2012年1月31日火曜日

心得8.事例

ある患者さんの飼っていた犬の話を聞いた。19歳11ヶ月で亡くなったという。家のチビはまだ(?)15歳になっていない。まだ一瞬だったら走ることも出来る。しかし耳はもう全く聞こえず、抜け毛も激しい。カンザスに住んでいたころ、近くの空き地に散歩に連れて行っていたころを思い出す。はるか遠くまで行っていたチビの名前を呼ぶと、まっしぐらに駆けてきたチビ。チビは自分の老いをどのように自覚しているのだろう?

あるスーパーバイジー(30代前半、男性。臨床心理士)の話。

患者さんから恋愛関係の話を持ち出されると、自分でも動揺するのがわかります。私は実は女性と深い付き合いをしたことはありません。別にそれを友達どうしなどでは隠すことはなかったのですが、この仕事に就くようになり、患者さん達から恋愛や結婚に関する悩みを聞くようになり、自分自身が男女関係の話に疎いことをつくづく感じさせられています。

(以下略)

2012年1月30日月曜日

心得11の事例 (治療的な「残心」という考え)

私自身の例である。かなり以前に、早朝の分析療法を週に4回行っていたAさんとの思い出である。ある日Aさんとの朝のセッションが終えるころに出勤してきた受付係のスタッフの一人に「先生、毎日大変ですね。それにしてもあの患者さん、毎朝よく来ますね。」と声をかけられた私は、「そうなんです。実は彼は強迫的なんですよ。」と受けた。もしかしたら「私も強迫があるから続いているんでしょうね。」くらいは付け加えたかもしれない。いずれにせよ受付のブースの中でのちょっとした会話だった。そしてふと見ると、もう駐車場に向かっているであろうと思っていたAさんは、その受付のブースからさほど離れていない待合いロビーの掲示板に張り出された催物の告知か何かを眺めていたのである。私は「私と受付のスタッフとの会話を聞かれたかもしれない」と思いと思ってハッとした。「彼は私のこの言葉を聞いたとしたらどう思っただろう?」幸いAさんにこちらの会話を聞いたようなそぶりはなかった。私が少し残念に思ったのは、このちょっとしたかげ口のように聞こえたであろう話の内容は、私の本意ではなかったということである。ニュアンスとしては「私たちは似た者同士で、朝から毎日の分析をしています」ということを言いわけがましく受付のスタッフに伝えたわけであるが、早朝毎日のセッションは、精神分析の関係者(治療者も患者も)にとってはごく当たり前の事なのである。ただし分析の事をあまり知らない一般の人(この受付係のスタッフもそうであった)に対しては、少し自嘲気味にそのような説明を加え、受付スタッフの勤務前にセッションを始めさせてもらっているという多少イレギュラーなやり方に目をつぶってほしいといういともあった。しかしそれでもAさんとのセッションを終えた直後に、彼が聞く可能性もあるところでその様な会話をすることの愚かさを反省した。


(以下略)



2012年1月29日日曜日

心得30.治療構造は常に「柔構造」である(1)

寒い。もういや!

「治療的柔構造」は、私が2008年に著した著書の題名でもあり、元慶応大学教授の大野裕氏がその発想のもとである。柔構造とは日本の古来の建築にみられる耐震性の高い構造の特徴をさし、要するに外力を受け流すしなやかで柔軟性のある構造ということになる。(他方鉄筋コンクリートによる従来の西洋建築などはこの種の柔軟性を書いた構造、すなわち「剛構造」ということになる。この柔構造と剛構造、どちらも純日本製の概念である。)
野先生はこれを治療の構造の在り方として導入したわけである。私はこの考えに共鳴してそれをテーマにした本を書いたわけであるが、そこでの要点は次のようなものである。我が国の精神分析界の泰斗であった故小此木教授が示した治療構造の概念は極めて基本的かつ重要なものであり、治療の構造、つまりセッションの行われる場所や回数や時間、精神分析における規則などがきちんと守られることが治療環境の安全性や継続性を保証するというわけである。この治療構造の概念は、精神分析的精神療法だけでなく、認知行動療法その他においても非常に重要なものと考えられている。
さてこの治療的柔構造の概念、少し誤解されることがある。それは治療構造は、それが必要なときには柔構造にする(すなわちそれ以外はできるだけ剛構造にする)、というものである。著者の私はそれを意図したのではない。治療構造はいつも柔構造である、ということが私の真意である。これはどういうことか?治療者は常に治療構造を柔軟なものにしなくてはならない。構造に対する外力には、柔軟さを持って対処するのが基本原則である。あとはどの程度の柔軟さを示すかが、ケースバイケースで、その時の治療者患者関係によるということである。
たとえば患者がセッションの終了時に話が終わらず、1分ほど長く治療室にとどまりたいと要望する。治療者はそれをとりあえずは容認するだろう。ところがもし次回は2分ほど延長を要求してきたとする。治療者はそれを受け付けず、とりあえず前回と同様の一分の延長にとどめるかもしれない。そのうちこれが患者のパターンだと知ると、一分の延長すらそれ以降は拒絶する療法家がいてもおかしくない。他方では同じ患者の身内に不幸があり、切羽詰まった気持ちを表現するのに時間がかかってしまったとしたら、延長時間は5分になったり、予定外のセッションを組むということにもなる。これらはセッションの終了時間を一つの目安、原則として守る時間と決めて、あとの余裕の部分を治療者と患者の関係性(といってももちろんそれを実行する主体はあくまでも療法家ということになるが)が決めるということである。それによりかなりユルユルの構造になったり、ほとんど剛構造に近い治療構造になったりもするのだ。
私はこの説明にボクシングリングを比喩として用いることがある。リングの内と外を仕切っているのは柔軟なロープである。少しの力には伸びることで外力に対応し、かつそれに当たった側の人(ボクサーやレスラー)の体を守ることになる。しかしそれは限りなく伸びては意味がなく、強い応力にはそれだけ大きな反動を示すことで、それ以上の外力の力を吸収する。これが治療構造の基本であるというわけだ。(他方では剛構造的な協会としては、例えば相撲の土俵がそうである。何しろ俵を取り組んだ力士のどちらが先に踏み越えたかどうかという一点で4人の審判が集まって協議したりするからである。
(以下略)

