2021年6月7日月曜日
どのように伝えるか 推敲 1
ICにおいては医者は患者に対して次のように働きかけるであろう。「このお薬は~などの効果と副作用がありますが、それをご理解なさった上でよろしければこの書類にサインしてください。」それはそれ以前にありがちだった「黙って私の出す薬を飲みなさい。」という医師の態度よりははるかに好ましいといえよう。しかしそれでもICの際に患者からは次のような不満が聞かれることも多い。「早口で説明されただけではわからない。」「本当はもっと分かりやすく、他にどのような薬があるのか、飲まなければどうなるかも説明して欲しい。」
患者さんの側からすれば全くその通りであろう。ただ医師の立場からすれば、SDMを実行することはとても手間と時間のかかることでもある。お薬一つを初回に処方する際にすべき説明は実にたくさんある。しかも薬AをBに替える際には、Bの副作用のリストアップをして、またAからBに具体的にどのように切り替えるのか、Aの量をどのようにして減らしていき、どのタイミングでBを始めるか、など説明も必要になろう。そしてそのために患者さん一人当たりの外来の時間を延ばす余裕はほとんどないというのが多くの臨床家の実情である。
そこで私がここで記す内容は、SDMのための時間が比較的潤沢にとれる際に行う患者さんへの説明についての提案だとお考えいただきたい。なお類似の論考については岡野(2012)をご参照されたい。
岡野憲一郎(2012)解離治療における心理教育(前田正治、金吉晴偏:PTSDの伝え方 ― トラウマ臨床と心理教育 誠信書房、2012年)
1. 治療者が理解しておくべき前提
まず医師に対して私から「説明」をさせていただきたいことがある。それは解離性障害を理解し説明するに際してご理解願いたい事柄である。
a. 解離性障害の診断を惑わす要素
解離性障害が含みうる症状が幅広いということ
解離性障害の分類は徐々に精緻化し、細分化してきている。最新のICD-11の分類では、従来の転換性障害の代わりに「解離性神経症状症 Dissociative neurological disorder という呼称が与えられている。そしてそれはさらに以下の下位分類を持つ。
· 視覚症状を伴うもの、
· 聴覚症状を伴うもの、
· めまいを伴うもの、
· その他の感覚変容を伴うもの、
· 非癲癇性の痙攣を伴うもの、
· 発話障害を伴うもの、
· 脱力または麻痺を伴うもの、
· 歩行症状を伴うもの、
· 運動症状(舞踏病、ミオクローヌス、振戦、ジストニア、顔面けいれん、パーキンソニズム、のうちのいずれか)を伴うもの、
· 認知症状を伴うもの。
これらの細かい細分化は、解離症状が神経や運動に関するあらゆる表現形態を呈する可能性があることを表している。そしてそれは精神科、あらゆる身体科の症状と類似する可能性がある。そして精神疾患の中で、そのような性質を有するものは解離性障害をおいてほかにない。そして大概の場合症状が現れた時点で神経内科や身体化を受診することとなり、そこで診断がつかずに最終的に精神科に送られることになり、最終的に解離性の病理が同定されるケースも多い。
解離性の身体症状の中でも痙攣はしばしば精神科医と神経内科医の両方にとって混乱のもととなっている。これが従来偽性癲癇、ないしはNon-epileptic seizure (NES, 非癲癇性痙攣)と呼ばれる病態であるが、難しいのはこの偽性癲癇の患者の50%は真正の癲癇を伴うという報告もある(Mohmad, et al. 2010)。すなわち真性癲癇と偽性癲癇は共存するという事にもなるのだ。
統合失調症のような症状を呈すること
解離性障害のもう一つの問題は、それがしばしば精神病様の症状を伴うために、診断を下す立場の精神科医の目を狂わす可能性が高いということである。しばしば語られることであるが、DIDのケースはシュナイダーの一級症状を統合失調症以上に満たすとされる(Kluft, 1987)。「1939年に発表されたもので、シュナイダー (Schneider,K.) は「(一級症状)が異論の余地なく存在し、身体的基礎疾患を見いだ すことができない場合、われわれは臨床上、謙虚さを持ちつつ統 合失調症と呼ぶ」としたとされるSchneider, 2007)。
Schneider K: Klinische Psychopathologie. 15.Aufl. mit einem aktualisierten und erweiterten Kommentar von Huber G und Gross G. Thieme, Stuttgart, 2007. 針間博彦訳、クルト・シュナイダー 新版 臨床精神病理学、文光堂、東京、2007)
Kluftは自らのDIDの症例について研究を行い、特にさせられ体験(特に感情領域について)、考入、等が多くみられる一方では、考想化声、考想伝播、妄想知覚については一例も見られないとした。
Kluft,R.(1987) First Rank symptoms as a diagnostic clue to multiple personality disorder.Am J Psychiatry, 144:293-298.
