2012年5月31日木曜日

続・脳科学と心の臨床(9)

マインド・タイム ベンジャミン・リベ(ット)の示したこと

Benjamin Libet は知る人ぞ知る神経科学者である。1970年代に彼の行った実験は極めて画期的なものだった。ちなみに彼の名前を見ると私にはどうしても「リベ」(フランス語読み)と発音したくなる。彼の祖先はフランスから移民したはずだ。しかし正式には「リベット」らしい。(というよりアメリカではそれで通用しているらしい。何しろ彼の実験について書かれた「マインドタイム」(下條 信輔訳、岩波書店、2005年)の訳者の下條先生も「リベット」と書いているのだ。そこで妥協して以下はBLと表記させていただく。
実は私はBLの実験のことをよく理解してはいない。初めて読んで10年以上経っているが、どうしてもわからないことが出て来る。ただしこれだけは確かだということをまとめると次のようになる。
「行動を起こそうと思った瞬間には,脳はすでにその行動に向けての活動を開始している。約0.5秒前に、脳は意図的な行動の準備を始めている」
BLの実験は、極めて精密に作られた時計を前にして、被検者に指を動かす実験をしてもらうというものだった。彼は指を動かそうと思った瞬間を正確に記録できるようにして、その人の脳波を取ってみると、脳波はその「瞬間」の0.5秒前に活動を開始していることに気付いたのである。BLが特に関心を持ったのは、私たちがあることを意識する、気がつく、ということと脳の働きとの時間的な関係だった。どうやら私たちが何かを意識するそれ以前に、脳はそれを扱い始めるらしい。ということは脳を動かしているのは私たちの自由意志ではない?…
BL
は大脳皮質を直接刺激するという実験もしている。手術のために開頭している患者に協力を依頼したのだ。大脳皮質に弱い電流を流してみると、それを0.5秒以上刺激しないと、その人はそれに気がつかなかったという。(しかしどんな麻酔の仕方をしたのだろう?)そしてその大脳皮質に神経を送っている身体の部位、例えば腕を刺激してそれが脳に達して0.5秒以上立たないと、脳はそれを体験しないこともわかった。(つまりその腕の刺激が脳に達してから、ジーンと、少なくとも0.5秒は大脳皮質を刺激してくれるのだろう。そういうことになると私は理解している。)ちなみにこのBLの実験を非常に簡潔にまとめたサイトを見つけた。詳しくはそちらを参照していただきたい。 http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=63&l=23
しかし私自身にとっては、このBLの実験は非常に日常感覚にあう。たとえば私たちは創作活動をする人の多くが、内容が向こうからやってくる、という体験を語ることを知っている。明らかに脳ですでに作られたものがやってくる、と彼らは言うのだ。例えばモーツァルトは、一人でいる時に曲が浮かんでくるということがよくあったが、それをコントロールすることは難しかったという。しかし曲は出てくるときは自然に浮かんできて勝手に自らを構成していくという。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという。 Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。

2012年5月30日水曜日

続・脳科学と心の臨床(5)-1

彼の報酬系は「ハイジャック」されてしまうことがある



報酬系の話は実は精神科関係の疾患にとっても重要である。それは嗜癖の形成である。特定の薬物、特定の行為等で報酬系が強烈に刺激され、強い快感が体験されると、人はそれを追い求めるようになる。問題はその体験をしばらく繰り返すと、人はそれから逃れることがきわめて難しくなるということだ。嗜癖とはそれほど恐ろしい病なのである。


 先ほど「報酬系は中脳被蓋野から側坐核へ至るドーパミン経路である」という説明をしたが、その内容の細部を知る必要はない。ただし被蓋野からのルートの一部は、前頭前野にも及んでいる、ということは覚えておいていただきたい。前頭前野とは大脳皮質で、ここで生じたことは意識にのぼる。この前頭前野への投射は、いわゆる飢餓感や渇望に関係していると言われている。このルートにより快感の体験は、「もっと欲しい!」という渇望、飢餓感として意識されるわけである。そして今度はその前頭前野から側坐核へのグルタミン作動性のループが知られている。嗜癖ではこのループに重要な変化が生じていることがわかっている。そこが太いパイプのようになり、そこを強烈に信号が流れるようになってしまい、もうそれを変えることが出来なくなってしまうのだ。そして前頭前野で「~が欲しい」と思い浮かべることで、激しい渇望がわき上がり、それを止めることが出来なくなってしまうのが、この報酬系がハイジャックされた状態、つまり嗜癖が成立している状態なのだ。


