになった。この例は、患者本人が絶対に「これは何かの身体疾患だ」と確信し、自分で症状をビデオにとってネットに流して「誰か原因を究明して欲しい」と訴えたほどである。私もその激しい症状をテレビで見て、転換症状とはとても考えられないと思ったが、実はシャルコーが報告した「ヒステリー大発作」の所見はおそらくこれに近かったのであろうと考える。
この例はともかく、この転換性障害はICDでは解離性障害と一緒に分類されているが、DSM-5では依然として両者は合体しないらしい。しかし多くの点で類似している。特に幼少時に性的、身体的な外傷を負っていることがしばしば確かめられているというのだ。また患者は比較的高い催眠傾向を有するという。解離の論者からすれば、この転換性障害を解離性障害と区別することがナンセンスであり、解離のうち身体症状を主症状とするものが転換性障害、と考えるのが常識である。しかしそこまで決断を下さないというのが、DSM-5の方針といっていいだろう。つまり何らかの説明できない神経学的な問題が転換性障害に隠されているとみて慎重になっているというわけだ。論文にはこうある。「すべての研究者が、転換性障害と解離性障害に深い関連性を見出しているわけではない。もう一つの見方は転換症状を解離ではなく、医学的には説明できない身体症状に不安(医学的な問題への過剰な関心)が重なった状態とみなす立場である。」

2013年4月20日土曜日

DSM-5と解離性障害(17)

今日は一転して冬のような寒さである。真冬よりはぜんぜんましなのに、この程度の寒さを託ってしまう。人間はわがままなものだ。

さて、DP/DRの続きである。このカテゴリーを設けることは他の解離性障害との差別化をはかることになるが、それは二点においてであるという。一つは、DP/DRでは記憶やアイデンティティの解離ではなく、「感覚の解離」が主たる症状であること。もう一つはトラウマの体験がすく直前にあり、それへの反応として生じること、とある。(これだけを読むと慢性的な離人症は、あまり含まれないのかしら?ということになる。DSM-5のDP/DRの概念の正体はまだ私自身つかめていない。)そしてこれに関連して、基本的にはトラウマ体験に対する解離反応には3つあると言っている。えっ、それ聞いたことない・・・・。割と新しい議論かも知れない。
 ① そのトラウマから、身を引き離す(DP/DRのこと)、②トラウマを忘れてしまうこと(解離性健忘)、③現在の自分のアイデンティティから記憶を分けてしまうこと(DID,解離性のフラッシュバック)。そしてDP/DRはその一つとして概念化されるというわけだ。それはまあ、そう言えないこともないか。でも②のトラウマを忘れてしまうこと、というのも本当は「忘れて」いないということをわれわれ臨床家は知っている。別の人格状態が保持しているのだ。そしてその意味ではこの②と③は実は非常に近い関係にある。それを敢えて、①(はいいとして)、②、③などと分ける必要はあるのか、と思ってしまう。
 続いてDR/DRの生物学的特徴について書かれている。a. 後頭皮質感覚連合野の反応性の変化、 b. 前頭前野の活動昂進 c. 大脳辺縁系の抑制。とある。ここら辺はすでにこのブロクでも見た内容だ。要するにDP/DRはPTSDの「解離タイプ」のことなのだ。そしてそれは非・解離タイプとまったく異なる、というよりは逆の脳のパターンを示すというわけである。
 HPA軸についての議論も出てくる。HPA軸とは、視床下部―下垂体-副腎皮質軸であり、ストレスに応じてストレスホルモンであるコルチゾールがどの程度スムーズに放出されるか、そこにどのようなコントロールが働いているかという話である。それによるとHPAは過敏反応のパターンを示すということだ。(うつ病やPTSDは逆に鈍化した反応パターンを示すとされる。)
 このような記載から分かる通り、DP/DRがクローズアップされた背景には、この大脳生理学的な所見がみられることが大きく働いている。

DP/DRというのは、ある「状態」として大脳生理学的な検査の対象になるという意味では研究がしやすいと言えるだろうか。例えば人格の交代現象を研究しようにも、その交代の瞬間をとらえてMRIの所見を得ようという試みは、技術的に不可能に近い。それに比べてDP/DRはある程度継続的に体験され、生物学的な検査もそれだけしやすいという利点があるのであろう。

2013年4月19日金曜日

DSM-5と解離性障害(16)

もうちょっと続くこの解離シリーズ。

さてこの論文(Dissociative Disorders in DSM-5 Annual Review of Clinical Psychology, 2013, 299-326はここまでは特に問題なく読み進んだが、憑依に関する記述が終わり、心因性遁走に関する項目に移ってから(といっても一ページだけだが)私には話が見えなくなった。心因性遁走は、DSM-5において、それまでのDSM-IVから大きく変った二つ目の点である。心因性遁走はそれまでは独立した項目としてDSM-IVまでは掲げられていたが、DSM-5からは心因性健忘の一タイプとして分類される、という。そしてその理由としては、フラフラと遁走をしたり、自分のアイデンティティが混乱したりということはまれだから、となっている。つまり「遁走」という症状自体はそれほど本質的ではない、ということなのだろう。
しかし私の経験では、心因性遁走は、男性のクライエントに特に多く見られ、その一部はDIDと重複しているのである。定期的に遁走する人格になり、フラっと出かけてしまう、という風に。言うならば解離性遁走は男性に現れやすいDIDの表現形態ではないかと思うほどである。私の経験した遁走の方々はほぼ全員が比較的若い男性なのである。昔、全生活史健忘は日本型の解離だ、という説があったが、日本に特に多いのだろうか? ともかくもこの心因性遁走の件は、DSM-5においては少し格下げが行なわれた感じがある、という以外の解説は保留にしておこうと思う。
 さて次の項目はDP/DRについてである。といっても何のことかわからないだろう。Depersonalization/derealization disorder つまり離人体験・非現実体験の項目である。実はDSM-5はこの解説にかなり力を入れていることがわかる。何しろこれが目立つタイプとしてPTSDの「解離タイプ」が提唱されているほどだからである。しかもこのDP/DRには脳科学的な所見による裏づけがある。
 離人、非現実体験とは何か?自分の体(離人体験)や世界(非現実体験)に対して、普段は感じないような距離が出来てしまったという奇妙な感覚。私にもあるぞ。中学2年の夏、林間学校の二日目、夕方突然自分の体と心が自然に動かなくなった。あ、自分は自分の腕に「動け」と命令しているぞ」、「あれ、自分は今~と感じようとしているんだな」という体験の奇妙さ。次の日に帰宅して母親の顔を見たら直ったところを見ると、不安がベースにあったのだとは思うが、その時は不安ではなく、奇妙さに圧倒されていた。これが離人体験である。しかしそのような時は、世界も何か遠ざかったように感じられる。離人体験と非現実体験は、一つの体験ではないか、と思っていたが、どうやらその方向らしい。DSM-5ではこれをDP/DRとして、つまり離人体験と非現実体験を個別に扱うことなく、同時に生じる一つの体験として扱うことになるというのだ。