2010年9月14日火曜日

怒らないこと その8. 怒らないで人を導くことは出来るのか?(続き)

この話、大事なところで終わっていた。「汝怒るなかれ」は教師として、親として機能する際にも妥当なのか。そんなテーマである。
皆さんは考えるだろう。「大体親が全然怒らない子育てなんてあるだろうか? 昔からいたカミナリ親父は、まったく無駄なことをしていたのだろうか?」
弟子を叱責する師匠、先生の逆鱗に触れるのを恐れて自粛する生徒。どれも当たり前の姿という気がする。怒りにもそれなりの意味がある。ある私の知り合いはこんなことを言っていた。「私が思春期にグレなかったただひとつの理由は、父親の機嫌を損ねてぶん殴られるのが怖かったからよ。」
動物界を見てもそうだ。この間(9月12日)NHKの「ダーウィンが来た」で、ヒメチョウゲンボウ(ハヤブサの仲間)という鳥の子育ての様子を紹介していたが、これがすごいのだ。ひな鳥が生まれて母親は一心に雛鳥に餌の虫を運び続ける。一月ほどで雛鳥は巣を飛び立つのだが、ある雛などは羽を広げて飛び立とうとした瞬間、母鳥が飛んできて、ものすごい勢いでドつくのである。「アンタ、何やってんのよ!!」という感じか。ところが母鳥は、まだ巣立つのがほんの少し早い雛には、飛び立つことを止めているというのだ。まさに母鳥の剣幕で雛は天敵の餌食にならずにすむのである。
そこで再び問う。「怒らないで人を導くことは出来るのか?」

ただこれについて私はこんな答えを用意する。「もともと『汝怒るなかれ』、は無理な相談なんですよ。人は怒りがどれほど非生産的であっても、人は怒りに駆られることをやめることはない。人間は怒って普通なのです。それをどの程度コントロールできるかということです。『汝怒るなかれ』は努力目標、スローガンのようなものです。」
「怒らない」は基本的には大脳皮質の抑制系がうまく働いているから可能なのだ。どんなに穏やかで思慮深く、怒りとは程遠い人でも、事故やくも膜下出血などで前頭葉に損傷があった場合は、やたらと苛立ったり衝動的に振舞ったりするものである。つまり「怒らない」は人間の心が高いレベルで獲得する能力であり、本来の人間にとっては怒りは日常生活の一部なのである。
だからといって、怒らない人、穏やかな人は一生懸命ムリして怒りを抑えているだけだとは言っていない。そのかわり普通なら怒りが生じるような状況を、認知機能を働かせて回避出来ているのだ。人はある感情を抱くときも、「もともと自分はこんな気持になるいわれはないのだ」と考えなおすことで、その感情から解放されることがある。これは「我慢」ではない。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というが、前頭葉の認知機能は、「俺の怒りは、枯れ尾花を見てそれを幽霊のように感じて怖がっていたのと似ていたんだ」と理解して、怒りがおさまってしまうようなものだ。
私が何を言いたいのかといえば、怒りは私たちが日常生活を送る上で、次々と起こってもおかしくなく、放っておきてもどんどんおきてくるものであり、それが思考や認知の操作により回避できるのであれば、それに越したことはないということだ。怒りは存在しない方がいい。(唯一の例外は、シャイな人間が怒りにより自分を勇気づけ、励ますという場合であるが、このことについては既に何回か、このブログで述べている。)
ではなぜ怒りは回避したほうがいいのか?
それはやはり怒りは進入的で外傷的だからだ。刃物のようなものである。先ほどのヒメチョウゲンボウの雛だって、せっかく飛び立とうと思っていたのに、オカンにドつかれて、「なにしよるんやー。もうこわくてとべなくなってしもたやないか。」(なぜか大阪弁)と萎縮してしまいPTSDになって飛べなくなってしまう雛がいないとも限らない。
それに動物界では、おそらく親の子育てで生じる怒りは、感情が混じっているようでかなり本能に根ざした、ビジネスライクな行動なのかもしれない。先程の母ヒメチョウゲンボウだって、雛をドついていても表情は優しかった(嘘である。)