2011年8月31日水曜日

対人恐怖とは?(4)

Q:さて、対人恐怖というと日本文化に特有の病気であるとどこかで読んだ気がしますが、いかがでしょう?

A:そうなんです。長年の常識がそうでした。少なくとも1980年まではそうでした。アメリカでその年に社交恐怖という、対人恐怖に似た診断がなされるようになりました。すると今では、アメリカではうつ病、アルコール中毒に続いて三番目に多い精神疾患ということになっています。人口の13%くらいは社交恐怖を持っているというのです。それまではアメリカでも少ないといわれていたわけですからどうなっているんでしょうね。私がアメリカに渡ったのは1987年ですので、アメリカでの恥の意識が大きく変わる時期でした。なにかとても不思議な気がしたのを覚えています。私が渡米した時、アメリカ人が日本人と同じように人込みを避けたり人目を気にするのかはとても興味がありました。そしてしばらくして気が付いたのは、彼らも人間であり、対人緊張を持つという点は日本人と少しも変わらないということでした。たとえば長い廊下の向こうから知っている人が歩いてくると、そこでの緊張感は日本人の場合と同じです。ただアメリカ人はそこで早めに挨拶をしてしまうというところがあります。日本に住んでいると、例えば狭いエレベーターに知らない人と二人で乗る時などはとても緊張するのですが、それは挨拶をそこで変わる習慣がないからでしょう。アメリカではそんな時は、知らない者同士でも「ハーイ」と言って挨拶を交わすことでその緊張を和らげるというところがあります。アメリカ人のほうが対人緊張に日本人より耐えられない、という可能性もあるかもしれませんね。
Q:長いお答えでしたね。曲の時間が無くなってしまいました。

2011年8月30日火曜日

対人恐怖とは?(3)

Q: 「ばら色のサクランボの木と白いりんごの木」をリーヌ・ルノーの歌でお聞きしました。

A:え、リーヌ・ルノーって彼女そんな歌も歌っていたんですか?
Q:そこ、突っ込まないでくださいね。ところで先生は対人恐怖ということですが、思春期にそうなったと聞きましたが、そもそも何歳ぐらいから起きてくるものなのですか?
A:いろいろなケースがあると思いますが、典型的なものはやはり思春期以降でしょうね。異性を意識する時期以降です。あるいは恋愛対象を意識する、という言い方じゃなくてはいけませんね。同性愛の方もいますから。でもその時期は自分というものを強烈に意識するという時期です。よく小学生とか中学一年生のなりたてのころって、髪もボザボザだし、来ているものもダサいし、要するに他人の目をあまり気にしていない。少なくとも表面上は美しく、かっこよくありたいなんて思わないわけです。ところが思春期になると突然櫛を持ち歩くようになり、鏡に見入るようになる。そんなときです。雷に打たれるように、強烈な羞恥心に襲われるのは。そして強烈な羞恥はすぐ恥辱のレベルになるのです。それが対人恐怖のレベルといっていいでしょう。
Q:シュウチシン?チジョク?そこで急に専門用語を出さないでください。どういうことを言いたいんですか?
A:アーア、あなたは対人恐怖の言語がわかっていない・・・・もう次の曲に行ってください。
Q:曲に逃げないでください。まず説明していただきましょう。
A:つまりこういうことです。羞恥とは、恥ずかしい、照れくさいということです。必ずしも不快ではない。くすぐられたようなものです。恥ずかしがっている人って、たいてい笑っているでしょう。人はもともと生まれてしばらくは、視線を浴びたいものです。見られることは快感です。その名残でしょう。でもその体験が強烈で、痛みを伴う程だと、ひとは自分の中の何かが暴かれ、白日の下にさらされるような气分になる。それが恥辱なのです。
Q:先生調子に乗って簡略体を使ってで喋らないでくださいね。

2011年8月28日日曜日

対人恐怖とは?(2)