私はこの見解に賛成である。考想化声、思考伝播、妄想知覚以外のシュナイダーの一級症状はむしろDIDに頻繁に聞かれる。そしてこのことはある重要な疑義を呈しているのだ。果たしてシュナイダーが見ていたのは、統合失調症の患者だったのか、それともDIDとの混合だったのか。DIDの概念が精神科医の間で整備されていなかったことを考えると、シュナイダーやブロイラーがあっていた患者さんはひょっとしたら、DIDだったかもしれないのだ。これには歴史があり、スピッツァーなどの考えにより、させられ体験と会話しコメントする声は、DSM—Ⅲに始まりICD-10に至るまで、統合失調症の診断の一部に組み込まれたくらいである。ところがDSM-5により大きく方針が変更となり、一級症状を重んじる立場は否定されることとなった。
私がここで強調したいのは、統合失調症のようなメジャーな疾患でさえも、その診断基準や分類はその時代により大きく変わり、それはそれまでも常識をも覆すことがある。(破瓜型、妄想型、緊張型などの分類がDSM-5で消えてしまったことを考えればそれがよく分かる。)そしてそのことは「幻聴と聞いたら統合失調症」という従来の常識をも疑い直さなくてはならないという事を意味するのである。
結局DIDの診断には症状の縦断的な流れを聴取することがとても重要になる。実際にはDIDにおける幻聴や周囲との関係性に関係念慮的なニュアンスが加わることもあり、それは重症対人恐怖症における精神病様症状の鑑別の困難さに通じるところがある。幼少時から生じている解離様症状については、それがDIDの症状であるという可能性をより強く考えつつ、場合によっては統合失調症との併存を考え、場合によっては抗精神病薬を用いることで反応を見ることも考えるべきであろう。
通常解離性障害における精神病様症状は抗精神病薬にあまり反応しないが、とりあえずは少量を用いて反応を見ることに関しては問題はないであろう。事実DIDの方で抗精神病薬を少量服用することでより安定している患者さんはいる。ただしそれは統合失調症の可能性をより強く示唆するともいえないであろう。
詐病のような振る舞いをすること
解離性障害について患者に説明をするうえで重要なのは、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。その理由についてはすでに述べたことであるが、精神科のみならず身体科のあらゆる症状を示す可能性があるからであり、これは一般科の医師のみならず本人にとってもどこまでそれを意図的にコントロールしているかがわからなくなってしまう場合もある。あるクライエントはネギをトントンと刻んでいるうちに足も同じリズムでガクガク言い出し、ついには両足が痙攣のような動きをし始め、コントロールが出来なくなってしまったという。その症状はほどなくして治まったが、そのような訴えを聞いて「自作自演ではないか」という疑いの目を向ける精神科医も少なくないであろう。一般人なら「そんなものは病気ではない、気のせいだ」と一蹴されてしまうであろう。またある患者はDIDの診断は確定していたが、診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から瞬時に主人格に戻って受付に普通に会釈をした。その様子を観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。
これらの事情から解離性障害は詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格の姿を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。治療者はその様な扱いを患者が受け続けてきた可能性も含めて話を聞き、場合によってはそれまでの苦労に理解を示すことも重要になってくるであろう。そして何よりも、解離性障害の臨床においては、そのような「疑い」の気持ちを起こさせる性質を自分たちの中に気づくことも大切と言えよう。
2021年6月6日日曜日
嫌悪 6
昨日の続き。でも身体的な苦痛は記憶とは関係ないのだろうか? おそらくその一つの典型例は嗜癖なのであろう。例えば薬物依存の場合、その耐性のメカニズムは確実に記憶に類似する。使用するにしたがって耐性が付いてくるという現象は、離脱がそれまで使用することによって得られた快の積分値に応じて強くなっていく。その薬物を使用したという身体的な記憶がつまり薬物を使用したという一種の記憶がそれを離脱する際の苦痛となっているのだ。この部分は薬物嗜癖と行動嗜癖が非常に似たような振る舞いをするということによりうまく説明できるのではないか。薬物の使用をやめることはまさに喪の作業ということになる。
ところでネットである記事を読んだ。以下はそのコピペである。作者の大澤真幸先生、有難う。とてもためになりました。