私たちはたばこ(ニコチン)や酒(アルコール)やいわゆる麻薬(大麻、コカイン、アンフェタミン、ヘロイン,モルフィンなど。ただし正式な意味での麻薬 narcotics は阿片から生成されるもの、つまりヘロイン、モルフィン、コデイン系のもの及びその人口合成物質、つまりオピオイドのみをさす。日本語の用い方が不正確なのだ。 )によりその様な状態が生じることを知っている。しかしそれはギャンブルやゲームなどによっても生じうることが知られる。それらへの嗜癖が生じている人の報酬系の興奮をfMRIなどで調べると、興味深いことが生じている。それは彼らにおいては、普通の人にとっては快楽的なことも、報酬系に興奮が起こらないのである。例えばおいしいものを食べても余り喜びを得られない。普通のセックスでは快感は得られない。その時例えば煙草やアルコールや、その他の嗜癖になっているものを付け加えることで、初めて報酬系が通常通りの興奮するように出来ている。つまり嗜癖物質や行為を介さなければ、本来の快感を味わえなくなってしまっているのだ。


私たちは嗜癖を生じた人たちのことを、普通の人たちより享楽的だと感じるかもしれない。彼らは通常の人間よりより大きな快感を得ている、と。しかしそれは実は正しくない。彼らは普通の人が体験できるような満足体験を得らえず、不幸や苦痛を味わっているのである。そして人並みの快楽を得るために薬物や嗜癖になっている行為をするという極めて不幸な事態が生じているのだ。



面接者への教訓2) 


来談者と対面する時、彼がどのくらい人生で不可逆的な変化を被っているかを常に考えることは重要である。それはその来談者が背負っている運命のようなものであり、その部分を心理療法で変更したり修正したりすることは極めて難しいことだ。そこは「定数扱い」すべきなのである。


その不可逆的な変化は、以下の三つの可能性がある。一つはどのような深刻なトラウマを負っているのか。一つは幼児期の愛着対象との関係がどの程度深刻な阻害を受けていたか。これらの二つについては別の章で述べるとして、もう一点重要なのが、彼の報酬系がどの程度「ハイジャック」されてしまっているか、である。この状態は表からは見えにくいが極めて重要である。ある人が一見正常に話をしていても、その人がある種の嗜癖を持っている場合には、もはや正常な思考や行動は期待できない。その人においてはその思考や行動のおよそ全てが、嗜癖物質や行動に伴う快感を得ることを目指している。面接者がアルコール中毒の人にいかに生産的な人生設計を説いても、彼らはそれを聞いているふりをしても心の中では鼻であしらっているだけだろう。彼らの頭の中は、いかに面接者との話を適当に切り上げて、どこかで酒を手に入れるか、ということしかないのだから。


問題は報酬系がある強烈なターゲットを有した状態は、極めて強固で変更不可能だということをいかに理解しておくかである。嗜癖の脳科学を知らないと、そこで来談者を説得しかかったり、意志の力に訴えかけようとするかもしれない。あるいは嗜癖に負けてしまう来談者に対して叱ったり、面接者の言葉を軽んじていると被害的になったりもするだろう。でも面接者に必要なのは、来談者にとっておそらく唯一の救いの道である禁断 abstinence をいかに成し遂げるかを、来談者に冷静に考えることなのだ。また嗜癖に陥りかねない状態にある来談者に対して面接者が出来るおそらく唯一のこと。それは心理教育である。それは嗜癖の恐ろしさ、不可逆性について説くことである。嗜癖を回避するおそらく唯一の完璧な方法は、その嗜癖物質や行動にさらされないことである。君子危うきに近寄らず。


2012年5月29日火曜日

続・脳科学と心の臨床(8)


ミラーニューロンの機能不全としてのアスペルガー障害
決め手はオキシトシン、ヘパラン硫酸?

