2013年3月18日月曜日

精神分析と家族療法(1)


ッていきなりナンだ? いや、いきなり天から降って来たようなテーマだ。私もどうもこのテーマを選んだ覚えがない。解離していたのか。でも今月の終わりくらいまでには考えをまとめないと、人に迷惑がかかるような気がするのである。

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 昔、精神分析のトレーニング中に、仲間が言っていた。
 「ボクは精神分析と何とかは、家には持ち込まないようにしている・・・・」つまり精神分析のトレーニングは家族には関係ないという感じだ。自分の幼少時の出来事についてもっぱら扱うのだから個人的な問題だ、というニュアンスもあったかもしれない。
 しかしそれを聞いて「それってちょっと違うんじゃないか」、と私は思ったのを覚えている。だって家族の一員が精神分析により変わることが、家族に影響を与える、できれば良い方向に、と思うのが自然ではないか。
 精神分析のメッカでもあったメニンガー・クリニックでは、分析家になるということは厳しい修業を積むことなんだという雰囲気があった。夫が精神分析家になるための教育分析を受けている間は、「あなた、外でのお仕事頑張ってね。」という感じだった。いや、そこまで協力的な家族はいなかったかもしれない。何しろ家族が教育分析を受けることは、かなり家計を圧迫するはずだからである。でも家族のキャリアーアップと思い我慢するというところはあっただろう。
 アメリカでは医者どうし、心理士どうしの結婚はよくある。メニンガーでは精神科医や心理士どうしの夫婦が同時に教育分析を受けるという機会があったが、その場合は「夫婦で支え合って、この厳しい時期を乗り越えました。」という感じだった。でもそれを聞いて、私はこれもちょっと違うんじゃないか、と思った。(私は記憶力が悪いが、このエピソードは一回どこかの本に書いたことだけは覚えている。どこに書いたかは忘れた。)だって、精神分析はそれを受けることで家族関係にも貢献すべきものだろう。「うちの旦那(神さんでもいい)は、分析を受けてから穏やかになりました。」という話はアリだと思うが、二人で支え合って教育分析を乗り越えた、は何か本末転倒である。大体教育分析で話す内容のかなりの部分は、実際の家族との関係だったりするはずだ。「神さんにいつもきついことを言われて胸が痛むんです。」という体験を分析家に話した夫が家に帰って、当の神さんに、「いや、今日の教育分析ではしんどい体験を語って来たよ。」「あなた、大変だったのね。お疲れ様。」はやはりオカシイ。