「フロイトは、臨床経験を通じて「無意識」という心の領域を発見し、それを探究する学問「精神分析」を一人で創造した。その苦闘の中で彼は、心の仕組みに関する独創的な仮説をいくつも作っている。「快感原則の彼岸」で提起された概念は、中でもとりわけ人々を驚かせた。
人間は一般に快を求め、不快を避ける。と、フロイトは思っていたのだが、そうではないことを発見し驚愕(きょうがく)する。不快きわまりないとわかっていることへと敢(あ)えて向かう執拗(しつよう)な傾向が、人間にはある。これをフロイトは「死の欲動」と名づけた。
死の欲動とは何か。フロイトは道無き道を暗中模索しながら歩んでいる。こういう本は、概念の発明を促した動機を理解し、創造的に読む必要がある。
フロイトに死の欲動を発見させたきっかけのひとつは、第一次大戦後、反復強迫に苦しむ患者にたくさん出会ったことである。患者は夢でみたり、フラッシュバックしたりして、戦時の苦難に満ちた体験に繰り返したち帰る。やめたくてもやめられない。視野を広げると、戦争に関係がないケースでも同じような症状があると気づいた。
だから私は「死の欲動」を次のように解釈している。人間は、自分の人生を、あるいは社会を、物語や歴史の形式で意味づけている。ところが物語や歴史の枠に収められない出来事がある。戦場で受けた衝撃などがそれだ。どうして、何のために私はあれほど恐ろしいことを経験しなくてはならなかったのか。納得のいく説明は不可能だ。
物語化・歴史化に抵抗する、喉(のど)に刺さった魚骨のような出来事。そんな出来事を想起することは苦しい。人生に意味を与え、安心感をもたらしてくれる枠組みが崩壊するのを感じるからだ。しかし人間はその崩壊の場にたち戻らずにはいられない。なぜか。私の理解ではフロイトの答えはこうなるはず。意味づけ不可能な出来事は、人生や社会を物語化・歴史化したことの代償として、それらに必ず伴っているからだ、と。(朝日新聞2018年6月9日掲載 大澤真幸(オオサワマサチ)社会学者)
2021年6月5日土曜日
母子関係 推敲 3
土居は欧米の母子関係において、甘えという概念や言葉を欠いていることを「文化的条件付け」と言い換えているが、それにより欧米人は「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えないという。つまり「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。しかし土居はまた甘えがフェレンチやバリントの「受身的対象愛」と同等なものと述べ、それが日本文化に独特のものであることは否定してもいる。
土居はこのように述べるときに西欧の鈍感さというネガティブな側面について論じているという印象を与えるが、逆に日本人の在り方をネガティブに表現してもいる。たとえば日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念は甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。
ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。すなわち日本人は日本社会ではそれなりにこの独立を成し遂げていると考えるべきである。
西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。それと比較して、日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。
このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。
結局日本人と西欧人は、生まれ持って他者の甘えニーズに対する敏感さに違いを持っているのかどうか、という問題については土居は明言していないことになる。
2021年6月4日金曜日
嫌悪 5
不快や苦痛の問題でいつも私を悩ませるテーマがある。それは不快の解消がどうして快なのか、という事だ。これは「快楽原則」(人は本来的に快を追求する)と「不快原則」(人は本来的に不快を回避する)との関係性の問題と言ってもいい。
最近USBメモリーを一つダメにした。もちろんある程度バックアップは取っていたが、ある朝突然USBが読み取り不可能になり、目の前から膨大なデータが消えた。トラウマである。そして一週間たち、その傷がいえ、いろいろなところからそこに入っていたはずのデータをかき集め、なくした文章は書きなおし、ある程度トラウマから立ち直ることが出来た。そのUSBに入っていたデータがなくなった際、それが出てきたらさぞかし嬉しいだろうと思った。持っていた時はありがたみを実感していなかったものがなくなると、著しく苦痛に感じ、それを回復した際には喜びが生まれる。この回復の際の喜びは、失った際の苦痛の積分値と同等という事になるが、それは何かを純粋に獲得した際のものと同じなのか?