Q: センセーはすぐ結局自分の話になって・・・・。それよりも原則的なことをまずお聞かせください。対人恐怖とは何か、定義のようなものからお願いします。

A:簡単に言ってしまえば人が怖い、ということです。ただし人前で引っ込み思案になる、緊張するという体験は非常に一般的なことです。それにより社会生活が営めない、つまり学校や仕事に行けなくなってしまうということが起きてくるとこれは病気のレベルになるわけですね。それと、単に人が怖い、というだけでなく・・・・・・ちょっと複雑な言い方になるかもしれませんが、自分が怖い、ということになるんです。
Q:自分が怖い?
A: つまり人前で自分に起きることが怖いというか。人前でとんでもないことになってしまう自分が怖いわけです。
Q:とんでもないこととは?
A:たとえばわきの下から汗が出るとか、顔が赤くなるとか・・・
Q:それが「とんでもないこと」なんですか?
A:あーあ、あなたは対人恐怖の人の気持ちがわかっていない。もう曲行ってください。
Q:….わかりました。それでは聞いていただきましょう。「ばら色のサクランボの木と白いりんごの木」です。

2011年8月27日土曜日

対人恐怖とは?(1)


また予定が違ってしまった。「母親病」ではなく、「対人恐怖」ということになった。(何の話だ?)ということでまたこの場を借りることにする。



Q: なぜそもそも対人恐怖なんですか?
A: いや、私自身が対人恐怖気味なんです。つまり自分自身の問題ということで一番わかりやすいし、興味が持てるテーマなんですね。
Q: 先生自身が対人恐怖とおっしゃいますと?
A:いや、何をするにも恥ずかしかったですね。私は幼い頃は違ったんです。クラスでもひょうきん者ということになっていたんです。コメディアンとか言われていて、冗談を言って笑わせるのが好きというか。それが自然だったわけです。それが中学生になって、あれっ、と思うことが重なったんです。その頃ゲバゲバ90分という番組があって、その中にハナ肇とクレージーキャッツのハナ肇がヒッピーの姿で「あっと驚くタメゴロー!」というせりふを言うんですが、そのギャグが流行ったことがあるんです。これを聞いている人の大部分は何のことだかわからないだろうなあ。さびしいなあ。マアいいや,そこでひょうきんものの私が文化祭の寸劇でその役をやることになったんです。私はそれが問題なくこなせると思っていたのですが、リハーサルにクラスの皆を前にして私がそれを言う時になって、「あっムリ!」となったんです。これは対人恐怖の体験とは違うけれど、思春期の入り口にたって、それまでの自然体でひょうきんもののキャラが続けられなくなった。それからズドーンと内向的になっていくんです。そして人が怖くなった・・・・。
A:相変わらず自分の話ばかりですね。

2011年8月25日木曜日

「母親病」とは何か?(最終回)


もういい加減にやめる。やはりこの問題、私はわかっていない気がする。それに実は予定が違って「対人恐怖」についてまとめなくてはいけなくなってしまったのでそちらをやらなくてはならない。(こちらの話。)
「母親病」との関連で思うこと。人間にとって強迫とは何か。これって実に本質的である。神さんが言っていた。「今度引っ越したうちでは、置けるスペースの関係で、どうしても冷蔵庫の扉の開く方向が不便であり、冷蔵庫を開ける度に不幸になる。」他人にはどうでもいいことでもその人にとってはどうしようもなく気になり、その人の気分や幸不幸まで左右する。これが同居人のしぐさ、癖にまで及ぶとしたら、夫婦や家族が同居していけるのはまさに奇跡である。
母娘関係にしても、母親が娘の振る舞いや言動が気になり、ついメールをしたり小言を言ってしまい、死ぬほどに嫌われるとしたらこれほど不幸なことはない。しかしそれでもどうしても気になってしまい、気がついたら駆けつけていたり、これまで何度も言っていたことを繰り返していたりしている。母親病の元凶はそのような母親の強迫にあるようだ。とすると離れて暮らすこと、連絡をしないこと、一切お互いに期待しないことはやはり処方箋として重要なのだ。問題はその処方箋を出しても実際には服用してくれないことである。

2011年8月23日火曜日

「母親病」とは何か?(11)


