2011年6月26日日曜日

このところチビの老いが目立っている。というより少しの変化も「老い」のせいにしているのかもしれないが。まず耳が非常に遠くなっている。帰宅しても真っ先に音を聞きつけて玄関にやってくるということがなくなった。またじらしへの抵抗性が落ちた。チビは甘党だが、菓子パンのかけらなどを鼻の上の少し届きそうにない高さに持ってくると、以前はじっとこちらがちゃんと食べられる距離まで持ってくるまでじっと耐えることが出来た。今では少しでも届かないとわかると「ウォーン」と吼えるのである。マンション中に聞こえてしまうような声で「もう意地悪はやめてよ!」と訴えるのだ。
しかしそれにしてもチビの老い方は決して醜くない。見事な毛並みはそのままだ。一見いつもの元気なチビの様でいて、内臓は、脳は少しずつ衰えていっているのはわかる。でも姿は変わらないからいつまでもいてくれるかのように錯覚してしまう。老いがあからさまに表れる我々人間にとってはうらやましい限りだ。しかし人間はこれが生への執着を少しずつ失っていく助けになるのかもしれない。

2011年6月19日日曜日

このところ数週間続けて日曜日に予定が入っていた。今日は午前中は私が責任を負っている研究会。午後からは表参道のこどもの城で月に一度の対象関係論勉強会。奥寺崇先生が講師だったが、司会者としていろいろ面白いディスカッションが出来た。途中例によって藤山直樹先生と私で「解釈かそれ以外か」という論争になった。その後いつもの喫茶店で反省会があったが、久しぶりに藤山先生と意見の一致を見た。「カミさんには、解釈は禁忌である。」

2011年6月13日月曜日

久しぶりの「まな板の鯉」

最近あまりネタが無いので、また自分ネタである。この間の人間ドックで引っかかって、今日は久しぶりの大腸内視鏡を行った。アメリカで2回、帰国してから一度やったことがあるので、これで4回目。改めてやって、この検査は大変だと思った。胃の内視鏡よりはるかに手間がかかる。胃の内視鏡なら、前日からの絶食ですむ。検査は午前中に住み、午後からは仕事が出来る。大腸内視鏡の場合は、数日前からの幾つかの食材の禁止、下剤の使用。前日は乳製品はダメ、うどんはいいがラーメン、そばはダメ、などとかなりうるさい。
当日の朝5時間かけて「腸を綺麗にする」作業があるが、これがまた大変。検査は当然午後から。結局一日がかりになる。仕事を休めばいいのだがそうもいかず、私は今日は早朝少し病院勤務をしてから家に帰り、それから1.8リットルのマグコロール(一種の下剤)を飲み干して、近所のクリニックでの内視鏡検査に望んだ。
私は実は内視鏡検査には密かな楽しみがある。「鎮静してください」とお願いすると、オピスタンとドルミカムの静注をしてくれる。オピスタンとは実は麻薬。ドルミカムは安定剤。合法的に麻薬が体に入る感覚を味わえるのはこの時しかない。オピスタンが入ると脳がクラクラしだし、夢ごこちになり・・・・次に気がついたときは検査は終わっているというわけだ。
ところが今日の先生は「私は鎮静はしない主義」だという。聞いてないよお。ということで、一気に検査が憂鬱になった。結局鎮静がなしなので、内視鏡の検査じゅうしっかり覚醒。自分の大腸の隅々までモニターで眺めながら先生の説明を聞くハメに・・・・。まあ特に悪いところはなかったので良かったわけだが。
今回大腸内視鏡をやってみて一つ発見した(思い出した)ことがある。前日の夜からの絶食ということになるが、意外に空腹は問題にならない。なぜならあまり色の付いていない液体やキャンディーなどは内視鏡検査の前まで接種可能だからだ。とはいえマグコロールで胃がパンパンになると、とても何かを食べたいとは思わなくなるが。

2011年6月11日土曜日

アートセラピーの是非

昨日ネットでこんなニュースを見つけた。

 「アートセラピー」かえって心の傷深くなる場合も
心のケアのため、被災地の子どもに絵を描いてもらう「アートセラピー」について、日本心理臨床学会が9日、注意を呼びかける指針をまとめた。心の不安を絵で表現することは、必ずしも心的外傷後ストレス障害(PTSD)の予防にはつながらず、かえって傷を深くする場合もあるという。
 被災地では、自由に絵を描いてもらうことが心の回復につながると、個人やNPO団体などが次々に入り、活動している。大手企業が主催する例もある。
 臨床心理士ら約2万3千人が所属する同学会が9日にまとめた「『心のケア』による二次被害防止ガイドライン」では「絵を描くことは、子ども自身が気づいていなかった怒りや悲しみが吹き出ることがある」と指摘。特に水彩絵の具のように、色が混ざってイメージしない色が出る画材を使う際には、意図せず、強い怒りや不安が出てしまう心配があるため、注意が必要とした。

