2012年6月30日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (34)


  創造的な活動が、脳のどこの部分でどのように生じるかはわからない。私の知る限りそれに関する定説などもない。ここからは私の想像である。少しわかりやすい例として、作曲を考えよう。ある長さのメロディーラインが浮かぶとき、それはこれまで記憶したことのあるメロディーの断片の繋ぎ合わせだったり、その変形だったりする。あるいはあるメロディーAの前半とメロディーBの後半の接合されたものかもしれない。その中である種の美的な価値を持った、つまりはいいメロディーがそれ自身の持つ刺激のために意識野に浮かんでくる。人が聞いて素敵だというメロディーは、それ自身が私たちの快感中枢や扁桃核を刺激するのであろう。そしてメロディーラインの切断や接合は、それらの記憶の断片が存在すると考えられる大脳皮質の聴覚野で自然に、「勝手に」生じている可能性がある。
ところでこのプロセスはタンパク質の合成のプロセスに似ているといってもいい。そもそも生命は酵素を必要とし、酵素はタンパク質である。ではそのタンパク質は自然の中から、自然そのもののはたらきによって生まれてきた、という仮設を打ち出したのが、オパーリンという旧ソ連の科学者である。ここからはwikipedia の力を借りなくてはならない。
 
オパーリンの説を推し進めたのが、1953年、シカゴ大学ハロルド・ユーリーの研究室に属していたスタンリー・ミラーの行なった実験で、「ユーリー-ミラーの実験」として知られている。難しい話は省略するが、原始地球の大気組成を作り出し、そこに放電を起こし、アミノ酸が一週間後にアミノ酸が生じていることを示したという。
もちろん脳の中で放電が起きたり、雷が落ちたりということは起きていないが、おそらく無数の知覚情報、思考内容の離散集合が自然に起きている可能性がある。これは仮説というよりは、こう考えないと説明できないものがあまりにも多いからである。その典型が、夢の過程である。

続・脳科学と心の臨床 (33)

創造的な過程
えーっと、たしか、「1.能動的な体験 2.創造的な過程 3.夢 4.この章のテーマである、解離体験である。」と書いたな。1、は終わったから、今度は「創造的な過程」、である。
心の動きは結局ステージ上で起きていることになぞらえることができる。そしてそこで起きていることを、私たちは自分で作り上げたものと錯覚する、という文脈だった。そしてそのステージ上で起きることを決定しているのは脳だ、というわけである。前野先生の「受動意識仮説」もそのような仮説に基づくものであった。そしてこれから議論は能動的な体験→創造的な過程→夢→解離体験、と進んでいくのであるが、この順番は実は自分で作り上げたという実感が少しずつ減っていく順番でもある。意識はステージ上に繰り広げられるものに対して、受身的になっていくのだ。すでに能動的な活動でさえ、「自分が意識的に、主体的にやっている」という感覚は、一種の錯覚だと述べた。創造的な過程は、それが一段階進む。
このような例については、すでに531日に、一つ挙げている。読者のためにその時の記載を少し引用しよう。(字数を稼ごうとしている。明らかな手抜きだ。)
 例えばモーツァルトは、一人でいる時に曲が浮かんでくるということがよくあったが、それをコントロールすることは難しかったという。しかし曲は出てくるときは自然に浮かんできて勝手に自らを構成していくという。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという。 Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。
本当はいつか読んだことのある、作家村上春樹の創作の過程についての話を引用したかったのだが、どこで読んだかわからない。読者の人で知っている人は教えてください。確かこんな話だった。
「私にとっての創作は、頭の中の登場人物が勝手に動くのを見ているということです。それを私は見て、小説にしていくのです。そうするためには例えば一人スペインのどこかの宿屋に泊まり、どこからも連絡が来ないようにして小説を仕上げるのです。」
まあ、正確な引用は後ですることにして、私が言いたいのは次のようなことだ。創作活動のプロセスを見ればわかる通り、私たちが創っているはずの作品の主要部分は、実は脳によって自動的に作られているのである。もちろんそこに意識の関与がまったくないというわけではないからだ。村上春樹だって、頭の中の登場人物がまったく勝手に動くに任せているわけではないだろう。その流れを整理し、順序を整えて、人に受け入れやすくしているのは意識の働きであろう。ただそのもとになる素材はかなり無意識的に作られるのだ。

2012年6月29日金曜日

続・脳科学と心の臨床(32)

動的でも無意識的な行動はある

ところで能動的な行為と意識的な行為とは同じものなのだろうか? 当たり前な質問のようだが、実は微妙な問題である。実は能動的に行なっていても、意識されにくい行動もあるのだ。例えば上の例に示したような、歩く、という行為はどうか?私たちは普通歩いている時、「まず右足を出して、次は左足を出して・・・」と意識的に歩いている訳ではない。ということは半ば無意識的な行為ということになる。しかしそれはやはり能動的な歩く、という行為といえる。なぜなら「ではあなたは受動的に歩かされているのですか?」と問われれば、「いえ、そんなことはありません。ちゃんと自分で歩いていましたよ」と答えるだろうからだ。ということは能動的だが無意識的な行為ということを私たちは考えていることになる。
ではそもそも意識的な行動とは何か?意識的な行動とは、結局は前頭葉の活動を伴っているものだということになる。そういう時にfMRIを撮ってみると、前頭葉が少し明るくなっているはずだ。意識の座は前頭葉にあるのだ。私たちは普通何かを最初に行う時は注意深く、一つ一つの動作を計画し、結果を予想し、そして実行する。全部前頭葉機能である。
同じ歩く、という行為でも、例えばしばらく病床で過ごした人が、歩く練習をする際、最初の一歩は意識的なものとなるはずだ。そしてもちろん能動的な行為である。ところがそのうち歩くことに慣れて来て、当たり前になって来ると、能動的ではあってもあまり意図的ではなくなる。つまり前頭葉をほとんど使わないことになる。その時は例えば小脳とか大脳基底核に活動の場が移っていく。
この説明がわかりにくいとしたら、もうちょっと別の言い方をしてみようか?意識的な行為は、それが問題なく行われ、熟達するに従い、ルーチン化され、自動化される。自動化されるということは、つまり体が覚える、と言っていい。手続き記憶として定着することだ。これが無意識的な行為、ということと等価なのである。そしてそれは前頭葉の活動をさほど必要としなくなる。小脳その他が肩代わりするからだ。小沢さんだったら「秘書がやっている」状態になる。ただし「やっている」感だけは痕跡として残る。これが能動的だけれど無意識的な行為なのだ。
さて私たちの毎日を考えると、実はこのように自動化されている活動が実に多い。ということは私たちの活動の大半は、意識的ではない行為、すなわち無意識的なものとなるのである。

さてこのことと、「能動的な体験・・・・実は脳が勝手にさいころを転がしている」 ということはどう関係あるのか? それはルーチンとして自動化されている運動に変化が生じた時に、それが意識されるという順番が、いかにもある種の偶発時 → 意識化 という順番だからである。ルーチンの作業が意識化されるのは、「いつもとは違う何か」を脳が知覚し、前頭葉に知らせなくては、という状態なのだ。その際の前頭葉が欠ける最大のバイアスは、「うん、これはちゃんと自分が意図的になっているんだ。」という一種の錯覚に近い能動感なのである。

2012年6月27日水曜日

続・脳科学と心の臨床(31)