ライバル意識について書くつもりだが、これもよくわからない。私が直接体験としてわかるのは、父息子関係である。私は息子をライバルとして意識することがある。これは彼がごく小さいころから起きていたことだった。神さんと深い関係にある男性という意味では私と息子は同格ということになる。人間とは、というより生物とは不思議なもので、自分と条件が重なっているほかの存在にはきわめて感覚が鋭敏になるように出来ているらしい。息子が小さいころは自分が小さいころと比較すると共に、息子がやがて成長したと想像したイメージと今の自分とを比較する。年の差などは関係ないのだ。人は基本的にはひがみやすく出来ているのだろう。比較して負け、取るに足らない存在と感じるのはたいてい自分のほうである。それはたまには息子に「勝つ」こともある。でも今度はその親たる自分の胸が痛むというわけだ。結局親が子供をライバル視していいことはひとつもない。しかしフロイト的にいえば、そのライバル関係に持ち込んでくるのは息子、ということになる。母親を独占しようと思ったのにそれに邪魔をしてくるのは父親のほうだ、というわけだ。これはどっちもどっちというしかない。関係性の問題だ。
さて母娘関係。それはそれで複雑だろう。ある女性の患者さんが娘に優しくすることの複雑さを語っていた。やさしくしようとした時、その当の娘に嫉妬するという。「どうして自分は母親に優しくされなかったのに、この子は母親(つまりは自分)に優しくされなくてはならないのだろう。」体験したことのない人には複雑でピンとこないような体験でも、当人にしてみれば深刻だろう。もし似たようなメカニズムが働いた場合、母親が娘にかける一言一言は二重、三重の意味を担うことになる。娘としては母親が自分のためを思ってしてくれること、かけてくれる言葉を全面的に信用できなくなってしまう。


それにしてもこのシリーズ、いつ終わるのか。書いていてもこの問題を掘り下げられた気がしない。だからやめられないのである。

2011年8月22日月曜日

「母親病」とは何か?(10)

精神科の臨床をやっていると、「理由はさっぱりわからないが~ということが見られる。」ということがある。その一つが罪悪感、後ろめたさ、というものである。例えば私なら「漫画を読むこと」に後ろめたさがある。もちろんそれにはそれなりの背景があるが、親の教育とばかりはいえない。例えば私は子ども時代は「少年サンデー」の愛読者だったし、手塚漫画は夢中になって読んででいた。それから起きた何かでこうなったのだが、自分でもよくわからない。
さて親子病を論じる際に何度も出くわすのが、母子相当に見られる相手への後ろめたさだ。これがよくわからない。しかしとにかくしばしば見られるのだ。互いの憎しみ愛は、実はこの互いへの後ろめたさが根底にあるのではないかとさえ思うことがある。例えば一昨日に出した例(、「その黄色は似合わないわね。」と言われて激高した娘が、「お母さんは私に着るものの選択さえ自由にさせてくれないのね。これまでいつもそうだったじゃない!」という例)では、娘の側に母親のちょっとした言葉を無視するということへの後ろめたさがあるのだろう。母親の言葉を気にかけず、わが道を行けばいいのに、それを小さい頃からできないでいたし、今でも出来ない。母親の小さなコメントを無視できずに、それを出来ない自分にいらだつ。これが支配されているという感覚に結びつく。母親の方はどうだろう?おそらく母親の小言のかなりの部分が「自分が教育が行き届かないおかげで娘がこんなになってしまった」という後ろめたさによりかなり支配されている。そしてこの種の後ろめたさは相手への怒りと転化されるというところが母親病を寄り複雑で完成されたものにするのだろう。
娘の側の母親への怒りとしてしばしば耳にするのが、「お母さんは世間体を気にしてばかりいて、私のことを考えてくれない」という言葉である。お母さんは自分の体面を気にしてばかりいて、つまり自分がかわいくて、本当の私の気持ちは無視している、という言葉だ。しかしこれもそれほど単純ではない。母親の中には「娘がこんなことで世間から笑いものになるのがかわいそう」というところもあるのだ。娘のことで恥をかきたくない、という以外にも、娘に恥をかかせるのにしのびない、後ろめたい、という気持ちもあるのだ。
この母親の側の後ろめたさは、実に強烈な形で娘に対する執着を生む。母親が娘に対して時々余計な電話をして嫌われるのは、「子どもを放っておく」ことに対する後ろめたさが関係していることが多い。「娘をあんなままにして世間に出しておいて、放っておいていいのか?」というわけだ。
(明日は、この後ろめたさに複雑に絡んでいるライバル意識について。)