2012年1月28日土曜日

心得18.療法家は患者のポジティブな面の評価を忘れない(1)

精神療法やスーパービジョンを行う上で一番難しいのは、患者ないしはスーパーバイジーのポジティブな面を評価することである。実際のセッションの報告を聞いても、公開スーパービジョンなどに立ち会っても、やはり同様の印象を受ける。非常にしばしば療法家は患者の話の矛盾を突き、言い間違いを指摘してそこに見出される隠された意味を指摘することになる。公開スーパービジョンなどでは、バイジーに対して特にそのような傾向が目立つようである。
そのひとつの大きな要因は、たとえばスーパーバイザーにとっては、そのような間違いや問題点の指摘が、自分の能力を示す上で最も効果的であろうと感じるからである。そしてもちろんバイジーや聴衆も、「あの治療者(スーパーバイザー)はそんなことまで気がついているんだ。さすがだ。」という評価をしがちである。つまりは療法家やスーパーバイザーのナルシシズムの問題である。
もちろん精神療法やスーパービジョンは受ける側が安心感や自信を与えられることのみを目的としているわけではない。患者やバイジーが学ばなくてはならないこと、直面化しなくてはならないことを指摘する場所でもある。ただそのセッションを受ける側の気持ちを考えた場合に、そのたびごとに自信をなくし、自己評価を低めるような機会となるとしたら、それは問題と言わざるを得ない。再び心得1にもどるが、治療者やバイザーが自分では受けたくないような扱いを相手にしているとしたら、そこには倫理的な問題さえ起こりうる。特に先ほど述べた治療者やスーパーバイザーのナルシシズムが絡む場合は、それだけその治療やスーパーバイザーは外傷的となっている可能性があると考えざるを得ない。
ここで心得として、私は「患者やバイジーのよい点を見つけよ」、という言い方はしたくない。ただ自分は患者の長所と短所、評価すべき点と問題点の両方を見ているかについて常に考えよ、という忠告だけにとどめたいと思う。

2012年1月26日木曜日

心得28.外傷モデルを常に頭のどこかにおくべし

先日の対象関係論勉強会での症例発表を思い出す。私は人前で何かをプレゼンテーションすることを楽しいと思うことはほとんどないが、その日は楽しかったのである。いや発表自体が楽しいというわけではなかったが、司会の北山先生とのおしゃべりが面白かったのだ。北山先生の精神分析観に非常に居心地の良さを覚えたことも大きかったかもしれない。その日に生まれた表現。アツい精神分析と、生ぬるい精神分析。この温度差をめぐる議論が面白いのだ。

療法家が自分の行っている治療について考える際、しばしば頭をよぎるのが「自分はきちんと治療を行っているのだろうか?」という疑問である。精神分析的なオリエンテーションを持っている人の場合は、自分がきちんと直面化や解釈を行わずに漫然と治療を続けているのではないかという疑問を抱くことが実に多い。また実際にケースをスーパービジョンに出したり、ケース検討会で発表した際にそのようなコメントをもらうことも少なくない。

       (以下略)

心得23.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(一部修正後)