錯覚としての能動性への左脳の関与
錯覚による能動性ということに関して、私は前書(脳科学と心の臨床)で、「言い訳する左脳」として言及している。左脳とは不思議なもので、自分がやったことを把握して、それに言い訳を付けるという役目を持つ。人は自分自身の行動を観察して、あるいは思い出して「それは~と思ったからです」と理由付けする能力を持っているのだ。これも一種の錯覚としての能動感といえるだろう。
 この左脳の性質については、分断脳による実験がそれを顕著に示す。分断脳とは、右脳と左脳をつなぐ脳梁が切断された状態をいう。そのような人に実験を行うのである。読者は「左右の脳を切り離す、なんてずいぶんひどいことをするな」、と思うだろうが、癲癇の広がりを抑えるという治療的な目的でその様な手術が行われることがある。そのような人に実験に協力してもらうのだ。ちなみに分断脳の状態の人に会って話しても、驚くほどに普通の印象を持つはずだ。 
さてその状態にある人の右脳にだけある種の指示を出す。これは決して難しいことではない。左側の視野は右脳に行くことがわかっているから、左の視野のみに指示を与える文字を見せればいいのである。そこにたとえば「立ち上がって歩きなさい」と書く。すると被験者は実際に立ち上がって歩き出す。そこで左脳に「なぜ歩き出したのですか?」と尋ねる。これは単に口で問えばいい。言語野のある左脳の方がその言葉を理解するからである。すると被験者は「ちょっと飲み物を取りにいきたかったのです」などと適当なことを答えることが知られている。左右の脳が切断された状態だから、左脳は右脳に「歩く」という指示が出ていることは知らないはずである。ということは左脳は自分の行動を見てから理由づけをしていることになる。平然と、ごく自然にそれを行うのだ。
もちろん通常の私たちの脳は左右がつながっている。しかしそれでも似たようなことが生じている可能性がある。右脳が主体となってある種の行動を起こす。左脳はもっぱらそれを「自分は~という理由でそれをやったのだ」と感じるという役割を担っているということが予想されるのである。通常は左脳は右脳の考えを知っているから、「飲み物を取りに行こう」と立ち上がったことを知っている。それを理由に挙げるだろう。しかし分断脳の実験のように、たとえそれを知らなくても、それを能動感を持って体験するのである。
このことが「能動的な体験は、実は脳が勝手にさいころを転がしているのだ」とどうつながるのか?それは行動が分断脳の例のようにたとえ他人に促された、自発的ではないものでも、あるいは偶発的なものであっても、脳はそれを能動的なものと言い張るという傾向があるからである。

2012年6月23日土曜日

続・脳科学と心の臨床(30)


能動的な体験・・・・実は脳が勝手にさいころを転がしている
私たちがあることを意図して行う時、「今自分がこれをやっているのだ」という感覚はごく自然に生じる。たとえば手を伸ばして目の前のコップを取り上げる、という動作がそうだ。しかしこのような動作は細かく見た場合には、かなり「無意識的」なものの連続により成立していることに気が付く。そもそも最初の手を伸ばすという行為からして、どこまで自発的かはわからない。あたかも私たちの意識は「手を伸ばす行動をする命令をいつでもいいから体に出しなさい」という命令を脳に投げかけて、あとは脳が勝手にさいころを転がして、その瞬間を適当に決めて行っている、というところがある。そしてここが大事なのだが、いざ手を伸ばすという行動が開始すると、私たちはそれを意外に思うのではなく「ほら、私が意図したとおりに手を伸ばし始めているぞ」という能動感を得る。これは一種の錯覚といっていいであろう。
脳がさいころを転がす、というのはさいころを転がす瞬間を私たちは本当は知らないからだ。そしてそれを証明して見せたのが、531日に紹介した「マインドタイム」のベンジャミン・リベ(ット)の実験である。被験者に、「指を好きなときに動かすように」という命令が出される。するとある瞬間にそれを自分に命令したと感じた人の脳の脳波は、実は必ずそれより0.5秒前に動きを開始している。その動きが実は脳がさいころを転がす瞬間なのである。
この能動性の感覚は様々なのものまで及ぶことが知られる。たとえば私たちが歩いたり呼吸したりするという行為は、かなりの部分が無意識的に行われているが、それでも「自分が呼吸をしている、歩いている」という感覚を与えるだろう。無意識的に行っている、ということは脳の呼吸中枢や運動やからの信号が必ずしも私たちの意識野に上っていない、ということであるが、それでも私たちはそれを自発的に行っている、という感覚を持つのだ。ちょうど派閥の親分は、手下のやっていることにいちいち関与をしていなくても、自分の支持でやっているのだ、という感覚を持つように。小沢さんは秘書の現金の授受に関しては「知らなかった」そうであるが、それはむしろ例外的である。
時間的には意識に上らないはずでも、それを能動的に行っているという感覚を私たちは持つ。たとえば陸上競技のスタートの際を考えるといい。
陸上競技では合図から0.1秒以内に反応するとフライングと判定される。正常ならどんなにがんばっても、音に対する身体的な反応は医学的に見てそれ以上かかることが知られているからだ。しかしいつ来るかわからない刺激に対して待ち構えている場合、普通の人で0.2秒ほどはかかるとされる。「光源が光ったらボタンを押すという単純な反応を調べると、一流選手でさえ0.2秒かかります。そこから青と赤ふたつのランプを用意したり、選択肢が増えると反応時間は増加していきます。しかも全身運動の場合だと、単純反応に約0.1秒がプラスされます」生島淳 新世代スポーツ総研 剛速球を科学する 人間は何キロの球まで打てる?http://number.bunshun.jp/articles/-/12200
それなのにトップアスリートはこれを0.1秒まで圧縮されていくわけである。そのプロセスはまさに脳がピストルの音を聞いてから足の筋肉を収縮させるというループにバイパスを設けていくかということになる。そしてそれは当然意識的なプロセスを迂回していく。しかしアスリートはそれでも「自分はピストルの音を聞いてスタートしたのだ」という能動的な感覚を持つであろう。ところがそれはピストルの音を聞いて、一歩踏み出した後に事後的に、いわば錯覚として作られるといっていいのだ。

2012年6月22日金曜日

続・脳科学と心の臨床(29)


ニューラルネットワークというテーマについて、以前(201011月)私はこのブログに次のように書いた。(やった!これでほぼ一回分!)これを読み返すと、私の考えはほとんど変わっていない(というより何も進歩していない?)ということがよくわかる。

「ニューラルネットワークと前野隆司氏の「受動意識仮説」
私のこのブログには、ほとんど引用文献がないことが特徴だろうが、それは私が読書が嫌いで勉強不足だからだ。ただしもちろん注目する理論、参考にすべき学術書などはある。最近の慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」という、名前だけ聞いたら非常にとっつきにくい理論もそのひとつだ。何しろ明快で、私がニューラルネットワークや、創造性、不可知性として考えている内容にそのまま重ねあわすことができる。解離について考える上でもとても有効な考え方だ。
私も前野理論の専門家ではないから誤解している部分もあるだろうが、彼の代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 () 筑摩書房、2004年)
で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
前野先生の心の理論を一言で言うと、それは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)
そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。
さてここからは、私が追加する部分である。このような考え方からは、多重人格の由来やその振る舞いもきわめて合理的に説明される。DIDの人の心は少し特殊で、ニューラルネットワークの中がいくつかに分かれ、それぞれの活動が連絡を取り合わないような仕組みが存在している。するとそのいくつかのグループのどの活動が、トップに到達するかにより、誰が現在活動しているかということが変わってくるのである。これが、どうして現在の人格Aが、突然別人格Bに取って代わられるか、ということを説明しているというわけである。
さらにはそれぞれの人格の持つ自律性、つまりそれぞれが個別の人間として振舞う、という性質についてもこの前野氏の仮説により説明される。そもそもボトムアップモデルの特徴は、自己の持つ自律性とは末端のニューラルネットワークにより生じるさまざまな活動の産物であるとして捉える。するとニューラルネットワークがいくつかに分離されている状態は、そこに異なるいくつかの自立性を持った意識が生じるということを意味するのである。」

慧眼なる読者には、この問題が創造性にも、リベ(ット)の意識と時間差の問題とも繋がっているということが理解できるであろう。意識とは観客であり、ステージ上で繰り広げられる様々なものを受動的に見るのだ。ではそこで演じられている内容は何かといえば、それは無意識(この言葉があまりに精神分析な手垢がつきすぎるというのであれば、ヤスパース流の「非意識」ということになる)の産物である。通常の意識のあり方は、すなわち観客の姿勢は、それを受け止めるまでのラグタイムが例の0.5秒ということなのだ。つまり意識内容はすでに0.5秒前に作られている(脳波が最初に動き出す)。ステージとしての意識は、演技の内容が出来上がって演じ始められるのを時間差で見るのだ。
ところで私たちがそれでも、「ステージ上で起きていることは私がつくっていること、考えていることだ」と錯覚することについては、それなりに意義がある。というのも私たちはそのような能動的な感覚を持つことなしには他人と関わったり、物事を遂行することはできないからだ。自分の心や体が、自分の意図したままに動いている、という感覚を持つことは、不安の軽減に繋がる。だってそうではないか。自分の体が意図しないことをしたり、言ったりするという体験ばかりでは、危険を回避して自分の身を守り、満足体験を追及するといった、生物としての私たちの基本的な活動に深刻な影響が及ぶことになるであろうから。
ステージ上で行われることについていくつかの項目にわけでもう少し説明しよう。それらは1.能動的な体験 2.創造的な過程 3.夢 4.この章のテーマである、解離体験である。