2011年8月21日日曜日

「母親病」とは何か?(9)


香山リカさんの本は、実は信田さんや斉藤さんの本を読んだうえで書かれているために、それらを俯瞰するうえでも都合がいい。そのうえで彼女が「親子病」という呼び方を用い、「子供は健康な状態で誕生し、その瞬間に親子という病の病原菌に感染し、それで健康をむしばまれて、最終的には死に至る。」(158ページ)と言い切る小気味よさがある。彼女は基本的にはこの病の処方箋はないという。ただしその後の章にみられる実際の処方箋は、それなりに非常にまっとうである。この「親子という致命的な病」という考えには、おそらく深い臨床経験がある。患者さんたちの話を聞いている私たちの身と、一般の人々との違いは「最終的には親子は和解することができる」という幻想をいかに持ち続けているかにかかっているように思われる。私が診察室で母や娘に伝えることは「もう別々に生きていいのですよ。」というある意味では当たり前のことであり、それを繰り返し伝える必要があるということは、この常識がいかに難しいかということだ。
香山さんの本についてはおいおい触れていくとして、書く者の常として自分の立場との違いをまず見つけるという習性があるので、それを簡単に書いておきたい。
ひとつはその生物学的な起源を私は強調したいという点か。「親子という病」というのは、私が「母親病」と呼ぶ立場と同じで、一種のメタファーである。実際には親子の間の絆の深さのおかげで子供は育っていく。ウィニコットが「通常の母親の没頭」と呼んだ母親の子供への同一化は、それが過剰であるぐらいがちょうどいいのであろう。実際に相手をすればわかるとおり、子供は理不尽でしつこく、一日24時間注意を払うことを要求してくる。これほど苛立たせるものはない。母親がそれを自分に同一化させることで、つまり我が子の痛みが自分の痛みに勝るくらいで虐待は阻止できるのであろう。そしてそれは動物のレベルでもまったく同じなのだ。そしてその過剰な同一化は人間の場合簡単にはスイッチオフされないようにできている。何しろひとり立ちするのに20年かかるのであるから、親のほうから愛情が撤去されるのが早すぎては不都合である。その結果として母親は子供をいつまでも幼く不完全な存在としてみなすということを継続するのだろう。そしてそれがとてつもない弊害を生むというわけだ。
私の観察からは、親が子供を子供としてみるということは決して消えることがない。だから母親病は不治なのである。では子供、特に娘のほうが母を恨む根拠についてはどうか?香山さんはある40歳代のシングル女性が母親に支配されているという体験を語る。その母親に実際に会ってみると、ごく普通の母親だというのだ。しかしおそらく怒りの源泉は、そのシングル女性がまだ幼いころの、今は穏やかな母親の顔に浮かんだ憎悪や怒りが関係していると思う。子供が無力なときに母親はおそらくはるかに自己愛的であり、子供の自由への希求を踏みにじっている。そしておそらくきれいさっぱりに忘れてしまうのだ。そう、ニュアンスとしては私は香川さんと同じか、やや娘側に肩入れしているのだ。
(明日は、母子双方に問題となる罪悪感について考えてみる。)

2011年8月20日土曜日

「母親病」とは何か?(8)

昨日の続き。もうどこで何度書いたかもわからない例だが、もう一度だそう。ある成人した娘が外出する際に母親に、「その黄色は似合わないわね。」と言われて激高する。「お母さんは私に着るものの選択さえ自由にさせてくれないのね。これまでいつもそうだったじゃない!」母親はそれに対して「あきれた子ね」、というような顔をする。
この例には、無理やり小さな子どもに戻された娘の恐れや無念さがある。それは息子が母親に「つらかったらいつでも帰ってきなさいね。」といわれた時の強烈な不快さと共通しているところがある。どこかに母親の言うことを真に受けてしまいそうな自分に対する不甲斐なさが潜んでいるのだ。こんなことはもう何十年も前に切り抜けて大人になり、いっぱしの口を利いて自分の子どもや職場の部下や後輩の世話などをしているはずの自分が、実はまだそれは仮の姿であり、虚勢を張っているだけであり、本当はちっちゃな●●ちゃんに過ぎないということを無理やり信じ込ませるような母親の声。そう、今でも「●●ちゃん」と呼ぶ母親の声は、基本的には自分が小さい頃聞きなれたものとほとんど変わらないということもいけないのである。(声紋を取ったら少しは違いが見られるだろうが。)
では母娘は母息子とどこが違うのか?それは母親が娘を見るときに克明に自分の同年代の頃の体験を二重写しにしているために来る生々しさや、多大な勘違いの中に時々潜んでいるまさに本質を突いたような指摘が余計に娘を刺激し、ゾッとさせるからだ。(もちろん同じことは父親の息子への関係に当てはまる。)
では母親の中にあるライバル意識、競争心についてはどうか?それは明日考えよう。そして一通り考えを出した上で、香山さんや信田さんや斉藤環さんの本を読んでみる。

