2010年9月22日水曜日

失敗学 その17 (恥と自己愛 12)  失敗学的にはよくわかる、大阪地検の前田容疑者の「改ざん問題」

それは私もショックである。「朝ズバ」のみのもんた風の反応をすると、「とんでもないこと」、「前代未聞のこと、あってはならないこと」、「検察のおごり高ぶりの表れ」という感じである。しかし失敗学的にはこの大阪地検で起きたことは、非常にありがちなことだ。むしろこのことが明るみに出て社会的な制裁を浴びることの中に健全な面が含まれるということが出来るし、その点も同様に注目すべきだろう。じゃないと人間の不正を行ない、人を欺こうとするマイナスな側面ばかりに注目していることになるではないか。大阪地検で行われていたようなことが、まったく一般の国民に知られることなく行われている国はたくさんあるだろう。現にこの日本だって、検察庁はこれまでこの種のことを繰り返し、決して露見されることがなかったと考えてはいけない理由など何もないのだ。
ある閉鎖的な組織で、一定の役割を与えられた平均的な人間が、自分たちの都合のいいように仕事を進める上で不正を働いても、チェックを受けることがないとしよう。そこで一部の人間が、場合によっては大部分の人間が不正を行うようになる。その典型が、その組織のトップに居る人間であるが、そのトップに飼い慣らされている部下にも同様のことが生じるのは当然である。
もちろん最初は違う。人は慎重にことを運び、不正を嫌うだろう。ところがだんだん気が大きくなってくる。不正を行っているということに対する後ろめたさが麻痺してくる。これは普通の人間に起きるプロセスなのだ。政治家が政治献金か賄賂か見分けがつかないものを受け取るのも同じである。私達の一部が確定申告の際に、100%正直になれないのも同じ。そして不正を働く人の大部分をしめる「普通の人」には、私もあなたも含まれる。
あ~あ、言っちゃったねぇ。これじゃまるで大阪地検を擁護しているように聞こえなくもないじゃないか。著名人がこんなことを書いたら、ブログはすぐ炎上するかも。幸い読者は推定18人くらい、ということで全くその心配はないが。
ちなみに平均的な人、という風に言ったが、大阪地検で不正を働いた人々は司法試験を通過したエリートのはずだ。彼らは知的には非常に優れているはずだし、その意味では普通ではない。しかし道徳的にはかなり普通だろう。人の正直さをチェックするような試験などない。短時間で行う面接試験などでもまったくアテにならない。その普通の人が不正を働くようになる一つの決め手は自己愛のフリーランである。
自己愛のフリーランとは、このブログでは今年の6月11日に初登場し、それから何度か書いてきた考えである。自分の行動を上からチェックしてくれる人がいなくなると、私たちの自己愛はどんどん肥大していく性質を持つ、ということだ。簡単に言えば、人は組織の中で偉くなっていくと、どんどん周りが見えなくなって好き勝手をするようになる。ここで好き勝手とは、基本的には家で一人でリラックスして自由気ままに過ごしている時のふるまいをさす。何も特別な行動ではないのだ。
そして自己愛のフリーランは、実は組織についてもおきる。(またまたいきなり新説である。)つまりある組織が他からノーチェックな場合、その組織が好き勝手なふるまいをし出すということである。ただしその場合組織の中の個々人の自己愛がフリーランしているということではない。組織の内部は結構上下関係が厳しく、礼儀を守らなければならないかもしれない。しかしその組織が他の組織からチェックを受けない場合には、その組織全体が好き勝手な振る舞いを行うということである。検察庁などはその例だろう。
ここで読者はなぜチェックを受けない際に不正を働くようになるという普通の人間が備えた性質が、「失敗学」と関係しているか疑問に思うかも知れない。しかし失敗学が考える失敗には、いわゆるヒューマンエラー、つまり人間であるがゆえに起きる勘違いや思い違いによるものだけでなく、いわゆる魔が差すという事態、すなわち「道徳的な過ち」をも含むものと考えるべきだろう。そしてそれを防ぐ方法も、ヒューマンエラーを予防する方法と同じである。それは二重、三重のチェック機構であり、いわゆる内部告発の促進である。人は単なるミステイクをおかすのみならず、魔が差すものであるということを前提とし、受け入れることで、やっと私たちはそれに対する対抗手段を得ることである。とすれば検察庁の不正を防ぐには・・・・・・ 100パーセント可視化しかないではないか!!