これはさらに単純化するならば、宝くじで突然降ってきた100万円と、もうすっかり取り戻すことをあきらめていた100万円入りの財布が出てきたときの喜びは同等か、という事になる。答えはもうわかりきっているように思われる。同等なのである。でもなぜ苦痛や不安の除去が快になるのだろう?
こうして思考実験をしていると、私はちょうど1983年の春に考えていたことと同じ段階に戻る。私は26歳だったが、この「不快の積分値が快になる」ことの意味が解らずに延々と原稿用紙に文章を書きつられていたのだ(当時、ワープロはまだなかった。私が発売された第一号のワープロ(ワードバンクという名前だった気がする)を購入したのはセイコーエプソン製で、1985年の暮れだった。)今の私は当時よりは多少物知りになっているが、この本質的な問題についてのヒントを得られるような理論には出会っていない。ただ恐らく精神分析の理論で一番近いのが喪の理論であるという事はわかる。
フロイトは対象を喪失した際の心の痛みを喪mourning とよんだ。失ったものを悼むという期間を過ぎると苦痛が和らいでいく。そして何が起きるかというと、それが内在化されるのだ、と考えたのだ。喪は苦痛なプロセスだが、彼はそれを一挙に終わらせてしまうことはできないと考えた。それはそうだ。何かをなくすと、それを一瞬の苦しみで忘れられることは普通はない。おそらく記憶にまつわる何かが生じて、そして時間がかかるという事はタンパク合成が関与していることになる。とするとこれは記憶の改変という事だろうか。
私たち夫婦は、愛犬チビを失った。十年前のことである。その頃はチビに関する記憶をたくさん持っていた。そこにはチビが生きているという感覚がつながっていた。例えばチビの毛をすくブラシが転がっている。それを見るとチビの表象が浮かんできて、それが「でもあのチビはもういない」という認知と結びつかなくてはならなくなる。このことをチビに関する記憶やチビを思い出させる写真その他のすべてにおいて行う。これは記憶全体の改変であり、そのたびに痛みを伴う。そう、少なくとも精神的な苦痛には記憶のメカニズムが関係しているのだ。
2021年6月3日木曜日
母子関係 推敲 2
精神分析理論を振り返れば、その創始者フロイトは、母子関係にはかなり画一的な見方をしていたといえる。フロイトは乳幼児、ことに男児は早くから母親に対して性愛的な感情を抱き、それを父親によりそのような願望の禁止を余儀なくされるという理論である。ただしこの父親中心主義の見方については、のちに様々な異論が寄せられることになる。土居の理論もそのひとつであったが、彼が注目することを提案したのは、土居の論じたエディプス期に遡る前エディプス期の母子関係の問題であった。
土居が1971年の「甘えの構造」で述べたことは精神分析の世界にかなりのインパクトを与えた。甘えは西洋社会にその正確な訳語が見当たらないと土居は言う。また土居は甘えと通常の依存とを区別している。通常の依存では人は自らのコントロールを失うことを暗に意味するが、甘えは状況を完全に支配下に置こうとする。甘えのルーツは子供が親に依存することである。そしてここで大事なのは、親の方も子供を甘やかしながら、身代わり的に自分も甘えを体験しているという事だ。そして土居はこの甘えを基本にした関係性がエディプス以前の関係性を築くのだとした。土居がさらに強調したのは、甘えは性愛性を排しているという事であった。彼はフェレンチが提出して、更にバリントにより論じられた「受け身的対象愛」の概念に言及している。この概念は他者から愛されたい願望として表現され、土居によればこれが甘えに一番近いという。この甘えには受け身性と非行動性が次のように関係している。甘えニーズは通常は言葉によっては表せられない。それを他の人が拾ってくれて、愛してくれることを期待するのである。日本社会ではお互いの甘えのニーズを感じ取り合う。自己中心的で他の人の甘えニーズを意に介さない人は日本社会からはじかれてしまう。しかし相互依存の社会は同時に、相互拘束をする社会でもある。甘えの申請が意味を持ち、役に立つのは、他者の甘えニーズを満たすことで社会で生き残れるような社会において意味を持つのである。
フェレンチやバリントにより記述された前エディプス期の母子関係の問題は、ウィニコットにより精力的に論じられていた。ウィニコットは最初は赤ん坊は自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。しかし赤ちゃんがその自我機能が成熟していく段階で自分の欲求がすぐには満たされないということを知り、脱錯覚を起こし、現実の在り方を知るようになると考えた。この錯覚が生じる段階においては、親がおっぱいを差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と生じることがからであり、だからこそ子供はそれを「錯覚」するのである。