時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親の言葉)。これらを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。しかしそれでも、怒りの表現は療法家にはいらないと思う。ただ怒りの感情は治療場面で今何が起きているかを知る上での大事な指標となるのだ。
人間として生きて行く上で、怒りは不可抗力として生じる。満員電車で足を踏まれてムカっとしない人はいないだろう。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然でかつ必要なものだ。そうでないと全く無抵抗な人間になってしまい、悪意を持った人間たちから足を踏まれるがまま、小突かれるままになってしまい、痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。人は最低限わが身を守ることだけは必要である。だから正当な怒り、ノーマルな怒りは次のように定義出来る。「自分のパーソナルスペースが侵害された時、その侵害者に対して持つ怒り」。だから「人の足、踏まんといて!()OKなのである。
この正当な怒りは獣だって魚だって皆示すものである。コブダイは自分の縄張りに侵入してきた魚をたちまちのうちに撃退する(別にコブダイでなくてもいいが、この間テレビでやっていたのだ)。その様子はいかにも「怒って」いるように見えるし、こうして彼らは自分の生命を守っているのだ。エゾシカだって自分の縄張りのメスに近づいた別の推すには歯をむき出して向かっていく。(これも・・・ついこの間テレビでやっていた。) 動物の場合はこれで雌雄の決着がつくと、敗れた側は潔く去っていく。その後の恨みつらみはなさそうだ。(「いつまでも根に持つコブダイ」なんてのもいたりして。)
ところが人間の場合はここで問題が生じる。本人からすれば正当な怒りが、周囲の目からは明らかに過剰反応だったりする。相手からすれば「ちょっと足の先が当たったからと言って、そこまで怒ることはないでしょう?」となるかもしれない。人間の場合、パーソナルスペースは仮想上のものをも含む。自分のプライバシー、心の中の聖域、という意味でのパーソナルスペースなら、侵入されたくない心の部分として誰もが持っているだろうが、時にはそれが本人の自己愛と結びついて肥大する可能性がある。するとちょっとしたことでプライドを傷つけられて立腹し、相手を攻撃するということが生じる。これを精神分析家ハインツ・コフートは「自己愛憤怒」と呼んだわけである。この自己愛憤怒は何も自己愛パーソナリティ障害の人だけが体験するわけではない。自分自身の理想像を追求する私たちは、必然的に自己愛傾向を持ち、その分だけ自己愛憤怒を体験することになる。それがあまりに自然にかつ頻繁に生じるために、私たちはその怒りを体験したり表現したりすることを正当化する傾向にある。そしてその正当化の理由は他にもたくさんある。第一に怒りの表現はそれ自身が快楽的でありうる。第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、これも満足体験となろう。そして第三にそうすることで自分の自己愛の傷つきに直面することを避けることができるのだ。
人がみな多かれ少なかれ自己愛的であることからくる怒り、コフートの言う自己愛憤怒をここでわかりやすく「自己愛的な怒り」と呼ぶことにしよう。つまり怒りを正当な怒りと自己愛的な怒り、と分けたことになる。わかりやすく言えば、私たちの体験する怒りとは、大概が両方が合わさったものなのだ。つまりある程度は正当、そしてその人の自己愛の問題に応じた自己愛的な怒りが付け加わる。そして後者を大概は正当化しつつ私たちは生きている。またそれで大概は問題がないわけだ。
親や教師や指導者が、子供や生徒のために何かをしてあげるとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で自己愛的な意味で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。親は子供から侵害されているわけでない以上は、その怒りの大部分は正当でないもの、自己愛的なものとなるだろう。しかしその度に父親は「待てよ、自分は本気で起こっているのだろうか?それって正当な怒りではないのではないか?親としてのエゴや自己愛のせいではないか?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことなのだ。
ところが怒りには必然的に自己愛的な部分が入り込むために、それがトラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。それをなるべく防ぐとしたら、親や教師や指導者は怒りのうちの自己愛的な部分を削り落とす心的な作業が必要となる。いわば怒りの解毒作業である。自己愛的な怒りは常に一瞬ではあれ現れるものだから、この「怒りの芽」を摘み取る作業も、精神療法のプロセスではおそらく間断なく行われるべきものだ。
私は療法家とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろう。
ただしここで改めて強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者に対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。そしてそれは治療者の危険な自己愛の存在を知らせるものでもある。

2012年1月24日火曜日

心得14.治療者は自分の「上から目線」を戒める(1) 改訂版

「上から目線」という言葉は、つい最近になって聞かれるようになった気がする。私は個人的な事情から、過去を、留学以前と以後、とに分ける習慣がある。つまり私のアメリカ留学の始まった年である1987年以前と、それ以後という風に分けるのだ。最終的に帰国したのが2004年であるが、日常的にいろいろな情報に触れる中で、「あ、これは前はなかったな。」と感じるものがある。そしてこの「何とか目線」という日本語の表現も以前にはなかった。類似する「カメラ目線」などという表現も「以後」の言葉だ。(第一「メセン」って、変じゃないか?それだったら「視線」だろう? ということで新しいものにわけもなく反発する年寄りの一員になっている私は、「上から目線」という言葉についても最初は嫌いだった。しかし実は「上から目線」という表現は、「治療者としてあってはならない姿勢」を、わかり易い言葉で表現するのに非常に便利なのだとも思っている。
 
                        (以下略)