心の問題を考える人々はさまざまな仮説を設ける。私がミラーニューロンに絡ませて書いている事柄もそうだ。言語の習得に関しても、それがミラーニューロンと密接に絡んでいるという確たる証拠が示されていない以上、仮説的推論というわけである。
さてミラーニューロンの話がここで終わらないのは、現在さまざまな分野で関心を呼んでいるアスペルガー障害との関係でも、いろいろ仮説が考えられているからだ。アスペルガー障害については、それは精神科的な問題として理解するべきではあるが、世の中にはアスペルガー傾向を持つ人はゴマンといえる。中には男性のかなりの部分はこの問題を抱えている、という極端なことを言う精神科医もいる(あっ、私のことだった)。言うまでもなく、アスペルガー障害とは、発達障害のひとつとして考えられ、人の心が理解できない、空気が読めないということが主たる問題と考えられ、その意味でミラーニューロンの機能不全が起きているのではないかといわれている。そして事実それを示すようなエビデンスもある程度は出されているようだから、根拠のないことではない。
たとえば今年の427日に毎日新聞電子版に出ていた記事である。
 「金沢大の研究グループが26日、自閉症の症状改善に効果があるとされる脳内ホルモン「オキシトシン」が、自閉症の人に多い考え方や感じ方をする人に対し、効果があることを脳内の反応で確認したと発表した。同大附属病院の廣澤徹助教(脳情報病態学)は、「自閉症の人のうち、どんな性格の人に効果があるかが分かった。自閉症に起因する精神疾患などの治療にも役立てたい」と話している。オキシトシンは出産時に大量に分泌され、子宮収縮などに作用し、陣痛促進剤などに使われる。近年、他者を認識したり、愛着を感じるなどの心の働きに関連するとの研究報告も出ている。 研究グループは、20〜46歳のいずれも男性の被験者20人に「喜び」「怒り」「無表情」「あいまいな表情」の4種の表情をした37人の顔写真を提示。全員にオキシトシンを鼻の中へ吹きかけ、投与の前後で写真の人物の表情を見た時の脳の反応を、脳神経の活動を示す、脳内の磁場の変動を計る脳磁計で調べた。(以下略)
朝日新聞315日電子版には、こんなニュースも出ていた。
「自閉症、カギの物質発見 米研究所、マウスで症状再現自の主な三つの症状「社会性の低下」「コミュニケーションの欠如」「強いこだわり」をすべて発症するマウスを、米サンフォード・バーナム医学研究所が作った。カギは神経の伝達にかかわる物質「ヘパラン硫酸」。自閉症に関係する物質や遺伝子は複数見つかっているが、すべての症状を併せ持つようなマウスができたのは珍しい。自閉症の原因解明につながると期待される。ヘパラン硫酸は、情報伝達をする脳の器官の発達を促す物質。研究所の入江史敏研究員らが遺伝子を操作して、この物質を作れなくしたマウスは、脳の構造は正常だが、仲間には無関心で、知らないマウスを見ると何もせずに逃げ出した。複数の穴があるのに、一つだけに執着していた。ヘパラン硫酸は、自閉症の原因と考えられている複数の分子とくっついて、その働きを制御していると考えられている。そのため、これがないと複数の症状が出るらしい。」

これらの研究が興味深いのは次の点である。自閉症やアスペルガー障害とは、脳の構造上の問題ではないという可能性がある。わかりやすい最近の言葉で言えば、配線 wiring の問題ではないという可能性がある。つまりこういうことだ。統合失調症の場合には、胎生時に脳の細胞の配列が生じる時点ですでに以上があったのではないか、思春期に脳細胞のシナプスの間の剪定が過剰に起きてしまったのではないか、などの仮説がある。つまり配線の異常が起きているのではないか、ということだ。当然発達障害系についても、同じような仮説が成り立つ。というより発達障害の場合にはこの配線異常はより明確に起きている可能性があると考えていい。なぜなら発達障害はごく幼少時からその異常が見られるし、基本的にはその障害は一生ついて回ると考えられるからだ。それに比べて統合失調症は、ある時期まではかなり正常に近い精神機能を維持する点で、配線には問題なく、むしろそこを流れる電流の問題ではないかと考える方がより理屈に合うわけだ。(ここでいきなり電流、という表現が出たが、これは配線異常との対比で考えている。いわゆる神経伝達物質などは、この電流系の問題ということになる。たとえばセロトニン系の配線に電流があまり流れないとうつになる、というわけだ。←本当はこれよりはるかに複雑だが、一応単純化した言い方をしておく。)
ところが発達障害の代表であるアスペルガー障害の症状が、ある物質の投与により回復するとしたら、これはやはり配線以上ではなく、電流以上、ということにもなるだろう。これは少し予想外のことなのだ。

2012年5月28日月曜日

続・脳科学と心の臨床(7)