2012年6月21日木曜日

続・脳科学と心の臨床(28)


白い骨になって骨壷に入ったチビは、すっかりおとなしくなってくれた。今はたくさんの花に囲まれていて、神さんと私は今は静かにチビの事を考えることができる。町で犬を連れている人を見ると「あれはみな仮の姿なのに・・・・」と、変なことを考えてしまう。

解離現象が教えてくれる脳の機能

私には私なりに、「脳の働きはこんな感じだろう」という大体の感覚を持っている。しかしあくまでも仮説的なものだ。実際の脳は巨大な神経ネットワークであり、あまりに複雑でその全貌をつかむことはできていない。ただし精神医学的な立場から多くの患者に接することで見えてくるものもある。それをもとに大胆な素描を試みてみよう。
精神医学的な立場から、といったが、脳や心を扱う様々な立場があり、それぞれが脳のいろいろな側面を垣間見せてくれる。
 たとえば脳外科医なら、開頭した患者に接することができ、脳の一部に刺激をした場合の患者の声を聞くことができる。(もちろん全身麻酔をしない場合である。)こうして、たとえばかのワイルダー・ペンフィールドは1900年代の半ばに、脳の上の「ペンフィールドの地図」を作ったのだ。彼は脳の各部分を刺激することで患者の体がどのように反応するかを調べたのである。
 また神経学者なら脳に障害を負った患者が示す症状から、脳のどの部位が人間の昨日のどの部分を追っているかを知ることができる。こうしてポール・ブローカは、左前頭葉のある部分が運動性の言語(つまりしゃべるという行為)をつかさどることを知った。彼は失語になった患者の死後の脳を観察して、みな同じ部分(後に「ブローカ中枢」と名づけられた部分)が傷を負ってクシャクシャに萎縮していることを発見したからだ。こちらは19世紀の話である。
 心について脳を扱わずに考える哲学と違い、医学はこのように実際の脳との関わりから心のあり方を知る上での情報を提供してきたが、それは様々な症状を扱う精神医学についても同様である。ここではその中でも解離現象を取り上げたい。
 解離の病理は、私たちが一番常識として大切にしている観念、すなわち「私は私であり、私以外ではない」という考えが一種の幻でしかないことを教えてくれる。デカルトの言ったゴキト・エルゴ・スム、すなわち「われ思う、ゆえにわれあり Je pense donc je suis」 を真っ向から否定するようなことが解離では生じる。自分以外の誰か、他者が自分の中に居て話しかけてくる。しかしその他者が「実在する」というわけではない。ただそのように感じられる。それが多重人格といわれる状態である。しかしではそう感じている私も実在するか、というとその保証はない。なぜならその他者は、私のことを客観視し、他者として扱うからだ。
このような現象があまりに多くの人に生じていることを知ると、私たちは次のように考えるしかなくなる。
「脳思う、ゆえにわれ(という感覚)あり」。
 私や他者という存在を成立させているのは脳というフィールドである。そこに生じたものが主観的に感じられる。主観はあくまでも脳に従属するものである・・・・・。
幸か不幸か、解離現象が教えてくれる脳のあり方はそういうものだ。しかしそのような考え方を代表するいわゆるニューラルネットワークモデルneural network model は別に解離現象をもとに発展してきたわけではない。

2012年6月20日水曜日

続・脳科学と心の臨床(27)

サイコパスは脳の障害を持った人である、という認識は、実は私たちにとっても、臨床家にとっても非常に不都合なものである。というのも私たちが持っている勧善懲悪の観念の根拠を奪ってしまうからだ。社会正義を考える場合、他人に害悪をもたらす人々、つまり「悪い人々」を想定せざるを得ない。それらの人々が罪を犯した場合、それに見合う懲罰を与える、つまり「懲らしめる」というシステムなしに成立する社会を私たちは知らない。その場合、その悪い人の犯罪は、その人がそれが他人を害したり法を犯したりすることを十分知った上で、それを故意に選択したということが条件となる。そうでないと私たちはその人を罰することに罪悪感を覚えてしまうからだ。



さてそこにサイコパスが登場する。彼は「私はこの人をいたぶって殺すことを選択しました。私は狂気に襲われたのではありません。私は正気でそれを行ったのです。」ところがその人の脳のMRI画像を取ってみると、その一部がしっかり委縮しているのである。彼は生まれつきの脳障害の結果として残虐な犯罪行為に及んだのだろうか。だとしたら私たちは彼を「悪人」として断罪できるのだろうか?
昨年ノルウェーで数十人の人々を殺戮したアンネシュ・ブレイビク。彼は自分は正気だと言って心神耗弱として精神病院に送られることに強硬に抵抗を示しているという。彼が受けた二つの精神鑑定が全く別の結果であったこともまた深く考えさせる。一つは統合失調症、もう一つは正気。つまり後者はブレイビクの意見に一致している訳だ。しかし彼の脳の画像をもし取ったとしたら、かなり怪しいであろう。
幸いなことに、サイコパスたちが心理士のもとを治療に為に訪れることはまずないと言っていい。もし私の病気を治してほしい、と言ってきたサイコパスがいたとしたら、おそらく彼はサイコパスではないのである。心理士はだからサイコパスたちを「悪人」として扱うことをやめなくても当面は不都合はない。サイコパスの犠牲者たちの心理療法に専念すればいいのである。しかし精神医学者は、脳科学者は、とくにforensic psychiatsirst (司法精神医学者)たちは、彼らが病者として扱われるべきかどうかについて頭を悩ませることになるのだろう。(オシマイ)

2012年6月19日火曜日

チビとのお別れ


昨日は愛犬チビの事実上のお葬式であった。夕方まで部屋を冷やして安置しておいたチビを夜遅く火葬に付したのである。最近はペットサービスが行き届き、移動式の火葬場というのがある。そのサービスを夜八時に頼んだが、焼却炉を積んだトラックを運転してやってきた中年の男性がすごく丁寧で癒された。きちんとネクタイを締めて手を合わせ線香を上げてくれた。(神さんが一緒に火葬するためにチビが好きだった肉やお菓子をコンビニに買いに行っていたので、少し開始が遅れた。)、その後2時間かけて焼いたチビの骨の一つ一つを説明して骨壷に収めるのを手伝ってくれた。こういう特別な出来事の記憶は、その時に直接かかわってくれた人のことも含めて定着する。チビの最後を思い出す時、このおじさんのことも一緒に思い出すことになるのだ。不思議なことにお骨になったチビは少しも悲惨さはなく、真っ白でおごそかだった(ちょっと大袈裟)。うん、こんなに強い骨してたんだな、とかこんな骨で地面をけって走っていたんだ、とか、首のところを触った時にあった出っ張りは、この第一頚椎の突起部分だったんだ、という感じで、感心しながらすべてを収めきった骨壷を抱くと、何かチビが新たな体を与えられたという感じだった。見慣れた姿から一気に骨になったので、諦めがついたという感じ。そのプロセスをすごくきちんとやってくれたおじさん。正しいプロセスを踏んで、ちゃんと供養をした、という実感を持たせてくれた。(このおじさんの仕事はとても大事な、誇るべき仕事だ。)お礼をはずんで渡して、骨壷を抱いて家に帰る。(と言っても実際に抱いていたのは神さんだ。)一緒に帰宅する、という感じ。帰りの車の中は、チビの思い出を話して神さんと笑った。チビが寝ていたベッド(なんと!)に、院生が送ってくれた花かごを置き、その周囲にここ数年撮ったチビと家族の写真を囲んだ。神さんも私も、もう和やかな感じである。最悪の一昨日の夜をすごして、「チビ、もういい加減に休んでくれよ」という気持ちがあったかもしれない。

2012年6月18日月曜日

続・脳科学と心の臨床(26)