2012年1月23日月曜日

心得12.「事例」

事例)
しかし以上の話は、実際の臨床家にとってはわかりづらい可能性がある。ある心理士(Cさん)は次のように言う。


「でも私の患者さんの中にはセッションを直前にキャンセルしたり、面接時間を30分も過ぎて電話があり『昨日は遅くまでお酒を飲む機会があり、二日酔いで頭が痛いのでいけません。』とおっしゃる方がいます。彼はしばしばその様にして時間に遅れたり、直前でのキャンセルをしたりして、その度に時間を開けて待っている私はがっかりしたり、イライラしたりします。私は精神科のクリニックでの患者さんと会っていて、いわゆる「通院精神療法」なので、さほど費用がかかりません。するとむしろ治療を軽視したりする傾向が生じるのでしょうか? でも最初はそういうことはありませんでした。会い始めて一年ぐらいしてから、徐々に遅れたりキャンセルしたり、が目立ってきたんです。もちろん私は彼が来る時はいつも笑顔で迎えていますが、最近ハラが立ってきます。まさに「アマエルナ!」と言いたくなるのです。」


もちろんCさんの気持ちはわかる。しかし先ほども述べたように、甘えとは結局は「依存欲求を持つ人が、それを他人が受け入れてくれるかについて計算違いをしているという事実以上の何物も意味していない」のである。つまりはCさんがそれでも喜んで待ち続けてくれている、と思い込んでいる(思い込ませている)のが、この患者の持つ誤認なのであり、それを患者に伝えることが前提になる。セッションに遅れても定刻に終わる(それが難しいなら、次のセッションの時間にしっかり別の患者の予定とか、さもなければ仮想上の会議をを入れる)、キャンセルが多いことを根拠に、今後の面接の頻度を減らす、などの工夫が必要である。

心得12.患者は「甘えている」という考えをいったん排除する(1)

私にとってどちらかといえば緊張を強いられる「対象関係論勉強会」が昨日あった。特に自分のケースを出すということで二重に気が重かった。しかし司会の北山先生のおかげで非常に楽しく、スムーズに進行することができた。
人が困ったり病んだりしている他者を見てもっとも容易に、かつ安易に下す判断。「甘えているんじゃない?」人は自分に対してもしばしば同じことをする。「自分は甘えているのではないか?」これほど私たちの頭に浮かんできやすいからこそ、療法家としてはこの考えをいったん頭の一番後ろまで戻さなくてはならない。心得●に示すように、療法家は直観と反対をいかなくてはならない。もちろん常に頭の隅に置いておくことは忘れない。というのは「この人甘えているんじゃない?」という直観は、それはそれで重要な情報を与えているからだ。でもそれは最後の最後まで口にするべきではないのだ。
     (以下略)

2012年1月22日日曜日

心得11.人により態度を変える治療者であってはならない(1)

冷たい雨もいやだー!晴れ、晴れ、曇り、晴れ、曇り、晴れ、晴れ、晴れ、曇り・・・・みたいな。

もしあなた(Aさんとしよう)が信頼して自分の悩み事や愚痴を聞いてくれる友達Bさんを持っていたとする。そのBさんが、誰かとあなたのことについて話しているのをトイレかどこかで偶然聞いてしまったとする。Bさんはあなたが陰で話を聞いていることなど全く知らずに、ざっくばらんにあなたのことを第3者に話すのを聞くのだ。「Aさんの話は一応聞いているけれど、まったくほとほと疲れちゃうよ。自分を何様だと思っているんだろう。」
あなたはそれ以降Bさんにこれまでと同じように打ち明け話をする気になれるだろうか?もちろんBさんにだって人間としての普通の感情はあるだろうし、あなたの話を我慢して聞かなくてはならない様々な事情があるだろう。でもこのような言い方を聞くことは、何かBさんに対するこれまでの気持ちを一気に裏切ってしまうような力を持つだろう。
          (以下略)

2012年1月21日土曜日

心得8.治療者は防衛的になるだけ、その治療者としての力を失う(1)

昨日言い忘れた。できれば8月も省きたい・・・・。何のことやら。

治療者も患者も一人の人間である。治療関係とは平等な二人の人間の関係である。治療者は普通に、自然体で患者と会えばいい・・・・。というのは理想であるが、現実は異なることが多い。何しろ患者の方は時間をかけて、お金を払って、場合によっては仕事を休んで来談するのだ。治療から何かを得ることがなければ通ってくる意味もないだろう。言うならば治療者は治療者としてのオーラを発揮していなくてはならない。そのオーラとは、これまでの治療者としての体験に裏打ちされた技量、自分自身の豊富な人生体験、そして患者の人生で何が起きているのかを十分把握しているという自信などが醸す雰囲気である。しかしこの「治療者としてのオーラの発揮」という条件は、時に治療者を防衛的にする。それは治療者はそのオーラの発揮を妨害するような出来事に関しては、それを回避したり防ごうとしたりして躍起になるからであり、そうなると治療どころではなくなるからだ。


幸いにしてこのオーラの発揮を妨げるような状況はそれほど起きない。療法家としての看板を掲げて、きちんとした身なりをしたり白衣をまとったりして目の前に座るだけで、患者は治療者をそれなりの資格を持った人とみなしてくれるかもしれない。


もちろん治療者も人間だからさまざまな思い違いや限界を露呈する可能性があるが、それはそれなりに何とかなる。たとえば治療者が次回の面接時間を勘違いしていて、患者自身に指摘された場合はどうか?「ああ、すみません。そうでしたね、次回は一時間遅れて始めるという約束でした。」といえばすむだろう。あるいは「どうも最近年のせいか、忘れっぽくなって・・・」と付け加えるのもご愛嬌かもしれない。