いや「『想像』するわけではない」、というのは言いすぎかもしれない(と、さりげなく昨日書いた文を修正。)人の痛みをわかるという上で、想像は重要な要素であろう。しかしそれ以上のもの、あるいはその想像を生み出す生物学的な基盤となるものがミラーニューロンという形で私たちの脳に備わっているのだ。
想像以上の機能を果たすミラーニューロン、ということについて説明するときに私がいつも持ち出すのが、言語の習得のプロセスである。たとえば英語のRLの発音の区別がつかない日本人は多いが、それは私たちが思春期以降に外国語として英語を習得する場合が圧倒的に多いからだ。語学として勉強する英語の発音は、教室で先生の出した音をまねることから始めなくてはならない。これはミラーニューロンをほとんど介さない習得の仕方だ。中学1年生を前に初めての英語の授業でRの音を出す練習をするとなると、生徒はその音がどのように出ているのかを頭の中でいろいろ想像する必要がある。それでも足りないと、英語の教師はそれこそ口の中で舌の先をどこに持って行くかという解説を具体的にする必要が生じる。これはこの時期にはすでにミラーニューロンが活用できない時期になっているからであると考える。
 しかし幼少時に習得する外国語は全く異なったプロセスを経る。生活の中で聞いたRLは模倣しようという意図を介さずに舌先から出てくるだろう。ミラーニューロンの働きを考えることなくこのようなプロセスを考えることなど出来ないのである。
面接者への教訓
ミラーニューロンについて知ることは、共感ということを考える際に一つのヒントを与えてくれる。表題に「他人の気持ちは分かって当たり前」と書いたが、これはもちろん少し奇をてらった書き方だ。いつも私はバイジーさんたちに「人の気持ちなどわからない、わかったつもりになってはいけない」と言っている。だからこんなことを言うと「ではどっちが本当なんだ!」と言われそうだが、どちらも本当なのである。
ミラーニューロンが働くのは、私たちが他人の意図を読み取ったと思えた時である。(言い忘れたが、ミラーニューロンはたとえはサルが他のサルや人の行動の意図を把握したときに興奮する。パントマイムにはサルのミラーニューロンは反応しないことが知られているのだ。)その時はそれを実感と共に感じ取ることが出来る。しかしそこには読み違えが生じるかも知れない。映画のシーンを見て涙ぐんでいる人を見て、自分もジーンと来たとしよう。でもその人は映画が退屈でちょうどアクビを噛み殺したせいで涙を浮かべていたのかもしれない。そうするとこれはミラーニューロンの誤作動と言うことにもなる。それに人の行動はさまざまな動因や目的を含むことが多いため、いくらミラーニューロンを備えていても、他人の心の中をすっかり写し取ることなど出来ようもない。すると思考の方向性としては、こうなる。「他人の気持ちはわかって当たり前なのに、どうして私たちはここまで人を誤解するのだろうか?」すると「人の気持ちなどわかったつもりになってはいけない」という主張とあまり変らなくなる。
ミラーニューロンの話に乗せて私が主張したいのはこういうことだ。ミラーニューロンは、目の前の他人の意図やおかれた文脈を理解し、実感することを助けてくれる。その意味では来談者の話を聞きながら面接者がもらい泣きをしたり、一緒になって腹を立てたりすることは自然に起きていい。精神分析ではそれを「逆転移」と読んだり、「自分自身を客観的に見られていないからだ。ブンセキが足りない」、と言われたりするかもしれないが、そんなことはない。要はそれを行動化せずに用いることだ。私は常々考えている面接者の備えるべき「探索子」や「受信装置」のようなものがミラーニューロンに相当するのではないかと思う。人の気持ちになった時に振れる怒りや悲しみの針。それを用いることはある意味で的確に治療を進行させてくれるだろう。例えそれが「誤作動」であっても。来談者が悲しい話をしていてこちらのミラーニューロンがその悲しみを捉え、ふと見ると来談者は少しも悲しそうに見えなかったとしたら、そのギャップもまた何か重要なものを示していることになる。

2012年5月27日日曜日

続・脳科学と心の臨床(6)

ミラーニューロンが意味するもの―他人の気持ちは分かって当たり前

京都大学といえば、今西錦司の時代から、霊長類の研究はお家芸である。その研究所グループでは霊長類の利他行為に関する研究成果が注目されているようだ。
利他行為とは文字通り、他人を利する行動。本来利己的と考えられる動物にはあってはならないはずの行動である。しかしチンパンジー同士が、自分への直接の見返りがなくても助け合うという様子が見られるという。
京都大学のサイトから引用する。(
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2009/091014_1.htm)「霊長類研究所でおこなった実験では、隣接する2つのブースに、2つの異なる道具使用場面を設定した・・・。ストローを使ってジュースを飲むストロー場面と、ステッキを使ってジュース容器を引き寄せるステッキ場面である。ストロー場面のチンパンジーにはステッキを、ステッキ場面のチンパンジーにはストローを渡し、ブース間のパネルに開いた穴を通して2個体間で道具が受け渡されるかどうかを調べた。その結果、全試行の59.0%において個体間で道具の受け渡しがみられ、そのうちの74.7%が相手の要求に応じて渡す行動であった。相手からの見返りがなくても要求されれば道具を渡す行動は継続した。」

