2011年5月14日土曜日

治療論 その7. (改訂版) 共感のために明確化する

昨日はなんとグーグルのブログ機能がダウン。当たり前に使えていた機能が突然不具合で更新できず。グーグルさんだいじょうぶ?と言ってもこちらはただで使っているのだが。


「治療者は精神療法やカウンセリングで一体何をやっているのかわからなくなります。」というバイジーさんの訴えを聞くことが多い。たしかに精神療法は非常に漠然としたプロセスである。カウンセリングとか面談とかいっても、単なるおしゃべりとほとんど区別がつかないように思えることもある。もちろん「単なるおしゃべり」に意味がある場合も少なくない。「先生の顔を二週間に一度見ないと不安になる」という患者もいる。その場合はおしゃべりをすることで治療者と顔を合わせることそれ自体がある種の目的を果たしていることになる。それでもいいのだ。ただし治療者の中には、もう少し自分のやっていることをはっきり分かりたい、整理して理解したいという人がいて、彼らに私が伝えるのがこれである。治療者は治療中に患者に対して「共感のための明確化を行なう」。
もちろん精神療法で何を目標にするかは、患者の抱えている問題の質によっても、また現在の機能レベルによってもことなる。だから大雑把なアウトラインとしてこうだ、ということを申し上げたいのだ。
この「共感のための明確化である」という説明は、意外とわかりやすいと私は思っている。言うまでもないことだが、私自身が、このような答えを出すことによって納得したという経緯があるからだ。治療者がセッション中に行うべきことのほとんどはこれに集約される。というより「単なるおしゃべり」でさえ、この形を取っていることが少なくない。

治療者:「最近どうですか。」
患者:「うーん、まあまあかな。」
治療者:「『うーん』って、何かあったんですか?」
患者:「ちょっとね、いつものことですよ。息子がなかなか言うことをきかなくって。」
治療者:「息子さんって?ああ、もうすぐ高校を卒業になるという。最近あまりお話しが出なかったですね。少し落ち着いているのかと思っていましたよ。」
患者:「いや先生、結局はずっと同じ問題ですよ。勉強の意欲はない。家の手伝いはしない。学校にも行ったり行かなかったり・・・・。それでいてちょっと注意をすると逆切れをする」
治療者:「あー、そうなんだ。そりゃ大変だね。・・・・」
どこの精神科の診察室でも、カウンセリングルームでも聞かれるような会話。そこで行なわれていることの多くは、ここに示した治療者の言葉に見られるような明確化の連鎖である。それは何のためのものなのか? それにより治療者が患者の状況を理解し、「あーそれは大変だね。」と共感するためのものである。
このことは、話をする患者の側に立てば、いっそう明らかになる。患者は面接者が顔を見るなりすべてを察して「ああ、大変なんだね。」といってもらえるのならそれに越したことがないだろう。でももちろんそうは簡単にはならないから、自分の現状について話す。今時分はいかに大変か、苦労しているか、つらいのか、という話をし、治療者はそれにうなずく。そして『大変だね。』と声をかけてもらえたり、「それはこうしたらどうなんですか?」と新たな考えを聞かせてもらえたりする。それにより新たな気づきが生まれることもある。これが精神療法の基本形なのだ。
「共感のための明確化を行なう」という話を駆け出しの療法家にすると、彼らはしかしいろいろな疑問を持つらしい。「何を聞くのか?」「何かきいていけないことはないのか?」などなど。しかしそれらは「患者さんに共感するために必要なことなら聞き、それ以外は聞く必要はない」ということになる。明確化する必要のないほど直接伝わってくる話なら、じっと耳を傾けていればいい。
「共感のための明確化を行なう」という話を、今度はベテランの治療者にすると、これに生理的な反応を示す人が多い。「精神療法では洞察を目指すことが真の目標だ。共感ではない。」
しかしでは、患者への共感をまず目指さない治療者が、どうやって洞察を得ることの援助をできるだろうか? という当たり前すぎる質問を投げかけるしかない。洞察とは、患者がこれまで見ようとしなかった点にリアリティを感じるプロセスであり、本来はつらいものである。患者は様々な抵抗に打ち勝ってそれを達成するのだ。自分を分かってくれていると思えない治療者からの指摘は、単なるダメ出しになってしまい、反発心が生まれたり、こちらが卑屈になるだけである。
「共感しただけでは治療ではないのではないか?」それはそうかも知れない。「患者は具体的なアドバイスを必要としているのではないか?」そういう場合もあるだろう。しかしたとえアドバイスを行うにしても、それはその前に患者の世界に入ることなしに出来るわけではない。別言すれば、十分な共感を得た治療者は、もうアドバイスをする一歩手前にいる。患者の置かれた状況や心理に十分共感ができた治療者は、それを自分自身の視点に立ち戻って言い換えたり、捉え直したり、感想を述べたりする事もできるであろう。それはすでにアドバイスらしきものである。でもこの「らしきもの」である点は重要である。実は治療者は患者にアドバイスをすることを本業としていないし、そもそも患者に代わって彼の人生に関するいかなる判断をくだすことも出来ない。患者が自らの判断を行う際に助けとなるような視点を提供することだけだ。患者の人生に共感した治療者がその上に出来ることといえば、自分の主観からそれがどう見えるか、感じられるかということである。そしてそれは恐らく多くの患者にとっては不必要なことなのだろう。なぜなら多くの患者にとっては、分かってもらうことである種の満足感を得ているからである。