真面目でいることについて考える。私はとにかく真面目である。(自分が真面目であるというのはかなりウサン臭いが。)原因はいくつかはっきりしたものがある。一つには精神科の臨床をやっているからだ。だれだって不まじめな精神科医を主治医として持ちたくないだろう。(それに比べて、例えば「私の整形外科の先生は、不まじめだけれど、腕だけは確かだ」は、何かワイルドな感じでアリという気がする。)26歳で医師になり、患者を持った時から徐々に変わっていった。徐々に、というのはそれまで不用意でぶしつけなことも平気で言っていたのが、患者さんがそれに反応してときには非常に傷つくという体験を徐々に重ねていったからだ。 患者さんがほかの精神科医の不用意な言動に反応をするのを見るのも結構ためになった。研修医の時、同期の駆け出しの精神科医が、病棟で担当していた若い女性の患者さんと立ち話をしていて、患者さんが急に怒り出した。
こんな会話だったらしい。朝その患者さんに検査結果を伝えに行き、その日の午後その患者さんとの面談の予定があったことに気がついた。そしてその精神科医がこういったという。「ええい面倒くさい、今面談もしちゃおうか?」これに対してその女性の患者さんが、憤然とした。「面倒くさいって、どういうことなの、先生!」
わたしがこの30年近く前のことをよく覚えているのは、「自分でも口をついて出るかもしれないな。気をつけなくては」と思ったからだと思う。面倒くさい、というのは別にその患者さんとの面談について言ったわけではなかったのだろう。でもその言葉の選択が不用意なのだ。
少しは失言癖が治りかけて米国に渡ったが、今度は英語でたくさん同様のことが待っていた。さらに31歳での結婚もこれまた大きな影響があった。多くの失言を学んだ。ようやく自分の言葉に気を配れるようになってから、あまり経っていない気がするが、今度は3年前から大学院で学生に臨床の指導をするようになった。こんな姿を学生が見たらどう思うだろう?と考えると余計真面目になってしまった。
実は若い頃からその徴候はあっただろう。自分はこれからますます真面目になるしかないだろう。だったら今のうちにちょっと不真面目に好きにやってみよう、というのがあった。
若い頃の真面目さは、明らかに母親の影響である。酒タバコはやってはいけない、というのは常識。「イシャカベンゴシニナリナサイ」(ほとんどひとつの単語)もよく聞いた。父親は酒を好んだが、ポツリと言った。「酒を呑むようになったら、夜勉強する、ということはまずできなくなるね・・・・」これも入っている。なぜなら多分一度しか父親は言わなかったからだ。ここに私の臆病さ、新奇恐怖(対人恐怖の一つの要件。新しいことが怖い、物怖じする)が加わって真面目になった。しかし他方では、人を笑わすのは、小学校の低学年あたりからかなり好きであった。特に人前で緊張するようになった思春期以降までは、クラスでコメディアンと言われた。それが思春期で影を潜め、一気に根暗な人間に変わったのである。
さて私はこんなに真面目になり、不便を感じているのだろうか。そういうところも確かにあるが、しばらくはこのままやっていってもいい、という気もする。真面目は真面目なりにふざける余裕はある。それに私は心理療法家であることには、ある種のまじめさが不可欠であることも実感するようになっている。私が心理療法を行う人間である限りは押さえなくてはならないことが実はいくつかあるように思えるのだ。(続く)