それでは治療者が電車の人身事故による遅延で治療開始の時間に30分ほど遅れたらどうか?「すみません、人身事故は想定外でした…」などと言って、すでにいらだち始めた患者に謝罪してセッションを始めるとしたら、まだ治療者は余裕である。しかし治療者が寝坊して治療時間に30分遅刻したとなるとどうか?寝坊となると、治療者の生活管理能力がかかわってくる。それでも「どうも昨日遅くまで仕事をして…」などと患者に謝る治療者に、いつものオーラは一時的にではあれ感じられないかもしれない。これが治療時間に遅れて、しかもアルコールのにおいをさせて到着した治療者となったら、もうそれだけで患者に見放されてしまうかもしれない。治療者はもはや何の言い訳もできないからである。


私はアメリカで臨床を始めて間もないころ、患者が発した言葉の意味がわからずに、聞き返したことがある。それをもう一度言われてもわからなかったが、それは一定の教養を持ったアメリカ人であったら知らないはずのない言葉だったらしい。その患者はため息をついて私の前から去っていったが、精神科のレジデントとしてそれまでほんのわずかは出ていたかもしれないオーラは、その一時で消し飛んでしまい、その患者はもはや私の前に一時でも長く座っている理由を見出せなかったのである。その場合も私は自らを防衛するすべなどなかった。


オーラなどという言葉を用いたが、要するに治療者は精神的な余裕と自信を持って治療にあたる必要があるということだ。もちろん余裕と自信を持つことが治療の成功の十分条件では決してない。でも必要条件とは言えるだろう。すなわち患者の前に立った治療者が何らかの負い目を持っていたり後ろめたさを感じていたら、彼は患者を援助するどころか、自己防衛に精いっぱいになってしまうということを言いたいのだ。そんなことが経験があり品行方正な治療者におきるだろうか? それがあるのである。そのひとつの典型的な状況は、治療者が自らが患者になすべきことと、治療上のお作法としてなすべきこととの間に葛藤を体験するという場合である。


そのようなひとつの典型的な例は、患者から直接的な質問を受け、それに直接答えるのを避けた場合である。もちろん答えることが患者のためにならないと確信している治療者の場合は、(少なくともその当座は)問題ないだろう。しかし一方では即答をしようとする心の動きを感じ、他方では「でも治療者としての匿名性はどうなるのだ?」という葛藤を体験した治療者は、その間治療者として機能することを停止するのである。そして迷った末に答えなかった場合は、今度は「どうして私はそれを知ることはできないのですか?」という患者からの更なる質問を想定して、その答えを用意しなくてはならないという葛藤を抱え続けることになる。


治療者の匿名性、すなわち「患者からの個人的な質問には答えるべからず」という「心得」はもちろん相対的なものである。すなわち答えるべきか否かが状況しだいであるような質問がいくらでもありうるということだ。治療関係の開始時に「先生は正式な分析家ですか、それとも分析家の候補生ですか?」という質問を受けた場合などを考えればいいだろう。インフォームドコンセントが叫ばれる昨今、そのどちらかをあいまいにしたまま治療を開始し、継続することのほうが非倫理的ということになる。「先生は既婚者ですか?」「お子さんはいらっしゃいますか?」などになると、答えるべきかどうかは状況しだい、治療関係しだいということになるだろう。そのとき思い出していただきたいのが、この心得8である。


もし治療者が患者からの質問に答えるつもりはなく、そのことに葛藤がない場合には答えなくていい。また答えることに葛藤がない場合は答える。それでいい。しかし匿名性の原則が相対的なものである以上、患者からの質問は治療者の中に葛藤や迷いを起こすほうがむしろ普通なのである。その時は「迷っている場合には、たいていはお作法上の問題であり、『お作法を守るかどうか』は治療者の個人的な問題だから、そのことをわきまえるように。」というアドバイスを差し上げたい。そしてしばしば、質問に簡単に答えることが、治療者を救ってくれる。なぜなら「どうして答えていただけないのですか?」という患者の質問に、治療者は「精神分析の教科書にそう書いてあるからです」とはまさかいえないからである。それではまるでテキスト通りに治療を行っている初心者のように聞こえてしまい、経験ある治療者としてのオーラなどどこかに行ってしまうからだ。そこで治療者それ以外のさまざまな理由を考え出さなくてはならないからだ。そういう時、治療者はまさに防衛的になっているというわけである。


ヘンリー・ピンスカーの「サポーティヴ・サイコセラピー入門」(岩崎学術出版社)から。


「サポーティヴ・セラピーでは、質問についての一般原則としては、簡潔で有益な反応がなされるべきである。・・・当初に回避的な反応をしないことが大事であり、質問に質問で答えることは許されない。」

心得7. 治療には精神分析の要素も認知療法の要素も同時に起きていると心得よ(1)