しかしこのような「研究成果」を読んで私はふと疑問に思うのだ。利他行為をあたかも人間のような高度な知性を備えた心にのみ備わるという前提があるから、それがサルにも生じるという研究には意味が出てくるのだ。しかし目の前で苦しんでいる人を見捨てることができないというのは、私には少しも高度な心の働きという気がしない。といっても私が特に利他的な人間というのではなく、目の前の存在の心の在り方というのはそれほど直接的に伝わってくるものという実感があるからだ。
例えばうちの神さんはよく家の中を歩いていて、足の小指を机の足に引っ掛けて悲鳴を上げるが、チビは必ず心配そうにのぞきこむのだ。チビには人の痛みがわかる。目の前の別の個体の感情がわかるのはある程度は自然なことのように思えるのである。

さてミラーニューロンの話になる。このブログでもすでに書いたことである。その時はこんなことを書いたが、これがすでにコピペであった。でも元の分も自分で書いたから許されるだろう。

「発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究である。彼のグループ、すなわちリゾラッティ、フォガッシ、ガレーゼの三人の共同研究者は 90年代に、マカクサルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。まず運動前野の特定の細胞が興奮から始まる。そこでは運動の計画を立て、そこから運動野に命令が伝えられ、運動野は体の各部の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めて筋肉が動くという仕組みである。」

「たとえばサルがピーナッツを手でつかむ際は、先に運動前野の細胞が興奮して、その信号を手の筋肉を動かす運動野に伝えるという事を行なっている。このように運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるものと思われていたわけだったが、それが違ったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事が分かったからである。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、ミラーニューロンと名づけられたのである。」
「目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということはたいしたことではない、と考えるかもしれない。しかしこの発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していたといえる。それは人が他人の心をわかるということは、単に想像し、知的な推論だけでわかるというよりも、もっと直接的であり、自動的な、無意識的なものであろうということだ。何しろサルでも出来るのだから。また一部の鳥でも同様のニューロンが見つかったとのことである。 (中略)ちなみにこの運動前野と運動野の興奮は、通常はペアになっていると考えることができるだろう。鼻歌を歌ったり、独りごとを言ったりすることからわかるとおり、私たちは人が見ていないときは、イメージすることをそのまま行動に移すことが少なくない。しかし場合によっては行動に移すことが危険であったり、あるいは社会的に不適切だったりし、その場合は運動前野のみの興奮となる」(「関係精神分析入門」岩崎学術出版社、2011年より)。

つまりミラーニューロンが教えてくれたのは、私たちは人の痛みを「想像」するわけではないということだ。それよりももっと直截なプロセスがそこにある。人の気持ちは本来はわかって当たり前、ということができるかもしれない。

2012年5月26日土曜日

続・脳科学と心の臨床 序文

札幌の精神神経学会に土曜日だけ参加してきた。「精神科医がいかに患者と治療関係を取り結ぶか」というテーマのシンポジウムの討論者という役目である。学会の最終日であまり参加者がいないのではという企画者の予想に反し、小さめの会場ではあったが8~9割は埋まったのではないかと思う。札幌は気持ちの良い気候だった。タクシーで千歳空港に向かう風景はアメリカにいたころを思わせた。
私が出版のお世話になることが多い岩崎学術出版社によれば、前書「脳科学と心の臨床」(岩崎学術出版社、2006年)は静かに、しかし着々と売れているという。トピックとしては著者である私にとって特に抵抗なく書けるものである以上、ぜひとも続編をということになった。
しかしそれにしても「脳科学と心の臨床」というトピックはトリッキーである。というのも一見明確なテーマのようでいて、ほとんど「心について好きなことを書いてよい」というのに等しいからだ。言うまでもなく脳は心の座である。脳のあり方が心のあり方を100パーセント支配する。このことはスピリチュアリスト精神論者でなければ納得していただけるであろう。いうまでもなく私は非スピリテュアリストであり、唯脳論(養老猛司氏言うところによる)である。そしてそのような立場から心を描くことは、同時に心と脳を描くことになる。脳に根ざさない心の理論などバカバカしくて考える気になれないからだ。