2011年8月19日金曜日

「母親病」とは何か?(7)


ということでいよいよ本題である母娘の問題に入るのであるが、やはりこの問題、私はよくわかっていない。当たり前のことだが自分に引き付けて考えられない以上、どうもピンとこない。ただ患者さんたちからはかなりたくさん聞いているので、それからいろいろ想像することになる。
ちなみに私は母息子間の母親病と、母娘間のそれが全く別物とは思わない。そもそも母親病の一つの原因は、母親の本能に根差した情の深さにある。ただ母息子と母娘では、その色合いがかなり異なるということである。
私が母娘間の関係に興味を持つのは、何といっても患者さんの中にその関係で悩む人が多いからだ。いや、悩むというよりは激しい憎しみをどうすることもできないということだろう。彼女たちは母親に対する激しい感情に悩まされる。できればかかわりを持ちたくないのだろうが、必ずしもそうはいかない。どちらかといえば母親からの予測不能な連絡、電話や突然の訪問に翻弄されると訴える。娘の側としては、母親とかかわりを持たなくて済むのであればそれに越したことはないと思うものの、同居していたり、経済的に依存していたりするとそうもいかない。
彼女たちに共通にみられるのはなんだろうか?ある娘は時々連絡をしてくる母親の「お母さんはあなたのことを一番わかっているのよ。どうして素直に聞けないの。」というメッセージにたまらない憤りを感じるという。自分はあなたの人生のことを知っていて、今でもそれを支配しようとしているという雰囲気。そしてそこには実際に小さくて無力な子供にされてしまうことへの恐ろしさが伴っているのだろう。その意味では母息子の関係に共通している。

2011年8月18日木曜日

「母親病」とは何か?(6)問題は母子一体願望なのか? 

この母親との問題は、私の受けた分析の中でもしばしば話題に出た。そのころのことを思い出すと、私は結構当時回りにいた分析家たちの影響を受けていたことがわかる。メニンガーで私が非常にお世話になったある先生は、ラカン派といってもいいくらいに彼の理論を頻繁に口にした。ラカンを通したフロイト理論では、母子の関係はそれのみで非常に充足的であり、父親がそれに割って入ることでそれを阻止されることになる。それはいわば虚勢の脅しであり、三者関係への移行ということになるが、ラカン的に言えばそれは母子間のすべてを非言語的に了解しえて願望が即座に充足されるという世界を去り、言葉により分節化された(よくわからない・・・・・)世界に入ること、父親に象徴されるルールや規範の支配する世界で生きることを意味する。何が言いたいかといえば、母子関係、あるいはそれに代表されるような二者関係は、人が常に憧れを持ち、回帰したい場所でもある、ということだ。そしてそれがどうして嫌悪の対象になりうるかといえば、その世界にまた再び飲み込まれて出てこれないのではないか、という恐れをわれわれに抱かせるから、というわけである。
精神分析とはこんなことをいつも考える学問であり、治療法である。私も分析中母親のことを考えながら、そんなものなのかと何度もこの理屈を頭に思い浮かべた。これに従うならば、私が考える重苦しさは、実は自分がそこに飛び込んで生きたいという願望の裏返しだ、というのである。この理屈がどの程度正しいかは別として、確かにどこかで本質的な部分を捉えていると言う気もする。確かに私たちが最終的に二者関係に帰っていくという願望や衝動は、恋愛関係を考えればそうであるし、夫婦間に時々見られる、それこそパートナーに先立たれただけで生きる目的を失うようなケースを考えればわかる。どんなに虚勢を張っても、男性はいつかは自分のことを本当にわかってもらえて、ケアをしてもらえるような相手を求めるのかもしれない。今いきなり「男性」に限ってしまったが、やはり片割れに先立たれて抜け殻のようになってしまうケースは明らかに男性に多いことは、精神医学的にもよく知られている。男性におそらく典型的な母親への回帰願望というものが伏在していることで、そのような体験をかつて持っていた相手である母親からの「おいで、おいで」はそれだけ重苦しく、心にとっての負担で、かつ無意識レベルでは誘惑的な要素を含んでいると考えると、少ししっくり来るのである。