この季節になるといつも思う。絶対冬は嫌だ! カリフォルニア、それもサンタモニカのあたりに住みたい!この厳寒の二か月のない世界に行けるなら何でもする(11月、12月→いきなり3月、みたいな…)

認知行動療法ばやりである。精神科外来でも、認知行動療法を行なうことが保険点数に加算されるようになった。でも精神分析を学ぶことから入った私は認知行動療法にはずいぶん前から疑問を持っていた。それは特別新しい療法なのか?それは果たしてどれだけ有効なのか?精神分析的な療法とどこが違うのか? これらの点について療法家は一定の理解をもっていて欲しい。
認知とは要するに「考え」であり、理屈である。例えば「自分は●●である」とか「過去に自分に起きたことは●●という意味を持っていた」などの思考内容をさす。認知療法とは、私たちが普段持っている考えを変えることが、症状を軽減するということを目指す療法である。
      (以下略)

2012年1月17日火曜日

「裏表のある子ども」の話、結局まとめたらこうなった

しかしいいのかな。こんなところで発表して。あくまで草稿です、ということで。

 ペルソナと解離 ― 人格の表と裏を考える 

                             
はじめに

金正日の没後、北朝鮮で放映されたちょっと異様な光景。市民が泣き叫び、拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。深い悲しみに浸る時、人はああはならないことを知っている人は、そこに不自然さを感じる。彼らは本当は何を思いながら、泣いている(あるいはそれを装っている)のだろうか? しかし裏では何を考えていようと、表では嘆き悲しまないと罰せられてしまうというあの北の国では、表裏を正確に使い分けられるかどうかはむしろ死活問題である。それは極めて適応的な防衛機制とさえいえる。そして私は考えた。「純真無垢な子どもたちには、あんなことはできないのではないか? 彼らの中には弔問に借り出されても、演技を仕切れずにボーっとしているだけの子もいるのではないか?

ちょうどその時、テレビの画面には、弔問に訪れる一群の子どもたちの姿が映された。すると ・・・・。子どもたちはとても「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているのがミエミエな大人たちに比べて、彼らはもっと自然に泣いているように見える。もちろん彼らは児童劇団に所属する演技のうまい優等生たちなのかもしれないが、そうでないと仮定したなら、いったいなぜなのだろう? そして私は次のように了解した。子供たちは裏表を分けることが本来得意ではないのである。彼らはいわばペルソナを持つことが苦手である。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。それは彼らのつく嘘についてもいえる。彼らの嘘はある意味では本気でもある。彼らは現実にはないことを言いながら、その虚構の現実に生きているというところがある。そこが裏表を使い分けることのできる大人(つまり私たち自身のことである)と違うところだ。

「裏表のある子どもたち」、というテーマに関する私のこの一文の書き出しは、多少なりとも逆説的に聞こえるかもしれない。裏表を持つということは通常はネガティブな意味を持つが、それをある種の達成でもあると主張しているのだ。そしてその背景には、私が日ごろの臨床で触れることの多い解離性障害の患者たちとの体験がある。彼女たちもまた裏表の使い分けが非常に不得手なように見受けるからだ。そして彼女たちは幼少時にある共通した原体験を有しているようである。それは親との関係で自らのあるべき姿を、少なくとも主観的には強いられているという体験なのだ。

幼児体験と解離性の病理の萌芽

たとえば次のような親のメッセージを受けた子供について考えてみる。

「あなたはお姉ちゃんなんだから、いい子に出来るわね。弟にやさしくしなくちゃだめよ。」

その時娘の心には様々なことが起きうるだろう。「エー、そんなの無理だよ。」と頭から聞き入れないかもしれない。あるいは「そうか、私はいい子にしなくてはいけないんだ。」と納得して態度を改めるかもしれない。どちらもありうるパターンであろうし、それぞれの場合に大抵の子どもの心はおさまりどころを見出すのだろう。しかし問題は、娘がそれらのいずれも選べずに、母親により押し付けられたいい子としての自分(これを仮にAと呼ぶことにする)と、わがままで弟をいじめたりライバル視したりする本音の自分(こちらはA’としよう)という相互に矛盾した自分を持たざるを得ない場合である。その場合私たちは通常は次のようなシナリオを想定するのではないか?

娘は心の中で「お母さんの前ではいいお姉ちゃんの振りをしておこう。」という計算を働かせる。そうして本心とは裏腹にAを演じて見せる。Aは彼女にとってのペルソナになり、そして親や大人の見ていないところでA’の方を発揮する。娘はこうしてAA’の使い分けを覚え、先生や上司がいるときといない時で態度を変える術を学んで成長し、裏表のある大人になるのである・・・・。

私はこのようなシナリオを特に否定はしない。そういうケースのほうがむしろ普通なのだろう。ただ解離性障害を扱う立場からは、私は子供の心のあり方としてもう少し別のバージョンを考えるようになっている。母親から「あなたはお姉ちゃんなんだから…」と言われた娘は、必ずしもそれを演じるわけではない。一時的にではあれ、母さんの心にある、いい子である自分のイメージAをそっくり取り入れるのだ。するとたとえばいつも憎たらしく感じる傍らの弟を実際にいとおしく感じ、優しくその頭をなでるかもしれない。こうして彼女は「いいお姉ちゃん」としての自分をその時に生きることになる。それは複雑な脳のプロセスを経ているにもかかわらず、瞬時に彼女の中で生じるのだ。ただしA’、つまり「いいお姉ちゃん」ではない、わがままで甘えたい、そして弟をライバル視する面もたいていの子供の場合は持つはずだ。