我が家の愛犬チビは、今朝6時22分に天国に旅立った。昨日の夜から3時間以上にわたる全身の痙攣発作で、すべてのエネルギーを使い果たしたという感じだった。(我々二人のエネルギーも相当減った。)この2,3日はもはや生ける屍状態だったが、やはり呼吸が止まったのを見届けると特別の感情がこみあげてくる。とにかく長い間有難う、お疲れ様といいたい。しかし・・・・今日からチビのいない生活というのも実感がない。



心理士への教訓)
養老先生の「バカの壁」(新潮新書、2003年)にこんなくだりが出てくる。
「たとえば容易に想像できるのは、仮に犯罪者の脳を調べて、そこに何らかの畸形が認められた場合、彼をどう扱うべきか、という問題が生じてきます。連続幼女殺害犯の宮崎勉は3回も精神鑑定を受けている。彼の脳のCTをとってみればわかることだってあるのではないか。」
「ところが、司法当局、検察はそれをやるのを非常に嫌がります。なぜならこの手の裁判は、単に彼を死刑にするという筋書きのもとに動いているものだからです。延々とやっている裁判は、結局のところある種の儀式に近い。そこに横から、CT云々といえば、心神耗弱で自由の身ということに繋がるのではないか、という恐れがある。だから検察は嫌がる。」(p150~151)エーっと、ちゃんと書きうつせたかな。誤字はないかな。
この記述は私がこの数日書いたことが臨床家としての心理士たちにとって意味することを端的に物語っていると思う。つまり心理士はこの検察のような態度をとってしまいがちということだ。なぜならサイコパスや連続殺人犯は普通心理士のオフィスを訪れてセラピーを受けるということはないからだ。心理士が扱うのは主として、サイコパスやその傾向を持った「しょうもない男たち」の犠牲者だからだ。だから心理士はサイコパスを社会の敵であり、同時に患者たちにとっての敵、として扱うことになるだろう。でもこれって、ひょっとしてダブルスタンダード(片方を差別的に扱っていること)ではないのか?サイコパスも脳の障害の犠牲者ではないのか?
この問題は決して他人ごとではない。何しろ心理士を訪れる人々の多くは「そして自分自身も!!」サイコパス的な要素を持っているからだ・・・・・。

2012年6月17日日曜日

続・脳科学と心の臨床(25)

チビはいよいよ神さんの姿を見ても尻尾を振らなくなってしまった。目はうつろで焦点が定まらない。というか何も見ていないようだ。時々小刻みな痙攣のような動きを見せる。もう口から入るのはわずかな水だけ。見ていて痛々しい限りだ。いよいよ覚悟しなくてはならないだろう。

この一般人の持つサイコパス傾向の問題は、これまでに論じたオキシトシンの話とも、アスペルガー障害の話とも、そして話を複雑にして申し訳ないが、ナルシシズム(自己愛)との問題とも複雑に絡み合っている。要は他人の心、特に痛みを感じる能力の欠如に関連した病理をどうとらえるか、ということになる。ここに列挙された状態はいずれも男性におきやすいということになるが、そこで想像できる最悪の男性像は目も当てられない。まず発達障害としてアスペルガー障害を持ち、前部吻側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまった場合である。まさに才能と権力と冷血さを備えたモンスターが出来上がるわけだが、歴史とはこの種の人間により支配されていたという部分が多いのではないか。私は再びいつもの嘆息を漏らすしかない。「男は本当にどうしようもない・・・・・」
このところそんなことばかりを考えていたが、先日見たワールドカップのアジア最終予選はすばらしかった。本田の誇らしげな振る舞いと、それに見合うピッチ上での機敏な働き。男性はやはり屋外で野獣を捕らえ、時には部族間の戦いで勇敢な働きをすることに特化した生物なのである。もちろん体を動かすことだけではない。政治の世界でも、学問でも芸術でも、他者との情緒的な関係性が直接関与しない場面で男性性は輝き、その価値を発揮する。そしておそらくはそれらの能力のために対人関係上に生じる様々な不幸をも作り出す運命にあるのだ。

2012年6月16日土曜日

続・脳科学と心の臨床(24)


このところチビの呼吸が少し不規則になっている。時々体をぴくぴくさせている。ほぼ飲まず食わずの毎日だが、チビは懸命に生きている。肝性脳症の症状が出ているのであろう。

私たちの中のサイコパス
ロバート・ヘアという心理学博士の「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」という本は大きな影響を与えた。わが国でも翻訳が出ている。(「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち (ハヤカワ文庫NF) ロバート・D. ヘア Robert D. Hare 早川書房 2000-08
彼はあるインタビューで答えている。http://healthland.time.com/2011/06/03/mind-reading-when-you-go-hunting-for-psychopaths-they-turn-up-everywhere/ 
サイコパスは一般人の
100人に一人だが、ビジネスリーダーたちに限ってみると、四倍に跳ね上がるという。
 利益を追求し、必要とあれば喜んで一気に何千人もの従業員を解雇して路頭に迷わせる。事実サイコパステストには、ビジネスに関しては「正解」なものも多いという。いわば資本主義ではサイコパス的にふるまえばふるまうほど利益があげられるということらしい。考えてみよう。たとえば日本でのオレオレ詐欺の現状を。あれほど巧妙にやればやるほどもうかる商売はないと言える。
1960年代にアメリカのある精神科医が実験を行ったという。彼が考えたのは、サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療するべきだということだった。その精神科医は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋にサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDSを投与し、お互いを革バンドで括り付けたという。そしてエンカウンターグループのようなことをやったらしい。心の中を洗い出し、互いの結びつきを確認しあい、涙を流し、といったプロセスだったのだろうと想像する。そして後になりそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。つまり彼らはこの実験により悪化していたわけだ。そこで彼らが学んだのは、どのように他人に対する共感を演じるか、ということだけだったという。
今週号の週刊文春を読んだが、小沢さんの奥さんの手記を読むと、彼もそうか、と疑ってしまう。私は前から彼のことが気になっていたが、やっぱりという感じである。政治の世界もまたサイコパス率が高いのかもしれない。
ここで皆さんは気になるかもしれない。彼らもまた脳に異常があるのだろうか?

2012年6月15日金曜日

続・脳科学と心の臨床(23)


まずASPDとは何か。改めて言うが、これはantisocial personality disorder の頭文字で、「反社会的パーソナリティ障害」のことである。DSMの診断基準から分かる通り、彼らは暴力的で衝動的、人の気持ちに共感できず、人を利用する、社会的なルールを破る…。ちょっとお友達になりたくない人たち、犯罪歴を持っていそうな人たちである。
ではサイコパスとは?一般的な定義からすれば、衝動的で人の気持ちに共感できず、他人に対して残忍な行為を行う・・・・。何かASPDとあまり変わりがないではないか?事実サイコパスという用語はしばしばASPDと混同して用いられる傾向がある。
しかし歴史的にはサイコパスがASPDよりずっと古い。昔からmoral insanity 「道徳的な狂気」と称されていたものである。精神医学の世界では、統合失調症や躁うつ病などが明確に分類される前から、犯罪を犯すような人たちをひとまとめにする概念があった。それはおそらく社会にとって害悪を及ぼす人たちをいち早くラベリングする必要性があったからだろう。サイコパスpsychopathy と同様、sociopathy という言葉もあった。日本ではシュナイダーの概念である「情性欠如者 gemutlose」という言い方もされていた。
他方のASPD1980年のDSM-IIIから登場し、「犯罪を犯したり人に暴力をふるう人たち」一般のプロフィールを代表したようなところがある。両者を区別する際は、サイコパスの方がより深刻でより深い病理を差すというニュアンスがある。つまりASPDの中でより深刻な人たちがサイコパス、という理解の仕方が一応可能であろう。
再び“サイコパス(精神病質)たちが特異な脳構造をしているという研究”に戻れば、ある研究では62か国で調査された受刑囚の62パーセントがその基準を満たすという。ASPDの特徴はその暴力性である。しかし彼らの多くはサイコパスではない、とする。ASPDは短気な人々と表現するのなら、サイコパスは冷酷な人々であるという。後者はより年少から罪を犯し、より重層的な犯罪行為にかかわり、行動プログラムに反応をしないという。彼らは痛みによる処罰などにも反応せず、平然としているために行動療法的なアプローチがそもそも極めて難しいというわけだ。
さてここまで述べるとだいたい私の趣旨がわかってもらえるだろう。福島氏の殺人者精神病は、このサイコパスのプロフィールと考えればだいたい合うのである。そしてそこには大脳の形態上の異常が見られる。それがこれまで何度かでてきた、エーっト、前部吻側前頭皮質と側頭極の灰白質の容積の小ささ、ということになる。彼らは実は生まれつき脳の一部に機能低下が生じたために極めて不適応的な生き方を強いられてきた人たち、いわば犠牲者、被害者なのだ・・・・・。いやちょっと待って欲しい、という読者の反応が聞かれるかもしれない。「サイコパスの人々は、実は社会から忌み嫌われるべき、『悪い人』のはずではなかったのか・・・・・」。