2011年8月17日水曜日

「母親病」とは何か?(5)

「私に先立ってはいけない」
保坂正康「『特攻』と日本人」(講談社新書)をめくっていたら書いてあったが、特攻隊として死地へ旅立っていく若者の多くが懸念していたことがある。それは「母親を悲しませることに忍びない」ということだった。「先立つ不孝をお許しください。」とはそのことだ。
母親は明らかに息子が死に直面することの恐ろしさを代わってやりたいとさえ思っているのだが、息子の方は既にその母親を気遣う。息子は母親にとって、わが子が死ぬことが自分が死ぬこと以上に恐ろしいことだということをどこかで知っているであろう。私は幼いころに母親から「お母さんより先に死んではいけないよ。」と実際に言われている。具体的に何歳かは忘れたが、メッセージとしては、もし「おまえが死んだらお母さんは生きていけない」という類のものもであった。そしてその後母親は不思議なことを付け加えたのだ。(ここら辺はどこかのエッセイに書いたような気がするが)「死ぬなら、病気でゆっくり死になさい。そうしたら覚悟が出来るから」という言葉だった。「なあんだ、そういう死に方だったらいいっていうの?」という意外さがあった。「結局自分のショックを恐れているだけ?」とその時思ったかは分からない。あとで「なんか変だな」、と思ったのである。
これもエッセイに3回くらい書いたことだが、後にフロイトが母親を無くした時に語ったという言葉を読んで、フロイトが言ったことにしては珍しく共感したことがあった。彼は「母親に息子の死が告げられるという恐れが無くなったので、これで息子としては自由に死ねる。」と一種の解放感をうたっているのだ。フロイトの母親は90まで生きたのであるから、フロイトは70代になるまで解放されなかった。母親が長く生きることはある意味では・・・。
精神科に「悲嘆反応」という分類がある。愛する人を亡くした時に陥る反応であり、DSM的には二月まではこれはある意味では正常(という割にはしっかり精神病として分類されているのだが)それ以後は異常としている。しかし息子を亡くした母親が生きていけない、という反応は実はある意味できわめてまっとうという気もする。自分の家族を見ていてもそうだ。恐ろしいことだが。
その意味ではこれも母親病であろう。母親は少なくとも精神的にはいわゆる逆縁を生き抜くことが出来ないとしたら、selfish gene の原則にも反するのだから。

2011年8月16日火曜日

「母親病」とは何か?(4)