やがて成長するにつれてたいていの場合彼女はAA’をうまく使い分けるようになるだろう。そこからは先ほどのシナリオと同じである。彼女はAを表に出している際に、A’を裏に控えさせ、それを出すタイミングをうかがうようになり、裏表を使い分けられるようになる。しかしそれをできないほどにAA’が独立した人格として、別個にふるまう場合がある。それが解離の病理を持つに至る準備状態と言えるのだ。

ところでこの解離という心の性質は実はこれまでさまざまな臨床家により記載されてきた。半世紀以上前に活躍した英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットもその一人である。彼は母親から強いられ、それに反応する形で形成される自己を「偽りの自己」と呼び、自らの純粋な自発性の表現としての自己を「本当の自己」と呼んだ。この両者の分離がウィ二コットの言う解離であるが、現代的な意味での解離は、その分離が極端に進み、それぞれの自己が意識野を支配し、互いに排他的に振舞うことを意味する。ウィニコットの「本当の自己」は決して表には出ないものとして想定されたが、それさえも姿を現して動き出すのが解離性障害というわけである。

この解離の話を続ける前に、どうして彼女は母親のメッセージからよい子のAちゃん人格を作り出すことができるのかについて考える。その理解の助けとなるのがおなじみミラーニューロンの発見であった。

ミラーニューロンの貢献

神経科学におけるミラーニューロンの発見は、アメリカの神経学者ラマチャンドランに言わせれば、生物学におけるDNAの発見に相当するようなインパクトを心理学の世界に及ぼしたということである。発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究である。彼のグループは 90年代に、サルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。運動を行うとき、まず前頭葉の運動前野の特定の細胞の興奮が始まる。そこではたとえばピーナッツを手でつかむという運動の計画が立てられ、そこから近傍の運動野に命令が伝えられ、運動野は手や指の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めてその運動が生じるという仕組みである。

しかし運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるだけではなかったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事を、リゾラッティのグループが発見したからだ。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、「ミラー(鏡)ニューロン」と名づけられたのである。

目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということは自然で当たり前のことだと読者は考えるかもしれない。しかしそれがサルでも鳥でも生じているという発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していることになる。それは他人の心をわかるということは、知的な推論を経る必要のない、もっと直接的であり、原始的で自動的な、無意識的なプロセスであろうということだ。

このミラーニューロンのシステムは簡単に言えば、人の脳は、他の人の思考や行動や感情を自分の心や体にコピーする能力と言える。このことを如実に示しているのが、実は言語の習得のプロセスである。

私事ではあるが、私は異文化圏での生活が長かったため、幼少時に獲得しなかった自分の外国語のイントネーションの不自然さにいつも直面していた。英語圏で幼少時を過ごすと、子供はまるで英語を使う能力をそのまま脳がコピーするかのような印象を受ける。受験生が1年間躍起となって覚えこむ語彙よりはるかに多くの表現を、78歳の子供が3ヶ月のあいだ英語環境に身をおくだけで習得する。これは彼らが驚異的な学習曲線をたどることを意味する。大人が努力と集中力で英単語を暗記するのと、幼少時に英語環境で過ごすことの違いは、手書きで写本するのとコピー機で写し取るほどの差があるのである。しかもそれは、努力をしたという感覚が生じないほどに自然なプロセスなのだ。

脳が他人の脳をコピーする力は、年とともに衰える。おそらくミラーニューロンが働く時期には臨界期があるのであろう。その時期は個人差があるが、語学に関してはだいたい134歳が臨界期と考えられるだろうか。それ以降に学習する言語は、もはや借り物でしかなくなってしまう(少なくとも自然さ、流暢さに関しては)。そしてそれ以降も脳は新しいものをコピーする能力をさらに低下させていく。新しい流行や手技を取り入れるスピードは20代より30代、それよりも40代になるにしたがって遅くなっていくようだ。それはたとえばケータイのテンキーを使った文字入力の速さなどを見れば歴然である。

解離とペルソナ、偽りの自己

解離性障害の準備段階にある子供の話にもどろう。ここからは推論にならざるを得ないが、AA’が解離性の別人格どうしとして成立してしまう過程には、このミラーニューロンの過剰な関与が想定される。しかしそれ以外も様々なプロセスが複合的にかかわっているのであろう。ひとつにはミラーニューロンの機能の高さに連動した子供の側の受動性や迎合性がある。他人の気持ちを感じ取りやすいということは、当然ながらそれに過剰にあわせたり配慮したりする傾向を生むであろう。そして親のイメージを取り入れたAと素の自分に近いA’との齟齬の大きさ。AA’が折り合わない分だけ、両者が隔離される必然性が生まれる。そしてそれを要求する親の側の思い込みの強さやオーラの強烈さも影響しているはずだ。「お前はいい子でなくてはならない」という親の意思や確信は当然のことながら子供に強い影響を及ぼすであろう。そこにAA’とを人格として別個にもち、一方の存在が意識の中で互いに排他的に存在することを可能にするような能力、すなわち解離傾向と呼ばれるものの大きさはある意味では決定的な役割を演じるであろう。