2012年6月14日木曜日

続・脳科学と心の臨床(22)


偶然ではあるが、ごく最近ロイター通信が次のようなニュースを伝えている。http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507
Study finds psychopaths have distinct brain structure (サイコパス(精神病質)たちが特異な脳構造をしているという研究)”
さわりをちょっと訳してみる。
殺人やレイプや暴行により起訴された人々たちの脳のスキャンにより、サイコパスたちは特異な脳の構造を有していることがわかったという。ロンドンキングスカレッジの精神医学研究所のブラックウッドらの研究によると、そのような所見は彼らをその他の暴力的な犯罪者とも区別するほどだそうだ。それが(昨日も触れた)前部吻側前頭皮質と側頭極である。(何度か書いているうちに覚えてしまった。画像つき。)

これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。サイコパスたちの脳は、これらの部分の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の量が少ないという。こうなると認知行動療法的なアプローチもできないことになる。ちなみにこのことは司法システムとも関連してくる。というのはこれらの人々を脳の異常であるとしることで、これらの犯罪者が心神耗弱ということで無罪放免にされてしまう可能性があるからだという。
ブラックウッドの研究をもう少し見ている。MRIを用いた研究では、44人の暴力的な犯罪者を研究した。そのうち17人がASPD(反社会性パーソナリティ障害)プラスサイコパス、あとの27人が満たさなかった。それを22人の正常人と比べたのだ。そしてサイコパスたちに見つかったのが、例の二つの場所の灰白質の量が顕著に減っていたというのだ。ちなみにこれらの部位が犯されると、共感をもてなくなり、恐れに対する反応が鈍くなり、罪悪感とか恥ずかしさなどの自意識感情を欠くことになる。
ところで読者はサイコパスとASPDの違いが曖昧になってきたかもしれない。この違いがまた興味深いのだ。(明日に続く)

2012年6月13日水曜日

続・脳科学と心の臨床(21)

もう少し福島先生の説に耳を傾ける。以下は「殺人という病」から。彼は従来の「主として心理―社会的次元の要因だけを考える従来のような記述的な研究だけでは不十分で、脳という生物学的な要因を十分に考慮し、生物―心理―社会的要因を総合する考察」が必要であるとする。(p7)。さらに殺人者の精神鑑定ではしばしば鑑定医により診断がまちまちであることをあげ、むしろ殺人者精神病 murderer’s insanityという概念を提唱する。そしてその主症状は殺人行為である、という。

私の理解が浅いかもしれないが、この殺人精神病という概念は、トートロジカルなところが問題なようである。「殺人を犯す人の生活史はバラバラで、反社会的な人はその一部にすぎない。いわば彼らは殺人をするという共通した症状を持つのだ。」つまり「殺人者は殺人という症状を持つ病気だ」。これでは殺人を犯した人の示すほかの症状や生活史上の特徴を抽出し、一つの疾患概念を打ち立てるというプロセスを無視した、いわば自明で中身が薄い疾患概念ということになる。「彼はどうして殺人を犯したのでしょう?」「殺人精神病だったからです。以上おしまい。」私はこの概念は、それでも殺人を常習としている人にはありかな、と思う。いわゆる連続殺人犯である。殺人を「症状」として抽出するためには、それがその人にとってパターン化していることが必要だからだ。しかし多くの殺人犯はそうではない。極端な例かもしれないが、リストカットを繰り返す人にリストカット症候群という診断を考えたとしても、リストカットを初めて行って救急に運ばれた人に、その診断をあてはめることはできないだろう。殺人精神病にはそのようなニュアンスがある。
ただしもしこの診断に信憑性を加えるものがあるとしたら、それは脳の所見であろう。多くの殺人者の脳には何らかの形態異常があるというのは福島氏の指摘したとおりである。ということは殺人を行う人は本来脳に異常があり、それが詳細に特定できればそれだけ一つの疾患単位として取り出すことが出来るのかもしれない。しかしここで一つの問題がある。たとえば殺人を犯した人の脳を調べると、脳のAという部位(実際には「前部吻側前頭皮質、側頭極」というところらしい。明日のブログあたりで紹介する。)に異常がある人たちが多かったとする。そのAの部位の異常が、殺人という一種類の異常行動としてのみ表れる必然性はあるだろうか?それは例えば反社会的パーソナリティ障害とかサイコパスと呼ばれる人々一般に当てはまるのではないか? 福島氏は鑑定という作業を通じて、多くの殺人者と接して、その脳の異常に関心を持った。しかしその同じ脳の異常が殺人以外の凶悪な犯罪行為、例えば暴行や傷害をも引き起こす可能性がある以上、それを殺人者精神病として特定することの意味も薄くなるだろう。

2012年6月12日火曜日

続・脳科学と心の臨床(20)


殺人者の脳は「異常」なのか?
2日ほど前に日本中を震撼させた通り魔殺人事件。610日午後1時ごろ、大阪の心斎橋の路上で二人を刺し殺した男の言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これほどの圧倒的な狂気があるだろうか。
わが国を代表する精神医学者の一人、福島章氏の著作に「殺人という病」(金剛出版、2003年)がある。彼は殺人者の精神鑑定を通して、殺人行為はそれだけで一種の疾患単位を形成するのではないか、という考えに至った。それがこの著書の趣旨である。専門家の間では必ずしも評価の定まっていないと言われるこの本に私は愛着を持っている。それは彼がこの本に先立って書いた論文「殺人者の脳と人格障害」(こころの科学 92000p. 6165) を読んで、それが印象深かったからかもしれない。この論文で、もともと精神分析や甘え理論に関連した犯罪者の論考を書いていた同氏が、その間に発達したCTMRIなどの画像診断を犯罪者に行うことにより、大きく関心を変えたという経緯をより明確に語っている。「殺人者の半数以上に脳の形態異常があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない・・・・。」こうして彼は殺人者の脳の異常に興味を移していく。
私が感銘を受けたのは、本来は精神病理学や精神分析、天才の研究、文化論など脳とは無縁の分野に関心を向けていた氏が、画像診断や脳波などの示すものに率直に影響を受け、ある意味では極端な器質論者と見られかねない立場をとるようになったことである。自分のこれまでの研究分野を離れて新しい知見を取り入れて方向転換するということは、いったんある分野で名を成した大家にとっては極めて難しいことなのだ。老大家たちの弊害のひとつは、彼らが若いころに得た名声と影響力のままで、新しい知見に頑強に抵抗し、若い人々を惑わし続けることなのだ。宇宙は拡張し続けるというアイデアに最後まで反対したアインシュタインのように。
それはともかく・・・・。

2012年6月11日月曜日

続・脳科学と心の臨床(19)


心理士への教訓
オキシトシンについてずいぶん書いた気がするが、ほんの数日間の事であった。面白い人には面白いし、そうでない人にとっては全然そうではない。しかし心理士としては、人の心の成り立ちの興味深い一側面を垣間見た、という感覚を持ってほしい。
私は思うのだが、精神的な問題に脳科学的、ないしは生理学的な背景を知るということは、結局は「その人が悪いんじゃないんだ」という感覚を得ることに大きな助けとなる。もちろん精神的な問題を持つ人を前にして、その問題をその人自身の弱さや過ちのせいだと考える方針もありうる。しかし心理士がその人の話に耳を傾けるべき立場にある場合には、その人がある種の問題を抱えて苦悩している人であり、精神的な病の犠牲者であるという見方を同時にできなくてはならない。(ここの所、改めて説明が必要だろうか?患者本人は当然、「自分は悪くない」モードでいることが圧倒的に多い。つまり主として犠牲者としての気持ちを持っているわけである。人間誰しもそうだ。とすれば、治療関係を築くには、「その人が悪いんじゃないんだ」モードで入るしかないことになる。)
 世の中に人との関係が苦手で自分も周囲も困っている人は多いが、その中にはいかにも「オキシトシン受容体不足」をうかがわせる人は少なくない。彼らは他者と心を通わせて穏やかで長続きのする関係を持つ事が苦手で、次々と別の相手と表面的な関係を結んでは壊して行く。時々そのような人との関係に巻き込まれると私たちは「困った人だなあ。」とか「もう付き合うのはやめよう。」などと感情的な反応をしてしまいやすいのだが、「そうか、この人はサンガク(ハタネズミ)タイプなんだ。」と思うことで少し吹っ切れることもあるし、その人に困らされた人(たいていは女性だろう)も、恨みの一部は軽減させることが出来るかもしれない。少なくとも男性(患者さん、彼氏、ご主人)を見る目は、オキシトシンのことを知ることでかなり確かになるはずだ。
しかしこれで「心理士への教訓」はないよな。我ながら。明日から何を書こう?