母親病が生じるもうひとつの非常に重要な要素がある。それは幼少時は、母親が絶対的な位置にあるということだ。(書いてみるといかに陳腐だが。) 何しろ母親がご飯を作ってあげない!というだけで食事にありつけないということがおきうる世界である。(外国の少し古いドラマなどを見ると、実際にこの種の懲らしめが行われていたシーンにであう。)
どこかにすでに書いたが、幼少時に「いつもいい子でいなさいね。」といわれたことを覚えていて、大人になってから回顧して「なんてひどい親だったんだろう!」と怒りに震えている人がいる。「いつもいい子でいなくてはならないという命令を下すなんて、なんと残酷なんだろう?私はそれ以外の生き方をしてはいけないというのか。時々ズルをしてはいけないのか。」というわけである。何か冗談のような話だが、これが実際に起きてしまうのが、子供が幼少の際の親子の関係である。
親はしばしば自分が絶対者の立場に立っていると言う事を知らない。何しろ子供が幼少の年頃といえば、親は30歳代だったりする。自分自身も社会で十分自立していない状態で、自分に自信も持てず、「こんなおっかなびっくりで子育てをしているのに、そんな自分の言葉を真に受けるはずはない」と思うのだろう。でも子供にしてみれば、自分が親の言う事を聞かないことで捨てられてしまうのではないか、と危惧する場合だってある。(いつかダウンタウンの松本人志が、小さいころ父親のバイクの後ろに乗ってどこかに行った時のことを話していた。彼はその見慣れぬ場所で、そのまま父親においていかれたらどうしようかと、彼のすぐそばを決して離れなかったという。子供はそんなファンタジーを、例え虐待的ではない親に対しても持つものだ。)そのときにいわれた親からの言葉は実に強烈なものになりかねない。
大体人間は簡単に他人に影響など与えられないものである。「人はこうあるべきである」「~をしてはいけない。」などと説教をして他人が代わるはずもない。配偶者で試して懲りている人もいるだろう。しかし子供は実にうまい具合にその聞き手になってくれることが多い。すると親は「これはあなたのために言うのよ。決して人を信用してはいけません・・・・」初めてまともに自分の話を聞いてくれる存在をえるのである。
無論子供はそれを直ちに信じるわけではない。同様の説教や人生訓は、実はいろいろなところにあふれている。学校の先生からも散々吹き込まれるだろう。そのうちのどれかを取捨選択して取り入れていくものだ。しかし特殊な母子関係、あるいは特殊な感受性を子供が持っている場合などは、これはそのまま取り入れられ、それが内部ととてつもない齟齬を生み出すために子供に多大なストレスになることがある。たとえば「男の人を信用してはいけませんよ。お父さんがいい例です・・・」などといわれた子供は、お父さんを好きな自分との折り合いをつけることに心を痛めるかもしれない。その結果としてお父さんを好きな自分と、お母さんの言うことを聞く自分に別れてしまうこともあるくらいだ。(解離性障害の場合。)
以上の事情は、「母親病」の本質部分を構成するのではおそらくないであろうが、その背景としては非常に重要なことのように思えるのだ。

2011年8月15日月曜日

「母親病」とは何か? (3)

私の経験からは、母親から注がれる視線そのものが非常にキツい。電話で話をしていてさえも、その「視線」を浴びている感じがしてたまらなくなる。大学生の頃や勤め始めた頃は半年とか一年ぶりに会うということがあったが、「ちょっと痩せたんじゃない?」、とか「ちゃんと食べているの?」というコメントが必ず来る。親というのは不思議なもので子供が太っている限りはあまり心配しないものだ。ところが少しでもやせようものならすぐ心配しだす。悪い病気ではないだろうか、などとである。そしてその視線のことを私は知っている。それは自分や神さんが息子に対して向ける視線そのものだからだ。しかもそれは現在の成人した息子に対するものではなく、幼いころのあどけなくて頼りない息子に向けた愛情と心配のこもった視線である。おそらく子供が一番親の視線を必要とし、それを滋養のように感じていた時期の視線だ。親は子供がどんなに成長しても、結局は「あの頃の○○ちゃん」がたまたま何かの間違えで育ってしまった、という感覚を忘れない。そしてその頃の親の視線は、子供に対して絶対的な位置を占めていて、子供のことをすべてわかっていて、なおかつ子供のためにその一挙手一投足に目を注いでいる、という視線なのだ。子供の方はその視線を注がれると、まるで小さい頼りない自分に無理やり帰らされたような何とも言えない気持ちになる。

私にはどうも母親と対面する時のたまらない気持は、この母親からの一方的な思い入れ、それも自分の本質を幼い子供として見ているというところに関係している気がしてならない。そしてそれを感じる側にももちろん問題がある。それは「実は自分は幼い頼りない子供である」ということをそれにより見透かされてしまっているという感じをこちらが持ってしまうからだ。私たちは皆子供の自分を持っている。それを虚勢を張って一生懸命否定することで生きているというところがあろう。それを見透かされているという感覚を持つのだ。

2011年8月14日日曜日

「母親病」とは何か? (2)