そこで改めて考えてみよう。AA’を人格の表裏として発達させ、いわばAをペルソナとして成立させるケースと、AA’を解離性の人格として成立させるケースでは、どちらがより高い病理性を備えていると言えるのだろうか? まずペルソナとしてのAは、それがA’と極端に異なる場合には、それなりの問題をもたらすことは確かであろう。Aが表に出ているときにはAが裏側にあり、常に当人はその存在を意識するはずだ。そして「本当はそう思っていないけれど、仕方無いな」とか「ここは腹が立つけれど笑ってごまかしておこう」というような葛藤が意識化されることになるが、それが生む大きな心的なストレスについては私たちが皆体験していることである。

他方の解離の病理を持つ人においては、AAは互いに意識化しえない状態にある。(AAが互いを意識しあう形での解離、私が「シャム双生児型の解離」と呼んでいるケースも存在するが、本題と離れるために割愛しよう。)彼らにとってはペルソナや偽りの自己といった概念はあまり意味を持たないことになる。なぜならば彼らにとってはペルソナを持てないことが問題だからだ。そしてペルソナを使い分ける際の葛藤は体験せずにすむ代わりに、自己の不連続性のために生活上多大な不都合や苦痛を体験することになる。もう一人の自分が同じ体を使って自分の知らないさまざまな問題を起こすことは、例えば知らない異性と肌を合わせるようなことなどは特に耐え難いことに違いない。それに比べれば、ペルソナを持つことの苦しみは、まだ贅沢な悩みとも言えるかもしれないのである。

ただしこのようにペルソナと解離のあり方を区別しておきながら、混乱を招くようなことも付け加えておかなくてはならない。AAは表裏の関係や解離した関係以外にもさまざまな形を取る可能性があるのである。それはたとえば飲酒で人が変わったようになる、とか車のハンドルを握ると別人格のようになる、などの例を考えればいいだろう。あるいは突発的な暴力や衝動的な行為をした後で、その記憶があいまいになるということは、解離性障害を持たない場合にも非常に多い。これらは表裏の関係と解離を両極とする連続体のどこかに位置すると考えざるを得ないであろう。これらは前出のウィニコットが用いたかなり広い意味での解離には該当するものの、解離性障害の診断を下すべき状態ともいえないのである。

以上人格の表裏について論じたが、このテーマに該当すべき精神現象はかなり幅広いといえよう。そしてその全体の見取り図を描く上で、解離性障害についての考察は有益なヒントを与えてくれると思うのだ。

2012年1月11日水曜日

運命的な絆?

昨日息子が関西に帰っていった。大学の授業が始まるからであるが、神さんはすっかり落ち込み、掃除や選択や食事の支度をする目的が何もなくなったという。息子は今年の年末年始は10日ほど長めに帰っていたが、それだけに帰った後のインパクトは大きい。この落ち込みは一時的なものだろう、と慰めようとする前に、神さんはこう言った。「息子がうちを離れて以来、自分が欝だったことが、今回改めてわかった。」つまり息子が一年半前に家を出て以来の日常が異常であって、この10日間は元に戻っていたというわけである。ここまで言われると納得するしかない。
子離れができていない、マザコン、などいろいろ言われようが、ここまで強い絆は運命的なものといえるのだろう。母親という存在は、子供が巣立ってからは本来は抜け殻になるものなのかもしれない。(子供の側はぜんぜんそうではない。自分の子供がやがて巣立つまでは。)女性は子供ができることにより人間が変わり、子供の巣立ちをトラウマとし、抜け殻になってやがて死んでいく。そういうものなのかもしれない。(ちなみにこのシナリオに基本的にダンナはあまり登場しない。Thank God!)

2012年1月4日水曜日

穏やかな正月

今年の正月は京都の息子も戻り、千葉の田舎の両親の顔を見ることもでき、満足すべきものだった。去年未曾有の大震災があったことさえも少しずつ記憶から遠ざかりつつある。正月の読書は「動的平衡2」福岡伸一(まあまあ、でも福岡先生、少し書きすぎでは?)、「複雑で単純な世界」ニール・ジョンソン(思ったより難しくて途中で中断)、「脳が生きがいを感じるとき」グレゴリー・バーンズ(一番面白い)、「永遠の坂井泉水」(なんじゃこりゃ)。とにかく書き続け、読み続けなければいけない仕事も満載なので、これらはそれなりに進めることができた。月日って、それにしても静かに着実に過ぎていくものだ・・・・。
「表裏のある子ども」はあれから悪戦苦闘。二転三転してまだ出口が見えず。締切(なんのこっちゃ?)まであと2週間。