ところで若干スピリチュアリストが「入って」いる人でも、やはり本書の内容にある程度は納得していただけるように思う。というのもそれでも心はある程度は脳に影響を受けているであろうことは、誰も否定し得ないだろうからだ。
もっと言えば私の立場は、心のあり方は体のあり方に100パーセント支配されている、とも言いたいところだ。今これを書いている私も急に腹痛に襲われたら、不安になってトイレに駆け込むことになるだろう。ただし私たちの体のあり方の多くを規定している自律神経系や内分泌系は、中枢神経系に関連している、ということで非常に荒っぽく、これを「脳」に含めてしまうことにする。(続く)

2012年5月25日金曜日

続・脳科学と心の臨床(5)


以上報酬系について大まかな話をした。報酬系の話は複雑であるが、私たちの脳のあり方が私たちの行動をどのように規定しているかを考えるうえで重要である。この他にも私たちの心や行動を左右している脳の部位はたくさんある。例えば青斑核というところが突然興奮するとパニック発作が起きる。扁桃体の興奮で激しい恐怖に襲われることもある。(両側の扁桃体を除去してしまうと、恐れがなくなってしまう)。前頭前野を広範に除去すると人格が変わってしまい、人間らしさを失ってしまう、などなど・・・。その中で報酬系は、私たちが何に向かうか、何を回避するかという最も基本的な問題を扱っている。

面接者への教訓
来談者の行動の多くは彼ら自身が気がつかなかったり意識できないような動機に基づいている。どのような行動も、どのような症状も、それが報酬をもたらしたり、不安や恐怖を回避したりするといった意味を持っている。その例外としては衝動的な行動やアクティングアウトが考えられるかもしれない。しかしそれらもその瞬間には快楽を生んだり不安の回避に役立ったりしているのが普通である。ただそれが長期的に自分の利益に繋がらないために、その直後にはすでに後悔したり自己嫌悪に陥ったりするわけだ。
だから症状について聞くときは、それがどのような意味で報酬になっているかどうかを同時に聞いて理解しない限りは十分でない。過食に苦しむ来談者に、食べている最中の心地よさや一時的な充足感についても理解を示さない限りは、それがどのような問題をもたらすかについて話し合ってもあまり意味がないのだ。リストカット然り。ゲーム然り。さもなければそれらの行為に顔をしかめる親の立場と同じになってしまう。
来談者の人生が安定してかつ生産的であるということは、彼らの行動が一貫して報酬を生み出し、なおかつそれが将来的にはより大きな報酬に繋がるような役割を果たしているということである。そのような時に短期的な報酬は長期的な報酬を生むことでさらに大きな充足感を生む。それ以外の報酬、例えばゲームを一日何時間もやることによる報酬、パチンコによる報酬、酒を飲むことによる報酬などはそれがその人の将来的な自己実現に寄与しないために空しさを生むことになる。それを仮に「空しい報酬」とよぼう。空しい報酬に浸ることなく、自分をより生産的な行動に導くという能力は、実はかなり高度なものである。それはいわゆるEQにも繋がる、高度な脳の働きである。それは人生をシミュレーションしてそこから逆算して自分の行動を決定していくという前頭葉(DLPFC)の機能であり、実はかなり遺伝的なものなのである。それを来談者に会得してもらおうとしても、それほど簡単にはいかない。おそらくCBTの出る幕はないだろう。
ただしひとつの可能性を面接者は考えておかなくてはならない。それは空しい報酬が、現在の何らかの苦しさを「癒し」ている可能性である。それは職場での同僚からの手荒な扱いであったり、過去の外傷体験の回想に伴うものであったり、うつ症状の苦しみであったりする。その場合空しい癒しを取り去ることは辛うじて保たれていたその人の人生のバランスを崩すことになる。来談者の空しい報酬を禁じたり、それを批判したりすることには、だから相当に慎重にならなくてはならないのだ。


2012年5月24日木曜日

続・脳科学と心の臨床(4)