さて香山さんの親子という病は、もっぱら母娘のことを言っているということは断っておかなくてはならない。それに比べて私が言っているのは母息子の話だ。話がずれている。しかしこれは私が息子であり、この問題についてより切実に考えるという立場にある以上避けられない切り口なのだ。あとで母娘の関係に近づいていこう。



どこが病気かって?大体電話でひと言ふた言交わしただけで、どうしてこうもエネルギーを消耗するのだろうか?どうしようもない何かを掻き立ててくる。断っておくが私は母親に虐待を受けたとか、恨みを抱いているとか、という類のことはない。ただ何かものすごいエネルギーを向けられていることに耐えられない。そしてそのエネルギーの強さに関しては、そう、神さんのそれに似ている。
「母親の息子に対する気持ちはそんなもんだ、気にしなければいいじゃないか?」といわれればまさにそのとおり。こちらの感受性の問題もある。だから母親病、親子病は関係性の問題なのである。
おそらく母親の子供に対する感情は、たとえば精神分析理論ではうまく表現しきれないように思う。たとえば同一化、とは対象と自らが一緒になり、相手の快や苦痛が自分のそれとなるということだろう。ところが母親はしばしば自分はどうなっても子供の幸せを思う、という。自分が犠牲になってもいいのだ。これは人間の自己保存本能の原則に反する。
結局母親の子供に対する常軌を逸した気持ちは、「利己的な遺伝子 selfish gene」の文脈で説明しなくてはならなくなる。動物界を見渡せば、親が子供のために犠牲になるという例はそれこそいくらでもある。魚類などで、卵が孵化する前の期間に集中して護衛が必要な場合など、メス、ないしはオスがぼろぼろになるまでその勤めを果たす。それが親の遺伝子が自分を後世に残すために利己的に振舞う結果なのである。
しかし子育てが終われば去ってしまったり、命を終えてしまう動物界と違い、人間の場合はそれからが長い。女性の長命化は、そのまま閉経後の人生の長さを反映する。そして子供に向けた狂気は変わることがないから厄介なのである。
ここまで書くとこんな反論が聞こえてくる。「子供に献身的でいる親を持つのは贅沢な悩みではないか? そうできない、それこそ魚以下の親がいるから問題なのだ。そちらこそ病気ではないのか?」
部分的にはこの指摘は当たっているだろう。しかし私には中途半端に本能を発揮する親はもっと大変ではないかと思う。親は子供を思う気持ちが本能に根ざした、無私で自己犠牲的なルーツを持っていることを実感する。しかし同時にそれが自己愛の満足との混ざり物であることに気がつかないときには、その感情は最も厄介なものになるのだ。(つづく)

2011年8月13日土曜日

「母親病」とは何か(1)

とある事情があり、親子病について書く。「母親病」とは知り合いの香山リカさん(彼女がこのように呼んでいいと許可済み)の本に、親子は、最初から病気である、と書いてあったからだ。おそらく彼女の書いていることは私の思いとはまったく同じではないが、似ているところは多いと思う。
昨日神さん(ママ)がこういうことを行った。私はもう早く死んだほうがいいでしょう。そのほうが息子のためだから。あの子は親がいつまでも生きていてそれが負担になるのは大変だろうから」
私はこれは「おっ、これはすごいな」と思った。わが子の幸せのためなら自分は消えていい。私は神さんが「今死ぬわけには行かない」といっていたときのことを思い出す。息子が小学校のころだ。また彼女が「あと4,5年は生きていなくちゃ」といっていたのも思い出す。息子が中学生の頃だ。だから彼女のいっていることには一貫性がある。
私はこのような彼女の考え方を「母親病」と呼ぶつもりはないが、そこにはある種の激しさ、常軌を逸した考え方がある。これは方向性を誤れば「母親病」にもなりかねない気がする。母親とはこのように通常の人間関係には生じないような激しさがあり、通常はちょっと危険なベクトルを持っていて子どもを悩ませる。(特に娘を。しかし息子も相当被害をこうむる。)そしておそらくは、生物学的、進化学的なルーツを持っているのかもしれない。

2011年8月1日月曜日

最後のあがき

をしてみた。ダメかなぁ。↓ ↓ ↓