2012年6月10日日曜日

続・脳科学と心の臨床(18)

今日で仕事が一段落ついた。今のうちに少し部屋の整理でもしておかなければ。私のデスクは積み上げられた書類で囲まれてキーボードを置くスペースがどんどん狭くなってきている状態である。
チビは、ほとんど飲まず食わずの日々を、もう一月も過ごしていることになる。逆にその生命力に驚く。

ここに示唆されるのは、自閉症の幼少時におけるオキシトシン投与による治療ということになるが、他方ではこんなことを考える読者がいてもおかしくない。「そもそも自閉症児に対して愛情をより一層注げばいいのではないか?そうしたらオキシトシンももっと出るようになるし・・・・」しかしそれは自閉症児を持った親の苦労を知らないことになる。いくら情緒的な接近を試みても取り付く島のないのが彼らなのだ。身体接触を嫌う彼らは、抱きしめようとすると体をのけぞらせて逃れようとする。それを押さえつけるのもどこか虐待に似た状況を作ってしまいかねないほどなのだ。(もちろん深刻な例の話である。)
もしオキシトシンが早期のネグレクトに由来する精神疾患を治療する可能性があれば、例えば境界パーソナリティ障害(BPD)などの治療にも道が開ける可能性がある、とEric Hollander は考えているという。ただしこれはBPDが幼児期のトラウマに由来するという前提に立った場合であるが。またそれ以外にも幼児期のトラウマがかかわる様々な疾患の治療可能性にもつながる。それらはPTSD,うつ病、不安障害、統合失調症まで含まれる。
ここで読者は「うつ病や統合失調症も幼児期のトラウマが原因なのか?」と疑問に思うかもしれない。もちろんそれらの疾患は幼児期のトラウマのみによって引き起こされるわけではない。様々な要因がそれらの発症の引き金になっているが、そのうちの一つが幼児期のトラウマというわけである。そしてオキシトシンによる治療により、それらの発症の可能性が少しでも低下する可能性があるということになる。
さらにオキシトシンは勃起不全の治療にも関係しているという。バイアグラがオキシトシンのレベルを上昇させるという研究があるのだ。そもそも男女ともにセックスのクライマックスでオキシトシンが大量に放出される以上、バイアグラはそれをさらに促進するということになるのだ。そこでバイアグラを出産のときに女性に投与するという研究もあるというが、これも同じ趣旨によるものだろう。
ところでここまで考えると、当然オキシトシンをレクリエーショナルドラッグとして用いようと画策する人たちが出てきてもおかしくない。何しろ米国では抗鬱剤ですら鼻から吸ってハイになろうとする人たちがいるほどである。しかしオキシトシンを濫用していい気持になろうとする試みは成功していないという。例によってネズミによる実験が行われているが、コカインとかヘロインのようにネズミはオキシトシンを欲しがらないのだ。だからオキシトシンは、ブラックマーケットでは扱われていない。つまりオキシトシンはそれ自体が私たちに快感を与えるのではなく、あくまでも他人との接触が快感につながるのを助けるという作用があるのである。

続・脳科学と心の臨床(17)


私のオキシトシン熱が続いているが、いろいろ読んでいくうちに、だんだん全体像がつかめてきたような気がする。結局一番知りたいのが、精神医学的な治療手段としての意味であるが、それをMaia Szalavitzというすごいジャーナリストが書いている“Cuddle chemical' could treat mental illness“ という記事(New Scientist 電子版、2008514日、(http://www.newscientist.com/article/mg19826561.900-cuddle-chemical-could-treat-mental-illness.htmlを読んでみる。

そこでまずは当然ながら、自閉症である。オキシトシンの投与で、自閉症の患者は、他人の声のトーンによる感情表現の理解を高めたという。そしてそれは一回の静脈注射で2週間ほど効果が持続したという。(Eric Hollander, Biological Psychiatry, vol 61, p 498). それ以外にも、オキシトシンの血中濃度が、自閉症で低いこと、オキシトシンのリセプターの異常と自閉症の関係などの研究が出ているという。
ある一連の研究は、母子関係の早期にオキシトシンを投与することに意味があるという可能性を示唆している。というのもサルの実験で、母親からグルーミングをより多くもらったサルほど、オキシトシンの濃度が高いということが知られているからだ。

これとの関連で、母親からの愛情を受けられなかったことで二次的に一種の自閉症のような状態が生まれることが知られている。杉山登志郎先生が提唱なさっている「チャウチェスク型自閉症」という概念をご存知の方も多いだろう。チャウチェスク政権下のルーマニアの孤児院は極めて悲惨な状況で、子供たちはほとんどネグレクト状態に置かれていたという。そしてその子供たちの中には一見自閉症のような様子を示すケースも少なくなかったと報告されているが、これに関連して、ルーマニアの孤児院で過ごした子供たちは、里親に接触してもあまりオキシトシンの量は増えなかったという研究があるという(Proceedings of the National Academy of Sciences, vol 102, p 17237)。

ここに示唆されるのは、自閉症の幼少時におけるオキシトシン投与による治療ということになるが、他方ではこんなことを考える読者がいてもおかしくない。「そもそも自閉症児に対して愛情をより一層注げばいいのではないか?そうしたらオキシトシンももっと出るようになるし・・・・」しかしそれは自閉症児を持った親の苦労を知らないことになる。いくら情緒的な接近を試みても取り付く島のないのが彼らなのだ。身体接触を嫌う彼らは、抱きしめようとすると体をのけぞらせて逃れようとする。それを押さえつけるのもどこか虐待に似た状況を作ってしまいかねないほどなのだ。(もちろん深刻な例の話である。)


2012年6月8日金曜日

続・脳科学と心の臨床(16)

ところでオキシトシンについては、これもかなり定番になっているハタネズミの話がいつも出てくる。これ自体非常に興味深いのであるが、散々書かれていることなので、私は文章に起こすのが億劫である。そこで「はじめての進化論」河田雅圭 講談社現代新書、1990年から引用する。以下にポイントを下げて掲げるが、エッセンスだけを抽出するとこうだ。ハタネズミには、草原に暮らすタイプと、山に暮らすタイプがある。前者は一夫一婦なのに、後者は一夫多妻である。あとは見た目は変わらないのだ。ではどこが違うかというと、オキシトシンの受容体が、後者には非常に少ないと言うことがわかったというのだ。そしてそれはおそらく昔突然変異により生じたであろう事、そして遺伝子のちょっとした変異により動物の行動パターンがここまで違ってくると言うことを教えてくれたことになるのだ。そして前者のオキシトシンをブロックすると、とたんに夫は妻の元に帰らなくなってしまうというわけだ。人間の場合はどうかを想像しないではいられないではないか。