見逃せない記事である。わが国では最近某団体が子どもが津波の体験を表した絵の展示会を行ったが、トラウマ関係者からそれに対する懸念があがった。同様の懸念は諸外国の研究でも明らかになっているというが、これも先日論じた子どもの「津波遊び」と似ていると考えていいであろう。描画は一部(大部分?)の子どもには癒しになり、一部の子には逆の効果がある。あるいは同じ子が描くとしても、どういう状況で何を描くか、誰に描くように言われたか、などにより癒しになったり逆になったりする。治療者や保護者はそれぞれの子どもの様子を見てきめ細かな判断をするしかないという結論に至る。臨床的なかかわりが難しいのもこの点に尽きるだろう。

2011年6月9日木曜日

菅さんの退陣論

私は政治音痴なので、菅さんの退陣論が今ひとつよくわからない。「メルトダウンを防げなかったから危機管理能力がない。」と言ったってねぇ。危機では誰でも慌ているし、あとからだったらまわりは何とでも言えるし・・・。浜岡原発の中止なんて、「英断」だったかも知れないのに。
人間はそばにいないと評価ができないことがあるが、よほど一緒にやっている人にとっては菅さんはひどいんだろうか。そうかも知れない。そういう人いるよね。でも小泉さん(この人も宇宙人と言われたのに、政権はずいぶん長く続いた)以来、安倍さん、麻生さん、鳩山さんと、皆相当ヒドいヒドいと言われて短期間でやめているんだから。政治の世界にはそんな「ヒドい」人ばかりなのだろうか?
それにしても菅さんもあれだけ言われたらやめどきだと思わないのだろうか?いや不味い仕事をしたから、というのではなくて、理由はわからないがやめろやめろと言われているので。その力に逆らうなんて、疲れるだけじゃない。そのかわり「あなた方がベストと思える総理候補を選んだら、すぐに辞めますよ」とでも言えばいいのではないか?だってこの人にこそ任せようという人がいないのに、ただ「辞めろ」という声がだけが高まっているのが、私が一番腑に落ちない所だからだ。「それに菅さん辞めろ」という声が主流になってきたら、それに乗っているだけの付和雷同な人たちも問題だ。私には岡田幹事長の言っていることが一番理にかなっているように思うが。(でも彼の評価は下がっているという。)
私が次の総理に推したい候補は、枝野さんかな。

2011年6月4日土曜日

私が管さんなら鳩山さんに言いたくなること

「そりゃ、約束が違う、と言いたくなるのもわかる。でもそもそもあなたが私が総理になってから急に小沢さんの側についたということがある種の裏切りじゃないの?総理を経験したものは、その職務が終わったら影響力を残してはいけない、とか何とか言いながら、結局議員をやめないで、私の総理としての仕事に横槍ばかり入れている。自分はあれほど不人気だったのに、それを棚にあげてやめろやめろ、という。おかしいじゃないか。あんたが総理をやっている時、私はじっと黙っていて足を引っ張ったりしなかったよ。まあ『次』を狙っていたからだけどね。だから今回もいっぱい食わせたわけだけれど、ダマされる方も悪いんだよ。」
私にはどうも、鳩山さんの付和雷同が目に付く。

2011年6月2日木曜日

小沢さん・・・・

昨日の続き。小沢さんと政局。それにしても昨日の発言の(内閣不信任に賛成することについて)「最後のご奉公」っておかしいではないか?このような白々しい言葉遣いはどこまで本心から出ているのだろうか?本心なら彼の自己愛の病理はそれだけ重いということになるのだろう。もし意図的にそう言っているとしたら、それだけ彼は「政治家」ということになるが、問題はこの白々しさが彼の不人気に繋がっているということだと思う。不信任案は可決されるとしても否決されるとしても、小沢さんはまた新党を作って出ていくということになるのだろうか?これは彼の反復強迫ということになるだろう。

2011年6月1日水曜日

「政局」っておもしろい

私は相当無知なままでアメリカに渡ったのだろう。2004年に帰国してから学んだ概念や単語がやたら多い。「政局」というのもその一つだ。そう、小沢さんがその天性を発揮する分野である。「みのさん流」にいえば、「どうして政治家は国民をないがしろにして政局に走るのか、こんなに悲惨な暮らしを強いられている人たちがいるのに・・・・」となる(明らかに朝ズバの見過ぎである)。精神医学的に見たら、そんなの当たり前のことである。政治家とは自らが大衆のよき代表として先導する仕事を選んでいるということからして、自己愛人格(障害)である可能性が最も高く、当然のことながらそれぞれが自己愛的な満足を得るための駆け引きを行う。政治家にとって政局はその本性の一部といっていい。よき政治家、リーダーとは、政局に関心を持たない人ではなく、政局プラスアルファーの何かに情熱を注げる人だろう。そこが重要なのだ。そこで「何か」とは?・・・・