さて忘れないうちに第2の疑問についても書いておかなくてはならない。それは、私たちは苦痛を回避するという動因も持っているということに関連する。それと報酬系との関係はどうなのか?もっとわかりやすく言えば、苦痛と報酬との関係はどうなっているのか?
ケーキを食べる、という例は快楽的な面しか見えないかもしれない。でもちょっと思考実験をいじってみればいい。目の前のケーキを今食べないならば、他の人に奪われてしまう、という状況にするのだ。するとそのケーキに手を伸ばすという行動はたちまち二つの動因の混合となる。「目の前のケーキを今すぐ味わいたい!」という以外にも「他の人に取られたらどうしよう」という不安や苦痛の回避の二つである。後者が混じることで、例えば「今は空腹ではないので、また後にしよう」という人まで、そのケーキに即座に手を伸ばすことにもなるだろう。
さてこの後者の行動、つまり不安回避については、報酬系ほど分かっていないというのが真相らしい。というよりは不安を回避するための行動は、人間や動物にあまりに基本的な形で存在するために、どこか特定の脳の場所が考えられないというわけだ。つまり報酬系はあっても「懲罰系」は存在しないということか。おそらく脳の様々な部位を刺激しても、ここを刺激したら苦痛を感じる、というある特定の場所が存在しないらしい。というよりそのような部位は脳に広範に存在するのだろう。
快の追及と苦痛や不安の回避は、おそらく人間のあらゆる行動において、同時に存在している。どんな行動も、純粋に快楽的、ということはないのだ。ある快楽を追求することは、同時にそれを失うことへの恐怖を伴う。恋愛を考えればよいだろう。誰かと仲良くなることの純粋な喜びは一瞬である。その次の瞬間から、その人を失うこと、誰かに奪われることへの不安との戦いとなる。

2012年5月23日水曜日

続・脳科学と心の臨床(3)

さて第一の疑問にもどろう。報酬系は快の場合にオンになる、という仕組みだけでは、動物や人の行動を説明できない、という話だ。目の前に出されたケーキは、それを手を伸ばして口に入れるまでは快をもたらさないのであれば、手を伸ばして口にする、という行為はどのように動機づけられるのだろうか?答え(らしきもの)は次のようになる。報酬系は目の前にケーキが差し出された時にもうオンになる。つまり近い将来の快の予測だけでスイッチが入るのだ。すると人はそれを確実なものにする為に行動を起こすのである。更に詳しくは次のような事実が知られている。

報酬系ではドーパミン系のニューロンの興奮が常に一定のレベルで起きている。そして目の前にケーキを出されて、しかもそれを自分が食べていいのだ、と知った時に、その興奮のトーンが上昇して、またもとに戻る。これが「うれしい!」「やった!」という反応なのだ。後はそのトーンは実際のケーキを食べている時も余り変わらないという。しかしその代わりにケーキを食べることが出来なかったらどうなるか?例えばいざ口に入れようとしたら、そのケーキを誰かに取り上げられたりしたら?そのケーキを床に落としてしまったら?あるいはそれが蝋細工であるということを知ったなら?・・・・そのドーパミンニューロンの興奮のレベルが今度は一時的に落ちるのだという。
そこで報酬系とは、実際の快ではなく、快の予想に関して反応する仕組みであると考えられている。(この辺の事情は詳しくは「現代フロイト読本」第1巻(みすず書房、2008年)に「精神現象の二原則に関する定式」の現代的意義、と題して書いておいたのでお読み頂きたい。)
ところで私のこの説明をわかった人は? 実は私はまだまだ納得していない。しかしものの本を読むとこのくらいまでしか書いていない。あとは科学的なデータをネタにしつつ自分で考えよ、ということかもしれない。(続く)

2012年5月22日火曜日

続・脳科学と心の臨床(2)

ちびは薄目を開けているだけのことが多い。しかし昨日私が帰宅したときは、しっぽを振る筋肉が動いたことが分かった。夜は獣医さんの往診。しかしいい静脈が見つからず、投薬は中止。食事はほんの数口。