実際の子育ての場面を想像した場合にこの点は容易に理解されよう。母親は赤ちゃんが機嫌が悪いのに気が付き、おっぱいを欲しがっているかもしれないと思う。そういえば前回の授乳から少し時間がたっている。赤ちゃんがおなかがすいてぐずっているのか、それ以外の理由で機嫌が悪いのかはわからない。上述の「敏感さ仮説 sensitiveness hypothesis」仮説によれば、このとき欧米人のお母さんの頭にこんな疑問が浮かぶことになるだろう。「もしおなかがすいていないのにおっぱいをあげたら、この子の『おっぱいちょうだい』という明確なメッセージを出す機会を奪うかもしれない」。他方日本人のお母さんは「おなかがすいているかもしれないから、とりあえずおっぱいをあげましょう」。でも、実際の子育てではこれらの判断がさらにあいまいなことはいくらでもあろう。前者なら「ぐずっていること自体が空腹を明確に訴えているということになるかもしれない」と母親が解釈して授乳につながるかもしれないし、後者であれば「でもさっきおっぱいをあげたばかりという気もするし、それに今別のことで忙しいし」となると結果的に授乳行動は遅れるであろう。そしていずれにせよ完璧に赤ちゃんのニーズを把握することのできるお母さんは少ないだろうから、現実的なフラストレーションはいずれの文化でも子供によって不可避的に体験される。それはどんなに細やかに子供のニーズにこたえる母親といても起きることなのだろう。
このような意味で、Rothbaum が提起した問題、すなわち母親的な態度が子供が助けてほしいというサインを敏感に感じ取るか、それとも先に手を差し伸べてしまうか、ということをめぐる一つの議論は精神分析の世界においては歴史的なものともいえる。それはいわゆる「最適な欲求不満optimal frustration」 か、それとも「最適な現前Optimal presence」ないしは「最適な提供optimal provision」 か、という議論である。これについてもすでに議論がなされているのである。
結局ここで何が言いたいかといえば「マーカスー北山説」の「日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感が重んじられる」というのは自己感の両面であり、どちらも必要なのだ、ということである。それが文化を超えて養育の場面で起きてくる過程をWinnicott の理論は示しているのだ。
しかしその上でどうしてその想定的な重みづけにおいて文化差が見られるのであろうか? この問題について土居がどの様な見解を提示しているかを見てみよう。
土居の「甘え」の概念に関する提起
土居は西洋人は他者のニーズを感じ取ることに鈍感であるという指摘を行っていることは注目に値する。「甘えの構造 Anatomy of Dependence」(1971)でアメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた感想について、彼は以下の記述を行っている。
「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other words,they were slow to detect the concealed amae of their patients.」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16) I was still rather surprised to find that even psychiatrists,who laid claim to being specialists on the psyche and the emotions-and those,moreover,who had received a psychoanalytical training should be so slow to detect the amae,the need for a passive love,that lay in the deepest parts of the patient's mind.」
つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。例えばP.21
土居はこのような敏感さの違いが「文化的条件付け」によるものだとする。そして以下の説明を行う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」 「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96)Scholar Juan Luis Vives (1492- 1540) :“Passive love,that is,the tendency to be the recipient of love,produces gratitude; and gratitude is always mixed with shame. Shame would naturally interfere with the sense of gratitude."