多くのほ乳類は、一匹の雄が複数の雌と交尾をする一夫多妻制であったり、あるいは一匹の雄は複数の雌と交尾し、さらに一匹の雌も複数の雄と交尾をする乱婚制であったりする。1匹の雌と1匹の雄がペアをつくり、雄が子育てを手伝うという一夫一妻制は、ほ乳類の中では 3% 以下にすぎないといわれている。ここでは、このような社会行動の違いはどのような遺伝的な違いによって引き起こされるのかについて紹介しよう
 尻尾が比較的短く、草原や森林に生息するハタネズミあるいはヤチネズミと呼ばれるネズミの仲間がいる。日本では、エゾヤチネズミなどがその仲間として知られている。この仲間は、種や個体群によって、多様な社会構造をとることが知られている。アメリカに生息するプレーリーハタネズミ ( Microtus ochrogaster は、一夫一妻制をとるのに対して、近縁種のサンガクハタネズミは ( M. montanus 一夫多妻制である。プレーリーハタネズミの雄は、パートナーとなる雌と同じ行動圏をもち、同じ巣を共有する。また、その一匹の雌と交尾をするだけでなく、生まれた子どもの世話し、侵入者を追い出したりなどの防衛行動もとる。一方、サンガクハタネズミは、雌は縄張りをもつが、雄は複数の雌の行動圏を動き、複数の雌と交尾をする。交尾後、雄は、交尾をした雌のところにはとどまらず、子供の世話もしない。一方 , 雌は子供が生まれた後、すぐに発情が訪れ、別の雄と交尾をし、子どもを授乳している間に、おなかの中には、別の雄の子供が育っているという状況になる。
 このように一夫一妻制の行動には、交配行動、雄の子供の世話、パートナーに対する選好性、侵入者に対する雄の攻撃性、雄と雌が巣を共有するという他個体とのコンタクトの許容などといった一連の行動が含まれる。一夫一妻制と乱婚制の行動の違いには、神経内分泌ホルモンであるオキシトシンとバソプレッシンが関係している。一夫一妻のプレーリーハタネズミでは、脳内でのオキシトシンの放出は、雌が交尾をした雄といっしょにいることを好むことを助長し、バソプレッシンは、雄が同様に交尾をした雌といっしょにいることを促進したり、子供の世話をしたりすることを促進する。しかし、乱婚制を示すサンガクハタネズミでは、オキシトシンもバソプレッシンも違った行動を促進する。たとえば、サンガクハタネズミの雄はバソプレッシンによってグルーミングが促進される。
 この神経内分泌ホルモンの構造自体は、一夫一妻制を示す種とそうでない種では違いがなく、このホルモンをつくる遺伝子の違いが交配システムに影響しているのではない。インセルらは( Insel et al. 1994 )は、オキシトシンとバソプレッシンが結合する受容体の脳内での位置を調べたところ、特にバソプレッシンの受容体(V1aR) の分布が異なることを明らかにした。一夫一妻制のプレーリーハタネズミのバソプレッシンの受容体(V1aR) は、腹側淡蒼球( Ventral pallidum )と呼ばれる領域に多く分布していた。腹側淡蒼球は前脳腹側領域と中脳辺縁ドパミン報酬経路内に位置する。このような受容体の分布は、同様に一夫一妻制であるアメリカマツネズミM.pinetorum にもみられるが、乱婚制をとるサンガクハタネズミやアメリカハタネズミ ( .pennsylvanicus にはそのような分布がみられない。また、同様に、一夫一妻制のシカネズミやマーモセットにおいて、腹側淡蒼球は前脳腹側領域に多く分布するという。これらのことから、脳内でのバソプレッシン受容体の分布と一夫一妻制との関係は、プレーリーハタネズミだけでなく、ヒトも含めたほ乳類全般に当てはまる可能性もある。
  ヤングらのグループ (Lim et al. 2004) は最近、実験的に、乱婚制をとるサンガクハタネズミのオスの腹側淡蒼球に、ウイルス性ベクターをつかって、バソプレッシンの受容体 (V1aR) 遺伝子を導入した。その結果、オスはメスと身を寄せ合う時間が増加し、さらに、そのオスは子どもの世話をするようになった。この実験の結果から、明らかに、バソプレッシンの受容体 (V1aR) が腹側淡蒼球に多く分布しているということが、ペアがいっしょにいる時間を増大させ、さらに雄が子どもの世話をする行動を促し、一夫一妻制を引き起こしているといえる。これは、 V1aR がドパミン報酬経路にあることと関連しているようだ。中辺縁系ドパミン経路は食物やその他の報酬に対しての本能的動機に重要だと考えられている。バソプレッシンが放出されることで、ドパーミン報酬経路が活性され、それによって、パートナーであるメスに体する選好性をもたらしていると考えられている。
 それでは、どのような遺伝的な違いが、脳内の受容体の分布を変化させたのだろうか?バソプレッシン受容体(V1aR) の遺伝子を、プレーリーハタネズミとサンガクハタネズミで比べてみると、受容体自体をコードしている遺伝子の領域に、両者の間で違いはないが、その遺伝子の上流といわれる部位に違いがみられる (Young et al. 1999) 。遺伝子は通常、その DNA の配列から RNA に転写されアミノ酸に翻訳され、タンパク質が作られる。タンパク質がどこで、いつ作られるかは、そのアミノ酸に翻訳される DNA の配列の上流といわれる部位によって調節されている。プレーリーハタネズミの V1aR の遺伝子の上流部位には、マイクロサテライト DNA と呼ばれる繰り返し配列が挿入されている。この部位を含めた V1aR 遺伝子を、ハツカネズミに入れてやると、オスはペアのメスといっしょにいる行動が長くなった。従って、 V1aR 遺伝子の調節領域の変化が個体の行動を変える部位であると考えられる。このマイクロサテライト DNA は、通常より高い率で突然変異を起こすことが知られているので、比較的頻繁に、乱婚制、一夫多妻制から一夫一妻制の行動へ、またその逆の突然変異が生じる可能性がある。オスが一匹のメスと長期間ペアを維持し、子どもの世話をした方が、他のメスを探して交尾をするよりも多くの子どもを残せるような環境に生息する集団の中の個体に、この領域での突然変異が生じた場、この遺伝子をもった個体は集団の中で増加していくだろう。ただし、ハタネズミの間でみられる一夫一妻と一夫多妻制の違いには、別の複数の遺伝子も関与していると思われている。しかし、一つの遺伝子によって大きな違いが引き起こされた後に、別の複数の遺伝子が関与して、交配システムに関わるその他の形質が徐々に進化していったと考えることができる。
  これらの一連の研究は、行動の進化の研究に多くのことを示唆してくれる。一夫一妻や一夫多妻制といった交配システムは、ペアとの絆、オスの子どもの世話といった複雑な社会行動によって成り立っている。しかし、そのような複雑な行動も、 DNA に生じる小さな変化によって変化しうるということを直接的にこの研究は示したことになる。 70 年代、 80 年代に、行動生態学の分野では、交配システムを引き起こす個体の社会行動に遺伝子が関与し、自然選択よって進化することを盛んに議論してきた。しかし、社会行動における遺伝子の関与をもっとも強く主張してきた行動生態学者にしても、複雑な社会行動の違いにが、 DNA の一カ所の違いで引き起こされる可能性があるとは、予想していなかっただろう。 
 また、ヒトなどほ乳類の行動は、高度に発達した脳や神経システムによって引き起こされるので、遺伝的な関与は少ないと考える人も少なくない。しかし、この研究では、脳の構造や神経回路の形成に関わる遺伝子の違いによって、行動の大きな変化が起こされることを示している。最近の様々な研究で、遺伝子の違いがヒトの行動の違いを引き起こすということが示されてきている。 ヒトの社会は、その多くが一夫多妻制であるといわれている。多くの人類学者や社会学者はこのようなヒトの行動や婚姻システムは文化や環境がつくりだしたもので、遺伝的な影響があることは否定することが多い。ヒトの婚姻行動が、ハタネズミと同じであるかどうかはわからないが、少なからず遺伝的な影響を受けていることは否定できないだろう。 
Young, L. J., Nilsen, R., Waymire, K. G., Macgregor, G. R. and Insel, T.R. (1999): Increasing affiliative response to vasopressin in mice expressing the V1a receptor from a monogamous vole. Nature 400,767-768.
Lim, M. M., Wang, Z., Olazabal1, D. E., Xianghui, R., Terwilliger, E. F. and Young, L. (2004): Enhanced partner preference in a promiscuous species by manipulating the expression of a single gene. Nature 429 , 755-757.