第一の疑問は、私たちが報酬系の興奮を求めて行動をするとしたら、私たちはどうやって将来の報酬を求めて今を頑張ることができるのだろうか、ということだ。たとえば山登りをする人は、頂上を目指して辛い坂道を汗水流して登ることがどうしてできるのか?(もちろん登ることが純粋に快感な人の場合は例外である。)
このような疑問がどうして生じるかわからない人は、次のように考えてほしい。報酬系がスイッチのようなもので、そこがオンになると電源が流れて動物や人は動く、という仕組みになっているとしよう。これは一見非常にわかりやすい。しかしそのような報酬系は決して報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。目の前においしいケーキを出されてそれを食べる、というごく当たり前の行動を例にとればいい。「おいしい!」という報酬はケーキを食べる瞬間までは得られない。そしてそこまでに至るためには、あなたは目の前のケーキに手を伸ばし、スプーンを使ってそれを口にする、という行動をとらなければ報酬を得られない。こちらの方はたいていは多少なりとも苦痛を伴う。少なくとも面倒くさい。(ケーキを食べたい。でも隣のコンビニまで言ってくるのはメンドい。)すると報酬系が直接駆動するのは、むしろ苦痛な行動なのだ。!
お気づきのことと思うが、動物の行動を説明するためには、実はこのスイッチオン、オフ式の単純な報酬系のモデルだけでは全然足りないことになる。それは想像力。手を伸ばしてケーキを口にした時の快感を想像し、それに向かわせるような装置である。そしてこれを行わせるような装置は非常に込み入っているらしい。だから単純な動物にはこれは備わっていない。その代り本能的な行動、という形で行動の一連のプログラムを脳に備えておく。
 すると、例えばヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュする、という行動を行う。ヒメマスはそれが快感だろうか?うーん、複雑な問題だが、少なくともその一連の行動は自然に起きてしまうようなプログラムがあるとしか考えられない。それを行っているヒメマスが「心地よい」かどうかは別問題だ。(ちなみに私は心地よい、という方にかけたい。しかし答えはおそらく見つからないのだ。ヒメマスにインタビューするわけにいかないではないか。)

2012年5月21日月曜日

続・脳科学と心の臨床(1)


チビの具合が、実はよくない。動物病院に先週一週間入院し、もう家に連れてきたほうがチビの為だろう、ということで、直る見込みもないまま昨夜連れてかえった。原因不明の肝障害。GOT.GPTの値は振り切れたまま。いつまで持つかわからないが、せめて苦痛だけは最小限にしてあげたい・・・。


どうして自分の心がわからないのか? -報酬系の話
あるテレビ番組で、山登りの趣味を持つ人々にインタビューをしていた。「あなたはどうして山に登るんですか?
人々の最初の反応は当惑である。そして口を開いて「そうですね・・・。なんとなく。」とか「自分でもわからないんですが…頂上に立った時の一種の達成感ですね。」あるいは「山登りは私の人生そのものなんです。」と、質問とは方向のずれた答えが返ってくる。
実は同じことは面接者が来談者を前にして頻繁に体験していることだ。
「どうしてあなたはそんな旦那さんと別れようとは思わないのですか?
「どうしてそんな家を出ようとしないんですか?
「どうして今その仕事をやめて起業しようとするんですか?
面接者は来談者の人生における様々な行動の意味を考え、あるいは説明しようとするが、それに対して納得のいく答えを返してくる人は少ない。
脳科学的に考えれば、このような問題には比較的すんなり答えを出すことが出来る。それは人を突き動かしているのは脳の中の報酬系だからである。報酬系とは中脳被蓋野というところから側坐核や扁桃核に向かうドーパミン系の経路であるが、人は、というよりは動物はここが刺激されるような行動をとるようになっている。報酬系とは結局「心地よい」という感覚を生むための装置、ということであるが、実はここが刺激されることが人や動物の行動を説明するということになる。それ以上でも以下でもない。
では何がその人により「心地よい」ものとなるのか? それは余りにも複雑で簡単に説明できないような事情による。少なくともそれは一つの理由からなる、ということはない。どうして山に登るのか、という質問への唯一の正確な答えは、「それが心地よいから」ということになるが、人はそれでは説明にならないと思うからこそ、何らかの理由をそこに見つけようとしてうまくいかない。そこで躊躇したり口ごもんだりするというわけである。特に山登りのように体の負担がかかり、それなりの苦しみも伴う活動であるならば、登山家はそれを正当化するためのもっともらしい理由を見つけようと思う。しかしそれが上手く出来ずに苦労するのである。
ところでよく、「人は感情の動物である」、という。理屈ではない、というわけだ。それもあまりいただけない説明の仕方である。「どうして山に登るのか?」に感情、というのはあまりピンとこない。突然仕事をやめて起業しようとするのが、感情のせいとも言えない。むしろそうすることが自分の報酬系を刺激するからだ、という方がよほど近い。
面接者への教訓
来談者の行動の理由を尋ねる時は、もともと答えのないものを聞いているという認識を持つべし。来談者が何か理由を述べても、それは取って付けただけのものである可能性がある。だから「どうして~したんですか?」という問いかけは空虚なものである。むしろ「そうしたことに自分で何か理由が考えられますか?」という問いかけの方がまだいいであろう。

報酬系の刺激、だけなのか?
人は報酬系の刺激に従って行動を起こす・・・・。最も基本的な事実であり、脳のあり方に根差している。でもこの大前提は早速二つの疑問を私たちに投げかけてくる。
(続く)