2011年2月7日月曜日

うつ病再考 その(3) 江藤淳の自殺をめぐる議論

うちのチビ(犬)は13歳だが、神さんは将来先が長くないのではないかと心配している。確かに13歳といえば、かなりヨボヨボの犬もいる。神さんは、チビがいなくなったら自分は生きていけないかのような言い方をする。確かに心底愛する存在がこの世を去ったら生きていく意欲がなくなるということは十分ありうるだろう。

江藤淳は20世紀後半の日本を代表する文芸評論家だったが、彼の自死はいろいろな議論を巻き起こした。慶子夫人に末期ガンという診断が下り、江藤はその傍らに付いて離れぬ看病をした。妻の臨終から、江藤本人も病魔に蝕まれ、自殺をするにいたる。江藤の遺書にあった文章は名文として当時の新聞の見出しとなった。「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」
これを諒とせよ、という江藤のメッセージについては、さまざまな議論が湧いたが、ひとつにはそれが結局は江藤の精神の弱さをあらわしているのではないか、という立場もあった。確かに夫人と一心同体のようにして生き、その死と共に自らも生きる意味を失ったという風にも取れる。それはなんとなくメメしい(これは漢字で書くわけにはいかない)。しかし他方では、江藤のこの死の選び方は潔く、彼の勇気の表れであるという見方もある。
ところがここに第3の意見が存在する。それは「江藤はうつ病だったのだ」である。精神医学者である柏瀬宏隆はその著書「欝力」(集英社インターナショナル、2003年)でそのように主張し、彼がうつ病を治療した場合には、結果は違っていたのではないかという議論を展開している。
この議論は実はうつや自殺を考える上で、悩ましい問題を提起する。愛する人を失った場合に、生きる価値を失う人はいるだろう。その際のうつは正常なのだろうか?あるいはその状態が薬で改善したとしたら、やはり異常だったのだろうか?
精神医学的にはこの問題に明確な結論は出せないが、ひとつの見方を提示して入る。それは愛する人を失った反応は悲嘆反応と呼ぶことにする。しかしそれがあまりにも長く続いた場合には、うつと同じものとして扱う。DSMではその長さとして、2ヶ月を提示し、ICD-10では6ヶ月以上をその長さとしている。(つづく)