2012年6月7日木曜日

続・脳科学と心の臨床(15)


ところでオキシトシンについての私の文は、かなり脳天気なものである。これではオキシトシン礼賛、みんなオキシトシンを注射すればハッピーとなる、という感じだ。しかし医学の分野で、そういうことは決して起きない。100年以上前にフロイトがコカインで精神科的な問題がすべて解決すると夢想し、結果的にたくさんの中毒患者を生んだように、俗に万能薬と考えられたものが多くの弊害を引き起こしたという例はいくらでもある。だからオキシトシンについてもその後の医学研究がどのようになっているのかを見てみる。それにはネット検索が一番だ。
たとえば、American Psychological Association Science Watch “Oxytocin’s other side” By Beth Azar http://www.apa.org/monitor/2011/03/oxytocin.aspx) という記事を読んでみる。これにはオキシトシンに関する楽観的な情報以外にも悲観的なものもある。まず楽観的なことから言えば、米国では“Liquid Trust”:という香水風のスプレーもうっているという話から始まる。そして最近ではオキシトシンを自閉症のみならず、社交不安障害(対人恐怖の一種)や統合失調症に用いようという傾向もあるという。自閉症に投与することで、社交場のキューを読み取ることが出来、社交不安の人の不安を和らげるという研究があるというのだ。とここまではいい。しかし研究の中には、オキシトシンの投与が他人への信頼を低下させたり、また対人関係が問題になっている際に濃度が上がるという結果もあり、すべてに間違いなく聞く、ということではないらしい。気を付けて使用すべき薬物でもあるのだ。
またオキシトシンは他人との結びつきから繰る心地よさにのみ関係しているかというと、そうでもないらしい。ストレスに晒されたり、痛みに耐えていたり、というときにも上昇するというのだ。そしてその場合には、そのストレスかで人との接触を求めるからではないか、というのがShelley E. Taylor, PhD,という研究者の見解であるというPsychological Science (Vol. 15, No. 6, pages 273-2772006) 
しかしこれには別に意見もあるという。ストレス下のオキシトシンは、その人をPTSDから守る働きがある、というものだ。シカゴのSue Carter, PhDという人の研究によれば、女性にとって出産という痛みと恐怖を伴った体験が外傷とならないために自律神経を保護しているのが、オキシトシンであるという。(ここら辺の貴重な情報は、, Science Watch “The two faces of oxytocin. Why does the 'tend and befriend' hormone come into play at the best and worst of times?“ By Tori DeAngelis (http://www.apa.org/monitor/feb08/oxytocin.aspx  より。)

2012年6月6日水曜日

続・脳科学と心の臨床(14)

オキシトシンが問いかける「愛とは何か?」

ある妊娠中の患者さんが、おなかの中にいる赤ちゃんに違和感、いやもっと言うと異物感、嫌悪感を抱いていたという。「どうして私の体の中でもうひとりの生物が大きくなっているの?なんの断りもなしに。」彼女はやがて生まれてくる赤ん坊とどんな対面をしたら言いかと途方にくれたという。そして当然ながら生まれる不安。「私はちゃんとお母さんになれるのだろうか?」・・・ さて赤ん坊が無事生まれて3ヶ月。彼女は子育てに没頭して、充実した毎日を送っているという。こんな話を聞くと精神科医は思う。「ハハー、脳の中でアレが出たんだな。最初の授乳のとき。これは間違いなし。」


今度はうちの神さん。チビのこととなるととても「犬」とは思えない。息も絶え絶えとなっている最近では、チビはおしっこの我慢もままならない。外出のときはオムツをさせるしかないがそれは忍びないという。それくらいならカーペットの上でもしてもらっていい、と。「どうして?」と聞くと「だってオムツにするのは気持ち悪いでしょう、かわいそうじゃない」「ハア?」と私。神さんにとってはチビはペットではない。「家族」なのだという。おそらく、ではあるが神さんの頭の中でも、チビに向かうときにはアレが出てるんだろう。おそらく。
週刊誌をにぎわす某芸能人。とっかえひっかえ女性を変え、すぐに飽きてしまう。言葉巧みに女性を誘うことだけは超一流だが、その後の関係が続かない。こいつの頭にはアレの受容体が少ないんだろう。おそらく生まれつきだね。
もうアレが何かはお分かりであろう。オキシトシンである。この続・脳科学と心の臨床では少し触れたが、このまま終わらすわけには行かない。それほど不思議な物質である。
医学部時代(はるか昔である)は、オキシトシンは子宮収縮・射乳ホルモンと習った。脳下垂体の効用から出るホルモンである。女性の出産や授乳の際にジワーッと出るホルモンということになる。それにしても自然界とはよく出来たものだ。このホルモンが動物の愛着にも関連していることが徐々に知られるようになった。これが分泌されるとその時関わっている相手に対する愛情がわくというわけだ。これって赤ちゃんにお母さんが愛着を持つ為にこの上なく都合がいい。母親はこうして一生赤ちゃんにほれ込んで面倒を見続ける運命になるというわけだ。(ところで同時に赤ちゃんの脳でもオキシトシンが出るのだろうか?勉強不足で知らないが、おそらくそういうことなんだろう。それが子どもからの愛着や刷り込みの基礎になっている可能性がある。)

2012年6月5日火曜日

続・脳科学と心の臨床(13)


一番わかりやすいマイナートランキライザー
<このテーマ、うまく行くかわからないが、とりあえず書き始めてみる。>
マイナートランキライザー。別名抗不安薬。英語圏では「ベンゾ」と呼ばれたりするが、もっぱら「ベンゾジアゼピン系」という種類の薬がこれに属するからだ。
マイナートランキライザーは、俗に「マイナー」と呼ばれる。心理の先生にも一番なじみがある薬だろう。というか、自分で飲んでいる方もいらっしゃるかもしれない。精神科にかかっている患者さんならおそらく半数以上に、この薬が出されているだろう。また内科医にかかってもいつの間にか出ていたりする。
心理療法を行っている人に精神科の主治医がいる場合、「この患者さんはどんな薬を飲んでいるんですか?」などと聞いてみると、よく「エーと、メジャーと、抗うつ剤と、眠剤と、あとマイナーね。」とかいわれることがある。あのマイナー、である。感覚からして、「おかず」的なニュアンスがあるかもしれない。メジャー(あとで説明)とか抗うつ剤(これもあとで説明、続けば)とかが重要だからまずリストにあげられ、「あと」とか、「それと」とかいう感じで付け加えられる薬。(何か、薬の解説本のようになって来た。イケナイイケナイ。脳科学、脳科学)
マイナーは、ある意味ではわかりやすい薬だ。というのも脳の中にあるものすごい数のリセプターに働くのだ。リセプターとはなんだ、ということになると説明が大変なことになるが、こう考えて欲しい。脳は巨大なネットワーク。そのいたるところにスイッチがある。プラスのスイッチとマイナスのスイッチ。ネットワークとは神経細胞(ニューロン)の間の結合だが、それぞれの神経細胞には、その働きを高めるスイッチと低めるスイッチがあると言うわけだ。そのうちそこが押されると働きが抑えられるスイッチのことを言っている。それはGABA(ギャバ)リセプターとよばれている。マイナーはそのスイッチをポン、と押して脳全体にブレーキをかけてくれる。どんな形をしているって?ここに私の薬についてのネタ本が登場する。スティーブン・スタール教授の本だ。でも最新版にはわかりやすい図が載っていないのでネットから引っ張ってくる。
http://gomerville.com/2009/10/12/how-to-kill-someone-properly/
このリセプターにはいくつかの結合部位がある。英語で分かりづらいかもしれないが、ベンゾジアゼピン(つまりマイナーのことだ)以外にもアルコールやバルビツール系の薬物も結合する。つまりGABAはこれらの物質も刺激して、同様の効果を及ぼす。それは脳の全体の働きをスローダウンすることである。その結果人の精神に起きることは、鎮静、抗不安効果 → 眠気 → 睡眠 →昏睡 (→ 死)ということになる。ただしマイナーはGABAリセプターへの働きが強くないために、どんなにたくさんODしても昏睡にまで至ることはない。ところがアルコールもバルビツール系も、量によっては死にまで至らしめてしまう、恐ろしい効果を持つのだ。
<うーん、このテーマいま一つのらない。続かないかも。>