(Anatomy of Dependence, p.86)「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)People in the West,however,as the Vives quotation suggests,seem to feel that thanks carry with them shame,which in turn hinders the feeling of gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westerner,one might suspect,has striven for long years not to feel excessive gratitude, and thus passive love.(Anatomy of Dependence, p.86)」
2021年6月2日水曜日
嫌悪 4
こうなると私の頭を時々かすめては否認されている考えがまた浮かんでくる。「人は自分が不幸な境遇にあると思うから苦痛を感じるのではないか?」もしそうだとすると、安楽な生活を知った私たちは、もしかしたら古代人よりも苦痛を体験することになりはしないか。本来なら体験することが出来る安楽さを何らかの事情で体験できないとしたらそれは辛いはずだ。日常生活それ自身が様々な誘惑に囲まれ、それを禁欲しながら生活をしている私たちはそれだけ苦痛を体験しやすいことになる。私がこの問題にこだわるのは、私たちの生活が便利になっても、私たちの幸福感は必ずしも高くなっていないような気がするからである。
もう一つ苦痛を強く感じる条件がある。それは他人によって被害を被ったという場合である。例えばあなたが通勤途中で階段を降りるときに足首を挫いたとする。その痛みは貴方にとって苦痛に違いない。でも自分が足元を十分に確かめていなかったから仕方ないとあきらめるだろう。うっかりしていた自分が悪いのだ。ところがあなたが誰かにふいに背中を押されて足を踏み外して捻挫をしたとしよう。貴方は客観的にみれば同等であるはずの痛みであったとしても、後者の方をより苦痛に感じるのではないか。それは貴方が被害を被ったことにより、本来味わわなくてもいい痛みを体験しているからである。
このように考えると苦痛という体験の性質がにわかにわからなくなってくる。夏の暑さは苦しい。若い方々と違って私は家にエアコンがあるという体験を、20歳代半ばまで体験しなかった。真夏の昼間など扇風機に当たったり日陰でじっとしていることくらいしかできなかった。人は「暑い、暑い」とフーフー言っていた。それは苦痛であったが、それだけである。同じようにして冬は寒さに震え、田舎に住んでいたために最寄りの駅までは砂利道でしかも遠く、通学に骨が折れた。それは苦痛だが当たり前の、運命的な、避けることが出来ないものであった。そのために不幸ではなかったのである。
この問題をトラウマと関連付けて考えることもできる。冷暖房のない生活、水道や電気のない生活は苦痛と言えば苦痛である。でもそれが当たり前の時代には嘆きようがない。ところが現代の世界に行き、快適な生活になれた私たちがそのような境遇に置かれたらさぞかし苦痛であろう。そしてそのような生活をある悪意ある他者のせいで強いられているとしたら、自分の日常生活を台無しにされたという思いを持つかもしれない。つまり特定の人間の加害行為によるトラウマとして体験されるのだ。
2021年6月1日火曜日
嫌悪 3
200年前は、そのような苦労、労力を当たり前のものと思い、それ自身を苦痛と考えることは少なかったであろうということである。冷暖房の体験がない人間は、夏の暑さに苦しんでも、「冷房が効いているところに行きたいけれど行けない」ことの不幸は体験しないだろう。おなかが空いても食料が限られていることは分かっているから、近くのコンビニに行けば安価な菓子パンが買える、という誘惑は存在しない。快適さを味わうことは一種の嗜癖のようなもので、すぐに渇望を生み出す。昔だったら当たり前のことを苦しく感じるということが起きるのだ。
実は今快適な世の中に暮らしている私たちも、100年後の人間から見たら、苦痛だらけかもしれない。「え、がんで死ぬことがあるの? 薬Xを吞めばがん細胞はすぐに消えてしまうはずなのに。」「昔は乗り物に乗って何時間もかけて移動していたの? 『どこでもドア』を使えばいいのに。なんて大変な世の中だろう?」という風に。私は新幹線に乗って往復26000円払って東京と関西の間を行き来しているが、これを特に苦痛だと思ったことはない。しょうがないこと、ほかに手段がないこととしてあきらめている。でももしタイムマシンで200年未来に行って「どこでもドア2221」を使うことに味を占めたら、現代に戻って新幹線に乗ることはとてつもなく苦痛になる可能性があるのだ。